第四章 イエス・キリストの章
 私イエスは凡そ二千年前(紀元前六年)に、ユダヤのベツレヘムという町に生まれ、
その時、ヘロデ王という悪政で名を轟かせたユダヤの王が、
ユダヤ人を救う救世主の誕生の予言が真実であるらしいと学者達、祭司達、予言者達より聞き出し、
それを恐れて二歳以下の男子を生まれたての嬰児も含めて斬殺するよう命令を出したのです。
 その時私はガブリエルという大天使に母マリヤ、父ヨセフと共に導かれて、
エジプトの地に逃れ、生き延びました。
 ガブリエル大天使は私の母マリヤに受胎告知をしたことで、
キリスト教の聖書にも記述されてあり、よく知られています。

 私イエスには母の胎内にあって既に、
天上界より降りてこられたビルナビルと言われる立派な方が合体され、
この方はベー・エルデ星より来たった王の第二子で養子でした。

注。
 普通は三ヶ月まで合体霊は降りません。受胎告知と同時にマリヤ様の中に入られたので、
"聖霊によりて妊り"と天上界より知らせを受けたのです(原注)。

 イエス様のお言葉に、生まれる前から神と共にあったというのは、
霊として天上界に在った神の子が受肉したという意味ではなく、生まれる前、
即ち胎児であった時から天上界高次元の聖霊が合体されていたという意味でした。
 イエス・キリストという(天上界が救世主と認めた)御人格が、
この世に生まれて来る前から神の子としての人格を持った存在として天に在った
という意味ではありません。

 そしてミカエル大天使長、即ちすべての天使の長(おさ)であられる方が
守護・指導霊となり私の生涯を通じて主の道に沿い、人々を教え導く為意識に働きかけ、
悟りへと導かれたのです。合体されたビルナビル様と共にでした。
 その後、ヘロデ王の死と共にガリラヤの町にあるナザレという所に帰り、
幼時を三人の弟と一人の妹と共に過ごしました。
 十二歳になった時母マリヤはもう一人の弟を生みましたが、
その弟が生後五ヶ月になった時、その嬰児(みどりご)を連れ、
両親と私と八人で過越の祭りを聖地で過ごす為、エルサレムという寺院のある町に上り、
そこで私は学者に留められ、両親達は知らずに帰ってしまいました。
 そこで仕方なく、三日の間、宮の中でいろいろな人々と語り合い、
祭司や学者や、教師達と問答をしたことは、新約聖書に語り伝えられている通りです。
 その時私は、メシヤとしての資格を天より与えられました。
 私が賢く育てられなかったならば、
私はメシヤとしての資格を取り上げられたかも知れないのです。
 天は何時も使命を与えるものの智恵と人格を験されます。

もしミカエル佳子嬢が高橋信次氏に次ぐメシヤであると定められていたならば、
いろいろな面でイエス様と比べなければならないのです。
 ブッタ様と比しても遜色の無い立派な方でなければなりません。
 しかるにその逆の在り方を示されました。
 "イエスもブッタもモーセも説かなかった法を説きます"と不遜にも宣言され、
破壊的な行動の数々を示されたのです。
 僅か二十歳で悟りを得、人を導くことなど出来ません。
 天の声を仲介して霊能者としてなら出来るでしょう。
 それ以上ではないことを天は示し、心ある者はG会に属しながらも見抜きました。
 
 しかしながら、全体としてのG会は頑なに真実を拒み続け、
高橋信次氏が後継者と紹介され、霊能が優れているという点のみに惑わされて、
次なるメシヤとしてミカエル佳子嬢を信奉したのです。
 しかしミカエル、この私は既に外部におり、G会は私の名を冠した偽天使を崇め、
その言葉の一つ一つが如何に非常識で、陳腐なものであろうと、お言葉を賜る度に感涙にむせび、
大の大人が愚かしい言動を恥知らずのように披瀝し、天上界と私に恥を来らしめたのです。

 著された本にしても、一巻、二巻はK・Hなる作家が書かれ、
三巻目の本は高橋信次氏の遺稿より抜き書きして、
多分高橋信次氏の助力により、ミカエル佳子嬢が編纂されました。
 人類を救うべく使命を受けた方がこのような偽りの履歴を作るでしょうか。
 それらの本が意義深く立派なものであるとすれば、
それはこの私がミカエル佳子嬢を通じて語った第一巻、地獄篇なるものと、
高橋信次氏遺稿の第三巻、黙示篇のみでしょう。
 この方はイエス様の如くご自身で人を救っておられますか。病を癒していられますか。
 もしそうであるとすれば、高橋信次氏がお子様を哀れと思い、手助けをなさったのでしょう。
 (偽者であることの証に私達は助力しませんでした。)

 そしてそれは私達天上界への裏切りであり、
高橋信次氏はその一方で千乃裕子様及び七大天使の生命を狙い、危くせしめた。
 その為、お生命を落され、永遠に帰らぬものとなられましたが。私達には理解出来ぬことです。
 高橋信次氏が何故ご自身の非を素直に、あくまでミカエル佳子嬢は後継者、とした場合に
人類を御自身に次いで救うだけの人格と智慧が無いことを主張されなかったのか。

 振返ってみれば、昨年六月より八月初めまでの二ヶ月に満たぬ月日だけでした。
 G会に御自分で呼びかけ誤りを正して歩かれたのは。
 後は表面と裏面と別の行動を取っていられたのです。
 それ故ミカエル佳子嬢は少しもお悟りにならず、
御自分がサタンに踊らされていることも気付かれなかったのでしょう。気の毒とは思います。

 しかし天上界の真実、正義とは、そのような軽薄なものではありません。
 天上界はGLA解散を命じます。新興宗教団体となるのは許されておりません。
 まず同会が世の範となるのです。宗教団体の無意味であることが充分示されました。
 同会はその責任を取り解散すべきであることを天は望みます。
 そして他の諸々の、人間が人間を導く俗人の団体に過ぎぬ新興宗教、及び既成宗派も、
解散しなければなりません。

 天の認めるものは只原始仏教、原始キリスト教に準ずる、
浄化された、聖霊に導かれる宗派のみです。
 数え、突き詰めてゆけば、五、六種類のものしか残らなくなるでしょう。
 私はここに名を挙げませんが、時と共にそれらは自然に解体してゆくでしょう。
 それは今より後、五、六百年以内に実現するのです ー ミカエル大天使長

 私は長ずるに従い、人の生きる道、死の苦しみ、病の癒し、などについての疑問が湧き、
その疑いを晴らす為、自分で考えもし、人に聞いてみたりもしました。
 答えは私の頭の中に自然に浮かんで来ました。
 十二歳の時に教師達と問答した時のようにです。

 父は厳格な人でしたが、信仰心厚く、母マリヤは優しい一方の人で、
子供達の面倒をよく見て下さいました。
 十六歳の頃の私は、弟たちと妹の世話をし、父ヨセフの大工としての仕事を手伝いつつ、
暇があれば読書に耽り、ギリシャ語の勉強をしたり、或いは旧約の教典を学びました。
 翌年の暮に父が病を得て亡くなってからは、私が働き、家族を養いました。
 それでも天なる父については学び続けました。
 史実としては伝えられておりませんが、私もまた一人の人間としてこの地球上に一生を終え、
聖書に録されてあるような、神格化された人格を貫き、
生き方を必ずしもした者ではないことを明らかにしなければなりません。
 奇跡や証は、私が天上より使命を帯びた者として、世に知らされたに過ぎないのです。
 
 人の生き方、人生観、哲学は、人一人一人によりそれぞれ異なると思いますが、
やはり悟りを得て人類の為の使命を感じ、それを果すべく働き出すまでには年月があり、
人生における経験もいろいろ経なければならないのです。
 初めから神として存在し、肉の衣を着ながら、神として崇め讃えられたならば、
悟りも使命感も現実のものとして自分のものとはならないでしょう。

 幼少の頃の高慢な思いは厳しく戒められました。

 私は使命を与えられ、荒野にて真の悟りを得る為修業をし、サタンとの精神の戦いに打ち克ち、
その後、三十歳から三年の間、ガリラヤ湖周辺からカペナウム、エルサレムと福音を宣べ伝え、
そこに於て十字架に掛けられ死刑に処せられました。
 しかしそこに私の使命が終わったのではなく、その後の、死から蘇った復活に於て、
神の大いなる力が働き、人々に示されたのです。
 そして私の伝道した神の福音、人々に幸福を約する神の知らせが、これにより成就したのです。

 私がもし死んだままであったなら、復活をしなかったならば、
弟子達は私が神の子であり福音を宣べ伝える為に生まれ、生涯を終えたことを、
神の定め給う救世主であることを、信じることが出来なかったでしょう。
 
 私が十字架に磔にされた時、救いの手が伸べられなかったのを見て、
弟子達は私に疑いを生じたのです。
 まことに神より使わされたものとして、あれ程多くの奇跡と証を目の当りに見聞きして、
尚只一つのことに於て、今までの信仰を失いかけました。
 このことは人の心の動き易さ、正しきものを否定する心の強さ、

の証明となるものではありませんか。
 直ぐ信じ、直ぐ疑い、誤った結論には何時もその信念を保つのです。

 私を十字架に付けたユダヤ人、ローマの兵士達がそうです。
 恐ろしい程の顕現を私の死の直後に目の当りに見て、人々は神の怒りではないかと、
やっと思いました。
 それ程人々は神からの大いなる証を待つのです。
 そしてその反面、サタンや悪霊に強く災いされるのです。
 
 千乃裕子様の著された『天国の扉』も同じ目に遭いました。
 初めにそれを天上の書と信じた人々が、サタンが跳梁し働きかけると、
その意見を翻し反対派になりました。
 本の中に如何に多くの奇跡が証されても、ユダと同じような裏切り者の言葉に翻弄され、
その言葉に左右されるのです。
 私は千乃様がお痛わしく思います。
 何の為にルシファーを天上界に上げ、地獄を失くしたのでしょう。
 人々の重荷を軽くする為ではなかったのでしょうか。

 その為身体を傷められ、二度、三度サタンに襲われ傷付けられて、
人々と会うのも叶わぬ程弱られました。
 この本が出来上がるまでに過労の為、
すでにもう一度肉体の死を迎えんとされ、
私イエスが臨終の床より蘇らせしめて、そして再び天上のお役に立つ御本を書けるようになる為に、
守護・指導霊として、ラファエル大天使と、ミカエル大天使長が、
日々エネルギーを与え、生命を与えられているのです。
 そして後継者として充分な働きが出来ぬ為、
ミカエル様並びに大天使方、そして私達も先頭に立って働き、人々に呼びかけているのです。

 今は千八百年前に行われるべくして行われなかった、
そしてやはり避けようとして避け得られなかった最後の審判の時に当り、
行いの正しくない人々、心に於て、言葉に於て偽善を行う人、

学者でありながら正しく真理を見抜けぬ人、真理に従わぬ人、サタンに仕え神に逆らう人、
罪と破壊を生み出す人、神の教えを説きながら自分が神であると思い上がる人、
一つの天に繋がるものでありながらそれぞれの神が唯一の神であると信じ疑わない盲目の人々、
一つの宗教を導く者でありながら、人々の多額の寄進や贈り物で肥えたり、
富める者であるかの如く振舞う人々、傲り高ぶる人、

おおよそ古代より禁じられている戒めを破る者
これらの人々が篩にかけられ、裁かれているのです。


 神の裁きはどのような形で表れるかは知らされておりません。
 凡そ千八百八十年ほど前にパトモスのヨハネにより表された
黙示の書に録されている如くなされるには、地上の条件が悪く、人々の理解の方法も異なり、
神の意志が行われ難いのです。
 裁きは静かな形で行われております。
 その代り神の徴は至る所にあり、黙示とは違った形で奇跡が人々に示されております。
 そして神の怒りに触れた人々(天上界の意志と御計画に反する人々の意です ー 編者)
は速やかにその生命を奪われてゆくのです。
 私は神の許しを得た人々を呼び集め、天国の扉を大きく開き、迎え入れます。
 その為この書に証された最後の審判の後、私がこうして最後の福音を宣べ伝えているのです。
 すべて罪に定められた人々は、大天使方の手によりその刑に処せられます。
 それは予言の書にも明らかにされておりません。

 しかし千八百年前の黙示によって示された事柄のすべてを充分に理解することなく、
反省無き人類が齎した末法という世に必然のこととして、
貴方がたが伏して受け入れねばならないことです。
 私を十字架に付けたユダヤの民とローマ人のみが償うべき事柄ではないのです。
 罪はもっと大きいものです。

 私を通じて知り得た神の恵みと光を、私を知る者も知らぬ者にも等しく与え、
許しと守護が裁きを通じて、又その後も変らずあるようにと願い祈っております。
 しかしひとりキリスト教を信ずる者のみ、
又ブッタ様を信じ慕う仏教徒のみが救われるのではありません。
 宗教を通じ、神の教えに与る人のみがその恵みに与るのではありません。

 すべて平等に罪を裁かれ、許しを得、救いに与る機会を与えられていることを
この私イエスは神々の前に、私の子羊である人々の前に、
ブッタ様や他のあらゆる光の大指導霊に導かれた人々の前に誓います。
 一人一人が知る者も知らぬ者も神と繋がれており、その行いが注目され、

学なき人も心が正しく清ければ、その訴えが切なるものであれば、救いがあるのです。
 謙譲な心で己を高しとせず、神々の御意志と裁きに自分を委ねるならば、

慈悲は正しく与えられます。
 何故天が無慈悲に裁きましょう。すべてを秤にかけて裁くとは、このことを指すのです。

 それでは暗い罪と裁きのお話から、未来を受継ぐものとなる小さき子供達の教育について、
母なる人及び父なる方々にお話し致しましょう。
 私が先程述べた如く、宗教や宗派や、それを信じ神に従う人のみに、
恵みと光と守護はあるものではないことを改めて申しましょう。

 何故宗教宗派に属さない人々にも、と申しますと、
同じ考えや意見を持つ人々が集まると、心強くなり、
どうしてもそのうちに私達こそが唯一の宗教であり選ばれた者であると思いたくなるのです。

 私の時代にもその流れがありました。そして人種や階級の差別がそれ故に出来ておりました。
 ブッタ様の時代も同じです。
 それを失くす為、私の生きている間にあらゆる人を出来る限り正しい方へ向けたのです。
 そして今の世に至り、宗教上の差別が人種の差別と宗派同士の敵対、といった形で残され、
もう一度一つにまとめねばならない必要が出てきました。
 いろいろな宗派がある方が世の混乱を招き、人の惑わしになるのは何時の世でも同じことです。
 余りに多くの宗派が出来たのです。
 そしてどれも自分達の宗教だけが真の宗教であると信じ込み、又人にそう説きました。
 その間違いを正す為、高橋信次氏が世に出られ、言葉を以て、著書を以て人々に語りかけ、
又千乃裕子様がそれに続いて、書を通じて正してゆかれているのです。

 三十年後に天上界は、私イエスの転生の働きを予定しており、
(千乃様が死なれて後、即ち五年後に合体致します)そして十七年後には、
一九七九年にモーセ様が合体される方が、男子ですが悟りを得られることを予定しております。
 しかしメシヤとしてではないのです。
 高橋信次氏も千乃裕子様も、私もブッタ様も、モーセ様も、
メシヤとして崇め慕ってはなりません。
 偶像視してもいけません。

 すべてそれが個人である場合には人を救う神とはならないのです。
 天に在る神々の意志と計画のみが人類を救うのです。


 その為にはこう考えるべきでしょう。
 "我は救いなり、真理(まこと)なり"と私が申したのは、
寧ろキリスト教に於て説かれている三位一体の教理に沿って、
この"我"は天上界のすべてを表すもの、
即ち父なる神により代表される天上と、
聖霊即ち天上界のすべての高次元の霊と
そしてこの私の一体となったものだ、というようにです。

 そして今まで種々の光の天使、或いは光の大指導霊の転生により、説かれてきた良き教え ー
それを徳を高め、魂を養うものとして身に付け、
子供達に日々の生活を通して教え導いて頂きたいのです。
 今大きく力を持ち、多くの信仰者を集めており、神の教えを説き、
神の奇跡を現すと宣べ伝えている団体では、上の指導者達は必ずそれを職業にしており、
決して親身になって心から人を救う為に慈悲を分かち、愛を与えてはおりません。
 それを為すのは却って、その団体に集まる人々であり、
敬虔な心で以て隣人への労りや奉仕を為すのは、
この団体を支えている下の方の人達である場合が多いのです。

 政治に進出して、この国を支配する権利を、
信徒の支持で得ようとする野望を持つ指導者もおります。
 そしてそれが正しき形の信仰を持たぬ宗派なのです。
 高価なものを、昔であるならば金銀を、賄賂(まいない)のように受け取り、
富める者のように身なりを整え、生活する牧師もおります。
 サタンに魂を売り、この世の地位や名声や富に仕える者となったのです。
 キリスト教から別れた宗派は数多くあり、極端なものは悪魔教のようなものにまでなっています。
 信仰する者すべてが悪霊に冒されるのです。
 仏教から別れたものはブッタ様の教えから遠く離れてしまい、
僧侶の宗教と化してしまったものもあるのです。
 奇術のように特技を人々の前に披露し、その技を誇るかの如く見える者。霊言、異言を誇る者。

 このように見ていっても、歴史の上でも教義の上でも、
信仰から身に付くべき筈のものである、人間の神への義務や徳として備わるものが、
上の指導者からそのようなものが伝わらなければ、
下にいる人達は何を学んで良いか解らなくなるのです。
 そして人々が多く集まる時、それが余計に難しくなるのです。
 魂の救いを求めても、只の人間であるならばその人を救うことは出来ず、
宗教と魂の救いとは別のものになってしまいます。


 又肉体が病み、医者に相談しなければならぬのに、
霊の問題として宗教家に話しても、何時まで経っても治らない場合もあるのです。
 何故ならば、肉体について神の力による癒しは限りがあり、すべて治せるとは言えないのです。
 そのように宗教というものは、生活の中に、生きてゆく上に大切ではあっても、
すべてを捧げて一生を終えるほどのものではないのです。
 
 人を救う為に使命を与えられた者は別なのですが、普通の人はその
神に対する敬虔な心を謙譲に、
神に対する愛を隣人に、
神の国の美しさと正義と平和をこの世にそのまま保ち、
又作るようにお互いに努力してゆくことが、
神への信仰をこの地上に形として表したもの
と言えましょう。

 反対に神に祈りを奉げることや、経を読むことや礼拝や儀式に一日の何時間かを用いたり、
週の半分を当てたりすることは、少しも日々の暮らしの役に立ちません。
 それは空気を食事の代りに食べているようなものです。
 神と人との個々の繋がりをはっきり知っていれば、いつも礼拝に時間を取る必要はないのです。
 その時間があれば他の仕事や勉強をなさい。
 ということは、人々にとって自然の中で神と語る、
その喜びを知る以外に信仰の心を無理に持つことも、
宗派の一員となることも本当は必要がないということです。
 祈らないからといって神は罰し給わないのです。
 心貧しく清く、愛と慈悲の心が豊かにあれば。

 そして又、いま人に道を説く宗教者は、
無論同じ徳を身に付けていなければその資格はありません。
 小さな礼拝堂、礼拝所で済むものを、大きく立派な教会を建てれば建てる程、
その牧師の価値が増し、人の尊敬を集めるというようなこと、
新興宗教の教祖という訳の解らない名前を与えられ、
心が驕ってしまった人が、立派な学校や会館を建て、
信者の数を何千万、何億と増やすことが徳であると崇められるような宗教者は
私にとってはパリサイ人であり、サタンの誘惑に負けた人々でしかありません。

 それをお父様方、お母様方はよく見分け、賢者の智恵を以て、
つまらない宗教にすべてを奉げたり、
価値のない宗教者を崇拝したりすることで、
お子様達に同じようなことを教えないで頂きたいと思います。
 徳というものはどのような賢者の本からでも学ぶことが出来ます。
 おおよそ人の道、この世の法に適うものは徳なのです。

 そして愛の真の形を知れば、
それによって如何なる罪も、努力すれば許し、忘れることが出来るでしょう。
 愛が人々の心を潤すものとなって調和が作られ、その精神が破壊や悪を避けさせ、斥け、
平和を人々の心と地上に作ってゆくことが出来るでしょう。


 勿論、学ぶことも疎(おろそ)かにしてはいけません。
 学べば学ぶ程、人生の豊かさ、味わいの深さ、
人の心のいろいろな良い面、悪い面も解ってくるのです。
 それだけ賢明な人となれます。
 正しく知識を身につけることにより判断の確かさが養えるのです。

 勿論他のことをせずにそればかりに熱中するのも人格としては中庸を欠くものとなりますが。
 愚かしく人生を過し、怠惰な日々を送る人に天上の光は当りません。 それは日陰の人生なのです。
 闇を愛する人生といってよいでしょう。

 "愛とは何か、正義とは何か、信義とは何か"
 これがこの度の末法の世に与えられた天上よりの三つの柱です。

 "愛と希望と信仰"は二千年前のもので、人々はそれを見失いかけています。
 それを救うのは、新しくするのは、"愛と正義と信義"即ちこの三つの言葉なのです。
 それをよく覚えて、この乱れ腐敗した世に新鮮な息吹きを齎し、
人間の手で、お互いの力で、善なる心と平和を愛する心を見出し、
その障害となるものを一つずつ取り除いて行って下さることを、私は心より願い祈っております。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法