第四章 イエス・キリストの章
私イエスは凡そ二千年前(紀元前六年)に、ユダヤのベツレヘムという町に生まれ、
その時、ヘロデ王という悪政で名を轟かせたユダヤの王が、
ユダヤ人を救う救世主の誕生の予言が真実であるらしいと学者達、祭司達、予言者達より聞き出し、
それを恐れて二歳以下の男子を生まれたての嬰児も含めて斬殺するよう命令を出したのです。
その時私はガブリエルという大天使に母マリヤ、父ヨセフと共に導かれて、
エジプトの地に逃れ、生き延びました。
ガブリエル大天使は私の母マリヤに受胎告知をしたことで、
キリスト教の聖書にも記述されてあり、よく知られています。
私イエスには母の胎内にあって既に、
天上界より降りてこられたビルナビルと言われる立派な方が合体され、
この方はベー・エルデ星より来たった王の第二子で養子でした。
【注。
普通は三ヶ月まで合体霊は降りません。受胎告知と同時にマリヤ様の中に入られたので、
"聖霊によりて妊り"と天上界より知らせを受けたのです(原注)。
イエス様のお言葉に、生まれる前から神と共にあったというのは、
霊として天上界に在った神の子が受肉したという意味ではなく、生まれる前、
即ち胎児であった時から天上界高次元の聖霊が合体されていたという意味でした。
イエス・キリストという(天上界が救世主と認めた)御人格が、
この世に生まれて来る前から神の子としての人格を持った存在として天に在った
という意味ではありません。】
そしてミカエル大天使長、即ちすべての天使の長(おさ)であられる方が
守護・指導霊となり私の生涯を通じて主の道に沿い、人々を教え導く為意識に働きかけ、
悟りへと導かれたのです。合体されたビルナビル様と共にでした。
その後、ヘロデ王の死と共にガリラヤの町にあるナザレという所に帰り、
幼時を三人の弟と一人の妹と共に過ごしました。
十二歳になった時母マリヤはもう一人の弟を生みましたが、
その弟が生後五ヶ月になった時、その嬰児(みどりご)を連れ、
両親と私と八人で過越の祭りを聖地で過ごす為、エルサレムという寺院のある町に上り、
そこで私は学者に留められ、両親達は知らずに帰ってしまいました。
そこで仕方なく、三日の間、宮の中でいろいろな人々と語り合い、
祭司や学者や、教師達と問答をしたことは、新約聖書に語り伝えられている通りです。
その時私は、メシヤとしての資格を天より与えられました。
私が賢く育てられなかったならば、
私はメシヤとしての資格を取り上げられたかも知れないのです。
天は何時も使命を与えるものの智恵と人格を験されます。
【もしミカエル佳子嬢が高橋信次氏に次ぐメシヤであると定められていたならば、
いろいろな面でイエス様と比べなければならないのです。
ブッタ様と比しても遜色の無い立派な方でなければなりません。
しかるにその逆の在り方を示されました。
"イエスもブッタもモーセも説かなかった法を説きます"と不遜にも宣言され、
破壊的な行動の数々を示されたのです。
僅か二十歳で悟りを得、人を導くことなど出来ません。
天の声を仲介して霊能者としてなら出来るでしょう。
それ以上ではないことを天は示し、心ある者はG会に属しながらも見抜きました。
しかしながら、全体としてのG会は頑なに真実を拒み続け、
高橋信次氏が後継者と紹介され、霊能が優れているという点のみに惑わされて、
次なるメシヤとしてミカエル佳子嬢を信奉したのです。
しかしミカエル、この私は既に外部におり、G会は私の名を冠した偽天使を崇め、
その言葉の一つ一つが如何に非常識で、陳腐なものであろうと、お言葉を賜る度に感涙にむせび、
大の大人が愚かしい言動を恥知らずのように披瀝し、天上界と私に恥を来らしめたのです。
著された本にしても、一巻、二巻はK・Hなる作家が書かれ、
三巻目の本は高橋信次氏の遺稿より抜き書きして、
多分高橋信次氏の助力により、ミカエル佳子嬢が編纂されました。
人類を救うべく使命を受けた方がこのような偽りの履歴を作るでしょうか。
それらの本が意義深く立派なものであるとすれば、
それはこの私がミカエル佳子嬢を通じて語った第一巻、地獄篇なるものと、
高橋信次氏遺稿の第三巻、黙示篇のみでしょう。
この方はイエス様の如くご自身で人を救っておられますか。病を癒していられますか。
もしそうであるとすれば、高橋信次氏がお子様を哀れと思い、手助けをなさったのでしょう。
(偽者であることの証に私達は助力しませんでした。)
そしてそれは私達天上界への裏切りであり、
高橋信次氏はその一方で千乃裕子様及び七大天使の生命を狙い、危くせしめた。
その為、お生命を落され、永遠に帰らぬものとなられましたが。私達には理解出来ぬことです。
高橋信次氏が何故ご自身の非を素直に、あくまでミカエル佳子嬢は後継者、とした場合に
人類を御自身に次いで救うだけの人格と智慧が無いことを主張されなかったのか。
振返ってみれば、昨年六月より八月初めまでの二ヶ月に満たぬ月日だけでした。
G会に御自分で呼びかけ誤りを正して歩かれたのは。
後は表面と裏面と別の行動を取っていられたのです。
それ故ミカエル佳子嬢は少しもお悟りにならず、
御自分がサタンに踊らされていることも気付かれなかったのでしょう。気の毒とは思います。
しかし天上界の真実、正義とは、そのような軽薄なものではありません。
天上界はGLA解散を命じます。新興宗教団体となるのは許されておりません。
まず同会が世の範となるのです。宗教団体の無意味であることが充分示されました。
同会はその責任を取り解散すべきであることを天は望みます。
そして他の諸々の、人間が人間を導く俗人の団体に過ぎぬ新興宗教、及び既成宗派も、
解散しなければなりません。
天の認めるものは只原始仏教、原始キリスト教に準ずる、
浄化された、聖霊に導かれる宗派のみです。
数え、突き詰めてゆけば、五、六種類のものしか残らなくなるでしょう。
私はここに名を挙げませんが、時と共にそれらは自然に解体してゆくでしょう。
それは今より後、五、六百年以内に実現するのです ー ミカエル大天使長。】
私は長ずるに従い、人の生きる道、死の苦しみ、病の癒し、などについての疑問が湧き、
その疑いを晴らす為、自分で考えもし、人に聞いてみたりもしました。
答えは私の頭の中に自然に浮かんで来ました。
十二歳の時に教師達と問答した時のようにです。
父は厳格な人でしたが、信仰心厚く、母マリヤは優しい一方の人で、
子供達の面倒をよく見て下さいました。
十六歳の頃の私は、弟たちと妹の世話をし、父ヨセフの大工としての仕事を手伝いつつ、
暇があれば読書に耽り、ギリシャ語の勉強をしたり、或いは旧約の教典を学びました。
翌年の暮に父が病を得て亡くなってからは、私が働き、家族を養いました。
それでも天なる父については学び続けました。
史実としては伝えられておりませんが、私もまた一人の人間としてこの地球上に一生を終え、
聖書に録されてあるような、神格化された人格を貫き、
生き方を必ずしもした者ではないことを明らかにしなければなりません。
奇跡や証は、私が天上より使命を帯びた者として、世に知らされたに過ぎないのです。
人の生き方、人生観、哲学は、人一人一人によりそれぞれ異なると思いますが、
やはり悟りを得て人類の為の使命を感じ、それを果すべく働き出すまでには年月があり、
人生における経験もいろいろ経なければならないのです。
初めから神として存在し、肉の衣を着ながら、神として崇め讃えられたならば、
悟りも使命感も現実のものとして自分のものとはならないでしょう。
幼少の頃の高慢な思いは厳しく戒められました。
私は使命を与えられ、荒野にて真の悟りを得る為修業をし、サタンとの精神の戦いに打ち克ち、
その後、三十歳から三年の間、ガリラヤ湖周辺からカペナウム、エルサレムと福音を宣べ伝え、
そこに於て十字架に掛けられ死刑に処せられました。
しかしそこに私の使命が終わったのではなく、その後の、死から蘇った復活に於て、
神の大いなる力が働き、人々に示されたのです。
そして私の伝道した神の福音、人々に幸福を約する神の知らせが、これにより成就したのです。
私がもし死んだままであったなら、復活をしなかったならば、
弟子達は私が神の子であり福音を宣べ伝える為に生まれ、生涯を終えたことを、
神の定め給う救世主であることを、信じることが出来なかったでしょう。
私が十字架に磔にされた時、救いの手が伸べられなかったのを見て、
弟子達は私に疑いを生じたのです。
まことに神より使わされたものとして、あれ程多くの奇跡と証を目の当りに見聞きして、
尚只一つのことに於て、今までの信仰を失いかけました。
このことは人の心の動き易さ、正しきものを否定する心の強さ、
の証明となるものではありませんか。
直ぐ信じ、直ぐ疑い、誤った結論には何時もその信念を保つのです。
私を十字架に付けたユダヤ人、ローマの兵士達がそうです。
恐ろしい程の顕現を私の死の直後に目の当りに見て、人々は神の怒りではないかと、
やっと思いました。
それ程人々は神からの大いなる証を待つのです。
そしてその反面、サタンや悪霊に強く災いされるのです。
千乃裕子様の著された『天国の扉』も同じ目に遭いました。
初めにそれを天上の書と信じた人々が、サタンが跳梁し働きかけると、
その意見を翻し反対派になりました。
本の中に如何に多くの奇跡が証されても、ユダと同じような裏切り者の言葉に翻弄され、
その言葉に左右されるのです。
私は千乃様がお痛わしく思います。
何の為にルシファーを天上界に上げ、地獄を失くしたのでしょう。
人々の重荷を軽くする為ではなかったのでしょうか。
その為身体を傷められ、二度、三度サタンに襲われ傷付けられて、
人々と会うのも叶わぬ程弱られました。
この本が出来上がるまでに過労の為、
すでにもう一度肉体の死を迎えんとされ、
私イエスが臨終の床より蘇らせしめて、そして再び天上のお役に立つ御本を書けるようになる為に、
守護・指導霊として、ラファエル大天使と、ミカエル大天使長が、
日々エネルギーを与え、生命を与えられているのです。
そして後継者として充分な働きが出来ぬ為、
ミカエル様並びに大天使方、そして私達も先頭に立って働き、人々に呼びかけているのです。
今は千八百年前に行われるべくして行われなかった、
そしてやはり避けようとして避け得られなかった最後の審判の時に当り、
行いの正しくない人々、心に於て、言葉に於て偽善を行う人、
学者でありながら正しく真理を見抜けぬ人、真理に従わぬ人、サタンに仕え神に逆らう人、
罪と破壊を生み出す人、神の教えを説きながら自分が神であると思い上がる人、
一つの天に繋がるものでありながらそれぞれの神が唯一の神であると信じ疑わない盲目の人々、
一つの宗教を導く者でありながら、人々の多額の寄進や贈り物で肥えたり、
富める者であるかの如く振舞う人々、傲り高ぶる人、
おおよそ古代より禁じられている戒めを破る者 ー
これらの人々が篩にかけられ、裁かれているのです。
神の裁きはどのような形で表れるかは知らされておりません。
凡そ千八百八十年ほど前にパトモスのヨハネにより表された
黙示の書に録されている如くなされるには、地上の条件が悪く、人々の理解の方法も異なり、
神の意志が行われ難いのです。
裁きは静かな形で行われております。
その代り神の徴は至る所にあり、黙示とは違った形で奇跡が人々に示されております。
そして神の怒りに触れた人々(天上界の意志と御計画に反する人々の意です ー 編者)
は速やかにその生命を奪われてゆくのです。
私は神の許しを得た人々を呼び集め、天国の扉を大きく開き、迎え入れます。
その為この書に証された最後の審判の後、私がこうして最後の福音を宣べ伝えているのです。
すべて罪に定められた人々は、大天使方の手によりその刑に処せられます。
それは予言の書にも明らかにされておりません。
しかし千八百年前の黙示によって示された事柄のすべてを充分に理解することなく、
反省無き人類が齎した末法という世に必然のこととして、
貴方がたが伏して受け入れねばならないことです。
私を十字架に付けたユダヤの民とローマ人のみが償うべき事柄ではないのです。
罪はもっと大きいものです。
私を通じて知り得た神の恵みと光を、私を知る者も知らぬ者にも等しく与え、
許しと守護が裁きを通じて、又その後も変らずあるようにと願い祈っております。
しかしひとりキリスト教を信ずる者のみ、
又ブッタ様を信じ慕う仏教徒のみが救われるのではありません。
宗教を通じ、神の教えに与る人のみがその恵みに与るのではありません。
すべて平等に罪を裁かれ、許しを得、救いに与る機会を与えられていることを
この私イエスは神々の前に、私の子羊である人々の前に、
ブッタ様や他のあらゆる光の大指導霊に導かれた人々の前に誓います。
一人一人が知る者も知らぬ者も神と繋がれており、その行いが注目され、
学なき人も心が正しく清ければ、その訴えが切なるものであれば、救いがあるのです。
謙譲な心で己を高しとせず、神々の御意志と裁きに自分を委ねるならば、
慈悲は正しく与えられます。
何故天が無慈悲に裁きましょう。すべてを秤にかけて裁くとは、このことを指すのです。
それでは暗い罪と裁きのお話から、未来を受継ぐものとなる小さき子供達の教育について、
母なる人及び父なる方々にお話し致しましょう。
私が先程述べた如く、宗教や宗派や、それを信じ神に従う人のみに、
恵みと光と守護はあるものではないことを改めて申しましょう。
何故宗教宗派に属さない人々にも、と申しますと、
同じ考えや意見を持つ人々が集まると、心強くなり、
どうしてもそのうちに私達こそが唯一の宗教であり選ばれた者であると思いたくなるのです。
私の時代にもその流れがありました。そして人種や階級の差別がそれ故に出来ておりました。
ブッタ様の時代も同じです。
それを失くす為、私の生きている間にあらゆる人を出来る限り正しい方へ向けたのです。
そして今の世に至り、宗教上の差別が人種の差別と宗派同士の敵対、といった形で残され、
もう一度一つにまとめねばならない必要が出てきました。
いろいろな宗派がある方が世の混乱を招き、人の惑わしになるのは何時の世でも同じことです。
余りに多くの宗派が出来たのです。
そしてどれも自分達の宗教だけが真の宗教であると信じ込み、又人にそう説きました。
その間違いを正す為、高橋信次氏が世に出られ、言葉を以て、著書を以て人々に語りかけ、
又千乃裕子様がそれに続いて、書を通じて正してゆかれているのです。
三十年後に天上界は、私イエスの転生の働きを予定しており、
(千乃様が死なれて後、即ち五年後に合体致します)そして十七年後には、
一九七九年にモーセ様が合体される方が、男子ですが悟りを得られることを予定しております。
しかしメシヤとしてではないのです。
高橋信次氏も千乃裕子様も、私もブッタ様も、モーセ様も、
メシヤとして崇め慕ってはなりません。
偶像視してもいけません。
すべてそれが個人である場合には人を救う神とはならないのです。
天に在る神々の意志と計画のみが人類を救うのです。
その為にはこう考えるべきでしょう。
"我は救いなり、真理(まこと)なり"と私が申したのは、
寧ろキリスト教に於て説かれている三位一体の教理に沿って、
この"我"は天上界のすべてを表すもの、
即ち父なる神により代表される天上と、
聖霊即ち天上界のすべての高次元の霊と、
そしてこの私の一体となったものだ、というようにです。
そして今まで種々の光の天使、或いは光の大指導霊の転生により、説かれてきた良き教え ー
それを徳を高め、魂を養うものとして身に付け、
子供達に日々の生活を通して教え導いて頂きたいのです。
今大きく力を持ち、多くの信仰者を集めており、神の教えを説き、
神の奇跡を現すと宣べ伝えている団体では、上の指導者達は必ずそれを職業にしており、
決して親身になって心から人を救う為に慈悲を分かち、愛を与えてはおりません。
それを為すのは却って、その団体に集まる人々であり、
敬虔な心で以て隣人への労りや奉仕を為すのは、
この団体を支えている下の方の人達である場合が多いのです。
政治に進出して、この国を支配する権利を、
信徒の支持で得ようとする野望を持つ指導者もおります。
そしてそれが正しき形の信仰を持たぬ宗派なのです。
高価なものを、昔であるならば金銀を、賄賂(まいない)のように受け取り、
富める者のように身なりを整え、生活する牧師もおります。
サタンに魂を売り、この世の地位や名声や富に仕える者となったのです。
キリスト教から別れた宗派は数多くあり、極端なものは悪魔教のようなものにまでなっています。
信仰する者すべてが悪霊に冒されるのです。
仏教から別れたものはブッタ様の教えから遠く離れてしまい、
僧侶の宗教と化してしまったものもあるのです。
奇術のように特技を人々の前に披露し、その技を誇るかの如く見える者。霊言、異言を誇る者。
このように見ていっても、歴史の上でも教義の上でも、
信仰から身に付くべき筈のものである、人間の神への義務や徳として備わるものが、
上の指導者からそのようなものが伝わらなければ、
下にいる人達は何を学んで良いか解らなくなるのです。
そして人々が多く集まる時、それが余計に難しくなるのです。
魂の救いを求めても、只の人間であるならばその人を救うことは出来ず、
宗教と魂の救いとは別のものになってしまいます。
又肉体が病み、医者に相談しなければならぬのに、
霊の問題として宗教家に話しても、何時まで経っても治らない場合もあるのです。
何故ならば、肉体について神の力による癒しは限りがあり、すべて治せるとは言えないのです。
そのように宗教というものは、生活の中に、生きてゆく上に大切ではあっても、
すべてを捧げて一生を終えるほどのものではないのです。
人を救う為に使命を与えられた者は別なのですが、普通の人はその
神に対する敬虔な心を謙譲に、
神に対する愛を隣人に、
神の国の美しさと正義と平和をこの世にそのまま保ち、
又作るようにお互いに努力してゆくことが、
神への信仰をこの地上に形として表したものと言えましょう。
反対に神に祈りを奉げることや、経を読むことや礼拝や儀式に一日の何時間かを用いたり、
週の半分を当てたりすることは、少しも日々の暮らしの役に立ちません。
それは空気を食事の代りに食べているようなものです。
神と人との個々の繋がりをはっきり知っていれば、いつも礼拝に時間を取る必要はないのです。
その時間があれば他の仕事や勉強をなさい。
ということは、人々にとって自然の中で神と語る、
その喜びを知る以外に信仰の心を無理に持つことも、
宗派の一員となることも本当は必要がないということです。
祈らないからといって神は罰し給わないのです。
心貧しく清く、愛と慈悲の心が豊かにあれば。
そして又、いま人に道を説く宗教者は、
無論同じ徳を身に付けていなければその資格はありません。
小さな礼拝堂、礼拝所で済むものを、大きく立派な教会を建てれば建てる程、
その牧師の価値が増し、人の尊敬を集めるというようなこと、
新興宗教の教祖という訳の解らない名前を与えられ、
心が驕ってしまった人が、立派な学校や会館を建て、
信者の数を何千万、何億と増やすことが徳であると崇められるような宗教者は
私にとってはパリサイ人であり、サタンの誘惑に負けた人々でしかありません。
それをお父様方、お母様方はよく見分け、賢者の智恵を以て、
つまらない宗教にすべてを奉げたり、
価値のない宗教者を崇拝したりすることで、
お子様達に同じようなことを教えないで頂きたいと思います。
徳というものはどのような賢者の本からでも学ぶことが出来ます。
おおよそ人の道、この世の法に適うものは徳なのです。
そして愛の真の形を知れば、
それによって如何なる罪も、努力すれば許し、忘れることが出来るでしょう。
愛が人々の心を潤すものとなって調和が作られ、その精神が破壊や悪を避けさせ、斥け、
平和を人々の心と地上に作ってゆくことが出来るでしょう。
勿論、学ぶことも疎(おろそ)かにしてはいけません。
学べば学ぶ程、人生の豊かさ、味わいの深さ、
人の心のいろいろな良い面、悪い面も解ってくるのです。
それだけ賢明な人となれます。
正しく知識を身につけることにより判断の確かさが養えるのです。
勿論他のことをせずにそればかりに熱中するのも人格としては中庸を欠くものとなりますが。
愚かしく人生を過し、怠惰な日々を送る人に天上の光は当りません。 それは日陰の人生なのです。
闇を愛する人生といってよいでしょう。
"愛とは何か、正義とは何か、信義とは何か"
これがこの度の末法の世に与えられた天上よりの三つの柱です。
"愛と希望と信仰"は二千年前のもので、人々はそれを見失いかけています。
それを救うのは、新しくするのは、"愛と正義と信義"即ちこの三つの言葉なのです。
それをよく覚えて、この乱れ腐敗した世に新鮮な息吹きを齎し、
人間の手で、お互いの力で、善なる心と平和を愛する心を見出し、
その障害となるものを一つずつ取り除いて行って下さることを、私は心より願い祈っております。
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様