第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について

五節 信じること(信義)
「JI」81年9月号初出 ラグエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」141頁

「己を知るというのは自分自身のありのままの姿を認識することと、
外のものに対し信義を持つことの二つを意味します。
 信義は揺らぐことのない信頼です。
 
何に対する信頼か。
 それは自他の愛に対する温かい思いです。
 あらゆるものの表面的な価値と私的感情を超えて、
純粋に理性の指すところの行動と考えを優先させることです。
 それが万物の中の良きもの、大切なものを守り育み、強くする、終わりなき法則なのです。

 初めは、他人の中に見ていたそれらの長所を、やがて自分の中に打ち立て、
そこからお互いに独立して正しく見ることの出来る信頼関係が生まれます。
 信じ合うというのはお互いの心にある信義を尊重するということです。
 ここが民主主義の原点であり、"正法者"と名乗る資格は、己を知った時に始まります。」

「JI」83年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」167頁

人を信じることとは、優しい心と同じ、寛容な態度でその全人格、言葉や行いを受け入れ
又、正しい方向に向くまで待つことです。
 勿論、忠告をして後待つので、
その人の反省すべき点を指摘せずに待つことは無意味です※1)。」

「又、人を信じることは、疑いながらその言葉を聞くのではなく、
真直ぐな心で受け入れることなのです。
 これは正法を知り、学ぶ者として心しておかねばならぬことです。
 人が偽りを言い、欺こうとする時、それに気付くのは遅くても構いません。
 他の証言を得、あらゆる点から見て、あなたに真実を語らぬと分析的に証明し得た時、
初めてあなたはその者を悪と断じ拒否すればよいのです。
 その場合は毅然として譲らずに。
 関係を断つことに未練を残さずに。

 それまではお互いの善我を信じ、許し合いましょう。それがアガペーの愛です。

 但しこの助言は、正法や私達天の者に何かの御利益を求める人、
或いは天を無視するイデオロジスト、頑なに天を見ぬ故に、
あらゆる人間の悪を容認して彼等の目的を果たさんとする
悪魔の思想家には当てはまらないものです。
 神を利用して益を得ようとする者、神を恐れぬ人格は
サタンと等しくなれる心を持ち、サタンの業を行える者であり、
又サタンの誘惑に直ぐ陥(おとしい)れられる未熟な者です。
 
あなたと接して変わらぬ人であれば、無縁となるのが天の望む所です。
 天に於ては消滅される者達です。


「JI」81年6月号初出 ラファエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」136頁

「信じるということについてお話ししましょう。
 愛するということと信じるということは同じ一つのもの(心)から出ています。
 愛は感情ではなく最上の理性の顕れであるように、
信じるということは無条件の服従を意味せず、心の内に立てられた確信※1を言うのです。

※1注。
 疑わなければ、信じることを証(あかし)出来る訳ではありません。
 信じるとは、信じる心に相応しい生き方が為されているということです。
 神を信じるとは神を見出しているということです。
 目の前に神がいたら決して出来ない悪(偽善、欺瞞。
 人が見てさえいなければ罪と意識されず悪を為す、善我を捨て偽我に生きる)
を行わないのが、心の内に神を見出した、神の心に生きると言うのです。※2注終)
 
 神を見ずに信じるのが神への愛である、とイエス様は仰しゃいました。
 雰囲気のみでこのメッセージを受け取ってはいけません。
 神を見ずに信じるというのは、あなた方の人生と生活の中で、
自分の心の内に、他人の性格の内に、"神"を感じ悟り、識るということなのです。
 
 神は如何なるものか、天上界とは如何なるものか。
 霊能者のみではなく、すべての人が知り得るものなのです。
 宇宙の法則は愛であり、神である。
 己を犠牲にして他に尽くすのは愛の一つの姿です。
 何かを守ろうとする為に行動するのが愛の顕れの本質なのです。
 その為には勿論、深慮が必要です。正見正思、中道も必要です。
 そして愛とそれ等悟りの手段が一体となって人に備わった時、
パニャパラミタが開いたと言います。
 義はここに正しい方向付けをなされ、神がその人に宿ると言われるのです。
 
 信じることにより人は苦悩や懊悩から逃れることが出来、
又信義により互いを守り、保護することも出来ます。
 信義は苦悩や懊悩を超え、害や悪を打ち負かす為の防壁でもあり、
建設的な考えを持つ者の精神なのです。

 信じるというのは、内に籠るものではなく、それだけで外に向かって出ざるを得ないものです。
 愛がその人を善へと駆り立てるように、信も又、人を義へと走らせるのです。


「JI」88年9月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」111頁

「日本の人達の本質は、国境のみで他国と接し、生活を文字通り闘い取ってきた国々とは異なり、
鎖国の長さと、天皇制に統一された国として、まだまだ他人への信頼も大きく、
"まず人を見れば泥棒か強盗と思う国柄"ではなく、純粋な人が多いのです。
 それが故に私達はここに居り、天の新しきメンバーを養成して居る積りなのです。」

現象テープ№27 「正法流布について」より
 80年8月11日 ガブリエル様現象
&「天上界メッセージ集・続」94頁

「正法流布の為に、自分に自信がない人は、自己確立が進んでいないのです。
 何故、自己確立が進んでいないのかお分かりでしょうか。
 それは正法に対する確信がないからです。
 霊のことを言うと人に笑われはしないだろうか、そういう心が必ずあります。
 そのようなものであって良い筈がありません。
 私達はこうして現に存在しているのであり、あなた方も又、こうして存在している、
これは同じ事実なのです。」

 あなたのことを本当に思っている人とは、
あなたの魂(神の心)を守らねばならないと心に掛けている人達とは、
霊のことを言ったら嗤われるのではないかと、
あなたが信用されたいと思っている人達ではありません。
 どうしてあなたの言うことを嗤う人達を気に掛け、
天上界の思いは顧みないでいられるのでしょう。
 目に見えない霊を信じない人から、のけ者にされることを恐れるのでしょうか。
 天上界は、あなたの天を信じる思いが人々の心に伝わっていくことを望まれるのであり、
その心を持たぬ者が、天の思いを知りようのない者が、
人々の心を目覚めさせることなど出来ないことを理解されていないのでしょうか。
 天上界の存在を、あなたへの思いを感じ取っていないのは
(信じる心に生きていないのは)あなた自身なのではありませんか。

〖備考1
 オフレコの約束の下に、本心を吐露した政治家の発言を、
毎日新聞は暴露し世間のさらし者にしました。
 彼等に取ってそれが正義であったのです。
 共産主義の総括(吊るし上げ)を良しと考えるのと同じです。
 約束を破る、信義を踏み躙る以上の卑劣な悪があるでしょうか。
 この政治家の真に愚かなのことは、
左翼の偽善の怖ろしさを理解していなかったことでしょう。
 ご存知の方も多いと思いますが、この政治家の吐露した本心は、
同性愛が大嫌いなことであったのですが、同性愛を認めない者をあぶりだし、
政治生命を失わしめるという(如何なる手段も目的が正しいなら許されると考える
共産主義者の)独善に生きるナルシストに、信義の大切さを理解出来ぬ人間に、
良識があると思うようでは善我を、正法を理解することは困難なことでしょう。

 もう一つ毎日新聞から齎された偽善の例です。
 毎日新聞はオウム真理教の麻原彰晃の娘さんにインタビューして差別問題を取り上げていましたが、
たとえ彼女も麻原の犠牲者であり、差別をなくさねばならないと述べる彼女の心がけを世間が高く評価
(某インターネットには賞賛するコメントが多数寄せられていました)しようと、
公の場に現れて差別された苦しみを伝える彼女を知った時、
オウム真理教によって家族を奪われた人達は何と思うでしょう。
 同じオウムの犠牲者だと、彼女に何ら反撥を覚えないでしょうか。
 彼女に憎しみを覚えるならオウムの被害者の方々も差別に生きている差別主義者だと
毎日新聞は考えるのでしょうか。

 多くの彼女の支持者が言うような立派な方なら、
公の場に出れば被害者の方々の中には、苦痛に思うかも知れない、
それが彼女への誤解であっても、彼等が受けた悲しみを彼女が感じることが出来るなら、
差別された己が苦しみを訴えたい思い以上に、
父親の犠牲者にその娘が苦痛を与えることを耐えがたく思うようでなければ、
自分の心の痛み以上に人の心の痛みを感じないようでは、
しかもその原因が自分にあるならば尚更自分(の主張、エゴ)を出すことを控えるようでなければ、
真に優しい心根の持ち主であるとは言えないと思います。

 勿論、彼女への批判が目的ではありません。
 差別批判の裏に隠された偽善によって、
神の真の善を貶めてきた左傾メディアの邪心を見抜けずに彼等の巧妙な手口に騙され、
また利用されている(麻原の娘さんもそうでしょう)人々が如何に多いか知って頂きたく思います。
 このような左傾メディアが日本における正法流布を妨げてきたことを深く心に留めて、
偽善者に騙されぬ真の知恵に目覚められますことを、
天の指針に、魂の研磨に励まれますことを願って書きました。備考1終〗

"信仰心"
「天の奇蹟 上巻(80年10月初版)」102頁
 著者(岩間先生)の質問へのラファエル様による解答より

「聖書は一般に三次元で知られているように、一民族の歴史でもあり宗教書でもあります。
 又、神と人との契約の履行が如何に正確に為されたかを述べ、
それを神と人との大いなる絆と互いへの信仰即ち信義の証として、
神を信ずる者同士の心の支えともし慰めともしてきた書です。
 旧約新約を通じて貫かれた神の愛と、人の神への絶対的信仰が
読む者、信ずる者の力となり、励ましともなってきた証言の記録でもあるのです。

 神という超人的力を備えた人格神に、如何なる時も救われるという希望を持ち事を為す時、
人は父親に守られた子供のように日頃出来ぬこともやる勇気が出ます。
 聖書は正にその勇気を得た子供の日記でもあるでしょう。」

 幼児に注がれる愛は親から与えるだけの一方的な愛情です。
 幼児にとって、その愛情を受け止めることが出来るか否かに生存がかかっているからです。
 ラファエル様の語られた聖書に伝えられるのは、父親に守られた子供の記録とは、
神と人類の心の交流に他ありません。
 子供であろうと、他である父親の思いを信じる心を自らに見出している、
父親の心に応えようとする愛に、自らの意志に生きている、
愛すべき他に生きんとする善我を自ら養っているのです。

 人間の父親とはその子供にとってであるに過ぎませんが、
神は全人類の父親であり、自ら神の子であろうとしない者は、
真に神の子ように神との心の交流が出来ません。
 一方的な愛を受けるに留まる幼児の精神では、心の交流を大切に生きようとする
(父と子の)信頼の絆(信義)を互いに心に打ち立てることは出来ません。
 聖書の伝える父と子の交流とは、神と神の子として生きる人類の交流です。
 神の子としての自覚こそ真の信仰心であるのだと思います。

〖備考2
 相手の心根の伝わってこないような人からの評価や賞賛より、
何よりも大切なものと心に掛けていることを、
同じように大切にする心が人に見出されることの方が、
遥かにあなたの心が正しいと認められたように思われるのではないでしょうか?
 備考2終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法