第一部 天の教え
第十部 病の分析と治療への助言
二節 肉体面(老人性痴呆について)
(一) 老人性痴呆の誘因となる精神の退行と罹患を防ぐ精神の成長について
「JI」87年4月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」69頁
「老人性痴呆のあり方について述べてみたいと思います。
種々学説があって、手や指先或いは足をよく使う人は、所謂アルツハイマー病と言われる、
老化現象の進行が極端に早い老年痴呆の、罹患率が低いと言われます。
逆に技術畑の人間は老人性痴呆に罹り易い。
そして症状の特徴としては、もの忘れが酷く、感情の抑制がしにくくなって、
理性や知性の衰えが顕著になります。
老年になれば身体の機能、特に消化器系の衰えと共に栄養摂取が充分でなくなり、
必然的に内分泌系や他のあらゆる諸器官の衰退が脳動脈の硬化、脳細胞の萎縮、脳血流の減少 ー
そして脳細胞の死滅という結果となって表れます。
この過程と症状は、
脳の外傷や、脳炎、脳腫瘍、梅毒、アルコールや薬物中毒などの外因性のもの、
特に原因の無い(と言っても内分泌機能の異常や先天的な大脳神経系の異常による)
内因性とされる精神病やノイローゼ、ヒステリー症状にも
共通して精神的な障害が出てくるものですが(症状が同じというものではなく、
進行の速度が早かったり、ある一つの事だけに留まったりします)、
老人性痴呆は脳細胞の衰えが急激で、年齢の割に痴呆が著しいのです。
精神病と同じで年齢差が一定せず、こんな人物がと思われるようなケースもよくあります。
只、外傷や脳の外因性の病気とは別に、老年痴呆も、精神病、ノイローゼ、ヒステリーも含めて、
性格的なものが大きく影響しているようですね。
先天的、後天的(家庭や社会の環境や血液型によって違った表れもするが)性格が
本人の生活態度に表れて、それが不健康な肉体と精神の影響し合う関係となるようです。
正法者、即ち天上界と関りを持ち、神と共に歩まねばならない人たちは、
身体が健康でなければ、精神が健全であって、身体症状を補い、
精神が健全でなければ、身体の健康を目指して、精神の安定を計ることが要求されます。
しかし前者は易しいが後者は困難で、性格上の欠点を直さなければ、
人生観も変わらず、生活の改善もなされず、身体的な健康も保てないことになります。
他方、性格的なもので正法者の躓きとなるものはもうお判りでしょう。
自己中心的(エゴイズム)で幼児的、他者依存的な未熟な性格、精神状態がそうなのです。
そういった人達は、自分の生活や関心及び家族の者が世界のすべてであり、
他人については殆ど理解も出来ず、関心の対象にならない ー
只、興味はあるが、外界の動くものか、
良くて精々自分が他人にどう表れているかを計るバロメーターに過ぎない、
詰り幼児か動物の精神状態でしかないのです。
性格としては大脳の未発達な状態であり、それに伴う種々の欠点、弱点を示しております。
精神の成長も健全の度合いも偏に大脳の発達によること。
又、それは良き正法者となる基準の物差しであり、研磨の目安、私達の規範であって、
あなた方にお教えしてきたものです。
精神の成長なしに、良き社会も文明の発展も、世界の繁栄もありません。
神と人とが共にユートピアを築く為には、幼児や動物のままで他人に依存することなく、
自ら社会人としての義務を弁え、個人の責任を果たさなければなりません。
他者や周囲への愛の心も暖かい関心も、正しい形で芽生えてはこないのです。
そして精神の成長と共にナルシシズムを離れ、
正しい形での対人関係が生まれてくるし、
又、健全な生活態度や人生観を持ち得るようになり、
不思議だと思われるでしょうが、老人であれ若年であれ、
痴呆やあらゆる精神の病気さえ罹らなくなるのです
(勿論、戦争や歪んだ政治社会は別です)。」
第一部 天の教え
第十部 病の分析と治療への助言
二節 肉体面(老人性痴呆について)
(二) 善意の迸りを止めた時(その原因が精神の堕落、退行であれ、前頭葉の委縮であれ)、
自己保存の前に善我を失う
本能の力の及ばぬ人格の深みに見出した善我の思いが心に響かなくなった時、
自然の法則に生きる心はなく、只自己保存に従う心が残される。
「JI」88年5月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」99頁
「精神病者であれ、老人の痴呆であれ、生来の痴呆を刻まれた精神薄弱児でない限り、
罹患するまでの生活や人生観が習慣として残り、意志表示をさせるものです。
それ故にシェイクスピアの描くオフェリアは哀れにも美しく、
観る人、聞く人の琴線に触れ、悲しみを誘うものです。
うら若き乙女の一途な恋が、愛し慕う若者ハムレットの心とは裏腹の言葉に振り回されて、
苦しみ、錯乱し、水死してしまう短い生涯は、文学によって死を彩る耽美の極致です。
私自身生前に老人痴呆という病に冒された人と接した経験なく割合に早く他界しましたから、
最近千乃裕子の身近に日々その人物を見るにつけ、復讐心、殺意、嫉み、など
他への破壊を目指すあらゆる人間の悪は、善意の迸りを止めた時に生じ、
又、精神もその時点から退行を始め、
精神病となるか痴呆化するのではないかと感じ始めております。
一言で言えば、高等感情を齎す前頭葉の活動が鈍くなるか、萎縮し始めると共に、
善人が悪人に変わり得ることも可能であるということです。
同時に向上心なく、高貴な心の養いも目指さず、
エゴイズムの悪を正当化しては、自らを甘やかし、
身勝手な人生を反省もなく生きた人間の老年は、
只々心の醜い部分を剥き出しに暮す晩年でしかないのです。
"心が美しい"ことは何にも優る人間の徳性であり、
"顔形が美しい"ことは何の利点でもありません。
私達はそれを正法を通じ、常に教えてきました。
又、老年になっても"美しい心"を保つには若年の頃より努力しなければ、
大脳の細胞が多く死滅して習慣としての言動しか残らなくなった時に、
その人の真の心の歴史が表面化してくることも覚悟しておいて下さい。
オスカーワイルドの『ドリアン・グレーの肖像』という文学作品もありますが、
これなど正に若年の心構えが老年の心と生き様に直接関るものとの哲学を語る作品でしょう。
天を知り、神を求める真摯な心は、
文学であれ、哲学であれ、宗教でさえ精神世界の真理と美を愛する心と繋がり、
反面どのような人であれ、真理と美を愛せず、求めもしない人は、
天も神も求めず無縁の生涯を送ることとなり、
悪霊の喜ぶ生活の中に、悪霊と等しい醜い心を育てて、
無自覚に死後の地獄を作ることになるのです。
そのように、美しいものを愛し、求める人は、
周囲との関りに於ても健康で、楽しい雰囲気を齎し、
マスコミの喜ぶ俗的な世界に浸り、愚かしい笑いのみが最高の娯楽だと勘違いし、
そう教えられている人々には、
"美しく老いる"ことも"美しく錯乱する"ことも叶わず、
神や美しさとは縁なき生涯を送り、心の醜さを露呈するのみに終ります。
本人がそれを恥とも思わないのならば、神も人もその人物を救うことは出来ず、
又本人自身がそれを不幸な人生であり、晩年であるとも気付かず、
死を迎えることになるでしょう。」
第一部 天の教え
第十部 病の分析と治療への助言
二節 肉体面(老人性痴呆について)
(三) 老人痴呆の進行とその阻止への対策
「JI」88年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」101頁
「前月号に引き続き、
今月は老人痴呆の進行と阻止について私個人の感想を述べたいと思います。
痴呆といっても所謂アルツハイマー病に関するものですが、
特に脳内血管中に沈澱して血流を阻害するアルミニウムは、
レシチン製剤(九五%フォスファチジル・コリン)を摂取したり、
ステンレス製の調理器具などを使用することで、体外排除に効果を上げ、
それ以外に貧血や低血圧症を齎す疾患があれば、治療を並行させる。
更にビタミン・ミネラル剤を常用、血液の代謝促進を計る ー
などによって本人の意欲があればかなりの回復が可能になるようです。
といっても一旦死滅した脳細胞は再生不能ですから、記憶を別の部位で代替することにより、
すべての事象とそれに対処する方法を一から再学習するしか術はありません。
悲しい事ですが、それが現実です。
従ってその家族は突然に幼児が現れ、(或いは動物よりは判断と知恵が劣り、
本能は動物並みの強靭なものを兼ね備えた人間という動物が)
今迄任せておけた仕事も責任もこの老人には期待出来なくなり、
殆どの生活習慣を本人が再学習するまで手取り足取り教え、
世話をしてやらねばならなくなります。
詰り、一人の老人に一人の付添いが必要となるのです。
大家族であれば手はあるでしょう。しかし、少人数となると、その余裕は無くなります。
だから専門医が勧めるように特別老人ホームに入れるか、専門の精神科に通わせる
(或いは酷い場合は入院)しか方法は無いようです。
しかしそれが可能でない場合、即ち付添いを雇う余裕無く、
その老人もある程度の仕事をさせなければならない
(他に家族が居らず二人だけの場合など)時は、二十四時間絶えず
家人との接触によって生じる軋轢が却って家人と老人の精神の安定を壊し、
家人は期待を裏切られ、失望と苛立ちによるストレスが重なり、
老人はそれによって自分も失望し、苛立ち、
家人が自分への同情や思い遣りが無いと逆恨みするようになる。
しかも劣等感から嫉妬心が強くなり、家人の生活の妨害を始める。
といったマイナスの、益々悪化の一途を辿る対人関係が生じてくるようです。
私が先月お話したように老人に至るまでの生活習慣が、
やはりこの痴呆が進行する時期に顕著に表れてきます。
又、老人の言動が家人を苛立たせ、満足を与えないのを見て、
却って老人は相乗的に責任放棄の状態で、自ら痴呆を進行させてしまうようです。
一種の鬱病とでもいうのでしょうか。
大脳が不活性化してしまうのです。
或いは精神病の症候群とでも表現すべきものでしょうか。
私個人の考えとしては思春期の非行化も、
躁鬱的に表れるやはり軽度の精神病(又はノイローゼ)の一種であり、
それによって自分の心に鬱積するストレスを解放しようとする自浄作用でもあるのでしょう。
本人が年齢的に或いは精神的に成長すれば治ります。
精神の病に関しては、必要となれば、もっと深く掘り下げ、解明することも可能ですが、
今月号では表面的なものに留めておきましょう。
一言で言うならば、精神の病も遅滞も、本人が一社会人としての責任を放棄し、
自分の人生や生活についてくよくよと考え始めた時点で始まるのです。
従って身体面の痴呆を阻止する治療も努力も、
家人との精神的な摩擦によって生じるストレスがある限り、効果が上がらず、
家庭の崩壊の原因となるのです。
やはり家人との接触を減らし、しかも付かず離れず、一定の距離を置き、
一定の時間は家人との触れ合いを保つ事によって、お互いに精神の安定を得、協力し合い、
互いに満足を与え合う(家族であることを再認識させて安心させる)ことにより、
一つの社会を再構築してゆけるのです。
一つ屋根の下ではなく、出来れば二、三分の所に別の住まいを得、本人に一人で生活させる。
これが非行少年少女の場合であっても同じです。」
(中略)
「社会生活とは義務と責任を果たすことであるのを自然に学ぶ環境が必要です。
勿論非行の場合も、身体面の健康は留意してやらねばなりません。
若年のアルツハイマー病という症状もあり、青少年も大脳が気質的に不活性化すれば、
生活環境の調整も役に立たないからです。
自閉症児も非行ですが、老人痴呆の場合も、身体面の調整をしながら、
社会に受け入れられる為には自立しなければならず、自立する為にはして良いこと
(為すべきこと)と、してはならないことを、はっきり教えてゆかねばなりません。
甘やかしてはならないし
本人がこの社会には不要のものといった疎外感を与えてもならないのです。
これは身障児の場合も同様。
家人は医師と同様に、ヘレン・ケラーを育てたサリバン教師の如く、
接しなければならないのです。
教師の立場にない知人、友人は一定の距離を保ち、細かい所に干渉しないこと。
所謂普通の社会を形成して行けば良いのです。
といったようなことが老人痴呆にも効果が上がることに気付きました。
甘やかされて育った子供も大人も老人も、
社会人としての責任を果たすようになれば精神も成長し、大脳も活性化するもの
であることが明らかになったのです。
これらは勿論正法者としての人格に至る以前の問題であることは言うまでもありません。
又、この自立を主体の生活が却って、
精神科やホームに預けるよりも痴呆の阻止に効果がある方法であるかも判りません。
追記 依存型性格(異常性格)及び自閉傾向が痴呆症と同居する場合は
家人の対応は非常に難しくなり、私の述べた一般的な対処法では効を奏さない
ことはお知らせしておきたいと思います。」
第一部 天の教え
第十部 病の分析と治療への助言
二節 肉体面(老人性痴呆について)
(四) 痴呆症、ノイローゼ並びにヒステリー性格の関連について
「JI」88年7月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」104頁
「この所精神疾患についてよく触れますが、
痴呆症、ノイローゼ並びにヒステリー性格の関連についても述べるべき箇所があるように思います。
私見ですが、医師が手を焼くノイローゼ患者と最近話題になる若年アルツハイマー病とは、
何処かに共通因子が隠れているようであり、
又、ヒステリー性格とノイローゼ症状は深く結び付いております。
鬱病でさえ、ヒステリー症状の表れであることが多いようです。
読者や正法者の大部分の方々はこれを正法的に説明する方が判り易いですから、
専門的な分析は致しませんが、
ヒステリー性格というのは確かに理性に欠け、精神力が弱いということから、
自分を批判的に見つめ、又、他からの批判を素直に受け入れることが出来ないので、
反省し改めることは自分については、特に不得手であるようです。
あたかもそうすることは自分の崩壊に繋がるかのように、
全防衛機能を駆使して他の批判を拒絶し、
厳しい叱責に対しては理解する所か、恨みさえ残すようです。
しかも自分よりも優れた才能の持主には
相手を陥れてまで自分の優位を勝ち取ろうとする強い嫉妬心を持ち、
自ら善悪の区別をすることは出来ません。
女性のサタン・ヘラも似通った性格を持ち、サタン・ダビデも同様でした。
こういったタイプの人物は小心であることが特徴なのですが、
今にして思えば、サタン夫妻ダビデとヘラはアルツハイマー病ではなかったかと考えます。
ダビデは生来奸智に長けた性格であった
(甘やかされて育ち、自制心、克己心といったものに欠け、己の野心の前に良心を捨て去り、
ありとあらゆる悪徳と奸智により徳ある人々を苦しめるのを喜びとした)
故の悪業であったかもしれませんが、
少なくともヘラは自分というものを持たず、
その非を責められても、改める前に徳と義を煩わしく思い、
ダビデと行を共にして、歪んだ支配欲と権力欲を満たしていたような節があります。
過ちを悔いて己を人前に投げ出すよりも、責められぬ所へ行き、
良心の呵責を与えないダビデの世界に住むのを良しとしたのです。
理性や自己犠牲、他者への愛や思いの為に抱くべき
抑制心が存在する前頭葉が未発達であったか、或いは使わぬまま衰退したか ー
彼等にとっては善の為に克己し、悪の思いを抑制し、されることが
生存の意義を失うことであったのでしょう。
エゴイズムやナルシシズムというのは、高等感情である理性による抑制心が欠ける所、
他者への愛に欠ける所に蔓延ります。
だからヒステリー性格は自己愛から抜け出られぬ者に多く、
その自己愛はノイローゼ患者に共通の、世界が自分を中心に廻ると
常に錯覚するタイプが抱く感情。
自分は何時も注目の的であり、他者は自分の考え通りに考え、
動くはずだと思い込む独善型(理論的でなく、只そう言い張り、常識を欠く結論に基づく)
で視野狭く被害妄想的であること。
他者の心理について判らず、只他者の目に映ずる自分だけがすべての行動の原動力となる。
従って善悪の有無よりも他者の前に繕って偽りの己を維持することに知恵を絞る。
詰り偽善であり、偽我が人生の目的とすり代るのです。
その為には善悪の基準は問題ではなくなり、ノイローゼであった頃の小心と良心過多が、
痴呆により更に抑制が取れて良心欠如型と変ってくるのです。
精神病とノイローゼとの差異は同じ自己を中心とした世界でありながら、
大脳の機能が麻痺してくるにつれ、良心が欠如し、
情操も抑制も失われてくる所にあるのでしょうか。
この点から見ると、鬱病はノイローゼに近い症状に思えます。
良心欠如型になる程の気質変化を起こしていないようですから ー 。」
〖参考
「進化しすぎた脳(2007年出版)池谷裕二著」より
(原因)
この本の中にアルツハイマー病に関する講義が掲載されていましたので要約しますと、
アルツハイマー病を引き起こしている原因は、老人班と呼ばれる、
水に溶けにくい「βアミロイド」というタンパク質が凝集し、沈殿するからです。
染色体の APP にあるβアミロイドは(タンパク質を分解する酵素である
「プリセニリン」と「βセクレターゼ」の異常によって)APP から切り取られてしまい)
脳内に溜まります。
脳内のシナプス(情報が伝えられる神経細胞間のすき間)で放出される神経伝達物質は
グルタミン酸で、伝え終えた後、放出元に戻すグリア細胞がシナプスに存在しています。
βアミロイドは、グリア細胞の働きを強めて、グルタミン酸が放出先の受容体に届く前に
回収してしまう為に、情報が伝達されず(神経細胞が死んでいなくても)痴呆が起こっています。
(対処方)
1.ワクチンを作る。
βアミロイドが脳内に溜まる前に、βアミロイドを投与することで、
免疫細胞に抗体を作らせる。
アルツハイマー病になってからの老人には抗体は作りにくいので、
2.神経細胞の減少を抑える薬を作る。
神経細胞が死んでなくてもβアミロイドに阻害されると、アルツハイマー病になりますが、
その末期では、神経の伝達が阻まれるだけでなく、神経細胞が死滅していき、死に至ります。
その顕著なものが「アセチルコリン」という神経伝達物質を持つ神経細胞です。
その減少を回避する為に、アセチルコリンを専門に壊す「アセチルコリンエステラーゼ」
を抑制する薬が開発されました。
(「アセチルコリンエステラーゼ」を阻害させる猛毒が、サリンです。
アセチルコリンが働き過ぎるとどうなるか、
サリンの被害に遭った人達に表れた症状から証されています。
「アセチルコリンエステラーゼ」も必要だから在るのであり、
抑えつければ副作用が生まれます)
「Newton ムック 脳のしくみ(2008年出版)」より
私たちの体内には、病原菌やウイルスなどが侵入してくる。これらの侵入者を攻撃する細胞が、
「免疫細胞」とよばれる細胞だ。
免疫細胞は、体中の血液とリンパ液を循環して、異常がおきていないかどうか、
体全体をくまなくチェックしてまわっている。
しかし脳の中では、体中を循環するこれらの免疫細胞とはちがう細胞が、
脳を守るはたらきをしているという。
その中心となる細胞が「ミクログリア」である。
ミクログリアは、神経細胞と神経細胞の間にある細胞群の一種である。
この細胞は、脳内で死んだ細胞などの邪魔な物を食べて、脳を掃除してくれる。
脳の"邪魔者"が70%以上も減った
ミクログリアが食べる、脳の"邪魔者"の中には、脳内にたまる「老人班」というしみもある。
老人班は「アミロイドβ」というタンパク質集まり、固まってできたものだ。
アミロイドβ自身は、長いタンパク質から切断されてできてくる。
この老人班が脳内に多くたまる病気が、アルツハイマー病だ。
老人班のたまる理由としては、アミロイドβが過剰につくられてしまうことや、
ミクログリアの"食欲"が衰えてしまうことなどが考えられている。
アルツハイマー病は老年期に発症する頻度が高く、記憶の障害をともなう。
この記憶の障害をもたらす原因の一つが老人班とされているのだ。
埼玉医科大学総合医療研究部の森隆准教授のグループは、
アルツハイマー病の記憶の障害を改善させるため、
へその緒(お)を流れる血液「臍帯血(さいたいけつ)」を使う方法を試みた。
臍帯血は、さまざまな血液細胞のもとになる「造血幹細胞」を多く含むなどの特徴をもつ。
過去の研究から、この臍帯血とミクログリアとの関係は注目されていた。
森准教授らは、アルツハイマー病のモデルマウスの静脈に、ヒトの臍帯血を投与した。
すると脳内のアミロイドβが70%以上も減った。
さらに研究を進めたところ、
ミクログリアがアミロイドβを積極的に食べていることが判明したのである。
臍帯血は、ミクログリアの"食欲"を活発にするらしい。
胎児から老年期まで助けてくれる
ところで、ミクログリアは本来の性質として、
どんな物を食べたあとでも、ある困った行動に出る。
脳内にある別の細胞「アストロサイト」を刺激するのだ。
アストロサイトとミクログリアは刺激をあたえあい、
炎症をおこす物質と炎症をおさえる物質を出す。
とくにアルツハイマー病の脳では、これらの細胞の相互作用が活発になり、
炎症をおこす物質を多く出す。
この炎症は記憶の障害を悪化させるのだ。
ところが、臍帯血を投与したマウスでは細胞どうしの相互作用が減り、
脳内の炎症をおこす物質の量が減った。
逆に、炎症をおさえる物質の量は増えた。
臍帯血には脳内の炎症をおさえるはたらきもあったのだ。
「私たちは母親の胎内にいるときのみならず、老年期も臍帯血に助けられるようです」と、
森准教授は語る。「臍帯血のどの成分がどうミクログリアをかえるのか。
そのしくみを研究し、効果的な治療法の開発につなげたいと思います」(森准教授)。
当時からかなり経っているので最近はどうなのでしょう。参考終〗
第一部 天の教え
第十部 病の分析と治療への助言
二節 肉体面(老人性痴呆について)
(五) 老人痴呆にならない人達の生き方
「JI」88年8月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」108頁
「老人痴呆について私なりの観察を述べたいと思います。
身体を動かすこと、手足を動かすことなどがボケ防止に役立つと言われておりますが、
やはり何よりも大脳を常に柔軟に保ち、知的作業から離れないことが肝要だと思われます。
脳細胞を常に働かす習慣を身に付ける、或いはその習慣から離れないこと。
その為にも人間は自分の社会の一員としての仕事、個人の生活や健康管理は当然として
(現実逃避しないよう常識的に、知恵を用いて生活すること)、
天の前に、謙譲に、正法に従って生きること ー 。
即ちナルシシズム、自己顕示、虚栄心、自己防衛の為の虚言 ー
ヒステリー性格的な欠点、名誉欲や個人的な野心 ー
こういった自己に関するすべての偽我を捨て去り、
正法流布を神の使命として、只それのみを念じ、
そして他への奉仕と思いに生き続けることが必要です。
古人は種々良い諺を残しております。
"身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ"。
自分のことばかり考えてためらったり、危ぶんだり、逃げ腰でいては、
行き詰った時の打開策も浮かばず、
危機から脱することも出来ないし、物事も成就しないのです
(一身を犠牲にする覚悟があってこそ物事は成就することが出来る)。
又は、"身を殺して以て仁を成す"
(自分の身を犠牲にして人道の極致を成就する)。
自分を他との競合に於てのみ、努めるような生き方ばかり身に付けていては、
現実逃避どころか、善悪の判断も逸脱してしまい、
ナルシシズムやエゴイズムを捨てて知恵ある社会人として成人することも叶わず、
正法者となること、天の意を汲むこと、正法流布の為になすべき重要な事柄も理解し得ず、
却って人の迷惑となる一生と老人痴呆の晩年を迎えるだけの人生を送ることになります。
自らを正法者と称しながら、既にその轍にはまり込んでいる人もかなり居ります。
そういった人々はたとえ正法の群れに属して死を迎えても天には招かれぬ人々です。
これは私からの老婆心としてお話ししておきましょう。
あなたが何歳であれ、今この時期に何を考え、何を目指して生きているか、
それが重要な鍵なのです。
人の目に自分がどう映るか、どう評価されるかなどと考えるのは
虚栄心とナルシシズムでしかありません。
大脳が退化しているか、未熟な人間の考えることです。」
〖参考〗
"病(運命)に向き合う"
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 32頁
「伯牛(はくぎゅう)疾(やまい)あり」
伯牛(はくぎゅう)疾(やまい)あり、
子(し)これを問い、牖(まど)よりその手を執(と)りていわく、
これを亡(うしな)わん、命(めい)なるかな、
この人にこの疾(やまい)あるや、この人にこの疾あるやと。
ー 雍也(ようや)篇 ー
冉(ぜん)伯牛の病気は、いよいよ癩病(らい)病の徴候をあらわしてきた。
顔も、手も、表面がかさかさになり、全体にむくみがあって、
むらさき色がかった肉が、皮膚の下から、今にも渋柿のようにくずれ出そうである。
このごろはたずねてくれる友人もほとんどない。
彼自身でも、人に顔を見られたくはないので、結局その方が気は楽だが、
一方では、やるせのない寂(さび)しさが、秋の水のように心の底にしみてくる。
そして、その寂しさの奥には、人間に対する呪詛(じゅそ)が、
いつもどす黒く渦(うず)を巻いているのである。
ことに、天気のよい日など、病室の窓から、
あまりにも美しい日光が、燦燦(さんさん)と木の葉にふり注いでいるのを見ると、
天地ことごとくが、自分に対して無慈悲なように思えてならない。
(澄みきった日光の下で、生きながら腐乱(ふらん)していく人間の肉体!
なんという自然の悪意だろう。
こんな悪意にみちた自然の中で、人間の心だけが、素直に育っていこう道理がない)
彼はすぐそんなことを考えて、目を暗い部屋の隅(すみ)に転ずるのである。
しかし、自分の病気の正体を知った当座(とうざ)の驚きに比べると、
これでも、彼の心は平静に返った方である。
その当座は、悲しいとか、怨(うら)めしいとかいうのを通り越して、
なんの判断力もなく、まるでからくり人形のように、家の中をうろつき回ったものである。
自殺しようとしたことも、幾度(いくど)となくあった。しかもそれは、
あとで考えると、まったく無意識的な発作(ほっさ)に過ぎなかったようである。
かように、ほとんど絶望そのものになりきっていた彼が、
ともかくも、悲しんだり、怨んだりするだけの人間らしさを取りもどしたのは、
まったく孔子(こうし)のおかげである。
孔子は、おりおり彼をたずねて来ては、慰(なぐさ)めたり、叱(しか)ったり、
いろいろの教訓を与えたりした。しかし、もっとも多く孔子が口にしたのは、
いっしょに諸国を遍歴(へんれき)して嘗(な)めた労苦の思い出、
とりわけ、陳蔡(ちんさい)の野に飢えたおりのことであった。
伯牛にとっては、こうした過去の物語が、なににもましてなつかしかった。
単なる慰藉(いしゃ)や、叱責(しっせき)や、教訓などでは、どうにもならなかった彼も、
いっしょに旅に出て難儀(なんぎ)をしたころのことが、
しみじみと孔子自身の口から語られたのを聞いていると、しだいに人心地(ひとごこち)がつき、
生への執着が、水滴のように彼の心の中に滴(したた)り始めるのだった。
それと同時に、彼の理性もそろそろとよみがえってきた。
そして、このごろでは、どうしたら悲しみや怨みに打ち克つことができるのか、
どうしたら自分の悪疾(あくしつ)を気にしないで以前のとおり落ちついた心で
道に精進(しょうじん)することができるのか、
また、どうしたら生死を超越することができるのか、
そうしたことに心を悩ますまでになったのである。
((※1)自分は、徳行においては、顔淵(がんえん)、閔子騫(びんしけん)、
仲弓(ちゅうきゅう)などと並び称せられ、自分でも、内心それを得意にしていたものだが、
今から考えると、自分の徳行なんか、
まるで寄せ木(き)細工(ざいく)みたいなものに過ぎなかった。
その証拠には、ちょっとした障害にぶっつかると、すぐばらばらに壊されてしまうのだ。
病気や運命に負けるような徳行が、なんの徳行だ。ー
(それにつけても思い出すのは、陳蔡(ちんさい)の野でみんなが苦しんでいた時に、
先生の言われた言葉だ。
「君子はもとより窮(きゅう)することがある。
だが、小人(しょうじん)と異なるところは、窮しても濫(みだ)れないことだ」ー と。
そうだ、どんな場合でも濫(みだ)れない人であってこそ、
真に徳行の人ということができるのだ。しかし、その力はどこから出て来るのか。ー
(また、いつだったか、先生は、
「(※2)大軍の主将といえども、生け捕りにされないことはない。
しかし、微々(びび)たる田夫野人(でんぷやじん)でも、
その操守(そうしゅ)を奪い取ることはできない」といわれた。
なんというすばらしい言葉だろう。病気ぐらいでとりみだしている自分の心が恥ずかしい。
しかし、その堅固(けんご)な操守の根本の力となるものはなんだ。
自分にはそれがわからないのだ。
自分はこれまで、そうした根本的なものをつかむことを怠(おこた)って、
ただ先生や先輩の言動だけを、形式的にまねていたに過ぎなかったのではなかったか。ー )
こうした反省をつづけている間の彼は、さほど不幸ではなかった。
考えの解決はつかなくても、やはり彼の心には、人間らしいある明るさがあった。
少なくとも、その間だけは、腐乱していく自分の肉体を忘れることができた。
しかし、体を動かした拍子(ひょうし)に、痛みで皮膚の感覚が、目をさますと、
彼はすぐ自分の手を見つめた。
それから、その手をそっと顔に当てて、指先で、用心ぶかく眉や鼻のあたりを探った。
そして、そのあとで彼の心を支配するものは、いつも戦慄(せんりつ)と、
萎縮(いしゅく)と、猜疑(さいぎ)と、呪詛(じゅそ)とであった。
どうしたわけか、今日はとりわけ朝から彼の心が落ちつかない。
友人たちに対する邪推が、それからそれへと深まっていく。
(みんなが寄りつかないのは、きっと自分の病気をこわがっているからだ。
そのくせ、病人の気持ちを察して、などと、いかにも思いやりのあるようなことを、
おたがいにいいあっているのだろう。
あいつらには、先生のいつもおっしゃる
「(※3)恕(じょ)」とか、「己の欲せざるところを人に施してはならない」
とかいうことが、おそらく、こんな時だけ役にたつのだ)
そんな皮肉な考えが、自然に彼の頭に浮かんでくる。
そして、そのあげくには、孔子だって、本音を洗ってみたら、
どんなものだかしれたものではない。といったようなことまで考える。
(そういえば、先生も、もうそろそろ一ヵ月ちかくも顔を見せられない。
考えてみると、自分の顔全体が変にくずれ出したのは、この前お会いしたころからのことだ。
いよいよ先生も逃げ腰だな。ー
「(※4)冬になってみると、どれがほんとうの常盤樹(ときわぎ)だかわかる。
ふだんは、どの木も一様に青い色をしているが」などと、
よく先生はしかつめらしい顔をしていっておられたものだが、
さて先生ご自身は、はたしてその常盤樹といえるかな。
聖人といわれるほどの正体も、今度という今度は、はっきりわかるわけだ。
それも、自分がこんな病気になったおかげかもしれない)
伯牛は、眉も睫毛もない、むくんだ顔を、気味悪くゆがめて、皮肉な笑いをもらしたが、
笑ったあとで、たまらなく不愉快な気持ちになった。
なんだか、孔子という人間一人の化けの皮をはぐために、
自分が犠牲にでもなっているような気がしてならなかったのである。
(孔子一人のために、これまでも、われわれはどれほど苦しんできたことだろう。
それに、こんな病気にまでなって、その正体を見きわめなければならないのか。
孔子という人間は、それほど人に犠牲を要求する価値のある人間なのか)
彼は、そんなとんでもないことまで考えて、まるで気でも狂ったようになっていた。
「先生がお見舞いくださいました」と、その時、だしぬけに召使が戸口に立っていった。
伯牛はぎくりとした。そして、悪夢からさめたあとのように、しばらく天井を凝視した。
それから、急にあわてて、いったんは臥床(ねどこ)の上に起き上がったが、
すぐまた横になって、頭からすっぽりと夜着(よぎ)をかぶってしまった。
夜着は肩のあたりでかすかにふるえていた。
「こちらにお通しいたしましても、よろしゅうございましょうか」
召使は、一歩臥床に近づきながらいった。
返事がない。
召使は、しばらく首をかしげて思案していたが、
ひとりでなにかうなずきながら、そのまま部屋を出て、しずかに戸をしめた。
五、六分が過ぎた。その間伯牛は、夜着の下でふるえつづけていた。
すると、だしぬけに窓の外から孔子の声が聞こえた。
「伯牛、わしは強いてお前の顔を見ようとはいわぬ。せめて声だけでも聴きたいと思って、
久々にやって来たのじゃ」
「 ………… 」
「このごろぐあいはどうじゃ。やはりすぐれないかの。だが、心だけは安らかに持つがいい。
心が安らかでないのは、君子の恥じゃ」
「先生、お……お……お許しを願います」
伯牛は、むせぶように夜着の中からいった。
「いや、そのままでけっこうじゃ。お前の気持ちは、わしにもよくわかる。
人に不快な思いをさせまいとするその気持ちは、正しいとさえいえるのじゃ。
しかし、…… 」と、孔子はちょっと間をおいて、
「(※5)万一にも、お前がその病気を恥じて、顔をかくしているとすると、
それは正しいとはいえない。お前の病気は天命(てんめい)じゃ。
天命は天命のままに受け取って、しずかに忍従するところに道がある。
しかも、それこそ大きな道じゃ。
そして、その道を歩む者のみが、真に、知(ち)仁(じん)勇(ゆう)の徳を完成して、
惑(まど)いも、憂(うれ)いも、懼(おそ)れもない心境を開拓することができるのじゃ」
伯牛は嗚咽(おえつ)した。
その声は、窓の外に立っている孔子の耳にも、はっきり聞こえた。
「伯牛、手をお出し」
孔子は、そういって、自分の手を窓からぐっと突き入れた。
彼の顔は窓枠の上に隠れて、内側からはちっとも見えない。
伯牛の、象の皮膚のようにざらざらした手が、
おびえるように、夜着の中からそろそろとのぞき出た。
孔子の手は、いつの間にか、それをしっかり握っていた。
夜着の中からは、ふたたび絶え入るような嗚咽の声がきこえた。
「伯牛、おたがいに世を終わるのも、そう遠くはあるまい。
くれぐれも心を安らかに持ちたいものじゃ」
孔子は、そういって、伯牛の手を放すと、しずかに歩を移して門外に出た。
そして、いくたびか従者をかえりみて嘆息(たんそく)した。
「天命じゃ。天命じゃ。しかし、あれほどの人物が、こんな病気にかかるとは、
なんというむごたらしいことだろう」
伯牛が、雨にぬれた毒茸(どくきのこ)のような顔を、そっと夜着から出したのは、
それから小半時(こはんとき)もたってからのことであった。
彼は、全身ににじんだ汗を、用心深くふきとりながら、臥床の上にすわった。
悔恨の心の底に、なにかしら、すがすがしいものが流れているのを、彼は感じていた。
「(※6)朝に道を聞けば、夕(ゆう)べに死んでも悔いはない」といった、
かつての孔子の意義ふかい言葉が、しみじみと思い出された。
(永遠は現在の一瞬にある。刻下(こっか)に道に生きる心こそ、
生死を乗りこえて永遠に生きる心なのだ」彼はそう思った。
(天命、ー そうだ。いっさいは天命だ。病める者も、健やかなる者も、
おしなべて一つの大いなる天命に抱(いだ)かれて生きている。
天は全一(ぜんいつ)だ。天の心には自他の区別はない。いわんや悪意をやだ。
天はただその歩むべき道をひたすらに歩むのだ。
そして、この天命を深くかみしめる者のみが、刻下に道に生きることができるのだ)
彼は孔子の心を、今こそはっきりと知ることができた。
そして、さっき孔子に握りしめられた自分の手を、いつまでもいつまでも、見つめていた。
彼の心は無限に静かで、明るかった。
彼にはもう、自分の肉体の醜(みにく)さを恥じる気持ちなど、微塵も残っていなかった。
彼は、いつ死んでもいいような気にすらなって、恍惚として褥(しとね)の上にすわっていた。
※1 子いわく、我(われ)に陳蔡(ちんさい)に従いし者は、皆(みな)門に及ばざるなり。
徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語には宰我(さいが)・子貢(しこう)、
政事(せいじ)には冉有(ぜんゆう)・季路(きろ)、
文学には子游(しゆう)・子夏(しか)と。(先進篇)
※2 子いわく、三軍も帥(すい)を奪うべきなり。
匹夫(ひっぷ)も志(こころざし)を奪うべからざるなりと。(子罕編)
※3 子貢問いていわく、一言(いちげん)にして終身これを行うべき者ありやと。
子いわく、それ恕(じょ)か、己の欲せざる所は人に施すことなかれと。(衛霊公篇)
※4 子いわく、歳(とし)寒くしてしかる後(のち)に、
松柏(しょうはく)の後(おく)れて凋(しぼ)むを知るなりと。(子罕編)
※5 子いわく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れずと。(子罕編)
※6 子いわく、朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なりと。(里仁篇)
〖参考〗
"死と向き合う"
(自らの肉体を通して、社会を、自らを知るのであり、
その理解によって自らを生かす道を見出す、人に勝(まさ)って得る能力を求める。
肉体を通して知覚されたもの以外を理解しないなら、肉体が衰える、その機能を失っていく、
(家族も財産も持たぬ故に)得ることなき者を社会(に生きる者としての倫理観)は
顧みようとするだろうか、彼らの心に見出せるものが、得るものが何もないのに。
彼らが死に向き合うことが出来ないのは、死を超えるものが理解し得ないからであり、
彼らは死ぬまで、死に背を向けることが生きるとしか理解し得ないであろう。
天への道とは、死後に現れるものではない。死後に見出されるものでもない。
天の意志に導かれる心、人を生かす思いの現れる道、
心の目覚めた、神の心を養い得た者だけが知る道、
永遠の生命とは、永遠の生命に生きる魂を育てるもの、自らがその魂に生きぬ者が、
肉体の、有限の生命故に執着せざるを得ない、死を超える愛を見出すことなく、
自己(肉体)への執着が、己が魂の目覚めを奪っている。)
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 263頁
「永遠に流るるもの」
子、川の上(ほとり)に在りていわく、逝く者はかくの如きかな。昼夜を舎(お)かずと。
ー 子罕(しかん)篇 ー
偉大な沈黙を守って、夕陽(ゆうひ)はそろそろと草原の果てに沈み始めた。
水の流れはゆるやかに、鈍(に)びた紅(くれない)を底深く溶かしこんで、
刻一刻と遠い砂霧の中に巻き収められていく。
孔子は、今日もただ一人の童子(どうじ)を供につれて、
広々とした河原(かわら)にたたずんでいる夕暮れの天地の中に、
その姿は、寒々(さむざむ)として厳かである。
七十余年の間、勤めに努め、磨きに磨き来(きた)った彼の生涯は、
思えば孤独への一路であった。
長い漂泊の旅にもかかわらず、
彼はついに大道(たいどう)に布(し)くべき一人の名君をも見出さなかった。
五十年の労苦をともにした夫人上官氏(じょうかんし)にも先立たれた。
一人息子の伯魚(はくぎょ)の死をさえ、彼は見送らねばならなかった。
そしてなによりも痛ましいことは、三千の門人中、
わが道を伝うべき唯一の人として、彼が絶大の希望をかけてきた顔回(がんかい)が、
夭(わか)くしてこの世を去ったことである。
夫人の死や息子の死に堪え得た彼も、
顔回の死にあっては、ほとんど絶望に近い衝撃をうけて、
「(※1)わしは天に見放されたのだ、天に見放されたのだ!」
と、我知らず叫んだ。そして柩(ひつぎ)の前に立った時、
彼はついにたまりかねて、声を放って泣きじゃくった。
その平常とあまりにちがった取り乱しように、供をして来た門人も驚いて、
帰りがけにいった。
「(※2)今日は先生も声をあげてお泣きになりましたね」
孔子の心の動揺は、まだ完全に治まっていなかった。彼は答えた。
「そうか、そんなにわしは泣いたのか。
だが、顔回のために泣かないで、だれのために泣けというのじゃ」
日がたっても、彼の悲しみは容易に薄(うす)らがなかった。
声を放ったり、涙を流したりすることは、もう二度となかったが、
その代わりに、「永遠の孤独」が彼の胸の中に冷たく翼を休めた。
「沈黙」が彼のもっともよき伴侶となった。
そして入り日と水の流れとが、日ごとに彼を河原に引きつけた。
彼は今日も河原に立って、考えるのであった。
「自分はもう余命いくばくもない。
自分は自分の一生を顧みて、けっしてなまけたとは思わない。
分秒のたゆみもなく、身を修め、古聖の道にいそしんできた。
自分の体得した道は、努めてこれを諸侯に説き、かつ三千の子弟に伝えた。
また詩、書、春秋を整理し、礼楽を正し、易(えき)を究明して、
それらの文献を万世(ばんせい)に伝える準備もほぼ完成した。
しかし、自分はこれで死んでいいのか。
顔回亡きあとに、真に身をもって道に奉じ、
玲瓏(れいろう)として仁(じん)に生きる者が、今どこにいるのだ。
道は言葉ではない。真理は概念ではない。
自分の後世に求めているのは、言説ではなくて実行なのだ。
もし自分がこのまま死んだら、自分はいったい、一生を通じて何をしてきたというのだ。
自分はまだ死ねない。断じて死ねない。ただ一人の真の後継者を得るまでは」
しかし、彼の目の前には、水が刻々に流れて返らなかった。
遥かの野の果てには、真紅の太陽が秒を刻んで沈んでいった。
彼はひしひしと、自分の生命の終焉が近づいてくるのを、感ぜずにはおれなかった。
(顔回よ、顔回よ)
底知れぬ寂しい声が、石像にも似た彼の体の中に、木枯らしのように噎(むせ)び泣いた。
「永遠の孤独」は、その瞬間、彼を
「無限の虚無」に突き落とそうとするかのようにさえ思われた。
彼の心の脚は、しかし、その瞬間にもけっしてよろめかなかった。
七十年の苦闘によってかち得た彼の魂の自由さは、
湖の底のように、彼の悲痛の感情をそのままに、がっちりと支えていた。
「天行健(てんこうけん)なり」
彼はしずかに易(えき)の一句を口ずさんだ。
水は滾々(こんこん)として流れている。流れの行く末をのみ見つめていた彼は、
今や、目を転じてはるかに流れの源を見やった。そして考えた。
(生命の泉は無尽蔵である。顔回は死んだ。自分もやがて死ぬであろう。
しかし、天の意志はやむ時がない。古聖の道は永遠に亡びないであろう
(注。天の授けられた法は時を超えて不滅である))
太陽はその余光を一ひらの雲に残して、草原に沈んだ。河原は暗くなった。
しかし孔子の胸には、すでにその時、あすの朝日が燦々(さんさん)と輝き出していた。
彼は童子を促して歩を移しながらいった。
「おお水が流れる、流れる。夜となく昼となく水があのように流れていく。
あの水のように、天の意志は息(やす)む時なく、永遠に流れていくであろう」
※1 顔淵(がんえん)死す。子いわく、噫(ああ)、天予(われ)を喪(ほろぼ)せり、
天予(われ)を喪せりと。(先進篇)
※2 顔淵死す。子これを哭(こく)して慟(どう)す。従者いわく、子慟(どう)せりと。
いわく、働することありしか、
かの人のために慟するにあらずして誰(たれ)のためにかせんと。(先進篇)
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様