第二部 神と人類の交流
第三章 神の心、神の愛
例えばエゴをむき出しにする心を醜いと感じない人というのは、
美しい心を理解する知性を持たないのでしょう。
神、真理、徳について言葉は理解しても、
美しい心、善なる心への憧れさえも持たないのなら、
たとえ真理の言葉を聞ける環境に生まれ育っても、
彼等は地に落ちた為に陽に焼かれた真理の種、
効力を失って捨てられた塩と譬えられてきた人達です。
真の神々が、この現代に生きる人々の前に現れ、
自ら(聖霊と伝えられてきた)天上界高次元の霊を名乗り、天の法を、神の心を語られました。
天の意志がこの世に現れるこの時の為に生まれて来る(神を見失ったこの時代の)人々を、
神の思いの伝わる心へと導かれました。
人の内に在って常に善なる波動に共鳴する感受性を育てられたのです。
今を生きる人々が天の大いなる業(計画)によって初めて聖霊の思いを受け止めた時、
美しい心、善を愛する心そのものを見出すことが出来たのです。
その心に生きようと思い、その心に人が生かされることを願うようになるのです。
真理に生きないなら真理は無に等しいと天は言われました。
その言葉を聞いて尚、天の思い(願い)を理解出来ぬ者もいます。
一節 神の心の本質(心根)である善意、優しさ
「JI」82年8月号初出 ラファエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」154頁
「今日は暖かい心と冷たい心の違いについて皆さんにお話ししたく思います。
何度も私達が申し上げていることですが、表面的な優しさは
単に人前で身繕いをする社交的な言葉の遊びと同じで、真に暖かい心の尺度とはなりません。
時には優しい言葉も苦しみ、悩んでいる人、愛を求めている人の救いにはなりますが、
真の優しさはやはり人間への深き理解に裏付けされたものでなければ、
人の心を癒すものとはならないのです。
微笑みがポーズであってはならない、言葉が単に言葉で終わるものであってはならないのです。
このような人は、いざと言う時は逃げて、あなたを救ってはくれません。
その優しい言葉の語る内容を分析し、突き詰めて考えて行くと何か壁の様なものにぶつかり、
何が目的なのか判らない。
迷路に入り込んでしまったり、会話から何も得る価値がなかったり、
逆にあなたの同情や賞賛を求めるものであれば、
それはエゴイズム、ナルシシズムの変形に過ぎないのであり、
真に優しい思い遣りから出たものではないのです。
人の事を考えぬ冷たい心です。
逆に、言葉は少なくとも、ブッキラボウでも、厳しいものであっても、
あなたへの理解が深く、魂を磨き、知性と判断を高めてくれるもの、
あなたへの思い遣りから言葉の少ないもの ー それは他を益する優しい、暖かい心です。
そして又、暖かい心は些事に拘ること無く、あなたの判断と思考と行動の自由を与え、
正しい方向にあなたが向くのを待つ師の思いでもあるのです。
時に愚かや甘えを鞭打つ厳しさも師の暖かい思い。あなたに期待しているのです。
しかしあなたの隣人が思考と行動を束縛するような厳しさを持ち、
正しい方向も示さないような人であるならば、
それは、エゴイズムとナルシシズムから来る厳しさ、ぞんざいさ、冷たい心の表れです。
お判りになりましたか?
冷たい心とはエゴイズムの表れ。
そのような人は自己の偽我を指摘されると益々防衛的に冷たくなるのみ。永久に天に来れぬ人。
知恵も、三次元の社会を漕ぎ抜ける知恵しか身に付きません。
言葉や動作の身繕いの巧みな人は、エゴイストであることを理解しておくべきです。
又、理屈の為の理屈をこね、物事の表面的な理解をしか示さない人は未熟な知能かナルシストで、
これも社会のリーダーとなるには相応しくない者。
全体を見通せないで、一つの事ばかりに執着する者も同じ。
暖かい心を持つに至らない、心を預けるに相応しからぬ人物です。
そのような人々は避けて通るべきでしょう。」
「JI」83年5月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」165頁
「"優しさ"とはどのような形で現れる心情でしょうか。
法の裁きに於ける"情状酌量"ー 人間愛がそのような心情を齎します。
"慈しみの雨、即ち慈雨"のような心の働きを言うのです。
愛を知らぬ者、人を愛する術を知らぬ者は"慈雨"の如き感情も判りません。
それは形式的にこれこれの限界があると解釈する物差しを持たず、
しかし強いて言えば水に溺れる者を救おうとする感情に似た行為です。
動物を飼育する時、人間とは違って殆ど無理な要求を出さず、
赤児のように生命維持の為にのみ、何かを訴える場合が多いのを気付く人は、優しい心の持主です。
愛や慈悲を知る人です。
その同じ心が尺度と言えましょう。
人とて同じ。その人の危急存亡の時、生命、生活維持の為に助けを求める時、
手を差し伸べるのが真の愛であり、慈悲であるのです。
勿論、足りて豊かにある所へ年金生活を勧めたり、
福祉にのみ力を注がせて市や国を弱体化させるを目的とした共産主義者及び社会主義者は、
"慈悲"に名を借りた魔性の者。
悪を企む無法者。国を滅ぼす者。正法者が決して真似てはいけない思想です。」
〖備考
「たとい私が、人々の言葉や御使達の言葉を語っても、
もし愛が無ければ、私は喧しい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。」
(新約聖書 コリント人への第一の手紙13章)
愛が無くとも、愛の言葉は語り得ますが、
愛が無ければ、そのような言葉には、人の心に働きかける何の力もありません。
真の善意、優しさの無い心は、人の心に優しさを生むことはありません。
人の評価を求めての偽善とは相容れぬ神の愛、自己犠牲の愛は、
愛を信じぬ者には感受されないかも知れませんが、
愛を信じる心には、人の心の善意は優しさは必ず伝わるものです。
何故なら、このような心を持つ者を、人を裏切らぬ心を人は愛し、求めるからです。
人は愛することが出来たら幸せだと知っています。
裏切られるのを怖れて憶病になった者も、人を裏切ることを知らない優しい心に触れることで、
信じる心を取り戻すことで、救われるのです。
その様な優しい心を返してくれる動物の心の様に、汚れに侵されぬ、
善の、優しさの思いを伝える聖霊の御心は、
人を善なる思いに、神の心に生きる勇気を齎してくれるでしょう。
愛は生き物を愛する愛、それしかないことを天上界は教えられました。
天上界の方々の心、生き物を愛し、
苦しむものを知りいたわる優しさ、正義を、善を愛する思いは同じ一つの心から出ており、
このような心を美しい心と言うことを理解出来ましたが、
このような美しい心であるから、悪を見抜き、拒絶することが出来るのであり、
悪を憎みさえ出来れば美しい心と言える訳ではありません。
愛がなければ思い遣る心(人を気遣おうとする思い、人の心を感受する繊細さ)
を持つことは出来ず、
優しさ【生命を愛おしむ心から齎されます。
動物にあって人間に与えられていない筈はないのです。
人間自らが捨て去り、代りに得たものが
(他へ思いを向けない、己に執着する)エゴイズムであり、ナルシシズムです。】
がなければ愛は生まれようがないと思うのです。〗
「希望と愛と光」81年1月(創刊)号2頁 千乃先生解説より
「動物も植物も含めて、生命あるものすべてを愛する気持ちが無ければ、
優しい隣人の愛は持てません。
"愛"というのは、心の底に"優しさ"が無ければ出てこない感情なのです。」
「慈悲と愛」80年1月号 (天上界からの教え)より
「善意を持つこと。常に善意が悪意に先行するべく自らを矯め直し、厳しく鍛えてゆくのです。」
「JI」83年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」167頁
「人を信じることとは、優しい心と同じ、寛容な態度でその全人格、言葉や行いを受け入れ、
又、正しい方向に向く迄待つことです。
勿論、忠告をして後待つので、その人の反省すべき点を指摘せずに待つことは無意味です。」
「又、人を信じるとは、疑いながらその言葉を聞くのではなく、
真直ぐな心で受け入れることなのです。
これは正法を知り、学ぶ者として心しておかねばならぬことです。
人が偽りを言い、欺こうとする時、それに気付くのは遅くても構いません(※1)。
他の証言を得、あらゆる点から見て、あなたに真実を語らぬと分析的に証明し得た時、
初めてあなたはその者を悪と断じ拒否すれば良いのです。
その場合には毅然として譲らずに。関係を断つことに未練を残さずに。
それ迄はお互いの善我を信じ、許し合いましょう。それがアガペーの愛です(※1)。」
「天国の光の下に(78年12月初版)」(たま出版)323頁 千乃先生解説より
「この日本に高次元が移り、
救世主が生まれるべきだと提案したのは他ならぬダビデであるとのことですが、
それは何を意味するのか。
日本は救世主を必要とせず、求めてもいなかったのです。ユダヤ民族のように。
ダビデは出来るだけ多くの人の霊道を開くことを提案し(天上と地上が緊密になる為)、
事実悪霊や死霊の絶えざる憑依も、霊道を開いてしまうことを知っていました。
そしてヒステリック(日本人に多い性格特性)な霊能者は
論理的に物事を判断する習慣・性癖を持たない。
これではその真意を深く考えず迂闊に同意されたエル・ランティ様以下
天国の高次元の方々にとって恐ろしい試練がやって来たのも無理からぬ事でしょう。
すべての事を善意に解釈しておしまいになる(※1)のがエル・ランティ様のカルマ(業)なのです。
そしてダビデの死後も天上界は並々ならぬ苦渋の時を迎えていられます。」
(※1注。
"神を信じる者を疑おうとされぬ故に、神々さえも騙されるのです"
徳が何か知らぬ者にも、その行いから真の心が伝わる、人に信じる心が生まれる、
信じる心が生まれずして神の思いが伝わることはない、
神の思いは人への信頼から齎されるもの、
その思いが真故に人の真心に伝わってゆくのでしょう。
神を信じる者を神は信じられます、愛されます。神を信じる者を疑われないからです。
それだから、神々も騙されることがあります。
それほど、人は悪(の思い)から解放されることを、
自由を愛する神の下に生きたいとの願いを信じられるからです。
神に救われた人々の喜びを知っておられるからです。
「JI」87年12月号 ガブリエル様メッセージ全文
「これは前月号のメッセージに続ける内容のものです。
熱意ある一正法者が知人と出資し合って(ジェイアイ)出版社のように企業を作り、
正法流布資金作りをしようとして、再婚相手に迎えた若年の妻を社長にした所、
このスポンサーたるべき人が病気になり、しかも身障者であるので、頼りにならない。
収入が少なく、反って妻の収入に頼る形になり、妻にもたれかかり過ぎである。
過労と継子の養育も精神的負担になった。
だから共に住むのは耐え難いと、この女性は家を出てしまいました。
しかもその兄や会社の社員達が一様に女社長の肩を持ち、
正法の為に労働奉仕をしていたスポンサーを切り離そうとしました。
しかもこのスポンサーは集いの信任を受け、
出資者も彼がスポンサーならと信用して出してくれたもので、
例え夫人であろうと、そのように彼を扱うなら、手を引こうと言います。
会社の社員であって新しく専務を任じられた若い人物は、
只老齢で妻に頼るだけの役に立たない病人のスポンサーを養う為の生活費も、
別の企業を始めて、それが軌道に乗る迄の資金援助も出す余裕はないと言い、
スポンサーの功績をまるで認めず、無収入のまま、
集いにその人物の世話を全面的にさせようと言わんばかりの態度です。
医療費も出せず、無料で診療してくれる医師の好意がなければ回復することもなく、
病死したかも判らないような状況でした。
情けなく、悲しいことです。
いつ私達は弱者を見捨てよと教えましたか?
不合理で不正が行われている形の福祉の行き過ぎには反対です。
しかし真に助けを必要とする弱者を助けないならば、無慈悲な教えとなり、
天の法、神の教えや言葉とは言えなくなります。
弱肉強食の世界は動物であり、人間のなすわざではありません。
互いに助け合うことの中には、弱者への思いも含まれているのです。
夫婦間のいざこざに第三者が感情的に加担し、
どちらかの肩を持って裁くことは非常に偏った対応です。
夫婦の当事者同士の意見の食い違いや争いに両方の言分を充分に聞かず、
一方の証言のみで裁いて第三者が介入するのは、決して公正ではなく、
正法者としてもあるまじき態度です。
いくら会社の収入を正法流布資金として殆どを捧げると言っても、
又その為に負担となり重荷となるので、この病弱者を除きたいという考えは、
やはり天の法にも、人の法にももとるものです。
若いがゆえに無駄を除き合理化しようと考えるのでしょうが、
そこに人間としての情や慈悲がなければなりません。
"慈悲は相応しいものに与えよ"というのは、利己的で天の求める人格を持たず、
持とうともせず、天への背信に等しい心情で生きる人物は相応しくない。
しかしその逆は慈悲に値する人であると私達が教えているのを悟らねばなりません。
でなければ、何故に草木や花や動物に愛を与えられますか?
彼等も、人間から見れば弱者です。
そういったものに与える愛と慈悲が、人間の弱者であっても、
例え他に比して力及ばずとも、心正しい、神を信じ、神の為に働こうとする人であれば、
与えられるべきであるのは当然でしょう。
それを理解していなかった若者が居るならば、
そのように法はあるのだと覚ってほしいと思います。
互いに無慈悲にならず、冷酷な扱いをせず、暖かい気持ちで愛を与え合いなさい。
その時あなた方の心が天使の心のように豊かになり、
美しい人格の衣を着ることが出来るのです。
追 記
このメッセージの内容は結果として逆であり、
千乃様が忙しい時期に色々な人々が入れ替わり、立ち替わり、
相も変わらず片方のみを弁護し、報告が混乱し、二転、三転したものですが、
実際は企業の当事者の報告が正しく、第三者の偏見に、私達まで惑わされたものです。
悪霊に挑発される正法者が多すぎる上に、
そういったタイプの人はいつも定っております。
いつもの事ながら、人の善意を信じず、自らの偏見を正当化しようとする人
(兵庫県知事を陥れようと躍起になった左傾メディアの態度に、
顕著に表れていました。しかも極左政党に繋がった者が知事候補に担がれたのですから、
これらの出来事が一つの意図のもとに画策されたものであることは明らかでしょう。
今何が霊の世界で起きているか、
天上界からメッセージで知らされなくては覚ることが出来ないようでは、
今までの天の努力が全くの無駄であったということになるのです。
そうは思われませんか)には、心から腹立ちを覚えます。
今後は部外者の偏見には左右されないように、私達も更に注意し、
私達の直観と判断を貫きましょう。
このメッセージは、単に一つのたとえ話として参考にして下さい。」
「JI」87年6月号 ラファエル様メッセージ全文
「今月は驚くべき事柄を知らされましたが、以前に私がロック・ミュージックとして、
ビートルズ程度のものは好ましいが ー と発言した責任上、触れずには済まされないので、
やはり取り上げることにしました。
私自身麻薬について興味がある訳ではなく、
又、ビートルズの曲の一つ一つについて歌詞を研究したということでもないので、
ジョン・レノンと小野ヨーコ夫妻が一際享楽的な生活を送っているとは聞いておりましたが、
これほど退廃的で腐ったリンゴのような曲を作り、演奏していたとは知りませんでした。
やはりリベラリズムを提唱するような人々は、表面的に人を惹き付けるものを多く持っていても、
サタンに仕える邪道を歩む者であり、神の光りを喜ぶ者には無縁で、
避けて通らねばならぬ類の人々であることがはっきりしました。
ヨガの行者に遭い、神に背を向けた時から、ジョン・レノンは悪魔の誘惑に屈し、
リベラリズムから人間のあらゆる退廃を喜ぶ共産主義へと堕ちていったのでしょう(※2)。
美しい曲を書ける才能を持ちながら、悪魔に操られる青年として生涯を閉じたことは、
哀れな運命だと言わざるを得ません。
私自身が神の使いとして天上に住みつつ、
悪魔の歌を満更悪くもないと感じていたことは真に恥じ入るべきことです。
心からお詫び致します。
あなた方も、常に心して、サタンの甘い言葉とささやきに惑わされぬよう
理性と知性を駆使し、知恵の楯により、自分を守って下さい。
神に従い、神の道を行こうとする者には、
必ずサタンが忍び寄り、誘惑の手を差し伸べます。
昔は天使も堕落せしめられたものでした。
ましてや天に今住んでいるのではない、
しかも神の戦士であるあなた方への惑わしは、想像を超えて遥かに多く、
片時も警戒を緩めず、悪魔の企みを鋭く見抜く知恵を働かせて
罠を避けて通らねばならないのです。
罠はどのような形で仕掛けられるか、一例としてお教えしましょう。
英語を学ぶ(興味のある)人なら、
必ず一度は手にする『タイム』という英文週刊誌がありますが、
これははっきりした目的で左翼編集人によって発行されるもの。
如何にも公正な内容に見えますが、中道マスコミと同様の手法で、英語で表現すると、
〝Liberal and Soft on Communism″のマガジンということになるのです。
九十一箇国で発行し、六〇〇万部売るそうですから、共産主義を伝播する悪魔の謀略は、
魂の奴隷である人間の手を介して限りなく広がろうとしているのです。
『タイム』のみならず、『英文毎日』、『ジャパン・タイムズ』など、
日本人編集による英字新聞も総て左傾し、英語を通じての文化交流は、
国際共産主義が自由陣営の言論の自由の扉を閉ざしているのです。
その行き着く所が何処であるか、あなた方にはよくお判りでしょう。」
(※2注。
プライマル療法(悪魔的な思考から生れたものであり、この療法を生み出した治療者自らが
ジョン・レノンの治療に当たる様に仕向けた存在もまた同様です)
なる精神治療を受けることで、心の底に蠢(うごめ)く感情を解放したジョン・レノンは、
正(まさ)しく理性の箍(たが)を外すことで、偽我による心の支配を許したのです。
偽我の感情から伝わる悪の波動が悪霊を呼び込んだのでした。
その時から彼は悪霊に支配される者となったのです。※2注終)
独善的な者はナルシストであり、自らの偽善を認める真の善なる心を持たない故に
独善にならざるを得ないのです。
自らの偽善を認めるような自分に厳しい心を育てることは、
自己肯定のぬるま湯から出ようとしない(自分に甘い)ナルシストには出来ぬ相談です。
偽善に生きながら自らを善人と疑わぬ者は、
自分が煽てられていることも悟れず、悪魔の甘言を真に受けて騙される、
ナルシストの偽善者が悪霊に標的にされるのはこれほど扱い易い心はないからです。
悪霊に簡単に唆されるのが単純な偽善者ですが、
左翼は悪魔のイデオロギーに生きる、即ち悪霊の想念と同調しているので、
多くの悪霊から邪念を受けるほど、
自分は正義であると確信を持って偽善(悪)を為す者となります。
著名な左傾文化人は左傾メディア(悪魔の広報)の後押しもあって、
彼等の語る偽善を正論と扱われていますが、中国共産党を利する言動は、
本人は偽善を悟らず己の善意に酔い痴れていようと、
その心は悪霊と同じものであることを見抜かねばなりません。
ナウシカの作者は、自分の全財産を以てフィリピン人に償うなら立派な志とも思えますが、
日本政府がこれまでアジアの国々に償ってきたことを無視するほど
日本人が受けてきた苦しみを顧みず平然と日本人を貶め、
自らは償うどころか、フィリピンで平和賞の表彰を受ける、
日本軍人はフィリピン人を(アジアの人々を)虐殺してきたことを忘れてはならないと言う人間は、
肉体は同じ日本人でも、自分はそのような日本軍人を心底憎む、
虐殺されたフィリピン人を心から愛するのが自分であると信じて疑わぬ心なのでしょう。
『もし私達が先祖の時代に生きていたなら、
預言者の血を流すことに加わってはいなかったであろう』
(「マタイによる福音書」第二三章三〇節)と言ったパリサイ人と同類の人間であり、
心の底に邪念を隠し持つ白く塗られた墓であるとイエス様の言われた偽善者とは、
そのような心を盲愛する自己愛を昇華し得ぬ未熟な精神に留まるが故に、
永遠に善我(神の心)を知ることのない人々です。
中国共産党に、悪魔に操られて、天上界への妨害に与しながら、
己が正義を悪なる人々に思い知らせずにはいられぬ、己を高しとする、悪霊と変らぬ者です。
自らは人に非難されぬ優位な立場に置いて、
そこから人を蔑む、貶める、これほど卑しい心が他にあるでしょうか(※3)。
これが偽善に生きる者の本質なのです。
この世に、人の心に平和を齎すには、神の国を、神の心を齎すこと。
そして天上界に神の国を統治され、人の魂を神の心へと導かれた聖霊が、
私達を今導かれているのです。
その為に、私達は何をすべきか、出来ることは何か、それを考えること、
それを天上界は望まれているのです。
彼等を神であると信じることの出来た者は、
神の愛、神の法(正法)なくして、
この世を、人の心を救うことが出来ないことを知っています。
何故なら、この世を、人類を滅ぼそうとする悪魔の邪念に対して、
神を、聖霊を愛する心だけが、この世の人々の自己愛を、民族主義を超えることが出来るのであり、
自己愛に勝る神の愛を見出せぬ心は、悪魔に支配された心であり、
そのような精神では神の下に一つになり、悪魔の甘言に唆されることなく、
欲望に、邪念に靡く偽我に打ち克ち、神の智慧を見出すことも、
真理の前に跪き智慧に従うことも出来ないからです。
私達の先祖の悪を数え立て、それを受け入れさせることで、
人に信じる心を、愛する心を齎せるものとあなたは思われますか?
そのような悪を為した者の子孫であることを自覚すれば、善への愛が生まれると思いますか?
そのような者がいますか?
私達の前に現れた神が、そのような邪悪な血を継いでいると私達を裁きましたか?
私達に神の法を伝えたのは、神の法によって私達を裁かんが為と思われるのですか?
人類を救う為ではないですか?
私達日本人に、人類を救う為には自らを擲(なげう)っても悔いなき神の愛を見出すことを
信じられたからではないですか?
日本人を貶めている人々に、天上界の方の持たれる神の愛が見出せるでしょうか?
私には偽善者の心しか見出せません。
そして神は、神の心を信じ、神の愛で繋がる時、天に繋がることが出来ると教えられました。
神の愛、真の愛を持つ者が、天に繋がらない筈はないのです。
神を見出した心は、神の心に生きる者を見出し、信じ、愛するのです。
善なる心の波動は天に伝わり、善霊が私達を力付けて下さいます。
常に天上の善なる波動によって人類は神の下に繫がることが出来ることを教えられました。
真の天上界の神々を見出した心は、人の神の心に繋がるのです。
神への全き信頼を人は持つことが出来ると信じられるから、
人に神の心を見出し、人への信義に懸けることが出来るのです。
私達は唯一の神の心を、愛を、法を伝えれば、
必ず偽善者の、サタンに繋ぎ止められた邪悪に勝つことが、
この世に神の国を、神の平和を、人の心に神の愛を齎すことが出来るでしょう。
(※3注。
「天国の証(78年8月初版)」89頁 ラグエル様メッセージより
「神、至高神、天上界の最高権威である、エホバであり、ヤーウェである、
エル・ランティ様は人類にイエス様の十字架上の死を通し、人類の罪の贖いを通して、
一つの取捨選択の自由をお与えになったのです。
善と悪との取捨選択の自由と魂の成長の機会をお与えになったのです。
子が親から離れて巣立つように、
人類はそれまでのまたそれからも犯すかも知れない罪を問われず、
罪があるならばそれを反省し、己を罰する心を神への詫びとして、
自由なる人間として良き生を選び、悔改めの生涯に何か意義を与え、
人々に、己を十字架に付けて、その隣人愛の証とする ー
それをエル・ランティ様は人々に範としてお示しになった。
イエス・キリストの犠牲を通して。」
天上界の全ての善霊が耐えた十字架(イエス様の犠牲)とは、
人類が自らの意志で善に生きる心を与える為であったことを証されました。
人類を救うことを願った神が為されたことが、人類を裁くことではなく、救うことであった。
真の救いとは、人類が愛を知ることであったからです。
愛は、神への信頼は、強制からは生まれないものだからです。
人に罪の自覚を強いる、法によってその資格の与えられた裁判官でもない、
罪の犠牲になったのが自分自身だからでもない、
そのような者が人に罪の意識を押し付ける、
このような心のどこに神の心が、天に繫がる心があるのか。
真に地獄に繋がれた心であるのは明らかではありませんか。※3注終)
※1注終)
現象テープ№25 「天国語の語源について」より
80年6月29日 ラファエル様現象
&「慈悲と愛」80年9月号
&「天上界メッセージ集」115頁
「天国の言葉では、その言葉の中に沢山の意味が含まれます。
しかし、その中でも一番大事な言葉は『愛』という言葉。
『愛』という言葉は、今の地球上の国々の中では、
たった一つの言葉で表されることが多いのですが、
私達の世界では様々な意味に於て『愛』という言葉を使い分けます。
例えばどういう場合でしょう。
「私はあなたを愛しています」そういう場合は、どういうのでしょうか。
「ル・セルメス・ディア」こう言います。とても美しい響きです。」
「私達天国の言葉の中で一番美しい言葉、「セルメス」という言葉。
この「セルメス」という言葉は、ベー・エルデの星で宝石から由来したものです。
この宝石は大変美しく、例えて言うならば、地球の真珠のようなものに似ていますが、
七色の光を放ち、そして陽に当てることによって、それは赤にも紫にも変わります。
とても美しく、その宝石を手に入れるにはその人の心掛けが必要なのです。
それは探せば採れるというものではありません。
何処の中に埋もれているとも限らないのです。何処に在るかは誰にも分かりません。
ふとした時に見つかるものなのです。
或る人はそれを心の宝石だと申します。
私達ベー・エルデ星人の中には、その宝石を持っている人は少ないのです。
唯一人、その宝石を持っていられる方、それはエル・ランティ様です。
「セルメス」という宝石はとても美しく
私達天上の者でさえその光を眺めることは滅多にありません。
エル・ランティ様の頭上に輝く「セルメス」の輝き。私達はそれを、栄光の輝きと呼びます。
ベー・エルデでは宝石は珍重されませんが、「セルメス」という宝石だけは、
皆さんに、ベー・エルデの人達に、大変憧れられている光です。
その宝石「セルメス」の宝石自体は、幸せを齎したり不幸を追い払う力は持ちません。
しかしその宝石は人の心を奮起させ、勇気を与えることが出来るのです。
あなた方の心の中に「セルメス」の宝石を持つようにして下さい。
そしてあなた方の心の中にきっと「セルメス」の光が見えることがあるでしょう。
とても美しく、それは天国の光に包まれるようです。」
(真に神の御心を知る存在、神の御心を伝える真の神の御使です。)
"聖霊の心、聖霊の愛"
天上界の聖霊が先頭に立って神の御意志を実現されているのは、
全知全能なる神などいないからに他ならないのですが、
彼等は神に代ってその愛を伝えることだけを欲したが故に、
彼等のように、人に依存することのなく神の心に立って、
真の愛に生きる心を得ての幸せを人々に願うが故に、
彼等はただ愛を現し、自らを表さなかった故に、
世の人々は彼等を見出すことなく、彼等の愛を同じ人間の心と信じられず、
彼等の為してきた業が神によるものと、全能なる神の業と信じました。
ただ神から愛されることを求めることを信仰であると理解する人々には、
知られることなく人の為に尽くす心が神の心であり、
神が人々にそのような心に生きることを願っている、
それが本当の幸せを知る心だとは彼等には理解出来なかったからです。
(悪から人々を守る為に戦い、顧みることのない人々に聖霊の業を証そうとされぬ、
愛故に誇る思いのない、そのような心以上に唯一の神を証する心があると思うのでしょうか。
そのような心を置いて、全知全能を、絶対なる力の神を讃えることが、
真に神の心を知る者の、神への愛の表れなのでしょうか。
絶対神故に神を崇める、神を信じる者は、真の愛に生きる神の御心を感じているのでしょうか。
自らの神の心に目覚めているのでしょうか。)
天上界の聖霊は人々に顧みられることのなかったことを悲しまれたのではなく、
神の愛の伝わらぬ、愛に生きることを知らぬ、
真の神を決して認めることのない魂を、神に忘れられて行くしかない魂を悲しまれました。
"正法者へ呼び掛ける神々の思い"
罪に生きる心から逃れられぬ苦しみにありながら、
神の心を知らず、神に愛を求めず、ただ自分が天国に迎えられることを欲する
自己保存(偽我)からの願いが幸福に、救いに至るものと信じる。
偽りの幸福が破滅へと導くことを知らぬ人々に、神は真の救いを伝えられる。
欲望に生きる盲目を悟らしめ、真の救いに与らしめんと、手を差し伸べられる。
天、自らを救わんとする者を助く、
自ら内なる神の心に帰ろうとする者が、天に、神の下に帰ることが出来る。
悪しき心に生き、悪霊の意志に支配されていることに気付かぬ者を、神を顧みない者を、
救おうと神が顧みられている。
この事実だけを以てしても、
全ての心は神だけが真の救いを齎し得る方であることを、
神の心だけが、真に人の生きるべき心であることを悟らねばなりません。
私達の魂を救うのは、この世を全てと、この世の基準のみを認め従う人々ではありません。
私達が真に救われることを願い、人を救うという愛に生きる心に目覚めさせるのは、
真の神の愛以外に、唯一の天国を治められる神以外に他に何があると思われているのでしょう。
神の愛を悟らぬ者に愛があるなどと考えられるのは、愛を知らないからです。
現象テープ№37 「メッセージ」より
82年1月10日 イエス様現象
「私が生きていた頃に、法を広めようとしたように、
あなた方も又、私達の仲間ではありませんか。」
現象テープ№27 「正法流布について」より
80年8月11日 ガブリエル様現象
「心が挫けそうになった時は、イエス様のことを思いなさい、ブッタ様のことを思いなさい。
あなた達の偉大な先輩なのです。
あの方達を、メシヤとして崇める必要はないのです。
正法者とはそのようなものです。
あなた方の先輩だと思えばいいのです。
先人達は、偉大な足跡を残して行きました。
そしてあなた方も今、その足跡を記そうとしているのです。
今はまだ、それが解らないかも知れませんが、時が経てば必ず解るでしょう。
今、あなた方は無駄な事をしているのではないか、このビラ撒きは失敗なのではないか、
と思うことがあるかも知れません、ですがその一歩一歩こそが大切なのです。
小さな一歩は大きな一歩になるのです。
地味な仕事を続けなさい。そうすれば必ず広まるでしょう。
それは私達が確信を持って言えるのです。」
神々が私達に向って仰しゃる"私達は同じ志を持つ仲間"と言うのは、その"仲間"の前に
"天の善を守る為に、平和な世界を築く為に生命を惜しまない、共に悪と戦う"
という意味があることを忘れてはなりません。
絶対的信頼を置くに値する者だけが仲間と呼ぶに値するのです。
仲間を裏切ること以上に信義に悖(もと)る行為はないのです。
天の御意志に生きる仲間とはそれほど大切な存在なのです。
そのような(信義の)絆がこの世に神の国を齎し、天と地を繋ぐことが出来るからです。
私達に向って天上界が仲間と呼び掛けられたからといって、
私達が神々の仲間に値するなどと思うのは勘違いも甚だしいことです。
その呼び掛けに私達が応えられる為に、
天の与えられる道が如何に苦難に満ちたものであるか
(その道が天に繋がるものと信じて歩んだ者だけが
天の信頼に値する魂を持つことが出来るからです)。
それを理解出来ぬ者が、自分達が天上界に迎えられるべき仲間と認められていると
思い違いをして、天上界の方を自分達と同等の如くに扱ったのです。
自分にはそういった心は決してないと、断言出来るでしょうか。
私達の鈍い心に彼等の声が伝わるまで、どれ程の思いを掛けてこられたでしょう。
私達はどれだけその思いを受け止められたと思っているのでしょう。
イエス様が「私達がどれ程の思いを籠めて語り掛けても人々の心に響かなくなってしまった」
と言われて、それが自分に向けられた思いと受け止めた者がどれだけいたでしょう。
私達に向って仲間ではないかと仰しゃった天上界に
真直ぐ顔を向けられる人がどれだけいたことでしょう。
私達にこの世を救わんとされる天の御意志に生きる気持ちが生まれなければ、
天上界の思いは無にも等しいと仰しゃいました。
〖備考
本当の優しさとは、人の思いを受け止めることの出来る、
その思いに応えようとする心の表れなのだと、
そのような優しさを与えられないでいることを何とも思わない、
自ら優しくなろうと思わない者であってはならないと、
孔子様は教えられたのだと思います。
映画監督ヴィム・ヴェンダースが作った映画「ベルリン 天使の詩」の中で、
屋上から飛び降り自殺しようとしている者に、
彼の苦しみを知る天使が寄り添っているシーンがありました。
天使の思いも伝わる心なく、
それまで彼を愛した人々の愛の記憶も絶望の心に蘇ることもなく、
闇に葬られた心の後を追ったのでした。
神の救いの思い、優しい感情(想念)の伝わらない心、
それもかつて神の心を知った者がその心を取り戻す熱意を失って、
如何なる希望を見出せるものでしょう。
苦しみから、寂しさから、希望もない心から解放されたいと、
死の先に魂の解放があると、苦しみから救う為に神が死へと導いていると信じる以外に
希望を見出せないのかも知れません。
苦しみとなってきた人間関係も、肉体の病もなくなれば
そのような記憶は忘れ去られるでしょうか。
苦しかったままの、克服されることのないままの記憶として
心を苦しめ続けるのではないでしょうか。
【魂の世界に於ても人間関係があるのであり
(心の病んだ人にも勿論善人と悪人の違いは厳存し、心が病んでいるからと
悪人であろうとこの世のように病人として手厚く扱われることはありません。
悪人の霊の世界に行くのです。)、神の愛を中心とした世界が霊の世界です。
この世に於いて神を見出せなかった者が、
神の愛に生きる人々の心を信じ、愛し、彼等に信じられるように、
神の愛に生きることを求め努力しなかった者が、
霊の世界に於て神を見出せるでしょうか。
自らの魂を救うことが出来るでしょうか。
病気が治らずに苦しんでなくなった人の霊体も病に苦しむ条件反射が残される為に、
病人だった霊体がこの世の人に憑依した場合、
霊体の修復されないでいる病気、痛みが憑依した人間の体に、
その人自らの障害と同じ条件反射を引き起こす、
病んだ霊体が生前から持つ(患部がエネルギーを吸収して治癒しようとする)条件反射が、
憑依した人間の肉体に対しても同様に働くのだそうです。
しかしこの世での治療で直されるのは肉体のみで、
肉体に憑依した霊体までは効果は及ばないのだそうです。
霊体は天上界に於てしか治療し得ないことをエル・ランティ様は証されました。】
天上界はイエス様に十字架の苦しみを与えたことに、
イエス様の魂を天に召されて現代至っても尚、
癒されることない苦しみであると語られました。
そのような天上界の救いの思いも未だに人々の
(偽我、悪魔の心に生きながら、天国に行くのが当然の如くに安穏としている)
心を救いへと目覚めさせることが出来ないで、
イエス様の苦しみの報われないままで、
どうして彼等の苦しみが癒されることがあるでしょう。
人は何故苦しむのか、苦しんでいる人を助けたいとの思いを持つ魂にとって、
苦しんでいる人が自らを救う真理を伝えずにはいられなかった、
それが天上界の生きる心でした。
苦しみから逃げることしか考えないなら、苦しんでいる人を見ても助けることよりも、
苦しんでいる人から逃げようとするでしょう。
苦しんでいる人を助けることで、
神々といわれる彼等も自らの苦しみに負けない愛を見出して行かれたのでした。備考終〗
〖参考
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 42頁
「志(こころざし)をいう」
顔淵(がんえん)季路(きろ)侍(じ)す。
子いわく、蓋(なん)ぞ各々爾(なんじ)の志(こころざし)をいわざると。
子路(しろ)いわく、願わくは、車馬衣軽裘(しゃばいけいきゅう)、朋友と共にし、
これを敞(やぶ)りて憾(うら)みなからんと。
顔淵いわく、願わくは善に伐(ほこ)ることなく、
労を施(おお)いにすることなからんと。
子路いわく、願わくは子(し)の志を聞かんと。
子いわく、老者(ろうしゃ)はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、
少者(しょうしゃ)はこれを懐(なつ)けんと。 ー 公冶長篇 ー
ある日の夕方、孔子は、多くの門人たちが帰ったあとで、
顔淵と子路の二人を相手に、うちくつろいで話していた。
孔子は顔淵をこの上もなく愛していた。
それは、顔淵が、孔子の片言隻句(へんげんせっく)からでも深い意味をさぐり出して、
それを事実上に錬磨することを怠らなかったからである。
顔淵は、実に、一を聞いて十を知る明敏な頭脳の持ち主であった。
だが、孔子の心をひきつけたのは、彼の頭脳ではなくて、その心の敬虔さであった。
顔淵のこの心こそは、真に人生の宝玉である、と孔子はいつも思っていたのである。
子路もまた孔子の愛弟子の一人であった。
彼は、孔子の門人の中での最年長者であり、
孔子と年がわずか九つしかちがっていなかったが、心はだれよりも若かった。
そして、その青年らしい、はちきれるような元気が、いつも孔子をほほ笑ましていた。
けれども、その愛は、顔淵に対する愛とは、まるで趣のちがった愛であった。
孔子は、顔淵に対しては、ほとんど真理そのものに対する愛、
といったようなものを感じていたが、子路に対しては、そうはいかなかった。
孔子は、子路について、たえず深い憂いを抱いていた。
それは、子路が、いつもその自負心のゆえに、
浅っぽくものを見る癖があったからである。
彼は、道を実行する勇猛心においては、門人たちのだれにも劣らなかったが、
その実行しようとする道は、いつも、第二義、第三義的なものになりがちであった。
そして、ややもすると、彼は、みずから正義を行っていると信じて、
かえってまっしぐらに、反対の方向に進んでいくことすらあった。
元気者であり、実行力が強いだけに、
彼のそうした危険も、いっそう大きかったのである。
こんなわけで、孔子は、子路の元気なところを見ていると、
いつも微笑せずにはおれなかったが、その微笑は、そう長くはつづかなかった。
微笑のあとには、きまって、深い寂しさが彼の胸をいっぱいにするのだった。
ことに、今日こうして、淡い夕暮れの光のなかで、
顔淵と子路の二人だけを相手にしてすわっていると、
顔淵の病弱なからだに比べて、子路がいかにも豪壮な様子をしているにかかわらず、
孔子の目には、子路が見すぼらしく、空っぽに見えて仕方がなかった。
で、今日は一つ、しんみりと子路を反省させるように仕向けてみたい、
と思ったのである。
子路を反省させるには、実際、こんないい機会はめったに見つからなかった。
自負心の強い子路は、たくさんの門人たち、
ことに彼が、学問において自分よりも後輩だ、と思っている門人たちのなかで、
孔子に真正面から訓戒されることは、その堪えられないところであった。
また、かりに遠まわしに諭されて、それが自分に対する諷刺だとわかったとしても、
彼はおそらく、それは自分にかかわりのないことだ、といったような顔つきをして、
その場をごまかしてしまったであろう。それほど彼の自負心は強かったのである。
けれども、彼のこの自負心も、顔淵に対してだけは、さほどに強くは働かなかった。
顔淵は、だれに対してもそうであったが、
年上の子路に対しては、特に徹底して謙遜であった。
時としては、子路のいった言葉を、子路自身で考えていた以上に、深い意味に解して、
こころから子路に頭を下げるようなこともあった。
そんな時には、さすがの子路も、いくぶん面映(おもは)ゆく感じたが、
顔淵が自分を高く買ってくれるのを、心ひそかに悦(よろこ)ばずにはおれなかった。
こんなふうで、子路は顔淵に対して、
ふだんから一種の気安さと、親しみとを感じていたのである。
で、顔淵の前だけでなら、孔子に少しぐらいなにかいわれても、
さほどに苦痛には感じないらしかった。それを孔子もよくのみこんでいたのである。
孔子としては、、子路のそうした心境を、悲しく思わないわけではなかったが、
子路を諭す機会としては、やはりほかに人がいない方がいいと思ったのである。
それでも孔子は、けっして子路を真正面からたたきつけるようなことはしなかった。
彼は子路にだけものをいう代わりに、二人に向かってそれとなく話しかけた。
「どうじゃ、今日はひとつ、めいめいの理想といったようなものを話しあってみたら」
この言葉を聞くと、子路は目を輝かし、からだを乗り出して、
すぐに口をきろうとした。
孔子はそれに気がついたが、わざと目をそらして、顔淵の方を見た。
顔淵は、ただしずかに目を閉じていた。
彼は、自分の心の奥底に、なにかを探(さぐ)り求めているかのようであった。
子路は、自分にものをいう機会を与えなかった孔子の心を解(げ)しかねた。
そして、いささか不平らしく、
「先生!」と呼びかけた。で、孔子も仕方なしに、また子路の方をふり向いた。
「先生、私は、私が政治の要職につき、
馬車に乗ったり、毛皮の着物を着たりする身分になっても、
友人とともにそれに乗り、友人とともにそれを着て、たとい友人がそれらを痛めても、
うらむことのないようにありたいものだと存じます」
孔子は、子路が物欲に超越したようなことをいいながら、
その前提に自分の立身出世を置き、友人を自分以下に見ている気持に、
ひどく不満を感じた。そして、促すように、ふたたび顔淵の顔を見た。
そして、促すように、ふたたび顔淵の顔を見た。
顔淵は、いつものような謙遜な態度で、子路のいうことに耳を傾けていたが、
もう一度、自分の心を探るかのように目を閉じてから、しずかに口を開いた。
「私は、善に誇らず、労を衒(てら)わず、
自分の為すべきことを、ただただ真心をこめてやってみたいと思うだけです」
孔子は、軽くうなずきながら顔淵の言葉を聞いていた。
そして、それが子路にどう響いたかを見るために、もう一度子路を顧みた。
子路は、顔淵の言葉に、なにかしら深いところがあるように思った。
そして自分の述べた理想は、それに比べると、
いかにも上(うわ)すべりのしたものであることに気がついて、
いささか恥ずかしくなった。
が、悲しいことには、彼の自負心が、同時に首をもたげた。
そして、彼はそっと顔淵の顔をのぞいて見た。
顔淵は、しかし、いつもと同じように、つつましくすわっているだけで、
子路が述べた理想を嘲(あざけ)っているようなふうなど、微塵もなかった。
子路はそれでひとまずほっとした。
けれども、子路としては、孔子がどう思っているかが、もっと心配であった。
そして、一種の気味悪さを感じながら、孔子の言葉を待った。
孔子は、しかし、じっと彼の顔を見つめているだけで、なんともいわなかった。
かなり長い間、沈黙がつづいた。
子路にとっては、それは息づまるような時間であった。
彼は目を落として、孔子の膝のあたりを見たが、
やはり孔子の視線が自分の額のあたりに落ちているのを感じないわけにはいかなかった。
彼は少しいらいらしてきた。そして、顔淵までがおし黙って、
つつましく控えているのが、いっそう彼の神経を刺激した。
彼は顔淵に対して、これまでにない腹立たしさを感じたのである。
で、とうとう彼はたえきれなくなって、詰めるように孔子にいった。
「先生、どうか先生のご理想も承(うけたまわ)らしていただきたいと存じます」
孔子は、子路が顔淵に対してすらも、
その浅薄(あさはか)な自負心を捨てきらないのを見て、暗然となった。
そして、深い憐憫(れんびん)の目を子路に投げかけながら、答えた。
「わしかい、わしは、老人たちの心を安らかにしたい、
朋友とは信をもって交わりたい、年少者には親しまれたいと、
ただそれだけを願っているのじゃ」
この言葉を聞いて、子路は、そのあまりに平凡なのに、きょとんとした。
そして、それに比べると、自分のいったこともまんざらではないぞ、と思った。
彼のいらいらした気分は、それですっかり消えてしまった。
これに反して、顔淵のしずかであった顔は、うすく紅潮してきた。
彼は、これまで幾度も、今度こそは孔子の境地に追いつくことができたぞ、
と思った瞬間に、いつも、するりと身をかわされるような気がしたが、
この時もまたそうであった。
彼は、自分が依然として自分というものにとらわれていることに気がついた。
先生は、ただ老者と、朋友と、年少者とのことだけを考えていられる。
それらを基準にして、自分を規制していこうとされるのが先生の道だ。
自分の善を誇らないとか、自分の労を衒わないとかいうことは、
要するに自分を中心にした考え方だ。
しかもそれは頭でひねりまわした理屈ではないか。
自分たちの周囲には、いつも老者と、朋友と、年少者とがいる。
人間は、この現実に対して、ただなすべきことをなしていけばいいのだ。
自分にとらわれないところに、誇るも衒うもない。ー
彼はそう思って、孔子の前に首(こうべ)をたれた。
孔子は、自分の言葉が、自分の予期以上に顔淵の心に響いたのを見て取って、
いい知れぬ悦びを感じた。
けれども、かんじんの子路が、なんの得るところもなく、
相変わらず浅薄(あさはか)な自負心に災いされているのを見ては、
ますます心を暗くせずにはおれなかった。
彼はその夜、寝床に入ってからも、子路のためにいろいろと心を砕いた。参考終〗
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第二部 神と人類の交流第三章 神の心、神の愛六節 神は人間の霊である 迫害され、救いを求めながら、苦しみのうちに死んで行く人々を見て、どうして神は全能であると信じていられ...
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- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様