第四部 天への思い

第三章 神の思いの伝わらない心
 優しい思い遣りに、愛に満ちた心と、怒り、憎しみに溢れた心の違いは、
波動の違いとなって伝わります。
 強い念波を発する霊が働きかけると、
彼等の思いを乗せた波動を人の心は強制的に受信し、同調し、
その思いに心が支配されてしまうのです。
(神の心を持った人も、憎しみに、悪しき想念に満ちた環境に生きていれば、
悪に染まってしまうことを天上界から教えられました。)
 憎しみに満ちた心に、赦しの優しさが取り戻せたのは、
悪の波動に勝る善の波動を受けた所為かも知れないのです。
 怒り、憎しみが何時までも続く人は、自らの憎悪が引き寄せたの悪霊に更に強められて、
善なる心を省みられなくなってしまった人です。
〖百年経とうが忘れてはならないと、ことある毎に(注目される度に)
罪を反省しろと騒いでいる人は、何にでも憎しみを注ごうとする悪霊
(除霊しても人格は変らず、又別の悪霊に直ぐ憑依される人です)と化しているのであり、
天にも見捨てられた者です。〗

 悪に怒りを覚えるのは当然ですが、
悪を為した者が法で裁かれても、反省が足りないと許そうとしない心は、善なる心ではありません。
 悪を憎むのは善なる心とは限らないのです。
 悪を憎む、人を悪と決め付けて裁く心がそれ以上に醜い心の場合もあるのです。
 悪を滅ぼすのは善を守ろうとする愛があるからです。
 善を愛を注ごうとする心を、注ぐべき対象を見失い、
憎き者を破滅させることしか考えない魂は既に悪魔に委ねた者です。
 悪を憎む思いが天と繋がっていれば、悪を為したことを悔改めなかった者であろうと、
既に死んで神の裁きを受けている人々を何時までも許してなならないというのは、
神の教えに反することは理解されるでしょう。
 彼等は真の神を見失い、己を神にしているとはそういうことを言っているのでしょう。
 彼等を擁護する左傾メディアも魔性のもの、口車に載せられぬよう、
相手の本性を見誤ることなきよう正見を心がけたいものです。

 波動となって伝わる思いは、同じ波動を持つ心に届きます。
 神と同じ善なる心でないと神の思いは感受出来ないということです。
 心とは、人間として生まれ、生きて初めて作られます。
(生後、狼に育てられた人間は、狼の行動を条件反射とする心を育て、
狼と共に生きる術しか学習せず、人としての学習が皆無であった為、
人間性も知性も無い動物に過ぎませんでした。
 最近のニュースでは、熊にさらわれ、熊に育てられ、
熊として生きている子供が発見されたと伝えていました。)
 まっさらな心で生まれて来る(遺伝が生かされるか否かも環境次第です)から、
如何ような心にも成り得るのです。
 神の心を養う機会となるのです。
 一生を通して如何に生きるかで、神の心にも悪魔の心にもなるのですから、
神の心を己が心にすることが出来る機会は、人間として生きるこの一度限りの人生しかないのです。

 人間の善なる心が内なる神の心と天上界が仰しゃったのは、
神の思いに繋がる、神の御心が臨まれるのが人の良心(内なる神の心)であると、
神に仕える如くに己が良心に従おうと心掛けるべきものであることを
諭さんが為にそのように言われれてきたのではないでしょうか。
 イエス様が"神はあなた方一人一人の心にある"と言われたことです。


 同じ心でありながら、人間の心は生まれてから初めて作られるのに、
神の心は宇宙が生まれる前からあったなどと、どうしてそのような考えになるのでしょう。
 二千年前の科学という真理を追及する知性の働き・術を知らない時代の人々が、
聖書に記されている(それも神が語っているのではありません(※1))
ことだからと、疑うことも考えることも出来ない人々に信じられたに過ぎないのです。

 現代に生まれ、科学の証明した真理を知る機会が与えられながら、
全く理解しようとしない知性というのは、知能が開発されなかった人です。
 科学が発達していない時代でも知性豊かな人はおりました(科学を学べなかっただけです)。
 真理を拒み、知性の開発を阻む、愚かしい、自分に受け入れ易い考えに固執する、
誤りを正して真理を受け入れる新たな条件反射を築いて行くだけの真理への愛のない知性は
天の心とは相容れません。

 神の心も悪魔の心も、波動は全く異なりますが、その心から出る波動は、唯一の波動であり、
その波動は真にその心の姿を伝えるものです。ごまかすことは出来ません。
 同じ一人の聖霊から、受ける者のそれぞれの心に合わすように、
違う波動で神の心を伝えるということは不可能なのです
※2
人を騙す偽りの愛を表せても、真の愛の念を生むことはサタンにも出来ないのです。
 神の心は悪の心を寄せ付けず、悪の心には伝わらない。
 神を偽る悪魔も神の波動を持つことは出来ない。
 邪心からは邪念の波動しか生まれない。
 善なる心には神の想念が、悪なる心には悪魔の想念が伝わり、思いを強めます。

 神の御心は人間には理解出来ないと言えば、
謙虚な思いの表れとでも思い違いをされているようですが、
そのような考えは神には通用しないものです。
 神を愛する者は、神の御心を愛する者であり、
御心が理解されるのは、内なる神の心だけがそれと知る真の神の愛を感受するからです。
 理解出来ないのは、"謙虚な心"の所為ではなく、"神の心"を見失っている所為です。
 神の心に生きるとは、神の御意志を己が意志と生きる者です。
 内なる神の心に生きぬ信者が、神を愛すると言っているのです。
 彼等の思い(祈り)は天に届かないと仰しゃるこの霊は真の神で在らせられます。

※1注。
「天の奇蹟 上巻(80年10月初版)」193頁
 著者(岩間先生)の質問への(元大天使)ラファエル様による解答より
「(聖書に名が明かされている大天使について自ら言及されて)
実は、実際に私達天の使いが現れ、それを伝えたものを録(しる)す場合と、
聖書記者が想像で天の使いを登場させる場合と二通りあります。
 私達が聖書に親しみ始めたのはほんの五、六百年位前からですから、
後に創作部分を知ることにより、時に楽しみもし、困惑もしました。
 また、何れの場合も私達元大天使が外典、儀典は言う迄もなく、
聖書の編纂に立ち会ったこともないのですが、記録担当の者も(天上界に)かなり居りますから、
人の意識に働き掛け、劇的、感動的に全編を統一させたものでしょう。

 当時私達は専ら活動するのみで、天の王ヤーウェ(エホバ = エル・ランティ)様の命を全うし、
悪霊と戦うこと、義人を守り抜くことが仕事のすべてでした。
※1注終)

※2注。
 邪念からの波動は変えようがありませんから、
それを感じ取らせない為に悪霊は物理的に温かい波動を人に当てて、
善霊であると人を勘違いさせて、善霊に成り済まして人に近付くということがありました。
 善なる思いから出る波動は人の善なる心に働き掛ける、悪霊には真似出来ぬものですが、
善霊が自らを人に証す目的でも、現象(温かい波動も現象の一つ)を用いてはならないと
天上界は定めました。
 ですからそのような区別の出来ぬ者にとって、単に暖かいだけの波動
善なる心から伝えられる繊細な波動と違い、誰にでも強く感じさせるもの
(故に悪霊の荒々しい波動も気付かれない)を、善なる波動と勘違いすることから、
又、天に信じられている確証を得ねば不安で仕方がない、
天の愛を信じる心の育っていない者は、
高次元の聖霊の働きかけ(訪れ)を期待する心を見抜かれて、
聖霊を偽る悪霊に付け入れられてしまうことから、
暖かい波動という現象を以て近付く霊はすべて悪霊であると、
誰もが正しく判断出来るようにとの天のお計らいでした。
 それを伺っていながら、甘言によって近付く悪霊を見抜けず、
唆され天に背反する者が絶えませんでした。

 善なる心から自然に伝わり、私達に理解される思いは、
善人も善霊も変る所のない優しい、人を思い遣る神の心です。
 このような愛は悪霊にとって耐え難いものですから、
私達を善なる優しい思いに変える波動を送られる方達は、
善霊以外にあり得ないことが解るのです。※2注終)

〖備考
 何年もある考え、人生観に執着し、
ただ苦しみでしかない、何の価値もないと解っていながら、
その思いから解放されることのなかった者が、
ある日その執着心が突然消え去り、二度とその思いに悩むことがなくなったと、
神が救ってくれたのだと証する方がおりましたが、
天上界の聖霊がその人の心に入る、
そのような心の波動を今まで持ったことのなかった者が同じ波動の心となった時、
執着心から出る波動と違う心になる、
執着した心の愚かを思い知っていたが故に、
一旦破壊された執着心は、二度とその力を持つことがなかったのでしょう。
 聖霊の訪れは、彼等の意志を伝えるべき者にのみ見出されることを欲するが故に、
如何なる心にも見出される肉の目を通して現れることがないのです。
 彼等の意志が伝えられる前に、真理を愛する彼等の心に満たされるのです。
 神の意志を理解するに相応しい心に清められる、心の目が開かれる。
 彼等の思いの理解される者にのみ彼等は訪れるからです。備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法