第二部 神と人類の交流
第三章 神の心、神の愛

二節 神(聖霊)の御人格
 人類を救わんとされた神々の御人格とは、人間である以上誰もが逃れられぬ苦しみや悲しみを、
初めから超越したような存在だったのではありません(そのような人間は存在しません)。
 苦難を受けることから、苦難に耐える中から、打ち克つ力を育てられました。

己が生命を何よりも大切にする心(本能)があるから、それに打ち克つ時、
己以上に人を大切にすることが出来る心(神の愛)を知るのです。
 自分を救う力を持って生まれて来たのです。
 その力に勝る、自分への愛に勝る愛を見出すのは、その愛に値する心を人に見出す時です。
 真理に生きぬ心が真理を見出すのは他の心に於てしかあり得ないでしょう。
 自己への執着(自意識、自己愛)が精神の自由を奪うものであることを、
苦しみを齎す元凶であることを知るのです。
 精神の自由を奪っての、人の心に喜びを齎すと信じさせる如何なるものも、
人の精神を破滅させるものです。
(人を不幸に陥れることで自らの幸せを得ようとする者は、
それで満たされる心(偽我)に生きているからです。
 自己愛に、自己保存に生きる心しか、
真の愛を知っても反発する心しか育てられなかった者です。)

 調和という自然の心を受け止めることが出来たからです。
 内なる神の心の、他を生かす思いの現われに、素直に従われました。
 真の愛に生きる心から、天への道を見出されたのです。
 人として生きなければ、神の愛には至らないのです。
 初めから、神の愛を持った存在として在るならば、天への道など存在していません。
 そこ(この世)が既に天上界、天国となっている筈ですから。
 神にあって悪魔には絶対に持ち得ないもの、真の愛を己が心に宿さぬ者に、
その愛の純粋故に神であることを見抜けず、見せかけの愛しか持ち得ぬ悪魔を見破れないのです。

「世の中があらゆる分野に於て科学優先となり、人々の学習レベルが上がり、知的水準が高くなり、
私達の語るごく人間として当たり前であり、
常識的に物事を見極めて行こうとする態度を理解して下さるまでに成長された、
 それが故の私達の証(神々が人間の霊であること)です。
 これは私達を低くする訳でも卑しめる訳でもありません。
 教養と立派な人格、徳と知性を備えた者のみを私達は今、選んでいるのです。
 それ以外は只人類を混乱と、破壊に陥れる者のみでした。」(ミカエル大王様

 そのような徳と知性を理解する者ならば、彼等の語った言葉を聞けば、真の神の御使いであり、
天上界高次元の聖霊がこの地上の人々に語り掛けている姿を見出だすでしょう。
 誤った信仰に迷い込んだ人類に、誤りを悟らしめる光を、
知恵を以て語り得た者が現れなかったのは何故か。
 語り得た者がいたとしても必ず悪魔が歪めてゆくからです。
 悪魔の介入に抗し得るのは聖霊だけであり、聖霊に守護された、
神の心を持つ預言者(天の法を託された者)だけです。

 天の齎した宗教すらも、人が神の心を失った時、
天の齎した言葉に籠められた思いを人々は忘れ去ったことを天上界は語られました。
 己の犠牲を顧みない、人への愛に生き、苦しみにある者に希望を与え、
人を神の心に目覚めさせる者が、創造神で無いからと神と認めない、
メッセージから窺い知ることの出来る彼等の心を神の心と呼ばずに、
どのような心に出会えば神であると思うのでしょう。
 そのような者には、神が現れても神の心を理解する知恵が無いのだから、
彼等の認められない真の神が如何なる方であるかなど意味のないことなのです。

 真の神であることを、その善なる心を明らかにすれば、その内なる神の心が呼び起こされ、
神であると直観する人々がきっと出てくるに違いないと、神々は信じられたのです。
 奇蹟を以て明らかにする創造神、絶対神以外に神と認めない人々は、
創造神という観念の奴隷となった者です。
 人間の霊であると証された真の神を拒む信者には、
偽りの絶対神(悪霊であれ盲信する概念であれ)が心を支配しているのでしょう。

 悪霊の憑依で増上慢(偽りの悟りの境地の盲信、狂信)となった者も又、
真の神を理解することは永遠にありません。

絶対的創造神とは、古代の人々に主として多神教及び偶像崇拝を止めさせる目的で、
必要となり誇張された概念に過ぎない。
「エルフォイド」191頁 岩間先生「現正法理論とは」より

 絶対神という色メガネを通さないと、崇めるべき神が見出せないようでは、
何時までも神の御心を知ることは出来ません。
 神の御心が理解される時、内なる神の心に目覚めるのだから、
神の為されて来たことが如何なる思いからなのか、
神の思いを、御心を知ろうと、天に繋がり、善霊と共に生きようとすることで、
真の信仰を得ることが出来るでしょう。

 真の神によって遣わされた預言者、救世主であるか否かを如何にすれば見分けられるか、
ミカエル大王様がこのように語っておられます。
〖それが作り上げた虚像の崇拝であるか、偶像化された救世主であるか、教祖であるか。
 その人個人個人の語る言葉に於て尊敬に値する人物であるか、そうでないか。
 徳が心に染み入る真実の言であるかどうか。
 通り一遍の道徳論や、哲学論の上辺のものだけで人々に神の真理を伝える者とはなりません。
 そのためには光を伴わねばならないのです。光の言葉でなくてはなりません。
 その光の言葉は天上の霊に守られて、人々の心を満し、心を強く打つものがあり、
聞く人は何か神の与え給うた使命を遂行しなければならぬという意識に目覚めるのです。
 その使命感が天上界の善霊の共感と加護を得て、何時迄も持続するのが必要なのです。
 勿論そこには何ら虚偽とごまかしがあろうはずはなく、追求を度重ねても、
やはり天上のものであるという証明が私達の手でなされるはずなのです。
 その証明が為されなくなった時そこには神は最早無く、天上よりの光も無く、善霊の加護も無く、
私達に見放された群衆に媚び、或いは瞞着する宗教家、聖職者及び教祖などが詐欺師の様に横行し、
悪霊の助けを得てこの世を地獄と化す為に繁栄するのです。
「天国の証(78年8月初版)」23頁 ミカエル大王様メッセージより

 真の天上界の言葉が、人の心の信仰の灯となる為に、
必ず天の霊自らが神の言葉を心に響かすでしょう、神の心を目覚めさせるでしょう。
 神と名乗る方がこの世に現れた時、当時の人々を救わんがために自らを顕すのに、
その時代の人々の求めている姿
〖力による保護を求める"全能"の力の神か
人が自らの心の内に見出した神・理性に従うべく求める神の授けられた法か
神自らが法に従うというその知性故に認められる神か
愛の神、キリストの父なる神か
で現れようとも、その心は同じです。

 本当に神の心と繋がっているなら、二千年前、人類の未熟な知性の時代に語り掛けた、
ヤーウェ = エホバと名乗られた神と、
今この時代に現れ、証人となった私達の前に現れた生ける神であることを証された、
現天上界に於いて天王エル・ランティ様の名で呼ばれる方と同じ方であることが判るでしょう。
(もし彼等が別々の存在であるなら、
真のヤーウェ = エホバ神がエル・ランティを名乗る霊に沈黙することはあり得ないことです。)
 その天上界の聖霊達が現代に生まれた人々の内に宿り、導かれている。
 真理とは己が心に見出さずして確信することは出来ません。
 真理は必ず心の内に見出されるものです。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法