第二部 神と人類の交流
第二章 (霊道の開かれた)古代人類に証された神の顕現と御意志、
及び真実を封印されるのも、
その解かれるべき時にそれを為す者(現天上界)も神である。
預言されたものを成就するは神であることを、神の証するに時があることを、
神が現れる時、人類は悟るであろう
二節 現天上界と古代イスラエル(「天の奇蹟」より)
アブラハムを通して天がヘブライ民族を神の民へと導くより昔、
彼等の生きたメソポタミアとは、天の計画の下、
全天上界が初めて人類の善導へと乗り出した所でした。
この地方に興きた国々の王を天上界は指導し、
賢王によって偉大な法が、文化が生まれました。
その後、イスラエルのユダヤ民族によって作られた聖書の創世記は、
ラファエル様の証言(※1)にあるように、天上界が働き掛けましたが、
その内容は、明らかに、メソポタミアのバビロニア王朝の時代に作られた、
宇宙創世記の話が土台になっています。
バビロニアでイスラエル(ヘブライ)民族が奴隷となった時代に、
バビロニアの文明をヘブライ民族が学んでいたことを著者は指摘しています。
(※1注。
「天の奇蹟・上巻」 第二章 創世
著者の質問へのラファエル様の解答より
「旧約の創世記の天地創造の由来が、
アメリカの一天文学者によって、現在は天文学者間の多数派見解となっている宇宙生成因の、
宇宙大爆発説と似通っていると主張されているそうですが、
実は私達がベー・エルデ星における科学界の通説を、
ここ地球に於て前二千五百年の聖書編纂者の意識に働き掛け、
書かせたということを改めて公表致しましょう。
神学的叙述が実は科学者の知識に支えられたものであったことをあなた方がお知りになれば、
宗教と科学はさほど遠い所にはないことに益々確信を深め、再認識をされるでしょう。※1注終)
天上界の高次元の霊が合体し、彼等の意識が伝わる、
彼等の齎す善の意識に目覚めることが可能になるまでに、
地球人類が進化した時(およそ一万年前(※2))より、人類の文明が開かれました。
(※2注。
「天の奇蹟・上巻」岩間文彌著 15頁
「洪積世から沖積世に移行するころ、文化的には旧石器時代から中石器時代へと変るころの、
今から約一万年前に、旧大陸南部の温暖湿潤地方で、狩猟採取の不安定な生活を脱した、
農耕牧畜の安定生活が開始されます。
人々は村落を作り、植物を栽培し、家畜を飼い、土器や織物を作ることなどにより、
自然を利用・コントロールするという飛躍的な進歩が人類に訪れたのです。
このころ無限の時を経て、生物進化の道程を見守っていた霊としてのベー・エルデ星人による、
人類の合体が試み始められたと「天国シリーズ」では明かされています。」※2注終)
メソポタミア地方に興きた国々の王に天上界の神々は合体し、
天上界の御意志を実現していきます。
神の法を以て民を治めようとした賢王(ウル・カギナ、グデア、ウル・ナンム、ハンムラピ等)
により"繁栄と秩序ある社会"が齎され、現代に繋がる文化が生まれました。
しかし賢王がなくなった後、王によって明らかにされた知恵を学ばなかった国民は、
やがて他国の侵略に耐えることが出来なかった。
如何なる民族も、自分の民族を愛していますが、その愛がどのような心に根差しているか、
自己愛に根差した民族愛は、他の民族を破滅させようと、
自らの民族の繁栄を、他の民族に君臨する権力を得る為なら、
他の民族の悲しみの感じない心に徹することが出来る。
サタンはそのような心を満足させる邪念を注ぐことが出来たのです。
偉大な法によって治める国家を天上界が築き上げても、
自己愛に根差した民族愛を以て自らの民族のものにせんとする侵略国家に、
耐えることが出来なかった。
偉大な国家がメソポタミアに生まれましたが、すべて滅んで行ったのです。
天上界に導かれた賢王に権力が委ねられた時、健全な国を治められても、
その民を神の民に導くことは出来ない。
何時の時代にも天に繋がる叡智によって国が治められるには、
民が神の知恵に生きる、神の意志に従う心を育てるしかない。
神の存在を、神の導きを信じる民を作る為に、一民族を神の民へと導く、
神の民によって神の国を作らせる、それが天上界の計画となりました。
"神の国を求める心"
自己愛に根差した民族愛は、善悪を判断する理性を育てない、
その理性こそ神の心であり、愛に生きる心こそ人の求めるべき心であることを理解されない、
神の思いの伝わることなくして、どうして神の心を、存在を信じ、
神を求める心に生きることが出来るでしょうか。
善悪を問う知恵の現れる理性(心)を育てる為には、
すべての人が神の法に裁かれる、理性の知る善のみが善である、
理性に従わず自己保存にとっての善は、理性による神の判断の前にあって悪とされることを、
理性が神の御心であることが理解されねばならない。
神が善であると、悪を憎むのが神であると、
神を愛する心とは善を愛する心である、故に善に生きれば神に愛されると信じられる、
神の心を知り、神の心に生きるを以て神に愛されていることを知る、
神への愛に根差した民族愛へと導くしか人を悪から、
また自らの内から来る悪から守ることは出来ない、
神への愛に基づいた民族愛へと天上界は導かれましたが、
神への愛を見失った人々は、選民意識という自己愛に堕ちて行きました。
善を愛する、神を愛する心にあってのみ(自己愛に生きるを善とする)
悪に打ち克つことが出来るのでしょう。
神への愛とは、神を父と愛する素直な心の中にのみ満たされる思い(※3)に他なりません。
ガブリエル様は、イエス様を、ブッタ様を先輩と思えばいいと仰しゃいましたが、
イエス様が、ブッタ様が歩んだ道を私達が歩むことが出来ると教える為に、
彼等を先輩と思えば良いと、彼等が天を信じたように、私達も天を信じることが出来る。
天を信じる心を、天へと導くことが彼等には出来る、イエス様をブッタ様を導いたように、
ガブリエル様はそう仰しゃっているのです。
天を信じて歩めばイエス様やブッタ様のような心へと成長することが出来ると、
一歩も歩もうとしない私達に呼び掛けられたのです。
それ程の成長を彼等は私達に望まれているのです。
彼等が為そうとしてきたこの世に神の法を齎す為に、神の国を作る為に。
彼等の思いが全く理解できない、何時までも全能の神の庇護の下に子供でいることが、
天の愛するのはそのようなは幼児だと理解する宗教を、
神の心を伝えようとしない、神の計画を阻むものと、
神に与ることを望んでいないと見限られたのです。
現象テープ№27 「正法流布について」
80年8月11日 ガブリエル様現象より
「心が挫けそうになった時は、イエス様のことを思いなさい、ブッタ様のことを思いなさい。
あなた達の偉大な先輩なのです。あの方達を、メシヤとして崇める必要はないのです。
正法者とはそのようなものです。
あなた方の先輩だと思えばいいのです。先人達は、偉大な足跡を残してゆきました。
そしてあなた方も今、その足跡を記そうとしているのです。
今はまだ、それが解らないかも知れませんが、時が経てば必ず解るでしょう。」
(※3注。
「天の奇蹟・上巻」 第一章 ヘブライ民族揺籃の地・メソポタミア
著者の質問へのラファエル様の解答より
「神という超人的力を備えた人格神に、如何なる時も救われるという希望を持ち事を為す時、
人は父親に守られた子供のように日頃出来ぬこともやる勇気が出ます。
聖書は正にその勇気を得た子供の日記でもあるでしょう。」
(イザヤ書第六十三章一四節)
月読尊の証言
ー 谷に下る家畜のように、主(ヤーウェ)の霊は、彼ら(島のユダの民)をいこわせられた。』
このように、あなた(ヤーワエ)はおのれの民を(島に)導いて自ら栄光の名
(再臨の救い主達による証言の場)をつくらせた。
どうか、天から見おろし、その聖なる栄光あるすみか(天上界)からご覧下さい。
あなた(ヤーウェ)の熱心と、大能とはどこにありますか。
あなたの切なる同情と憐みとはおさえられて、私にあらわれません。
例いアブラハムが我々(島のユダの民)を認めなくても、あなたは我々の父です。
主よ、あなたは我々の父、いにしえからあなたの名は、我々の贖い主です。ー
(イザヤ書63 14~16)
「マタイによる福音書(第二七章 四六節)」
「(十字架上での死の直前)イエスは大声で叫んで、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。
それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
神の愛を強く求めた魂は、善を求める魂であった。
真の神の愛を知った魂は、真の愛を、愛する心を求める魂となった。
愛を信じ愛を求め愛に生きる魂は自ら愛を与える魂へと成長するものであった。
与えられる愛に溺れ、成長する意志の育てられなかった魂は、
偽りの愛を与えられてきた者なのでしょう。
人が神(の愛)を求めるのは、悪に苦しめられているからであり、
神を求めるのは悪を滅ぼすことが出来るのは神(に繋がる心)だけであると知るからです。
(神が悪魔を滅ぼされたことを私達誰もが知る者になったのです。)
彼等の善を愛する心を育ててきたのは父なる神であることを知るからです。
自ら(の善の心)を救う為には、神に与ることなく
(悪魔に繋がった)悪を滅ぼことは出来ないことを知っているからです。※3注終)
(一) 創世記(天の奇蹟 上巻)
人類の前に現れた神と偽りの神、自らを導く者を人は神とした。
悪魔に導かれた者は、悪魔の心を以て彼等に与えられた神が唯一であると信じた。
真の神の与えた宗教を学びながら、
神を心を見失った現代の信者もまた、悪魔に心を許した者である。
何時の時代も、真理は真理に生きる者によって伝えられる。
聖書の言葉は死んだものであるか、
聖書に真理を証された神が、真理は今も不変であることを証される。
「天の奇蹟・上巻」 第一章 ヘブライ民族揺籃の地・メソポタミア 102頁
著者(岩間文彌)の質問へのラファエル様の解答より
「聖書は一般に三次元で知られているように、一民族の歴史でもあり宗教書でもあります。
又、神と人との契約の履行が如何に正確に為されたかを述べ、
それを神と人との大いなる絆と互いへの信仰即ち信義の証として、
神を信ずる者同士の心の支えともし慰めともしてきた書です。
旧約新約を通じて貫かれた神の愛と、人の神への絶対的信仰が読む者、信ずる者の力となり、
励ましともなってきた証言の記録でもあるのです。
(中略)
勿論この聖典を伝えた民族が文化が低く、大部分が稚拙な表現や、
ヘブル人特有の民族性、習慣を通じて伝えられたものであろうとも、
私達天の与えた真理は永遠(聖書は神の言葉だけを聞いたのではなかった。
神の如くに語りかけたサタンの言葉も聖書記者は神と信じた)のものであって、
私達がそれを否定する者では決してないことは、
イエス様が旧約の律法を否定される立場になかったと同様のものであると
理解して頂かねばなりません。」
聖書の創世記は、バビロニアの創造神話を、またアダムとエバの物語も、
メソポタミアの「アダバ神話」を基にして作られたことを天上界は証言されています(※1)。
天上界は聖書の編纂者の意識に働きかけられたとのことですが、
聖書を編纂した人々は、神から聞いた言葉であると自覚してその言葉のみを書いた訳ではなく、
自分の理解したことを書いてもいました。
「聖書記者が想像で天の使いを登場させる場合があり、後に創作部分を知り、
時には楽しみもし、困惑もしました。」とラファエル様は仰しゃっておられます。
(※1注。
「天の奇蹟・上巻」 第二章 創世 193頁
著者(岩間文彌)の質問へのラファエル様の解答より
「アダムは実在の人物ではありません。
シュメール最古の町エリドウの祭司王アダパ物語は一介の漁夫が祭司王になったいきさつを
一つの訓話風に作り、伝えておりますが、
そのアダパ物語と「エンキとニンフルザクの神話」をヒントに、両者を合わせて
アダムとエバの物語を作ったことは明らかです。」※1注終)
聖書に書かれた言葉、聖書記者の聞き取った言葉は、天上界が伝えたものもあれば、
聖書記者自身の心を聞いたに過ぎぬもの、神の如く語りかけたサタンの言葉もあったのです。
ラファエル様は元七大天使が聖書を知るようになったのは、
五、六百年ほど前からに過ぎなかったことを語られています。
聖書とは、すべて神からの言葉だけで書かれたものである、
真の神を知り、偽りの神を見抜く神の知恵に溢れた聖書記者によって書かれた
もののように思われているようですが、中にはサタンが入り込んだことを悟らず、
神の思いであるとの確信を以て聖書に書き込まれているものがあることを
天上界は証されています。
善に反する悪を悪と認めない、善と認めさせられたら、
神の言葉と共に、悪魔の言葉が聖書の中に在るのに、
聖書には神の言葉しかないから、すべては神の言葉であると、
明らかに神の言葉、神の思いに反する言葉を神の言葉と受け入れさせられたら、
善悪を峻別する理性の働き、善を愛し悪を憎む意志は抑えつけられるのであり、
理性が衰えれば、首を擡げて来るのは、心の核に生きる自己保存の本能
【から自らを救うのは本能を生かす理性によるしかない、
理性を失えば本能に滅びるのが人間である、
動物は本能を従わしめる自然の法則に従う理性
(これは自己保存の本能を支配する高次の本能といえる理性の如き心です。
動物に宿る愛はこの心です)を人間は失ったのであり、
その代わりに獲得したのが前頭葉という、
新たに一生をかけて開発される大脳新皮質でした】しかないのです。
自己保存の本能は、満たされぬ心の苦しみから逃げようとする、心を満たそうとする思いであり、
欲望へと、自分さえ良ければよいという心は最も満たしやすいのであり、
理性の思いを意識から追い払う、
理性の心に嫌悪するまでに堕落しても自己愛が目覚めることはない。
"神を信じる者が、ダビデの心を神の心の一面であると、
そのような心が聖書の伝える神の心であると信じる時、神を愛する者の心はどうなるであろうか"
「天国の証(エル・ランティの章)」より
「何よりもあなた方に申し上げねばならぬことは、四次元と三次元の縦の繋がりが、
今までサタンの続出と妨害によりもう一つ上手く行かなかったので、
地上にユートピアを築くことが単なる理想として終っていた、
ということを告白致さねばなりません。
私自身も直接あなた方に話し掛けることにより
地上との心の交流を増やそうと心掛けてきましたが、
その度にサタンの巧みな妨害により、
旧約の時代には私についての歪んだ伝説が作り上げられ苦労を致しました。
神の怒りとされたものの中にはサタンの破壊も混じっていたのです。」
ダビデは聖書に、エホバ神とは別の神が存在することを、
それはエホバ神に勝る神であることを書き込もうとしたのではありません。
勿論、それは神に抗う存在であることを自ら認めることであり、
エホバ様が、天上界が許すようなことは絶対にあり得ないことであり、
聖書を神の書であると信じ、神を愛する者は拒絶するでしょう。
また天上界がそのように導くでしょう。
そのような書物を編纂する者はサタンに支配され、天上界を裏切った者として切り捨て、
新たに信用できる者を立てて神の意志を伝えたことでしょう。
(天上界が現代の日本からメッセージを伝える為に天上界が指導された中野裕道が、
サタンに支配され天上界を裏切り、メッセージを「日本神学誌」から締め出した時、
エル・ランティ様はサタンに屈しなかったし、後に続く者を天上界は導いていました。
サタンの如何なる妨害にも屈しぬ意志の下に天上界は計画を進められます。)
人の人格には長所があり短所があります。
その長所から信頼出来る、愛することが出来た時、
その人の心を受け入れた時、心が満たされた時、その人の短所を知っても愛することが出来る、
長所の人格と短所の人格がそれぞれ別の人間の性格であるとは信じられないでしょう
(現実の世界は信じようとしませんが、
悪霊に憑依された者は、明らかに別人格(悪霊)の性格が現れます。
心理学は多重人格であると、一人の人格としてしか認識しませんが、
周りの人間がそのような認識を強要されれば、それを信じる者が性格を破壊(分裂)させられる、
多重人格になってしまうのではないでしょうか)。
神の心(長所)と悪魔の心(短所)を持つのが唯一の人格神である神の心であると、
聖書を神が書かれた書であると信じる者は受け入れてきたのでしょう。
神の人類愛を信じることで、神の子を十字架に掛けようとしたサタンの心を、
神の心として信じてしまったではありませんか。
善悪を、真の神の心(善)と偽りの神の心(偽善)を判断する理性を失うことになったのです。
サタンの心を神の心として聖書に書き込むことで(※2)。
"サタン・ダビデの目論見"
人類の神への信仰が本物であるか、神が信じるに値するものであるか、
天上界の為に人類を試みるとの名目で、試みる者として、神々の一員として、
サタン・ダビデは天上界に、神の傍らに在りましたが、
その心に、やがて天上界を滅ぼした時、
自らが神になることの企てを隠し持っていたのが、ダビデでした。
天上界の計画を知ろうとし、その計画を成功させることになると天上界を信じさせることで、
天の計画に参与する。
試みの名目で、神に導かれた者を堕落させようと、神の計画を破壊しようとしたのですが、
それだけではなく、自らの計画を目論んでいたのです。
それは天上界を滅ぼした後、
ダビデが神に、ダビデの支配する地獄界が天国に取って代わろうとも、
それまで信じてきたエホバ神である、天上界であると疑うことなく、
ユダヤ教徒が、キリスト教徒が盲信する(※3)心に、
悪霊の支配可能な理性なき心へと導く為に、善悪の判断する理性を失わせる、
絶対神であると信じさえすれば、神が如何なる心であろうと盲信するようになり、
真の神の本当の愛を理解することよりも、
絶対神に愛されることだけを求める心、自己愛に留める、
精神の成長が奪われれば、真の神の心が理解出来ず、
サタンの誇示する力を信じ求めるように信者の心を支配することが出来る、
そのようにサタンは考えたのではないでしょうか。
"サタンの目論見に従った人類の心はどうなったか"
共産主義者になったユダヤ教徒が、キリスト教徒がいた。
サタンは聖書に神を求める者に、天に向かって開かれた心に悪の種を植え込むことが出来ると、
サタンの心を信者に受け容れさせる為に、
同じ一人の神の心の一部として、真の神、エル・ランティ様の心と共に、
自分の心もその一部である、一人の人格神として自分(サタン)の心をも
人類が受け入れるように導こうとしました。
聖書の中に神として、サタンの言葉を書き込みました。
絶対の力を以て人を従わしめるのが神であると信じさせることが出来ると、
善なる神を愛する心を、力を愛し求める心に変えることが出来ると、
サタンの怒りに人々は神の力を知り、恐れさせることが、
悪魔の心を神と敬う心に変えることが出来るとダビデは信じた。
サタンは、神を求める者を堕落させる為に、神の書である聖書を利用しました。
聖書の中に神を求めたユダヤ教徒は、キリスト教徒は、
サタンに撒かれた悪の種を実らせ、邪悪を愛する心になりました。
邪悪な心から生まれた思想を愛するようになりました。
真の神の心を憎む悪魔の心になりました。
善悪を判別する理性を失う、悪魔の心と神の心の違いを知らぬ、区別を付けられぬ心とは、
神は愛であると信じる心は虚栄心に過ぎず、すべての思いは自己愛から来るもの、
自分に注がれる愛しか理解できない心です。
心は成長することがない、真の神の愛を理解し得ぬ心です。
サタンの心に神を見る心とは、
キリストを十字架に付ける為に、キリストの犠牲は人類の神の愛を目覚めさせると、
神の子の犠牲の先に神の愛があると、神に生きる心へと神に導かれていると、
サタンの虚言を信じた心は、理性なき心、神の心なき魂です。
(※2注。
「天の奇蹟・下巻」 第七章 黙示の時 169頁
著者(岩間文彌)の質問へのガブリエル様の解答より
「黙示文は捕囚期の頃に確立されており、それを変化させて伝えられました。
しかし事は単純ではなく、サタン・ダビデも片方で同じ人々に
天意を歪める霊示と黙示を与えました。
他方では更に支配者をしてクリスチャンの迫害に拍車を掛けさせたのです。
例えば天上界の(エル・ランティ様の)霊示や黙示は"モーセの黙示録""モーセの昇天"
"パウロの黙示録""エノク書′′"ダニエル書"知恵文学全般に"トビト書"など。
サタン・ダビデのものは"エズラ書""バルク黙示録""モーセの遺訓""ヨブ記"
"ヨハネ黙示録"などで、ゾロアスター教の(伝える)真の天上界の姿を歪めたもの、
異常な形での狂信を強いるもの、神を信じる者から理由なく生命と血を求めるもの
等が判断の基準です。
しかもその中でも正しい形の天の励ましはエル・ランティ様によるもので、
歴史を通して天と悪魔の双方が三次元の人々に働き掛けてきたのです。
貴方が分析したような必然的な条件や成行きが
(七大天使の記載された)外典や偽典を葬り去ろうとした背景には、
必ずサタン・ダビデの企みと唆(そそのか)しがあったのです。
貴方が証明しておられる箇所で、ダビデの霊示として顕著なものは次の通りです。
(一) 「第四エズラ書」(七の二九)
「私の子キリストと人間の息を持つすべての者は死ぬであろう」
キリストが死に、キリストに耳を傾ける者はすべて滅亡する ー
これはダビデの奸計の証です。
(二) 「バルクの黙示録」(三十の一)
「そののち、メシヤの滞在の時が充ちて彼が栄光の内に帰還される時、
その時、彼に望みを繋いで眠っていた者は皆、復活するであろう」
及び第六章の破壊ののちエルサレムが永遠のものとして再興されることを霊示し、
書かせている箇所など。
"眠る"が象徴的に"離散のまま耐えること"を意味するならば良いのですが、
これは"使者がその日まで静かに墓地に休息し、
イエス様の召命の日に命を与えられ、活動を始める"
又は、"第二の死を定められる"としか把えられない文章により、
新約の「ヨハネの黙示録」にも繰り返される同様の表現は、
善なる人々に主を信じて墓地に静かに眠らせておき、
(※3注。悪魔の心を神の心と受け入れさせようとしたのは、
ダビデが神として信じさせる為であったことの証拠)
ダビデは自分の輩下に出来得る限りの悪事を行わせ、サタンの王国を確立してのち、
それらの霊を目覚めさせ(注。そのような霊を眠らせておくことも、
眠りから起こすことも高次元は可能であるようです)、
イエス・キリストと偽って、勢力下に入れてしまう。
そういった企みであったのです。※3注終)
それが故に新約の「ヨハネの黙示録」をプロテスタントのクリスチャンに、
カトリックには七大天使の記述あるもの(エル・ランティ様の霊示による)
は大半を偽典として軽んぜしめ、
(※3注。聖書の中に書き込まれたダビデの言葉を
神のものであると信じる者が、ダビデに騙される者がいたことの証拠)
ユダヤ教徒には「エズラ書」によりモーセ様の律法を絶対視させて、
イエス・キリストを否定するようにせしめた ー 。
更にユダヤ民族をして、モーセ様やダビデ王の再来がメシヤであると
思い込ませたのもダビデなのです。※3注終)
※2注終)
「天の奇蹟・上巻」 第二章 創世 130頁
「造物主による最初の人間創造として描かれている、
アダムが粘土から作られたとか、エバがアダムの肋骨(あばらぼね)から作られた」
(中略)
「創世記第二章には、「その日ヤーウェ神は地の土くれから人を造り、
彼の鼻に生命の息を吹きこまれた。そこで人は生きた者となった」とあります。
よく指摘されているように、土くれとか、塵、土地と訳されるヘブル語は、「アダーマー」で、
それによって造られた「人」は、面白いことに、「アーダーム」と書かれています。
そして、最初に造られた人間は「アダム」なのです。」
(中略)
「最初の人間アダムは、土と密接な関係を有する農耕者の意味を与えられています。
神の造った世界を管理する者の性格が、これによって人間アダムに与えられているのです。
この人間の始祖の創造神話もまた、メソポタミア起源であるようです。
前に紹介したバビロニアの「エヌマ・エリシュ」という創造叙事詩には、
怪物ティアマットに勝利したベール・マルドゥーク神が、
反乱の指導者キングー神の血と粘土で人を創造したとあり、
別のシュメール神話でも、神々が深淵の上に漂う粘土をこねて人間を造ったというものがあり、
また、ギルガメッシュ神話では、エンキドゥーは土くれから造られるからです。
さらにアダムの肋骨によって造られた最初の女エバに関しても、
前述「エンキとニンフルサグの神話」では、
母神ニンフルサグが神々の楽園に植えた聖樹の実を食べた水神エンキ(エア)が、
呪いを受けて瀕死の状態になったとき、
彼を癒すために神々から使わされる八人の癒しの神の一人「ニンティ」は、
彼の肋骨を治すために造られた女神ですが、ニンティとは「肋骨の女」を意味し、
シュメール語「ティ」には「生命」と「肋骨」の意味があるゆえ、
ニンティは「生命の女」とも訳しうるということです。
ところがエバはヘブライ語では「ハゥワー」で、
一般には(生きる、存在する)という動詞に関連する「生命」の意味とされ、
「創世記」にも、「さてその人は彼の妻の名をエバと名づけた。
というのは彼女はすべての生けるものの母となったからである」
と語られているのです(三の二〇)。
ところでエジプトのアマルナ文書
(エジプト第一八王朝アメンホテップ四世が、前一三六〇年ごろ遷都したアルマナで、
一八八七年に発見された楔形文字粘土板三六〇通)にその断片が見られ、
メソポタミアのアッシュルバニパル(前七世紀)王宮付属図書館跡(ニネヴァ)からも出土した、
メソポタミアの「アダパ神話」では、水神にして英知の神エア
(エンキ、シュメールの最古の都市エリドゥの主神)が、
土くれの人間としてペルシア湾の漁夫アダパを創造し、
知恵を授けてエリドゥ市の祭司王にする話があります。
彼が永遠の生命のみは得ることができなかったのは、
漁中に南風が吹いて船が転覆したのを怒ったアダパが、南風の翼を砕いて、風を吹かせなくした。
それをとがめる大神アン(アヌ)の尋問に対して、
アヌから出される生命のパンと水には口をつけてはいけないというエア神の忠告を忠実に守り、
かえってアヌのアダパに対して、永生を与えたいという親心が通じなくなったため、
とされています。その代わりにアダパは地上の王となったというのです。
この物語はたしかに「創世記」の中のエデンの園(永生を意味する神の世界)追放
(死が必然である地上界で万物を治める)物語に通ずるものを持っているところから、
あるドイツの学者は、アダパこそ、ヘブライ名のアダムであると主張しています。」
(中略)
「もう一つ似た話に、第一章でおなじみの「ギルガメッシュ大叙事詩」があります。
それは ー ウルク王ギルガメッシュが、友人エンキドゥの死によって心を動かされ、
永遠の生命を求めて旅に出、その途上で出会う、
人間の祖先で永生を得た天上のウートナピシュティムの助言を頼りに
(詩人ウェルギリウスに導かれるダンテの新曲を思い出しましたが、
こういった神話や聖書の物語を(書物が普及されておらず、文字の読めない人々の多かった昔は)
人から伝え聞くことは、神を知る、神に出会う為の重要な機会だったのではないでしょうか)
やっと得ることのできた大切な「生命の薬草」を、ふとした際に、蛇に横取りされてしまう ー
というものでした。
「創世記」によると、人類の祖アダムとエバは蛇の悪だくみに乗って、
神から禁じられていたエデンの園の中央にある知恵の樹の実を食べてしまい、
楽園を追放されてしまいます。
これと同じ題材をもつ、中央に生命の樹、両側に神または人、
端に蛇が彫られたメソポタミアの円筒印章があり、
このテーマはメソポタミアで一般的であったことがうかがわれます。
このように見てくると、ヘブライ人は物語を、
彼らの編集方針と世界観によってかなり作り変えてしまったけれど、書くに当っては、
メソポタミア起源の人間の創造神話や人が永生を求めるテーマを土台にしたことが明らかです。
アダムとエバ物語の最後には、ヤーウェの言葉
「御覧、人はわれわれの一人と同じように善も悪も知るようになった。
今度は手を伸ばして生命の樹から取って食べて、永久に生きるようになるかもしれない」
(三の二二)と記されています。
そして、人を追い払ったあと、エデンの東にケルビムと自転する炎の剣を置き、
生命の樹へ至る道を監視させるようにした、とあります。
ここにも地上の人間に死があることに対する理由づけがなされています。
聖書では、メソポタミアの神話・叙事詩から題材を取りながらも、
それらとの大きな違いは、「罪の問題」が徹底的に考えられていることであるとされます。
エデンの楽園追放の理由は ー ヤーウェ神によって禁じられていたことを、
人は誘惑に負けて犯してしまった ー というものです。
ここには古代民族共通の、人間のタブー(原始社会で、神聖なものとして立ち入ったり、
触れたり、使ったりすることを禁じられている場所や言葉や行為)
に関する心理の反映を見ることができます。
しかしまた、原始的心理状態を一歩踏み越えて、
罪の本質を深く哲学的に追求した跡をも認めることができます。
それは聖書を読み進むうちに、さらにはっきりとしてくることなのですが、
ここでは、人間が造り主ヤーウェの言葉または意図を深く理解することを怠った結果 ー
つまり無知と無自覚と高慢とにより ー
軽はずみにも、蛇で象徴される(悪霊の)悪だくみを見抜けず、その甘言に従ってしまったこと、
すなわち一時なりとも神(法)に従わずに邪悪に従ったこと、
そこにこそ罪の本質が有ることを鋭く衝いているのだと思われます。
ところで最後に「原罪」の問題です。アダムとエバ、最初の人間の楽園追放の物語は、
キリスト教では人間の「原罪」テーマの発端として、長く教えられてきました。
パウロの書簡「ロマ書」にはアダムの堕落の罪により、
罪が世界に入り、死が全人類に入ってきたことが述べられています(五の一二)。
これによってパウロは、人々に罪の自覚をうながそうとしたのでしょう。
罪の自覚を持つ者が、罪の女マクダラのマリアのように、救いに浴することができるからです。
罪の自覚は反省に他ならず、それによってはじめて、
人は己を改めようと心開くことができるからです。
ところが後世の聖職者たちが罪をあまりに強調しすぎたため、
人々は言葉の力によって呪縛され、萎縮し、かえって罪を重ね、
それが自己処罰を呼び、罪悪ノイローゼに陥り、
のびのびとした人生を送れない人も多く出てくるようになりました。
仏教の業思想と同じものです。
そこでアダムとエバの物語の背景を知り、
「エデンの園の物語りはユダヤ教 ー キリスト教における象徴的な神話、
アダムによって人類は罪を知り、それを原罪と名附け、その罰として死が与えられる。
アダムの罪、つまりリビドーに屈したというその神の意志に反する行為が、全人類に及び、
それに従って全人類に死が及ぶという説であり、
教義上不道徳を戒める目的で意識に働きかけられた神の導きによって、
人の手により創られたものです」(『慈悲と愛』誌一九七九年六月号、解答欄)
という聖書記者の意図を理解し得るわれわれは、いたずらに罪にとらわれることなく、
合理的思考によって各人の過ちの原因を取り除き、神の法により行いを正して、
明るく生活して行くべきでしょう。」
(中略)
聖書はこのあと「カインとアベル」の物語を記していますが、
アダムの長子カインは、ヘブル語の「鍛冶(かじ)」を意味するところから、
鍛冶技術にすぐれ、またイスラエルびとに深い関係のあったケニびとの祖とし、
結局、カインを都市建設者(創世記四の一七)であって、
ケニびとで代表されるカナン人の祖であり、
定着農耕民のモデル(鍛冶職は農具や都市生活に密着しています)とし、
弟アベル(ヘブル語は「息」とか「蒸気」で、アッカド語は「子」)は
(イスラエル系)遊牧民の象徴とし、この物語には、したがって、
農耕民と遊牧民との古い基本的対立関係が写し出されているとする、
一応の定説を挙げておきます。
それもまた、シュメール神話の、牧畜神ドゥーム-ジー(別名タムムーズ)と、
農業神エンキムドゥーの対立から由来したものらしいこと、
そして、カインがアベルを"野に連れ出して殺し逃亡した"というのは、
バビロニアの新年祭のとき、マルドゥークの祭司が
"羊を殺して、その血を神殿の壁に塗り、その後、祝祭が終るまで荒野に身を隠す"という、
特定の祭儀の反映に他ならないという説を紹介し、かつ牧者アベルはこの説から、
神の義のために迫害を受けて犠牲となった義人・預言者の類の始祖と考えられ、
アベル以来のこうした人々を、「神の小羊」とする伝説がここから作られたことを
指摘するに止めておきましょう。」
二節 現天上界と古代イスラエル(「天の奇蹟」より)
(二) アブラハム(天の奇蹟 中巻)
"アブラハムを発たせたもの"
「天の奇蹟・中巻」 第一章 アブラハムの旅立ち 29頁
「アブラハムの一族がハランを出たのは、当時の一連の民族移動の結果であるとも言えます。
ではその民族移動の原因は何かと問うと、通常、銅器が使用されるに至ったこと
(前二五〇〇~二〇〇〇年頃)が、政治的経済的混乱を生んだ結果とされます。
それもありますがそれより、湿潤で温暖であった北アフリカ~中近東の、北半球中緯度地帯が、
紀元前二三五〇年頃から乾燥化と気温上昇に転じた。
こうした地球規模の気象変動と恐らく無関係ではなく、中央アジア平原が冷化または乾燥化して、
水や牧草地を求める人畜の移動が開始された結果であると考えられます。
事実、中近東に気象変化が始まって少しした、
紀元前二〇〇〇年頃、アーリア人の最初の南下が生じているのです。
それがやがてアルメニアのフルリ人を弾(はじ)き出してフルリ人の移動を促し、それがまた
「河川流量の減少・氾濫原の縮小・地下水の低下・オアシスや井戸の枯渇や水質の悪化・
土壌温度の減少とその塩化・信じがたいほどの気温の上昇など」(中島健一氏著書引用)が、
シリア砂漠・ステップ方面からメソポタミア北部に移住していたアムル人に圧力を加え、
大移動を誘ったのだと言えます。
とどのつまりは、ヘブル人の移動は自然(気象変化)がなさしめたものである、
との結論に達します。
それに政治情勢の変化が加わるでしょう。
これは神学者等が解釈してきたような、すべてが神の召喚による、
というものではないことを示しています。
いかに優れた人といえども、その時代の気象や風土的条件の影響をぬきに、
その行動を考えることはできません。
むしろ時代や風土・気象変化に呼応して、はじめてその人物の行動が生じるものです。
しかしだからと言って、アブラハムの出発の動機を、
気象の変動によって起こった民族移動とのみ解するならば、
人類の歴史をすべて経済機構の変動からのみ解釈する、
偏したマルクス流唯物史観の誤謬の轍(てつ)を踏むことになるでしょう。
同じ条件でありながら、アラム平原にとどまっていた人は多くいたのですから。
では何が、アブラハムのみを故郷からの決別へ決意させたのか、
そして何故アブラハムのみが、ヘブライ民族の祖となり、
この民族を通しての神の斯業(しぎょう)の発端を担うに至ったのか ー 。
それが問われると途端に、アブラハムという特殊な個人の内面生活が浮かび上がってきます。
富有なマリ帝国の貿易の要地ハラン。かつ放牧と栽培に適したアラム平原のハラン。
そこのなに不自由ない生活を捨てて、なぜアブラハムは流浪の旅に身を置いたのか、
今となっては彼の心中を詳(つまびら)かな気持ちはわかりません。
しかし、ゴーダマ・シッダルタが王舎城(ラジャグリハ)を出る決意をしたときのように、
パンではなく、神の言葉なる正しい法を求める気持ちが起こっていたに違いありません。
それは初め、心の奥底に、人知れず湧いてくる、
ある種の漠とした憧憬であり望みであったでしょう。
だがそれは時と共にはっきりとした方向性を持つ、確固とした決意へと成長し、
それ以外に自分の道はない、という使命感にまで達するのです。
この主体的な希求のあるところ、神の促しがあり、
使命の自覚のあるところ、神がその人物に使命を託します。
そのとき生じた内心の叫びは、同時に神の声であり、
人知れぬ孤独な個人の心の中で、新天地を拓(ひら)くすべてが整えられます。
時は今、かの人は未来に向かって出発しさえすればよい。
「出発」すること、一生を出発で終えること、それがこの人の運命(さだめ)でありました。
そこでヤーウェはアブラハムに言われた。
「さあ、汝の国、汝の親族、汝の父の家を離れて、わたしが汝に示す国に行きなさい」
(一二の一)と。
ここに、齢(よわい)三十にして神と永遠の契約を結んだ、
スイスの法学者・思想家のカール・ヒルティ(一八三三~一九〇九)が、
神への転回を謳った詩「出発」により、アブラハムの心を知るよすがといたしましょう。
出 発
ことはなされた。現世はわが背後に去った!
俗世の酒盃はみじんに砕かれた。
はしけはなぎさを離れ、うすやみの
かなたに遠い浜辺の微光がみえる。
路なき海はあやしくわれを囲んでいる。
今よりは希望だけがわれを支えるのだ。
なんじら、わがものであった席につけ。
なんじらには現世が、われには天が開かれてあれ。
久しくわが心にかかって、あまたの不安のとき、
思いめぐらせたことを、われは断じておこなったのだ。
巡礼のわれは、永遠(とわ)の父の国を
思い出すまでは、もはや陸地(くがち)を踏まぬのだ。
今よりは、月桂樹の若枝も花を咲かせず、
かしわの冠もわがひたいを飾らぬ。
俗世のいとなみはことごとくむなしい。
わが求めうるは、永遠の花冠のみ。
この遠く高い目標は夢ではなかろうか。
あのたな引く霧は浜辺であろうか。
そして、代償たかい賭にたわむれて、われは、
索漠(さくばく)のこの海に路をうしなわないであろうか。
暗い航路ののちに、崇厳な都を見いだしえようか ー 。
よしんば最大の苦難に至るとも、われは行かねばならない。
なんじ、われを生んだ陸地(くがち)よ、さらば。
苦しみはみじかく、歓びは永遠である。」
"人間アブラハム"
「天の奇蹟・中巻」 第一章 アブラハムの旅立ち 69頁
「( ヘブライ民族の祖となるアブラハム一行について)
時には、隊商を組んだでしょう。その要素を含みつつも、
本質は「家畜の牧者」(創世記四六の三四)でした。
そしてまた、同族が襲われると、敵と戦える軍事力をも備えていました(一四の一三~一五)。
ロト一族を奪還したアブラハムの記事(同上)は、
アブラハムの勇気・責任感・機敏性・優れた智力をよく伝えています。
彼は聖書によれば、妻サラがヘブロンで他界した時、悲しみに泣いた者であり(二三の二)、
サラの墓地のため、土地所有者ヘテびととエフロンから、無償譲与の申し出を断って、
あえて相応の代価を支払って、所有権(使用権でなく)を入手した慎重な者です(二三章)。
カナンでの最初の土地取得は、もとより略奪によらず、さりとてただもらいでもなく、
正当な取引によって成就したのです。
神から土地が与えられるという契約は、アブラハムのこの慎重な行為によって、
実現の端緒が開かれました。
その土地は、ヘブロンの西約二・五キロのマムレの前の
マクペラ(二つの洞穴の意)とエフロンの畑地および周囲の林で、
かつてそこの樫(かし)の大木の下にいるアブラハムに、ヤーウェの使い三人が顕われ、
歳とった妻サラに子が授かるのを予言した所です。
愛し子イサクを神に捧げる行為によってアブラハムは、
神の前に全き信仰者、「信仰の父」と、後世の人に仰がれてきました。
礼拝形式は当時の習慣を出ぬものでしたが、
礼拝対象は月神でも、家族(テラ)神的小像(ピム)でもなく、
天上の、真正な神「エール」です。
いわば、この地で真実の神にめざめた最初の人が、アブラハム達であったのです。
彼が歩み出した道は、信仰の新天地を求める道でもありました。
そこに神のうながしと試練と導きがあったことは、天の使いの顕現で、示されています。
民族移動の大波の一環。政治情勢の変化。遊牧民の群分かれ …… 。
様々な要因もまた混入していたでしょう。
ともかく出発すること、民族と信仰の出発者であることに、生命を賭したのです。
故郷が住みなれた土地であり、牧草地豊かで、貿易で栄えた土地であるにも拘らず ー 。
"イサク献供の奇蹟"
アブラハムが愛し子イサクを、神の命によって神に献供する場面は、
「創世記」族長時代のクライマックスを構成しています(二二章)。
アブラハム夫妻が久しく待ち望んだにも拘らず、正妻サラには子が無く、
ほとんど諦めていたところを、三人の天使の予告によって与えられたのが、イサクでした。
遊牧民の族長に正統の嫡男(ちゃくなん)が出来たことは、
どれほど深い歓びだったことでしょう。
しかもその子は神から祝福され、一族の繁栄を神から約束された子であったのです。
そうであるのに神はアブラハムの信仰を試みて、
独子(ひとりご)イサクをモリヤの山に連れてゆき、燔祭として捧げるべく命じるのです。
アブラハムは神を信じ、命ぜられるままにイサクを伴い、
三日かけて指定された所にたどり着く。
アブラハムは、そこに祭壇を築き、薪を並べ、イサクを縛って薪の上に置き、刀を執って、
まさにその子をほうむろうとした刹那、ヤーウェの使いが天より彼に呼びかける。
「アブラハムよ、アブラハムよ、汝の手を子に加えるな。
今こそわたしは汝が神を畏れる者であることを知った。
汝は独り子をも惜しまずにわたしに捧げようとしたから」。
アブラハムが眼を上げてみると、見よ、一匹の牡羊がやぶに角をかけていた。
アブラハムはそれを捕え、わが子の代わりに燔祭として捧げた。
そこでヤーウェの使いが再びアブラハムに呼びかけ、
「汝は自分の独り子さえ惜しまなかったがゆえ、汝を恵み、
汝の子孫を天(そら)の星、浜辺の砂のように数を増し、祝福される …… 」
というヤーウェの言葉を伝えます。
「創世記」第二十二章は、アブラハムの子に対する深い情愛と、神に対する全き信仰心を、
簡潔な文章の中に、鮮明に伝えており、珠玉の名文として讃えられ、
レンブラント等の画家によって再現されてきました。
デンマークの生んだ実存哲学の祖、セーレン・キルケゴール(1813 ー 1855、
ガブリエル様曾孫分身)は、宗教的著作の傑作『おそれとおののき』の中で、
神の前に独りで立つ、信仰の騎士=単独者ナルアブラハムの姿を、
あますところなく描いています。
すなわち己の犠牲的行為が人から称讃を受け、涙をさそう悲劇的英雄の場合と違い、
信仰の人アブラハムの場合は、彼の招命と行為がただ彼の胸の中にしまわれ、
孤独な沈黙の中で、単独者として神の前に立つだけである。
いわば神と自分のみが心と行為を知る。
愛し子を殺せば、殺人者の汚名さえ着せられよう。
その子はまして、かつて神がアブラハムを祝し、子孫を増し加えると約束し(一七の二~三)、
歳いった妻サラに子を授けると言明した(一七の一五)、
まさに神の約束と民族全体の希望がかかっている子(正しく王の世継ぎです)である。
その子を殺すとは、神の約束も計画も切断する大罪にもなりかねない。
しかし神の命(めい)は信じなければならない。
信仰者はここに独り絶体絶命の深淵に立つ。
彼は神を信じ、神のご計画と聖約を信じた。そして命じられたままを行おうとした ー 。
その時、天の使いがそれを止め、愛し子は救われた。
今やイサクは父アブラハムの子であると共に、
真に国民(たみ)への子として甦ったのである ー と。
パリ大学で長く教えた哲学者の森有正教授(1911 ー 1976)は、
神と契約関係に入ったアブラハムについてこう述べています(『アブラハムの生涯』第三章)。
「契約とは普通は対等の二人の人格の間に結ばれるものであり、
単なる不明瞭な要求ではなく、一つの共通の約束に二つの人格が入るということです。
この新しい契約によって、アブラハムは神の契約の対象となり、
そこでアブラムという名がアブラハムと変わったのです。
すなわちこの契約を通して、アブラハムは神に対して汝になったのです。
人間が契約を通して自分の生きる目的のためにもう自由ではなくなる。
その中にすべてを捧げなえればならなくなる。
そういう契約が一人一人に決定する時に、本当の民主主義、
一人一人が置き換えることのできない人間になるのです」。
(注。アブラハム自身がこのように哲学的に考えた訳でもありませんし、
そういった理屈による理解よりも、自らの神の心にあって真の神を直観されるもの、
理屈は反って執着を生み、真の神を見誤りかねないと思うのですが)
契約に入った人間、それは神が汝と呼びかけうる存在です。
彼もまた神に呼びかけ、かつ「はい」と答える。
もはや主人の意のままに服従する奴隷でも、大人に従う子供の如き存在でもない。
それゆえアブラハムが愛し子イサクを、モリヤの山で神に捧げようとしたとき彼は、
最後までけっして約束を破らない神、破るはずのない神を信じていた。
それはイサクがいぶかって、「燔祭の小羊はどこにあるのですか」と問うたのに対し、
「神ご自身がそれを備え給うだろうよ」と答えたアブラハムの答にも顕われています。
ただ、人と「我・汝」関係にある神とは、あくまで人と本質を同じくする実存者、
つまり、「人」でなければなりません。
唯一絶対なる創造主と語り、かつ契約するなどという奇怪な場面は、断じてありえない。
契約とは、あくまで人間としての信義に基づいて、人と人、我と汝とが交すものです。
ですからアブラハムは、人である神とも言うべき存在と契約したのであり、
ゆえにその存在を信じることができたのです。
残念なことに旧約聖書劈頭(へきとう)から、神が創造神であると断言されたことにより、
せっかくのアブラハムの物語も、服従=絶対的神への全面平伏ないし全面依存という
誤った信仰形態が、人々に印象づけられてしまいました。
人が自己の何もかも、絶対的な神に委ね、神の御心のままに従う、という生き方は、
一見よき信仰のようですが、これは消極的な生き方です。人を弱者にします。
そうではなく、自らの能力を活発に働かせて、生活を改善・工夫する自律的人間が、
健全な人の姿ではないでしょうか。
しかしやはり人は迷う者、道を誤る者、自立者はいつしか頑迷になる。
神を知らず、神の教えを持たないならば。
人間はやはり、人類の大先達にして親しき天上界高次元の神々に信を置き、
しかも自立する単独者として、神々の計画=ユートピア建設への参与者として生くべき者です。
それがたしかに、アブラハムと共に、
永遠(とわ)なる契約者として歩む道というべきでしょう。
ところで、イサク献供が聖書に記された背景として、
当時の幼児(長子)犠牲の習慣に触れずにすますことはできません。
あの物語を信仰者の典例としてのみ扱うのは、今日となっては、あまりに一面的なのです。
イサク献供の文は、倫理的な問題や神の儀式等に関心あるE記者によって
前七五〇年頃に書かれたE文書(エローヒム)であるというのが定説です。
分裂後の北王国で記されました。北王国には当時、
隣国フェニキアから幼児犠牲を伴うモレク信仰が流入して来ていたと考えられます。
フェニキアで幼児犠牲が行われていた証拠があります。
考古学的には、フェニキアの植民都市カルタゴの神域の、前九~七世紀の層から、
多数の赤児の骨が発掘されています(オールブライト『古代パレスチナの宗教』訳二四〇頁)。
また紀元前三世紀のカルタゴの尖頭石柱には、
小羊でなく人間の幼児を抱く祭司が描かれてます(同、二三八頁)。
それにエルサレムの西約三十キロのゲゼルの古代聖所跡から、血が注がれた七本の石柱と、
幼児の骨多数が出土しました(新井智『聖書、その歴史的事実』五四頁)。
親が長子を焼いて神に捧げるモレク(幼児犠牲そのものを指す語)儀式は、
イスラエル西方に住むアンモン人の間でも広まっており、
その影響を受けて、エルサレムのヒンノムの谷に、燔祭の壇トペテが築かれました
(エレミア書七の三〇、列王記下一六の二)。
前七世紀の(ヘフジバの子)マナセ王は
「その子を火に焼いて捧げものとし、占いをし、魔術を行い、口寄せと魔法使いを用い、
主の目の前に多くの悪を行って、主の怒りを引き起こした」(同、二一の六)とあります。」
「アブラハムによるイサク献供の物語は、実際に起こったことではなく、
イスラエルにモレク祭儀が浸透しているのを憤る聖書記者が、
それを諫(いさ)め、否定するために、あえて創作したものでしょうか。
ところが人身犠牲は、カナンとその近隣以外にも、その例が認められるのです。
たとえば、アダド神に対するそれが、北メソポタミアのハーブル川流域のアラム人の間で、
前十世紀末に行われた(『古代パレスチナの宗教』二四三頁)と言います。
またサルゴン二世によって、サマリヤに移住させられた北シリアのセパルワイム人は、
「その子を火に焼いて、セパルワイムの神アデランメルクに捧げた」
(列王記下一七の三一)と誌されています。
北メソポタミアないし北シリアのアラム ー となれば、時代はずれますが、
ヘブル人の故郷付近です。
そしてもともと、セム系の民族には、長子は神に属するものという信仰があり、
家畜の雄の初子(ういご)を神に捧げるという風習があった事実から、
アブラハムの時代に、飢饉や戦争などの種族の危機に限られたにせよ、
故郷のアラム平原で幼児犠牲があったことは、考えうることです。
そしてアブラハムのところを記した聖書記者の時代には、
近隣諸国から幼児犠牲の儀式が再流入していたに違いなく、
ヤーウェ信仰にとっての最も忌むべきものの一つとして、
これを同胞にはっきりと禁じる必要が出ていたはずです。
アブラハムのイサク献供物語の原型は、確かに有った。
その伝承を後世の聖書記者が重視して、アブラハム物語のクライマックスへと持っていき、
幾分脚色を加えた ー これが真相ではないでしょうか。
「天の奇蹟・下巻」 第四章 アブラハムの旅立ち 95頁
著者(岩間文彌)の質問へのミカエル大王様の解答より
問四 アブラハムの愛し子イサク献供の際の奇蹟は、カナンで行われていた幼児犠牲を、
イスラエルの民に諫める目的で聖書記入者が入れた挿話であるにしても、
原型となるものはあった筈だと結論付けました。宜しいでしょうか。
事実であれば、この事件に関する天上界の意図や(前)大天使方の働きについてお知らせ下さい。
問四解答 美化してありますが、事実です。
これはサタン・ダビデの試みで、エル・ランティ様がお救いになりました。
幼児犠牲を普及させたのはダビデの仕業です。
二節 現天上界と古代イスラエル(「天の奇蹟」より)
(三) モーセ(天の奇蹟 中巻)
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- エッセンス・目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義者とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 二節 国家を破壊する共産主義
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 三節 共産主義に洗脳されたイスラム教は、宗教とは名ばかりのテロである
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 四節 共産主義の本質
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 五節 イデオロギーの狂信者
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 六節 イデオロギーと精神
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 七節 共産主義(悪魔のイデオロギー)誕生の背景
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 二節 天上界の構造について
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 三節 天上界の秩序
- 第二部 神と人類の交流 第二章 (霊道の開かれた)古代人類に証された神の顕現と御意志、及び真実を封印されるのも、その解かれるべき時にそれを為すのも神である。 預言されたものを成就するは神であることを、神の証するに時があることを、神が現れる時、人類は悟るであろう 一節 現天上界と聖書
- 第二部 神と人類の交流 第二章 (霊道の開かれた)古代人類に証された神の顕現と御意志、及び真実を封印されるのも、その解かれるべき時にそれを為すのも神である。 預言されたものを成就するは神であることを、神の証するに時があることを、神が現れる時、人類は悟るであろう 二節 現天上界と古代イスラエル(「天の奇蹟」より)
- 第二部 神と人類の交流 第二章(霊道の開かれた)古代人類に証された神の顕現と御意志、及び真実を封印されるのも、その解かれるべき時にそれを為すのも神である。預言されたものを成就するは神であることを、神の証するに時があることを、神が現れる時、人類は悟るであろう 三節 現天上界と古代日本(「古代日本と七大天使」より)
- 第二部 神と人類の交流 第三章 神の心、神の愛 一節 神の御心の本質(心根)である善意、優しさ
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の許に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様