現象テープ№31 「天上界による質疑応答(天上界の見解)」
 81年9月10日 ガブリエル様現象(霊媒 土田展子)
(「エルバーラム(82年4月初版)」75頁掲載)
 唯今より、私ガブリエルによります質疑応答を始めたいと思います。
 まず最初の「正法ということが頭にあって、
正法に拘(こだわ)り過ぎてしまっているのではないか」
という質問がありましたが、そういう方にお伺いします。
 あなたは何故、正法にそのように拘ってらっしゃるのですか。
 何故正法をそのように思われるのですか。
 何故正法をそのように煩(うるさ)く思われるのですか。
 何故自分がそういうふうに思うようになったのか、それをもう一度考えてみて下さい。
 何故纏(まと)わり付くように感じるのか。
 決して正法は纏わり付くものではありません。
 解放するものです。それ以外の何物でもありません。

 もし、纏わり付くように感じるならば、あなたが自分をどこかで自己弁護している証拠であり、
自分を見つめる際にもどこか逃げているからです。

 自分を見つめることが厳しいというのは、どういうことかお分かりでしょうか。
 自分を見つめることが厳しいというのは、自己弁護を許されないからです。
 自己弁護を許されないということは、どういうことでしょうか。
 あなた方が何か悪いことをした時、誰かに謝らなければならないとします。
 あなた方は心の底から悪いと思っていない時、どのように謝りますか。
 心の底から反省心が湧かないのに謝る時に、あなた方は自己弁護を交えて謝るでしょう。
 それと同じ事なのです。自分を見つめるということは自分との戦いです。
 決して自己弁護してはならないのです。
 あなた方が正法について考える時、そして自分の性格について考える時に、
何か纏わりつくように煩
(うるさ)く感じる時、何故自分はそのように感じるのか、
何故煩く感じるのか、それをもう一度考えてみなさい。
 何処かに自分に甘えた心がある筈です。


 自分を見つめるということについてお話ししますと、
どのような方法を取っておられるでしょうか。
 自分を見つめるにも方法があります。
 第三者の立場から離れて見るということについても、中々出来るものではありません。
 どのように行うのでしょうか。
 まず、自分の行動から考えます。
 自分は何故このような行動をとるのか、自分と他人との行動を比較してみて、
 自分はこうすることがある、ああすることがある。
 その行動はどのような心から出るのか、どういうパターンで繰返されているのか、
それを考えて見なさい。
 そうすれば自分がどのような心でそれを行っているかが分かるでしょう。

 そうやって一つ一つ解いて行ってみなさい。
 あなた自身の自分の性格が見える筈です。
 何故自分は他人と争うことが多いのか。何故自分は怠けることが多いのか。
 何故自分はこうなのか。悪い性格が直らないのか。
 そのようにして見詰めていってごらんなさい。
 常に自分に対しても、何故自分はそうなのかということを考えるのです。
 そうすれば、自ずと他人の気持ちも解るようになるでしょう。
 正法、正法と拘り過ぎてしまっているならば、一度正法から離れてどらんなさい。
 そうすれば又、否応なしに自分から正法に戻りたくなる時がやって来ます。


 その次の「知性的な欲望とは、どのような事を言うのか」とのご質問ですが。
 まず人間的な欲望について、あなたはどう思われますか。
 まず質問する場合には、
自分でそれがどのようなものなのかを一応考えてみてからにして下さい。
 何故そのようにした方が良いかと言うと、何も考える事がなしに質問した場合、
それから解答を受けても何も響くものはないのです。
 自分はこう考えた。だが、もしその答えが間違っていたならばこの考えた道筋は誤りであった。
 しかし、こうする道は正しかった、というふうにして頭に強く印象が残るからです。
 その方が悟りも深いでしょう。

 知性的な欲望とはどのような事を言うのか。
 まず欲望とは過剰な欲求を言います。
 過剰な欲求とはどのような事か。

 自分の能力を超えての欲求なのです。
 知性的な欲望とは詰り、知性的なものの過度の欲求詰り、
学問や研究に於て許される範囲を超えた欲望を言うのです。
 許された範囲とはどのような事を言うか。
 科学的な意味に於てその答えが出されているでしょう。
 例えば、核戦争の恐怖は、知性的な欲望から巻き起こされているのです。
 現在は科学の進歩が恐ろしいというのも、
知性的な欲望が制御出来ないから起こっているのです。
 知性は往々にして競争心を生みます。知性的な競争が一番恐ろしいのです。
 何故か解りますか。知性的な競争心は何故恐ろしいのでしょう。誰か分かる人がいますか?
 競争心とはどのようなことを言いますか?

 知性的な競争心というのは、どのようなことを言い、どのような恐ろしさがあるかと言えば、
競争心とはどういう事から出ているか分かりますか。
 他人には負けたくない、自分中心的な考え方なのです。
 自分中心的な知性がどれ程恐ろしいでしょうか。
 他人の入る余地は全く無いのです。勿論他人に対する思い遣りもありません。
 そういう競争心から知性的な欲望に走り、科学競争を行えばどうなるか、お解りですか。
 知性的な欲望とはそのような事を言います。

 さてその次、
「或る科学者が、生まれる子供が劣性の遺伝子を持つ時、
生かすか、安楽死させるかという決定をする、
或いは病気を、悪い遺伝子を残すのには天上界がどのような考えを持つか、
或いは自然界に於ける自然淘汰とは、どういう関係になっているか」という質問ですが。
 天上界の意見を申し上げるならば、
劣等の遺伝子を持っている場合、その遺伝子を持っていることが明らかな場合は、
その両親は子供を作るべきではありません。
 受胎してからはもう遅いのです。受胎してから子供を殺す権利は誰にもありません。
 生まれてこようとする意志があるから生まれてきたのです。
 そのような遺伝子を無くす為には、両親の強い理性が必要なのです。
 
 子供がほしいという気持ちは誰にもあります。
 しかし、自分の子供でなくても子供を育てることは出来るのです。
 劣等の遺伝子を持つならば、そして、社会のことを考えるならば
両親は子供を産むべきではありません。
 しかし育てることは出来るのです。
 よく、自分も人間であるから子供を産みたい、女であるから子供を産みたい、
という意見を耳にしますが、天上界はそれを自分勝手な意見としか受け取れません。
 生まれてきた子供はどうなるでしょうか。
 一生社会に対して寄り掛かって生きてゆかなければならないのです。


 建前では、あなた方の社会では福祉社会と謳い、
障害者をも受け入れるように一見出来ていますが、
しかし、あなた方の心の中ではどうでしょうか。
 私達天上界から見て、障害者を正面から素直に受け止められるような人間が、
あなた方の中に一握りでもいればよいと思います。
 その証拠にどうですか。
 国際障害者年と謳っておりますが、
私達はその意見には少しも善意を感じることは出来ないのです。
 国際障害者年と名付ける事自体が障害者を差別しているのです。
 障害者も正常者も変わりがないならば、何故そのような年を設ける事があるでしょうか。

 子供を産むということは劣等遺伝子を持っている、いないに関らず大変な事です。
 安易に産むべきではないのです。
 より賢く生きてゆかなければならないのです。
 生まれた子供は何時かは大きくなり、社会に貢献するようになります。
 社会の一員となるのです。
 たとえ私の子供一人と思い、俺の子供一人と思っても、
その子供一人が、何か大きな影響を及ぼすかも知れないのです。
 大勢は一人一人から成り立っているのです。

 命は大切にしなければなりません。
 生まれてくるものは偶然にして生まれてくるものではないのです。
 その事をよく考えておいて下さい。
(注。障害者という十字架を背負うことになろうとも、
自分達の(遺伝子を持つ)子が欲しいというのは自己愛の延長に過ぎないものです。
 真に子の幸せを願う者なら、健康に生きる幸せを子に与えたいとの願いを犠牲にするなど
考えも及ばないことだと思います。)

 天上界は劣等遺伝子を持つ者を迫害するものでも何ものでもありません。
 医学の進歩によって劣等遺伝が改良されてゆけば、それに越した事はありません。
 そして、それによる歪みも出てくるでしょう。
 しかし、あなた方人類が劣等遺伝子を無くそうという方向に一度動きかけたならば、
最後迄やってみるしかないのです。
 より良く生きてゆく為に、常に進歩してゆかなければなりません。
 人類は知性があるのですから、知性と理性を持つのですから、
如何なるものをも克服し得るのです。

(注。
「JI」88年1月号 ミカエル大王様メッセージより
 最近エイズに感染した母親は妊娠や出産をすべきでない。
 或いは出産させるべきで、胎児の生命は奪ってはいけない ー
などの賛否両論が、新聞の投書欄をにぎわしているようです。
 私達の見解は、しかし、やはり責任ある社会人であり、父親と母親であるならば、
片方が保菌者と判っているなら、妊娠は避けるべきであるとします。
 みすみす病気との闘いと苦しみの連続であるエイズ感染者として赤子が誕生することは
哀れであるし、又その赤子の成長、成人までに関り合う周囲の人々の蒙る迷惑は、
母親としてやはり、考慮すべき事柄であり、自分本位の欲は慎むべきでしょう。

 近親結婚を避ける道徳心は、
劣性遺伝児を作らないという社会人の責任と義務感から来ています。
 何でもよいから欲しいなら子供を産ませるべきと、
社会がカトリック教会の教えのように、"生命の誕生を阻んではならない"
等の理性と知性を欠いた標語を作り、宣伝してはならないのです。
 そのように説く評論家は恐らく、
社会や国家の崩壊を目論む左傾思想の持ち主であろうかと思いますが、
妊娠して中絶期を過ぎてしまった胎児の出産は仕方がないこととしても、
日本のように家庭の経済状態によってさえ、中絶を許可される国で、
エイズ感染の親が子を産むのを禁じてはならないという社会の観念は不合理、不健全なものです。
 無責任な親と無責任な社会の所産に過ぎないもの。

 その概念を広げてゆけば、花の苗を間引くことさえ許されなくなります。
 ありとあらゆる動植物の生命を絶つことも心情として許せないと、
妊娠や出産を肯定する評論家が言うのならば、
大変に慈悲深い心の持ち主だからそう言うのだと理解しますが ー 。注終)

 次の質問です。
 「悪友に近付くなということは大切ですが、職場や学校での関係で、
どうしても付き合わなければならない場合はどうしたら良いか」
 ここに正法的な賢さが要求されるのです。
 確かにあなた方の職場や学校や社会に於て、
悪人、悪友、所謂私達が言う共産主義者や或いは俗悪な人間と
決して付き合わないでいるという事は出来ない相談です。
 ですが、その人達の行動を見ることによって、あなた方も幾分かは賢くなれる筈です。
 しかし、そのようになってはいけない、ああいう人にはなりたくない、
というような賢さであってはなりません。
 俗悪な人間を見ようとも、決して軽蔑してはいけません。それは許されない事なのです。
 軽蔑されるべき人間であっても軽蔑してはならないのです。
 
 正法的な賢さとは、ごまかしのない狡(ずる)さを言います。
 ごまかしのない狡さ、とはどのような事を言うのでしょうか。
 さっき申し上げた軽蔑心、或いは煩わしいと思う心、
こんな奴と何故付き合わなくてはならないのだろう、という心のない、
自分にごまかしのない、他人を見下すことのない賢さなのです。
 そのような人間とどのように付き合えばよいか。
 それは色々な人達のタイプによって分けられるでしょうが、
それはあなた方自身で見つけて行く他ありません。
 決して逃げなければならないということは無いのです。
 寧ろその人をどのように活用してゆくか、或いはどのように上手く避けていくか。
 避けるということは逃げるということではありません。
 そこを上手く考えなければならないのです。
 そこにも判断力が要求されます。
 正法がごまかしを許さないからといって、真正面から取り組む必要はないのです。
 明らかに間違いであるという行動を取った時は別ですが、
普段からカリカリ対立することはないのです。
 社会に生きてゆく上に於ては、嫌なことが多い社会です。
 だからといって正法者もそれに染まって良いとは限りませんし、
正法者が孤立してもいいとは思いません。
 寧ろ光らなければならないのです。
 そのような職場や社会に於いて、孤立するよりも光らなければなりません。
 ごまかしのない狡さを養って下さい。
 ごまかしのない狡さとはどのような事を言うのか、一人一人でゆっくり考えて下さい。
 何故自分は苦しむのか、何故苦しまなければならないのか、
何故自分はこのような気持ちになったのか。そこを考えていってほしいのです。
 
 次の質問です。
 「『天国の扉』に人の心が九層に分かれている、とありますが、
脳生理学から言うとどういう意味になるのか」とありますが。
 人の心が九層に分かれているというのは、あれは単なる比喩です。
 脳生理学とは関係ありません。
 執着が一つ一つ取れてゆき、判断力が一つ一つ鋭くなってゆき、
自分を見詰めることが出来ていった時に、
段階を追って順番に辿ってゆける道筋の一つを申し上げたに過ぎません。

 次の質問です。
 「共産主義は経済のみに適用されるとメッセージにあったが、現在は否定されている。
 これはどう受け取ったらよいか」という質問です。
 共産主義が経済のみ適用されるべきというのは、純粋に理論上に於てのみなのです。
 しかし、現在の共産主義とはどのような事を言うのか。
 あの主義は経済主義だけでなく、
あれは政治主義になっているから私達は否定しているのです。
 唯物論的な史観で、しかも経済のみを扱う主義に於て、どうして人の心が扱えましょうか。
 どうしてユートピアを作ることが出来るでしょう。
 どうして人の心の問題を片付ける事が出来るでしょう。

 私達は物質のみでは幸せにはなれないのです。そこに誤りがあるからです。
 私達は物質のみでは幸せにはなれません。満足感を得る場合にも物質だけでは出来ないのです。
 あなた方が身を飾りたいと思う欲望がある時、金品が欲しいと思う時、
何かをしたいという欲望がある時、それを満たせば、あなた方はその欲望が消えるでしょうか。
 消えた事がありますか。恐らくはないでしょう。
 その欲望は止まる所が無く、流れ続ける筈です。何時迄も満足がないでしょう。
 挙句の果ては執着が苦しみになり、身を飾る事をしなければ苦しみとなってしまうのです。
 そのような事が果たして救いでしょうか。

 人は心に於て救われなければならないのです。
 その為に判断力を養い、理性を磨き、永遠の幸福
(しあわせ)を求めなければなりません。
 永遠の幸福とは苦しまないこと、迷いに対して解答を得られることを言います。
 地味な言い方ではありますが、迷いに対して解答を得られること、
どのようにしていいか分からない時に解答を得られるということが幸福なことなのです。


 欲望が何故起こるのか。
 何か足りないと感ずる時から来るのです。
 何か足りぬ時、物足らぬ時、それを埋めようとしてその気持ちが起ります。
 何故そのような気持ちが起るのか、何故物足りない気持ちが起るのか、
一度よく考えてみて下さい。
 根本的な解決がなければ、自分の心に根本的な解決がなければ、
幾らでもそのような物質的な欲望が巻き起こってくるでしょう。
 それ故に、悟った人間は物質的な欲望が少なく、
あなた方によく知られた義人や聖人のように質素な生活にも堪え得るのです。
 堪える、という言い方は正しくないかも知れません。それで十分と感じるのです。
 質素な暮らしをしていて、
私はこんなに質素な暮らしが出来るのだと自慢する気持ちは微塵もありません。
 それがあるがままの自然な形となるのです。
 それを"満たされた"と言います。

 その次の質問です。
 「『JI』の8月号にマルクス主義は秘密結社が結成されているとありますが 事実か」
という質問ですが … 。
 確かにそういう秘密結社もあったでしょうが、私達がマルクス主義を捉える時には、
そういう現象面で捉えるのではなく、根本的な所から捉えなければなりません。
 何故共産主義がこのように世界に蔓延ってしまったのか、
その心理から考えなければならないのです。
 何故共産主義が世界の人々から受け入れられるようになったのか、
又その存在を容認しているのか。
 その心理状態から考えてみなければなりません。

 物事を見る時には、その物事の表層に現れた事実のみを追ってはなりません。
 その根本には何が流れているのか、何故そうなったのかを考えなければならないのです。
 何事を見るにも、物事を判断するにも、
他人の気持ちを読んであげるにしろ、自分の不満を解消するにしろ、
何故そうなっているのかを考えなければならないのです。
 常に何故そうなのか、何故こうなのか、ということを考えていって下さい。
 判断力も理性もそこから養われてゆくのです。

 根本は何かということ、それを考えていって下さい。

 それから次の質問です。
 「『希望と愛と光』の8月号の議事録に、
千乃裕子様の正法者の消滅ブラックリストがあるという事ですが、
それについてお聞かせ願いたい」とのこと。
 あなたはその事を聞いて、どういうふうになさるつもりですか。
 どうしてそういうことを聞きたいと思われるのですか。何か不安でもあるからですか。
 消滅のことを聞きたがる人は多いのですが、心配することはありません。
 消滅に値するとは、世の中の悪に賛同し、天上界に反逆し、
自ら進んで悪に身を投ずる人間にのみ適用されるからです。

 ブラックリストについては、確かにそのようなものはあります。
 しかし、だからと言って、不安がることはないのです。
 あなたが入っているとは限らないのですから。どうぞ安心なさって下さい。

 「タルムードに天上界の教えが入っているか」という質問ですが。
 確かに天上界の指示によって幾つかは手を加えました。
 タルムードだけではなく、その時代の芸術や科学、あらゆる方面に於て、
その時代の人類の良きものとなるような事にはすべて天上界の手が入っています。

 さて、最後になりましたが、「正法の意味について、解り易く説明してほしい」とあります。
 質問なさった方にお伺いしますが、私の質疑応答で正法の意味について、
少しはお解り頂けましたでしょうか。どうですか。
 やはり、ご自分でも考えるようになさって下さい。

 正法の意味は何か。
 意味は一つしかありません。ユートピアを作ること以外にないのです。
 ユートピアというと大変な作業ですが、
しかし、あなた方が自分の幸福を願うのと同じように、又他人の幸福をも願う心、
そういう気持ちで生きていってほしいのです。
 確かに自分の事を置いて他人の事を考えるのは難しいことです。
 しかし、自己犠牲を私達は言いますが、自己犠牲をする場合、
自分が犠牲になっていると考えてはいけないのです。
 それはもう、天上の行為ではありません。犠牲となるのではないのです。
 自らそういう心に溢れ出て、何とかしてあげたいと思う気持ち、

溢れ出る気持ちを抑えられない気持ちになった時、そういうことを真の自己犠牲と言います。 
 やってあげなければ仕方がない、そういう気持ちは自己犠牲とは言いません。
 自己欺瞞と言うのです。

 そういう心に辿り着くことは難しい。
 しかし、あなた方は、無理矢理そういうふうに思おう思おう、思わなければならないと言って、
そういうふうになったのではいけません。そう思えない間は思えないので良いのです。
 自己犠牲をする場合にやらなければならない、やらなければならないと考えている時に、
天上界が「やらなければならないと考えているのは自己欺瞞である」というのを聞いて、
ああ俺は自己欺瞞をしているのだ、と言って考えて、いや自己犠牲だ、自己犠牲だ、
自分は犠牲だと思って生きているのではないというふうに、
自分をごまかしていってしまうことになるからです。
 そう思えない間はそれでよいのです。そのままでよいという事ではありません。
 お解りでしょうか。
 
 このように申し上げると、正法とは何と厳しい道であるかとお考えでしょうが、
しかし、これが一番易しい生き方なのです。
 他の道は何も求めることがありません。
 判断力が付き、理性が養えたならば、真の知性が身に付くでしょう。
 真の知性とは何を言うか、お解りですか。
 知性とは物事を見抜く力です。
 物事の本質を見抜き、何か自分が役に立てるのではないかと思えるような心。
 そのような心に満たされていれば、何をやっても平均以上にはなれるでしょう。
 勿論能力差はありますが。
 しかし、あれが出来ない、これが出来ないと言って、悩むことはないのです。
 悪い意味での分相応という意味ではなく、
良い意味での分相応ということが分かって来るでしょう。
 自分を見詰めるということは若い人には大変易しいことですが、
歳を取った方には大変難しいようです。
 自分がどのような行動を取るのか、自分がどのような時にこういう行動を取るのか、
そういうことを考えていって、自分を見詰めていってほしいと思います。
 自分を見詰められるのは自分しかないのです。

 又、あなたの隣り人を優しい気持ちで見守ってあげるのもあなたしかいないかもしれません。
 賢くなろうとは思わずに、優しくなろう、と思いなさい。お解りですか。

 優しくなければ賢くなることは出来ません。
 優しいとはどのような事を言うのか。
 他人の気持ちを読んであげられる、ということです。
 他人の気持ちを読んであげられるとはどのような事を言うのか、感受性が鋭いということです。
 感受性が鋭い、とはどのような事を言うのか。
 物事を厳しく見詰められるということ、
混じりのない気持ちで物事を見詰められるということを言うのです。
 ただ単に優しいということだけではなくて、何かを目的に持って優しくしてあげられること。
 それが正法者の優しさです。

 その事を頭に置いて、これから生きていって下さい。
 それでは長くなりましたが、これで私ガブリエルによる質問による現象を終りたいと思います。
 失礼致します。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法