現象テープ№17 ①「愛について」
 79年12月23日 イエス様現象(霊媒 土田展子)

(「エルバーラム(82年4月初版)」16頁掲載)
 私はイエスです。今日はようこそいらっしゃいました。
 今日は愛の教えについて、あなた方に再び説きたく思います。
 愛とはどのようなものであるか。愛はあなた方の中に於てどのような位置を占めるか。
 又、あなた方の間で愛ほど使い古され、
色々な意味合いを持ってしまった言葉は無いと思います。
 愛は一つの意味しか持ちません。愛は二つの意味を持つことは出来ません。
 又、愛と憎しみを一緒にすることは出来ません。妥協とも住むことは出来ない。
 愛とは如何なるものであるか。それは真理に他なりません。

 愛とはどのようなものであるか、答えることが出来る人がいるでしょうか。
 又、それを身を以て具現していると誇ることが出来る人がいるでしょうか。
 あなた方の周りを見廻しなさい。
 僧侶、牧師、神父、あなた方が触れることが出来る人によって、
愛を具現していると己を誇っている人があるならば、それは愛を知らない人だからです。

 あなた方に言います。あなた方の中で一番力を持っているものは何であろうか。
 愛であろうか、善であろうか、それとも神への忠誠か、それとも真理か。

 そのようなものでは決して無い筈です。
 この世を見てみなさい。あなた方の中で力を持っているのは金銭ではありませんか。
 こう言えば厳しくなりますが、
現実の世の中では金銭があなた方の中で一番力を持っているのです。
 そして天上界の愛する愛は、最もあなた方の中で力弱い。

 口では、綺麗事では、幾らでも愛を愛をと言うことは出来ます。
 それはあなた方も一番よく知っていることだと思います。

 愛とはどのようなものであるか。
 あなた方が、身が裕福であって心が平静な時は、愛を叫ぶことは易しい。
 又、他人に愛を施すことも易しい。
 何故ならば、それは自分に余裕があるからである。しかしその愛は金銭と同じである。

 これが解りますか。
 本当の愛はそのようなものではありません。
 自分の身が最も貧しい時、最もどん族に落とされた時にこそ発揮されるものが愛なのです。
 その時にこそ他人に与えられる優しさ、寛容、正義、その他あらゆる正しいものが愛なのです。
 あなた方が身が貧しく、そして身寄りも無く、何も無く本当に何も持たない時、
他人に示されるものが愛なのです。

 愛は深く厳しい。そして愛は驕ることを知りません。そして飽きることを知りません。
 これは自由も同じです。
 そして正法を知った幸せもそのようであった筈です。

 正法を知った幸せは決して驕ることがありません。又、飽きることもありません。
 けれど一般に言われている幸せについてはどうでしょうか。
 例えば、金銭によって齎された幸せ、他人からの崇拝によって齎された幸せ、
そのようなものに永遠の喜びがあるでしょうか。
 金銭は儚(はかな)く、人の崇拝も又短い。しかしあなた方の魂の中にあって、
永遠の愛の喜びは尽きることが無いのです。
 それは体験した人にしか解りません。

 愛は深く厳しい。このことをあなた方はよく心に置いて下さい。
 人にやたらに優しくする程易しい愛がどこにありましょうか。それは愛とは言いません。
 困っている人を見て、手を優しく差し伸べることが愛ではないのです。
 そのようなことなら誰にも出来ます。
 しかし本当に助けの要る人に、只手を差し伸べるだけが愛でしょうか。
 時にはその人を厳しく突き放すことも愛なのです。慈悲にしてもまた然りです。
 愛は多すぎると、又天上のものでは無くなります。
 時にはその人を厳しく突き放すことも愛なのです。
 あなた方日本人は慈悲魔に左右され易い。
 そのことは民族性なのであなた方はこれを超越せねばなりません。
 又、私達の言う消滅に関しても、あなた方と相容れない所が多い。
 これはあなた方の民族性による所が多いと思います。

 愛とはどのようなものであるか。
 例えば私が地上に生きていた頃、法を説いていた頃、どうだったでしょうか。
 思い起こしてみて下さい。
 私があなた方の前に現れたのと同じように、地上に肉体を持って現れた時に人々は、
私を素直にメシヤと認めたでしょうか。
 私を神の子と素直に認めたでしょうか。決してそんなことはありませんでした。
 私はぼろを纏(まと)い、髭も髪も乱れ、汚れていました。
 顔も埃で汚れ、そして足には傷を負い、手は引っかき傷がいっぱいありました。
 人々は私の身なりを見て信じようとしませんでした。
 人々は立派な服を着た僧侶の方を尊敬しました。
 又、人々は如何なる奇蹟を、
私が神の力によって行ってもそれを信じようとはしませんでした。
 
 あなた方の中にあって奇蹟は珍しいものではありますが、
決して神のものとは信じることが出来ないようです。
 何故なら悪霊の奇蹟も多いからが、その一つの理由にあると思います。
 奇蹟を見て信じるならば、私はゴルゴダの丘へ連れて行かれたでしょうか。
 奇蹟を見てもし人々が真理に目覚めたならば、私を死刑にと求める声の中に
声を和らげることが出来た筈です。
 そして私を、ゴルゴダの丘へ連れて行くローマ人の鞭にも少しは優しさが、
いえ鞭の回数を減らすことが出来た筈です。
 人々は私の奇蹟を見ても、それを神のものとは信じようとはしませんでした。
 それは一種の方便に過ぎないのです。だからあなた方も悪霊による奇蹟もあるのですから、
決して徴(しるし)によってのみ信じてはなりません。
 
 徴を見ないで信じる者は幸いである。それは神の意志を見たからである。
 私達はあなた方に告げます。
 今私がこうして話していても、私をイエスと信じない人がいるかも知れない。
 それは二千年前に私が神の子であると自覚して世に現れた時と同じです。
 人々は絵や彫刻に描かれている私を信じはしても、

この今現れている私を信じないのと同じです。
 信じない者は如何なるものを以てしても信じません。


 愛とはどのようなものであるか。あなた方の心の中にもう一度呼び起こして下さい。
 これはあなた方は驚くかも知れませんが、「目には目、歯には歯を」と同じ原理なのです。
 自分に与えるものは他人にも与えなさい。
 しかし、自分に与えるものも時には考えなければならない。
 甘えや徒(いたずら)な許し、偽り、そのようなものは人に与えてはなりません。
 
 偽りの愛、愛ほど難しいものはないのです。何故ならそれは目に見えないから。
 目に見えないものを信じるのは如何に難しいことか。それを私は一番よく知っております。
 何故なら今あなた方の中で崇められている、私の十二使徒を見なさい。母、マリヤを見なさい。
 私が地上に現れている時、彼等に真のメシヤだと、神の子だと信じられたでしょうか。
 母、マリヤは違いました。あなた方の中では聖母として崇められていますが、
母、マリヤは私が三十歳になって法を説き始めた時に、
兄弟を連れて来て私を取り押さえに来ました。
 気が狂ったと思ったのです。
 母、マリヤは私を身籠った時に、天のいと高き御使い達によって、
その生涯を知らされていながらも、三十年という年月の流れにそれを忘れてしまいました。
 如何に心弱いものであったか。
 母が私を信じたのは何時の時だったでしょうか。それは死後、私が復活してからです。
 即ち、私が霊体となって弟子達の前に、マクダラのマリヤの前に現れてからです。
 弟子達も又そうでした。
 私が生きている間心弱く、何時も私は「これで本当に私の説いた法は広がって行くのだろうか」、
と絶えずその念に悩まされていました。

 人間は本当に心弱い … 。そして私も又心弱かったのです。
 何故なら、私もあなた方と同じ人間だったからです。
 私は今でこそあなた方に、そして世界中の人々に神の子であった、
奇蹟の人と崇められてはいますが、
実際はどうだったでしょうか。人々からそのように扱いを受けたでしょうか。
 人々は、私が神について証をしたのを、私について証をしていると勘違いしました。
 それは何時の時代にあってもそうです。
 そして今の千乃裕子様の時代にもそうではありませんか。
 私も又普通の人であった。
 そして普通の人として生を受け、そして神により、三十歳になった時に啓示を受けてから、
神の子であると自覚しました。
 神の子であるというのは、神より法を授けられた者、

地上に法を広める者としての自覚なのです。
 そうでなければ何の意味があるでしょうか。
 私が初めから、生まれた時からあなた方と違う人間である、神の子であると、
実在の人間とは違う人間であると、何か神格化された人間であると広められていたならば、
何の価値がありましょうか。


 私は神への愛を貫き、人々への愛を貫き、処刑されてこそ私は成就されたのです。
 行く街々では石を持って投げられたこともありました。
 石を持って追い返されたこともありました。
 けれど、常に神は私と共にあると考えたので、少しも辛くはありませんでした。
 神はあなたと共にある、私はあなたと共にあるというのは、このようなことを言うのです。
 如何なる苦難に遭っても、真理はあなたと共にあるのだから、

あなたの心の中にあるのだから、 あなたが人間である限り何時も付き纏う、
そして良心(天の聖霊に繋がる心)が命じるものだから一人ではないのです。
 何時も何時も心正しき者には、心正しき霊が守りを与えます。


 私達天が、千乃裕子様の下に集まる者を何故このように幼き者を選んだか、
それが解る人がいますか。
 彼女等は幼く、まだ物も分かりませんが偽りを言いません。嘘を知りません。
 それだからこそ選んだのです。又ここに集まっている若い人々は幸いです。
 これからの人生で、人生を幾らでも変えてゆくことが出来るでしょう。
 又老いた者も幸いです。今迄の人生を体験として記憶出来るからです。
 そして若い人を導いてゆきなさい。若者には希望があるが体験が無い。
 
 そしてあなた方に今月のメッセージとして言います。
 「自分自身を見つめなさい」とミカエル様が仰しゃいましたが、それはどのようなものか。
 まずあなた方自身で、自分で長所だと思っている点を日の下に、
天の光の下に晒してみなさい。
 忽(たちま)ち萎んでゆくでしょう。
 自分で長所だと思っていることのみが、本当は短所であるのです。
 長所だと自認する所に長所は何もありません。
 寧ろあなた方が分からない所に長所は隠れているのであり、また罪もそこにあります。
 自分で自覚する罪よりも、自分で自覚しない罪を恐れなさい。

 又、人を裁くなと言われているのはこのような為です。
 人を裁くということは、
既に自分が相手より有利な立場に立っているということに他なりません。
 私達天はあなた方に告げます。
 誰でも師のようになろうとする者は、その僕以上の者になってはいけません。
 常に僕に対しても、師のように振舞ってはならないのです。互いに得る所が必ずあります。
 どんなに低き者と見做した者でも必ず得る所があるから、
あなた方は天の者がするように、その者を突き放してはならないのです。
 天から見れば、どんぐりの背比べのようなものなのですよ。
 ここへ来なさい … さわってごらん … 分かりますか、
私の愛の証が … (はい、感じます())… 戻りなさい …(有難うございました)…  
これが私の証です。
 それではこれで天上界よりのメッセージを終りたく思います。
 どうも有難うございました。

注。
 イエス様に手を取られて、証を受けられた滝村宏子様の証言
 「お手からは愛のお心、言葉では言い表せない程のお力と暖かみを感じました。
 お姿は二倍大に真白に輝いておられました。」
 (「慈悲と愛」80年2月号)

現象テープ№17 ②「クリスマス・メッセージ」
 79年12月23日 ミカエル大王様現象(自動筆記)
(「エルバーラム」25頁掲載)

 私はミカエルです。私達が、あなた方に何度も繰り返してメッセージを送っている理由は、
あなた方地球人類が、平和で仲良く暮らしていって欲しいからで、他意はございません。
 私達は、今まで数多くの天上界よりの認められた正しい後継者を通じて、
この目的の為に、何度も警告を繰り返してきましたその本当の意味は、
真の幸福とは何か、人間はいかに生きるべきか、を伝えて頂きたかったからなのです。
 あなた方人類は、めくらがめくらの手引きをし、
どの方向へ進んでいったら良いのか、光を見出せずにいたからです。
 希望は、いつの時代にも持ち続けなさい。
 何故なら、私達天上界は、心正しき者、義を行う者に、常に付いているからです。
 これで私のメッセージを、終わります。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法