第三部 神から授けられた正法

第一章 正法を信じる
「JI」82年9月号初出 ミカエル大王様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」156頁
「機関誌を通じて約五年に亘るあなた方への呼びかけと説話から、
"神を信じること"と"人を信じること"は、
正しく"人を愛すること"と"神を愛すること"が同質のものであるように、
基本的には同じでなければならないとお解りになったでしょう。

 只、目に見える人を信じる場合は、その信頼に応えて、具体的に信義を通してくれる人であるか、
或いはあなたを裏切るか、何れかの場合があり得ますが、
神を信じる場合は、(悪霊であれば必ずあなたの信頼を裏切るとしても、)
"目に見えぬ"、"言葉と法を主とする"人格である所が、
直に接触して確信を得る、所謂、対人間の信頼関係とは大きく異なる所があり、
少なからず抽象的な概念となっているのです。
 如何に霊能者を通して語ろうとも、あなたの五官に作用するのはその者の音声であり、
その印象を主とするものでしかありません。
 神はその背後にあって姿を一般の人々に見せぬからです。
 諸々の宗教宗派の神も同じ。
 教義・教典に現れる神の存在も背後にあって、
個々に姿を現して、人間とは別の存在として人々の五官に訴えるものではないのです。
 では、あなた方が"神を信じる"という時、神について何を信じると言うのか、
それを今日私は改めて問い掛けたく思います。

 キリスト教に於ては、イエス様を神と等しく崇め、信仰し、
仏教に於てはブッタ様を、法華宗派は日蓮を、新興宗教はそれぞれの教祖を崇め、
信じているのです。
 所謂、メシヤを通して、霊能者を通して、"神"を信じているのです。
 説教者を通しての場合もあるでしょう。
 この"目に見えぬ"神を信じ従うあなた方が、
"(神の)法に従うか、人に従うか"と問われた時、
一瞬たじろぐのは何故でしょうか。

注。
 神の法を見出しているのか、神の法に従ってきたのかも定かでない者に、
神は私達の内に何を信じられ、顧みられたのか、何を伝えようとされたのか。
 神の御心を受け止めてこなかった者の前に神が現れたのです。
 神を、神の授けられた法を軽んじる己が心を、
御前に明らかにされた時たじろいだのでしょう。注終)

 或る科学者が
"土田展子(注。天の立てられた霊能者で、天上界からのメッセージを仲介された。)
さんはお会いして知っているので信じているが、
千乃先生はそうでないから信じるかと言われても答えられない"、
 或る人は(読者であるか、部外者である場合)
"天上界は認めるが、千乃先生は信じているとは言い切れない"と言いましたが、
この相反するが如き意見は、如何にもなるほどと思えてそうではない、
真に法を以て正法に従うタイプであるとは言えないのです。

 しかもこの人達は教祖や教典、説教者を通じて各々のメシヤを信じ、神を信じております。
 イエス様にもブッタ様にも直接会ってはいないのに信じ、その教えを以て自らの拠所とし、
歴史上偉大とされる哲学の祖や、各々の分野の先達を崇めているのです。
 何を以て実際に会いもしない過去の人々を信じ、幻の如き出現以外に、
誰も平等に三次元の世界で直接会ったことのない神を信じるのか。
 しかも千乃様を信じろと言われて当惑するのか。

 事情があってあなた方すべての前に姿を現さないから信じられないと言うなら、
あなた方に同じく姿を現さない神も歴史上の先達も、信じるに値しないのではないか ー
その上更に、あなた方の信じる神、即ち天上界が千乃裕子を擁護しているのです。
 それを何と考えておられるのか。

 法を以て神を信じ、又、それを説いた過去の人をも信じるならば、
法を仲介として千乃様を信じ、又、正法者が互いを信じるのに何の支障があるのですか。

 現正法を信じるから、それを信じるあなたを信じることが出来ます、と何故言えずに
実際に会って語り合う人々の間にさえ背反の気が生じるのか。
 且つ現正法以外の教義にしか目を向けたがらない多くの人々が居るのか。

 それは真に法を理解しているのではなく、法を信じているのでもなく、
ましてや人も信じたくない。
 疑うことに安住の地を見出し、

注。
 過去から在って人々を幸せにしてきた教えに従っている自分は正しい(自己肯定)のだから、
自分を変えることはない(変えられない ⇒ 宗教の形骸化)。
 自分を変えなければ真理の道を行くことが、現実を打開することが出来ないとする、
現天上界に齎された新しい教えを疑う(素直な心と相反する猜疑心)ことで、
今のままで良いのだと安心する、安心を齎すから正しいのだと
(不安を齎すものは真理ではないと)考える、
自分は真理に従っているのだと、真理に生かされているのだと、
自分本位に解釈する欺瞞(偽我)に安住する。注終)

人が集まって信じている振りをしているから、
安全なのだろうという低い意識の人でしかない。
 或いはその人々を何かの形で利用する、利益を得る。
 その目的があって従っているに過ぎない ー ということのみに帰する。
 それが故に現正法を信じ従うことにより、何の利益も得られない、
反って自らの過去の生き方を変えねばならず、それによる損失が大きい場合に、
前記のような弁解と口実を設けて背反したり、近付かずに無視したりするのです。

 このような人々は"信じる"とは何をどのように信じるのか理解しても居らず、
"愛する"とは何をどのように愛するのかも知らず、"天上界を信じる"と只、口に出すのみ。
 実は神を信じると言う資格さえも持たぬ者です。
 自らのみを信じ、人を信じず、諸宗教の形骸のみを信奉する米国及び西欧、中東諸国の人々、
人を信じず共産主義の力のみを信じるソ連他社会主義圏の人々を冷静に見つめる時、
互いを信じ、その信義の上に立って互いに愛する心無くして如何に世界の平和も繁栄も、
ましてやユートピアも神の国も地上に築き得るでしょうか。

 その実現はまだまだ遠いと言わねばならないでしょう。
(その如く反省する言葉さえも持たぬ共産主義思想は、疑いもなく神からのものではなく、
悪魔から出た思想に他ならないのです。)」

〖備考1
 ユダヤ人の救い主イエス様をユダヤ教徒は処刑し、
聖霊を宿し、天の御意志を自らの意志としたジャンヌ・ダルクをローマ・カトリックは魔女と扱い、
天の意志を、天の法を伝える最後の預言者として天自ら証された千乃先生を認めようとしなかった、
パリサイ人やローマ・カトリックと同様自らは天に従順な者と高慢の思いに生きる自称・正法者達は、
天上界から怒りを買っていることすら理解出来ないでいたのです。備考1終〗

〖備考2
 正法を、神を信じられない人というのは、
自分の存在のように明白(に知覚されるもの)でないから信じられないし、
信じられなくても困らないから信じようとしないのでしょうか。
 自分が生まれるまでは無であり、死後どうなるのかもわからない自分を信じられるとする、
自分を在らしめた原因が何であるかも知らないで、
何の根拠も見出すことなく信じて安心していられるのは、単に鈍感であるに過ぎない、
真実を知ることの恐れから盲目の自己愛に留まろうとするのが彼等の精神なのかも知れません。
(恐怖に遭遇したダチョウは、恐怖を齎す存在が見えさえしなければ
恐怖心から解放されるような精神構造をしているのではないでしょうか。
 地面(砂)に首を突っ込むだけで、敵から逃げようとすらしません。
 未熟な精神にあっての自己保存の働きとは、そういったものなのかも知れません。)
 真理に依らずに自己保存に適うものを正しいとする基準で判断を下す、
そのような未熟な精神には真理を受け入れる理性の宿ることはないでしょう。備考2終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法