第二部 神と人類の交流
第三章 神の心、神の愛

七節 神の心と悪魔の心について
「慈悲と愛」79年11月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」75頁

(天の教えを理解する熱意の足りぬ主宰による集いでの指導が、
天の指針から外れたものであったことに関して)
「私達のメッセージに含まれる深い真理
(勿論天国シリーズで既に打ち出してあるはっきりした思想であり、主張でもあるのです)
を見落しておられるのでしょうが、
それを今後あなた方正法者の戒めとして、ここに改めて問題として取り上げるのは、
すべて私達がメッセージ、或いは法話として機関誌に発表するものは、
あなた方の批評や再検討を待って、その中に説かれている真理を、
再び三次元の偏見と誤謬に満ちた迷論や、
世論に媚びるような俗論に落としめんが為のものではないことを、
再認識して頂きたいのです。

私達の述べる真理と同じ結論が出なければそれは私達に誤りがあるのではなく、
却ってあなた方の正見・正思・正定に誤りがあって正しい真理に達したのではない、
ということを今後は弁えて頂きたいのです。

 何の為にあなた方は天国シリーズが神理であり唯一のものであると
感動して集まり来たったのかを思い出し、
これら三巻の著書のどの箇所がそうであると感じて"集い"を開くまでの熱意を持つに至ったのかを
思い出して後、私達に何を求めているのか、何を私達と共に為したいか心の整理をして頂きたい。
 只天の為に働くならば、私達が天上界の一員として迎えると安心するのは大間違いです。
 天上界の一員となるにはそれに相応しい人格と、思考、判断力を身につけて頂かねばなりません。

三次元に於て仲良く肩を叩き合って人間が住めば良いというものではないのです。
 そのような浅薄な考えしか持たぬ人は、それ相応の報いしか受けないでしょう。
 詰り、私達は天上界にそのような人を迎え入れたくないということです。

 又、そのような人々が築くユートピアは神の国ではなくて、
人間的な俗臭を持つ人間のユートピアでしかあり得ません。
それが如何に容易に毀(こぼ)たれ、再び地獄と化すかは言うまでもないでしょう。
 聖書の中の"エデンの園"の物語と同じことです。

あなた方が我が身を振り返って、
私達天上の者より優れた識見と判断力を備えていると考えられるならば大きな誤りです。
 私達が義というものの本質について、どのように験され、鍛えられ、
年月を通じて正しい判断力を備えるべく教育されてきたか、
あなた方にはお判りにならないでしょう。
 それ無くして、巧妙な悪魔や悪霊に操られた人々のすり替えの理論や罠を見抜き、
三次元を正しく導き、或いは人の愚かさを教え、賢き道を歩ませることは出来ないのです。」

 神の善とは、神の心にあって理解される善です。
 天上界の導きとは、人類の心(精神)を神と同じ心へ導くものです。
 神の心とは、理性であり、理性とは、愛と義であるとガブリエル様は仰しゃいました。

「JI」81年8月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」140頁

「理性についてお話ししましょう。
 天上界の秩序、正しさは、愛と義からなっています。
 愛と義は何処から来るのか。
 透徹した理性による判断力から来ます。
 理性は如何なるものか。
 正しく認識しよう、或いは理解しようという姿勢からなります。
 その姿勢の基本となるものは、
やはり人の幸せの為という愛、真理を通す為という義なのです。」

神の心に生きることなくして神ではあり得ない。
 それを理解する為には、人は偽りの神の心を(自他にあって)見抜くだけの、
自らの内に神の心を育てなければ出来ないからです。
 人を神の心に導くことなくして神による救いではありません。
 人が神の心(愛を義)を知ることなく、
人間の心(偽我、悪霊と同じ心)に生きながら、自らを正しいと信じさせる、
自己保存(自己肯定、自己愛)の本能に働き掛ける、本能の領域に人の意識を縛る、
神の指針を以て自己克己に生きる理性を育てる精神を摘み取ってきたのが、
悪霊(に支配された似非文化人(左翼))なのです。
自らの心(真の愛の存在)を問うことなく、自分を唯一の存在
(自分以上の存在を理解する知能なき故に、嫉妬の情念から逃れられぬ未熟に停滞している)
であるとの左翼の御宣託を盲信し、真の愛の観念を育てられなかった者は、
精神の成長を失った者です。

悪に生きる心が善に生きる心を憎むのは何故でしょうか。
 善に生きる者は神に愛される、神に守られることを認められない、
自分が悪に生きとぃることを知っているからです。
 悪に生きることが正しいと信じる為には、結果を齎す力を信じる、
力を得る為なら、すべては許される、
そうする為には力が正義であるとする以外に、自己欺瞞の道がないのです。
 神が正しいか、悪魔が正しいか、それを決めるのは力であると考えるのです。
 力がある者が支配する、それは事実ですが、その力を何に求めるか、
それが神と悪魔、善を求める者と悪を求める者と相容れないのです。
 神の力はどのようにして得られたか、
即ち善霊が悪霊と戦うは如何なる心故かということですが、
それは、彼等が悪魔の誘惑、人の自己保存の自己愛に付け込まれることのない、
自己保存の思いに勝る神の愛に従う心を育てたからに他ならない、
人を、自然(に生きる罪無き動物を生存を)守る思いが、
恐怖心に自分を見失うことのない、悪魔の甘言に神を見失うことのない、
愛を育てることが出来たからに他ないのです。

悪魔の力とは何か。神への憎しみしかない。
 自らを神にする心(これはナルシストの心そのものです)にとって、自分の持たぬ愛故に、
自らを誇る心なく、人の幸せに自らを捨てる心故に、
人から神と崇められる心への、自分の心の醜さを知らしめる心への、
憎悪からくる力なのです。

 サタン・ダビデが初めから悪魔の心しかなかったならば、
善を、愛を理解することが全くなかった心ならば、
ダビデが天上界に存在することは決してあり得なかったのです。

ミカエル様がダビデはアルツハイマー病ではなかったのか、そのように語られ、
またアルツハイマー病について言及されたメッセージでは、理性を司る前頭葉が死滅すれば、
善人が悪人になるということを語られています。
 自己保存の本能だけが残り、理性が死滅すれば、悪霊と変らない魂になるということです。
 ダビデは、嘗て持っていた理性の働きを、前頭葉の死滅によって失った、
若しくは理性の力が弱められ、人々の崇拝を以て己を神とする、
人の喜びに生きるのではない自らの喜びに生きる、自己愛の力を強め、
そうなった心に神の心を失ったことを覚る理性も失っていたのではないか。

(種の保存の)本能に生きている動物の心が、人の愛以上に真の愛を思わせることがあるのは、
自己保存の自己愛を完全に超える時です。
 子を生かすことが出来るのは自分しかいない、その生かす思いに彼等自身が救われる、
そのような心が種を存続させてきた、そのような心を育てたのが自然の慈悲です。
 本能とはそれ程素晴らしいものである、
それを本能と貶めてきたのは、その愛を失ったことさえ理解されない心であり、
真の本能、自然の与えた(種の存続の)愛を理解せず、自己愛を愛と誇った。

動物にはエゴイズムはあってもナルシズムという心はない、
エゴイズムはそれが叶えられれば満足しても、ナルシシズムは満足しない、
何故ならナルシシズムは常に自分に意識を向けさせる、
満足する心ではなく、その心であり続けようとする心、飢え続ける心であり、
それを虚しい(満たされることがない)と悟らぬ心は、
精神が開発されなかった者か、アルツハイマーで嘗て在った理性が死滅したか、
ミカエル様のアルツハイマー病に関するメッセージからこのように思えたのですが、
天上界の方々は神の愛を持たれたのは、
(ラファエル様が仰しゃった)本能の愛を昇華されたということだと思います。

 理性を強化するとは、
理性(の理解した観念、徳、真理)に徹する心(条件反射)を強化することであり、
その力は本能の自ら生きようとする力を、真に自分を生かす為に、
本能を従わせる、本能以上の力を意志が獲得する、
その意志が善我を育てるのであり、理性と本能が調和した心です。
 善我に生きていれば、仮に理性の意識が弱められたとしても、
善我なる心の培った条件反射、人の思いを感受する繊細さ、悲しんでいる人に注がれる慈しみ、
そう言った心は変らないものだと、
それもミカエル様が仰しゃった(オフィーリアの譬え)ことです。

天上界が人類を神の心へと導く為に与えられた善我の指針である、
愛、正義、信義は、理性であることを、
故に理性を開発しなければ理解されないことを教えられました。
 何を以て指針というのか。
 そのように生きることで、それを喜びとする心が作られる、
自らの人生で見出した真理を以てしか神の心の生きる道を見出すことは出来ない、
故に神は神の心を与えるとは言わず、導くと言われたのです。

 そのような心に生きるならば、理性が何であるか理解する能力(前頭葉)を失っても、
神の心を失うことはないのです。動物は、愛が何であるか、理解する言葉を持たないから、
理性が何であるか、自分の生き方が理性に適うか判断することは出来ませんが、
彼等は愛に生きることが出来るように、
理性の導きに自ら従うことで神の心を育てることが出来た者は、
たとえ理性、真理が何か判らなくなるようなことになったにしても、
真理の種が心を満たすまでに成長させる、真理に生きる心を育てることが出来た者は、
動物が愛に生きるように、人も愛に生き続けることが出来るのです。

 悪魔が人の心に撒いた種、悪魔のイデオロギーを育てた心は、
偽りの指針、その言葉は神の与えた言葉であっても、その言葉を口にしながら、
その思いは、イエス様が偽善者パリサイ人を白く塗られた墓であると言われた譬えのように、
あらゆる汚れた思いに満ちた心しか持ち合わせていないのです。
 愛を、正義を語りながら、それを以て
(神の真理を、救いではなく人を滅ぼす為に利用しているのです)人を裁く、人の心を踏み潰す、
高ぶった心に、力に、満たされる、その邪念を喜ぶ彼等の心が悪魔なのです。

 ダビデはアルツハイマーではなかったかとミカエル様が仰しゃったことですが、
生前ダビデは甘やかされて育ったことを伝えられたのですが、
善とは何かを、己が心が善に生きていないことを知りながら、
善に生きる心を軽んじる、善を偽る、人を操ることを以て人に勝る者であると、
騙された人を嘲笑うことで己を高しとする心の、
支配欲の満たされることに喜びを見出す偽我を育てたのです。
 偽善、善を偽る知恵を持っていたが、善に徹する心を育てることがなかった、
善我の条件反射を育てることが出来なかった人であったように思います。(2025.8)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法