現象テープ№32 「物の考え方について」
 81年9月15日 ラファエル様現象(霊媒 土田展子)

(「天上界メッセージ集・Ⅲ(95年2月初版)」314頁掲載)
 私はラファエルでございます。
 今日は物の考え方についてお話ししましょう。
 先程の正法基礎講座にもありましたが、善にも悪にも片寄らないのは、中道ではない。
 この意味が解りますか。
 ただ単に講師の言葉を捉えて理解しているのではないでしょうか。
 中道とは如何なるものか深く考えたことがありますか。
 中道とは中の道をいうならば善にも悪にも片寄らないのは、
そう納得するのは至極当然なことです。
 しかし中道とはそのような意味ではありません。何故か解りますか。

 中道とはどのようなものをいうのか。
 善と悪とは如何なる基準をしているのか、そこから考えてゆきましょう。
 善と悪の基準は何なのか考えたことがありますか。
 何を以てして善というのか、何を以てして悪というのか、その基準は何処にあるのか。
 あなた方人間界の価値観の中にあるのか、自然界の中にあるのか
答えはどちらでしょうか。

 自然界に答えがあるのです。
 自然界の中に善悪を求めるならば、どのようになるでしょうか。

 自然界は善です。
 宇宙の法則が正法だと言うのはそこにあるのです。
 何故自然の法則が善なのか、それは他者を生かすからです。

 どのようにして他者を生かしているか。

 適者生存、弱肉強食です。どのような意味かお解りですか。
 生き残れる必然性のある者が生き残るということです。
 基礎になっているのは必然性なのです。
 必然性とはそうあらねばならないことを言います。
 何故そうあらねばならないのか、お解りでしょうか。
 それは生物が皆生きて行かねばならないからです。
 それ故の自然淘汰であり、弱肉強食なのです。

 ならば自然の法則とは、自然の法則を基にした善と悪はどのようなことを言うのか。
 他者を生かすものが善であるのです。
 あなた方人間界の価値観で決めてはいけません。
 他者を生かすものが善であるならば、それを中庸と言います。
 それ故に善に片寄るのが中道と言うのです。お解りですか。
 中道とは中の道を言うのではありません。
 他者を生かす道に於て最適な方法を言うのです。
 その基礎となる価値基準は自然の法則の中に探らねばなりません。
 あなた方が物を考える場合にもそうです。
 理性を持ちなさいと私達は言います。
 どのように理性を持たなければならないのか。
 理性とは如何なるものかと何回もお話しました。
 さて理性とは如何なるものですか。
 メッセージにもあったように正しく認識しよう、正しく理解しようとすることです。
 それはどういう意味でしょうか。正しく理解する、正しく認識するとはどのような意味か。
 それは自分に都合の良い所だけを取るものではありません。

 正しく理解するということは物事の本質を突き止めることです。
 どのように突き止めるか。感覚で突き止めるのではないのです。
 何故それはそのよういなっているのか。何故そう起こっているのか。
 何故今のような状態になっているのか。
 それを考えなければならないのです。それを正しく認識する態度と言います。
 
 正法は科学で宗教ではないと言います。どのような意味かお解りですか。
 科学とはどういう態度を言うか。
 物事の本質を突き止めることです。
 どのようにしてそれは動いているか、どのように成り立っているのか。

 それを考えてゆくのが科学です。
 ならば正法の態度もそれと同じなのです。
 正法は苦しみがあれば、それを神に預けるものではありません。
 神に助けてくれと手を伸べるものではないのです。
 正法とは苦しみがあれば苦しみの根源を突き止めるものなのです。
 苦しみの根源を突き止めてどうするか。
 解決するのです。
 原因が解れば結果が解り、解決策も解るでしょう。

 例えば、何故自分の悪い性格が直らないのかを考えた事がありますか。
 何故自分が何十年間もこの癖が直らないのか。
 端的に言えば、直す気がないからだと言えるでしょう。
 何故直す気がないか。
 自分が楽だからです。
 自分を容易に生かしてくれるからその道を選んでいるのです。

 メッセージを受け取る場合にも自分の都合の良い所だけを受け取り、
他のものを切り捨てる人が多いのです。
 そのような人は進歩しないでしょう。
 自分の性格の悪い所が何故悪いのか、他人にどのような影響を与えているのか、
そして何故自分はそのようになってしまったのか、
何故そのままで放任しているのか、 何故、何故と繰り返さなければならないのです。
 そうすればやがてベールが剥がれ、自分の性格の本質が解るでしょう。
 あなた方に繰り返して申し上げますが、何故、何故と聞くのではありません。
 何故、何故と考えてゆかなければならないのです。

 あなた方はただ単に生きているのではない。
 衣食住が足りれば生きてゆけるでしょうか。
 そうではない筈です。
 あなた方は考えて生きなければならない。
 何故考えて生きなければならないか。
 それは、より良く生きてゆかなければならないからです。
 より良く生きるとはどのようなことを言うのか。
 生き易く生きるのではありません。
 正しく生きることを言うのです。
 正しく生きるとは自分に安易な方法で生きるのではありません。
 他者を生かす道へと生きなければならないのです。
 他者を生かすこと、どのようなことを言うか解りますか。
 他者の成長を促すことです。自己満足ではない善行を施すことです。


 反省をした、修行をした、善行を施した、
果たしてあなた方の身にどれだけ役に立っているでしょうか。
 善行をしたからといって自己満足に陥ってはいませんか。
 自己満足や自己犠牲の観念は捨てなければなりません。

 自分が満足するから善行を施すようでは何にもならないのです。
 
それは徒に自己満足という虚栄心を納得させるだけの
偽我を延長させるだけにしか過ぎません。
 お解りですか。

 又、自己犠牲に於てもそうです。
 何故あなた方は自己犠牲をするのか考えた事がありますか。
 そうしなければならないからそうするのか、そうするのが当たり前だからそうするのか、
 或いはその人のことを本当に助けたいと思ったからそうするのか、どれですか。
 
 困っている人がいた場合手を差し伸べようとするでしょう。
 あなた方は何故そうしようとするのか考えたことがありますか。
 何故困った人を助けようとしたのか。助けた後、気持ちが良いからですか。
 それならば私達は止めなさいと言うでしょう。
 それは他者を生かす愛には繋がらないのです。お解りですか。
 その点は自分で良く考えてごらんなさい。
 
 後から気持ちが良いから善行を施すのは果たして良いことか。
 私達があなた方に望むのは、全き純粋な気持ちで他人のことを望むことです。
 良いことをする場合にも、人を救う場合にもそうです。
 その人が本当に困っているから、或いはその人の成長の為になるからと手を貸して、
それだけの気持ちならばそれを天の気持ちと言います。
 ですが、してあげなくてはならないという義務感ならば私達は止めなさいと言うでしょう。
 何故ならば、そこに苦痛が伴っているからです。
 自己犠牲を自分に強いる癖を付けていけば、やがて自分をごまかす癖が付くでしょう。
 自分が嫌だと思っているのに、そうしなければならないから、
そうすることが美しい事だからと認識し、自分をそのように誤解してゆく、
ごまかすとはそのように恐ろしいのです。
 
 ですが自己犠牲はいけない、我慢してやるのはいけないと言いながらも、
そのままではいけません。
 やはり、しなければならないと思った時にはしなければならないのです。
 そこから出てくるもの、何故その気持ちが出てくるのか。

 それは(責任を問われることを怖れる自己保存の心からではなく、
善我に立っての已むに已まれぬ思い、主体性からの)責任感を言うのです。
 責任感がそうさせるのです。

(自己保存から強迫観念的に自らを強いる)義務感がそうさせてはいけません。
 お解りですか。
 それではあなた方の為にもならない、助けてあげる人の為にもならないのです。
 自分をごまかしてはならないが、天をも人をもごまかしてはいけません。
 たとえ今、自己犠牲の気持ち、やらなければならないの気持ちがあるならば、
それはそれでいいでしょう。
 ですが、少しでも一歩前進する気持ちがあること、それが大切なのです。
 出来ないことを無理してはいけません。それは自分をごまかすことになります。

 繰り返し申し上げますが、大切なのは、何故、何故と考えることです。
 聞くことではありません。
 何故中庸は中の道を言わないで、善の道に片寄ることを言うのか。
 八正道は何故必要か。何故、何故と考えなければなりません。
 考えることに依って解答が見つけられるでしょう。お解りですか。
 八正道は何故必要なのか。八正道の基礎となるものは何か。
 八正道はどのようにして、行わなければならないのか。
 正しく見る、正しく聞く、あなた方は正しくということが解ってますか。
 恐らくは正見、正思ということが何となくにしか解っていないでしょう。
 正見、正思のする方法が解っていないからです。
 正しく見るとは、どのようなことを言うのか、漠然としてお解りにはならないでしょう。
 
 それは、何故か、何故かと物事の本質を考えることです。
 正見とは、物事の本質を見ること
それはどのようにしてそこにそういう現象が伴っているのか、
(例えば天は)どのような意図を持って現れたのか、
それを考えてゆくことを、正しく見る、聞く、語ると言うのです。
 正しく語る場合は、どのようなことを言うのか。
 正しく語るとはその人の成長を促すことを言います。
 正しく聞くとは、自分の受け入れ易いように、自分の為だけに、
自分の都合の良いように聞くことではありません。
 その人の真意を受け取ることです。お解りですか。

 物の見方について、今日、私の話の中であなた方が何か一つでも得ることがあれば、
これに越したことはありません。
 これを聞いた後でも感動しただけではいけないのです。感動するだけは誰にでも出来ます。
 しかし、あなた方は考えなければならないのです。
 考えてゆきなさい。それしか道はないのです。
 これで私のメッセージを終わります。どうも有難うございました。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法