第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛
(一) 自然への、生き物への愛

 ① 三位一体(自然、生き物、愛
 動物を下等と蔑む汚れた心から救われている生き物は、
人間よりも神の心に近く幸福な心に生きています。
「天国の扉(77年12月初版)」199頁 モーセ様メッセージより
「ここ(天上界の階層で菩薩界)は動物(犬、猫、小鳥、リス、鹿など、人に愛される動物達)
の楽園で、 地上で哀れであったものも、皆、ここに上げられ、動物の守護天使に管理され、
世話されています。
 猛獣や古代の大形の爬虫類などは幽界でも人々とは隔たった所に集められ、管理されています。」

「慈悲と愛」79年4月号13頁初出 「質疑応答(千乃先生解答)」
「〈質問〉(人間に転生輪廻は無く、一期一生ということですが)動物はどうなのですか」

「〈解答〉動物は哀れなことに一回のみの輪廻で、
死ぬと間もなくその霊体は同種の動物に合体し同化します
が、
意志を持つ場合と持たない場合とがあります。
 特別のもののみ天上界に上げて置かれます。
 彼等は"死"というショックを乗り越えられず鳴き方を忘れてしまい永遠に無言のままです。
 人間の一期一生より、もっと厳粛なのです。彼等の死は。

 これを知ることにより、もっと動物愛護の精神が皆様の心に育まれることを望みます。
 植物とて同じです。一生限りの生命を懸命に生きているのです。
 そのような自然に対して人間が冷酷であることは許されないでしょう。」

「慈悲と愛」79年8月号初出 パヌエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」62頁

「動物は確かに高等な思考を持ちませんし、人間から見れば原始的な生活史であるでしょう。
 しかし比較的精神の束縛から自由でいられます。
 自由であるというのは幸せであるということです。
 短命ではあるが、自然界の中で幸せである動物に比べて、
束縛から逃れられない人間の一生はそんなに価値あるものでしょうか。


人間が私達天上界の者に取って忌むべき存在となるのは、
動植物と同じく強者が弱者の上に立つのは未だしも、
他を滅ぼすに必然的な理由と目的が無くともそれに徹する時です。

 滅ぼす相手が人間であれ、動物であれ、只殺すことに喜びを覚えるのです。
 誰がそのような権利を与えたのでしょう。少なくとも私達天上の者ではありません。
 殺すこと、虐待することに喜びを覚えるのは、サタンの業以外の何ものでもないでしょう。」

「刺激しなければ動物たちの大半は平和で友好的であるのに、
銃や罠を用いてその上にも屈従を強い、或いは殺害する人間の野蛮な習性は、
弱者へのいたわりや思い遣りの延長である、国内に於ては社会福祉問題の解決を遅滞させ、
対国間に於ては強大国による弱小国への侵略・侵害といった形で現われるのです。
 不平を言えないもの、言えても報復出来ないものに対して
強者の権利を行使するほど卑怯な心はありません。

 神の目から見れば、人間よりも動植物の方がずっと生き残る価値があります。
 宇宙の法則を"生きる"ことに於て実践しているからです。

(注。自然の法に生きる種(動物)を自然は生かし、
背く種(人類)は自然によって淘汰されるであろう。
 生命を尊び、生き物の生きるを自然の与えた権利であると、
法を守るとは生きる権利を守ること、
自然の中に真理を見出し、真理に生きる天上界の御意志は自然の法と一つです。注終)

 人間はその上に寄生しているに過ぎません。
 現在はその寄生虫が大きくなり過ぎて、地球は正常な生活のリズムを狂わせられているのです。
 人間はどのようにして生きてきたのかもう一度考え直してみて下さい。
 文明のお蔭ですか? そうではない筈です。
 他の生物や植物、無機物などの存在の恩恵を蒙っている筈です。
 その事実を再確認し、絶えず新たに思い起こさねばなりません。」

「JI」84年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」187頁

天への愛を普通の人間愛へ振り向けることこそ神の子として相応しい人格であり、
人間愛も動物や植物への愛も共通のものであると何度もお教えしました
が、
(動物虐待を意に介さぬキリスト教信者は、愛を口にしながら愛とは何かを知らず、
人間虐殺の共産主義を先頭に立って広めようとしていることから理解は容易でしょう。
 愛はあらゆる生命を持つものへの愛。その一種類しかありません

(注。本能によって与えられた自己愛を昇華させることで神の愛を持つことが出来ることを
天上界に教えられました。
 大切に思う心は本能によって与えられる、本能だけを持って人は生まれてくるのであり、
生きることを通して、常に本能から来る感情に支配されるしかない、
知恵も理性も知能も持つ(大脳を開発する)ことの出来ぬ生き物ではない、
自らの意志によって制御し得る心を獲得しようとする生き物であると
自覚することの出来るのが人間なのであり、
感情に勝る価値を、真の生甲斐とは何かを、
真に人を価値あるものとするものは何かを求め、見出し、自らをその価値に従わせることが出来た時、
真のあるべき己を悟るのであり、
そのような人々に導かれてきたことを、愛を与えられてきたことを知る時、
生かされてきた者は、生かすことを教えられてきたのであり、
人を生かそうとの思いに満たされた者は、永遠に生きる自然と繋がるのです。
 そのような愛も心も生命も全ては自然が、全ての生きとし生けるものに与えたのです。

"愛はあらゆる生命を持つものへの愛"であり、
その愛も生命も全ての生き物に分け隔てなく与えたのは"自然"であることが、
また、人間に与える為に生き物は創られたとの宗教の教義に関しては、
真の神によるものではなく、悪魔によって齎されたものであることが解るのです。注終)

思い遣りもその現れでしかなく、愛と思い遣りがあれば、
正法者として相応しくない人格とはなり得ないのです。
 この二つがあれば、志を同じくする人々と神と同時に繋がることが可能となるのです。」

「JI」81年3月号初出 パヌエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」131頁

「先日テレビチャンネルの一つで、世界で数少ない、残された自然の動物王国の中で、
南米のジャガーの王国というのが取材され、南米特有の動物の生態が実録、放映されていました。
 その一コマに、年若く見える一匹のジャガーが餌を探して歩く場面がありました。
 野生のイノシシやバクやカメで失敗した挙句に、親の側を離れてふと迷い出た子鹿を見つけ、
たちまち攻勢に出た途端、横合いから父親のシカが躍り出、
気を逸らせる為にゆっくり別の方角に走り、
簡単に子鹿の代りにジャガーの餌食となりました。
 ジャガーに食べる物を与えて、子鹿を生かそうという気持であったのでしょう。
 それは静かな悲鳴一つ聞こえぬドラマでした。

 しかしここに人間が範とせねばならない自然の大きな智恵
種の保存の為に身を以て子を守り、犠牲となる親が動物には実に多く見出されるということです。
 そして彼等はそれを当然の事として少しも自分の犠牲について過大評価しない、
後に残された母親或いは父親或いは子供は、悲しみを黙って耐え、
自然の掟に従って己が生命を生きていられる間生かし、種の存続に役立てる。


 これと同じ事が人間の世界に起こればどうでしょう。
 社会は人の"鑑"として讃辞を惜しまず、当然視はしないでしょう。
 それ以上に子を敵から守ってくれぬ親、動物でも下等な部類に属する親が増えているのです。
 子もそれを学び、己の生命のみを大切に思う大人に成長します。
 そういった親は、
子供が赤化教育を受けようが、非行化しようが、精神病院に入れられようが、
世間体のみを気にして、子の将来を憂うことがない。
 何が人間にとって敵とすべきものであるかすら判別することも出来ない、
子供の人格を正しく育む方法も知らない、未熟で無責任な性格でしかないのです。


現象テープ№19 「宗教と人間の関係」より
 80年3月9日 ガブリエル様現象

「人間もまた生態としての動物の一種であり、
動物と生態学的には何ら変わるところはないのです。
 人間も自然の中に発生した以上は自然の法則に従わなければならないのは
当然のことではありませんか。
 いいですか、他の動物と仲良く愛情を交せるようになるのは人間だけなのですよ。
 他生物の間で友情や信頼といった関係が成立するでしょうか。
 人間と動物の間にこそ、そういった関係が存在するのです。

 特殊な例も稀にはありますが、人間はどの種類とも仲良くなれる素質を持っているのです。
 わざわざその素質を棄てることはないではありませんか。
 動物から学ぶことは沢山あります。
 それから人間優位に立っている上での自然環境保護ではいけないのです。
 人間も自然も平等
だという観念を養わなければなりません。
 自然と人間と、この関係に於てあなた方はどのように為すべきか。
 一人一人で悟ってゆかねばなりません。」

注。
 人間関係でも平等だとの思いが、互いに愛の信頼を齎すのではないでしょうか。
 愛が与える者に、受ける者に信頼を齎し得るのはそれが無償のものであるから、
相手を強いるものではないからでしょう。
 与える者に、受ける者に上下を齎すものではないから、
真の愛の前に謙虚な心のみ在ることが出来るのだから、
平等と思えるから無償の、人に評価を求めようとしない真の愛が生きるのでしょう。
 愛は金銭ではないのだから、(借金を返すような)義務を強いるものではない、
愛を受けたから返さなければならないというのではなく、
愛を受けた者が自ら与えたいという精神(理性)を培うものが愛だからです。
 真に愛の受け止められた心には、愛の生きる心となった者には、
愛を必要とする者に愛を注ごうとする、そのような愛が生まれるのです。

 人間関係でも、立場、地位が上であるから相手に従おうとする、
下だから相手は従うのが当然という関係で、
愛こそが大切であると、愛がそのような関係を望むものであると思われるでしょうか。
 相手を生かそうとの思いが生まれない関係に、
立場が変れば相手の心など顧みようともしない関係に信義など生れようがないでしょう。注終)

「慈悲と愛」79年8月号初出 パヌエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」64頁

動物も心があります。言葉もあります。
 動物に愛情を感じたことのない人、親身になって世話をしてやったことのない人や、
動物を"畜生"として人間以下に見做す宗教に毒されている人には判らないことですが。
 動物もそれを知っていて警戒心を持っています。
 野生のものほど手なずけるのには根気が要ります。
 その代り信頼を得た時、動物ほど人間の優しさや愛情に敏感で繊細な心の表現をするものは
人間の中にさえも数少ないことが判るでしょう。

 彼等は身体でそれを表現するのです。尻尾や目、耳、身体全体、そして鳴き声です。
 語彙というものを持たないのにどれだけ多くのことを表現することでしょうか。

(注。障害を持った為に、
それを補うかのように他の機能が突出して発達するケースが知られていますが、
人間は人を判断する場合に、誰もが
(同様な理解を齎すものが、誰にも反対されないものが正しいのだろうと錯覚し易い)言動から、
人の心は判断し得ると、そのような心の条件反射が突出した為に、
人の思いを感受する繊細さを、応えようとする愛を失うという障害を
持つようになったのかも知れません。注終)

"愛らしい"というのは、
動物が人間に彼等の言葉を伝えようとする時のための形容詞であるかのようです。
"純粋な喜び"というのは彼等のためにあるかのようです。
 人間は自分達の子供からさえこのような素直さを奪うことの出来る、
唯一の非情な動物であることを反省しなければなりません。


〖備考
 愛は生命と共に与えられたものです。
 動物は、他種の動物が自分を餌食にと狙っていることを知れば必死に逃げます。
 自分(の生命)を何よりも大切に思うからです。
 大切に思う気持ちが、愛に繋がってゆくのです。
 この感情がなければ真の愛へと昇華することはありません。
 同じ種が襲われようとすると、群の仲間は助けようとします。
 同じ種は、自分の一部と受け入れることが出来るからです。
 同じ心で繋がっているからです。
(動物が死ぬと、肉体を失ったショックに耐え切れず、
動物の霊は、生きた同種に同化(合体)するそうです。
 自分の肉体と同一視しているのでしょう。)

 その動物も異種に対しては、食する為に平然と襲いかかります。
 自分の一部という意識は全く持たないからです。
 そのような意識があったら、何も食することは出来なくなってしまいますから、
とうに滅びてしまっているでしょう。
 自然の調和とは、生きる為に必要なだけを食することで、すべての種の存続を可能にしている、
或る種だけに生存が偏ることなく、バランスが取れているのですが、
人間は動物と同じ立場に自分の種だけを愛するのではなく、すべてを生かそうと、
愛そうとする自然の立場に立たねばならないと正法(神の法)は教えます。

 人間だけが悪を行い得る、それを防ぐ為に法が必要になります。
 人類は、動物のように善も悪も理解することも、意識することもなく、
自然の法すら自覚することなく、法に従う本能に生かされているのではありません。
 法に背く悪と知りながら、悪を選ぶ心を人は持ち得るが故に、
人類は法を意識し、守る立場に立たねばならないのです。
 自然を、自然の法を犯す悪を行う者を許してはならない、
自然(に生きるすべてのものへの責任に於て)を守る為に、
自然を在らしめる、自然の生命である法に準じなければなりません。
 自然への愛が、愛の始まりであり、愛の本質です。備考終〗

第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛
(一) 自然への、生き物への愛

 ② 生き物の命の尊さ
「慈悲と愛」79年9月号初出 パヌエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」66頁

「八月号のメッセージに関連する話題として一箇月遅れてしまいましたが、
八月四日土曜日に千葉県君津市に於て起った恐ろしい事件についても触れておかねばなりません。
 これは寺の住職に対する住民の反感から起ったことなのです。
 人間の感情に哀れな幼い動物が犠牲になりました。
 覚えていられる方も少なくないと思いますが、某真言宗の寺で観光用に住職が動物舎を作り、
次々と動物を飼育していました。
 いろいろな事があって飼い変え、最近は雌雄のトラを飼い、子供も十頭生れ、
生後一年ばかり経ったところでしたが、
それが二日夜、誰かの悪質な悪戯で動物舎のカギを開けられ、
子トラが三頭共家人の気附かぬ間に外に出て、一頭は直ぐ帰りましたが、
残りの二頭は附近の山中を歩き廻ったらしく、翌日から大騒ぎになって捜したのに帰って来ず、
遂に警察に助力を求めて大掛かりな捜索を始めました。

 そこ迄はよかったのですが、トラと聞いて附近の住民は震え上がり、
千葉県の警察は機動隊を結成し、消防隊員を呼び、
猟友会というハンター・クラブの会員に依頼して、凡そ八百人の銃撃・捕獲部隊を動員した結果、
オリに帰ろうとしてこの物々しい有様に驚き、二日間何一つ口にせずに逃げ廻った空腹の、
しかも人に飼われていて獣性もまだ目覚めていない子トラを散弾で打ちました。
 メスを崖に追い詰めて射殺したのです。
 最初五米の至近距離で狙いをつけた時に子トラは逃げようともしなかったと、
仕留めた安藤某というハンターは得意気に語り、四人が同時に射ったのですが、
後で"大任を果たした"と祝杯を上げたとのことです。」

「植物のようにものを言わぬし、鳴き声も立てない種ではなく、
動物は人間に身近かなものを持っていることはお解りでしょう。
 そして精神は幼児以上のものにはなりません。
 その無邪気な動物を可愛がるということは、
親の子に対する愛情と同じ無償の、保護者としての愛なのです。
 それによって人は心の潤いを学ぶのです。
 人は自己をのみ愛していては人格が円やかにもならず、深まりもしません。
 必ず他に愛を注ぐことが大切です。
 そして絶対の信頼を寄せる、裏切らない動物からの愛情は、
人の心に安心と落ち着きを与えるのです。

「慈悲と愛」79年10月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」70頁
「ああ古(いにしえ)のこの国は、
一輪の花、一匹の動物、一羽の鳥の生命をも愛しく思う優しき民であった。
 健康な心の民であった。
 一茶や良寛などの優しき僧を慕う、心穏やかな人々であった。
 いつの時からサタンの黒き手に導かれてこの国の人々は、
自らを"至高の種"と称え、地上の生あるもの、草木や花、鳥達、小動物から大型の動物、
人間以外の生きとし生けるものを踏みにじり、殺害し、
原始の時代にも曾て見られぬ、傲慢な徒と成り果てた。
 彼等に平和は無く、彼等は只、力を誇り、
強者として君臨する支配者の権限と、心の荒廃をしか示さぬ。

 心のみか、自然の法に照らしても人類以外の種の絶滅、天敵の減少は、
やがては公害の反復と人類の滅亡となり、目に美しく、心安らぐ自然と、
悪と謀りを知らぬ幼な子の如き動物界の触れ合いを失うことは、
力を誇る人間間の闘争の引き金となり、世界の滅亡となるであろう。


 七九年八月号のパヌエル様のメッセージが人々にまだ届かぬ、八月四日に起きた事件を、
九月号でパヌエル様が再び語られました。
 神々の愛とは、生き物の美しい心を愛する心であることを教えられた矢先に、
その心に泥を塗り、この世に清らか(繊細)な波動と共に、真の神の心が如何なるものであるかを
伝えさせない為に、悪魔は汚れた心に生きる者達を操り、檻から迷い出た子トラを射殺しました。

 その悪の想念に気付かない者は、闇に住む者、永遠に天と関わることはありません。
 子トラを保護しようともせず、愚かなメディアに操られた世論は、
権力を動かし子トラを殺害すべくハンターを動員させました。
 神々が、今この時代に為そうとされていることを知る悪魔の、
神への敵愾心と人々を悪に従わせる野心から企んだ事件としか思えないものでした。
 悪魔が人々の心に跳梁した世界を目の当たりにする出来事でした。
 悪魔に踊らされた、狂気のハンター達が子トラに襲いかかったのです。
 その邪念の嵐に吹き消された小さな命を、悼む心も無く、
(人々を煽ったマスコミと共に)人々は安心出来たと喜び、ハンターは互いの無事を喜び
(子トラに殺されると思う程小心だったのか、
人々の希望を託された者として殺すことが嬉しくて堪らなかったのか)、
互いを讃え合ったことが伝えられました。

「JI」85年5月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」52頁

「過日、沖縄のある動物園で係員が檻の掛け金を忘れ、
ライオン一頭がふらっと外に出たということがありました。
 何時も見慣れているのでしょう、近くの象舎にもたれて寝そべっていたのを、
その動物園関係者は事もあろうに警察官を動員し、15発の弾丸で打ち殺させたそうです。
 理由は、園児が見物に来ていて危険だからということですが、そのような近距離で、
手負いでもなく、子連れでもなく、飢えてもいず、群れをなしていない動物。
 恐らくその動物園で育ったかも知れない、人に慣れ、人を信頼しているライオン一頭を、
ただ猛獣であるからという理由で、無残にも打ち殺す世論がまかり通る日本という国は、
理性を失った狂気の国としか思えません。


世界中で一番哀れなのは、後進国が革命途上にある場合や、
日本のような後進国並みの意識しか持たない国に飼われる悲運に見舞われた動物達です。


「諸悪の根源は無論、左翼寄り思想のクリスチャン弁護士、山室氏が強行制定させた
(働きかけた)猛獣飼育法なる小児的内容の法律にあります。
 又、そのように世論を喚起したマスコミにあります。
 その法律の故に、日本中の動物園関係者から個人に至る迄を神経質にし、
人間と猛獣を、恐怖と危険の一線を画せずには、猛獣のみか、
犬をすら飼えない心境に陥れているのです。
 人の恐怖や不安が動物にも伝わり、神経質にしてしまうことすら気付かないのでしょうか?
 これは全く小児的発想で日本人特有の臆病で小心な心理状態の表れであり、
精神の弱さ、被害妄想的な思考習癖を有し、且つ助長するものでしかありません。

 未熟な人格であり、精神、人格の成長など、及びも付かないのです。
 動物を恐れることは人を恐れることにも繋がり、人の恐怖心が動物にも伝わり、
このように何かあると、足が竦(すく)んで前に進まなくなるような恐怖心に囚われるのは、
無闇に銃を振り廻し、反って暴発させて人を殺傷するような病的な小心者と同じく、
国が戦争に巻き込まれるような事でもあれば、愚かしくも敗残の憂き目に遭うのみに終るでしょう。
 私は間違っても、このような人々を天の戦士には迎えたくはありません。」

注。
 紀元前1700年に神(エル・ランティ様)の命を受けたヨブ(ヨブ記の同一人)の渡来
(最初の王となる)に始まり、紀元前700年には南ユダ王国の後裔
(月読尊(ラファエル様本体)、天照大神(サリエル様本体)等)が渡来し、
皇室の祖となった(ことが「古代日本と七大天使」西澤徹彦著で明かされた)のですが、
天上界の導きがあったにしろ、最後には海を渡って島国に辿り着くまで、
指導者の天への信義を信じて従った人々の勇気を、
日本人はどこに忘れて来たのでしょうか。

 臆病で、小心な日本人がこれほど幅を利かせるようになったのは、
自分のことだけに生きるのが正しいと、それが勝ち取るべき権利であると、
愛を、優しさを葬り去った共産主義の台頭によるからに他ならないのですが、
そのような思想を無思慮に信じた、
賢人の警告に耳を傾ける知恵を育てて来なかったからでもあるでしょう。
 共産主義を見抜けず受け入れた現実を理解されるなら、
その真実を伝えられた天上界の齎された神の法、正法を真理であると覚らねばなりません。
 それが出来ないようでは、
共産主義に騙された愚鈍から少しも知恵を得られないままだということです。

 普段は威勢のいいことを言っている左傾メディアが、
安倍元首相やジャニーズのドンが死んで、何を言っても身に危険が及ばないと知るや、
知ってたのに言えなかった臆病を打消したい衝動に駆られてか、
これでもかと統一教会や性犯罪を批判、正義を主張することで、
却って彼等の本性(臆病や卑しい心根)を証明しているように思えますが、
左傾メディアに留まらず(良心を捨て、責任を抛棄し、権利のみ求める心に変える)共産主義が
日本人全体を蝕んだ故の結果であるとの、曾ての日本人の心を知る天上界の御見解です。注終)


"劣性遺伝子を持つ者の出産に対する天上界の見解"
現象テープ№31 「天上界による質疑応答(天上界の見解)」より
 81年9月10日 ガブリエル様現象

「或る科学者が、生まれる子供が劣性の遺伝子を持つ時、
生かすか、安楽死させるかという決定をする、
或いは病気を、悪い遺伝子を残すのには天上界がどのような考えを持つか、
或いは自然界に於ける自然淘汰とは、どういう関係になっているか」という質問ですが。
 天上界の意見を申し上げるならば、
劣等の遺伝子を持っている場合、その遺伝子を持っていることが明らかな場合は、
その両親は子供を作るべきではありません。
 受胎してからはもう遅いのです。受胎してから子供を殺す権利は誰にもありません。
 生まれてこようとする意志があるから生まれてきたのです。
 そのような遺伝子を無くす為には、両親の強い理性が必要なのです。

 子供がほしいという気持ちは誰にもあります。
 しかし、自分の子供でなくても子供を育てることは出来るのです。
 劣等の遺伝子を持つならば、そして、社会のことを考えるならば
両親は子供を産むべきではありません。
 しかし育てることは出来るのです。
 よく、自分も人間であるから子供を産みたい、女であるから子供を産みたい、
という意見を耳にしますが、天上界はそれを自分勝手な意見としか受け取れません。
 生まれてきた子供はどうなるでしょうか。
 一生社会に対して寄り掛かって生きてゆかなければならないのです。

 建前では、あなた方の社会では福祉社会と謳い、
障害者をも受け入れるように一見出来ていますが、
しかし、あなた方の心の中ではどうでしょうか。
 私達天上界から見て、障害者を正面から素直に受け止められるような人間が、
あなた方の中に一握りでもいればよいと思います。
 その証拠にどうですか。
 国際障害者年と謳っておりますが、
私達はその意見には少しも善意を感じることは出来ないのです。
 国際障害者年と名付ける事自体が障害者を差別しているのです。
 障害者も正常者も変わりがないならば、何故そのような年を設ける事があるでしょうか。

 子供を産むということは劣等遺伝子を持っている、いないに関らず大変な事です。
 安易に産むべきではないのです。
 より賢く生きてゆかなければならないのです。
 生まれた子供は何時かは大きくなり、社会に貢献するようになります。
 社会の一員となるのです。
 たとえ私の子供一人と思い、俺の子供一人と思っても、
その子供一人が、何か大きな影響を及ぼすかも知れないのです。
 大勢は一人一人から成り立っているのです。

 命は大切にしなければなりません。
 生まれてくるものは偶然にして生まれてくるものではないのです。
 その事をよく考えておいて下さい。
(注。障害者という十字架を背負うことになろうとも、
自分達の(遺伝子を持つ)子が欲しいというのは自己愛の延長に過ぎないものです。
 真に子の幸せを願う者なら、健康に生きる幸せを子に与えたいとの願いを犠牲にするなど
考えも及ばないことだと思います。)

 天上界は劣等遺伝子を持つ者を迫害するものでも何ものでもありません。
 医学の進歩によって劣等遺伝が改良されてゆけば、それに越した事はありません。
 そして、それによる歪みも出てくるでしょう。
 しかし、あなた方人類が劣等遺伝子を無くそうという方向に一度動きかけたならば、
最後迄やってみるしかないのです。
 より良く生きてゆく為に、常に進歩してゆかなければなりません。
 人類は知性があるのですから、知性と理性を持つのですから、
如何なるものをも克服し得るのです。

(注。
「JI」88年1月号 ミカエル大王様メッセージより
 最近エイズに感染した母親は妊娠や出産をすべきでない。
 或いは出産させるべきで、胎児の生命は奪ってはいけない ー
などの賛否両論が、新聞の投書欄をにぎわしているようです。
 私達の見解は、しかし、やはり責任ある社会人であり、父親と母親であるならば、
片方が保菌者と判っているなら、妊娠は避けるべきであるとします。
 みすみす病気との闘いと苦しみの連続であるエイズ感染者として赤子が誕生することは
哀れであるし、又その赤子の成長、成人までに関り合う周囲の人々の蒙る迷惑は、
母親としてやはり、考慮すべき事柄であり、自分本位の欲は慎むべきでしょう。

 近親結婚を避ける道徳心は、
劣性遺伝児を作らないという社会人の責任と義務感から来ています。
 何でもよいから欲しいなら子供を産ませるべきと、
社会がカトリック教会の教えのように、"生命の誕生を阻んではならない"
等の理性と知性を欠いた標語を作り、宣伝してはならないのです。
 そのように説く評論家は恐らく、
社会や国家の崩壊を目論む左傾思想の持ち主であろうかと思いますが、
妊娠して中絶期を過ぎてしまった胎児の出産は仕方がないこととしても、
日本のように家庭の経済状態によってさえ、中絶を許可される国で、
エイズ感染の親が子を産むのを禁じてはならないという社会の観念は不合理、不健全なものです。
 無責任な親と無責任な社会の所産に過ぎないもの。

 その概念を広げてゆけば、花の苗を間引くことさえ許されなくなります。
 ありとあらゆる動植物の生命を絶つことも心情として許せないと、
妊娠や出産を肯定する評論家が言うのならば、
大変に慈悲深い心の持ち主だからそう言うのだと理解しますが ー 。注終)

〖備考1
 動物の立場から見れば、明らかに人間の一方的悪である場合も、
人間は動物の為に罰されることがあってはならない、それが現在の法律ということです。
 自然の法に従い、罰される悪を為していない動物に、
同じ動物である人間が自然の法に逆らって迫害する、
人間に取って有益であれば善である、それ以外に従うべき法はない、そのような法を人間が作る、
人間の良識はそれを許して良いのでしょうか。

 すべての生き物を生かしめる自然の法に抗うものを法としてよい筈がありません。
 このような人間の一方的な有利を認めることで動物が犠牲になることを
間違っていると考えない者は、
同じ人間の世界にあって、強者(の国)が弱者(の国)を力によって支配することをも
間違っているとは思わないのでしょう。

 そしてそれが動物に対して正しい人間の態度なのだと法で定めているのです。
 人間に対して何の報復も出来ないことを良いことに動物が虐待されても良心が痛まず、
哀れみすらも持たないでいられる者には、
強国の力に踏み躙られた人間の苦しみすらも感じないのでしょう。
 人間の悪から動物を救わなければならないとの神の思いの解らないような人間は動物に劣る、
動物は救われ(神の愛する、憐れまれるものを迫害する)悪を為す
人間は罰されると言われる(このメッセージを伝えられている)天上界の正義は、
真に神の御意志によるものであることがお解り頂けると思います。備考1終〗

「天国の証(78年8月初版)」206頁
"天使の詩集"  ウリエル様「カナリヤ」全文
&「天上界メッセージ集・続」116頁

「桃色の梅の花の香りが漂い 春の訪れと共に小鳥の雛が孵った。
 小さな、掌に隠れる小さな雛が 赤く裸で震えていた。
 それは丹精込めて育てられ レモンと名付けられた
淡き黄色の羽毛に被われし 千乃裕子のカナリヤ。
 鳥籠に只一羽 雄のカナリヤは 美しく高く天を賛美し 何時も私達の心のなごみとなった。
 千乃家を守る天の使いの慰みとなった。

 やがて私達天の使いは悪魔と戦い 天を守り抜くのに疲れ果て
サタンに苦しめられて 死の境を彷徨った。

 
その最中、カナリヤを守り抜いたのは私だった。
 病気の犬を守り抜いたのも私だった。
 千乃家の動物と小鳥を
無慈悲な悪魔の手から 
生命を賭けて守り抜いたのはこの私だった。

 サタンは去った。
 今永遠に、天の力で滅され 宇宙に姿を消した。
 それが現実であるのを知るは 唯カナリヤの犠牲のみ。
 レモンは左足を折り、足首から壊死した。
 付け根まで肉は裂け、小さな小鳥には耐えられぬ 死との戦いが残された。
 サタンの爪痕を痛々しく残して 千乃家の嵐は去った。
 後に横たわりしは 哀れなカナリヤのレモンのみ。
 鳥籠は空になり あの美しく囀りし慰めの歌は無い。
 天の使いは小鳥と歌を愛する者達。
 その喜びを取り去ったサタンの刃。
 サタンは何ゆえに 美しきもの、愛らしきものの命を奪うのか。
 我等の愛する者を奪うのか。」

〖備考2
 疲れ果て、襲いくる死神と戦いながら、
それでも一羽の小鳥の苦しみに、己が命を擲って守らんとされる、
このような心に出会って真の神であると悟れないのは底無しの高慢故であることを
GLAの或る者に証明されました。
「大天使方が動物や小鳥を守ったなど。正法はもっと大きなものですよ。」と、
千乃先生に言い放った(神の心根である優しさすら解さぬ)この者は、
そんな大天使を名乗る者よりも己が悟りが深いという、
他を軽んじる高慢の内に、たかが小鳥と、
生命を奪う悪魔の非情な心を育てたのでしょう。備考2終〗

「慈悲と愛」79年8月号初出 パヌエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」64頁

「全国民が僧侶を経験する筈の仏教国タイの政府が、難民を百十台ものトラックに満載し、
他の方法もあったであろうにカンボジアに強制送還し、
母国の国境を越えた所で全員が殺されたということを聞く時、
動物はこのような残虐非道なやり方はしないということを認識しなければなりません。
 寧ろ殺された難民が、これまでの人間に対する動物の立場であったということも。
 何度も言うようですが、神の目から見れば人間は決して特別なものではないのです。
 動物の内の一つの種にしか過ぎません。」

「JI」84年3月号初出 ミカエル大王様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」182頁

「昨年、六月頃から、水戸市のある石材業の方が、
親切にも近隣の山から餌を求めて降りてきた八匹のタヌキの親子の餌付けに成功したニュースが、
テレビで放送されたことがありました。
 所が八月から一匹ずつ姿を消し怪しんで探すと、無残にも猟師がワナを仕掛け、
県内のハク製店に売り飛ばしていたのが判ったそうです。
 今年の一月二十六日の某新聞に発表されておりました。
 生命を尊び、慈しむ人々と、それを蔑ろにし、奪う人々と ー 、
幼児をさえ無差別に殺して、何の良心の呵責もない社会主義国の人々と ー 。

 何と人間とは、その育つ環境に左右され、両親や教育者や友人、
はたまた社会の影響を受けて、どのような性格にも成り得るものか。

 それを考え、認めることは、現在の世界の状況に鑑(かんが)み、
ただ滅びに至る末世への思いと予感に満たされるのみに終ります。

 あなた方正法者も JI 誌の読者も、先の事件についてどのような印象を受けますか?
 生命を尊び、慈しむのは、単に動物に対してのみならず、
人間にも当てはまるのは改めて言うまでもありません。
 特に非力の者や、病める者には(動物も例外なく)、
周囲からの救いが差し伸べられていなければ、
あなた方が、父母の愛と心遣いでもって優しい思い遣りを注ぎ、救わねばならないのです。
 それは健康な者や自立出来る者の十倍の思い遣りであり、愛でなければなりません。

 あなた方は社会主義者でも共産主義者でもなく、
生命と自由の大切さを学ぶ自由社会に生きる者ですから、
人間としての価値は自らを犠牲にしても他を救うことにあります。

 しかも相手が価値なき者でも助けねばならぬ場合にも打(ぶ)つかります。
 生命を失う場合もあるかも知れません。
 一人一人が世界を救う救世主となり得なくとも、
せめて助けを求める人の生命を大切にし、救うだけの人間となってほしいと思います。
 "友の為にその生命を捨つること"とはそれを言うのです。

 只、私達の教える事柄を覚え、議論の際の武器とするのではなく、
"動物より優れた人間の在り方"とはどのようなものかを、
せめて理解する位の賢明さを私達から会得して頂きたいと思います。
 それは人間社会の常識でもあります。
 私達と出会う以前から学んでいる筈のモラルでもあるでしょう。
 正法者やJI誌の読者が却って、
"生きとし生けるものの生命は尊いもの"であるとは知らず、
今私がこう語って初めてなるほどと思うようでは、
あなた方は"正法を学び、或いは接している"と言う資格さえ無いのです。

 それを理解し、或いは体得するまでは、人間としての価値さえなしと自らを反省し、
生き方、考え方を改めねばならないのは当然のことです。

 動物を哀れと思う心が、人間の生命を軽んずるようでは、
強盗殺人犯や爆弾魔を重用し、破壊活動に利用しようとする左翼の過激派や、
大虐殺を黙認し、奨励せんばかりの穏健派と何ら変る所がないでしょう。」

「JI」83年5月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」165頁

動物を飼育する時、人間とは違って殆ど無理な要求を出さず、
赤児のように生命維持の為にのみ、何かを訴える場合が多いのを気付く人は、優しい心の持主です。
 愛や慈悲を知る人です。
 その同じ心が尺度と言えましょう。
 人とて同じ。その人の危急存亡の時、生命、生活維持の為に助けを求める時、
手を差し伸べる
のが真の愛であり、慈悲であるのです。


〖備考3
 如何なる理由からも他民族を迫害する、虐殺するを許さない良識を持ちながら
動物の殺されることには気に止めない人もいるのではないでしょうか。
 殺される時の動物の恐怖も、残される家族の悲しみも(人間と変りません)、
殺す人間の冷酷にも心を痛めることがない、仮令悲しみを覚えても一時のことでしょう。
 そのような冷酷な心を悪と認識しない限り、虐殺は無くならないでしょう。
 革命という名の下に虐殺の限りを尽くしてきた共産主義が未だに党として認められています。
 悪魔が齎した思想であることを証された天上界の叡知も、
神の存在も認めることすら為されていないというのに。
 人間の獣性を解放するイデオロギーを裁く破防法すら作れないのです
(妨害したのは偽善と欺瞞の世界に生きる左傾メディアであるのは言うまでもありません)。
 悪の想念を宿す如何なる思想も許してはならないのです。備考3終〗

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」31頁
「如何に世慣れた人でも、他人に同情を持ち得ない限り、
大抵は、人間を軽蔑するか、或いは恐怖することになり易いものである。
 そういうことにならないように我々を守ってくれるのは、ひとり同情のみであって、
理性や愛ではない(感受性が鈍っていては愛(意志)も生まれません)。
 普遍的な人間愛といっても、それは同情ということに他ならない。
 さもなければ、それはただ、無害ではあっても、
所詮かなり無関心な心構えを呼ぶ名称に過ぎない。

 同情のみが、力強い、温かい、活動的な感情である。
 それは傲慢に上から見下ろすような気持でもなければ、
また他人の不幸を見て喜ぶような不純な気持ちでは絶対にない。
 というのは同情(ミットライト)とは正に「苦しみを共にする(ミット・ライデン)」ことだからである。
 他人の苦しみを自分の苦しみと感じることから、
他人に救いの手を差し伸べようという本当の衝動が湧いてくるのであって、
そういうことがなければ、折角の気持ちの張りも余りに微力な心のはずみに終ってしまうであろう。

 或る美しい回教の物語に次のような話が語られている。
 或る男が、とある深い泉で渇きを癒して上がってくると、
そこに一匹の犬がいて、喉から舌を垂れ下げているのに気が付いた。
 この時、この男は自分にこう言って聞かせた、
「この犬は、先程の私と同じ苦しい思いをしているのだ」と。
 男はもう一度泉へ下りて行き、長靴に水を一杯入れて、歯で長靴の口をおさえながら、
うえへ上ってきて、その犬に飲ませてやった。
 預言者がこのことを聞いた時、
「神様はこの男のすべての罪を許し給うた」と言ったというのである。」

〖備考4
 魚も鶏も豚も牛も屠殺してよいが、
鯨(やイルカ?)は高等生物だから屠殺してはいけないとの考えは、
人の心を傷つけることを知らない、犯罪を犯すことのない知恵遅れの者よりも
知能犯の方が高等だと、生きる価値の高い人間だと考えているとは思いたくありませんが、
優れた者が劣った者を支配する、支配する者こそ優れた者、
劣った者は優れた者に従わねばならないといった考えを持つ人はおります。
 支配する心は自己保存に過ぎぬ、高等感情を学ぶことのなかった者の心です。

 人類の救済に生きた天上界の思いとは、助けを求める心に、神を求める心に応える思いです。
 人を生かす思いが愛であると教えられました。
 人間以外の哺乳類も愛を知っています、人間以上に愛に生きています。
 豚や牛が鯨に劣る種だとは私には思えません。人間に劣る種であるとも思えません。

 環境保護団体の人達は、何を以て動物の上下を決めるのか、自分にその資格があると考えるのか、
何ら語ろうとしないこと自体が自分達(の考え)が他に優るものと
看做している証拠なのではないでしょうか。
 自分達の主張を押し通そうと破壊衝動に走る(暴力革命と同じ短絡志向の)彼等は、
真に動物を愛する人々の共感を得ることはないでしょう。

 一生の間に何万もの生き物(動植物)を食するのが人間ですが、
それが一人の人間の生命を維持するだけの為に、
一つの生命の為に消費されて当然としか思えぬ心を育てたに過ぎぬなら、
その為に犠牲になった生き物と、その人間のいずれの心(魂)を神は天国に迎え入れ給うか、
言われる迄もなくご理解されることと思います。備考4終〗

第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛

 (二) アガペーの愛と慈悲、エロスの愛と慈悲魔
「慈悲と愛」79年3月号初出
(男女間の愛のあり方についての教示を請う読者へのラファエル様の助言)
&「天上界メッセージ集」35頁

「神の愛が利他的な、自己犠牲的な愛であることを学び、正法者はそれを絶対的基盤とし、
男女の愛即ちエロスの愛については如何に、と心迷うものとなります。
 アガペーの愛に通ずるプラトニックな愛でなければならぬ。
 それ以下のものは罪と見做されるのではないかと戸惑うことになるのです。
 それは正しくはありません。
 イエス様でさえ"自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ"と言われているのです。
 自分を愛する愛は利己的な愛であり、本能的な愛です。
 アガペーではない、フィリアといった友愛でもありません。

 そしてこの自己への愛が精神的な成長と昇華によって他者への愛、即ちアガペーとなるのです。
 詰り本能の愛を知らねばプラトニックな愛もアガペーの愛も生まれてきません。

 ましてや男女の正常な人間としての愛は本能と理性のバランスを保ち、互いの人格を尊重し、
思い遣りと奉仕の気持ち、即ちアガペーの精神を持ち、
しかもエロスの愛をも認めるものでなくては人間の心身の健全さを保つ上に於て障害となるのです。
 人間は精神のみでなく身体をも持つものであることを忘れてはなりません。


 生物界を自然の法則が支配しているように、人間の社会も法が支配しています。
 日常生活の人間関係も、相互に信頼を認め得る価値観(を守る人間性)を有することが
関係維持の条件となっています
(その価値観によって人間関係もそれに見合ったものとなるでしょう)。

 本能と理性のバランスを執ることが、健全な精神を、人間関係を維持する為に必要であることを、
ラファエル様は教えられました。
 本能とは、生き物が生き延びる為に与えられた、自然界のルールに従う知恵です。
 理性とは、社会を守る為にルールを作り出し、互いの心を同じ価値の社会観、
人間観に立つことで法を遵守する知恵と言えるでしょう。
 共に一人の人間の中にあって、働きかけているのです。
 人は人間社会と共に自然を生きています。
 公と私の違いにも言えるでしょう。
 公と私に応じて、社会性と人間性が自然に表れるには、
相手の心を、立場を思い遣る愛に生きる心がなければ、出来ないことです。
 中庸に生きている、本能と理性がバランスが執れているのは、本能に従っている時も、
互いの(自分を守る)本能以上の(他を守る為に自らを顧みない)高次の愛(理性)を
互いの内に信じ合えているからでしょう。

 ① アガペーの愛
「慈悲と愛」79年3月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」34頁

「正法者がまず学ぶのは神の愛、即ちイエス様の人類の罪を贖う愛、他者の為に己を犠牲にする愛、
の尊さについてなのです。
 その素晴らしさは次の一言に尽きます。
"人その友の為に己の命を棄つ。これより大いなる愛はなし"
 昔から聖人と言われる人はすべて、その愛を神々の導きにより三次元の人々に示してきました。
 それは真に精神美の極致ともいうべき昇華された愛の形であって、
人は誰でもこのような愛を受ける時、 自らの心も浄められ、
同じアガペーの愛の心を会得し、それを行おうと念ずるのです。

「希望と愛と光」81年9月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集(初版)」206頁

「愛はその現れに於て両極端な形を示します。
 執着なきものがアガペーの愛、執着の権化がエロスの愛です。
 アガペーの愛が何故与える愛で、エロスの愛が奪うのみなのか、考えたことがありますか。
 与えるとは如何なる意味か、奪うのみとは如何なるものか。
 与えるというのは文字通り具体的に何かを与えるということではなく、
その中には待つ事、見る事、守る事、足らぬ所を補う事、を含みます。
 それらを為した上で相手の中から良所を引出し、長所を伸ばす事が出来るのです。
 そのような愛は留まる事を知らず、必然性と適切さを以て働き影響し続けます。
 自らもまた同時に成長を続けるのです。
 ちょうど宇宙の法則が破れることなく一定の方向に向かって運行しているように。

 奪うのみの愛は、自己に対する不安から来ます。
 自己に安定した支柱無き故に、他に対して安心出来るものを求める結果なのです。
 アガペーの愛は与える者にも受ける者にも何らかの支柱があった場合に調和と均衡を齎します。
 その支柱とは何でしょうか。
 神
、すべての執着や欺瞞を捨て去った形の真理を求め信じる心、
少なくとも、醜さの無い美しい交流や行為を信じる事が出来る心です。

 そして行おうとする意志がある事です
 安定した支柱無き者は、ザルに水を注ぐが如きです。」

「天国の扉(77年12月初版)」164頁 イエス様メッセージより
『聖書に、パウロとソステネという人から、コリントにある教会の人々に出された手紙ですが、
コリント人への手紙と呼ばれるものがあります。
 第十三章ですが、神の愛というものについてこれ以上よくは説明出来ないであろうと思われる程、
詳しく書かれてあります。お読みになれば理解されるでしょう。即ち

「たとえ私が、人々の言葉や御使い達の言葉を語っても、
もし愛がなければ、私は、喧しい鐘や、騒がしい鐃鈸(にょうはち)と同じである。
 たとえまた、私に予言をする力があり、あらゆる奥義と、あらゆる知識に通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、私は無に等しい。
 たとえまた、私が、自分の全財産を人に施しても、また、自分の体を焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、一切は無益である。

 愛は寛容であり、愛は情深い。また妬むことをしない。
 愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、
自分の利益を求めない、苛立たない、恨みを抱かない。
 不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。
 そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

 愛は何時までも絶えることがない。
 しかし、予言は廃れ、異言は止み、知識は廃れるであろう。
 なぜなら、私達の知るところは一部分であり、予言するところも一部分に過ぎない。
 全きものが来る時には、部分的なものは廃れる。
 私達が幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、
また幼な子らしく考えていた。
 しかし、大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった」
            (コリント人への第一の手紙・第十三章一節~十一節)

「このように、何時までも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
このうち最も大いなるものは、愛である」           (同・十三節)』

〖備考
幸福に浸っている者は、その幸せを感じることはありません。
(現象テープ№24 ミカエル大王様現象
 明日を信じ希望を抱いて努力している時、幸せを感じて生きているのでしょう。
 愛を必要としている人に与えられる時、愛が生きるのであり、
受けるものも与えるものも共に喜びを分かち合う心へと清められる時、
真の愛を実感されるでしょう。
 愛を奪うことで自己愛という欲望に浸っている者は、愛を感じることはありません。
 愛を感じない人生に幸せはありません。


「希望と幸福(ヒルティの言葉)」46頁
「愛は、他のすべてのものにもまして、人を賢明にする。
 愛のみが、人間と事物の本質に徹する正しい透徹した洞察を与える。
 また愛のみが、彼等を助ける最も正しい道と方法を見抜かせるのである。
 それ故、大概の場合、或る問題を解決しようとする時、
どうしたら最も愛の籠ったやり方になるかを問うのが良策である。
 何故なら、その方が賢明な策を考えるよりか、遥かに解り易いからである。

 あまり頭のまわらぬ人(私、貴方もそう?)でも、
何が最も愛の籠ったやり方であるかについては、
自分を欺く気さえなければ、そう簡単に騙されるものではない。
 ところが最も才能ある人でも、単に頭だけでは、あらゆる将来の出来事を正しく予見したり、
判断したりすることは出来るものではない。備考終〗

第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛
(二) アガペーの愛と慈悲、エロスの愛と慈悲魔

 ② 慈悲
「希望と愛と光」82年5月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集(初版)」221頁

「善人は憐み深く人助けばかりしますが、彼等が善人と呼ばれて賢人とならないのは何故でしょう。
 慈悲は悲しみを共に感じることから起こっています。
 この自然の中で人類だけが意識を持ち、慈悲を持っているのは、
苦しみながらも生きてゆかねばならないことへの救いともなっています。
 しかし慈悲はそれだけでは人を救うには至りません。
 憐みという悲しみに囚われているだけでは一時凌ぎの人助けしか出来ないのです。

 何をする場合でも一時凌ぎでは、後から必ず破綻が来るように、
人助けもユートピア作りもそうです。
 何がそれにとって建設的なのか、を考えて慈悲をかけねばならないのです。

 厳しさとは言っても、きつくするのや、むざむざ失敗しようとするのを放って置く、
或いはしごく、というのとは違います。
 直すべきところ、改善せねばならぬものを甘やかさず辛抱強く見守ることです。
 善人であるだけではユートピア作りは難しいのです。
 賢くなければ悪辣な人間に頭から捩じ伏せられてしまいます。
 個々の家庭でもそうであるように、
より良く生き、家庭を守り、外からの侵入を許さないということは賢さが必要なのです。
 厳しさの無い慈悲は人を駄目にします。
 賢さの無い善は実らないのです。

〖備考
 難民が集団で騒動を起こした事件がありましたが、
慈悲心から難民を受け入れようと尽力されたのであっても、
その後に何か問題が起きれば行政の対応のまずさと考えるようなら、
正にメッセージの言うところの一時凌ぎの(何が建設的であるか考えない)
慈悲故の結果と言われても仕様がないでしょう。

 難民を装う不法入国者はさておき、難民を受け入れるだけでなく、
私達が難民となる場合も起き得る世界情勢になったようですから、
この問題を一方的な立場から考えてはいられなくなったように思います。
 日本人の社会常識(文化)を破壊するのは日本に無知な難民ばかりではなく、
無条件に受け入れようとする左翼こそ破壊者なのですから、
彼等を取り締まる法律が作れない以上は、
日本に住むことを目的として入国する者には、確りと日本に適応出来る
(左翼の破壊者には断固抵抗する)ように教育し、
適応出来ると判断された者のみ、日本に常住する資格を与える。

 その上で、日本という国には馴染めそうにない者には、
いろんな国の方針などを紹介し、気に入った国を選んでもらう
(住む家を探している人に、望みの家を紹介するのと同じ、
その人のために適っていることでしょう)のは、決して慈悲なきことではありません。
 そして何よりも彼らを難民へと追いやった原因が、
権力に憑りつかれた者達を、独裁者に、悪魔の傀儡にさせたのは、
悪魔の王国(旧ソ連)に共産主義を植え込まれたことを伝えさえすれば、
苦汁を嘗めた難民が共産主義の邪悪を理解出来ぬ筈がないのです。

 苦労してでもそのような態勢作りを目指すことで、
共存共栄を望む意志を育てることが出来れば、
少なくとも真の(神の正義に繋がる)善に生きる国(善を愛する人々)が、
悪なる国家によって難民を強いられることにでもなれば
(最善の対処法を目指して互いに問題点を指摘し合って、解決に向けて協力して行ければ)、
助け合うことを今よりも容易に出来るのではないかと思われるのです。備考終〗

第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛
(二) アガペーの愛と慈悲、エロスの愛と慈悲魔

 ③ エロスの愛
 エロスの愛を拒否したからと言ってアガペーの愛が生まれる訳ではありません。
「慈悲と愛」79年3月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」35頁

ピューリタンのような(清教徒的)厳格な愛は自然に湧き出るエロスの愛を不自然に押さえ付け、
その結果反動として二倍の強さの本能の衝動を耐えねばならなくなります。
 そしてそれを律するに同じ強さの厳格な掟を以て身を縛らねばならない。

 厳格な人というのは往々にして、エロスの愛を認めず、
道徳は禁欲主義であるといった歪んだ解釈をしています。
 それ故に自らを掟で縛り、他を律し、精神の自由な広がりと健康な人生観を越えて
苦行僧の苦しみを意識下に於て味わっているのです。


現象テープ№33 「慈悲について」より
 81年9月13日 ガブリエル様現象

愛は、与えなければならない時は、その人が愛を受くるに相応しい時、
その人が奪うように愛を貪るのではなく、愛を自分に生かそうとする時です。
 又、愛を受ける者は、必死に自分を成長させようとしますし、相手にも返そうとするでしょう。
 そんな事を言うのです。

 こういう例は如何でしょう。
 よく子供の中でもあれが欲しい、これが欲しいと駄々をこねる子が沢山います。
 何故その子供は駄々をこねるのか。何故執拗に欲しがるのか。
 もし、母親と父親の愛情がふんだんに注がれている子供ならば、適切に注がれている子供ならば、
決してそうは言わないでしょう。
 あまり物を欲しがる子供にはなりません。
 何故そのように物を欲しがる子供になるのか。
 駄々をこねるようになるのか。我儘を言うようになるのか。

 気持ちの中に満たされないものがあるからです。
 何故その子供は満たされるものが無いのか。
 これは大人の場合でも、子供の場合でも同じです。
 何故自分は満たされないか。
 何故彼は満たされないのか。

 何故彼女は不安でいるのか。

 どういう気持ちから来るか解りますか。
 それは自分が人から認められていないのではないかという心、
愛されていないのではないかという心から来るのです。
 たとえその人が誰かから愛されているとしても、
その人は、愛されていないと思えば、そう思うでしょう。

 何故そのように思うのでしょうか。
 それはここにもあるように、

醜さの無い美しい交流や行為を信じることが出来ないでいるからです。
 それ故に、"安定した支柱無き者には、ザルに水を注ぐが如き"と言うのです。

 幾ら愛を与えても、幾ら気持ちを掛けてやっても、
その人は決してそれに報いることは無いでしょう。
 そして掛ければ掛ける程、もっともっとと欲しがるでしょう。そういうものを言うのです。」

"自己に安定した支柱無き者"は、愛を信じられないでいる人です。
 そして自分を守ろうとする心、

自分を安楽に生かしてくれようとするものだけを求める者をいうのです。
 しかし人間はそうであってはいけません。
 愛を受けたならば、愛を返さなければならないのです。
 物事は絶えず循環しております。
 自然界がそうであるように、私達の気持ちも又、そうでなければならないのです。


第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛
(二) アガペーの愛と慈悲、エロスの愛と慈悲魔

 ④ 慈悲魔
「JI」83年5月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」165頁

「与えるべきでない者に慈悲を注ぐことを"慈悲魔"と言い、
それは左翼学生の過激派がテロ行為によって罪なき人々を死傷させ、
しかもその学生を擁護して無罪判決を勝ち取るようなもの、
悪魔的な行為の者に慈悲や許しを与える弁護士や裁判官が
それによって魔性と化したことを指します。
 それは"優しさ"ではなく、悪に加担する行為であるからです。
 溺愛の余り、非行少年に協力して犯罪を犯させ、その後も改めない息子を
真の犯罪者として成長させ、世間に恥を晒す母親も同じです。」

「希望と愛と光」81年9月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集(初版)」207頁

「慈悲は憐みの心から来るものですが、それは重さや暗い涙を伴うものであってはなりません。
 慈悲魔と呼ばれる執着は人を最も愚かにします。
 奪うのみの愛が不安定な心から来るなら、
無差別の慈悲は優しい心からというよりも弱い心から来るものです。
 心弱さも又、自らに支柱無き故にそうなるのでしょう。
 慈悲を掛け過ぎるのは、貪欲に人の愛情を貪る姿の裏の形に過ぎません。出所は同じなのです。
 あなたは、支柱がありますか。人を信じる事が出来ていますか。」

現象テープ№33 「慈悲について」より
 81年9月13日 ガブリエル様現象

"奪うのみの愛が不安定な心から来るのなならば、
無差別の慈悲は優しい心からというよりは、弱い心から来るのです。"
 ここはどうお考えになりますか。
"心弱さも又、自らの支柱無き故にそうなるのでしょう。"とあります。
 私達は何千年もの人間の歴史の中で、こういった善人を数多く見て来ました。
 何故彼等は慈悲魔と呼ばれ、他人から踏付けにされても、人に慈悲を掛ける事を厭わなかったか。
 何故そうせずにはいられなかったか。
 慈悲を掛けるに値しない者にまで慈悲を掛けてしまう事が、どうして止めれなかったか。
 お解りになるでしょうか。


 どうしても慈悲を掛けずには居られなかった。その人の弱い心を見て、助けざるを得なかった。
 或いは、その人が自分で怠けているから、そういった状況になった時に於てさえ、
助けざるを得なかった。
 それはどういう気持ちを言うのでしょうか。

 苦しみに対して免疫がないのです。
 苦しみに対して耐えることを知らないからです。
 耐えることを厭うが故に、慈悲魔になってしまったのでした。

 確かにかわいそうな人を見た時、どういう原因で、その人がそうなったのであれ、
簡単に慈悲を掛ける方が、本当に簡単です。
 しかし、そうしてはならないのは、どういう意味か。

 相手の成長を願うならば、安易に慈悲を掛けるものではないのです。
 あくまでも、その人が自分で考え、自分で立直り、

自分で生きるようにしなければならないからです。
 慈悲魔が最も愚かと言われるのは、そういう意味からです。
 人を最も愚かにするのは、こういうところから来るのです。」

〖備考。
 相手への真の愛があるなら、成長した人格がどのようなものか知るならば、
成長した心が真の幸福を見出すことを知るならば、相手が困っているから、苦しんでいるからと、
相手が自らを成長させることの出来る機会を奪ってはならないのです。
 相手が喜ぶことをすることが却って、相手から真の幸福を奪っているのかも知れないのです。

 差別だと言って差別されているとされる側を庇えば、差別しているとされる側を責めれば、
どちらの側の者にも相手を思い遣る心が生まれるどころか、互いを憎む心を強めているだけです。
(それが左翼の目的なのでしょう。)
 差別する側とされる人が、差別されているとされる側の人の中に如何なる心を見ているか。
(その認識が誤っているか否かがどうして検証されないのでしょう。)
 差別する側とされる人の心が一方的に醜い心なのでしょうか。
 仮にそのような人間として、彼等の人を見下す己を高しとする心を
どうすれば克己出来るのでしょうか。
(全くそれが語られない、そして語る価値がないように扱うのが左傾マスコミであり
彼等に重宝される御用学者や知識人です。
 商業左翼という無節操なだけの、名前だけのメディアもあります。)

 本当に人の心を成長させたいのなら、成長した心が如何なるものか知るのなら、
差別や無慈悲(その真反対の慈悲魔も)が真の愛の不毛の齎すことを知っていなければならないし、
愛なくば、人に正しい心とは何かを見出し歩むように導くことは出来ません。

 差別される者を庇うだけで、差別する者が何故そのような心になったか、
彼等の思いの正邪を彼等が理解するように語ることはありません。
 その人格を攻撃する憎しみしかありません。
 彼等は自分を愛することしか知らないからです。
 差別されて苦しめられることを許してはならないのは当り前です。
 しかし彼等弱者の自らに向けられた心(自己憐憫)を、
人へと、人を愛する心へと導くことは出来ないのです、差別と騒ぐイデオロジストには。

 彼等は自分達のイデオロギーに心酔し、
その為に生きる自分達を誇りたいが為に、
差別されている人を利用しているだけです。
 自分達こそ弱者の味方であると、自他共に信じ込ませるのです。
 差別を許さぬ平等な(だけの、己より価値ある他者を認めぬ)世界ならば、
(自分達を)差別されることが許されない世界ならば良いのです。
 彼等は立派な人を敬う心はなく、自らを未熟であると謙虚にする真理を、
真理に従う素直な心を持たないからです。
 弱者を精神的に成長させようとするのではない、
自分達(イデオロジスト = 左翼)と同じ、人を蔑み正しい人を引き摺り下ろそうとする
憎しみに生きる者にしたいだけです。

 常に敵を想定しなければならない、差別する側にされた人々は、悪人であり続けねばならない、
攻撃する悪人を求めるが故に、自分達に相容れぬ者を見つければ攻撃しないではいられないのです。
 彼等左翼の心が地獄に縛られている以上、それは変えられないのです。
 彼等に人を善人にする愛など欠片もありません。愛が如何なる心か知り得ないのです。
 神(なる人格)を、真理を理解する善なる心を捨てたからこそ、
理性(善我)に宿ることのない悪魔のイデオロギーを受け入れられたのです。
備考終〗

第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛

 (三) 真の愛の厳しさ
現象テープ№20 「再び愛について」より
 80年4月6日 ミカエル大王様現象
&「天上界メッセージ集・続」86頁

「愛は、限り無く優しいもの、限り無く寛容なもの、そのようなものに定義され、
それを行う母性の象徴のようなものが愛情深いとされています。
 しかし、真実はそうではありません。
 寧ろ、厳しさを伴い、苦痛を伴い、それを行う者は、多大な勇気が必要とされるのです。
 
 あなた方の間に、愛の行為の成功者として知られるイエス・キリストはどうだったでしょうか。
 その一生は、あなた方の間で愛情深い人とされている人のように、裕福で平穏だったでしょうか。
 イエス様は、勇気を持って語られた故に迫害されました。
 いつの世でも、勇気を持って愛を行う者は、周りの人々に不安を与える為、
それは何故かと言うと、今現在のあなた方の生活を脅かすからです。

 何故ならば、ぬるま湯に浸かり、偽りのものが横行し、偽りの奇蹟や、
偽りの神が横行する世の中では、 常に真実の者は迫害を受けるからです。
 
 慈悲は、誰にも太陽のように与えられるべきものとされていますが、愛はそうではありません。
 受けるべき存在が決まっているのです。
 愛を受けるに相応しい人、それのみが愛を受ける資格があるのです。
 反感を持つ人があるかもしれません。
 ですが、愛を受ける資格の無い者に、何故それに対し、反感を持つことが出来ましょうか。
 それを身勝手と言うのです。」

「愛の定義は、様々なものであってはなりません。一つのものに他ならないのです。
 それは誠実と勇気を伴います。
 又、その愛の形にも、理解というものが加わらなければなりません。
 理解を伴わない愛は、誰に向けても撥ね付けられるものでしかありません。
 ブッタ様が『人を見て法を説け』と言われたのもここにあります。
 如何に愛が深かろう人でもその相手に対する理解が無ければ
それは何の役にも立たないことを知っておいて下さい。


第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛

 (四) 神の愛は父性愛である
「慈悲と愛」80年2月号17頁初出 「アガペーの愛について」千乃先生法話より
&「続エルバーラム」82頁
&「天上界メッセージ集・続」206頁

「アガペーは利他的感情の神髄であって、
イエス・キリストの自らを燔祭の生贄となす十字架上の死に象徴される、
"自己犠牲の愛"即ち"愛を与えること"に集約されます。
 哲学者も語り続けるように、人間は"愛を与える"というアガペーの思いや意志、
行動を止めた瞬間にその関心は自己愛に向い、他に求め奪う愛、エロスの愛、
即ち自己の存在を確かめる為だけに表現される本能的な愛に堕してしまうのです。

 特にフィリアという友愛、隣人愛は最もこのエロスとアガペーの間を
絶えず揺れ動くものとなり易いものです。

 昨年の暮近く、正法者の一人がシェル・シルヴァスタインという児童文学作家の手による
『おおきな木』という和訳の本を送って下さいました。
 それは世界各国で本人が予想もしない反響を呼んだ話題作で、
一本の大きなリンゴの木が、一人の男の子の成長と共に、自らを与えて変化していく、
母性愛の象徴の如き物語です。
 その木を何時も訪れ続けた男の子は少年になり、青年になり、成人し、恋をし、家族を持ち、
中年になり、裕福になって世界を旅し、そして人生の終わりにすべてを失い、
疲れ果てた老人として帰ってきた時、
身を供してすべてを求めるままに、喜びと共にその男の子に与えたリンゴの木には、
最早切り株しか残されておらず、
老人は最後の要求としてその切り株に昔を夢見て座り、休みたいと述べ、
リンゴの切り株は老人と共に居て幸せであったという筋でした。

 見方によれば、只奪い、利用し続けた苛酷な人間のエゴイズムと、それを許し、されるがままに、
しかも利用されることを喜びとしている自然界の象徴であるとも取れる物語なのです。
 作者が驚いた世界の反響は、淡々と人間と植物とのドライな物語を描いたのに反して、
読者が今の世界不安に求め続ける一種の愛の形 ー
母の愛の象徴と錯誤した、それにあるのかも知れません。
 世界中がそのような愛を理想視しているのでしょう。

 なるほど"与える愛"はその与える行為に於て充足感があり、
アガペーの愛であればある程、与える側の精神の昇華と受ける側の感動が惹き起こされます。
 ここでしかし混同してはならないのは、
"与える愛"は良き師の如く育てる愛でなければならない点です。
 無限に与える母の愛はアガペーの本質ではないのです。

 イエス様が"一粒の麦落ちて死なずば"と言われたのはそこにあります。


 シルヴァスタインの描いたリンゴの木は男の子に精神的な遺産を与えた訳では決してないのです。
 側に居てくれることを喜び、絶えず何かしてやれることはないかと問うていました。
 そこに世界が共鳴した母親像が現れているのかも知れません。
 
 しかし、そう問い、与え続けたのは男の来訪を期待し、
来訪によって自ら与えるものを有していることを確認し、
自己の存在を確かめて喜ぶエロスの愛
なのです。
 与える喜びに溺れる愛であり、男が如何に非情な要求を出そうとも意に介さない、
マゾヒズムの表現なのです。
 そして男も奪うだけの行為、自己愛しか学ばなかった。


 イエス様の十字架により象徴される愛の教えは、マゾヒズムの表現を持ちながら、
マゾヒズムであってはならないものです。
 何故ならば、イエス様の教えの目的とする所は平和であり、
隣人愛を通して互いの幸福と繁栄を目指すものであったからです。
 まさにその真理に基づいて、同じく世界の平和共存の為には愛を与え合わねばならないのです。
 アガペーの愛であって、エロスの愛ではないものを。
 互いを奪い合うものではなく、互いを正しく育てる愛です。
 この行為の価値とその成果を人類は学ばねばなりません。
 人間社会に於いて、自然界と人間との関係に於いて。
 もし人類が真に地球上での存続を望むのであるとすれば、
人間社会のみでなく、公害、自然破壊、生物の絶滅に関して取るべき責任と果たすべき義務は、
人間にのみ残されている課題なのです。

 イエス様は厳しく人々の過ちを正され、父性愛を与えた方でした。
 アガペーは母親の愛ではなく、父親の愛の表現であったのです。
 師として人々を導き、病人には"立ちて歩め"と自らの意志を強くする言葉と、
魂に自由を与える言葉を掛けられました。
 宗教やイデオロギーが自らの益の為に、或いは自己の存在の再確認の為にのみ、
母親の如く人々の魂を束縛する
ならば、目を開けて、意志強く歩み出さねばなりません。
 神は父親の愛を以てそう命ぜられているのです。


 そして、余りにも多くの非道な歴史を残したキリスト教は、
人類を堕落させ、精神を高め得なかった仏教と共に、
且つ大虐殺を副産物とした共産主義思想その他のイデオロギーと共に神の前にその罪を償い、
世界の前に実に大いなる徳を積まねば天の許しはないのです。」

「慈悲と愛」81年4月号初出 ガブリエル様メッセージより
「東京の集いで、講師に対し、重要な反問が出ました。
それは"アガペーの愛 ー 自己犠牲"について、
師として育てる理性的な愛、即ち父性愛であると、千乃様が正法講座で論証されていることが、
無償の愛や自己犠牲ならば母親にもある()のだから、
父性愛に限定するのはおかしいではないか、というものでした。」

注。
 子を、親への依存から自立してこそ得る精神の自由へと、自己確立へと導くのが父性愛です。
 何時までも子を自己の一部として愛する、自らの支配下にあるべきものと見る母性愛は、
子の精神の自立を阻み、魂を束縛する盲目の愛です。

 母性愛とは、
愛を受ける人にとって真に有益となる、自立させることを目的とするもの(父性愛)ではなく、
自らへの愛と同質のものであり、自己犠牲的な子への愛も、
自分の子故に注がれ得るものに過ぎません。
 自己の一部として愛するのですから、自分から独立することを望むことが出来ない、
自己愛に根差した(執着心に結び付く)感情です。
 母性愛の本質であって、母親はすべて盲目の母性愛しか持たないということではありません。

 母性愛は本能であり、神の愛、父性愛は理性です。
 理性は本能を従わせるものです、
理性の内にあって生かされる本能が真に人を生かすのです。
 理性とは健全な本能の働きを通して成長した心に宿る知恵です。

母性愛は、本能(種の保存)から来る肉体の生命を助けようとするもの、
種を残そうと、子を生かそうとする(自己愛から延長された愛です)

のは愛の本質ですが、本能に留まるものです。
 母性愛は本能に生かされるに過ぎず、
自らの犠牲を顧みることのない神の愛を自覚し、愛に生きんとする
(精神の昇華によって齎される)真の愛ではありません。
 健全な精神の礎を築く健全な肉体を育てる働きに留まる愛です。

 父性愛は、理性によって齎される調和・人間社会に適する知恵を育てるもの、
真の人格である理性・神の心へと導くものです。

 人間が成長する過程で注がれるべき愛は、
母性愛に始まり父性愛に導かれて、独立した人格に育つのです。
 子の成長に伴い、真に必要とする愛を理解し、与えることに努めることは、
母親にとり、また父親にとり、変わることはないのです。
注終)

「それには集いの中の誰一人、判っている筈の主宰、講師も含めて
正しい説明と解答を与えた人は居なかったのです。
 これは現宗教と私達天の法との違いを指摘する大変重要な論点なのです。
 あれほど明らかに盲目的な母親の愛は、与えるのみで教える所少なく、
愛する相手を駄目にしてしまう。
 そのような自己犠牲は慈悲魔であり、

価値に於いて、父性愛の師として厳しく、
理性を重んずる自己犠牲の愛に準ずるものである。
 "アガペーは父親の如くでなければならない"
とはっきり書かれてあるのに、
それを理解しなかった東京の集い自体が、何らかの偏見や、独善や、偽善を抱いて、
千乃様の書かれたものだから、と深く研究しなかった結果に相違ないのです。」

第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛

 (五) 愛についてのイエス様のメッセージ
現象テープ№17 「イエス様クリスマス・メッセージ」より
 79年12月23日 イエス様現象
&「エルバーラム」16頁

「愛とはどのようなものであるか。
 愛はあなた方の中においてどのような位置を占めるか。
 又あなた方の間で愛ほど使い古され、色々な意味合いを持ってしまった言葉はないと思います。
 愛は一つの意味しか持ちません。愛は二つの意味を持つことは出来ません。
 又愛と憎しみを一緒にすることは出来ません。妥協とも住むことは出来ない。
 愛とは如何なるものであるか。
 それは真理に他なりません。

 愛とはどのようなものであるか、答えることが出来る人がいるでしょうか。
 又それを身を以て具現していると誇ることが出来る人がいるでしょうか。
 あなた方の周りを見廻しなさい。
 僧侶、牧師、神父、あなた方が触れることが出来る人によって、
愛を具現していると己を誇っている人があるならば、それは愛を知らない人だからです。
 あなた方に言います。
 あなた方の中で一番力を持っているものは何であろうか。
 愛であろうか、善であろうか、それとも神への忠誠か、それとも真理か。
 そのようなものでは決して無い筈です。
 この世を見てみなさい。あなた方の中で力を持っているのは金銭ではありませんか。

 こう言えば厳しくなりますが、
現実の世の中では金銭があなた方の中で一番力を持っているのです。
 そして天上界の愛する愛は、最もあなた方の中で力弱い。
 口では、綺麗事では、幾らでも愛を愛をと言うことは出来ます。
 それはあなた方も一番よく知ることだと思います。

 愛とはどのようなものであるか。
 あなた方が身が、裕福であって心が平静な時は愛を叫ぶことは易しい。
 また他人に愛を施すことも易しい。
 なぜならば、それは自分に余裕があるからである。
 しかしその愛は金銭と同じである。これが解りますか。

 本当の愛はそのようなものではありません。
 自分の身が最も貧しい時、最もどん底に落とされた時にこそ発揮されるものが愛なのです。
 その時にこそ他人に与えられる優しさ、寛容、正義、その他あらゆる正しいものが愛なのです。
 あなた方が身が貧しく、そして身寄りも無く、何も無く本当に何も持たない時、
他人に示されるものが愛なのです。

 愛は深く厳しい。そして愛は驕ることを知りません。そして飽きることを知りません。
 これは自由も同じです。
 そして正法を知った幸せもそのようであった筈です。

 正法を知った幸せは決して驕ることがありません。また飽きることもありません。
 けれど一般に言われている幸せについてはどうでしょうか。
 例えば、金銭によって齎された幸せ、他人からの崇拝によって齎された幸せ、
そのようなものに永遠の喜びがあるでしょうか。
 金銭は儚く、人の崇拝もまた短い。
 しかしあなた方の魂の中にあって、永遠の愛の喜びは尽きることがないのです。
 それは体験した人にしか分かりません。
 愛は深く厳しい。このことをあなた方はよく心に置いて下さい。」

現象テープ№29 「イエス様クリスマス・メッセージ『愛と信仰』」より
 80年12月21日 イエス様現象
&「エルバーラム」27頁

「真の愛とは、あなた方の身が裕福である時に与える愛ではなく、
あなた方の身に何もない時に人に与えられる愛、人に与えられる思い遣り、
そのようなものが愛であると申し上げました。
 では、そのような愛とは如何なる行動を伴うものでしょうか。

 愛は犠牲を厭いません。
 又その犠牲の結果が何であろうとも、愛は恨むことをしません。妬むことをしません。
 悔やむことをしません。焦ることもないのです。
 あなた方の身が貧しい時に、

あなた方が人に与えた愛が撥ね付けられたり、又は逆恨みされたりした時に、
その時にあなた方の心の中に起こった葛藤、私達はそれを深く悲しみます。
 愛はどのような犠牲でも厭わないのです。
 この意味で、愛はすべてを超え得ると言うことが出来るのです。
 愛は何ものをも超えることが出来ます。


 私一人が声を大きくしてこのようなことを申し上げても、
あなた方自身の人生の中で見つけることが出来なければ、それは無にも等しいのです。
 私達が如何に力を持ち、奇蹟を起こし、天変地異を起こそうとも、
そして如何なる人の上に奇蹟を起こそうとも、それは無に等しいのです。
 私達が如何に語ろうとも、あなた一人の身に奇蹟が起こらなければ、
あなたが愛を知ることがなければ、何の価値があるでしょうか。
 天上界とはそういう所なのです。


 神の愛とは如何なるものでしょうか。
 神の愛を知れ、神への愛を通せ、神を愛しなさいと私達は言います。
 神を愛するということはどういうことでしょうか。お解りになりますか。
 それは神を見なくても信じるということなのです。

 見なくても信ずる。何を基に信じるか。一人一人で心の中を探ってみなさい。
 尽きることのない神への愛とはどのようなものを言うのか。
 神を見ることなく信じることである、と申し上げました。それはどのようなことを言うのか。
 例えば、あなた方の身の内に艱難、苦難が訪れるとしましょう。
 それでもあなた方が神を見失わず神を信じる時に、神への愛を見つけたと言うのです。


 天上界は、信仰の代わりに決してあなた方に安らぎや幸運を容易く与えはしないでしょう。
 私達が天上界への信仰を基にしてあなた方に与えるものは、艱難と苦難だけなのです。
 しかしそれであるが故に、艱難と苦難はあなた方の内に強さを生み出すでしょう。
 その強さこそが真の勇気を生み出し得るのです。真の勇気とは信仰から生まれるものなのです。
 神への信仰とは神を見ずに信じること。
 あなた方自身の心の内でそれを見つけなさい。


「私達が如何に声を大きくして神の愛を叫ぼうとも、
あなた方自身の心の中に神の愛を見出すことが出来なければ、それは無にも等しいのです。
 私達はあなた方に服従を強いる者ではありません。
 あなた方の心の内に起こる隣人への愛に賭けているのです。


いざという時に艱難、苦難がやって来て、
その時に私達の言葉を忘れるようでは何にもなりません。
そのことをよく覚えておいて下さい。


現象テープ№35 「クリスマス・メッセージ」より
 81年12月20日 イエス様現象
&「エルバーラム」48頁

「私達は血を吐くような思いで、あなた方に理解してほしい、悟ってほしいと思っています()。
 何も天上界の為ではありません。あなた方の為なのです。
 一人一人の心を見てみました。何と汚れ多いことでしょうか。
 正法者といっても一般の人とも少しも変わらないのです。
 正法者だからといって一般の人よりも心が美しいことがあるでしょうか。
 
 人格が美しくなりたい、と思う人は多いでしょう。
 私達はあなた方にメッセージしなかったでしょうか。
 心が美しくなりたい、立派な人格になりたいと思って正法に集まって来る者はどういう者か、
言わなかったでしょうか。
 金持ちになりたい、名誉を得たいということと同じではありませんか。
 あなた方は余りにも考えない、考えないで行き過ぎているのです。」

「天上界の権威というのはどのようなものをいうのかお教えしましょう。
 それによってあなた方の置かれている位置が分かるだろうからです。
 天上界とは何故権威を持つに至ったのか。何故天上界は素晴らしいのか。
 神であるからか。違います。
 私達も曾てはあなた方と同じ人間であったのです。あなた方と同じ人間でありました。
 これがどういうことを意味するか分かりますか。
 あなた方が考えても考えても分からぬように、私達も考えなければ分からなかったのです。
 考えなければ何も分からない。


 私達は一つ一ついろいろ欠点を持っていました。人間であるが故に当たり前です。
 生きているが故に様々なカルマも持っていました。
 ですが長い年月の中に少しずつ考えてゆき、修正していったのです。
 その末に出来上がったのが今の神なのです。私達もあなた方と同じだったのです。
 それ故に天上界は権威あるものと言えるのです。解りますか。
 だからといって天上界をあなた方の次元にまで引き下げることはなりません。
 このことが分からない者は私達が説く愛も義も分からないでしょう。
 天上界を神と崇める者に天上界の説く愛も義も分からないでしょう。
 何故ならば、私達があなた方と違うならば
私達の愛や義があなた方と同じものであろう筈がないからです。
 そうではありませんか。

 あなた方が冷たく思われるのは何故か解りますか。
 あなた方の中に他を軽んじる気持ちがあるからです。各々何を軽んじているかは違うでしょう。
 あなた方は自分の心の中に少しでも自尊心が残ってはいませんか。
 いい意味の自尊心ではなく、悪い自尊心です。
 他に比べて己を高しとしていませんか。
 そのような顔ばかりです。」

「もう時間がない時間がないというのは世界のことを意味するのではありません。
 あなた方の心をも意味するのです。
 あなた方の心が救われなければ何故世界が救われるでしょう。
 人一人救えなくて何が正法でしょう。

 あなた方が目覚めなくて何の正法の価値がありますか。

 各々考えることはあるでしょう。まだ気付かぬ者もおるようです。
 ですが今、何も言いますまい。人それぞれに時があるからです。
 あなた方に言っておきますが、これだけはしてはいけません。
 決して他を軽んじてはいけないのです。他を軽んじるところからあなた方の堕落が始まります。
 これも何故か考えてみてごらんなさい。

注。
 イエス様は頑な私達の心を知って
"私達は血を吐く思いであなた方に悟ってほしいと、あなた方に伝えたいと思っている"と、
その思いの限りを明らかにされました。
 見ても見ず、聞いても聞かない、心に響くことのない、
神を、真理を顧みようとしない人に対して、
イエス様のような熱意を私達は失わずに抱いていられるでしょうか。
 天上界の方達とて同じではないでしょうか。
 何故天上界の方達は何時迄経っても悟ることなき私達に対して、
そのような思いを抱くことが出来たのでしょう。

 彼等は私達を信じていたからそのような思いを持てたのです。
 私達を信じていなかったらそのような思いを持てる筈がないのです。
 自分を救うことが出来るのは、私達自身の持つ神の心だけであると教えられました。
 自らを救えない心が、神の心の訳がないのです。
 自らを救えなくてどうして人が救えるのか、
そのような自分に留まっていてないけない、成長へと導いて来られたのが、
父性愛と言われた神の愛の姿なのです。

 自らを救おうとする心なくして、天は助けられない。
 神の心を持たぬ者に、天の思いは伝わらない。
"私達は(あなた達の神の心を信じ、)あなた達の隣人愛に掛けている"
とイエス様は仰しゃいました。
"人類が生き残っている限り(真の幸福へと導く)神の法、正法を伝えねばなりません"
とガブリエル様は仰しゃいました。
 天上界はこの世を救う可能性がある限り、人類を信頼し得る限り、
ユートピアを築くまで人類を導かれるでしょう。
(故に正法を伝えてこられました)
 彼等の愛が伝わらなくなった時、
この世が真の愛を理解出来なくなった時、
天上界はユートピアを築く為に他の星へ向かうであろうことを告げられました。

 彼等の心が私達に解らなくとも、
神の道を導かれ、従った魂を彼等は知る故に、
彼等を見出した人々の心を、私達の内に信じられたのです。
 彼等の信じる心が神の愛でした。
 彼等の信義によって、人は神の心に導かれて行ったのです。

(彼等の信義に応えられない、感じることなき心が己自身であったなら、
そのような心こそ救わねばならぬのに、
神の救いに背いているのが自分自身の心であることが解らない。
 自分の心を知らないから、救いに与ることの出来ぬ己自身を悟れないのでしょう。
(滅びようとしているのは)己自身(であること)を知れ、
何故自らを救おうとしないのか、
すべてが滅びようとしている人々への救いの呼び掛けでした。
 血を吐くような思いで語り掛けてきた言葉も人の心に響かなくなってしまったと
イエス様は仰しゃいました。
「あなた方文明人には一体、どのような教えが相応しいのか、私達は時折判らなくなります。」と
ラファエル様は仰しゃいました。
注終)

〖備考
 罪を犯せば法に則り罰せられるのは当然ですが、
その罰が罪の重さに対して妥当である為に、
司法に判断が委ねられています。
 的確な判断が求められるからであり、
社会を、人を守る為には罪を罪と認める、悪を悪と認める理性を失ってはならないのであり、
感情に理性を失う者による偏った判断が為されてはならないのです。
 何ゆえ人が法を大切とするかは、裁かれたくない、自分を守る為だけではありません。
 人を、人の心の救われることを願う、
人の心から理性を、愛を失わせてはならないとの思いからなのです。

 ある体操のオリンピック代表選手が未成年で飲酒、喫煙を行っていたことが発覚し、
代表辞退へと体操協会によって追い込まれたようですが、
罰しさえすればよい、協会が世間から(身内の罪を隠蔽していると)叩かれるのを恐れての、
自分達が法を蔑ろにする者と思われたくない、責任をすべて背負うスケープゴートを他に求める、
自己保存しか見出せぬものでした。

 例えば人に危害を加えるような犯罪を防ぐために通報するのを密告とは言いません。
 人を救おうとの思いの表れだからです。
 明らかに人の罰されることを望む、人への嫉妬心に駆られての、
人を破滅へ追い込もうとしていることが理解されていながらその密告を受け入れる、
そのような心に人を思い遣る心があろう筈がないのです。
 密告者がバレないようにさえすれば、密告者も安心していられる位に彼等は考えたのでしょうか。
 人が不幸になるのを見て初めて自分の為した悪を自覚し、良心の呵責に耐えられなくなる、
人間の良心というものについて彼等は考えたことがあるのでしょうか。

 共産主義国家は、権力者を批判する者の密告を奨励します。
 密告されるのではないかと人を疑心暗鬼にする、
密告されるに違いないとの強迫観念に怯える、人が信じられない心へと病んでゆく、
自分を救う為に密告される前に疑わしき者を密告する、人を破滅させる。
 悪魔はこのような地獄を作ろうとして作ったのです。
 このような世界にあって善なる心を自らの内に見出すことが出来るものでしょうか、
まして善なる心を失わずに生きて行けるものでしょうか。

 天上界の愛とは、"あなた方の隣人への愛に賭けているのです"とイエス様が言われたように、
信じる心を通してでなければ愛は伝わらない、信じる心から愛は生まれるものと教えられたのです。

 密告が如何なる心から生まれるか、人をどこへ導くものか、
神の心とは決して相容れないことがお解りになると思います。

 人類の犯した密告の最も忌まわしきものは、
イエス様を処刑しようとしているパリサイ人にイエス様を売り渡したユダであろうと思いますが、
そのユダは自分の為した悪の恐ろしさに気付いて、受け取った賞金を返して、
過ちを許してもらおうとしましたが、パリサイ人から相手にされず、
自分の犯した罪に絶望して自殺しました。
 ユダの精神は、魂は今も無間地獄に彷徨っているとモーセ様は「天国の扉」で証されました。

 罪の重さを悟ることが出来る者は罪を犯しません。判らないから犯すのです。
 罰するのは諭して聞き入れないと解ってからでも遅くはありません。
 邪心から悪を求め、悪を為す者は法によって罰するべきですが、
正しい道を見出せず彷徨っている者は、救いに導くのが神の御意志です。


「あなた方を含め、全人類をモーセ様出エジプト以来、イエス様ご誕生の時より更に、
どれだけ私達天があなた方に愛の手を差し伸べ、救いの言葉を掛け、
あなた方迷える人類の虚ろな心に悲しみの涙を流したことか。

 そして何時までも成長することなく、
同じことの繰り返ししか出来ない神の子は堕落の天使と同じ、
突き放さねば、己の姿さえ見出すことはないと私達も漸く悟ったのです。
 だからと言って、悪魔に魂を渡せと言うのではありません。
 父である天を喜ばせる神の子として相応しい人格に成長してほしい。
(ミカエル大王様)」

何が正しいか判らず、何が間違っているか判らず、何が悪いか判らず、迷っている人は、
天変地異に遭っている人と同じではありませんか。

 ならばその人達に少しでも救いを、正しいことを教えてあげよう。
 そうは思いませんか。(イエス様)」

 これが神の愛です。神の愛に背く法は、悪魔によって齎されたものです。
 人の心を悪魔に導くものです。
 道を踏み外した者に罠を仕掛けることを神は嘉されません。
 檻から彷徨い出た幼い小虎を撃ち殺して喜ぶような人間は
闇の世界に住むものであると天上界は教えられました。


自分が過ちを犯したことがない事柄で、人が過ちを犯した場合、
信じ難い、救い難い者、厳罰によってしか思い知らせることの出来ぬ者と
裁こうとします。

 姦淫を犯した者は石打ち(死刑)と律法に定めている、
もし石打ちを、モーセの律法を認めない時こそ、
イエスを神に背く悪魔として捕えるチャンスであると、
姦淫した女【姦淫を犯すことを事前に知っていた
(密告されたか、パリサイ人に雇われた者が女を誘惑したか)のです】を捕え、
(パリサイ人を偽善者と罵り、人を裁くなと言う)イエスを試みようと、
姦淫を犯したことのないパリサイ人達がイエス様の許にこの女を連れてきます。
 イエス様は人々に向かって、神に対して罪(姦淫だけではない!)
を犯したことのない者が、この女を石で打てと言われた。
 誰一人この女を石で打つ者はいなかった。
 皆、自分の犯してきた罪を忘れて、人を裁こうとしたことを恥じて
立ち去っていったことが聖書に書かれています。

「現代訳 論語(子路第十三の一八)」下村湖人訳
 葉公(しょうこう)が得意らしく孔子に話した。 ー
「私の地方に、感心な正直者がおりまして、
その男の父が、どこからか羊が迷いこんで来たのを、
そのまま自分のものにしていましたところ、
かくさずそのあかしを立てたのでございます。」
 すると、孔子がいわれた。 ー
「私の地方の正直者は、それとは全く趣がちがっております。
 父は子のためにその罪をかくしてやりますし、
子は父のためにその罪をかくしてやるのでございます。
 私は、そういうところにこそ、
人間のほんとうの正直さというものがあるのではないかと存じます。
(注。自分を信じる者に応えようとする心が、
人を大切にする心を、そのような心の生きる社会を育てることが出来るでしょう。
 自分を信じる者を裏切るような、愛の欠片もない者の言う正義など、
人を裁かんとする冷酷を隠す(自らをも騙す)偽善以外の何ものでもないのです。)

 罪を犯したのは、自分の教え子でしょう。 
 世間に晒して、夢を破壊することで罪の重さを教えるのが教育とでも考えるのでしょうか。
 天が厳しく導くのは愛があるからです。
 人を悪から守る為には、
悪に屈しぬ善に徹する心を育てる、苦難を乗り越える心を養う為には、
神の愛が注がれなければならないからであり、その愛と共に齎される苦難だけが、
悪魔の齎す苦難に挫けぬ、愛を信じる心を育てるからでしょう。

 厳しく裁くことが愛ではない。
 裁かれるべきは、愛を拒む心、愛を踏み躙る心でしょう。
 愛を与えることの出来なかった者に、
愛を与えられなかった者を裁く資格があるとでも思っているのでしょうか。
 自らの罪を裁くことの出来ぬ者が、子供に罪を背負わせ裁く、
これほどの冷酷に孔子なら何と語ったことでしょう。
 己が立場を守らんが為に、自らを善で装うなど、
永遠の生命を守る為に、神の心を、愛を捨て、
神を裏切った善霊以上の冷酷な心ではないですか。

〖そもそも、未成年の飲酒や喫煙を法で禁止するのは、
その人の心身の健康を考えてのことではありませんか。
 その法を破ったら、不幸のどん底に落ちようが自業自得という者は、
人の心が善に生きる為の指針として神が与えたものが法であるとは
考えられないのでしょう。
 反省を促す、本人が改めれさえすれば許される罰もあるではありませんか。
 精神の未熟な人々からの危害によろうと、自らの未熟故の世間の風当たりによろうと、
苦しんでいる、良き導きにあえばまだ成長のチャンスのある子供達を
助けられる立場にあるのが教育者ではないのですか。

 あくまでも法に則り厳しく裁く、
九十九人がそれで道を誤らなければ、その為に一人が救えなくとも、
この世の法の認める正義しか理解出来ぬ裁判官は正しく法を行ったと、
自らの判断に思慮の足りない所はなかったか顧みたりなどしないでしょうが、
教育者はそうであってはならないのです。
 法を犯した者を正しく裁きさえすれば法律家はそれでよいかも知れないが、
法を犯さない心へと育てることが教育者なのではないですか。
 救われなかった一人の心が、罪を犯さないで来た九十九人の心には存在しないと
どうして言えるのですか。

 その指導で九十九人が罪を犯さなかったのなら、
善への愛を見出したからということいはならないのです。
 その指導で救えなかった一人に、裁きで以て人を変えさせようと強要し、
その為に心が損なわれるなら、そのようなやり方で道を誤らなかった九十九人も、
真に善なる心を養えたとは言えないのです。
 真の救いには繋がらないのです。
 罪を犯す心に何が必要であるのか正しく判断しなければならないのです。
 間違いから自らを苦しめるなら諭し教え導くべきであり、
その為に誰かが苦しめられているなら、その痛みを解らせなければ、
その痛みを知る心にしなければ、自らを救えないのだから、
法は人を守るためにあることを知らしめねばならないでしょう。

 正しい道を説きながら自らはその道を歩もうとしない者を偽善者といいます。
 正しい道を歩もうとしないのは、悪の憎しみも善の愛も持たぬからです。
 善の愛がない者に人を正しい道に導ける訳がありません。
 そのような者に人を導く資格はないのです。

(愛は自己愛の昇華によって齎されるもの、
自分の問題と自己愛が捉えたところから愛が始まると天上界は教えられました。
 自分がそうされたら苦しい、そのようなことをする人間であってはならないと、
自分の問題として考える(人を理解しようとするとはそういうことでしょう)、
そして自分を律する時、愛へと昇華されるでしょう。
 他への愛、向上した精神に宿る高等感情も、
自分への愛が正しく育ってないと昇華していきません。
 どういう人間でありたいとの思いさえ、
それは生まれ育った環境、幼児が両親から愛情を注がれることによって、
愛情豊かな人格を自らのあるべき心の姿を映す鏡として育つのですから)

 法に生きることで善なる心が養われるのだから、法が人を救う道なのだから、
法を見失っている者は道を見失っているのだから、
心の盲いた者を目覚めさせるのは、正しい道を生きる苦難に負けぬ
善への意志に目覚める以外にないのです。

 自分に注がれてきた愛情に養われた心とは、
そのような愛情を人に注ぐ心以外になり得ないのです。
 天上界は一匹の迷える子羊を見捨てないと言われた真意は、
愛を見失った(故に罪に苦しむ)者に、神の愛を求める者に、
注がれぬような神の愛ではないということでしょう。

 神の人類を救う為に教え、導いてこられた思いを忘れるような心に、
人を裁こうとする高慢な心に、
苦しんでいる者を助けたい、真の優しさを心に保つことも、
神の法によって人類を救おうとされる神の思いを自らに見出すこともない。
 己の心を知らしめる神の法を知り、神の法に生きることでしか、
自らの神の心に立ち返ることは出来ないのです。

 神が許される者を許すことが出来ない者は、寛容な心を失っているのです。
 その昔、病に苦しんでいる者を癒したイエス様は、
安息日の掟を破っていると批判したパリサイ人に、
安息日にあなたの家畜が井戸に落ちたら助けようとするではないか、
あなたの愛するものが助けを求めて苦しんでいたら、
あなたは助けないではいられないではないか、
苦しんでいる者を救おうとしないのは、
あなたに愛がないからだとどうして思わないのかと諭された神の思いを、
今もって理解出来ないでいる証拠ではないでしょうか。

 悪へと下る一方の道に差し掛かる、
そこで留まることが出来なかった者を坂道を転げ落ちるなどと例えますが、
それは悪の条件反射が留まることなく強化されて行くからです。
 間違った道に踏み入れた所を取り押さえた、罪を犯したから償えと攻め立てれば
(そのようなパリサイ人への反感から)、
素直に反省する心を奪っているのが判らないのでしょうか。
 愛を知らぬ者が人を正せる、従わせることが出来ると考える、
そのような心からは悪(の想念)しか伝わりません。

 いじめで人を自殺に追いやるほどの、人の心を踏み躙る、
根性の捻じれた者が寄ってたかって集団で、仲間(組織)から追いやる、
人の生きる空間を奪い取って、自殺に追いやるようないじめを行った者を、
善なる心を悟るまで己の悪に向き合うことなく、自己愛から一歩も成長しないような者を、
刑期を過ぎれば釈放する、そのような法が許されてよい訳がないのです。
 如何に善を、善を愛する心を守るか、その為に法があるのであり、
真に法を大切にする心があるなら、悪を容認する法は誤りである、
そのような法は神から齎されたものではない、悪魔に繫がる心の齎したものと見抜けないような、
また善を求める心が神の齎された善を悟れないような無知であってはならないのです。

 ソクラテスが悪法も法だと言われたのは、
法に定められた悪は、法によって改められねばならないということだと思います。
 善に生きる心は、法を神の智慧に、神の御意志の下に在らしめることを求めるものであって、
悪だからと法を無視したり、悪の力に法を支配させてはならないのです。
 道標が間違っていれば、人は道を誤ります。
 正しい指針が明らかにされる時、今まで与えられてきた指針の間違いが理解されるでしょう。
 そこに込められた悪意から悪魔の存在を悟ることでしょう。
 そして真の知恵を齎された神の存在を悟られることでしょう。
 神の法は天への道の指針です。
 天の道を行く者に神の慈愛は注がれる、善を愛する神の心へと育てられるのです。備考終〗

第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
三節 愛

 (六) 神への愛
「マタイによる福音書」第25章40節 イエス様の法話より
私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、即ち私にしたのである。
(注。
 善を為す人を通して神の御意志を明らかにされるのであり、
善なる心故に迫害される魂を天国に導くことを約束されました。
 神の心に生きる者の心が天上界の心と同質であるから伝わると、
天上界の思いも人々の善なる心に必ず伝わると語られました。
「慈悲と愛」79年7月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」54頁

「相手を敬う心を持つ事は、徳ある人となる為の初歩の心得であり、
その気持ちが無ければ互いを高め合うことなど出来ないのです。
 もし自分がなべて人を軽んじて呼ぶ資格があると思う人は、それだけで傲慢な心を持つのであり、
対する人の謙虚な言葉遣いや態度が、自分より弱者であるからなどと思う人は、
余りにも物事の表面をしか見抜くことが出来ず、
そのような人々を私達の"集い"に参加させているだけでも、天の恥となります。
 GLA内外であろうと、私達の"集い"であろうと、単なる読者であろうと、主宰をなじり、
千乃様を軽んじ、或いは善意を以て馳せ来たった正法者である仲間に、
魂の修行への暖かい思い遣りを持てず、敬意を払えない人は、
私から同じものを受けるであろうことを覚悟して頂かねばなりません。」注終)

「慈悲と愛」80年1月号15頁初出 「質疑応答(千乃先生解答)」
&「続エルバーラム(82年12月初版)」201頁
「〈質問〉(天に背反した)上田氏が"三次元の幸福が伴わなければ正法ではない云々"
とか申したそうでございますが、法と富との相関は昔から問題にされており、
或る太霊の著述の中に
"富はこの宇宙に無限に存在し、我々は任意に取り出している ー
人はある程度の富がなければ生活出来ぬが故に富は必要である ー
富を求める者はそれぞれ某(なにがし)かの富を得るであろうが、必要以上に求むべきではない。
 解り易く言えば、神よりどれだけ借りられるか?
という事であって、多く借りた者は多く返さねばならぬであろう ー "とありましたが。

「〈解答〉その通りです。聖書にも"天に財宝を積め"とありますが、
"天にお返しするのですから"と滝村様はよく仰しゃいます。
 奉仕やボランティアも隣人への愛の手を伸べるというのが物質的にも観念的にも、
目的とする所であって、
それは天からの慈愛を天に返す代わりに人に尽くす。天に代わって人に尽くす。
 又は天と共に世に尽くし、人に尽くすという心から出たものです。
 すべてアガペーの愛から生まれるものです。
 自分の為だけに利害を計りつつ生きるというのは最も拙劣でエゴイストです。
 上田氏はエゴイズムを「集い」の正法者に説いたのでしょう。
 凡そ正法と言われる限りのものに於ては、今は宗教化してしまったものでも、
自分の利害を先に考えよ、とは決して教えませんでした。
 それが尤もだなどと思う人は、どうかしているのです。
 ここにもGLA教義の過ちがあり、訂正されねばなりません。
 詰り正法がそのようなエゴイストを育てるようなものであるならば、
それだけでも他宗教に対して恥ずかしいと思わねばならないものです。
 徳はエゴイズムからは生まれません。

「天国の証(78年8月初版)」65頁 エル・ランティ様メッセージより
「人間として三次元で過ごされているあなた方は益々己の善我を強め、その心を浄化させ、
社会悪、道徳に反する諸悪を憎み、正義とは何か、をもう一度考え、

その基盤に立ってのみの信義と愛を貫き、慈悲を与え、
そして神(天上界)の守りと愛への信仰が互いへの同じ質の信頼感と変わるように
努めて頂きたいのです。


「JI」82年9月号初出 ミカエル大王様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」156頁

「機関誌を通じて約五年に亘るあなた方への呼びかけと説話から、
"神を信じること"と"人を信じること"は、
正しく"人を愛すること"と"神を愛すること"が同質のものであるように、
基本的には同じでなければならないとお解りになったでしょう。」

「JI」84年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」187頁

天への愛を普通の人間愛へ振り向けることこそ神の子として相応しい人格であり、
人間愛も動物や植物への愛も共通のものである
何度もお教えしました。」

「天国の証(78年8月初版)」137頁 イエス様メッセージより
「人を救う為使命を与えられた者は別なのですが、
普通の人はその神に対する敬虔な心を(人に対する)謙譲に、神に対する愛を隣人に
神の国の美しさと正義と平和をこの世にそのまま保ち、
又作るようにお互いに努力してゆくことが、
神への信仰をこの地上に形として表したもの
と言えましょう。
 反対に神に祈りを奉げることや、経を読むことや、礼拝や儀式に一日の何時間かを用いたり、
週の半分を当てたりすることは、少しも日々の暮らしの役に立ちません。」

「新約聖書」マタイによる福音書(第二十二章三十六節~四十節)
「先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」。
イエスは言われた。「『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、主なるあなたの神を愛せよ』
これが一番大切な、第一の戒めである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』
これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

〖備考
 神を真に愛したいのなら、真の愛を持ちたいのなら、その愛を人に向けること。
 そうすればあなたの愛が神の心に値するものであるか否かが、
身を以て知ることが出来るでしょう。備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法