第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について

七節 ユートピア建設
現象テープ№40 「天上界からの苦言」②より
 83年7月10日 イエス様現象
(「天上界メッセージ集・続(86年1月初版)」96頁掲載)

それ(ユートピア建設)が、私達の喜びであり、
人類がこの地球に誕生して以来、又私達がこの星に来て以来の、

天上界の方達の夢であり、且つ夢で終わらせてはならない、私達の一大事業なのです。

あなた方のこの地上の人々が本当に心から幸せになって頂く為に働き、
その事業 = ユートピア建設、それを成し遂げよう
ー という決意を再確認し、
また己を叱咤激励して努力して頂くことを、ここにお願いするものです。


「JI」81年7月号初出 ガブリエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」138頁

「ユートピア建設について、お話ししましょう。
 ユートピアとはどのような社会をいうのか考えてみましょう。
 犯罪も社会悪もない世界でしょうか。善意のみが支配する世界でしょうか。
 具体的に考えてみたことがありますか。
 天上界の現在の姿がユートピアなのでしょうか。

 あなた方自身の心の内を省みた時、少しの曇りもない状態が続くことがありますか。
 おそらく無いでしょう。浮かんでは消え、消えては浮かぶ偽我に悪戦苦闘している筈です。
 何故悪戦苦闘するのか、出来るのか、それは正しきものを知るからです。
 これを魂の研磨といいます。


 ユートピアもこれと同じです。
 社会の規範、常識が正法となることを言うのです。
 狭い範囲しか見えず、限られたものしか分からない現身
(うつしみ)故に、
判断の誤りもあるでしょう。
 そういった時に、正しい方向に修正出来る健全な状態なのです。
 正に、天上界とは、この意味でユートピアです。


 ユートピア建設は、あなた方が考えている以上に容易くもあり、難しくもあります。
 あなた方次第なのです。
 自己を顧みず他を助けるとはどのようなことをいうのか、
その基となる愛はあるか、規律となる信義を持っているか、を悟ることによるのです。
 もし、あなた方が、天上界が付いておられるのだから、と安心して生半可な認識によるのなら、
ユートピア建設など何百年掛かっても無理でしょう。
 あなた方自身が悟り、始めねばならないのです。
 天の為、人の為に働く、というのは地味で辛く、報酬少ない、
地上の価値観を以てすれば無に等しいでしょう。
 慈善活動でさえ即ち天に繋がるとも限らないのです。

 天意を伝えるというのはそれだけで、皆の持っている陰の醜い部分を陽に晒すことであり、
敵視され易いのは御存知でしょう。
 ユートピア建設とは、その積重ねなのです。

 辛く、厳しい道のりですが、本人に愛と正義と信義の灯がともっておれば、容易いことです。
 その道のりは長くとも足取りはしっかりと、険しくとも身は軽いのです。
 あなたには、その覚悟がありますか。」

現象テープ№38 「ユートピアについて」より
 82年1月17日 ウリエル様
現象
「ユートピアとは、何であったでしょう。
 一人一人の心によって、成り立っている筈です。
 ならば、ユートピアとは、強盗も殺人も起こらない、そのような世界を言うのではありません。」

「殺人や争いが起こらない世界(であるだけのもの)ならば、天上界が神の権威を以てして、
あなた方の頭を押さえ付ければ、それで良いのです。
 それでも良いのですか。あなた方は、それで幸せになれますか。
 沸き起こって来る、人を羨む気持ち、妬む気持ち、嫌う気持ち、
その様なものを頭から押さえ付けられて、それであなた方は進歩しますか。
 そういった気持ちが無くなりますか。
 消しても消しても拭い去ることの出来ない汚点として、何時までも心に残り続けるでしょう。
 (押さえ付けるだけの)共産主義と一緒ではありませんか。

 これで私達が何故あなた方に、一人一人の活動を要求するのか、
して下さいとお願いするのか(※1)、お解りになったと思います。
 一人一人の心が、そういった状態にならなければ、ユートピアは出来ないのです。
 言葉だけの問題、概念だけの問題ではありません。現実問題がこれなのです。
 どういったものが、本当に救いなのか、情に訴えるだけが救いですか※2)。
 違うと思います。それでは人は救われません。甘やかされるだけでしょう。
 そういった人々が集まって、正しいことが出来ますか。
 今の社会で、何故正しいことが通らないのか。
 情に訴えるという救いだけが、手段となっている為に、そうなっているのです。
 その先は一人一人で考えていって下さい。

 ユートピア、私達が求めるユートピア、
そしてあなた方が念願しているユートピアというものは、こういう世界なのです。
 そしてこういう世界のあり方が、一番正しいのです。そうではありませんか。
 あなた方の湧き起ってくる心を、それを天上界は、常に権威で押さえ付けて、
幸せは何処にもありません。
 何ものにも縛られず、押さえられず、自由に出てくるもの、それを重んじるのです。
 たとえそれが悪い気持であったとしても、

それは自分で変えて行かなければならないのです。
 最後迄、自分でやって行かなければなりません。
 私達がそうであるように、あなた方も又、そうなのです。
 ユートピア作りも、あなた方の力でやって行かなければなりません。

 それでは、これで私の話を終ります。
 どうも有難うございました。

※1注。
 真の意味で自らを救い得るのは己自身でしかないのだから、
彼等が真の神であることを、真に高貴な魂であることを理解出来ないでいる
盲いた人類に頼まれているのです。
 それを何とも感じることのない人というのは、
本当に人間としてどうかしているのではないでしょうか。)

※2注。
 「現代訳 論語(雍也第六の二四)」下村湖人訳
『(弟子の)宰我が孔子に尋ねた。
 「仁者は、もしも井戸の中に人が落ち込んだと言って、騙されたら、
直ぐ行って飛び込むものでしょうか」
 孔子が答えられた。
 「どうしてそんなことをしよう。ー 君子は騙して井戸まで行かせることは出来る。
 しかし、陥れることは出来ない。
 人情に訴えて欺くことは出来ても、正しい判断力を失わせることは出来ないのだ」』

 理性を忘れて感情で判断してはならない。
 感情に動かされぬ、理性に立脚する者(曾て君子と呼ばれた真の正法者)でなければ、
真理に適った正しい判断は出来ないことを伝えております。)

"天への道に、ユートピア建設に生きる心とは"
「希望と愛と光」81年9月号 ガブリエル様メッセージより
「奪うのみの愛は、自己に対する不安から来ます。
 自己に安定した支柱なき故に、他に対して安心出来るものを求める結果なのです。
 アガペーの愛は与える者にも、受ける者にも何らかの支柱があった場合に、
調和と均衡を齎します。

 その支柱とはなんでしょうか。
 神
 すべての執着や欺瞞を捨て去った形の真理 ー を求め信じる心、
少なくとも、
醜さのない美しい交流や行為を信じることが出来る心です。
 そして行おうとする意志があることです。

 安定した支柱なき者は、ザルに水を注ぐが如きです。」

備考
"信義揺ぎなき信頼 なき愛はない、
人を神の愛で繋ぐは、信義を通す心以外にない"

「慈悲と愛」80年9月号 ラファエル様メッセージより
人は神と繋がる(善我に立つ)時、
人と神の愛を以て繋がり
(神と同じ波動を持つ心が通じ合う)
人に神
(聖霊の御働き)を見出す時、
(聖霊達の御心を一つにする愛と信義)と繋がる。

現象テープ№27 「正法流布について」
 80年8月11日 ガブリエル様現象

「流布の活動は地味ですが、それだけに私達の見る目も大きいのです。
 派手な仕事よりも、地味な仕事をするものの方を私達は重く見ます。
 派手な仕事ならば誰にでも出来るのです。
 ですが正法の流布活動、ビラ撒きや書店開拓ということは、
誰にでも出来ることではありません。
 それは、天上界と正法に対する信頼が絶対な者のみが出来るのです。
 一件や二件、失敗したからといって何のことがありましょうか。

 心が挫けそうになった時は、イエス様のことを思いなさい、ブッタ様のことを思いなさい。
 あなた達の偉大な先輩なのです。あの方達を、メシヤとして崇める必要はないのです。
 正法者とはそのようなものです。
 あなた方の先輩だと思えばいいのです。先人達は、偉大な足跡を残してゆきました。
 そしてあなた方も今、その足跡を記そうとしているのです。
 今はまだ、それが解らないかも知れませんが、時が経てば必ず解るでしょう。

"醜さのない美しい交流や行為を信じることが出来る心"
〖参考〗
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 220頁
「陳蔡(ちんさい)の野」

 衛(えい)の霊公(れいこう)陳(ちん)を孔子に問う。
 孔子対(こた)えていわく、爼豆(そとう)の事はすなわちかつてこれを聞けり。
 軍旅(ぐんりょ)の事は未(いま)だこれを学ばざるなりと。
 明日(めいじつ)ついに行(さ)る。
 陳に在りて糧(りょう)を絶つ。従者病(や)みて能(よ)く興(た)つなし。
 子路慍(いか)り、見(まみ)えていわく、君子もまた窮(きゅう)するあるかと。
 子いわく、君子固(もと)より窮す。小人窮すればここに濫(らん)すと。 ー 衛霊公篇 ー

 子いわく、賜(し)や、
女(なんじ)予(われ)を以て多く学びてこれを識(し)る者と為(な)すかと。
 対(こた)えていわく、しかり、非なるかと。
 いわく、非なり。予(われ)一以てこれを貫くと。 ー 衛霊公篇 ー

 孔子は、さすらいの旅から、一度魯(ろ)に帰って、約二年の間、
詩書礼楽の研鑚と、門人の教化とに専念していたが、
まだ、実際政治にまったく望みを絶っているわけでは、けっしてなかった。
 で、哀公(あいこう)即位の年、
彼は六十歳の老軀(ろうく)を提(ひっさ)げて、三たび衛(えい)をたずねた。
 それはちょうど彼の孫の汲(きゅう) ー
子思(しし)が生まれてまもないころのことであった。

 しかし、衛の国は、彼が大道(たいどう)を行うには、あまりに乱れ過ぎていた。
 霊公は、もう晩年に近かったが、自分の子の蒯聵(かいがい)のために、
寵愛の夫人南子(なんし)を殺されて、気を取り乱していた。
 しかも、蒯聵(かいがい)は晉(しん)に逃れ、その援(たす)けを得て、
霊公の位をねらっているというあわさもあったので、
父子の間に、いつ醜い戦争が始まるかわからない不安な空気が、国内に漂っていた。
 霊公は、孔子が自分の国に来たのを知ると、
これまで彼をまじめに相手にしなかったことなどまったく忘れて、
すぐ彼を引見(いんけん)した。

 そして、まず第一に彼にたずねたのは、戦略に関することであった。しかし孔子は答えた。
「不肖ながら、礼については、これまでいくらか聞いたこともございます。
 しかし、軍事に関しては、まだいっこうに学んだことがありませぬ」
 孔子は軍事上の知識が全然なかったわけではなかった。
 しかし彼は、父子相(あい)争うあさましい戦いに、
少しでも自分の力を貸すことを欲しなかったのである。
 翌日、彼は急いで衛を去った。
 それから宋(そう)に行き、陳(ちん)に行き、蔡(さい)に行き、葉(しょう)に行き、
また蔡に引き返した。
 そして彼の期待はすべて裏切られた。彼は道を行う代わりに、
いたるところで迫害と嘲笑とをもって迎えられねばならなかったのである。
 ことに陳と蔡との国境で、彼の一行がなめた苦難は、
彼の一生を通じてのもっとも大きな苦難の一つであった。

 そのころ、陳は呉(ご)の侵掠(しんりゃく)をうけて、援けを楚(そ)に求めていた。
 楚の昭王(しょうおう)は、陳を援けるために兵を城父(じょうほ)に進めていたが、
その時、孔子の一行が、陳・蔡の国境にいることを知った。で、
すぐ使いをやって彼を楚に聘(かか)えようとした。
 孔子は、楚にはまだ一度も行ったことがなかったし、
それに昭王は相当の人物らしいという評判もあったので、
すぐそれに応じて出発することにした。

 これを聞いて驚いたのは、陳と蔡との大夫(たいふ)たちであった。
 彼らは自分たちの国で孔子を重用しなかったが、
それは彼の偉大さを知らないからではなかった。かえってそれを知っていたればこそ、
けむたくて用いることができなかったのである。彼らは考えた。
(孔子はなんといっても賢者だ。
 彼のいうことは、いつもみごとに諸侯(しょこう)の政治の弱点をついている。
 ことに、彼が陳・蔡の間にうろつき出してから、もうずいぶんになるし
われわれのやり口は、なにもかも彼に見すかされているに相違ない。
 もし、楚のような大国が、彼をむかえてまじめに政治をやり出す段になると、
陳・蔡にとっては将来大きな脅威だ。
 我々の地位だって、結局どうなるか知れたものではない)
 そこで両国の大夫たちは、密(ひそ)かに諜(しめ)し合わせ、
双方から一隊ずつの便衣隊(べんいたい)を出して、孔子の一行を包囲さした。

 孔子の一行に、むろんそれを打ち破るだけの武力があろうはずはなかった。
 門人たちの中には、いきり立つ者も二、三あったが、
孔子はその無謀を戒めて、静かに囲みの解けるのを待つことにした。
 囲みは、しかし、容易に解けなかった。
 幸いにして、一行に危害を加えるようなふうは少しもなかったが、
ただ困ったのは、食糧の欠乏であった。一日二日はどうなり事足りた。
 三日四日も粥(かゆ)ぐらいはすすれた。しかし五日目になって、
粟(あわ)一粒も残らないようになると、さすがに門人たちの多くは、
飢えと疲れとでへとへとになって、ぐったりと草っ原に寝そべってしまった。
 孔子自身も、むろん辛かった。しかし、彼は、顔にいくらかの衰えを見せながらも、
自若として道を説くことを忘れなかった。
 たまには、琴を弾(だん)じ、歌をうたうことさえあった。

 元気者の子路は、さすがに孔子の身近くにいて、
孔子がまったく無策でいるのが腹立たしかった。
(死に瀕している人間を前にして道が何だ。音楽が何だ。
 そんなものは、行き詰まったあげくの自己欺瞞でしかないではないか)
 彼はそんなことを考えて、うらめしそうに孔子の顔をじろじろ見るのであった。
 五日目の夜がしだいに更けて、そろそろ夜明けも近くなって来た。
 初秋の空に、星は美しく輝いていたが、
地上の草むらには、生死の間を縫って、わずかに息づいている人間の黒いからだが、
いくつとなく不体裁(ふていさい)にころがっていた。
 そして、その間から、うなされるような声さえおりおり聞こえて来た。

「先生!」と、だしぬけに子路のかすれた声が闇に響いた。
 孔子は、長いことなにか黙想にふけっていたが、さすがに疲れたらしく、
ちょうど横になろうとするところであった。
 彼は子路の声を聞くと、横になるのをやめて、しじかにその方をふり向いた。
 すると、子路がいった。
「君子にも行き詰まるということがありましょうか」
「行き詰まる?」孔子はちょっと考えた。しかしおだやかに答えた。
「それはむろん君子にだってある。しかし君子は濫(みだ)れることがない。
 濫れないところに、おのずからまた道があるのじゃ。
 これに反して、小人が行き詰まると必ず濫れる。
 濫れればもう道は絶対にない。
それがほんとうの行き詰まりじゃ」

 その言葉が終わるか終わらないかに、二、三間(げん)(一間:約1.8メートル)
離れたところにうずくまっていた黒い影が、むっくり起き上がって、
少しよろめきながら、孔子のすぐ前までやって来た。子貢(しこう)である。
 彼は腰をおろすと、疲れた息をはずませながら、闇をすかして孔子の顔を見つめた。

「おお、子貢か」孔子はいかにも情(なさけ)ぶかく声をかけた。
 しかし子貢は何ともいわなかった。彼は、無作法な口をきかないだけに、
心の底ではかえって、子路以上の不平に燃えていた。
 彼の顔には、皮肉なうす笑いさえ浮かんでいた。
 孔子は闇をとおして、はっきりそれを感ずることができた。
「子貢、わしはお前の期待にそむいたらしいね」
 子貢はやはり黙っていた。ただ彼の息だけがますますはずむばかりであった。
「お前は、わしがいろいろの学問をして、
あらゆる場合に処する手段を知っていると思っているのだね」
「むろんです。そ …… そうではありませんか」子貢の声はふるえていた。
 孔子は星空を仰いで、かすかにため息をもらしたが、
すぐまた子貢を見て、ゆっくりと、しかし、どこかにきびしい調子をこめていった。
「そうではない。わしを貫くものはただ一つじゃ。
 その一つにわしの全生命かかっているのじゃ」

 孔子は、しかし、そういい終わって非常に寂しかった。
 門人たちにすら理解されない道を抱いて、野に飢えている自分を、
しみじみといとおしむ気にさえなった。
 同時に、理解しないままに、自分といっしょにこうして難儀をしている門人たちが
非常に哀れ
に思われて、なんとかやさしい言葉の一つもかけてやりたくなった。
(しかし ー )
 と彼は考えた。
((※1自分は倦(う)んではならない。
 一時の感傷にひたって、門人たちを甘やかしてはならない。
 彼らの中には苗のままで花をつけないものもあろう。
 また、花をつけても実を結ばない者もあろう。だが自分は退いてはならない。
※2)なぜなら、自分は彼らを愛しているからだ。彼らの忠実な友でありたいからだ。
 愛する以上は彼らに苦労をさせなくてはならない。
 忠実な友であるためいは、倦まずたゆまず彼らに教えてやらなければならない。
 それが天の道を地に誠にするゆえんだ。
 自分がここで一歩退いたら、天の道が一歩退いたことになる。

※3)道の実現は、たとえば山を築くようなもので、
あと一簣(ひともっこ)というところで挫折しても、それは全部の挫折だ。
 また、でこぼこの道をならすようなもので、たとえ一簣の土でもそこにあけたら、
それだけ仕事がはかどったことになる。
 道は永遠だ。一歩でも進むにこしたことはない、
そして進も退くもすべては苦難と妥協しないこの心一つだ)
 彼はもうなんの疲労も感じない人のようであった。

 彼は威儀を正して子路を顧みながら、低い、しかし、はっきりした声でいった。
「詩に、兕(じ)に匪(あら)ず虎に匪ず、彼の曠野(こうや)に率(したが)う、
という句があるが覚えているかの」
「覚えています」
「その意味は?」
「人間は犀(さい)や虎のような野獣ではありません。
 しかし人間の道を踏みはずしたら、荒野にさまよう野獣と同じだ、
という意味だと思います」
「うむ、ところでわしの道をどう思う? 誤っていはしまいかの。
 わしは、現にこうして、野獣のように荒野にさまよっているのじゃが」
「先生の道が誤っているかどうかは存じません。
 しかし、人が自分の言(げん)を信じてくれなければ、自分の仁がまだ完全でない、
と思わなければなりますまい。
 また、人が自分の説く道を行ってくれなければ、自分の知が不十分だ、
と思わなければなりますまい」
 子路の答えはきわめて無遠慮で、その声の調子にも、不平満々というところがあった。
 孔子は、しかし、静かにいった。
「それはお前の思いちがいじゃ。もし仁者の言が必ず信ぜられるものなら、
※4)伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)が餓死することもなかったろうし、
また、智者の説くところが必ず行われるものなら、
※5)王子比干(おうじひかん)が虐殺されるおともなかったろう」
 子路は、この三人の話が出ると、さすがに首をたれて黙りこんでしまった。

 すると孔子は今度は子貢に向かっていった。
「詩に、『兕(じ)に匪(あら)ず虎に匪ず、彼の曠野(こうや)に率(したが)う』
とあるが、わしの道がいけないのかの。
 わしはまるで野獣のように、こうして荒野をうろついているのじゃが」
 子貢はしばらく考えてから答えた。
「先生の道は大きすぎます。大きすぎるから天下に容(い)れられないのです。
 もう少し程度をお下げになって、世間に受け入れられるようにされてはいかがでしょう」
「世間に受けいれられるように?」と、孔子はちょっと眉をひそめたが、すぐにもとに返って、
「子貢、それはなるほど利口な考えじゃ。
 しかし、すぐれた百姓は物を育てることはじょうずでも、
儲(もう)けることはへたなものじゃ。
 また名人といわれるほどの大工は、魂をうちこんで仕事をやるが、
それが他人の好みに合うかどうかは、請け合えないそうじゃ。
 君子もそれと同じで、目前の利害のために、世間に迎合してはなるまい。
 修(おさ)めなければならないのは道じゃ。
 道の本則(ほんそく)にもとらないように、いっさいの言動をしめくくることじゃ。
 お前お願いは、道を修めることではなくて、世に容れられることにあるようじゃが、
それでは、あまりに利口過ぎる。
 もっと志(こころざし)を遠大に持つがいい」子貢も黙りこんでしまった。

 孔子は子貢から目を放して、あたりを探すように見回していたが、
「顔回(がんかい)、ー 顔回はいないかの」
 顔回はすぐ孔子の後ろにいた。
 ふだん丈夫でない彼は、五日間の野宿で、だれよりも弱っているはずであったが、
態度はいつものとおりきちんとしていた。
 そろそろと白みかけた空の光をうけて、彼の顔は、ほとんど死人のように青ざめて見えた。
 しかしその両眼には、涼しげな光が漂(ただよ)うていた。
 彼は孔子の声に応じて立ち上がると、子貢のすぐそばまで歩いて来て、
孔子に一揖(いちゆう)した。
 その姿は青蘆(せいろ)が風にそよいでいるように思われた。
 孔子は彼にじっと視線を注ぎながらいった。

「詩に、『兕(じ)に匪(あら)ず虎に匪ず、彼の曠野(こうや)に率(したが)う』
とあるが、今のわしは野獣と少しも択(えら)ぶところがない。
どうじゃ、わしの道が誤っていると思わないかの」
「私の考えでは ー 」と、顔回は立ったままで答えはじめた。
 孔子は手を振って、「立ったままでは疲れる、ゆっくりすわって答えるがいい」
 顔回は腰を下ろした。しかもその姿勢はあくまでも端然(たんぜん)としていた。
 彼は孔子の膝(ひざ)のあたりに視線をおとしながら、言葉をつづけた。

先生の道は至大(しだい)であります。ですから天下の容れるところとなりません。
 しかし、私は先生が推
(お)してこれを行ってくださることを
心からお祈りいたしております。
 たとい天下に容れられなくとも、毫
(ごう)も憂うるところはありません。
 むしろ容れられないからこそ、先生の君子であられることが、はっきりするのです。
 元来、私どもは、ただただ道の修まらないのを恥じてさえおればいいのです。
 道のおおいに修まった人があるのに、それが用いられないとすると、
それは国を治むる者の恥でなければなりません。

(注。この世にユートピアを建設するのが、天上界の、彼らが地球を訪れて以来の、
意志であり、人類の真の救いであり、神の心、愛の表れでありました。
 彼らの意志を悟れない、
それどころかその意志に背くが如き政治を許すのは国民の無責任であり堕落なのです。)


 重ねて申します。容れられないのを憂うる必要は断じてありません。
 かえって容れられないところに、君子の君子たる価値が発揮されていくのです」
 顔回の頬は、ほのかに紅潮していた。
 彼は、いい終わると、ふたたび立ち上がって孔子に一揖(いちゆう)した。
 孔子は心からよろこばしそうに、満面に微笑をたたえて、いった。
「さすがは顔氏(がんし)の血を受けた子じゃ。
 お前に財産があったら、わしはお前の執事にでもしてもらうのじゃがな。はっ、はっ、はっ」

 夜は明け離れた。孔子は子貢を手招きしていった。
「子貢、お前はすぐこれから城父(じょうほ)に行って、楚軍に救いを求めておいで」
 子貢はおどろいて四方を見渡した。
 包囲を脱するには、もうあまりにも明るすぎると彼には思えたのである。
 孔子は、しかし、笑いながらいった。
「もうきょうで六日目じゃ、包囲の人たちも、疲れたにちがいない。
 それに幸い夜も明けたし、今ごろは、安心して、
ちょっと一眠(ひとねむ)りというところじゃと思うが」
 孔子の言葉どおり、包囲は隙(すき)だらけになっていた。
 で、子貢はなんの苦もなく包囲を脱して、楚軍と連絡をとることができたのである。
 翌日、陳・蔡の包囲は解けた。
 そして孔子の一行は、手あつく楚軍にもてなされて、
まもなく昭王に見(まみ)えることになった。

※1 子いわく、苗(なえ)にして秀(ひい)でざる者あるかな。
   秀でて実らざる者あるかなと。(子罕編)
※2 子いわく、これを愛して能く労(ろう)することなからんや。
   これに忠(ちゅう)にして能く晦(おし)うることなからんやと。(憲問篇)
※3 子いわく、たとえば山を為(つく)るが如し、
  未だ一簣(いっき)を成さずして止むは吾(わ)が止むなり。
   たとえば地を平(たい)らかにするが如し、
  一簣を覆(くつがえ)すといえども、進むは吾が往くなりと。(子罕編)
※4 伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)孤竹国君(こちくこっくん)の二子で、
  周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を
  伐(う)とうとした時に、これを諫(いさ)めて用いられず、
  周の粟(ぞく)を食(は)むのを潔(いさぎよ)しとせずして
  首陽山(しゅようざん)にかくれ、蕨(わらび)を採って食っていたが、
  ついに餓死したと伝えられる仁者である。
※5 王子比干(ひかん)は、殷の紂王の叔父で、
  紂の暴虐を諫めて三日も動かなかったために、
  ついに紂王のために虐殺されたと伝えられる知者である。

 この物語の大体の筋は孔子の伝記のなかでももっとも古いといわれている
司馬遷(しばせん)の『孔子世家(せいか)』に依った。
『論語』のなかには「兕(じ)に匪(あら)ず虎に匪ず」以下の問答はまったく見いだせない。
 備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法