第三部 神から授けられた正法
第四章 神の法
「JI」82年12月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」160頁
「正法とは天の美しさを伝える以上に徳の厳しさによって導かれねばならぬ神の法であること。
神の法であるが故に、そこには微塵も軽々しく、且つ俗的で、
視野の狭い考えが存在してはならぬこと。
天が未来を語る時、それは常に永遠に連なる善と正義の予見が存在していること ー
それらをまず心に深く留めて、自らの洞察を養い、過ちを防ぐ努力をして頂きたいと思います。」
「慈悲と愛」79年12月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」79頁
「常に真の物と偽の物とを見分けるべく心を落ち着けて深く考え、
天の法は何れであるか、何れに於ける天の証が真の物であるか、
ブッタ様の法、イエス様の法の真髄が統合された正しい流れは、何れに於いて説かれ、
且つそれよりも新しく、精神を豊かにする価値を持つ法が説かれ(ねばならなかった。
そのことも解って貰えない為に、ラファエル様がこのように語り掛けられました。)ているか、
文明の持てるすべての知識と先人の智恵を照し合わせて判断すべく、心に問うて確信を得て下さい。
生半可な知識では判り得ぬものです。あなた方正法者の中の智者に問うて学んで下さい。」
神の与えられる法とは、神自らが従われている法です。
神ご自身が従うべきものとされてきたものです。
(神は御自分に従えと仰しゃっているのではない、
すべての生き物を生かしめている法に、自らを救う為に従うように、
強制ではなく、人自ら神の心に目覚める、真の愛、万物への愛に目覚めるように
導いてこられたのです。)
神の法を差し置いて、従うべき如何なる法がありましょう。
宗教ならば内容如何を問わず、信じる自由を保障するという法(※1)は、
神からのものではありません。
偽りの神を信じる自由を保障することは、神への背信行為です。
真か偽か判断出来ない為に宗教を平等に扱うならば、
すべての宗教を法人と認めてはなりません、邪教を法で守ってはならないのです。
悪に利用されるだけです。
盲いて滅びようとしている人類が目覚めて救いの道を見出すことを神は願われているのです。
信仰の自由は守らねばならぬからと、
盲いた者に悪魔と同列に扱われて神が喜ばれるとでも思っているのでしょうか。
宗教は、宗教に従事する者は特別だから、
特別扱いされることを当然と考えているのでしょうか。
彼等は本当に神を敬っているのか(※2)。
本当の神を敬っているのか。
真の神は、高慢を戒められたのではなかったのか。
神を敬う心を失ったら、もう宗教家でも何でもありません。
常に神を敬う心に生きる、天の光の下にあろうと望むならば、
神の光を、慈悲を求める心ならば、
神を戴くべき高みに己を置くことが出来る筈はないのです。
特別扱いに甘んじることから、堕落が始まるのです。
己を特別と思うことが既に堕落しているのです。
【庶民が救われると、自分も神の子になれると信じることが出来る為には、
彼等を導く宗教家が人として生きる上での苦しみに耐え、克服した者、自分が救われたように、
庶民の救われる為の手助けをしたいとの熱意を持った者でなければならないのは当然でしょう。
そのような者が初めて宗教家になり得るのです。
自らを庶民に秀でる者と見做しているような者を天は必要とされません。
人が神の子になるとは、
そのような神の心を誰もが持っている、
その心に立ち返ることで神の子となるのです。
人が神の子になるとは、
真の神を神であると知る心に目覚めることです。
宗教家は大切な神の子を預けられた者です。
神にその信頼を受ける、それ以上に誉とすべきことがあるでしょうか。
神の信頼を得て、神の愛に満たされた心が、
神の愛以外に何も望むものはないことを知る貧しき心(謙虚な心)にある者が、
自らを高しとする(自らを特別な者と自惚れる)心を抱くことなどあり得ないのです。】
そんなことも解らなくなってしまった、善我を見失ってしまった者が、
堕落の道にある者をどうやって正道に導くことが出来るというのでしょう。
盲目(めしい)が盲目を導くとはこのことです。
彼等が宗教家を名乗るなど、以ての外です。
信仰の自由とは、唯一の天へと導く道へ、何処から入るか
(真の神の与えられたどの宗教から入るか) の自由であって、
信じることが赦される(認められる)神は唯一の方です。
(天の国に、神と共に、生きるに相応しい心を世に明らかにする、
世に働きかける者が天への道を歩む者です。
宗教はその入口に過ぎません。正しい道に足を踏み入れたに過ぎないのです。
知識を得ただけで心を磨くことのない者は、
教団という組織に居ることは出来ても天国に入ることは出来ません。
天国に相応しい心を持つ者が、磨かれた魂のみが天国に入るのです。
宗教の導きによって神を、真理を信じた時、天への道に踏み出したのです。
善なる心(で世に働きかける)を貫いた魂のみが天国に迎えられるのです。
如何にして善なる心を見出すか、善なる心を貫くか、
正法を通して明らかにされました。
天国に招く神々の思いが初めて証されたのです。)
法は罪を罰する為にあるのに、天の法はこの世に属さないからと、
法の守護者(神)に背く行為を許容する法であってはならないのです。
人間の良心は神から来ているのです。
神の与えられた良心に逆らい、己が良心の痛むことがない、
そのようなことを許してはならないのです。
この世の人々が神と悪魔のどちらに従っているのか見分けが付かないからと、
神も悪魔も信じるのは自由であるという者が神の裁きから自由である訳がないのです。
天国の法を成り立たせているのは、どこまでも善です。
そして善を愛する者しか天国は受け入れません。
神から与えられた善の上にこの世の法を築こうと為されてきましたが、
この世の物差しで神の御心を測る偽善が悪の心を生かすものとなっています。
神の法は、良心を生かしめるもの、良心に目覚めさせるものです。
この世の法を、神の法・正法に従うものにしなければなりません。
それがこの世に神の国を築くことに他ならないのです。
神の法に背かせる、神の思いに背く心へと導く邪法の存在を見抜けぬなら、
神の法(真理)にのみ従う理性が育っていないのであり、
エゴイズムに基づいた邪念の解放を齎す(悪魔の息のかかった)法に飼い慣らされてきたのです。
真に人を生かす真理に基づく神の法に従うものに、
この世の法を変えて行かねばならないのです。
神の法を守るとは、守るべき法へ、
善の意志を妨げる如何なる邪念も許さないものへと在らしめねばならないのです。
守るとは、今あるものだけではない、あるべきものを妨げている悪を取り除き、
善なる心に生きる、善なる思いに繋ぎ止める、あらゆる良き観念を守ることでもあるのです。
(※1注。
如何なる宗教や思想でも信じることを許すのが真の自由なのではありません。
それは真の自由に生きんとする善なる心を失わせるものです。
「JI」84年4月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」184頁
「理性を働かせて、科学的に冷静な目で事象に対処することが文明人の智恵であり、
迷信や盲信、はたまた狂信的な人格とは異なるあり方であると、私達は幾度お教えしたことか。
しかし理性と科学的な判断力を培えない現代の日本の教育法では、
そこで育った若い正法者も、共産主義者や年長の宗教的人格と同じく、
迷妄の域を出ない人が多いのは止むを得ないかも知れません。
すべては左翼である日教組の為した破壊現象であるとしても、日教組を排除する智恵なき親と、
老獪(ろうかい)なマスコミの洗脳活動の狭間(はざま)にあって、
自由な国に住みつつも、子供達や若者は既に社会主義の犠牲になってしまったのでしょう。
民主主義という虚名の下に、弊害のみと知りつつ、
誤った思想の教育団体や政治・宗教・文化団体を擁護しなければならぬ民主政治の仕組みは、
自由競争と人格の錬磨の場を与えてはくれてもその利点に関しては
時に疑いの念が湧くのを防ぐべくもなく、最近は焦慮することしばしばです。
(注。国を良くする、国民を助ける為にある国会の場を、
自己顕示欲、支配欲、その偽我の需にを満たさんとする、れいわの女性議員のような
他を貶めることに喜びを覚えるような精神の歪んだ者を人の上に、
それも国会議員と認めるような社会は、これまでの日本の歴史の上でも起き得ない、
(共産主義が日本に浸透したが故に起きた)日本国民の文化(に生きる心)
が破壊された証拠でしょう。
欲望を権利とすり替えて左翼(日教組)はエゴイズムが正しい心であるかのように
教え導いてきた成果でしょう。
このような人間を持ち上げる左傾マスコミも腹立たしい限りですが、
何千年と亙って引き継がれてきた本来の日本人の心を地に擲ち、
踏み躙る者を見て怒りを覚えるなら、
真の心、神に導かれてきた心に立ち返らねばならないのです。
真の保守派の人々は、このような世を齎した保守派の堕落を許した自らの(人間の)弱さから
立ち上がるしかないではありませんか。
自らの邪悪に勝てない者が世を救えるとは思われないでしょう? 注終)」
政治家を選ぶことが出来るのは選挙権を持つ者だけです。
その資格を持つ者は国民であるが故に、
政治家にとって国民は神様(この世的な表現に於いてですが)ということになります。
しかし政治家は国民でなければその資格が与えられないのですから、
神様の立場である国民から自ら国民の僕である政治家になろうというのであれば、
真に自己犠牲的な精神の持主でなければ出来ないように思うのですが
(最も能力のある者として選ばれるスポーツ界の(国民の)代表のように、
選挙で選ばれるということも、誰よりも優秀であると国民に認められたという意味の代表だと
当選された代表の皆さんは思われているのでしょうか?)、
その能力が認められた者が大臣などになっているのでもないようです。
各派閥から派閥の力関係に相応しい大臣の椅子が振り分けられていたとしても、
相応しい能力を持つことが前提条件とされるのは言うまでもないことと思うのですが、
それも人を見る目のある者が組織の長に選ばれる、
真の民主主義が貫かれてこそ為し得るのでしょう。
どのような立場に於てもその役目を自覚して為そうとする者でなければ、
如何なる世界にあっても(その能力は)認めれることはなく、
政治家も選挙で思い知ることになればまだ救いはあるのでしょうが、
日本国民が自ら勝ち取ったものが民主主義の精神という訳ではないので
(左翼などは民主主義と言っても中身は全くの共産主義でしょう)、
到底民主主義者とは思われないような者も選ばれるのが
現代の(発展途上の?)民主主義と呼ばれるもののようです。※1注終)
(※2注。
"神を敬う心について"
〖神を敬う心は、神の救いの業を知る。
神の業は、人(の心)を救わんとする心の表れであるを知る。
人の心の内に現れる神の心をそれであると知るは、己を低くする心だけである、
そのような心にしか神は現れぬからである。
神を見出した者は天をこのように伝えられた。
人は神と繫る時(人は神の救いを、神の導きを信じる)、
人と神の愛を以て繫り(神の救いを互いに信じる、神を信じる心から繫る)、
人に神を見出す時(神の愛は人の神の心に生きるものだからである)、
天と繫がる(神の御意志に生きる天の聖霊を一つになる)〗
神の思いの伝わった者の、その心に生きる喜びが語らせた言葉であることに気付かぬなら、
何の意味もないものです。
神の心を見出すことこそ伝えるべきであるのに、
天国に行くということが生きる目的であると信者の思いを向ける、
自己愛からの欲望に生きる執着心からの解放へと神は導いているのに、
宗教(教団)は信者を執着心に留めようとしている
(その熱意に宗教団体の存続が掛かっているからです)のです。
信者から魂の救いを、神の心(を見出す)を奪うことがサタンの目的なのであり、
その心に支配されたのが宗教団体(の支配者)であることを悟らねばならない、
自らの悟りだけが、天への道をそうであると知る己が神の心の開かれた目だけが、
己を救うからです。
宗教(組織)を通すことなく、神自ら私達に直接、真理を救いを伝えられているのですから。
現象テープ№12 ②「善我の目覚めから自我の目覚めへ」
78年10月1日 ブッタ様現象より
「曾てラファエル大天使が、ある方に申されましたが、
『良いことをして美しい天国に迎えられようとする心が、それ自体執着を作る元にもなる』
というものです。
この言葉は本当に私達が声を大きくしてあなた方に言いたいことでもあるのです。」
真に立派な人は、良きものを求める心へと人を立ち返らせる、人自らの卑小さを認めても、
それ以上に良きものを求める心がその中に在ることを人に知らしめるものです。
真なるものを得られる世界に生きながら、偽りに心惹かれてきた者が、
自分よりも(この世的な意味で)恵まれなかった、与えられなかった、
失うことがあっても、この世(に満たされた者)に蔑まれようと妬む心を持たず、
神の正義を信じる心に生きる、そのような心を人に見出す時、
人を敬うという心を知るのではないでしょうか。
創造神を、全能の神を(理解する知恵を自分達は与えられたのであり、
創造神を理解しない者は神に与ることなき者であると)信じる信者には、
自らを人間の霊であると証し、
神に仕えてこられた(大)天使として私達の前に現れた現天上界の聖霊は、
次元の低い霊である、自分達の(全能の)神はもっと上だと宣った信者がいたそうですが、
俗世間の目には見えない所に真が在るのであり、真に生きる心には虚栄がない故に、
俗世間の心に惹かれない、この世の認めるものを持たぬ故に軽んじられる者の心に
真(に尊敬されるもの)が隠されているように、
現天上界の(神と同じ心に生きる)聖霊(天使)は軽んじられた来ました。
しかし、神の心が如何なるものであるか、彼等の人類の思いが伝えられ、
その心が人間の心に理解された時、それまで理解されなかったのは、
人が全能の神でなければ信じない、そのような心に生きてきたからであると、
明らかに知るのではないでしょうか。
天上界の伝えられたメッセージから、その心を理解出来ぬ筈はない、
それが理解出来ぬなら、そして何ら語りかけぬ全能の神を信じ続けるのなら、
彼等が理解している神の心など所詮、彼等の心を超えるものではない、
己が神の心の目覚めを奪うものに過ぎないのです。
全能の神を敬うのは、自分(人類)を創ってくれたからとの思いなのでしょうか。
自分の親を敬うのは、自分を生んでくれたからと、それで誰もが敬うことが出来ておりますか?
生きることを通してあらゆる良き思いが注がれてきた、
愛によって愛を信じる心へと、敬う心へと育つことが出来た、
その心あって敬うべき心を知るのではないですか?
嘗て創造神の名で人類を導いてこられた彼等の思いがどのような思いであったか、
彼等が初めて人類の前に現れ語りかけた言葉から理解出来ないのでしょうか?
「現正法理論とは(岩間先生)」より 「エルフォイド」191頁
「絶対的創造神とは、古代の人々に主として多神教及び偶像崇拝を止めさせる目的で、
必要となり誇張された概念に過ぎない。」
創造神を愛する心を養うまで彼等に与えられてきた(と信じる)愛とは
どのようなものであったのでしょう。
彼等の知る神は、神の愛は、イエス様の伝えられた通りのものでしょう。
イエス様の伝えられた真理は永遠に不変であると天上界が証された通りです。
モーセ様、ブッタ様、イエス様、マモメット様を導き、
彼等を通して神の教え(宗教)を与えられたことを現代に証された(元)七大天使
(神の御意志を実現する為に、人類に働き掛けた、
人類を神に繋ぎ、サタンの妨害に屈せず神の御心を人類に正しく伝えられたのは、
彼等の心の琴線に触れることが出来た人々がいたからです)が今の時代に語りかけるのを、
自らの実存を、魂をかけて真か偽か判断する意志を放棄していられるのは何故なのか。
イエス様にブッタ様に語りかけた大天使を信じながら、
その預言者が己が知恵と真理への愛をかけ、その教えから真の導きであると、真理であると、
自らの魂をかけて神の救いを実現させた彼等を信じているのなら、
彼等と同じ心に生きようと思わないのは何故なのか。
救い主によって神は人類を救われたように、救い主の再臨によって神は私達を救われるのだ、
私達を救えなくて何が全能の神なのか、
神の厳しい導きによる魂の研磨によってしか自らを救うことは出来ないなどと言う彼等は、
真の神ではない、本物の七大天使はそのようなことは言わないと
(そのような思いとなって伝わるのが、人の心を神から遠ざけるものが
悪魔の甘言と言われるものなのです)、
彼等の心を神ではないと貶めているのです。そうではありませんか。
彼等は何の為に再びこの世に現れたのか、今まで人々に自らを証すことがなかった彼等が、
その出現の理由を明らかにすれば、必ず人類は彼等の思いが真であることを理解できると
信じられた、そして伝えられたのです。
それは、
一、 真の預言者(即ち神を神と判断出来る賢者)を通して、真理が、神の法が人類に齎されたが、
サタンに歪められても悟ることなく悪魔の心へと導く指針(共産、社会主義)を受け入れたという
事実を伝える為。
二、 天上界が伝えてきた真理から人類は神の救いとは何か、
どのようにして救いは齎すことが出来るか
(善霊は悪霊と戦い、人の善なる心と悪なる心に彼等は働きかける、
人がどちらの心に生きるか決するように彼等は働き掛け続けるという事実)、
その為に神は全てを明らかにされた。
三、 人類が神の法、救いの道を見出すには、自らが神の心を、知恵を持つ以外にない、
如何に神が導こうとも、神か悪魔か見抜く知恵なくば、そして神の善を愛する心なくば、
サタンの偽善を、甘言を見抜いて、破滅の道から自らを救うことは出来ないという事実。
そのためには、魂の研磨しかないのであり、神の心の糧、
神の心なくしては行い得ない徳を教えてこられたのです。
徳に生きることなく、神の言葉を語るは偽善、即ち人の心を神から奪うものであり、
天上界が最も忌み嫌う心(偽我)であることを伝えられたのです。
※2注終)
「慈悲と愛」79年4月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」40頁
「しかしあくまで私達天上界の見解は、
真に民主主義の原理を生かし得るものは自由主義思想の中に於てであり、
人身、内心、言論、表現、学問、等の自由を保障し、
人間が神の前に平等に有する権利は、国家に先立つもの(※3)であり、自由たるべきものとし、
如何にプロレタリアートが数に於てその権利が保障される社会が
真の民主主義政治形態であると(誤導)し、
国民の選出した機関であるソビエトへの権力集中をマルクス主義が唱えたとて、
その原理の優劣のみを盾に取り、しかるが故にソ連は世界を支配し、
その侵略的態度を正当化するものとはなり得ないことを改めて説かねばならないのです。」
「天の奇蹟・上巻(天上界への質問と解答)」ラファエル様解答より
「勿論この聖典(旧約・新約聖書)を伝えた民族が文化が低く、大部分が稚拙な表現や、
ヘブル人特有の民族性、習慣を通じて伝えられたものであろうとも、
私達天の与えた真理は永遠のもの(※3)であって、
私達がそれを否定する者では決してないことは、
イエス様が旧約の律法を否定される立場になかったと同様のものであると
理解して頂かねばなりません。」
(※3注。
「アンティゴネーの決意」江藤淳著 産経新聞平成九年五月五日掲載 「月に一度」120頁
「(前略)いうまでもなく『アンティゴネー』とは、
国禁に背いて戦死した兄の屍(しかばね)を手厚く葬り、
その廉(かど)によって石牢に生き埋めにされ、
自ら縊(くび)れて死んだテーバイの王女アンティゴネーの悲劇である。
オイディプース王の二人の息子のうち、弟のエテオクレースはテーバイの王になっていたが、
王位を弟に奪われた兄のポリュネイケースが、復讐のためにアルゴスの軍勢を糾合し、
テーバイの市門に押し寄せてくる。
凄惨な激戦の結果、兄弟は共に刺し違えて戦死する。
そのあとを継いでテーバイの王となったのは、二人の叔父に当たるクレオーンであった。
クレオーン王は直ちに勅令を発し、
テーバイの七つの門を守り抜いたエテオクレースは最高の礼を以て葬るが、
不義に与した反逆者ポリュネイケースの遺体は野ざらしにし、
烏や禿鷹のついばむままにせよと厳命した。
これに背いた者は、石打ちの刑に処するというのである。
ところでオイディプース王には、刺し違えて死んだ兄弟のほかに二人の王女がいた。
姉がイスメネー、妹がアンティゴネーである。
アンティゴネーは、王の厳命とはいえ戦死したのは自分の血を分けた兄弟である。
弟が義戦を戦ったからといって栄誉を以て葬られ、
兄が不義の戦いに与したという理由で野ざらしにされるのは納得できない。
「お姉様、お手をお貸しください。
ポリュネイケースの屍に礼を尽くして葬りましょう」と訴える。
王命には抗えないと、イスメネーがそれを拒むと、
アンティゴネーは、それならもう頼まない、自分一人で兄を葬り、
死罪になることも厭(いと)わないと、決意を告げる。
「生きている人の気に入られようとしても、時間はあまりにも短い。
でも死者を愛する者は、永劫の時間の中で愛するのです。私はそこに行きましょう。
お望みなら生きておいでなさい。生きて、最も神聖な神々の法に背きなさい」
やがて登場し、国禁の絶対を説くクレオーンに対して、アンティゴネーは昂然と言う。
「そんな禁令は神の思(おぼ)し召しではありません。
冥界の神々とともにある正義は、そんな法を認めていません。
あなたの勅令には、どこにも記されず、
変えられもしない神々の法を無効にする力などありません。
あなたは只の人間で、勅令は昨日今日のものですもの。
神々の法は永遠で、人間にはその起源すら確かめられないのです」
ここでアンティゴネーのいう「神々の法」「冥界の正義」とは、過去現在、宗教宗派、
勝者敗者の別や習俗の違いを超えた人間の死者を悼む心情にほかならない。
殊に「義戦」か否かに拘らず、戦死者は手厚く葬らねばならず、
いかなる国法といえどもこれを妨げることはできないというのである。
去る四月二日、最高裁判所大法廷が下した
いわゆる「愛媛県玉串訴訟」に対する違憲判決の報道に接したとき、
私がとっさに思い浮かべたのはここに紹介した『アンティゴネー』の一節であった。
先の大戦は連合国側の「義戦」であり、敗戦国日本の戦死者は、
そちら側から見れば不義の戦いに斃(たお)れたポリュネイケース同様に、
追悼に値しないというのかも知れない。
そして、「義戦」の勝者アメリカが書いて与えた
現行憲法第二十条が「政教分離」の原則を謳っている以上、
愛媛県が靖国神社春季例大祭のために支出した玉串料十六万六千円は、
当然違憲ということになるのかも知れない。
だが、そのとき、私の脳裡で最高裁大法廷の多数判決を支持した十三人の裁判官が、
俄にクレオーン王の末流に変貌したことだけは記して置かなければならない。
現行憲法の禁令のごときは、人の、それも外国人の定めた「昨日今日」の法令ではないか。
ソポクレース以来、
自国の戦死者を、威儀を正し最高の儀礼を以て追悼することを禁じられた国民が、
この地上のどこにあっただろうか。
国人よ、誰に謝罪するより前にこのことを嘆け。そして、決して屈するな。」
政治が宗教(団体に隷属する人々)に支配されてはならないように、
政治が悪(魔)に支配されてはならないのは言うまでもありません。
愛のない政治は悪そのもの、
共産主義に支配された政治です。
政教分離でさえあれば良いと、愛を顧みる心を忘れるようなら、
この国は充分、共産主義に洗脳されているのです。
米国に押し付けられた現憲法は、
ニューディール(共産主義者)によるものだからです。
『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい(モルデカイ・モーゼ著)』
に(マルクスの末裔による悪魔的所業の)全貌が詳述されています。
是非ご覧ください。※3注終)
〖備考
天上界は、あのような人間になりたくないといった、
軽蔑すべき人間であったとしても軽蔑してはならないと言われます。
何故なのかと考えた時、そこには人を哀れむ、気の毒に思う気持ち ー
人を助けたい心から来る、
助けたくとも自分に助ける力が無い為の苦しみを伴う哀れみを知る心を持っているか
問われているように思います。
人を裁いていることすら気付かないでいる、
そのような心は、罪に巻き込まれる環境にいた者が単に自分ではなかったに過ぎないことさえ
考えられない者なのでしょう。
周りの悪や苦難によって罪に追い込まれる。
悪を憎む良心を持つ者であっても逃れられぬ世界に生きざるを得なかった者もいるかも知れません。
何等同情する心がない為に理解せず、
罪を犯したのは、その者の悪なる心だと独善的に裁くことに躊躇する、
人の心を顧みる優しさを持たない者が、裁かれるべき罪を宿す心を克服した者なのでしょうか。
罪に負ける心に打ち克った者が、罪の力に苦しむ者を助けられる者が、
救おうとせずに裁こうとするでしょうか。
罪に苦しむ人の前に立つ資格がある者とは、
裁こうとする心ではなく、救おうとする心を人が見出せる者、善なる心に立つ者と信じられる者です。
罪に苦しむ心を何とも思わないような者に、人を裁く資格がある訳がないのです。
人が罪を償う、心の中の悪に向き合う勇気を人に与え得るのは、信義に生きる者だけです。
人を信じようとしない者は、その人の前に立つべきではありません。
人を裁くことが出来るのは、神の法だけです。
神の法に依って人は生かされることを知る者が、
人の心の善と悪を正しく捉えることが出来るのです。
罪の力から、偽我から逃れられない彼等が、
もし正法を知っていたならこのようにならなかったかも知れない、
善我こそ真の己として生きることが出来たかも知れない。
正法を知らされながら、人に伝えたい、知ってもらいたいという思いもない者に、
人を裁く資格があるでしょうか。
慈悲を与えるに値しない者に、
慈悲を与えるのは慈悲魔という偽我であると天上界は教えられました。
慈悲を与えるべき価値が人にあるか否かは相手の心を理解しなければなりませんが、
それも私達に慈悲心があってのこと、私達が神の心に在らねば何の意味があるというのでしょう。
人を軽蔑する心は、偽我から来るのであり、偽我に立つ者に人を裁く資格はありません。
慈悲という徳は真に人を生かす、人が自らを救おうと、生きようとする善我
(神と共に在ることを信じることの出来る心)へと導くものです。
慈悲を与えられて、慈悲を知り、
慈悲に応えようとする心に立ち返らずして天の心に繋がることはないのであり、
慈悲に背く心に留まる者に尚も慈悲を与えるならば、
人はその心を認められたものとしか解さないのであり、
彼等の偽我を肯定するという、
邪心を助ける慈悲の名を借りた魔性のものに過ぎないことを知らされました。
正法を知って尚、神の道を拒み、悪魔の道を選んだなら、
その者は自ら神の心を捨て去り、悪魔の心を己が心に選び取った者。
善に、神に敵する悪として扱えばよいのです(※4)。
(※4注。
「JI」88年4月号 ラファエル様メッセージより
「厳しさと愛と、正しさと慈悲とは区別が付けにくいものです。
定義付けするよりも、寧ろやはり健全な生活、精神のあり方と、
天と地との調和を求める方向に一人一人が努力し、
協力する事を善しとし、それから外れるものを是正する。
努力も協力もせず、破壊と破滅を齎そうとする者、社会の秩序を乱し、
神の法(モーセ様の十戒)に背く者は厳しく対し、悔いて改めるなら許す。
そのような心構えでいるならば、何を是とし、何を非とするかがよく見えて来ると思います。
共産主義思想もこの点に於て、世界の秩序を喜ばずに、
民族と国家と家庭を否定し、国民と国を守る軍隊を否定し、
社会の体制を根本から忽(ゆるがせ)にする不穏な主義である限り、
天は容認することはありません。」※4注終)備考終〗
神の法とは、この世が滅びるまで、
一点一画も廃れることはないとイエス様が仰しゃったものです。
天のすべての聖霊が、神の法に生き、この世に齎そうとされてこられたものです。
救世主が人類を救うのではない、天のすべての聖霊が心を一つにする救いの意志、天の計画が
人類を救うのだとイエス様は仰しゃいました。
神の救いの思いが一つとなるのは、すべての聖霊が神の法に生きる心であるからです。
人自らを救わんとする者を天は助けると言われた天の救いとは、天への道を歩むとは、
人が神の法に生きることに他ならないのです。
"神の法に生きるとは"
悪を愛する心は善を憎む心です。
もっとはっきり言えば、(偽りの神と知らずに)彼らの神(悪魔)を愛する者は
真の神を愛する心のない者、悪霊の心を受け入れた者です。
私達は自分に有利になること、即ち自己保存の心に適うことであっても、
それは間違っていると判断することがあるでしょう。
自己保存から判断すれば善(有利)であることに従わず、
悪(不利)であっても、より高次の心、神の心にあって善であればそれに従う、
神の心に立って判断する、神の法に於て善を選ぶことの大切さをラファエル様は伝えています。
「JI」87年3月号初出 ラファエル様メッセージより
「良心や愛は人間社会と種の存続の保護に繋がり、"種の繁栄と存続"を。
性の乱れは犯罪と闘争と死に繋がり、"種の絶滅"を招きます。
神は前者を望み、良心と愛と生命を人間の世界に齎しました。
悪魔は後者を望み、闘争と死を齎そうとしているのです。
私達を信じるあなた方も、信じず従っていない人々も生命と死のどちらを選びますか?」
悪を許す心は善ではない。
神の善は、自然の法則が善であることから来ています。
生き物にとって生存条件である環境の変化に適応出来なかった種は淘汰していきました。
生き物の淘汰も環境の変化の一部に過ぎず、すべてが自然の法則の下に起きるものです。
自然の法の支配する世界以外に生きる世界は存在しない。
自然が生き物を生かすことが出来るのは、自然を支配する法だけだからです。
自然の法は生命を生かすもの、それを善といい、
自然の法に生きるを以て生き物に齎される善なる心、愛に生きる心を、
自然の法と共に人類が見失ったが故に、神の法が齎された。
神の法は善である。その善を理解する心が理性(神の心)である。
理性は愛と義からなるとガブリエル様は仰しゃいました。
「 JI 」81年8月号 ガブリエル様メッセージより
「天上界の秩序、正しさは、愛と義からなっています。
愛と義は何処から来るのか。
透徹した理性による判断力から来ます。
理性は如何なるものか。
正しく認識しよう、或いは理解しようという姿勢からなります。
その姿勢の基本となるものは、やはり人の幸せの為という愛、
真理を通す為という義なのです。
理性と愛と義は表裏で一枚となる布のようです。」
神の心へと導く指針が神の法、正法であり、
神の心(善我)に、神の愛に背かせる心が、自己保存に根差した心(偽我)であり、
悪魔の世界に導かれて行くことを天上界は明らかにされました。
神の法が善であるのは、
生き物の心が自然の法に従う善でなければ、種の存続に生きる愛がなければ、
生き物(種)は滅びるのであり、
神の法もまた、善に生きる心しか種を残していけないことをラファエル様は教えられました。
現象テープ№21 「原罪について」
80年4月13日 ラファエル様現象より
「誤解無きように申しておきますが、善と悪は両立するものでもないのです。
両極端に立ち、一方が一方を征服するものなのです。
あなた方は人類の歴史六千年の中に於て、今迄そのことを学び続けてきたのでした。」
(偽善とは、自らの悪を善で装い、偽善の悪を見抜く真の善を悪に貶めようとするものです。
左翼の偽善を見抜けぬ者は、善を全く学んでこなかった者です。
悪魔の日教組に学んできた者が、義務教育を受けてないブッシュマンより知恵がない、
左翼は消滅であり、ブッシュマンは神に救われると言われた天上界を理解することは
不可能でしょう。)
善の心を見出し、善の心を愛し、善の心に生きる者は、
善を憎む悪を、邪悪に満ちた左翼と相容れる心は皆無です。
善の心は悪の心を排除するものである、
善の心に生きるとは、悪の心を排除することに他ならないことを
エル・ランティ様は仰しゃいました。
「天国の証(78年8月初版)」65頁 エル・ランティ様メッセージより
「人間として三次元で過ごされているあなた方は益々己の善我を強め、その心を浄化させ、
社会悪、 道徳に反する諸悪を憎み、正義とは何かをもう一度考え、
その基盤に立ってのみの信義と愛を貫き、慈悲を与え、
そして神(天上界)の守りと愛への信仰が互いへの同じ質の信頼感と変るよう
努めて頂きたいのです。
事の善悪、是非、真実と虚偽、(それらの判断を誤らせる)
おおよそ人間として俗世の心、俗人の心として疎ましく思われるものを鋭く見抜き、
それを自分の心から追い出すのです。
何故ならば、それらはすべて悪霊の喜ぶものであり、
自らを悪の魂と変えるものであり、
私達天上界が受け入れぬ(真理、善の観念を愛する神の心とは相容れぬ)ものだからです。
人間的な欲望、虚栄の心、自己顕示、競争心、名誉欲、支配欲、権勢欲、所有欲、
金銭に対する執着の心 ー 。」
善を愛するとは、悪を憎むということです。
悪があるのは悪を排除する意志が弱い、善を求める意志が弱いからです。
偽善を神は許さないとはどういうことを言うのでしょう。
偽善は、悪を隠すどころか、悪であることを認めさせない心だからです。
隠された悪よりも、それを隠すという悪を天上界は許さないのです。
間違えたことを天上界は責めたりはされません。
間違えても素直に認めない心、人に迷惑をかけても反省して改めようとしない心、
真理を憎む心は、神も救うことは出来ないと見捨てられるのです。
自らの悪を悪と認めず、悪を明らかにする善を、悪にすり替える為に、
差別だと、差別する者は悪であると非難して、
自らの悪を隠すどころか、悪という差別の犠牲になっている弱者、
善人だと言って人を騙す偽善(悪)を善と信じる心は偽我そのもの、
天上界(善我)と決して相容れることなき心であり、
(神の御意志に背く)偽我は削り落とされるまで徹底的に差別し倒すべきものなのです。
(注。
現象テープ№40 「天上界からの苦言」より
83年7月10日 ガブリエル様現象
「私達はユートピア建設の妨害、破壊をする者、その手先となって働く者には、断固戦い、
生存を許さぬ決意を固め、又そのように現天上界の方針を各善霊に指導、通達を致しました。」
現象テープ№10 ②「新天王の宣誓」
78年7月22日 ミカエル大王様現象
「悪の名に於て、正法の流布を妨害せんとする全ての悪霊並びにその霊に意識を支配され、
この天より備えられたる正当なる後継者より出ずるメッセージを妨害し、
失脚せしめんとする意図を持つ者を、悉(ことごと)く滅し或いは罰し、
恥と死に至らしめんとする決意をここに述べ、又誓うものです。」注終)
善を為そうとする者を悪が迫害してきた人類の歴史は説明不要でしょう。
(その悪の心を満たす為に、人を悪人に仕立てて迫害するのは、
キリストを悪魔と仕立てて磔にしたパリサイ人(偽善者)と全く変わらない心です。
日本の戦争犯罪を主張し続ける左翼もまた、
その心に於て迫害することを喜びとする悪魔の心に繋がるものであることも説明不要でしょう)
価値観の(言葉は同じでも意味していることは)正反対の心が、
互いに相容れぬのは当たり前です。
愛する者を滅ぼそうとする者から守ろうとしないなら、愛の観念は滅びるでしょう。
悪を悪と認めないなら善の観念はなきに等しいのです。
「慈悲と愛」81年1月号 ラグエル様メッセージより
「悪霊の狙う善きもの美しきもの、
とは地上に生けるあなた方の心の内にある善や自己犠牲、正義の観念なのです。」
ラグエル様が仰ったように、天上界は正義の観念を守られてきたのであり、
正義(善)の観念が滅びれば、天上界は滅びるのです。
善を拒み悪の観念に生きる、善を滅ぼそうとする者がいる限り、
善なる心を守る為に、悪に従う心を滅ぼし尽くそうとするのが、善を愛するということであり、
真に人類の善なる心を守ってきたのは、天上界の善なる魂以外に存在しなかった、
彼らのような心以外に悪と戦い続けることの出来た魂は存在しなかったのです。
善を滅ぼそうとする悪は、善を偽る偽善は、神の善を以て、
真に神の前に滅びる悪であることを知らしめることが善に生きるということではないでしょうか。
人を信頼して生きられる世界こそ平和でしょう。
精神の平和を願っていない人間などいないでしょう。
いつ共産主義独裁国家(民主主義が守られた世界から独裁政府が生まれたなら、
それは自分達が望んだことです)に密告されるか判らない。
不安に生き続ければ、精神は蝕まれ、疑心暗鬼の心へと病んで行き、
心の支柱である良心を見失えば、悪霊の心に抗うことは出来ず、
悪霊の憑依者に過ぎなくなるでしょう。
肉体の(魂の)生命さえ守られるなら、それを平和という左翼は(神を裏切った元善霊は)、
共産主義に精神を支配され、自由を奪われても苦痛を感じないまでに精神が破壊された
悪魔の操り人形の言うことを信じて、自分もそうされようとしていることの恐怖も感じないなら、
既に精神を共産主義者、悪魔に支配されている者に違いありません。
平和は、天上界が地獄界を支配する、善霊が悪霊を滅し尽くすまで齎されることはない。
人間の心に善の観念を、神の愛を育てることを阻む悪の想念を植え込む
如何なるイデオロギーも宗教も根絶するまで戦いは決して終わることはない。
神、天上界と悪魔、地獄界が共に存在する限り、善霊は人間の良心に、
悪霊は(善悪の判断する理性なき、自分さえ良ければそれが善であるとする未熟な)
悪なる精神に働き掛けるのであり、
一方(天国)が一方(地獄)を滅し尽くすまで戦いはなくならない、平和など存在しないのです。
悪に支配されようと戦ってはならないという、世の平和主義者(左翼)は、
すべて神と共に闘うことよりも、悪魔の奴隷になることで平和を約束してくれるなら、
悪魔に支配されるを以て平和であると言っているに等しいのであり、
永遠の生命を約束されて神を裏切った元善霊の心と同様、自己保存の塊なのです。
その心は、人間だけが持つことの出来るあらゆる高等感情、
神の齎された徳を踏み躙っていることも、悪魔に善なる心を破壊されたことも理解不能な、
消滅するまでもない心の廃墟です。
精神が破壊されて何が平和ですか。
自分だけではない、これから生まれて来る人間の善に生きる自由も奪うという悪をなして、
平和が全てであると彼等は言っているのです。
平和でありさえすれば善であると、戦うことは悪であると、
その平和の先にあるのが悪と戦う精神へと成長することを奪われた、
恐怖による支配から逃れられない動物を支配する生存本能に生きることだけの許された
(善に生きる自由がなければ、善悪を考える思考力を失うのは当然でしょう)
痴呆にとっての平和に過ぎないことが判らないのです。
差別という言葉も、戦争と同様の意味で悪と騒いでいるだけです。
悪を非難すること、悪と戦うことを差別であると言い続けることで、
悪、即ち彼等と戦うことを悪とすり替える、
人が自ら判断することを、理性を育てることを許さないのです。
彼等の言うがままに従わせようとするのです。
そのような彼等が悪と戦ってはならないというのは、戦うことが悪ではなく、
彼等の信奉する共産主義という悪魔のイデオロギーに反抗することが許し難い悪であると
考えていることも自明です。
悪を容認する心を以て平和であると、弛緩しきった精神を平和であると言っているのは、
共産主義者以外の人間を白痴化させることが目的であることも自明です。
差別する心が善の心からであるか、悪の心からであるか、
それによって差別されるものが悪人か、善人か別れるのであり、
差別してはならないと言って庇っている者が悪人なら、
庇われる者も悪人であるのは当然ではないですか。
差別が間違っているか正しいかはその心で計られるべきものです。
善にとって悪は敵です。滅ぼすべきものです。
善を破壊してきた左翼が、悪を差別してはいけないと言っているのです。
そう言われてたじろぐ人とはどういう人なのでしょうか。
自己保存から、自分よりも優れた人を嫉妬から誹謗中傷する、
その人に替わって自分が優位の立場を得ようとする、
そういったエゴイズムを満たす為に、人を貶める、犠牲にする、排除しようとする、
悪の心からの差別が間違っているのです。
悪なる心に立っての、善なる者を貶める行為、卑しい心を差別しないなら、
善なる心に立っていない者でしょう。
(共産主義者でない当時のシナ人を日本軍人が虐殺したと左翼は言い続けていますが、
その共産主義者でない一千万人もの中国人を、
文化大革命に於て中共は虐殺したことには日本の左翼は何ら触れようとしないのも、
悪党が悪党を庇う為なのです。
自分達の敵を罪に貶める、差別だと罪をきせる、
自らの罪を隠す為に善を装い、敵を悪に仕立てる、これは天上界が最も嫌う悪魔的な人格でしょう。
国家を弱体化させて革命を起こすのが共産党の目論見であり、
その為に非難の返されることのない日本軍人を非難し続けることで自衛隊を貶めたのです。
自衛隊も日本軍と同じで国民を戦争に巻き込むものだ、
福祉や教育の(場に於ける左翼活動の)充実を奪っているのは防衛費の所為である、
国民をミスリードして左翼の力(票)を得てきたのです。)
不法入国した者(を擁護する者)が、批判を自分達から逸らせる、自分達の悪をごまかす為に、
自分にとって都合の悪い存在を悪に仕立てるのは、悪党の常套手段ですが、
その国民の文化を、法を、倫理観、即ちその国民の心の拠り所を踏み躙り、破壊しておきながら、
自分達の文化を(破壊衝動を)認めないと言って非難する理屈は、
その心自体がエゴイズムの塊であり、
その心に立っての言動など問答無用に排除されるべきものです。
そのような悪なる心を、さも少数の弱者を大勢の日本人がよってたかって差別している
といった論法を以て非難しますが、
国を愛する者を憎むのが破壊分子の破壊された心です。
天上界の愛される心を日本人に見出すこともなければ、その心を理解したことすらない、
彼らの心が如何に悪霊に蝕まれたものか、神自らその心を明らかにして下さったのに、
それを心に留めてこなかったようでは既に神を軽んじる悪霊の心に近いのです。
左翼が差別というのは、人が差別という悪を犯していると、
彼らにとって邪魔な者にレッテルを以て非難するという、
人から理性を奪う、共産党の支配階級の指示通りに従う判断力なき者にする、
従わない者は粛清する(このような者が差別はいけないと言っているのです)、
これが左翼の心なのです。
彼らの何処に優しさや正義があると思われますか。
左翼に差別だと非難されてたじろいでいてどうするのですか。
どこに神の心を、神の善を忘れてきたのでしょう。
神への愛を失くしてしまったのでしょうか。(2025.9)
"神の法をこの世に齎さねばならないのは何故か"
この世の法が悪魔の意志を生かしている、そのような法を見抜けない、
それに従っている人間の悪が見抜けない、
この世の悪を守る為に神の法に背いているのがこの世の法なら、
神の法が悪魔の法の前に沈黙することがあってはならないのは、当り前です。
神の愛は与えられるべきものにのみ与えられる。
神の法に従う者は守られ、背く者は罰せられる。これが平等です。
神の法に従うことで、神の心が育つのです。
神の愛に生きる心が神の心、神の愛が注がれる心です。
神の心を持って人は生まれて来ると天上界は仰しゃいました。
人が神の愛を受け止めることなく、神の心を育てることなく、悪を喜ぶ心を育てている、
悪に従う、悪を善と信じる、偽善の罷り通る世を作ってきたのは人間自身です。
神の愛を受け止めぬ、踏み躙る者に愛は与えられない、神を蔑む心を満たしてはならない、
悪に力を与えることは許されないことだからです。
神の法を、神の法を齎される神の御心を信じる、
その心が人を自らの悪に立ち向かわせるのです。
己の邪心を、神に愛されぬ心を認めぬ高慢が、平等に神から与えらることを当然とする
(神を信じる者が左翼の偽善に立ち向かうからです。
左翼は彼等にとっての神(悪魔)の前に平等であるとの悪魔の高慢に生きていられるのです)
権利を主張するのです。
神の愛を以て己の偽りの愛を満たそうとする、神の与り知らぬ、悪魔の如き醜き心に生きているのです。
ラファエル様が仰しゃったように、神の法を、神の善悪の判断を認めず、
この世の法に、善に従わせる心は、許し難い悪魔の心なのです。
「慈悲と愛」79年11月号初出 ラファエル様メッセージより
「私達の述べる真理と同じ結論が出なければそれは私達に誤りがあるのではなく、
却ってあなた方の正見・正思・正定に誤りがあって正しい真理に達したのではない、
ということを今後は弁えて頂きたいのです。」
「只天の為に働くならば、私達が天上界の一員として迎えると安心するのは大間違いです。
天上界の一員となるにはそれに相応しい人格と、思考、判断力を身につけて頂かねばなりません。
三次元に於て仲良く肩を叩き合って人間が住めば良いというものではないのです。
そのような浅薄な考えしか持たぬ人は、それ相応の報いしか受けないでしょう。
詰り、私達は天上界にそのような人を迎え入れたくないということです。
又、そのような人々が築くユートピアは神の国ではなくて、
人間的な俗臭を持つ人間のユートピアでしかあり得ません。
それが如何に容易に毀(こぼ)たれ、再び地獄と化すかは言うまでもないでしょう。
聖書の中の"エデンの園"の物語と同じことです。
あなた方が我が身を振り返って、
私達天上の者より優れた識見と判断力を備えていると考えられるならば大きな誤りです。
私達が義というものの本質について、どのように験され、鍛えられ、
年月を通じて正しい判断力を備えるべく教育されてきたか、
あなた方にはお判りにならないでしょう。
それ無くして、巧妙な悪魔や悪霊に操られた人々のすり替えの理論や罠を見抜き、
三次元を正しく導き、或いは人の愚かさを教え、賢き道を歩ませることは出来ないのです。」
左翼が人間の品性を堕としめる為に、神から受けるに値しない者の欲望を満たす、
邪悪な心が認められる世にする為に、この世の法を、神の御意志から遠ざける、
平等とか自由という神の齎された言葉を悪魔に利用させてはならないのです。
神の心に理解させず、悪魔の心を以て理解される、
神の徳を捻じ曲げて、悪魔の指針として罷り通るようなことを許してはならないのです。
神の愛を与えられるに相応しい心になってから、求められるべきが神の愛です。
神に愛される心は、求める前から神は与えられる。
神から与えられない心にあって、不平等だ、差別だという悪魔の心を、
神の光を以て知らしめねばならないのです。
平等というのは、平等であらしめる存在の中でしかありえないものです。
そうではありませんか?
あなた方は神の前で平等であるとミカエル様は仰しゃいましたが、
神の前に在ることを拒む心と平等であるとは何を以て言うのか、
何を以て彼等と平等であり得るのか、
彼等の生きる価値観に於て平等とされることをあなたは望まれるのですか?
神は神の心、善に生きる者を愛すると言われましたが、
自らの権利を主張し、義務を放棄する心に愛など存在しません。
イエス様が私達の心をご覧になり、どんぐりの背比べであると仰しゃいましたが、
私達が等しく神から遠い心に生きているのであり、
救いのない者が平等であることに何の意味がありますか。
自他に係わらず滅びようとする者を救う心は愛だけである。
自己保存、自分を優先しようとする本能は、それ以上の本能
(種に於て子孫を育てることを通して、動物は死の恐怖にあってもなお見失うことなき愛、
自己保存の本能から種の保存の本能を昇華させているのかも知れません。
死後も引き継がれてゆく喜びを得た心が種の存続に生きる本能なのかも知れません)
を知る動物の齎す調和を人類が知るには、
神の愛の前にのみ平等を知る、神の前に在る者のみ、
己を他に勝る者、他よりも自分が神の愛を多く受けるに値するといった
悪魔の心から救われることが出来るのではないでしょうか。
神の前に在って、その愛の小ささをイエス様に私達は知らされました。
神を愛する心なき者さえ、神の愛が等しく与えられることを当然と信じる悪魔の心に侵され、
神の真理を踏み躙る邪悪な心も悟らぬ、
自己肯定の善がすべての人間の小ささを教えられたのでしょう。
神の愛に生きるとは、天上界が人類を救おうとされているように、
人を救おうとする思いが、自己愛を超えさせる、自己の執着から精神を解放する、
愛する心を育てることが出来る。
愛に生きる、自分が得ようとしない心だけが、神の心を得ることになるのです。
神の人類の愛(導き)は等しく与えられてきたのであり、
それを拒んだ者は、偽りの神から得た者、偽りの思いに満たされる心を育ててきたのです。
偽りの神に生きる者がいう平等とは、神に救われることを望まぬ平等とは、
自らのように神の心に反した、悪魔の心を満たすこと、
等しく神の心を捨てさせる、獣の心にあって貪る心の解放を目的とする大義名分に過ぎません。
人から奪い取って自らを肥え太らせる、
如何なる神の法の介入も許さぬ、誰もが悪魔に生きることを以て平等なのに過ぎません。
人の善なる心に報われた神の愛を妬み、神から愛を与えられぬ心が、
自らの悪魔の心によって満たす、神の愛される心を踏み躙ることを厭わぬ心の言う平等とは、
神の平等の愛を人々から奪い取る為の悪魔の業であることを悟らねばなりません。
神を愛する、神の正義を愛する、神の愛に生きる心を求める、
己の心を悪から守ってくれるのは、神を信じる心だけです。
人が神に愛されること、神の心に生きることに於いてしか人の幸せはない、
神を信じる心を養えずに、悪に打ち克つ心を育てることは不可能であり、
神の心に生きぬ者に、己の神の心を守ることは出来ない、自らの神の心を捨てる、
自らの神の心を捨てる、そのような悪魔の心を隠し持って、
神の前に立つ、神の愛を求めるを当然とする、
そのような下劣な心にこの世が満ちることを望まれるのでしょうか?
人を愛するとは、人が神の心を見出し、神の心に生きる、
人が神の心に生きていることを望んでいると信じる、それが信義であり、
神の心に繋がるを以て人を愛すると言えるのです。
神を顧みることのなき心にあって、愛の名の下に人を信じさせようとする、
人を従わせようとするは神の愛を知る心ではありません。
神の愛に繫がることなく、人を愛することも、人を救うことも出来ない、
人から神の心を奪うものは、人を救う者ではない、人を滅ぼす者です。
この世に神の法を齎す。神の前に平等なのです。
神に背く者を平等に扱ってはならないのです。
悪を滅ぼすのが神の善です。
神の善に背く悪を明らかに出来ぬような法は、神の法に背く法です。
悪魔のイデオロジストの言う、平等や正義や自由に隠された悪、
人の心を神から奪い悪魔に導くその邪悪な意志を見抜けぬようでは、
その意志を打ち砕く神の御意志を理解出来ぬようであってはならないのです。(2025.8)
"神の法に背かせる法は悪から来たものであるということ"
神を見出した人々とは、神を求めた人々であり、
神を信じる心を育ててきた人々でした。
彼等の、悪に従わない、悪を嫌う心は、悪霊の標的にされてきた
(人の美しい心は、その心を持たぬ者、神に愛されぬ者に(自己憐憫から)嫉妬を齎す)
のであり、力を求める者は、悪の心に生きる者故に、
悪魔の破壊力を以て人々に君臨することで悪の心を満たしたのです。
そのような苦しみを受けた者が、憎しみに善を信じる心を失うことなく、
善の心を満たす存在への確信を(善なる霊達からの善の波動を以て)
天は与えてこられました。
神の救いとは、神を信じる心、真の神に繋がった心に(神の波動の伝わる心に)
生きるということです。
そして神の心を育てるのは自分自身である。
というのは、神の働き掛けだけではなく、
常に悪霊が、悪の心(偽我)に働きかけているからです。
神はその教えを確実に伝える為に(神の立てられた)霊能者を通して人々に伝え、
それを理解した人々が、神の教えを書き残してきました。
そしてイエス様を通して、神はその業を
(奇蹟を、そして神の心が愛であることを、その愛に生きるイエス様の魂を以て)
現わされました。
神の心に生きることを以て、人は神の子になる、
神の心を育てる為に、神の備えられた道を歩むのであり、
その神の道を知らしめる指針を、神の法として伝えられました。
「新約聖書」マタイによる福音書(第二十二章三十六節~四十節)
【「先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」。
イエスは言われた。「『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、主なるあなたの神を愛せよ』。
これが一番大切な、第一の戒めである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている」。】
愛、神の心なくして、神の法に生きることが出来るであろうか。
律法全体(人を救いへと歩ましめる道)と預言者(神にその御意志を託された者)
に神の真を見出せぬ者は、救いに与ることはない故に、
真の預言者は自らの神の心を貫かれるのです。
真の法とは、人の心を善に生きる心へ、神の心へと導くものです。
神はその法を伝える為に、その法に生きる心を以て、
人の心を神の光りの下に導いてこられました。
人の善の心は、真を生きる為に光を求める、光に向かうことが成長することだからです。
自らの善の意志が、善の道を歩ましめるからです。
この世に生きる人々は、この世の法に生きています。
人の心を育てるものが(神の真の)法であると考えることがない。
故にその法が人の心を何処へ導くものであるか、
見抜く知恵を育てられないできました。
ニューディーラー(現日本国憲法を作ったユダヤ人共産主義者)は、
(神に裁かれて)敗戦国となった日本人は、
正しい心へと彼等の子孫を導くことは出来ない、
それを可能にする憲法を作り出すことは出来ない、我々しかそれが出来ない、
我々の作った憲法によって日本人は正しい民族(共産主義者)に導くと
ニューディーラーに従わされたのです。
(ある者が、ニューディーラーは憲法を押しつけたのではなく、
日本人と討議を重ねて作られたのが憲法だと言ってましたが、
彼らの息のかかった人達か、悪魔に意識を支配され
(なかったらこのような法律になる訳がないのです)たかの何れかでしょう。
悪霊どもがこの期に及んで手抜きなど、悪魔が許す訳がありません。
神も悪魔も知らぬ、自らが悪霊に操られていることも知らない人達の考えです。)
自らの神の心に生きる者が神の子です。
その心に育てるのが正しい法(神の法)です。
ニューディーラーの思いが神と同じなら、日本人は(彼等の与えた憲)法によって、
正しい心を持ち得た筈ではないですか。
善に生きる心を養えないとしても善悪の基準の間違いが解らないようなことは
許されてはならないでしょう、偽善、悪徳の弁護士(グループ)や、
権力者に媚びる(息のかかった)裁判官などもっての外というものです。
現憲法は、エゴイズムの解放を自由といい、人間の獣性を目覚めさせ、
徳を愛する心を摘み取ってきたのです。
自分の国を守る為に、国防費を増やすことさえ、生活を脅かすと反対する、
自分の国の命運よりも自分の生活の裕福を優先することしか考えない、
それで以て他国の正義を信頼するなどと、
それは他国ではなく共産主義国が自分達を支配することを、
彼等の国になることを望むもの、
正義などと偽善そのもの、悪魔の意志(の成就)を信頼すると言っているのです。
彼等が守りたがる現憲法が誰の為にあるものか明らかです。
人類が神の心に目覚め、善の観念を守る、善に生きる神を信じることがなくなれば、
悪の観念にも、悪魔の甘言にも、恫喝にも決して屈しない、
神の心を持たなければ、天国は滅びるのです。
人類は神を、神の心を失うのです。希望も信じる心も失うでしょう。
そうなってしまったら天上界は他の星へと、
神の国を作る為に、地球を離れるであろうと仰しゃいました。
神に見棄てられた獣達は、互いを滅し合って、滅びるしかないからです。
もはやそれを止められることは誰にも出来ないでしょう。
神の御意志にも従わない者しか存在しなくなるのですから。(2025.8)
"礼について"
互いを大切にする、思い遣る心を育てる為に、
日常実践可能な行為を規定されたもの。規律、ルールなど。
礼の実践はあくまでも思い遣りの心を顧みるきっかけとなりその心を育て得た時に、
その人にとって意味のあるものとなるのであり、
思い遣る心を育てることがなければ何の意味もないものです。
真理を行わない者にとって、真理に何の意味もないことと同じです。
規律、ルールなど、マンネリ化(思い遣る心無くしても実行可能故に形骸化)し易い
ことが難点でしょうか。
他を尊重すること無くして精神の成長は望み得ず、
詰まる処、本人の意識次第であり、思い遣る気持ちなくしては、人の心に伝わらず、
思い遣る心のないことに気付かぬ人は、礼を行う自分に満足してるからなのかも知れません。
「JI」81年4月号初出6頁 ガブリエル様メッセージより
「偽善ほど醜いものはない、
その偽善が謙譲な心から出ぬ誠意なき儀式であり、
儀礼であり、しきたりで覆い隠されている時、
それ(善を偽り、邪な本心を隠そうとする心)は救い難い人格であることも
よく知っております。
儀礼は誠意が伴わねば無意味です。」
〖参考
「論語の読み方」164頁 山本七平著 祥伝社
「秩序の形成は、法によろうと礼(社会的ルール)によろうと、
常に自分を克服して拘束を受ける点があることは否定できない。
その意味では、法も礼も外的拘束である。
しかし、孔子は同時に、礼(ルールに合わせようとする意志なくば無に等しい)
も楽(調和へと働く内なる規律に生きる意志:
人の善なる心の琴線に触れる良き音楽が伝わるように、神から齎された者の心に現れる)
も内的な精神秩序と一体化しなければ無意味とした。
「仁を失っていたら形式的に礼をやって何になろう。また、音楽をやって何になろう」と。
「現代訳 論語(泰伯第八の二)」下村湖人訳
孔子がいわれた。ー
「恭敬なのはよいが、それが礼にかなわないと窮屈になる。
慎重なのはよいが、それが礼にかなわないと臆病になる。
勇敢なのはよいが、それが礼にかなわないと、不逞になる。
剛直なのはよいが、それが礼にかなわないと苛酷になる」
真に美しい心、徳に生きる心を敬う、そのような人の心の前に、
素直に自らの未熟を認められる心なき者が、自らを謙虚な者の如くに偽って人に見せようとする、
虚栄を通す心は、ゆとりなき心(窮屈)である。
善悪を正しく認識する為に、偽善に騙されないようにする為に、慎重になる、
それが人を守る、善に徹する心からでないならば、ただ自己保身しかないならば、
人の善意を信じる心を解さない未熟な心は臆病になる。
人を思い遣る心から齎される勇気でなく、人を気付つけても何ら痛みを感じることのない、
力を振るうことで支配欲を満たす高慢な心に生きる者は、
ただの蛮勇を勇気と自惚れる愚鈍に過ぎない。
自分に素直であるべきだからと、
その心が自分さえ良ければいいと思うような心しか理解出来ぬ未熟な精神に生きるなら、
他を疎んじる、他を苦しめても痛める心のない、苛酷(冷酷)な心しかない、
偽我の塊に過ぎないのです。
参考終〗
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- エッセンス・目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義者とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 二節 国家を破壊する共産主義
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 三節 共産主義に洗脳されたイスラム教は、宗教とは名ばかりのテロである
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 四節 共産主義の本質
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 五節 イデオロギーの狂信者
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 六節 イデオロギーと精神
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 七節 共産主義(悪魔のイデオロギー)誕生の背景
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の許に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様