第二部 神と人類の交流
第三章 神の心、神の愛

六節 神は人間の霊である
 迫害され、救いを求めながら、苦しみのうちに死んで行く人々を見て、
どうして神は全能であると信じていられるのでしょう。
 神を全能であるとするならば、
救えるのを、敢えて救わないとしか結論し得ないような神を、神と崇める人々というのは、
神を疑ったら守って貰えなくなるとでも考えるのでしょうか?
 疑わしいのは神ではなく、教義に反することを総て誤りであると信じ込まされてきた、
真理に目を被われてきた信者の心なのですが、
教義に疑問を抱く知性を養えなかった人達なのでしょう。

 神の御意志を知ろうとしない者とは、神の御意志は知り得ないものと、
それが謙虚な心との自惚れから、自己欺瞞に陥っていることが判りません。
 神の御意志を知れば、それを拒む自分の意志(醜い思い)に向き合わざるを得ない、
神の御心を愛していない己を知られたくない、そのような心が隠されているのかも知れません。
 神がその愛を伝えようとすることは、その愛がどのような心から出るものか、
その心をも伝えようと、同じ心で繋がりたいと天が願われていると考えることが、
御心を知ろうと望むことが、どうして不遜になるのか理解出来ません。

 現正法に於て、神々は人間の霊であると伝えられましたが、
二千年前に、全能であるとされた神は、人間の霊などではない、
(現天上界の)彼等とは違う方達であったのでしょうか。
 当時の人々の知性に応じて、人々の求めに応じて、
人々の救いとなるべく、彼等は語られたのです。

僅か二千年ですが、その間サタンの前に為す術のない人類を救う為に、
精神を成長させる為に、天上界は宗教だけでなく、
あらゆる分野に於て人類の知性を開発されたのです。
 合体霊として、人自らの内なる心として、
真理に目覚めた合体者と一つになって神の業を代行されました。
 彼を通じて明らかにされた神の心を人々は感じ取って来ました。

 宗教以外の者に神の御意志が表れようとも理解出来ず、
彼等の信じる神に相応しい現れでなければ信じられない、
宗教に神を求める者の精神に、生ける神の声は届きませんでした。
 宗教は二千年前のまま、全く成長することが出来なかった、
そして神の救いを見失っていることも覚れなかった。
 宗教に停滞する限り、神の保護に縋る、
何時までも絶対神を盲信する未熟な精神に人類は留まり続けるでしょう。

 二千年前の人々には、神々の知性を理解することは不可能であり、
己が魂を天国へ救って下さる方として、
天国を統べられる力ある神が守って下さると信じられたのでした。
〖社会、共産主義の独裁国家が核兵器を持つ現代では
(神を信じさえすれば平和を得られるという考えは)通用しないことは言うまでもありません。〗
 絶対神に守られていると、この世に苦しめられても、永遠の天国に迎えられるのだからと、
この世で苦しめる人々を神は裁いて下さると信じることで、憎しみに満ちた心に神の優しさが伝わり、
神を実感して安らぎを取り戻すことが出来たのでしょう。

 この世に生まれる前からその人の霊は存在しており、
その霊が肉体に転生するという説が二千年以上前から信じられてきているのですが、
それは誤りであると現天上界は、今この世に生きている人々に語られているのです。

 この世に生きている私達は、生れる前から霊として存在していた(記憶は全く無くとも)
とするならば、自然の中に生きる動物には人間も含めて、自然の与えるのは肉体のみで、
霊は肉体によって与えられるものではないという考えになります。
 霊が転生していない人間には、自我がない、
勿論動物も転生していなければ自我がないことになります。
 自我意識を持って考えている私達は霊であり、
肉体の大脳にはそのような精神活動(意識)は無いと言うことになります。

 しかし、大脳に損傷を受けたり、薬物など(が働くのは肉体です)で精神を患った場合、
それまでの自我(霊体)は、肉体の障害に何ら影響を受けず、
霊体の意志を表現する機能を肉体が失っただけなのでしょうか。
 そうではないことは、自我の一部(性格や人格の特性)だけが変わったり、
失ったりするだけの場合もあることからも、
肉体(頭脳)の機能の変化が直接自我に反映していることは明白なことです。
何も解らない赤子と、何もかも忘れ去っていく老人が存在しています。
 今のあなたの過去と未来の姿を人々の内に見て、
どうしてそれらが同じ人格のまま存在していると、
肉体が変化しただけで自我は不変であると、
そしてその人格が肉体に何ら影響されることのない独立した霊として
転生を繰り返すものであると、そのようなことが真実であると思えますか?

 神が、聖霊が人間として生きた経験を持たぬ霊であるとしたなら、
肉体に於て如何に生きるかによって、魂は養われるなどと言われるでしょうか?

 神は肉体を持たずにその魂に徳を養い得たのなら
同様に人間も魂(霊体)に於て徳(神の心)を養い得るのではありませんか?

養うまでもなく初めから神は完全であったというのは妄想です。
 完全なる神の作った完全なる世界であったなら、
愛に満たされずに苦しむ者は存在しなかったでしょう。
 常に人が愛に満たされているなら、愛が尊いものと思われることもなかったでしょう。
 愛が尊いとされるのは、心に見出せないでいるからであり、
愛のない心の、愛を拒む心の、愛の救い得ぬ心のどこに神の愛の跡(創造神の業)
があると言うのでしょう。
 そのような愛が本当に神の愛なのでしょうか、神は完全な愛の内に生き、
その神から与えられた愛も人の心に入ると神の愛ではなくなるということでしょうか。
 人間が持ち得ぬ神の愛に何の意味が、価値があるのでしょう。
 人間の持ち得ぬものを持つから崇めるべき神とするなら、

神と人と繋がることはありません。

 知恵もまた愛と変るものではありません。
 人間が真に知恵を得るのは、
知恵なき故に自らが招いた苦しみを思い知ることから始まるのではないでしょうか。
 自分のことにしか思いの行かない(自分本位の)心は、
人の自分を生かそうとの思いも理解する知恵を持たぬ故に、
自分を生かす道を失って行きます。
 人に生かされぬような心を自ら作って来た、自分の心に一人苦しむ時、
知恵を学ぶことのなかった己が愚かを思い知る時、
初めて知恵の育つ心となるでしょう。
 人間の知る知恵が、神の智慧に繋がるものがあるとすれば、
真の愛を通して以外にあり得ないのです。
 この宇宙から、自然から、神から齎された愛が人間の心に宿るなら、
その愛が実るならその心は神の心に繋がるからこそ、愛は真理であると神は言われるのです。

 自然の中に生命は育つように生かすが故に、育てるが故に真理なのです。
 初めから完全な愛が、知恵が存在するのではありません。
 宇宙から自然が生まれたのであり、自然から生物が生まれたのであり、
生物の中に心が生まれたのであり、心の中に生まれた認識が知恵を育て、
意志が自然の中に求め、見出したのが愛ではないでしょうか。

 動物を愛する人たちは、動物を人間のするような生活に従わせようとしますか?
 動物の本来の生活に最も適った生き方を尊重するではありませんか?

動物の生活に合わせることで、一層動物の自然の心に触れあうことになるのでしょう?
 自然に適応する本能を失わせることになろうと、動物の生活を人間に合わせていくのならば、
自然に代って人間は動物に自然と変らぬ愛と自由を与え続けるだけの愛を
持つ者でなければならないと思います。
 自然の愛(法)には無意識(本能)に従うしかない動物も、人間に飼われる(愛される)ことで、
動物にとって人間は、人間にとって神のように、愛を与える存在と理解されるのです。
 そのように自然に適応する本能を強化(条件反射に)して生きてこなかった、
飼いならされたペットが、いきなり自然の中に抛り出されて、
どうやって生きていけるというのでしょう。
 人間が文明の存在しない大自然の中に投げ出されたらどうなるか、
『蠅の王』という小説で洞察されています
(松原正教授の『人間通になる読書術』という本にも紹介されています)。
 獣と化した人間が生き延びてゆく。
 理性的に生きようとする者を殺し、自らの理性を殺し、獣に帰っていきます。
 人に育てられ、人の愛を知った動物も自然の中に抛り出されれば同じことです。
 人間の愛によって生きてきた動物が、
自然の中で弱肉強食を掟に生きてきた動物と張り合って生き抜く力はありません。
 そして人間に警戒心を持たない、ペットだった動物は簡単に人間の捕獲を許し、
自然から与えられた生きる権利を剥奪されるのです。
 動物に愛を与えてきた者が、その時だけであろうと愛を捨てる、
飼ってきた動物を見捨てるということは、愛を顧みない冷酷を受け入れたことに、
愛を裏切る心に堕すことになるのだと、
そのような行為を思い留まってほしいと思います。

 神が人間の霊でないなら、違う種である人間に神の生き方に従わせようとするでしょうか?
 神の愛がそのようなものだと言うのでしょうか?
 人間に取って最も相応しい生き方について人間に指針を与え得るのは、
人間として生きた者をおいて他ありません。
 そしてそのように他の幸福の為に尽くす人(又、私達の内に在って良心を支えてきた善人の霊)
こそ、真に人類が指針とすべき者ではないでしょうか。

 神々は同じ人間であるが故に、宇宙の法則である正法を生き抜いたが故に、
神と呼ばれるに相応しい魂となったのです。
 魂の研磨によって、神となられたことが理解出来る、理解から来る尊敬なのです。
 神への畏敬となった、その智慧と愛と、
(人の霊道を開かせ、神と悪魔を識別する知恵を授けて、その霊能者を通して語り掛ける)
霊能力が、私達の持ち得ぬものでありながらも、彼等が同じ人間であると私達は理解されたのは、
同じ波動故に伝わる、善我という神と同質の魂(心)を持つからだと私達は教えられました。
 神(天上界)の声は人の内なる神の心から伝わるものだと、
己が善なる心に従うことを求めれば、
善に徹する神の御意志を自らの心にすることが出来るのだと仰しゃいました。

 素晴らしいことだと思われませんか。
 私達の心次第で天と繋がると教えられたのです。
 私達は善なる心に生きることが出来る。
 善なる心にある者は、神(の御意志)に生きることが出来る、
真に神の愛を知ることが出来るのです。

 神の恩寵ではなく、自然、宇宙(の法則)の恩寵です。
 聖霊もその恩寵に与ってこられました。
 自然の法(調和、中庸、愛)こそ私達が守るべき、天と人類の絆なのです。
 その絆に繋ぎ止めるのは、法を認識し、従う私達の心だけなのです。

 数億年に亘って、真理に生きられた、
それ故に彼等は、真理を如何なるものであるか証する存在となりました。
 神々(天上界高次元の聖霊)を名乗る彼等が人間の霊であると語る時、
彼等を否定する如何なる存在も、彼等の語る真理が偽りであると証明する如何なる真理も、
人類の前に呈示されておりません。

 彼等の伝える真理が、神の心に生きようとする者に、真の導きであるとの確信を与えます。
 私達の知る真理は、すべて彼等を通して伝えられたことが理解されたからです。
 彼等が伝えたものは、数億年に亘って真理であり、その真理は人間の霊にとっての光であり、
人類を天へと導いたものです。
 彼等は自らが生きた真理を伝えられているのです(創造神に作られた真理ではありません)。
 その真理が齎した愛を、愛に生きる人格を証されているのです。

 彼等の救いを妨害する者がなければ、また人類にそのような悪を愛する心がなければ、
神の国は、この世に作られたことでしょう。
 神が全能であろうと、なかろうと、人類が神の救いに疑いをもつことはなかったのです。

 しかし人間の心には、何時も偽我、悪の芽が出るのです。
 自分に厳しく出来るのは、他の為に尽くす愛が無ければ出来ないことです。
 悪の心を、偽我を摘むことが出来るのは、善我しかありません。
 それが魂の研磨であり、そのような心でなければ神の国は作れないのだと、聖霊は語られます。
 神の国を作れと、それを為し得るのは、人の中の神の心だけなのだと。

 私達が聞くことの出来た、真理を、救いを伝えんと語り掛けた霊は彼等だけであり、
又、彼等に敵対する(悪)霊が現れたのは、現天上界を信じる者達の前に、
現天上界を偽りのものと信じ(背反)させる為に現れたに過ぎません。
 この敵対者が、もし真の神ならば、現天上界を信じる者達の前だけではなく、
現天上界を知らぬ者にも現れて、彼等の真理を伝えている筈ですが、
何も伝えていない、伝えるべきものなど何もないからです。

 この敵対者(悪霊)達は、自分達の存続に脅威となる真の神を、
その神に従う人々を何よりも憎む邪霊であるが故に、彼等が正法者を背反させ、
正法を信じる者達が内輪で権力争いをしている団体の如くに、
世の人々に信じさせようとしてきたのです。
 彼等が真理を愛する者に向けた憎悪の現れによって、また妨害によって、
正法が真の神の(真理を齎さんとする)意志の表れたものであることが証明されているのです。

 一九七七年まで天上界を統治されたエル・ランティ(ヤーウェ = エホバ)様の御意思を実現された
七人の大天使は、すべてエル・ランティ様の親族(実子六名のすべての方と姪にあたるサリエル様)
であることが知らされています。
 人間の霊故に、(神の御意志に生きる善人の守護の為)悪霊との戦いは、
魂の生死を懸けたものでした。
 エル・ランティ様は、最も危険な任務を、最も信頼する実の子に委ねたのであり、
真にその心を理解され、同じ心を持って臨んだのが、彼等七人の大天使達でした()。

 曾ては他にも大天使長(とその下に多数の大天使)が存在しましたが、
サタンによって生命を奪われたのだそうです。
 彼等七大天使は、常にエル・ランティ様と共にあり、また親族でもあった為、
エル・ランティ様の報復を恐れたダビデから暗殺される機会を免れられたのだそうです。

 絶対神しか認めない、絶対神による完全な保護を求め、
己が一方的に信じているというだけの神に、
己が心を明け渡してしまった未熟な精神の信者にとって、
このような真の神と大天使達の心を、精神を理解する時は、永遠に来ないかも知れません。
 絶対神への信仰を心に据え、理性を不要(教義の教える神様の御心に、
その代行者の言われるがままに従ってさえいれば良い)とする精神にとって、
人の理性に、善我に(善なる波動を以て)繋がる神々の優しい、繊細な想念も、
人間の魂故に、研磨し続けた精神力も、理解し受け止め得る器ではないでしょう。

 天上界が宗教を見放したのは、天上界の導いた(自然の法、真理を解明する)科学を
拒否する宗教に洗脳されていない知性を持つ者でなければ、
正法(真理)を受け入れられないと判断されたからです。
 科学を理解出来ぬ時代には、
奇蹟(その奇蹟も、あくまでも自然の法則に準ずるものであること、
科学によって解明されるものであることが、現代に於て証されました。)
を通して神の存在を証され、
科学を通して真理を理解し得る理性を得た現代人には、
理性こそ神の心であることを、自らの知性に於て見出したのです。

 正法が科学であると言われたのは、
科学が真理を求め見出そうとする理性(合理的思考)の働きによるのと同様に、
正法が自然の中に働く法を理性によって解明し、法に従うことで人類を生かそうとするからです。

 天上界は科学と宗教の一致を説かれました。
 真理は一つであり、真理は神から齎されたものです。
 科学の未熟な時代に、宗教を通して生きる指針となる真理を与え、救いを齎されました。
 しかし、(サタンの考えを見抜き、撥ね除け、神の真理を歪められることなく、語り得る)
偉大な宗教家を通さなくとも、信仰に依らずとも、科学を通して、理性を通して、
神は人類を真理に導いてこられました。

 科学は理性の働きであり、科学的思考を学ぶことで理性は育つのです。
 神の心、徳とされる心の働きは、すべて理性からしか生まれないものであると、
その理性に生きる精神は、大脳の開発なくしては齎されないことを明かされたのです。
 宗教が愚鈍に留まるのは、理性を、理性の働きである真理を求める、
その為に科学という万人に齎された共通の、
共有し得る真理への道を歩むことを拒んでいるからです。

注。
 昔テレビでよく見た「サンダーバード」の舞台設定が、
天上界高次元のあり様を反映しているのではないかと思えてしまうのですが、
偶然なのでしょうか?)

〖備考
 何故宗教は神が人間の霊であることを受け入れられないのか、
如何なる人間にもそれを直観し得なかった、
初めてそれを語った方が、自ら神を名乗られた方であり、
その事実を知るあらゆる霊が(霊能者を通して)語ることはなかったということです。
 神以外に人類に証することの許されなかった、
また不可能であったからなのかも知れません。
 その権威を、その能力を、その叡智を明らかにし得た真の神が語られたにも関わらず、
絶対神という概念に支配された信者には理解し得ぬことなのですから、
霊が(善霊か悪霊か判別出来ぬ)知恵なき霊能者に真実を語ったとしても、
霊能者は悪霊憑依者扱いされるか、誰にも相手にされなかったことでしょう。

 絶対(創造)神に依存する人類に、神は人間の霊であると語りかけたのは、
神は絶対神しか信じぬ理性なき人々に崇められることを望まず、
精神の成長を留めるものが神であるとする悪魔の企みを許すことは出来ません。
 神の導きに従うことで、彼等と同じ神の心を自らの心に進化し得る種であることを知ることで、
自らの意志で天に繫がる真理の道を見出すことを望まれるのです。

 同じ人間として生まれたが故に、環境次第で、善我を育てることも出来ますが、
自己保存の為に、他への愛なき自己保存に生まれる心の働きとは、
防衛機制(悪いことに意識、自覚されることのない)という偽我なのです。
 その偽我を研磨することでしか善我を育てることが出来ない、
この世は生身の人間が作るのであり、人間社会である以上、精神の成長の未熟な者に、
自己愛から善悪よりも自らの愛に生きる、人に対して悪を為す、世に悪が満ちているのであり、
その悪への誘惑、人を陥れるを喜びとする悪魔の甘言を見抜く知恵を、
善への愛を育てねばならない。
 自ら成長しようとせず、神に守られることを求める者を神は救い得ない、
そのような精神では、偽りの神に導かれて自らの意志で堕落するからです。

 宗教が、神が人間の霊であることを認められないのは、それを伝えれば信者を失うからです。
 そのような宗教はもはや宗教の体を為さないのです。
 自らの精神の成長を望み、神の救いの業に自ら協力する、神の心と一つとなることを願う者は、
神の思いを受け止められれば、それ以上に望むことはないではありませんか。
 神の思いを見出した者は、自らが自らに対して宗教指導者の如くに振舞えばよいのです。
 自ら神に証することが出来るのです。神と繫がることが出来るからです。

 宗教(指導者)と信者を繋ぎ止めるのは互いにとっての利益だけです。
 嘗てキリスト教会が神の御意志を蔑ろにし、悔い改めに導かずして人々の罪を許す、
その為に報酬を人々に強制する、まさに神を貶める悪魔の業を為したのであり、
人々は免罪という、悪魔の罪に対する寛容を受け入れることで、
罪を生んだ偽我の研磨を放棄することで(神の心からの)解放へと、悪魔に魂を渡したのです。

 真の神が望まれる、人の精神の成長を宗教は望んでいないのです。
 精神が成長し、神の心に近付く時、神が人間の霊であると証された神の思いが、
人類の救いを願ったものであることを悟ることが出来るでしょう。
 無論宗教家がそれを悟る訳がなく、
絶対神を信じる自分達は、絶対神を認めない如何なる人間(の霊)よりも上であると、
増上慢から知恵を養うことが出来なかった人達だからです。備考終〗


天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法