第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
備考 一考察
(一) 欲望と理性について
動物は人間のように、理性を司る前頭葉が未発達にも関らず、
生きるに必要なものを得る迄は欲望が働きますが、
満たされると、理性が働いて欲望が抑止されているが如くに見えます。
本能そのものが欲望を制御しているように見えます。
何故、人間は欲望の歯止めが利かなくなってしまったのでしょうか。
(遺伝子を持つ生物の誕生の時から本能は与えられて来ましたが、
人類が理性・前頭葉から来る思考、判断を持つのは、
最後の進化を終え言葉(語彙)を得た以降ですから、
理性が本能を制御するまでの進化を遂げていないのかも知れません。)
火を起こし、道具を用いるようになり、自然から与えられないものを作り出し、
季節を待たねば自然から得られないということもなく、何時でも欲すれば作り出せるようになると、
自然が与えるまで待つこと、自然に無条件で従うことから、欲望は自由を得ます。
欲望に歯止めが利かなくなりました。
生きる為の必要から求めるのではなく、欲望の求めに従うのです。
欲望の刺激から得た力の奔流と、満たされた時の快感の繰り返しにより条件反射が強化される、
中毒へと病んでゆきます。
自然の与えるものを求める欲望は、生き物が生きる為に自然が与えた本能の働きですが、
人間の作り出したものを、生きる為に必要でなくとも求める欲望は、本能の働きではなく、
意志に伴うものであり、その抑止も意志に於て、理性に於て為されねばなりません。
しかし理性はその力を獲得できない、地球人類は進化を終えていないと天上界は仰しゃいます。
本能には、自律神経の交感神経と副交感神経のように活動と休息は対で
本能に組み込まれているように、生きようとする本能から欲求によって活動することと、
欲求が満たされた、生命のエネルギーが満ちた状態、欲求から解放された休息の状態が
対となって生命の維持のバランスを取る、完成された本能を得ています。
自然の与えるものを得るべく本能により約束された対象(何を食べるべきかも本能の知る所です)
と異なり、知能が齎したものは欲望に従わしめてはならないのです。
自然の法に代る理性によって支配しなければならないものです。
自然の法に生かされてきた、調和という自然の目的に生きることから、
法に従う本能に生きることから、
欲望に従わせることで、欲望の充足が自己愛を満たす、
人生の目的が自己愛に生きることとなったのです。
自分を守る、それは自分が一番価値があると自己愛は考えるのです。
同種のものなら自分と等しく愛する(種を保存しようとする)動物にも劣る、
同種の人間をも見下して自分を優先する自己愛です。
すべての生き物は同じ自己保存から、他の種を殺し食そうとし、
生存に必要な生命力を得れば、必要以上を求めません。それ故に調和は保たれたのです。
しかし、自己愛は他を顧みません。
必要から食するのではなく、食する必要がなくとも自己の存続を妨げると思われれば殺し、
危険を齎すことのない生き物さえも邪魔になれば処分し、
己の力を行使する喜びを味わう為に生き物を殺しさえします。
そのような人類の生き方が、すべての生き物にとって他に選ぶものなき唯一絶対の生きる場である
この地球を破壊していると天上界は警告しています。
自然破壊を理解しても、自然の法を犯してきた罪を認めるだけの自然への愛も、
天の意に生きる人々の思いにも心動かすことなく、この危機に現れた神
(人類の恩人である現天上界)に対してすら畏敬の念を取り戻すことが出来ないでいます。
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
備考 一考察
(二) 善我の指標(判断の基準、規範)について
「慈悲と愛」81年1月号 ラグエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」127頁
「悪霊の狙う善きもの美しきもの、
とは地上に生けるあなた方の心の内にある善や自己犠牲、正義の観念なのです。」
悪い木(観念)には悪い実(概念とその表れとしての行為)しかならないと言われてきました。
"観念"
言葉を知らずとも、概念がなくとも動物は観念を持っています、
心も感情も持っています。
生きてゆく中で、すべての生き物が与えられ、大切に育て、与えてゆく中で、
愛や生命の観念を大切にする心が育ってゆきます。
その心に宿る観念は想念となり意志となり自らをその心に従わせようとします。
本能の導きにただ従っているのではありません。
そのように生きることの意味を知っています。
その思いをすべてと生きています。
そのような心を育てているからです。
(自分の生きる環境には見出せなくとも、映画や小説の世界の中で美しい心に出会う時、
その生き方や境遇を傍観するに過ぎなくとも、
その世界を受け止める(その心を意識する)ことを通して、
その人々の心を自らの内に育てているのです。
実人生では知り得なくとも疑似体験であろうとも
人自らの望む体験(人生)を作り出して行く心を育てることが出来ます。
同じ人間の心を持たれる神々はそのような良き心の世界の存在を伝えてこられたのです。
人は美しい心の交流を通して互いの心に神が働きかけられていることを見出すことが出来ました。
良き観念(徳)を愛する神の心を人は持って生まれてきていることを、
そのような心、隣人への愛に生きる人類に天上界は賭けていることを、
神々と人類は同じ愛を持つが故に信義に繋がることが出来ることを伝えられました。)
動物も生命を脅かされれば恐怖から逃れる、
心を満たした感情がすべての行動を規制する本能に従いながら、
肉体の成長に留まらず精神も成長して行きます。
本能に導かれながら、生きる意志を育てているのです。
動物が種の保存の本能に生きる時、自らの生命を失う恐怖にあっても見失うことのない、
他を生かそうとの思いを自ら育てているのです。
生まれ、生きる己が種の世界を調和へと導く本能によって種は存続してきたのです。
本能の導く正しい生き方を生きることで、
その生き方から齎される思いに真の幸せを知る心を育てることが出来たのです。
調和に生きる心を満たす(種が存続することから、子が生きることから齎される)喜び以外に、
己が死の恐怖にあっても愛を見失わぬ心を育てることの出来る思いはないでしょう。
悪しき観念(憎しみ、不信、悪に惹かれる諸々の心、
人間の本性が悪と信じることで悪に生きることを肯定する思い)
からなる心を育てる概念(洗脳などにより植え込まれた間違った、人を悪へと導く知識) は、
内なる神の心を滅ぼし、悪魔の心へと変えるものです。
悪魔に蒔かれる種の意味するものです。
愛や優しさは無くてはならない大切なものといった理解や知識が無くても、
心に愛が優しさがあれば、その心は愛を行うのです。愛を妨げるものがないからです。
愛を理解していると思っている者は、自らの愛を疑いません。
真の愛を拒む自己愛に従っても、偽りの愛は自己を決して咎めません。
他の国(人)が苦しんでいても、自分の国(家族)を犠牲に出来ない
(犠牲ではなく負担に過ぎなくとも)、それは愛ゆえであると。
真の愛に生きたことがないから、真の愛を貶めていることすら解らないのです。
偽我にあって悪の想念(波動)に馴染んで、反撥する善や愛の念が湧き起らないようでは、
本当の(愛や優しさの生きる)心を失っているのです。
正しい観念に生きていなければ、邪念が伝わり易くなり、悪しき観念を持つようになります。
心に善がなければ悪から心を守ることは出来ないのです。
善なる心は真理の観念を求めずにはいられないものなのです。
徳と言われるものの観念は、良心や善我の目覚めを齎します。
良心の糧となるものが徳であるからです。
神の齎した善の観念が、人の思いとなり結実した行為が徳です。
徳は神の心から現れた行いであることを証するのです。
神や善の観念は、それを伝えようとする意志(念波)によって、同じ波動の心に伝わります。
正しい心の人に相応しい観念を与えます。
神の心を、素直な心を持つ者は、それがどのような心を言うのか知らずとも、
聖霊の心に繋がる心は、神の愛するものや(そこから抽き出される)観念に出会う時、
その真なることを直観出来るのです。
"概念"
理解の内容です。
真理と言われた観念を捉えた時、
真理に生きるとはどういうことか意識するようになるのではないでしょうか。
(真理を求めるのは、生きんが為に光を求める本能から来ます。
人は真に生きるべき道を求めるように生まれてきているのです。)
人は精神の成長へと導く指標を求めます。
生き延びる為に状況を認識し、対応する知恵を生み出すのは本能(自己保存)の持つ能力です。
【進化に於て猿が樹上から地上に生きる場を求めた時、(敵の存在を遠くから知って身を守る為に)
視野を広げようと二本足で立ったのもそうでした。】
"観念から概念へ"
正しい観念【例えば安心(苦難にあって尚、信じるべき存在を見失わない心から来る)、
喜び(善に生きる純粋な心から来る、人に嫌悪を齎すような喜びは邪な心から来る)、
自己への信頼(悪なる心に苦しめられようとも、善を貫く心から来る)、
心の支えである信仰、神(生き物が光を求めるように、
神を求めないではいられない真の心から来る)等】を抱くならば、誰もが
正しい概念【例えば安心(とは人の守るべき社会の法とは善を守護する為に存在すると信じる心)、
喜び(とは人の幸福を、己が喜びとする、自らの内に見出された(神の)心)、
自己への信頼(とは他からの信頼に、信義を以て応えんとする自己を信じる心)、
心の支えである信仰、神(とは神の心に生きる者に神は常に共に在ると信じる心)等】
を育てて行けるとも限りません。
自分が正しいつもりで、人の為になりたいと思って行ったことも、
人の立場や思いに対する理解が足りずに、人の迷惑となることもあるからです。
正法が常に相手の立場を、気持ちを思い遣ることを言うのはその為です。
言うまでもないですが、相手が喜ぶなら何でもいいのではありません。
心の中で姦淫を犯した者は、行為に於て行ったに等しいことをイエス様は言われましたが、
心に於て罪を犯すことなく、行為となって罪が現れることはないからです。
(自らの意志の伴わない狂人や憑依された操り人形は論外です。)
悪しき観念を心に宿すということは、己自身を悪に支配された者として、善なる意志
(神を信じ求める、自らによって立つ主体であること)を放棄したことを意味するのです。
自覚していなくとも、無意識であろうとも、心を支配した偽我とは、
善に、神の心に拒否反応を起こす悪の観念からしか思考を進めることの出来ない、
理性の働く余地のない心なのです。
"概念から観念へ"
同じ概念として表されても、心に抱く観念は誰もが同じである訳ではありません。
概念は人に伝えられ、共有されるものと見做されています。
しかし同じ概念(例えば民主主義、平等)が伝えられても、受け取る者が同じ観念に、
同じ観念を宿す心に導かれるのではありません。
(互いを生かそうとする愛がなければ民主主義は成り立たぬと理解する者と、
個人(自分)を国家(自分以外の人々)に優先して尊重することを民主主義であると、
その個人において尊重されるものとは、自己愛でありエゴイズムであって、
他を生かす愛でもなければ、背けば自分に不利を齎す法でもない、
国家権力から自己愛をエゴイズムを解放するものを民主主義と理解する者の
見る世界観は正反対のものでしょう。)
善や愛の知識(理解)を得たならば、誰もが善や愛の観念を、
心の指針に生きる(善を貫き愛に懸ける)ことが出来るというものでもありません。
【奇蹟と認めるに充分な事象が現れても、真理であると直観出来るとは限らないのです。
ジャンヌ・ダルクを神の使いであると信じるか否かの選択を神に迫られた時、
ローマ・カトリックは今ある地位を投げ捨て、ジャンヌの思いの中に神の御意志を認め、
ジャンヌに従うという神への愛よりも、己への愛に従ったのです。
十字架の道から逃げ、権力を手放したくない、
人々に仕えることよりも人々を従わせることを選んだのです。
ジャンヌを通じて真の救いが齎されたのですから神の御意志の表れであるのは明白でした。
しかし、カトリックはジャンヌを神の使いと認めず魔女として処刑したのです。
人々の抱く絶対神の概念を覆すに充分な地動説を、進化論を、
彼等は認めることを許さなかったのです。
彼等は真理を求めていても、その真理は自らが従うものではなく、
彼等に人々が従う、真理が従うという真理の天動説なのでしょう。
彼等の信じる愛は、人々に働き掛けようとするものではなく、
神に愛される人間として、人々が倣うべき者と自らを誇る自己愛なのでしょう。
知識は、概念はあっても、正しい観念の宿る善我(理性)を持てないのです。
彼等の信じているように語りかけねば神と認識出来ない自己愛の世界しか知らないのです。
そしてそのような心を満足させるのが悪魔なのです。
人間は神の真理に生きるのではなく悪魔の真理(天国ではなく地獄を求める、堕落に生きること)
を望むものだと悪魔は信じるのです。】
真理と言われる観念が観念のままであってはならない、真理は働きかけているのであり、
真理(自然の法、摂理)に生かされるだけでは、動物に過ぎません。
人間は動物のように正しい真理にのみ生きることが出来ないのです。
悪の為の真理に従うことが出来るのですから、正しく認識して、
天の齎した真理の観念(を抱く神の心)へと導く正しい概念(神の法・正法)を得てこそ、
神の心に生きる、真理に生きることが出来る。
そのような者に真の幸福(心の自由)が齎されるでしょう。
正しい教えを理解し、行うことが出来たのなら、正しい心を持てたと私達は思ってきました。
真の愛が自らに善なる行為を為さしめたと信じた人々が天に奉げた感謝の言葉の裏に、
自己賛美の思い(神の愛からでなく自己愛からの行為であったのです)
が隠れていることにも気付けないでいると天上界は指摘されました。
パリサイ人(人を裁くことが善人の証明と信じる偽善者の代名詞)のような偽善に生きる者が、
己が行為を神がお知りになれば喜ばれるに違いないと天に向かって誇るという偽我故に、
天に感謝するという"謙虚な態度"に隠された高慢が、偽我に生きる私達に気付かなくとも、
己が心から削り落としてきた偽我が如何なる心か天上界は知り尽くされております。
真理に対して謙虚な心を保つ者だけが素直な(傲り高ぶることのない)心で
真理を見出せるのです。
己が行為を真理(神)に従っていると誇る心は偽我であり、
神の光なくば偽我と知る真我に至ることは出来ません。
現象テープ№28 「自己犠牲について」より
80年9月14日 ミカエル大王様現象
「数ある人間の行為の中で何が最も美しいか、何が最も天の波動に合うか、御存知でしょうか。
それは裏に自己賛美の無い自己犠牲です。
裏に自己賛美の無い自己犠牲とは、どのようなものを言うのか。
例えて申し上げるならば、去年のクリスマスにイエス様が仰しゃったように、
自分が如何なる苦難に置かれた時であっても、他に尽す心を忘れない、
その心から出る行動なのです。
お解りでしょうか。
今迄の人類の歴史の中でも、そのような人は数少なかったのです。
自己犠牲をする人はありました。
だが、その人々は、裏に自己賛美の心を隠し持っていたのです。
キリスト教徒の中にもそのような人が沢山あり、
自己犠牲のその後に必ず祈りを捧げました"神様、どうも有難うございます"。
そのような祈りを私達はどれ程聞いた事でしょうか。
キリスト教徒だけではなく、仏教徒に於ても、そのような祈りは聞きました。
だが、そのような祈りは、自己犠牲の中でも下劣なものであり、
私達はその者の心の中に自己満足しか読み取る事は出来ませんでした。」
そのような自己犠牲を行っている者でさえ、
自己賛美する心の醜さに気付かない自己愛を克服することが出来ないならば、
神の心を持つに至る如何なる道を人は見出し得るのでしょう。
悪行に生きるしかない取税人に比べ、
善行に生きる自分の感謝に神は喜ばれるに違いないと自惚れるパリサイ人の
己を高しとする心は、天と相容れぬことを知りながら、
己を善人と信じて疑うことのないクリスチャン自らがそのような心に堕していることが悟れない。
自己犠牲のような崇高な行為は、
神が働き掛けられなかったら自分のような者に成し得た筈はないとの思いから、
神に感謝を捧げるのでしょうか。
本当に真の神(の愛)が自分を通して
(神と同じ波動を持つ心には神の想念(愛)が伝わる、
その愛を為そうとする心の美しさを神は嘉される、
人を救わんとする強い意志は神から、天上の聖霊から齎されるのです。
その強い意志に人は驕り高ぶってしまう、
自らの意志が愛を為したものと錯覚してしまうのです)
人に働きかけられたのなら、
本当に真の神の愛を得て、自らの卑しい自己愛を棄てることが出来た者が、
神の救いの齎された、神の愛の伝わった者の喜びを神と共に喜ぶ真に神と共にある者が、
自らが為した愛であると、真の愛、神の前に自らの愛を誇る、
驕り高ぶるようなことはあり得ないのです。
自己犠牲を犠牲と考える、
そのような犠牲を為した自らの愛を神は褒められるに違いないと、感謝の祈りを捧げる時、
真の神の愛に清められることなく、
神に認められることを求める自己愛に生きていることを覚れないでいるのです。
真の愛を(何としても助けたいとの思いを、神の心に生きたいとの思いを、
自己愛と相容れぬ真の愛に満ちた心を)持たないのに、
神がそれを望まれているからと自分の心を偽って善行を行うのは、
偽我なのだと現天上界の神は言われるのです。
自分の心から望むものでなければ、内なる神の心を、善我を見失ってゆくのです。
偽我を見抜く善我に立たなければ偽我を克服出来ない、偽我から自由になる、
魂を解放することは出来ないのです。
イエス様が仰しゃった、真の神を神と知る心の目覚めること、
神への思いに尽くすことだけを考える、そして内なる神の心だけが見出す真理に生きる、
真に注がれるべきものへと向かう愛に従う者が、
神の共に在ることが出来ると言われたのです(※)。
【※注。
「天国の証(78年8月初版)」86頁 ガブリエル様メッセージより
「誰でも私に付いてきたいと思うならば、自分を捨て、自分の十字架を負うて、
私に従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
私のため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
人が全世界を儲けても、自分の(永遠の)命(魂)を(神の心を)損したら、
なんの得になろうか。
また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことが出来ようか。」※注終】
〖備考
交流分析(「わかりやすい交流分析 1」33頁)から
裏面的交流の心理を解説したものを要約します。
人間は3つの自我を持つものであり、各々の自我の働き(特性)を知り、
制御することで人との関係を良好にすることを目指すものですが、
その3つの自我(精神の働き)は、
子供の自我(自由もしくは順応する精神)C:Chaild、
大人の自我(理性的な精神)A:Adult、
親の自我(批判的もしくは保護的な精神)P:Parentに分類される。
裏面的交流の1例。
[表面] 患者 A(大人の自我)から看護師 A(大人の自我)へ
「これ、つまらないものですけど、どうぞ」
[裏面] 患者 A(大人の自我)から看護師 P(親の自我)へ
「私を特別扱いにしてほしいのです」
入院して看護師(や医者)に贈り物をする患者さんに見られる心理で、
患者さんは社交レベルの A(大人の自我)対 Aで話しかけますが、
本心では、(患者の)Aから看護師の Pに、私を他の患者よりもよくしてほしいという
秘密のメッセージが送られています。
患者さんが期待のメッセージを(看護師の)Pに向けて発信しており、
看護師が誘いに乗り(保護的な)Pから反応してくれるのを期待しているのです。
これに倣って、ミカエル大王様のメッセージにある
「神様に感謝の祈りを捧げる信者」の本心を分析してみるとどうなるでしょう。
神の愛を得る為に、己が欲望を、偽我の思いを満たす為に、
自分の都合の良いように、神の御心を自分に向けようと、
神の御心をコントロールしようとしているのです。
それも自分の偽りの愛(その本心には自分だけの益を求める欲望を隠し持っている)
を真実のものの如くに神に語りかける(感謝の祈りを捧げる謙虚な心を見せようとする)、
神がその(偽りの)愛を信じて自分を神の子と認められ、
全能の神の力による守護を得られることを信じての、
自己犠牲に隠されたエゴイズムこそ真の動機であり、
神と相容れぬ偽我であることを、その偽我からは偽りの愛しか生まれぬことを、
現代に至るまで人類は悟ることが出来なかった、善我を、神の心を知り得なかったのです。
人の目に上辺さえよく映れば人は信じるものと虚栄に生きる心の満たされることなき虚ろに、
人の確認を求めずにはいられぬ、己の為にだけ生きんとする自己愛の行動が、
如何に醜い思いとして神の心に映じられるものであるか、
「自己顕示と賞賛願望が清水に油を二、三滴流し込んだ時のように醜く浮いている」と
ミカエル様は形容なさいました。
神の心とは、神の愛する美しい心とは如何なるものであるか、
このメッセージによって初めて人類は思い知ったのではないでしょうか。備考終〗
"神々の心に導く為に天上界より伝えられた、善我に生きる指標"
「天国の扉(77年12月初版)」141頁 ラファエル様メッセージより
「私達天上界の者の尺度から見れば、多くの人は不健康な生活を送っていられるのです。
それは多くの場合、社会の階級と、制度と習慣や様式と、
一番根の深い偏見という病気に侵されて、
人間の魂の自由とは何かを見失っているからです。
次いで、人間の魂の自由を奪うものは人間の欲望と虚栄心と執着なのです。
それらが人間を地上に縛り付ける鎖であり、
天国を遠く隔たせる空と大地のクレパス(割れ目)なのです。
そのような鎖に縛り付けられた方々は、どうやって天国へ来ることが出来るでしょうか。
勿論、自由を奪う鎖を断ち切らなければいけないことは、言うまでもないでしょう。
さて、そのような鎖を断ち切る為には何が一番近道でしょうか、考えてみて下さい。
まず、ブッタ様の説かれた八正道があります。ブッタ様の章が後の方に出てきますが、
それは如何に物事の判断の基準を正しくするか、という方法について述べてあるのです。
正しく見、正しく思い、正しく語る。
この三つが物の表面的な表れ、及び内面的に隠されたものを同時に判断し、
正しく行動する上での基準にする為に必要な心構えです。
後の五つはブッタ様の説明されたことを読んで理解なさって下さい。
ここではこの三つだけが必要なのです。
そして、ブッタ様が説かれた慈悲とイエス様の愛の心を加えるのです。
その五つが揃えば、先に述べた鎖を断ち切り、天国へ行くことも出来、又、地上に楽園、
ユートピアを作ることも可能なのです。」
94年7月18日 ブッタ様メッセージより(未出版)
「私が曾て肉を持つ身であった頃、カピラ城を出る前も、そして自らの意志で出家した後も、
心の葛藤は続き、様々な難行苦行の末、辿り着いた安心立命の境地は、
とても言葉では言い尽くせぬ喜びでした。
しかしその喜びも、己を甘やかさず、僅かな偽我の芽も意識して取り除かねば、
忽ち雲散霧消してしまうのです。
この繰り返しを経ても前進しようとする強い意志を持てた時、
私は己の心に克つ勇気を得たのです。
取り払っても、捨ててしまったはずの偽我の芽が、心の隙に執拗に忍び込むのは、
自分の周囲の人々の悪に踊らされた姿による誘惑と、意志の弱さに負けてしまうからなのです。
正しきを知るならば、この悪戦苦闘は避けられない筈です。」
現象テープ№19 「宗教と人間との関係について」より
80年3月9日 ガブリエル様現象
「人間の生活には内的な面と外的な面があります。
言い換えれば公的な面と私的な面とも言えるでしょう。
外的な面を司るのが社会生活であり、又その行動を規範するものが法律と呼ばれるものです。
では内面生活はどうでしょうか。
内面と言われるもの、それを司るものが宗教と呼ばれ道徳と呼ばれてきました。
何故道徳や宗教が必要になるのか、内面的な生活の規範が何故必要になるのか。
或いは宗教の持つアニミズム的なもの、詰り霊体の関係することが何故必要になるのか。
内面に関係するものであれば、何故霊体という目では見えない解りにくいものを
必要とするようになった(※)のか、それが問題です。
(※注。
神を、善なる霊を見出した者が、間違った道を気付かないでいる人々に、
真に救いを齎す存在を、真に救いを求めている本当の心を人は知らねばならない、
心の目を開いて、彼等の語る真実を悟らねばならないと伝えないではいられなかったのです。
※注終)
人間が他の動物と違う所、それは何でしょうか。
知性を持つから、それだけではありません。
人間が他の動物と違う所、それは未来に対する不安を感じるということがあります。
未来に対する不安、未だ見ずもの、或いは自分の能力を超えるもの、自分の限界を超えるもの、
自分の理解を超えるものに対する不安があります。
その代表的なものが、原始社会に於いては今年の作物はよく実るであろうか、
或いは今度の戦争には勝てるであろうか、というような占い的なものでした。
宗教の発生の起源には、そういった未来のものに対する不安、
詰り未来に対する不安から来る、確信を得たいという気持ちと、
それからもう一つ大切な最も忘れてはならないもの、行動規範ということでした。
何故行動規範がなければならないのか、何故法律だけで人間は規制出来ないか。
人間は知性を持つことが特徴です。
知性というものは善性と結び付けば素晴らしいのですが、
欲望と結び付いた知性というものがどの様に恐ろしいか、もう御存知でしょう。
現在はその危機に晒されているのです。
知性と結び付いた欲望、これを抑える為のものでなければならなかったのです。
ですから宗教というものは未来に対する不安と、知性と結び付いた欲望を制御する為の、
言わば人類の、知性の欲望に対する(本能的なものへの)安全弁といった意味がありました。」
「慈悲と愛」79年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」32頁
「天の徳とは、悪を鋭く見抜き斥ける強さを有し、しかも善であり義なる者、
常に真理に聡く、真理のみを愛し、美しきもの優しきものを喜び、涙する者、
万人に分け与える者、三次元の名誉や地位や財に奢らぬ者、人の僕となり得る謙虚さを有する者 ー
そのような豊かなしかも偏らぬ心を持ち、生き生きとした知性を備え、
しかも理性においては悪なる者、過てる者を正す天の裁きに心乱されぬ、
そのような人徳を基盤とした、三次元の世界に於ても四次元の天なる私達の世界に於ても
敬うべき人格 ー それを指すのです。」
現象テープ№32 「物の考え方について」より
81年9月15日 ラファエル様現象
「善と悪の基準は何なのか考えたことがありますか。
何を以てして善というのか、何を以てして悪というのか、その基準は何処にあるのか。
あなた方人間界の価値観の中にあるのか、自然界の中にあるのか答えはどちらでしょうか。
自然界に答えがあるのです。
自然界の中に善悪を求めるならば、どのようになるでしょうか。
自然界は善です。
宇宙の法則が正法だと言うのはそこにあるのです。
何故自然の法則が善なのか、それは他者を生かすからです。
どのようにして他者を生かしているか。
適者生存、弱肉強食です。どのような意味かお解りですか。
生き残れる必然性のある者が生き残るということです。
基礎になっているのは必然性なのです。
必然性とはそうあらねばならないことを言います。
何故そうあらねばならないのか、お解りでしょうか。
それは生物が皆生きてゆかねばならないからです。
それ故の自然淘汰であり、弱肉強食なのです。」
「JI」86年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」39頁
「社会を病ませているのは他ならぬマルクス・レーニン主義者であり、
共産主義による世界制覇を信じ、殺人を容認する悪魔の超大国ソ連に精神的に支配されている、
病的性格の持主であり、集団なのです。
歪みや病的な生活習慣に慣れ親しんだ者が、共産主義の世界支配が実現した日から急に正常化し、
健康な精神生活に戻れる筈はなく、マルクス・レーニン主義を奉ずる者が自分達の無軌道な言動を、
主義主張の為の手段と考え、又公言するならば、
それは自己正当化の為の誤謬、謬説でしかないのです。
同志の言葉を信じて無法行為を当然と思い込む者は愚か者であるし、
放縦な生活に抵抗を感じなくなった者は既に心が病んでいるのです。
反体制的言動に生き甲斐を感じる者は精神的に未熟であって、一人前の社会人でないことを、
一般の人々は理解し、
クールな目でマルクス・レーニン主義を提唱、又はその精神に準じて行動する者を評し、
一線を引くべきであるとお教え致しましょう。
人々が同じ病に冒されない為に ー 。
自らを制する基準を持たぬ者は、正しい性格形成が行えず、徳とも無縁であるし、
幼児か病人のまま一生を終えることになるのです(※)。
そのような者の説く理想など現実生活に役立つものではなく、虚構にしか過ぎません。
分析すればマルクス理論も一大虚構、妄説であるし、それに心酔する者は批判力を持たぬ幼児、
それを利用して主権を得ようとする者は精神的な病者に過ぎないということなのです。」
〖※参考。
「清らかな厭世(2007年10月出版)」146頁 阿久悠著
"子どもが金を持つ国は
永遠に大人にならない
未熟社会である"
「甘い親戚が分不相応のお年玉を与えると、
子どもはそれをチャッカリ銀行に預けて利息を付けて増やし、
乏しい小遣いの父親に有利子で貸すという世相漫談があった。
この漫談のチクリと刺そうとしたところは、甘い親戚の「無責任ないい顔」と、
金の力を知ってしまった子どもの「可愛げのない世知」と、
その子どもの預金に媚びる父親の「誇りを失った哀愁」であろうか。
三十年ぐらい前のことであったと思う。
これが漫談になり、風刺の力を発揮したのは、
その時代まで、子どもは大金を持たないというのが、世間の常識としてあったからである。
だから、子どもが自分の通帳を持っているらしいぜという話になっても、
その金を狙うのは貧しい父親ぐらいで、社会が動くことはなかった。
企業がターゲットにするようなことはなかったのである。
ましてや、すべての価値観をお子様向きに切り替えることなどなかった。
しかし、へぇ、子どもがお年玉をねぇ、預金してねぇ、父親に貸すだって?
などと苦笑している間に、やがて苦笑も失笑も出なくなって、
本当に子どもが大金を手にするようになり、自分の意志で経済に参加するようになった。
さあ大変だ。こうなると社会が変わってしまう。
子どもが金を持つ、子どもに物を買う選択の自由を与えるということは、
家庭内の経済力の問題、愛情の問題では済まないことである。
現代の親たちは、ぼくたちの時代と違って経済力を手にしているし、
金こそ愛情だという困った哲学を持ってしまっているので、
甲斐性だと思っているところがある。
どんどん求められれば与える。生まれながらに欲望の花園の中にある子どもは、
自制、禁欲などある筈もなく、果てしなく求めるのである。
そうすると、かつてのお年玉のレベルをはるかに超えるから、
社会は、子どもたちを最大級のお得意と考え、すべてを子ども向けに作り直すようになる。
子どもこそ最も敏感で大胆なユーザーであるという割り切り方だ。
社会が誇りと見識を捨てて子どもの高さにしゃがむということである。
子どもが喜ぶ商品を開発するのはいいとして、すべてを子ども化してしまうのは困る。
特に文化 ー 歌、小説、映画といったものも、
ひたすら目線を下げた価値観を設定するようになり、
「完成」「成熟」は店(たな)ざらしになる。
かつて子どもは金を持たなかった。持たせなかった。
「お小遣い」以上を手にする方法は一つ、「大人になる」ことであった。
ということは、世にある歌も小説も映画も、大人になって手に入れる価値があり、
だから、大人になることに値打ちがあるということであった。
ハードルのない社会は未熟のままである。」※参考終〗
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
備考 一考察
(三) 偽善、欺瞞について
人を信じる愛なく、信じるべきものが何かを知らず、信念なく、
支柱なき不安から、人への不信故に人の非難を怖れる心から、
己を優位に置かずば不安に耐えられぬ、自己保存の本能のみを心の支えとし、盲従し、
ただ己の心の平安を得んが為に、人の悪を声高に叫び、
正義を証している、人から信じられていると慢心し、
自分の敵を世の敵であると、(ただ自分を守りたい一心から)正義を騙っている者。
自己保存の本能に従う者に、良心という理性は育つことなく、
愛に、真理に生きる心が理解されることはありません。
そのような者を偽善者と言い、何時の時代にも、この世を神の国から遠ざけて来ました(※1)。
(※1注。
『何故、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、 どうして兄弟に向って、あなたの目から塵を取らせて下さい、
と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除けるが良い。
そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除けることが出来るだろう。』
「マタイによる福音書」第7章3節より
そこでイエスは言われた、
『私がこの世に来たのは、裁く為である。即ち、見えない人達が見えるようになり、
見える人達が見えないようになる為である』。
そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人達が、それを聞いてイエスに言った、
『それでは、私達も盲人なのでしょうか』。
イエスは彼等に言われた、
『もしあなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなた方が"見える"と言い張るところに、あなた方の罪がある。』
「ヨハネによる福音書」第9章39節より ※1注終)
"差別"
天上界は、人を見下してはならないと仰しゃいます。
その心は人を傷付けるだけではなく、自らを堕落させ、悪霊へと変えるからです。
人にないものを有する故に自分は人に勝ると、それを持たぬが故に人は劣るものとする、
常に己を高しとする(虚栄)心を満たすことが幸福であると信じる、
即ち人が自分を意識する、注目するのは、人の欲するものを自分が持つからだと信じるが故に、
人の持たぬことを人に意識させずにはいられない自尊心(優越感)から、
人にその事実を思い知らそうとする心が、
人を見下す、差別する、己を高しとする心となって現れるのです。
自分に良いものがあると信じられるなら、自分を信頼する者なら、
人からの賞賛や羨望など求めはしないのです。
本当は自分が優れた者ではないといった不安があるから、
人から注目される、意識されることで自己を確認しないではいられないのです。
そして人が正しく自分が間違っているといった判断を認めまいとする、
自分を騙す心が無意識に働いているのです。
自分が間違っていたら、人から非難されたらと、自分の生存を脅かすものを恐れるのは、
自己保存の心(本能)を持って生まれてくる生物である以上逃れられぬ性(さが)でしょう。
しかしそのような心を人間は昇華することが出来る、
人間の心は(学習を通して)成長することが出来ることを知らされたのです。
そのような自己保存に依存せず、全ての生き物を生かしめる真理
(自らを不利にすることがあろうとも)に生きる善我を見出すことでしか、
人を信じることの喜びに生きる心を見出し、
人と善なる心で繋がる、人の善なる心に働きかける信頼に生きることでしか、
人の神の心を見出すことなく救いはない故に、
真理(救い)から外れること無きよう真の忠告が、
互いを信頼する心が、神の国へと導くのであり、
神の御意志が彼等を通じて世に齎すことが出来るのでしょう。
イエス様は、情欲から人を見る者は既に姦淫を犯しているのだと仰しゃいました。
差別用語を使いさえしなければ善いのではありません。
心の中で差別する者は既に差別しているのです。
自らの差別する心を許さぬ善なる心を、神の心を持たねばならないのです。
神の心を知らぬ者が、人によく見られることを考える者が、
自分を正しい者と人に思わせずにはいられぬ(虚栄心)が故に、悪を他の内に求めるのです。
他を生かす愛を知らず、自らを周りから守る為に正義(正論)で武装するのです。
自己保存という偽我に生きるが故に、
自らの善我を見出せないばかりか、自分を脅かす人の善我を認めず、憎むべき悪(偽我)とする。
人の悪を周りに信じさせれば、周りが自分を信頼したからと考えるのです、
自分を正当化することで安心するのです、自分を守ることが彼等にとって善なのです。
それが自己保存に盲従する心なのです。
善が現れることを望まず、悪が現れることを望むのです。
邪念に生きる者からは邪悪しか生まれないのです。
〖備考
自らを善人と盲信する(自己肯定に生きるのを常とする)偽善者は、
差別だといえば自分が正しい人間だと自惚れられる単純思考型でそのロジック
(硬直した精神性はイデオロジストに顕著)を疑う柔軟性がないので、悪霊に操られ易く、
多数の人間が集まって、単純な標語を一様に叫んで異様に感じないのが、
集団憑依されている紛れもない証拠なのですが、
左翼には見えないものは存在しない、
神も悪魔もないと疑問を持たぬ人達ですから、
悪霊に同調させられた感情に溺れてきたことを覚らしめる、
悪霊の邪念を嫌う真我に至るのは至難なことでしょう。備考終〗
"左翼の偽善"
共産主義者が仮令正しいことを言っても、その目的とする所は、
己(の偽我)を正当化する、自己肯定の偽我を満たす、
要するに自分のことしか考えない、自分に執着する心を育てているのです。
いろんな環境から作られた人の心の癖(条件反射の違い、人格)を理解するには、
柔軟な心がなければ
(自分の心を正しくする為に、正しい心とは何かを知ろうとは考えず、
自己否定は自我の崩壊であり、自分を正しいと認識する心を作ろうとする)
防衛規制に支配されての、自己認識を作られた者に、
彼の認め得ない非を責め立てても、責める者の非情しか伝わらないのです。
周りに人を育てる愛があれば(精神力を育てる)責任感が育つでしょうが、
立場の弱い者への愛のない、支配欲を満たそうとする人々の非難にあえば、
ストレスとなり精神を損なうことはあっても育てることは出来ません。
防衛規制と言う心の働きによって歪んだ人格であろうと、人が認めまいと、
自分を愛するから正しい、悪人を愛さない自分は正しい、
自分を愛さない者は悪だから自分を非難する、といった理屈でがんじがらめにするのが防衛規制です。
人の心を見て、その者に相応しい対応を取ることを考えない者は、
誰に対しても批判的な態度を持つパリサイ人のような者は、
自己肯定から自分に相反する者に対して、否定する思いしかない為に、
非や誤りをこじつけても非難しようとするのです。
共産主義者は、パリサイ人と同様にナルシシズムの心であり、
自分の間違いを認めることは出来ない、エゴイズムを満たす為に生きる者です。
人を見て法を説けと言われるのは、
人の心を思い遣る思いから、人を生かす真理が人の心に響くものとなり得るのであり、
愛なくば天使の言葉も伝わらないということです。
左傾メディアは、日本の中の他国籍の者や、少数の組織の共産主義者やそのシンパ
(自らを共産主義者と認識していようといまいと、中身は一緒)を隠れ蓑に、
自分達の主張を肩代わりさせて世間の批判をかわし、彼等が非難されれば差別だと騒ぎ、
正当な批判を、差別を行う悪の行為へとすり替えます。
彼等が直ぐ差別だと騒ぐのは、彼等の下心を自ら騙す大義名分を与える為です。
北朝鮮の独裁者への忠誠心からの、母国(日本)を裏切る売国的行為をも正当化し、
彼等が正義を語る時、その厚顔無恥から、心の底からの偽善者であることは明白です。
国が滅べば自分達も滅びるのに、それが理解出来ずに国粋主義だ、右翼だと騒ぐ近視眼を、
昔は女、子供と譬えても、誰も自分が差別されているとは思わなかったでしょう。
精神が未熟なことを明らかにすることは、成熟するように努力してほしいからです。
仮に未熟な者がそう言ったとしたら、
尚更成熟すべきであることを教える反面教師と見ればよいのです。
何でも差別だと騒ぐのは、
人が自らを知ろうとする、愚かであることを恥じて、向上しようと努力しようとする、
正しい道を歩もうとする精神を疎んじ、優れた者に倣うことよりも、引き摺り下ろそうとする
(卑劣な精神に生きる)左翼を証明するものです。
左翼には只の譬えとして言葉を使っていることが理解できないのでしょう。
女性の短所とされたものが男性の長所からの認識なら、
その逆のこともあることを男女共に理解されていた、それだけのことであり、
差別という考えなど生れようのないことでした。
【「JI」89年9月号 ラファエル様メッセージより
男女共にそれぞれ性格の一長一短があり、
それを補い合う社会がバランスの取れた平和で健全な社会と成り得るからです。】
差別という考えで人を裁くようになったのは、憎しみから齎されたのです。
憎しみだけの人間関係(プロレタリアートであると自らを定義した者の憎しみの目が、
裕福な者を、搾取したが故に裕福となったブルジョアと定義したのです)
と全く異なる心(愛)の交流に喜びを見出している、共存に生きる男女間から、
相手の存在が滅すべき対象とするような認識など生まれる訳がないのです。
ブルジョアへの、裕福な者への憎悪から、ブルジョアへの復讐心(ルサンチマン)から、
復讐への正当化から共産主義者達(プロレタリアート)は搾取されているのだとの被害妄想へ、
悪魔を己が心として復讐の血を求めたのです。
闘争にしか生きることの出来ぬ共産主義者が、滅ぼすべき敵を見出そうとする心が、
自分達に反する者にレッテルを貼るのと同様に、共産主義の独善に異を唱える者に、
差別する者とのレッテルを貼り、攻撃目標にするのです。
共産主義者に調和は存在せず、自らが滅びるまで闘争に生きることしか出来ない、
善我(神の心)を失った者達です。
共産主義者は差別用語なる言葉を定義することで、人の心を縛りたいのです。
宗教用語の業や原罪という言葉で、
人の心に罪の観念を植え付けた宗教支配者のやり口と同じものです。
左翼の言う"自由"とは如何なるものであったでしょう。
例えば、如何なるものをも愛する愛に制限を加えるのは、愛を貶める悪であるといわれて、
偽りの愛の判らぬ者は、真の愛を知らぬ者は、(同性)愛を主張する者を信じてしまうでしょう。
真の愛を理解しない者の言う愛が如何なる愛か。
例えば、自己保存、我執から、自らの神の心を殺し、
他を犠牲にしてでも自らが助かることを求める邪心を己が心とする、
悪を為しても呵責すらも感じぬ心の満たされるを幸福とする、自分に幸福を与えるものを愛とする、
そのような愛が神の愛に反する、神の愛を否定してこそ愛であると誇る心に変える、
偽りの愛を、偽りの神を崇める者に変えてきたのです。
人々が同性愛を愛と判断するようになれば、
たとえ神の愛を見出した者が真の愛に従わぬ如何なる思いも愛ではないと言っても、
(同性)愛を否定する者は、不寛容な者、愛を知らぬ冷酷な者、悪と見做してしまうのです、
真の愛を理解することを奪われることになるのです。
また、道徳教育は子供の自由な精神を阻害する
(実際は、心を正しく導き育てる、
悪の観念から守る正しい指標が与えられない為に、理性を育てられない、
本能、自己保存の表れである執着心、感情に支配され、
真の自己を育てることを阻害しているのです。
信念に生きる意志こそ自由な精神であり、
信念を育てることが出来ない者に信念を貫く精神力は宿りません)とか、
差別用語を声高に否定している者は、真に人を思い遣る者であると信じ込ませる、
彼等の主張する社会・共産主義こそ真理である、
存在しない神を盲信する、偽りの真理を悟れぬ宗教から人類を解放するものであるとか、
差別用語こそ人の心の悪から出る言葉、心が邪悪であることを証明するものであると、
人の心を判断する誤った基準を植え込むことで、
心こそ人の価値を定めるものと、
心によって人を判断することをも理解出来ぬように、偽善がまかり通るようになるのです。
真に正しい、美しい心によって人を判断するようになれば、
彼等、社会、共産主義者の心の闇を、偽善を見抜かれるであろう恐怖を
心の底では味わっているのかも知れません。
理性を育てることのない、自己保存の心しかない彼等は、
自己克己を知らぬ、小心故に、恐怖心に脅かされてるのが常であり、
自らの安全を求める心にしか生きられない、
不安感を忘れさせるのは自己肯定の心であり、社会の承認を求めずにはいられないのです。
彼等は常に声高に偽りの正義を主張することに駆り立てられるのです。
悪魔に支配された左翼、共産主義者は、
差別用語を使えば、人を差別する冷酷な人間であると烙印を押され、
人々から吊るし上げられるという恐怖を呼び起こす自己保存の本能に導いているのです。
その為には、偽善を、偽りの愛を見抜く、知恵を真理を愛する神の心は許し難く、
滅ぼさずにはいられないのです。
如何なる教え、道徳、自らのあるべき人格の理想を求める心から
(真我に相応しくあろうとしての)"らしく在れ"といった人の生きるべき道を、
成熟した心が如何なるものであるかを見失わせ、
社会・共産主義の導く先の悪魔の心を作るのです。
革命の為には粛清も正当化した左翼教育者によって、
冷酷な精神に生きる、愛を知らぬ心によって、
悪霊の心を心とする冷酷な人間へと教育してきたのです。
愛や正義の言葉を言い、差別用語を非難する心が、
善を、人の心の善を愛する心なのではありません。
人の、自らの神の心を騙すを偽善と言い、
己が善人と自惚れる心に騙されてはならないのです。
差別用語など偽善者が人から自由な心を奪う為に、
彼等の主張するイデオロギーに人の心を隷属させる、
即ち彼等と同じ思考をするように心を型にはめる、
彼等と同じ言葉を、価値観を植え込むことで、
イデオロギーに隷属する精神を作ってきたのです。
神の愛は、人の心を我執から、苦しみから解放し、
人の苦しみに自ら苦しむ故に救わずにはいられない、
高貴な心故に、人の愚か故に苦しむ心を見捨てず天へと導く、
人を見捨てぬ愛を齎し、
偽りの愛を盲信する左翼は、人の心から優しい思いを奪い、
人の苦しみも感じることなくイデオロギーの為なら人の命さえ奪って尚、
己が愛を疑わない。
イデオロギーは人の心を縛る、
即ちイデオロギーに沿うようにしか考えることが出来なくするのです。
同様にこの世を支配する、
即ち創造したが故に破壊することも出来る絶対神しか認めない思考は、
人は神に対して従うだけでよい、絶対神を信じる者は救われ、
信じぬ者は破壊されるのが神の御意志(みこころ)であると、
それで思考が止まってしまうのです。
神がどのように宇宙を、生き物を創造したか、
何故そこに宇宙を支配する法を人は明らかに知ることが出来て、
絶対神の存在を明らかにすることが出来ないでいるのか等よりも、
絶対神を認めない者を攻撃することで、自らは絶対神の側にあると、
絶対神を否定する敵は亡びると信じられさえ出来れば安心していられる。
イデオロギーもドグマも、その教えを信じない、認めない者の有する判断基準(真理)を
理解する能力がないことも悟らず、理解する価値がないと決めつけて納得する、
教えを信じることの出来る自分は優れた者、真理を知る者であると自惚れる。
そのような心に理性を育てることなど出来ません。
神の愛は、曇りなき目故に真なる心を他に見出したが故に、
他へと向かう愛は、他人の愛によって育つ理性に現れる思いであり、
人が持って生まれた、自らの生存の為に他から奪ってでも得ようとする欲望
(理性の導きなき本能)からは、自己犠牲を超える真の愛は生まれません。
如何なる良きものも人への思いがあっての、人の心に伝わり、受け止められての真理故に、
愛の伴わねば人の心を清める、善我の糧にはなりません。
イデオロギーもドグマも自らを苦しめるが故に、人をも同じ思いにさせずにはいられない、
自らを縛り他をも縛ろうとするのです。
「慈悲と愛」79年3月号初出 ラファエル様メッセージより
「ピューリタンのような(清教徒的)厳格な愛は、
自然に湧き出るエロスの愛を不自然に押さえ付け、
その結果反動として二倍の強さの本能の衝動を耐えねばならなくなります。
そしてそれを律するのに同じ強さの厳格な掟を以て身を縛らねばならない。
厳格な人というのは往々にして、エロスの愛を認めず、
道徳は禁欲主義であるといった歪んだ解釈をしています。
それ故に自らを掟で縛り、他を律し、精神の自由な広がりと健康な人生観を超えて
苦行僧の苦しみを意識下に於て味わっているのです。」
神の愛に、(真理を理解する)理性に生きる心に触れても、
神の思い、波動の伝わる心を持たない、
イデオロギーにドグマに従う思考、条件反射以外を受け入れられない故に、
柔軟な思考を生み出す、真理を求める心は育たない、
薄地に落ちた為に根を張ることが出来ず、陽に焼けた真理の種の譬えのように、
実を結ぶことのない心です。
【「慈悲と愛」80年4月号 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集(84年7月初版)」99頁掲載
「如何に理を以てしても説得し得ぬ彼等は、信念に関して狂信、盲信のエネルギーを内在し、
平静を装うとも、抑圧された集団ヒステリー的病的心理が厳存するのは、
客観的に彼等の動向と論陣を分析してみればはっきりと判る筈です。
即ち理論でも理屈でもなく、感情が彼等の活力及び持続力となっているのです。
イデオロギーを固持する為の感情的武具と表現するならば、
彼等は脅迫的に完全主義的にその路線に人々を従わせようとする結果、
論戦の生じる所は枝葉末節に拘るものであったり、非現実論を持ち出したり、
相手の持論や論拠を自分達のものであるかの如くすり替えたり、
挙足取りであったり、実に愚劣で幼稚な論戦にしか発展し得ないものなのです。」】
良心を、神の心を偽る、神を欺く偽善者(自覚の有無に関らず)は、
神を侮る者であり、天の最も忌み嫌う人格(偽我)です。
神の教え、真理の名で、悪魔の教えを信じさせる。
共産主義者の言う自由や平等は、
言葉は同じでも内容は、真の民主主義と正反対なのがよい例です。
(真の民主主義は、自由意志に生きる、
互いの人格を尊重する心に立つが故に、協力という調和が生まれるのです。
社会・共産主義は彼等の言う民主主義に従わせようとし、従わない自由は許されないのです。
許されているのは従うという"自由"であり、
従わない者には従うまで、あらゆる自由が奪われるのです。)
相手を悪と決めつける為には、詭弁も論理のすり替えも自覚すること無く、
自分が安心出来る為に徒党を組みたがるのです。
やたらとデモや非難するだけで、人の良心に訴える善を持つことはありません。
自分達の間違いに疑いを持たせないように、
常に自分達は正しいと自分達に言い聞かせ続けないと不安で堪らないのです。
感情的な人は、感情が判断の基準となるので、悪霊から同じ感情の波動を受ければ、
高ぶり自信に満ちて、己を省みない単純さで、
多数意見であるなら寄らば大樹の陰で、それで安心する人達です。
自分達こそ(悪に対してですが)寛容であり、
(自分達の上に存在するものは神をも認めず)
平等に生きる者であり、差別を許さないと言いますが、
彼等には真理に生きる神を理解する心が、理性が全く無いのであり、
悪魔の想念(デオロギーという型にはめられて、自由な思考力を持ちません)
の奴隷に過ぎません。
彼等は人々の精神に、足枷をはめることに、自由を奪うことに喜びを見出す、
いびつな精神がそうさせているに過ぎません。
自らの思考によって信念を勝ち得ることの出来ぬ彼等は、
すがりつくべきイデオロギーを与えられたことに、
悪魔の想念を受け入れた者に相応しい、選ばれた者、他に勝る者という特権意識(増上慢)
の上にあぐらをかくことで、真の己を知る謙虚な心、理性(善我)を失ったのです。
ラファエル様が真理に従う人々を貶めんが為の悪口について、
又それが如何なる心から齎されるものかを教えて下さいました。
【「JI」88年4月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」96頁
「(正語とは)正見、正思を以て評価し、良き方向に人を向ける為に忠告し、助言し、
或いは批判して反省を促すこと、悪口とは違います。
悪口とは相手を陥れる為の歪曲が多く、言われる人の評価が正しく為されず、
偏見を以て非難する。復讐的に讒言をする。
或いはどうでも良い事をあげつらい、特定の人物の評価を下げる為に虚言を用いて中傷する ー
これを悪口と言います。
所謂左翼がマスコミなどを介し、
良識的な政治家や政党を支持する人々、国家や民族の側に立つ人々、
正しい形での、教育や家庭を保とうとする人々を中傷する、それを言うのです。」
(中略)
「色々と欺瞞に満ちた言葉と主張で人々を欺きますが、根本理念が変らぬ限り、
共産主義は神と対立する悪魔の甘言であり、思想でしかないのです。」
"悪口について"
悪口が事実に反したものなら、言った者に悪口が返ってくるでしょう。
悪口を言われた者が、それを知って事実と受け止め、改めようと善我に立ち返るとしたら、
悪口を言った者の思いの悪か否かを問うよりも、自らの内の明らかな悪から目を背けない、
(悪口を言った者にではなく)自らの悪を認めまいとする自己肯定の偽我にこそ打ち克とうとする、
真に善なる道を歩まんとする者を、
自分であれ他であれ、悪にあっては善を貫かんとする者を、
善を愛する人々が抛っておく訳がありません。
また言われたことが事実であるが故に反感を抱く者なら、
悪口を言われて然るべき者であることを、自ら認めているのです。】
左翼は、真理らしき言葉を使えば、
真理に従っていることを証明出来ていると思い込んでいますが、
幾らもっともらしい言葉を使っても、邪心からは、邪念しか伝わりません。
決してそのような心に同調することなく、
真理の光に前に邪悪は明らかとさせなければなりません。
彼等は端から真の善を理解する積りなどなく、ただ己を善人と信じられれば良いのです。
善が如何なるものであるかなど、どうでも良いのです。
イデオロギーを信じられれば善なのです。信じる者は正しいのです。
(宗教の信者と同じ自己肯定の偽我に安住して善我に目覚めることはありません。)
彼等が偽善者であると見抜いた人々に対しては、何処までも不寛容です。
寛容であっては、敗者となるしかないと追い詰められているからでしょう。
誤りを改めれば善人となる、そのように改める柔軟な心が真の善人であるとは考えられないのです。
イデオロギーに縛られて、不寛容な同志から吊るし上げられるのを恐れて、
精神が硬直してしまっているのでしょう。
彼等には闘争することがすべてなのであり、自分を抑えての他への寛容や、
真理の前に己が誤りを認める謙虚な心を持つことは不可能です。
彼等には偽我しかないのです。
神は人々を分け隔てなく平等に愛すると言われてきた真意は、
太陽の如く慈悲は人類に注がれるとの意味は、
人の神の愛に与る条件が平等であるということなのです。
人の心の美しさ、人への愛に準ずる、真理に素直に従う心の美しさのみを基準に、
すべての人が測られるのです。
偽善とは、己が悪を、誤りを改めぬ心、
偽我に生きんが為、ただそれだけの為に、真理を歪め、偽りを真理にせんとする行為です。
神を認めないどころか、悪魔を神として崇めんとする、邪悪そのものの行為です。
イエス様が、偽善者だけは赦してはならないと言われたことが、納得されるでしょう。
"過ちを改むるに憚ることなかれ"と孔子様は仰しゃいました(「論語」)が、
ガセネタを報道し、多くの人々を騙し、その所為で苦しめられた人がいても、
ウソを認め、謝罪しないメディアが、自らを社会の木鐸(「論語」)と名乗る、
彼等のような者が偽善者と呼ばれることを知れば、
偽善者を信じる者は救いようのない愚か者であると言われても仕方がないのです。
その通りなのですから。
又、人の悪口を言わないのは立派である、それが徳であるように思われている方がおられますが、
(メッセージにも言われておりますように)悪口とは、嘘や出任せであろうと、
人を貶めて自分が代りに地位を、評価を得る、苦しめて恨みを晴らす、
その為なら(悪しき)目的を、欲望を実現させる為なら、如何なる悪も正当化する。
そのような邪心から出る言葉です。
(イエス様が、口から入るものが人を汚すのではない。
口から出るものが人を汚すのだと聖書の中で語られていることです。)
悪いことを、間違っていることをそうであると、真実を言うことが悪口なのではありません。
誹謗中傷が悪口なのです。
例えば、その国の政治が、政治家が間違っていると言う者を迫害する。
本人のみか家族をも罪に陥れる、罠に掛け濡れ衣を着せてでも社会的に葬り去る。
恐怖心から真実に生きようとする精神の自由を奪う。
権力者に服従しない精神を破壊する。
偽りを真実であると教え込む(洗脳する)権力者に従うことしか考えない民が作られる。
それこそ社会、共産主義国家が悪魔の信念を維持する為に行ってきたことです。
善を愛し悪を憎む精神だけが、善を実現するのです。
悪と戦う勇気を、善悪の感受性を、判断力を培うことが出来るのです。
人の精神の自由を守ることが、善への愛を育てることが出来るのです。
【現象テープ№33 「慈悲について」より
81年9月13日 ガブリエル様現象
「悪い(善に敵する悪の意味です(※2))ことは悪い
(間違っているものは間違っている)。
そうはっきり考える力を養いなさい。
悪いことは悪いと、はっきり片付けられないならば、
天も又、姿を表してこないでしょう。
理性も又、養われはしないのです。」
(※2注。
「正法的なものの捉え方というのは、良い悪い(状態の判断)ではなく、
正しいか間違っているか(方向や姿勢を判断)、なのです。」
(「JI」82年3月号 ラファエル様メッセージ)
状態の判断の相違は、主観(感性)の相違によるもので
(互いに調和を求める人達の障害としてはならないものです)、
根本的な考え方の違い(方向や姿勢が間違っており、理性を顧みぬ者の場合)から
間違った方向に行こうとするなら、それに従ってはならないのであり、
正しい方向に、天の方向に進むことを妨害する者には妥協してはならない、
善を阻むものは悪である、
悪が現れて善が沈黙するものであってはならないのです。※2注終)】
【「JI」81年4月号初出6頁 ガブリエル様メッセージより
「偽善ほど醜いものはない、
その偽善が謙譲な心から出ぬ誠意なき儀式であり、
儀礼であり、しきたりで覆い隠されている時、
それ(善を偽り、邪な本心を隠そうとする心)は救い難い人格であることも
よく知っております。
儀礼は誠意が伴わねば無意味です。」】
"差別用語(を以て人を測るものさし(判断の基準)とする者)の偽善"
真に人への優しさを持つ心ならば、差別用語を使うか否かで人を判断する根拠とはしません。
愛のない冷酷な心こそ人を傷付ける根源であることを理解するからです。
何故、差別用語ばかりを問題とし、その心を問題にしないのでしょう。
上辺は如何に繕っていても、心に於いて人を蔑んでいるなら、
優しい言葉など人を欺く為の悪に過ぎないではありませんか。
偽りの優しさで自己満足する為に利用されるくらいなら、
そんな人間からの偽りの優しさなど何だと言うのでしょう。
その心の醜さが伝わらない程、人は鈍感ではありません。
それが解らない鈍感な人間が偽善に生きる者なのです。
(差別用語を使わないから自分は正義であり、差別用語を使う者には差別者と罵り、
自らは高みにあって自己愛に浸っていられる者は偽善者の最たるものでしょう。)
被害者の訴えによる裁判を、悪徳弁護士
(極左の跋扈するところですが、彼等は法を国家権力と同一視し、法の精神に対立する者です)
の偽善で、法の裁きから身を守ろうとする加害者は、
その本質が善を憎み悪を愛することから共闘し、被害者を更に打ちのめす非情さに於て、
彼等(左翼)が非難する暴力の比ではありません。
このような悪を被害者に加えることにも心を傷めぬ者が
暴力を許すなとヒステリックに叫ぶのです。
彼等は自分達の極悪から世間の批判の目を逸らす為に、偽善を装うのです
(このような偽善に騙される人がいるので、彼等には堪(こた)えられないのです)。
真理(を顕す人々)が自分達(左翼)の偽善を暴く、非を指摘する声が、
少数の、取るに足らないもののように扱うのです。
それでいながらマイノリティーの味方の如くに振舞うのです。
彼等は自分達を守る為に、弱者の味方を装い、自分達を非難する者を、
問答無用の如何なる反論も許さぬ敵と定めて標的にするのです。
彼等には善なる心の支柱が無いので、不安が常にあり、敵を明らかにせずにはいられないのです。
【論敵にレッテルを貼る(例えば、愛国者の国を思う気持ちを蔑み、軍国主義者の汚名を着せる)、
そのレッテルが既成事実であると世間に信じさせるのです。
差別用語も、その言葉で人が差別されているように信じさせ、被害妄想のように追い込み、
許す心よりも人を裁く憎悪へと誘導するのです。
自らを犠牲者と信じる彼等が仮に誰かを傷つけるようなことを行っていても
決して認めることが出来ないのは、
人を悪と、自らは善と決めつけることで自らの立場に安心する
(自分は責められる立場になく、人を非難する有利な立場にある)、
人を否定する、敵する者に悪の烙印を押し社会から葬り去る、
自らを勝者と疑うことなき高慢な心の中に、
自らの不利となる邪悪を認めるような謙虚な心が生きていられる訳がないのです。
彼等を(今も差別用語を使っているような者達による)犠牲者であると世間に思い込ませる。
そして差別用語を許さないと主張する自分達が正義であることを疑わせない、
そして差別用語を認めない人々を差別者の一言で悪として裁くことを喜びとする。
本当に精神が歪んでいるとしか形容出来ない人達です。
人の悪を指摘すれば、自らの善であることの証となると考える、その心は自己保存であり、
周りに自分こそ善であると、その証明しないではいられぬ自己正当化に躍起となり、
人が自分(の悪)を糾弾すれば、己が邪悪を自ら証明するが如くに罵詈雑言を吐き捨て、
自分が人を非難する時は、醜いまでに己が正義感に酔いしれるのです。
本当に我儘な子供のままで精神の成長が止まってしまったのでしょう。
差別する心が悪なのだから、
悪なる心であると認め、否定することの出来るのは、自らの善なる心のみであり、
その善なる心を見出せないでいる者を善なる心へと立ち返らせることの出来るものは、
真に善なる心に徹する他者(人であれ霊であれ)だけなのです。
人を貶めることで優越する、己が善であると誇るような心に、偽善者に、
人の心を清める、善の前に素直な思いに、他を気遣う優しい思いに
立ち返らせることなど出来ません。
差別用語を使う者を吊るし上げ、人を悪人の、罪人の如く裁く自分達は善人であると、
その善人が味方する、差別された者も善人なのだと信じさせ、
差別された者に真の正義の味方として振舞う、
これが偽善者でなくて何だと言うのでしょうか。
以前痴呆症といわれたアルツハイマー病は、認知症と呼び名が変わりましたが、
病人をバカ扱いにしていると取られるからなのだそうですが、
記憶がなくなるということは、自我意識がなくなる、自分が消滅して行くことです。
自分を意識出来ない者には差別云々など無意味でしょう。
これほど恐ろしいことはない、何とかしてそうならないようにと思わせねばならないのに
(痴呆どころか自己消滅なのですよ)、認知症などと言えば、病人の為になるのでしょうか。
(認知症と呼べば、人からバカにされるような病気ではないからと
病人になっても安心だとでも思わせたいのでしょうか?)
本当の愛を、悪に屈しない善を持てないでいることを恐れるのではなく、
人から差別だと言われることを恐れて、差別用語さえ使わなければ、
差別用語を使う者を悪と罵るエセ文化人に同調してさえいれば、
善人と認められたと、人から責められることはないと、自己欺瞞に安住する、
そのような者を天上界は、イエス様は偽善者と呼んだのです。】
言葉の暴力を受けた者が暴力で報復することは絶対に許されないといったことを、
さも当然であるかの如くに世間では言われますが
言葉で言い返せない人(相手が反抗を許さない力を握っている場合も)を、
精神的に追い込むこと(人格の破壊、自殺など)も出来るのです。
自尊心を、人間の尊厳を破壊せんとする者に手を挙げようものなら、
暴力は絶対に許されないの一点張りで、言葉の暴力を浴びる者に精神の足枷をはめる。
問題は人の心を傷付けることなのです。
言葉であれ力であれ、非のない相手に暴力を最初に振るった者の罪を問わずに、
一体何を守りたいのでしょう。
左翼の弁護士が被害者を抛っておいて、加害者の人権だけを守る
(法を破壊する為に、法を尊重する精神を貶めようとするのです)のと同じ考えではないですか。
如何なる者が差別されるべきかは、如何なる者を愛し守ることを自ら欲するかで知るでしょう。
神に背く者、悪魔に従うをよしとする者の邪悪が解らないようであってはならない、
邪悪を自らが容認する者であってはならないのです。
そのような邪悪を自ら憎み、撥ね退ける心があれば、善を愛する心があれば、
善を愛する者が如何なる民族であれ、国家であれ、差別する心を克服しているのです。
それに反して、己が民族、国家であろうと、神に抗う左翼、悪に染まった魂には、
徹底的に差別すべきであるとの意志をはっきり自覚することとなるでしょう。
悪を差別しない心に善を愛する心など存在しません。
(例えば、韓国人であれ真理を愛し、真理を愛する者を信じる心に生きている者なら、
竹島の問題も、真実が世界の良心の前に明らかとなることを求めるのが当然なのです。
そうでなけれな真理を求めない者と扱えばよいのです。
この世に、人の心に平和を齎す、
人を欲望に駆り立てる、偽我(自ら神の心を踏み躙る)から解放する真理を求め生きるように、
真理を顧みさせることを人々から奪う者は、
如何なる者も、神に抗う者、悪魔に魂を渡した者、
そのような者に善意を示せば、歯をむき出して嘲笑われることでしょう。)
心というものが如何に大切であるか、もし自分に感受性が乏しいと思うのなら、
考える努力をし続けねば何時まで経っても人の心を理解出来るようにはならないでしょう。
己の心を厳しく見ようと努めるならば、容易く悪霊の侵入を許す者であってはならないのです。
悪霊の波動を感受していることも知らずに、己が本心と疑わず、
自らの判断に誤りなしとの自己肯定の偽我に留まっていてはならないのです。
他の心を大切にする心を持つ者で、悪霊となった者は一人としておりません。
他の心を思い遣ることを知らぬ者は、悪霊と変る所はありません。
愛なくばパリサイ人のように聖書の言葉を掲げながら悪霊と一つになって、
聖なる者を殺すことも出来るのです。
愛なくば天使の言葉を語ろうとも喧しい鐃鉢の如しとパウロも言っています。
他(人の気持ち)への思い遣りのない者に、正義を語る資格はありません。
"いじめ"
〖参考
「こじれる人間関係 ドラマ的交流の分析」杉田峰康著 63頁
(人との係わりに於ける自他に対する基本的構えのパターンについて)
〇 私はOKでない。他人はOKである。
これは劣等感に悩んだり、憂鬱になり易い人がとる構えです。
この構えをとる人は、自己卑下や消極的な態度の為に、
自分をOKであると自認する人々と共にいることが苦痛になり、
中々親密な関係を結ぶことが出来ません。
そこで、親しくなることを回避して孤立し、憂鬱になったり、
後悔したりすることが少なくありません。
他の行動パターンとしては、他人の中に不快な感情(例、イライラ、怒り)
を挑発することによって、自分がOKでないことを相手に確認させることがあります。
"いじめられっ子"的な存在がこの例です。
また、この他に、自分の安心感を求める手段として、
権威的で支配的な人を求めて生きる人もあります。
頼りになる人を見つけるや、その人の指示通りに動き、
終始、従順な態度で忠誠を尽くすものです。
〇 私はOKである。他人はOKでない。
これは、支配的で疑り深い人がとる構えです。
この構えの著しい特色は、自分の肌に合わぬものを排除しようとする傾向です。
長い間付き合った友人でも、自分に親身に尽してくれた部下でも、
自分の利益に役立たないと見るや平気で捨てる、冷たい所があります。
子供や部下達は、すべて自分の思うように動く筈だという、
全能者のような考えを持っているからです。
また、相手をOKでないと見做して、押しつけがましい援助の手を差し伸べる人もあります。
日常生活では、自分の子供や妻(または夫)を無知だと嘲笑ったり、
親密な間柄の客や同僚の欠点をことさら取り上げたりする人に、この構えが見られます。
自分の内部を見ることを拒否し、都合の悪いことが起こると、
直ぐに相手の所為にしたり、責任を他所に転嫁する傾向があります。
〇 私はOKでない。他人もOKでない。
これは、人生は無価値なもので、何もよいことはないと感じる絶望的、或いは虚無的な構えです。
この構えをとる人は、他人が与えようとする愛情や注目を拒否し、
自分のカラに閉じ籠って、他人と交流するのを止めてしまいます。
人生のごく早期に親子の間で形成されるべき基本的な信頼感に、
大きな欠陥が出来てしまった為に、その影響が後の人生にまで尾を引いており、
根深い不信感や空虚感として現れたり、よい人間関係を破壊したりするのです。
この構えをとる人の中には、愛を求める欲求が特に強い為に、
相手が引き続き愛してくれているかどうかを、
何時も確かめておかないと安心していられない人があります。
しかし、また正しく人を愛する術を身に着けていないので、
却って相手の拒絶を招くようなことばかりしてしまうのです。
〇 私はOKである。他人もOKである。
(省略)
健全な心の交流によって、自分を信じ他人を信じる関係が齎される。
そのような心構えによって築かれる人間関係が述べられています。
それは健全な精神です。
問題はその為にはどうすれば良いかです。
八正道によって善我を妨げる偽我を厳しく見るならば、自分も他人もOKとは行かないでしょう。
磨かねば直ぐに曇るのが魂ならば、研磨なくOK(自己肯定)と心の目をも曇らすようでは、
悪魔の誘惑をも恐れるに足らずといった慢心が既に誘惑に落ちているということなのですから、
研磨なくとも善我(真のOK)を維持し得るとの思いは認識不足と戒めるべきでしょう。
「こじれる人間関係 ドラマ的交流の分析」杉田峰康著 153頁
「人間の精神の発達にとって、秘密を持つことは、大人になることを意味します。
幼児はすべてを外的環境に委ねて、親の前で言わば公開の生活を営む訳ですが、
成長するにつれて、自分の内なるもの(価値観、信念、内面性)に頼るように
ならねばなりません。
これは、思春期に至ると、子供が秘密を持ち始め、それを守ることによって、
自分を親とは別の一人の人間として主張することに、最も顕著に表れます。
しかし、子供によっては母親との結び付きが強すぎ、
また父親にこの子供の自立への葛藤を理解する眼が欠けている為、
言わば秘密の持ち損ないの状態に留まっている子供がいるのです。
「私を捕まえてくれ」の交流様式は、自分がよって立つべき内面性を獲得しようと求めながら、
未だそれを果し切れずにいる子供達の象徴的な行動として、理解出来る面があるのです。
次に、大人の場合、自分にも気付かない罪悪感に動機づけられている可能性があります。
読者の皆さんも、犯罪の報道に接して、
加害者が文字通り「自ら墓穴を掘る」ような行動をとっている、
とお感じになったことはありませんか。
時には、テレビに映し出される犯人の顔に、安堵感や解放感が伺えることすらあります
(これは、その後の犯人の陳述や行動によって確認されます)。
人は、母子間に信頼関係を欠いて育ちますと、
自己否定的な構えが身に付くことは前にも述べましたが、
更に自立の芽生えの時期(1~3歳)に痛めつけられますと、
強い自己嫌悪と自己破壊の傾向を持つようになります。
これは苦痛に甘んじる形でストローク(愛情の希求)を得る被虐的な性格
(注。いじめさえ、構って貰えたことを愛情として確認される心)を作りますが、
中には執拗な自己処罰の傾向へと発展する場合があります。
「私を捕まえてくれ」は、
この種の処罰要求を具現する一つの方法として演じられるのかも知れません。
目 的 … 捕まって自己否定の構えを確認すること。
仕掛け … 規則違反、盗み、誘惑、車による暴走など。
ただし、捕まる為に何らかの手掛かりを残す。
カ モ … 学校の風紀係、校長、警官など、監視する立場にある人。
並行的交流…見つかったり、捕まったりしないでいる間。
子供が親の言いなりになっている期間。
交差的交流…犯罪が発覚する時。犯罪者の怒りの爆発。内面性獲得への動き。
混 乱 …「どうしてわざわざ捕まるようなことをするのだろう?」悔悛の情の欠如。
結 末 … ⑴ 無念の情(内面性確立の失敗)。
⑵ 安堵感(自己処罰による罪悪感の一時解放)。」
例えば、自分のことしか考えない者によって周りが迷惑を被った上に、その後始末を負わされる、
それでも反省せず改めようとしない者を糾そうとすればいじめだと人の所為にする、
感謝することもなく、人に迷惑を掛ければ嫌われることも教えることの出来なかった、
自らの心を成長させることの出来なかった知識人や左傾メディアが、
自分達と同じエゴに生きる者が原因であると明らかにされても、
被害を受けてきたのは自分達ではなく、周りであり、
自分達こそが周りに被害を与えてきたことなど認めることは出来ないのです。
左翼新聞が真に罪を認めて心から謝罪したことがあったでしょうか?
ナルシストの偽善者たる左翼新聞に。参考終〗
「JI」89年9月号初出 ラファエル様メッセージより
「奇妙に男子で弱者の殺傷は殺人者自身がいじめられて、
その憤懣を下位の者に打(ぶ)つける場合が多く、
又、いじめられるタイプは内攻的で、ストレスの発散解消法を知らないか、出来ないから、
遂に究極的な破壊 ー 殺人又は幼児に等しい無抵抗な動物(ウサギなど)を殺して、
一時的な狂気の衝動を瞬時に発散、解消してしまう。
そういう精神症状が見られるのです。
社会の病的嗜好と歪みが作り出す、フロイト(モーセ様本体)に言わせれば、
"リビドーの発散"という現象でしょう。」
「JI」83年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」162頁
「共産主義者の好む総括の手段は、仲間である一人の人間を多数が批判し、吊し上げ、
二度とその屈辱を味わいたくないと思わせる効果を狙うものです。
しかし正法者は決してそうであってはなりません。
それは弱い者いじめの心理と何等変らないからです。」
「天国の証(78年8月初版)」91頁 ラグエル様メッセージより
「私達は天上界に於て、昨年五月よりベー・エルデのサタン、悪霊とその配下を交え、
何度も戦いを繰り返しました。
戦いの繰返しの中では、能力のあるサタンによる恐ろしい程の陰謀と術策の中で、
力は互角とも見え、勢力と数に於て、悪霊側が優勢と見えたことは幾度もありました。
その中で最後まで天上界の側に立ち、善霊として戦い抜いたものは幾名いたでしょうか。
初めの人数から見れば、約半数しかありませんでした。」
「ベー・エルデのサタン滅びし後、残ったものは昔私達と共に泣き、共に喜び、共に苦しみ、
共に勝利と栄光を味わった人々が半数、新しき魂が半数でした。
正しい側に立ってサタン側と戦い永遠の生命を失い、真の死を迎えた方は多くいられます。
しかし悲しむべきことは、戦いの苦しさとその長い期間に善悪の判断がぐらつき、
サタン側に寝返り、天上界を裏切った人があるということです。
数の大小に関らず、これは驚くべきショッキングな事実でした。
あれ程魂の修業に明け暮れ、
魂の転生輪廻の過程で数え切れぬ良き物、良き悟りを得てきた人々が、
次元の高低を問わず、我々善なる霊の世界を裏切ったのです。
これは永遠の生命への執着でした。
サタンはその攻勢の大なること、その兵力の無限なること、
決して天上界を滅ぼさずんば止まぬことを宣言し、
そして善霊側は数がどんどん減っていました。
そしてサタンはその時自分に加担する者は、味方するものには、
"永遠の生命を与えよう"と申したのです。
善悪何れにも関らず永遠の生命(何か大変素晴らしく見えるもの)を約束された時、
三次元の多くの人は強く見える方に付き、弱く見える方を滅そうとするでしょう。
天上界の善霊も同じことをしたのです。
人間の魂である四次元の霊は天国にいながら、同じ愚かな心を持ちました。
それ故私達の戦いは一層苦しいものになり、一層長く続くものになったのです。」
イエス・キリストを十字架にかけたパリサイ人の行為は、
多数(同じ心の者が多数を占めることで、少数を否定する、民主主義の世にも起き得るものです)
であれば悪であろうと、同じ心でありさえすれば思いを強め、自信を持ち、
一人自らの善なる心に顧みる謙虚な波動の心とは相容れぬ偽我に支配されたものであり、
憎しみを満たす、邪心を成就する、偽我に徹することを喜ぶその精神は、
いじめに於ても同じものでしょう。
勿論、イエス様が十字架を受け止めたのは、彼等の邪悪を満たすことを望まれたのではなく、
人々の邪悪に生きる心を知らしめ、絶望から救い得る神の愛を伝える為であったからであり、
滅びではなく救いを齎さんとする、彼等の憎しみに、只一人で打ち克つほどの愛があったから、
十字架を受け入れられたのです。
そのような愛を理解せぬ者が、
悪を声高に糾弾しながら、心に隠し持って来たことすら覚れぬ者が、
共産主義を総括を当然の正義と信じてきたような者が、
自らの悪に弱い心、悪霊の邪念に簡単に同調する心にあって、
人も、自らも罪から守ることなど出来はしないのです。
〖備考
"子が可哀相な時代"
「清らかな厭世(2007年10月出版)」211頁 阿久悠著
"抱く時に抱かずに
独り立ちの時に抱くから
子どもらは逃げる"
「子どもが夜更けて、家を出る。誰も気づかない。気づいても声をかけない。
気付かなかったことにしようと、目を閉じる。目を閉じたことへの罪の意識と後悔は、
子どもに与えた自由とそれに対する理解で帳消しに出来ると、考える。そうとしか思えない。
子供が夜更けて、家を出て行くのだ。
日が暮れたら真暗になり、社会のすべての機能が休止してしまった昔とは違うのだから、
子どもの行動を規制出来ないと、親は無理にも納得する。
いや、親自身が既に夜更けて家を出ることに慣れていた世代で、
子の身に何かが起こらない限り、対して異常なことだとは思っていないのかも知れない。
二十四時間の便利さを売る店や、二十四時間の空腹に応えてくれる場所があるのだから、
そこへふらりと足を向けて何が悪いと、実は親子ともども思っている。
欲望と便利を二十四時間に拡大することこそが現代であると、
誰かが囁きつづける呪文を信じ込み、夢遊病者かゾンビのように、夜の街を歩くのである。
家庭とか家族というのは、ハコ物のことをいうのではない。
ハコの中の時間を、どのように共有したり、個人のものに分散して使うかの、
マネージメントが存在することを、家庭とか家族というのである。
それらしきハコを、それぞれが自分勝手に出たり入ったりしている状態は、
家と人間の間に共通認識のない、ただのハコなのである。
かつて、日が暮れた、夜が更けて、子どもが家を出なかったのは、
真暗闇で社会が動きを停めてしまい、何もすることがなかっただけではないのである。
親も子もともどもに社会の中での迷い子でないことを確認するために、
絶対必要な時間であったのである。
家族とは迷い子の恐さを教え、迷い子にならない唯一の場として存在したのである。
夜更けて家を出ないのは、一つの秩序の実践として、
家族のマネージメントが行われていたからで、
決して、欲望や便利が外にあることは、エクスキューズにはならないのである。
子どもが夜更けて外へ出て行く。丑三つ刻にである。自転車を走らせる。
ファミリーレストランで食べる。コンビニへ行く。
丑三つ刻にである。百鬼夜行の時間だが平気である。
買物をする。しゃがみ込んでメールを打つ。眠くなって外のベンチに横になる。
魑魅魍魎が横を通り抜けても、眠りつづける。
これは何という可哀相な風景であろうか。可哀相で可哀相でたまらない。
仮に本人が強く否定しても、この場面は可哀相な風景なのである。
なぜか、ぼくは、♪唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は、後の山に棄てましょか …
という西条八十の詩を思い出した。子が可哀相な時代なのである。」
「清らかな厭世(2007年10月出版)」238頁 阿久悠著
"言葉を言い換えようとするのは
罪を認識し
実は告白したことなのだ"
「最近聞いた言葉の中で、最もインパクトがあったのは「教育は死んだ」であった。
教育再生会議のメンバーの一人が、「だから再生なんだ」「死んだから再生させるのだ」と、
その意義を語った時の痛みに似た衝撃である。
そして、それに呼応するかのように、いや、あたかも証明するかのように、
「死んだ教育の実情」が、北海道から福岡から伝えられてきたのである。成る程、死んでいる。
心を感じるものが一欠片(かけら)もないのである。
シラッとして、寒々とした空気が流れるだけで、悔いも、痛みも、悲しみすらも伝わってこない。
少年が、少女が、学校内での「いじめ」に耐えかねて死を選んだというのに、
心が波打つものが伝わってこないのは、どうしてだろうか。
教育とは何なのか。この当事者の教師や校長や、教育委員会の席にある人たちにとって、
子どもとは一体何なのか、子どもをどうする気で現在の立場にいるのか問うてみたい。
少年は、「生まれかわったらディープインパクトの子で、最強になりたい」と遺書を残した。
少女は「私のこと嫌いですか、気持ち悪いですか」と書き残した。
少年の場合、担当教師のからかいがいじめのきっかけとなったことが判明していながら、
校長は、「原因」ではなく「誘因」であると言い、「いじめ」を「プレッシャー」と言い換える。
この言い換えは、少女の場合にもあって、「遺書」と言わず、あくまで「手紙」と言い張っていた。
死んでいる。死んだ上に腐敗が進行している。
これはもう教育再生会議の一人が言ったように、
「修正」でなく「再生」でなければならないであろう。
現代という時代を感知する多士済々のメンバーのように思えるので、
どうぞ、ちょっとしたお役目という気持ちではなく、
死の底から這い上がる生の復興の気概でやっていただきたい。期待し、切望する。
ただ心配もある。ぼくも公の主催する会議に何席か出席したことがあるが、その都度絶望した。
それは、そこで何が語られ、何を実行するかはほとんど期待されていなくて、
「会を開いたことの意義」で終っていたからである。
何月何日、かくかくの顔ぶれで開催されました、これが世論の汲み上げであります、
という意義である。それを危惧する。
さらに、役人が報告書をまとめることを心配する。彼らの手にかかると、伝統の定食になる。
「遺書」が「手紙」、「いじめ」が「プレッシャー」的言い換えも心配の種である。
それから逃れる為には、メンバーにノンフィクションの達人を加え、
報告書ではないドキュメントを書いて貰うことがいちばんである。
それでないと熱は伝達していかないだろう。頼む。」
「清らかな厭世(2007年10月出版)」244頁 阿久悠著
"子どもは感光しやすい乾板で
大人の世界の見えない悪まで
写してしまうのだ"
「動物は同種での食い合いが始まると滅びる。
食い合いで勝ち抜いて勝ち抜いて、仮に最後の一匹になったとしても、種はそこで絶える。
勝者に幸福も栄光もなく、ただひたすら滅びに通じる道を歩むと知りながら、
目前の食い合いに勝たなければならないとは、なんて悲しい運命であろうか。
しかし、動物は時としてその道を選ぶ。猛々しく食い合い、最後の一匹を目指すのだ。
連日、子どもたちの悲劇が報道される。何故か誰にもわからない。
いじめは社会には常に存在し、学校の中にも昔からあったことだと言われても、
そうですか、だったら大丈夫ですねとは思えないのである。
いじめというある世界に於ける力の誇示、理不尽な格付けの儀式とは、違うように思える。
つまり、滅びの匂い、同種間の食い合いの感じがしてならないのだ。
そして、子どもが減っていく。本能的に子どもを欲しなくなっている。
だから、結婚したがらないし、子どもを作りたがらない。
また、貴重な一人が誕生したとしても、母であるべき人から子を守る本能がなくなっている。
本来、母としての本能は何よりも強く、
常識として、子を選ぶか男を選ぶかの選択に迫られると、考えるまでもなく子を選んだ。
ところが、最近は違ってきたらしい。男を選ぶ人が増えてきた。
男を選ぶどころか、男の関心を引くために(前夫との)子をいじめ、殺すことさえある。
異常である筈のことが、通常的に行われるようになっているから、
これも同種の食い合いかなと感じてしまう。
母と子は純粋の同血だから、滅びを感じさせるのも無理はない。
子どもは生まれず、子どもは殺され、子ども自身も死を選ぶ反面、
長寿国の誉れは付いてまわる。そして、ふと頭にうかぶ。
何の根拠もないことだが、生命体としての動物の不思議といおうか、
寿命と繁殖の関連である。
自然の仕組みか、神様の仕業か知らないが、
長寿を獲得すると滅亡への危機感が薄れ、繁殖の意欲が失せるのではないか、
という思いである。
そうしないと、強力な一種だけがアンバランスに増え過ぎてしまうということだ。
まさかね、そんなことは性質(たち)の悪い妄想だねと思いながら、
まさかとも決めつけられない戦慄を覚えているのだ。
多産の国が必ずしも長寿ではないという現実が、妄想の裏側にあり、
妙なリアリティーを持ってしまう。
さて、子どもたちのこと、ぼくらは真剣に悩み、考えている。
会議も開かれ、解決策の模索もする。
しかし、たぶん、長寿と一体の考え方はしていないだろう。
長寿があらまほしきことの結果であれば、子はそこを目指す。
そこが絶望の国と見えるなら、子らは死に急ぐ、とも思える。」
自分達に従わせる為なら、目的の為なら、如何なる行為も正当化される、
従わない者を吊るし上げる、総括する、よってたかっていじめることを是とした
共産主義者(日教組)によって教育(指導)された生徒が
いじめを何とも思わないのは彼等の洗脳の賜物ではないでしょうか。
未だに諸悪の根源が日教組、共産主義の邪悪
(民主主義国家の理念を憎悪し、力の支配下にあっての平等を強制し、人間の良心を、
神に従うを許さず、一党独裁(のどこが民主主義なのか)以外に従うを許さない)
であることに口を噤むのは何故なのか。
共産主義者の圧力を恐れるからか、それとも彼等自身が共産主義者であるからか。
オピニオンリーダーとか、社会の木鐸とか一体誰のことを言っているのか理解に苦しみますが、
そのような戯言を信じる人達があってのマスコミであるのは間違いないでしょう。参考終〗
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
備考 一考察
(四) 考えるとは
現象テープ№37 「メッセージ」より
82年1月10日 ウリエル様現象
「考えるということは、どういうことか。
悩むということではないのです。悩むことと考えることは違います。
あなた方を見ていて、特にそう思うのです。
だからあなた方は、考えが悩みに変わってしまう。苦しみに変わってしまう。
"思い込み"を"考えている"と思っている人(※1)も沢山いるようです。」
(※1注。その一例です。
「JI」85年2月号 ミカエル大王様メッセージより
「或る集いで質疑に出た正法の解釈について、以前にもお教えしたことがありますが、
再び解答致しましょう。
初心者の方でしょうか。
正法で人の為に愛を以て行動する自己犠牲を最大の愛としているが、自分には偽善的に思える。
自分の幸せを考えるとともに他者の幸せを考えなければいけないと思うが、と述べていました。
又、或る人はマザー・テレサのインドの貧民に奉仕の生涯を正法から見ると偽善的に思える。
しかしこの人が居ないと、多くの人々が困ることになる。
そこが自分にははっきりしない所だとあります。」※1注終)
「天国の証(78年8月初版)」104頁 パヌエル様メッセージより
「科学者こそ神とは何か、人間とは何か、その在り方、なすべきことを常に認識し、
人に問われれば説けるものでなければなりません。
人間に対して無責任で、学問をのみ追求するが故に、
道徳心が歪められ薄められてくるのでしょう。
発明、発見結果に対して責任を負わない人格が出来上がるのです。
ことの正確さをのみ問うていては、果してそれが善悪の基準に当てはめる時、
どのような性質のものであるか ー
その事に関して第二義的にならざるを得ないでしょう。
善悪を知り、それを選択し、行為に表す。
それを可能ならしめるのは人間のみに与えられている知能の高さです。
原因、結果を究明出来るのは人間のみです。
その対応策を考え得るのも又しかりです。
最高の知識を得ていても、道徳心が欠如していては、
知能犯と同じであると結論を下されても反論出来ないのです。
そして如何に学識者に徳の心を欠く人が多く見られるか(注。学術会議はその典型) ー
それは嘆かわしい限りなのです。」
天上界の方が(人類への愛から)私達に齎さねばならぬとされた真理を、
真理であると理解出来ない者が、自分が正しく天上界が間違っていると拒みました。
神が真理を伝えられている、
それを理解出来ぬのが己が魂であると覚るだけの知性があったら、
己が愚かさに打ちのめされたことでしょう。
天上界が正法【学習を通じて開発された前頭葉に宿る
神の心(理性)の働き(条件反射)によって、
( 真に人を生かしてきたものであり、自らが他を生かす者となる為に理解を求められてきた)
真理を見出そうとする科学的(本質を求める)思考法】を、
八正道【真理か、真理に背くものか見極め、真理にのみ従うように心を律する方法】
を伝えられました。
天の伝えられた真理も、人が真理を理解出来ねば無意味であり、
理解する為には、大脳(精神)が開発されねば不可能である、
科学的思考を持たねば真理を理解する能力を獲得出来ない
(そのことは最初の天上界メッセージで伝えられた)のであり、
そのような理解の及ばぬ者達に天上界の伝えられた真理が否定されて来ました。
更に彼等を真の天上界と認め、天の導きを得た者達さえ、
天上界の歩み寄りを、自らが天に近き者と認められたと勘違いし、
神を前にして敬わずにはおれない、
真理の現れに心打たれることが、謙虚な心へと神の至高の愛に清められることがなかったのです。
知識なら理解出来るかも知れませんが、
知識を伝えられた方の思いを自らのものとするには自らの内に神の心を養わねば不可能です。
しかし知識だけで満足し知識を正しく生かすことを考えないならば、
大脳が開発され理性が育つこともありません。
真理を理解するだけでは真理(に生きること)を愛する心は生まれないのです。
愛が生まれなければ(愛に生きる意志を持たねば)、真理に導く神々の心は伝わらないのであり、
天への道も愛がなければ歩めません。
何の為に考えようとするのか、天と同じ目的に心の向く者でなければ、
天上界の平和を地上へと、人の心を平和へと導く正しい思考は齎されないでしょう。
「現代訳 論語(為政第二の一五)」下村湖人訳
「他に学ぶだけで自分で考えなければ、真理の光は見えない(※2)。
自分で考えるだけで他に学ばなければ独断に陥る危険がある(※3)」
(※2注。
考えることを奪われ、洗脳によって作られた教条主義者はその典型に思われます。)
(※3注。
真理の、善のフィルターに掛けられることなく
無条件に掲載されるインターネットのコメント欄にそのような自己主張がよく見られます。)
厭な思いや苦しい思いから救われたいと思うから、
どうすれば解決できるか、救われるか、答えを求める気持ちが、
メッセージを学ぼうと、メッセージから答えを見つけようとするのでしょう。
知識・真理(正しい指標)を生きる(努力する)ことで、
知恵を得る(理性を開発する)、解決する、自らを救うのです。
悪人に苦しめられても神様が復讐して下さるからと、自らの努力を放棄しては、
己が魂を救う、正しい条件反射を持つ心を自分のものにすることは出来ないし、
この世をユートピアにすることなど永遠に出来ないということです。
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
備考 一考察
(五) 本質を求めるとは
やたらと省庁を新たに作るのが政府の方針
(単に大臣を増やしたいだけなのでしょうか)のようですが、
そのような問題にもこれまで努力してきた関係者に報いるとか、生かすことを考えたら、
彼等を軽んじているとも取れる別の省庁を作るというのは、
信義を重んじる者のする事とは思えません。
これまで培ってきたものに、善いものがあればそれを大切にする心がないなら、
新しいものを作っても善いものに育てられるとは思えません。
イエス様の法がモーセ様の伝えられた天の法に則った上で、善の本質を継承された、
真に善を愛する心の上に立って、普遍の神の法を広めてゆかれたように、
人の善なる心にとって永遠に指針となる普遍の真理を、神を、神の法を信じ、求める心が
日本人に不足しているのではないでしょうか。
八百万の神々を信じているとしたら、紀元前の偶像崇拝に生きた人々と何ら変わらない精神です。
真理を明らかに出来ぬ神など、一体何を為さる神なのでしょう。
真理と共に在っての神ではありませんか?
「天の奇蹟・上巻(80年10月初版)」104頁
著者(岩間先生)の質問への ラファエル様による解答より
「この聖典(新約聖書)を伝えた民族が文化が低く、大部分が稚拙な表現や、
ヘブル人特有の民族性、習慣を通じて伝えられたものであろうとも、
私達天の与えた真理は永遠のものであって、
(現代を救う真理として、新約聖書に代わる正法を齎した)
私達がそれを否定する者では決してないことは、
イエス様が旧約の律法を否定される立場になかったと同様のものであると
理解して頂かねばなりません。」
神の伝えられる真理の本質を理解していたなら(理解せずに信じることは無意味です)、
天上界が(法に生きることで真の救いを見出すように人類を導かれた天上界の愛を見失った)
ユダヤ人を救う為に、イエス様を通じて伝えられた神の愛が理解されていたら、
神の齎された救い主に躓くことはなかったのであり、延々と現代に至って尚、
ユダヤ教徒はイエス様を、イエス様の伝えられた愛が真の神の御心であることを
覚ることが出来ないでいます。
「JI」87年7月号 ミカエル大王様メッセージより
「日本人というのは、どうしてかくも愚かにも非合理的で非論理的なのか。
イエス様の時代に見受けられた古代ユダヤ民族の迷妄と同じものを、
遺伝的に継承したとしか思えない民族性を持つ一部の人々が居り、
そういった人が、只、末法、末世の崩壊へと手引きするものにしか過ぎないこのような霊言の書
(大川隆法(幸福の科学)の著書)を、平気で出版する無神経さを持ち合わせていることに、
実に歎かわしいものを感じます。」
(中略)
「千乃裕子によって仲介される正法即ち天の法は、
宇宙と自然の万物と諸法則を貫く、唯一無二の真理であり、真実である。
最高の論理性を持つものと解釈し得る能力がある筈。
それが出来ない大川氏の霊は悪霊そのものであり、
大川氏個人の判断力は明らかに高次の霊の仲介者としての能力を欠くものです。
"学歴必ずしも智恵ならず"を証明する人物でしかありません。」
真の神々が初めてその御意志を自ら人々に語り掛けている、
神御自身が救いの手を差し伸べられている。
人々が神を顧みる為に、その神のメッセージを人々に知らせようとするどころか、
人々の目を天上界から奪うに等しい、人々の前に臨まんとされる天上界の前に立ちはだかり、
天上界が証するのでもない者が天上界メッセージと称して語る。
そのようなメッセージはすべて真の天上界に抗う、
人々から神の救いを奪う、悪霊の仕業なのですが、
真の天上界メッセージを知ることなく、神の導きを奪われた、悪魔に導かれた魂には、
真理を悟る知恵を得ることが出来ないのです。
天上界を裏切り、善霊達を唆して天上界に背反させた為に、
天上界に消滅された高橋信二氏を詐称する悪霊の霊言集を出版したのは、
大川氏(幸福の科学)のみならず、(悪霊仲介の)霊能者が他にもいるようですが、
九次元の神々が、"天上界"と名乗られ、
その実在を証され、その思い(意志)を籠められたメッセージです。
霊界や幽界のこの世の俗人と何ら変らぬ霊の騙る戯言を
天上界メッセージなどと言って伝えて頂きたくありません。
真の天上界の徳を、権威を蔑み貶める悪霊の騙るメッセージを天上界と呼ぶなど言語道断、
騙される方も知恵なき者。無論、神々を騙る悪霊は消滅です。
第一部 天の教え
第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について
備考 一考察
(六) 寄付について
以前、大資産家が多額の寄付をされたことで、多くの人々が賛辞を寄せておりました。
金銭に関することは、世の人々やマスコミの関心が高いことなので、取り上げられますが、
貧乏で寄付出来ない人々も慈善活動を行っている人々は大勢います。
世間の評判にならないだけです。
(神の心からの行為を、金銭の大小という俗物の物差しで測る者が、
自らの内にその心を見出すことは出来ないでしょう。)
善意に生きる人々は、多額の金銭を蓄え込むようなことはありません。
蓄える前に余分な金銭は寄付することでしょうから。
(有り余るほどの金銭を持つ者が、生きていく上で金銭の不足に悩むことのない者が、
金銭に興味を失うことはあるでしょう。
金銭の執着を後ろめたく思っている者が、自分はそんな人間ではないと、
真実の自分から目を逸らせようとして与える心に生きる者を称える。
そのような自己欺瞞は良心を遠ざけるだけです。)
貧しい寡婦が全財産を賽銭箱に入れたことを、イエス様が褒められたと聖書に記されています。
神の心に素直に従って生きる者を神は喜ばれる。
金額の大小を問うなど神の心を汚すものです。
だからこそ(目に見える物質しか認めぬ、神を認めぬ、マルクス主義に毒された)
マスコミが金銭で人を測ろうとするのでしょう。
思いの純粋さを、偽りのない愛を神は喜ばれます。
そのような心は、無理に善行をしても得られるものではありません。
無理を強いるのは善我ではなく偽我です。
神に愛される為の善行は、自分の心に向けられた自己愛による行為であり、
人の心に伝わっていく愛を持ちません。
また金銭を与えさえすれば、人は正しく受け取る、正しい思いに立ち返る訳ではなく、
何でも金銭で解決しようとしても真の解決が為されるとは思えません。
例えば教育者、医療福祉関係者を正しく育てる、
金銭を人の為に有意義に役立てようとする人間をまず育てるべきであって、
そういったことは全く考えることなく、
誰にも平等に給付金を渡せば、みんなが政治に満足して、
この世を良くしようとする人々が育つ訳ではないでしょう。
そのようなことは真の政治家のすべきことではないと思います。
〖参考
カリール・ジブラン著「預言者」 至光社刊
「施しについて」より(抜粋)
「自分の持ち物を施したところで、施せるのは結局わずかです。
自分自身を施してこそ、真実施したことになります。
あなたがたの持ち物、それは明日(あす)への慮(おもんぱか)りで蓄え込んだもの。
明日(あした)?賢すぎる犬に明日(あす)が何かを与えますか。
今日(きょう)、跡も残らぬ土のなかに骨を咥(くわ)え込んでも、
明日(あす)は聖なる町を目指す巡礼たちについて行くことになるのに。
窮乏を恐れるというそのことが、つまり窮乏なのではありませんか。
水が溢れている井戸がありながら、なお渇くことを恐れているなら、
その渇きは結局癒やされることはないのです。
沢山持っていながら、少しだけ施す人がいます。それも、ひとの評価を求めて。
その贈り物は腐ります。そこに隠れている欲望で。
少ししか持たず、しかもすべてを施すひとがいます。
生命とその恵みを信じているので、かれの財布が空になることはありません。
喜びをもって施すひとがいます。その喜びがかれの報いです。
苦しんで施すひとがいます。その苦しみがかれの洗礼(きよめ)。
施しても苦しむことなく、喜びも求めず、徳の何かをさえ思わないひとがいます。
そういうひとは、かなたの谷の香木ギンバイカが
その香りをあたりに撒き散らすように施す。
こういうひとの手を通してこそ、神は語りかけ、
こういうひとの目を通してこそ、神は大地に微笑(ほほえ)みかけるのです。
求めに応えて施す。それも結構です。
しかし、それに勝るのは、求められないでも、求める心を知って施すことです。
求めているひと、受けてくれるひとを探すのは、
寛(ひろ)い心の持ち主にとっては、与えるよりも大きな喜びなのです。
それに、あなたがたがいつまでも持ち続けられるものがありますか。
今持っているものは、みんな、いつか他のひとの手で施されてしまいます。
ですから、今、自分で与えなさい。
与える季節(とき)があなたがたのものとなり、跡継ぎのものとならないように。
あなたがたは、よく、
「与えてもよい。しかし、それに値する者にだけ」と言います。
でも、あなたがたの果樹園の樹々(きぎ)や牧場(まきば)の家畜の群れは
そうは言わないでしょう。
かれらは生きるために与えます。
なぜなら、かれらにとっては、保つことは亡びることと同じなのです。
確かに、その日々、夜夜(よよ)を享(う)けるものは、
それが何であれ、あなたがたから受ける値うちがあります。
生命の大海で飲んでいる者は、
あなたがたの小川でその杯(さかずき)を満たす資格があるのです。
受けるという勇気、信頼、いいえ、受けるという慈善、
それに勝る功徳(きどく)がありましょうか。
いったい、あなたがたは何様だというのです。
ひとの心を引き裂かせ、そのプライドを傷つけようとする、
そのひとの痛む心、隠している誇りを引き裂くために。
先ず考えなさい。自分は、いったい施しをするのに相応しい人間だろうか、
施しの相応しい道具なのか、と。
まことに、生命の与えるのは生命自身。
与えるのが自分だと思い込んでいるあなたがたは、その立会人でしかないのに。
そして、施しを受けるひとたちよ。 ー およそ、ひとは皆、受ける者。
ー 重んじ過ぎてはならない。感謝することを。
自分にも施すひとにも、軛(くびき)を負わせないように。
むしろ、施すひとと共に、その贈り物の上に立ちなさい。
ちょうど翼の上に乗るかのように。
贈り物を重んじ過ぎれば、贈るひとの物惜しみしない心を疑うことになります。
かれの母は、物惜しみしない大地であり、かれの父は神であるというのに。」参考終〗
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様