第一部 天の教え
第八章 宗教
四節 神(真理)に生きず自己保存に生きる盲目の宗教

 (一) 神に向き合わずして、誰に真理を学ぼうとしているのか
 如何なる病に効力を持つ薬か理解し、投与し得る者であっても、
患者の病を正しく判断出来ないなら、最適な処方が解らず、治せません。
 人の心の病も変りません。何故苦しんでいるのか、その苦しみも人の心によって原因は違います。
 ブッタ様は"人を見て法を説け"と仰しゃいました。
 人の心、気持ちが分からない、人の苦しみ、悲しみを感受する心を持っていない、
思い遣る心を蔑ろにしてきた者は、幾ら立派な教え、教義という真理(薬)を知っていても、
人の苦しみ(病の原因)を理解することが出来ず、治癒への道を示すことが出来ないのです。

 風邪で熱が出るのは、熱によってウィルスを滅する為であって、
熱で苦しむのは体を治しているからです。
 道を誤り、人がその自我を損なおうとしていることを、
悪の思いに占められようとしていることを知る内なる霊の善なる波動は、
人の心から善への思いが失られた時、伝わらなくなります。
 そうならない為に訴えかける熱意が、人に意識される時、
良心の呵責(痛み)となって理解されるのです。
 良心に背かせる原因である偽我を取り除かねばならないのに、
痛みを感じる心が病気であるかのように、心を逸らす、
気を紛らわせる(原因に向き合おうとしない)ことを奨める、
 良心こそが心の生命であることを理解しない医者(カウンセラー)。
 罪を悔い改める心に導かずして、良心の呵責を感じなくとも(裁きを畏れる自己保身から)
懺悔すれば、許されることを信じさせる宗教家。
(人に罪を犯したのみならず、
自らの魂を救う良心をも自ら滅し去り、悪の条件反射しか残されていない、
神に消滅されるしかない魂だからと、消滅されてしまえば文句も言えないのだからと、
罪人に向かって懺悔すれば許されると言って安心させるのは、
優しさからのホワイト・ライであり善意であると自己肯定しているのかも知れませんが、
それを真に受けて、悪の条件反射を断ち切ることなき邪心から再び罪を犯す、人を不幸にするなら、
その罪は似非宗教家にも当然あること位は覚悟して置くべきだと思います。)
 神(良心)に背く罪を、たかが人間(宗教家)が、
神の赦しを約束し得る程の軽いものへと貶めているのが宗教家です。


 神への罪を犯した者が、その悪の心を自ら罰せずして赦しはない、
その心へと導いてこそ宗教家であるのに、人を邪心から神の心へと救い出そうとしない。
 罪への苦しみは、罪を生んだ邪心を滅することで癒されるのに、邪心に目を向けさせない。
 神の痛みを理解しない、心に掛けない者が、罪はキリストに贖われていると言って、
罪を理解出来ずに魂を失おうとしている人々に、神の許しを約束して安心を与える。
 神を裏切る心が、罪に生きたのです。
 神に生きる心を自ら取り返さずに、どこに救いがあるのですか。
 神に背く罪をその程度で済むとの認識を罪人に植え付ける彼等は宗教家ではなく、
悪魔の仲介者に過ぎません。


 人を正しく導くべき立場の者が、人を神の救いから奪い取っているのです。
 盲が盲を導いて、人を滅ぼし、自らも滅ぶ。
 その罪は、神の赦しに与ることの出来ぬものです。
 ブッタ様が、人が理解することで、真理を悟ることが出来るように、慈悲の心から語られ、
その真理と共に、真の仏の心から出ずる慈悲の心が人々の心に伝えられたのです。
 ブッタ様の救おうとされている思いが、
人の心を真理を受け止めるに相応しい善我へと導いたのです。

 ブッタ様の慈悲の心を理解しない僧侶が、人が聴いても理解出来ないにも関らず、
お経を聴けば、念仏を唱えれば成仏出来ると思い込ませて、真の悟りへの道を阻んでいるのです。
 経に書かれた意味を真に理解されているなら、
読経で人の魂を鎮められるなどと考えられないでしょう。
 人々を救う為に、人に真理を伝える為に一生を捧げられたブッタ様の熱意を
心に感じているでしょうか。

 良心が苛まれるなら、悔い改めるしかない、
良心に戒めの力が無ければ、真理の言葉に良心が目覚めないなら、
良心を捨てたに等しいのです。

 魂を鎮める、自分を許すには、その前に(偽我に生きる)罪を悔いて、神の道を生きる、
良心に向き合うことからしか始まりません。
 意味も分からない人々にお経をあげて、
成仏などとそんな偽善が神様に通用すると思っているのでしょうか。
 神が真の教えを伝えられようとしている今、その教えを悟らず、人々の知る妨げとなるならば、
盲(めしい)が盲を導く譬えにある通り、天に罪を犯すことになるのです。

現象テープ№11 「正法を学ぶ人のためにⅡ」より
 78年10月16日 ミカエル大王様現象
&「慈悲と愛」78年11月創刊号初出
&「天上界メッセージ集」21頁

「牧師であっても、僧侶であっても
天上界の語る言葉とサタンの惑わしを見抜けぬ者の方が多いという悲しい事実も知っております。
 それが故に宗教は人の知的水準を高めるものではなく逆に低めるものであり、
盲いたる者にするものであるとの結論に達し、その解体に踏み切ったのです。


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 (二) 魂の量られる基準についての認識の甘さが、悪魔の誘惑を許す原因
「慈悲と愛」79年1月号11頁 「質疑応答(ミカエル大王様解答)」
「今の世の中は科学的、合理的、実際的な理解を求め、その教育を行っているものが大半です。
 その中に旧態依然として、昔の抽象的表現と教えとを固持し、僧職は僧衣を身に纏い、
人々から崇められ、有難い心の教えを与えてくれるものといった印象を人々に与え、
一つの階級意識を持つと同時に、無知な人にも心と行いさえ良ければ、
ブッタ様と同じ御仏となることを暗に説き、人々の名誉心を掻き立てる。
 心理的に見ればこういった相関関係にしかありません。

 如何に教理が立派であるとはいえ、"大日如来即大宇宙である"といった表現は
非常に誤解を招き易く、改めて頂きたいものだと思います。
"大宇宙即大宇宙"であり、個人は大宇宙、大自然の心を持つ事が出来るけれども、
肉体、霊体としてはあくまで、天上界(極楽)、地獄、即ち霊の世界共に、
宇宙の一部に過ぎないということです。

 どのような人間でもブッタ様のお悟りを得る事が出来る ー 
と教えるのは増上慢を人々に植え付け、創価学会のようなアスラーの団体や、
天狗界に落ちるべき人々を生み出す結果にしかならない
ものです。
 何があのような宗派を生み出したかを反省し、改めて頂きたい。
 
 特に"即身成仏"の教えは
仏となろう"という野心と名誉心を人の心に植え付けるに過ぎない事を
理解して頂きたいと思うのです。
 これも誤った教義の一つです。
 そしてまた残念ながら、

高僧・名僧の誇りも即身成仏の教えにあると言わざるを得ないのです。
"仏となるまでの心の修行をした身である"といった誇りです。
"神の選民であるクリスチャンの誇り"と同じようなものです。

 こういった人々は三次元に於て得られる尊敬と名誉、
メシヤとして崇める教祖やローマ法王や大僧正(といった地位)は、
三次元に於てしか通用せぬものである事を知らないのです。

 天なる世界、天国、極楽浄土に於ては、
三次元で得た三次元の人々により与えられる地位と栄誉は少しも考慮に入れられず、
只天の尺度に合った地位と名誉と称号が、

各々の魂の徳の高さ、悟りの深さに応じて与えられるのです。
 三次元の推奨は少しも加味されません。
 それ程三次元の尺度は、魂の練磨に於て甘過ぎるのです。寛大であり過ぎるのです。


 おおよそ宗教者として高い地位にある方は一介の牧者、洗礼者ヨハネ、
一介の修行僧、禅僧、托鉢僧の心を何時までも忘れずにいて頂きたいのです。
 教えるべきは"衆生済度"の心のみ。そして"魂の研磨"のみ。
 その他に必要はありません。


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 (三) 人類はメシヤを受け入れない
「JI」84年8月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」188頁

「最近偽者の救世主が日本の内外にかなり増えてきておりますが、
メシヤという形は廃したと既に発表致しました。
 私達真の天上の者を偽者と極めつけ、
無視する悪霊憑依者のみがそういった愚言で人を迷わせて楽しんでいるのです。


 形は廃しましたが、真の(現天上界の遣わした)メシヤは私達と共にあり、
私達が今メシヤとしてあなた方を救おうとしているのです。

 それをはっきりと心に留めて置いて頂きたい。
  一人のメシヤが再来によって遂には全人類を救うという予言は
過去の神話と化してしまったことを、偽者を擁護して恥じない人々に教えて頂きたいのです。
 現実を弁えれば、そのようなことは不可能であると悟られるでしょう。
 民主主義の世に人々が一人に従う筈がありません。
 必ずイエス・キリストを殺害する衝動が再び人類に起こるのです。
 彼等は英雄を実際には求ておらず、昔も今も同じ、
一人一人がその英雄になりたいという嫉妬心と功名心しか持ち合わせておりません。
 悪霊の扇動が又、それを可能にし、メシヤを十字架に付けてしまうのです。
 人類は自分の心を知らず、誤りを犯してきました。
 私達はそのような悲劇を二度と起こらせない積りです。

 この決意は今後も変りません。

 私達は偽者と偽預言者を操る悪霊を次々と滅してゆくでしょう。
 世の終わりは来るべきではありませんが、
もし必然的に来るならば、その時あなた方は悟るでしょう。
 人類を救う一人のメシヤの再来はなかった。天は与えられなかったと ー 。
 救われるならば、私達に救われるのであり、他の者の惑わしに依ってではないことを ー 。」

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 (四) 悪魔に魂を売ったキリスト教会の歴史
「希望と愛と光」81年4月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」(84年7月初版のみ197頁に掲載)
「如何なる時代にも、義人の行く道に花咲くことはなく、人は背を向け、敵意の瞳が光り、
天への信義のみが、義人の心を支えるのです。」

「ローマ・カトリックに的を絞れば、古くは中世教会の権力絶大な時代を思い起こすまでもなく、
科学者、改革者の迫害、
ジャンヌ・ダルクは私が使命を遂行させた聖女であるにも関らず、
火刑に処し、その罪許し難く(※1)、
天の許可無く免罪符なるものを、値を払わせて売り、教会の封建制と非科学性は他に類を見ず、
人口過剰が地球上の人類を飢餓の時代に追い込もうという恐れのある時に、
"産児制限"は罪であると平然と述べるヨハネ・パウロⅡ世は何を目的とし、
何を代表して語るのか、私は知らぬ、と言いましょう。

 核廃絶は別として、彼は"自由と平和と軍縮"を、自由で平和な、
そして防衛力を必要とする国に来て、繰り返し述べますが、
そもそも現在のバチカン市国を勝ち得た教皇庁が、
第二次大戦中、ムッソリーニと結び、軍事政権に権威を与え、
自らは領土を得た(※2)ことなど、知らぬげに、バチカンの元首は反戦を説き、
天上人の世界を治める者の如くに崇められているのです。」

「キリスト教徒である共産主義者、社会主義者が益々増え、実際に世を乱していることに、
教会は何一つ触れず、ヨハネ・パウロⅡ世は彼等と同じことしか提唱しない。
 それが世に妥協せぬ証だと考えている。」

自己が永遠の生命を得る為に、宗教という衣を着て、
権威の象徴として免罪符を、人々の信仰と引き換えに売り、
金品を集めるのが当然の如く行われた宗派であり、
異端の迫害に血塗られた歴史を持つカトリック教会及び無思慮なローマ法王が
私の裁きの剣を逃れられるとでも思っているのでしょうか。

 彼等の行為は足の下に人を踏付け、上半身のみで祈りの姿勢をしている者の如くです。

 ローマ法王が熱烈な歓迎を諸国で受け、ホメイニが一国を動かす程の権力を持つような
世相であるが故に、天の正しき道を伝える者は少数であり、
細く険しい道を歩まねばならぬ邪悪な時代なのです。」

※1注。
 神の使命を遂行されたイエス様を処刑したパリサイ人(古代ユダヤ教の一派)
と同じことをローマ・カトリックは行ったのです。
 その後、カトリック教会はジャンヌ・ダルクを聖女に認めたそうですが、
サタンに仕え、神の計画に反抗し、神の遣わされた聖女を殺したことを認めた
カトリック教会のしたことが、ジャンヌが魔女ではなく聖女であったと認めただけです。

【「マタイによる福音書」第二三章三〇節より
 『もし私達が先祖の時代に生きていたなら、
 預言者の血を流すことに加わってはいなかったであろう』と、
 このようにして、あなた方は預言者を殺した者の子孫
 (尚悪いことにカトリックの信者は自らの意志で信者になったのです)
 であることを自分で証明している。
  あなた方もまた先祖達がしたように悪の升目を満たすがよい。
  へびよ、蝮の子等よ、どうして地獄の刑罰を逃れることが出来ようか。

 神の遣わされた聖女を認めず殺害した罪を悔改めることなく、
この世に姿を現わされた神をも認めず、今再び神の救いを地に擲ち、真の神に背を向けるならば、
その宗教が導こうとしている世界が天国であると盲信する信者には、
如何なる者の支配する世界であろうと彼等の魂にとってそれが天国なのかも知れません。※1注終)

※2注。
(他の(国の)ものを盗んで天に罪を犯していないと考える、悪を為し、神を侮る二重の)
罪を認め、バチカンの領土をイタリアに返還し罪を償おうともしない
ローマ・カトリックが天上界に許される訳がないのです。
 イエス様の教え(神の救い)を人々(と共に聖霊)が世界に広めたのは、
この世のもの(領土)を得る為だったのでしょうか?
 誰がそれを欲したというのでしょう。
 一体彼等は誰に仕えているのか。
 ユダですら、イエス様と引き換えに得た
銀貨30枚をパリサイ派に突き返そうとしたではありませんか。
(罪に穢れた金であるからと、受け取りを拒否され、悪魔に魂を渡したことを、
真の神を裏切ったことを悟った彼は自害しました。)
 自らを罰することで神への罪を贖おうとしたユダにすらローマ・カトリックは劣る、
神の代行者を名乗る厚顔無恥の宗派です。※2注終)

「天の奇蹟・中巻」岩間文彌著 82年9月初版295頁
 著者(岩間先生)の質問へのミカエル大王様による解答より
「ユダヤ教が共産主義を産み、キリスト教が呪われたのは
偏(ひとえ)にこのサタン・ダビデの故であり、呪われた宗教を私達は解体し、
三次元の人々との交流を再び新しい形で持ちたいと願っているのです。

 天に顔を反(そむ)けた多くの人々には私達の真意は通らないかも知れませんが ー 。」

〖備考
 真の神が、その姿を明らかにされたのですから、
ローマ法王(のみならず、世界中の王室を含めて)はその役目を終えたのです。
 彼等を神の代行として立てられ、支えられたのが現天上界なのです。
(善き指導者へと導くため彼ら自らが転生(合体)し、民に善政を施されてこられたのです。
 彼等は今生に於て、そして天上に於て王(族)であられました。
 真の指導者を通して伝えられた神へと繋がる善の観念を、
善我の支柱とすべく文化へと国民を導き、
やがてすべての国民が持つべき責任を自覚する真の民主主義へと
時代を通して意識を高めてこられた一つの手段が王(天皇)制による善政でした。)
 血筋はよい性格が遺伝された場合のみ尊ばれる価値を有するのです。
 個人の人格が天と繋がり得ないものであれば、血筋など何の役にも立ちません。

(注。
「JI」88年9月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」111頁

「日本の人達の本質は、国境のみで他国と接し、生活を文字通り闘い取ってきた国々とは異なり、
鎖国の長さと、天皇制に統一された国として、まだまだ他人への信頼も大きく、
"まず人を見れば泥棒か強盗と思う国柄"ではなく、純粋な人が多いのです。
 それが故に私達はここに居り、天の新しきメンバーを養成して居る積りなのです。」注終)

 フランスをイギリスから取り戻す為に、オルレアンを開放し、
ランスの戴冠でシャルル七世を国王とするようジャンヌに命じたのが現天上界です。
 現天上界が、ペテロの後継者であるローマ法王を守ってこられたのです、
中世に於て教会が絶対的権力を握り、堕落するまで。
 彼等が現天上界を認めず、絶対神を崇めるならば、
今この現代にあって、その絶対神に成り済まし得る存在は、
真の神(現天上界)に滅せられるまで抗い続ける悪魔以外に居はしないのです。

 彼等が神の代行者であるという自覚があるならば、神が何故自分達をお立てになったのか、
神が自分達に何をお望みになられたか、
この末法の世に、今救いが現れねば、人類が救われることはないと、
その危機をも悟れぬ人類に現れた現天上界の思いの最も近くにあるべき人々が、
この代行者達なのです。
 彼等がその心を持っていたのなら、神々のこの時まで自分達に託された思いを知ったら、
誰よりも心打たれたことでしょう。
 誰よりもこの真の神に応えようとするでしょう、

神の心に繋がる良心に生きてきた者なら。
(今この世に生きる人々は、如何なる高貴な家柄の生まれであろうと、
その魂に於て量られることなく神の子として認められる訳ではありません。
 神の子に相応しい生き方を貫いた者の魂だけが、
死後初めて神の子として天上界に迎えられるのです。)

 彼等は、心の盲いた庶民の理解の助けとなり、
彼等を立てられた神を彼等の内に人々が見出し、
人々を神に繋ぎ、神の求める生き方を自らによって知らしめ、

神への信頼の心に人々が生きられるように、
真に神の御心に適う者で在らんとの心に彼等が生きる限りに於て、
(王は神の承認の下に、その(代行者としての)権威が与えられてきたものと信じた)
庶民も、悪魔に導かれることなく、真の神に繫がる心であり続けることが可能となるでしょう。
 現天上界の真の神々を認めず、人々が真の神に出会うことの妨げとなるならば、
彼等が神を語る資格など、彼等の言う権威など、神の与り知らぬものとなるのです。

 神の嘉される心が、
(神を顧みぬ)この世の賞賛や名誉や地位に生きる心とは相容れぬものであり、
この世の与える如何なる評価も天に於て加味されるものではないことはよくご存知と思います。

(この世に於て如何なる力(知力、財力、影響力、支配力、名声、権威)を誇る者であろうと、
その魂は神の御前にあって、全くの無力であること、
そして一生を通して神の人類への思い
(即ち人のあるべき姿、人が知るべき本当の望みを知り、真理に生きる魂を養うこと。
 それが出来るのは今生に於てしかないことを知って、
自らを救い、神の思いに生き、人を救わんとする心に目覚めること)
を顧みることなく生きた心は、
神の御心を知る者の如くに神を愛することの出来ない、
自己保存に生きることしか知らぬ心故に神に従うのであり、
悪魔に唆されれば神を裏切る心しか養えず、そのような心を自らに許してきた者です。

 そのような者がこの世のに於て如何に価値ある者とされても、
神の愛を受け止めることがない、神の愛を生かせないという事であり、
そのことを一生気付くことがなかった心は、
永遠に真の神を、神の心を、それを知った者の喜びも知ることが出来ない、
その心に相応しい偽りの神に導かれるしかないのです。
 この世が幾ら持てはやそうとも、そのような者はこの世に一時存在したに過ぎず、
神からも忘れ去られるしかないのです。)

 
今、天上界の神々は、私達一人一人と直接に繋がることを望んでおられます。
 彼等こそ真の神々であると信ずる者に、
神々と直接に繋がることが出来るのだと天上界は仰しゃっているのです。
 どうして神々の仰しゃることが信じられないのでしょう。
 神々と直接繫がることが出来ると天上界から聞くことが出来て、
喜びが溢れてこないのでしょうか。
 私達は神を求めていないのでしょうか。
 神よりも、神の代行者とこの世が持ち上げている人々に従うことを
私達は願っているのでしょうか。

 神々が直接語りかけることを望んでおられると言うのに、
その代行者達にのみ語り掛けるのが神であり、
人々はその代行者を通してしか神の意志を知ることが出来ないという信仰は誤りであると、
神の代行者と言われた宗教家が、真の神を知ることを人々から奪ってきたのだと、
現代に於て天上界は伝えられるのです。
 神の代行者を名乗る宗教と、真の神とどちらが貴方にとって大切なのでしょうか。備考終〗

〖参考
「白旗あげる勇気もって交渉を」ローマ教皇がウクライナに停戦促す 3月10日 朝日新聞社配信
 ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコはスイスのテレビ局のインタビューで、
降伏を意味する「白旗」という言葉を使って、
ロシアから侵攻を受けるウクライナに対して停戦交渉をするべきだとの考えを示した。
 バチカンメディアが9日、インタビューの放送に先立って教皇の発言を公開した。

 同メディアによると、教皇は2月上旬に応じたインタビューの中で、
記者から「ウクライナでは降伏の(神を捨て悪魔に従う)勇気、白旗を求める人たちがいる。
 しかし、それは強い(悪い)側を正当化することになると言う人もいる」との質問を受け、
「最も強い(恥知らずな)ものは、状況を見て、
(ローマ・カトリック教会のように悪魔に魂を渡してもよいと考える)国民のことを考え、
白旗をあげる〖ソ連が攻めて来たら白旗を揚げて迎えよう
(中国が攻めて来たら白旗を揚げて迎えようと沖縄の現知事なら言うことでしょう。
 神の心を、理性を足蹴にし、自己保存のみに生きる獣の心に人間を貶めて恥じないのは、
左翼に共通する心です)と言った市川房枝は天上界によって消滅されました。 
 イエス様はたとえ全世界を手に入れても魂を失ったら、
何によって取り戻すことが出来るだろうかと仰しゃいました。〗
勇気を持って交渉する人だと思う」と述べた。

 さらに、大国の協力を得て交渉を進めるべきだとの考えを示し、
仲介役としてトルコに言及。その上で、
「交渉という言葉は勇気のある(知恵のないの間違いでは?)言葉だ。
 自分が敗北し、物事がうまくいかないとわかったときは、交渉する勇気を持たなければならない
(神の教え(神のみに仕えよ)を捨てた者と神が交渉されるとでも思っているのか?)。
 恥ずかしいかも知れないが、何人死んだらすべてが終るのか
(いったい復讐して下さる神は何処で登場すると考えているのか、この悪魔は)。
 事態が悪化する前に交渉することを恥じないで」と訴えた。
(この人は何を信仰している人なのでしょうか。)参考終〗

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 (五) 誤った宗教
「天国の証(78年8月初版)」146頁 ブッタ様メッセージより
「誤った宗教が何ゆえ悪いかと申しますと、真の崇める対象でないものを崇め、
拝むという過ちを犯します。
 そして一心不乱に頼みごと、願いごとを神頼みする訳ですから、
そこに執着心が根強く纏わり付き、
そしてその願いごとが叶えられる場合と叶えられない場合とが出来てきますと、
余計に何か神々や仏様の気に入るものを、と宗教者の求めるまま、財をはたき、
時を削いて気に入られる迄それに執着します。

 そしてその宗教に憑いているのは気紛れで、
信者の幸せ、成功、健康などどうでもよい動物の霊や地獄の霊ですから、
あなた方の払った犠牲などを考えてはくれません。
 その憑依した霊は、信者が不幸であれば、
その信仰心、宗教生活が悪い、と僧侶や神主や祭司に非難させます。
 常識の域を超えて信者に犠牲を払わせ、
信者は益々何とかして神様や仏様の気に入られようと苦しみと不幸の中に在りながら、
その宗教宗派が自分に恵まれた人生を与えてくれる日があることを心の底では希望を持たぬのに、
表面では望み、執着し、離れられぬものとなってしまいます。

 そういった人々の集まりが、
神や仏が居られると言われる仏像や、何かの象徴、仏壇でもよいのです、
石仏でも、しめ縄を繞(めぐ)らした古木でも、
の囲りに一つの確固とした宗教を作ることになり、
神や仏の魂でなく、低い意識の死霊や動物霊や或いは地獄の怨霊が
人々の出世安泰を願う煩悩、欲心と相まって、三次元に生きる人々を
嘲笑いながら、聖域ではなく、不浄域を増やしてゆくのです。

 神々や仏と崇めらるべき方々は天上に居られ、
一人一人がその方々と心に於て繋がれ、魂に於て交流があることを望んでいられます。
 しかし地上の人々の心は天にではなく、何時も地上の事のみに惑わされ、
煩悩の内に生を終えてしまうのです。


 そしてどうでもよい、魂の浄化の為には何の益にもならない宗教が蔓延るのです。
 こういった迷いの度に、私達光の大指導霊や光の大天使や光の天使が、
地上に降りてはその誤りを正して歩かねばなりません。
 何度正しても、直ぐ間違った宗教に惑わされ、
正しき道を説いていた宗教宗派も代がかわり、人が代わると、
神主や僧侶としての精進と修行を第一にしなければならぬ戒めを忘れて、
この世の慣習と生活という俗的なことに心を奪われ、
神社への収入、寺の収入、利益、自分達の財の高、
などを先に考えて事を計るようになるのです。」

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 (六) 宗教宗派
「慈悲と愛」80年2月号初出 千乃先生法話「アガペーの愛について」より
&「続エルバーラム(82年12月初版)」69頁
&「天上界メッセージ集・続」199頁

神々の意志と力は古代より人類と地獄の上に君臨し、
彼等を従えてきたと言い伝えられているのは、
それだけの強い善の意識と正義が天の国に迷わぬ無限のエネルギーを与えてきたからでしょう。

 その善と正義は何の為のものか。
 それは常に人類の為に良かれと思い、導く神々の愛の心から出るものであり、
人類を救おうという熱意と温情以外にはないのです。
 尽きることのない人間への暖かい関心です。
"To err is human"と英国の詩人の言葉にある通り、過ちを犯すのが常であるのが人間であっても、
天は人の過ちを許し正してこられました。
 人間に幸せを齎す為に正義と信義(神と人との間に)と愛とを説いてこられたのです。

 今、正に現天上界は過ちを犯し、救い難く迷いの道に踏み込んでしまった人類に、
全く同じ事ではなく、更に大いなる真理を以て(でなければ救えない為に)、
悪と善との位置する所、それが何処に端を発し相克を続けているか、
それを明らかにすることによって人類の理性と真理への渇仰を呼び覚まそうとしていられます。

 人類自ら救う者とならなければ、
神の手によってのみでは最早それが不可能事となったことも一因なのです。
 そして神の示された人類の過ちの中に、世界にガン細胞のように蔓延った宗教宗派という
人類の寄生虫、サタン、悪霊の中間宿主が明らかになりました。
 それは『天国の扉』によって、神々や天が、
人が夢み、宗教が築いた儀式と偶像と幻想の中にはいないことを明言されたことに始まったのです。


 しかしながら非常に残念なことに、
真に人の心を繋ぎ留める価値のない宗教、教団が内部崩壊するのは当然としても、
世界の宗教界の現状は、教義の誤りや教団自体の在り方の矛盾、欠陥に気付かず、
頑なに従来のままを良しとして盛り立てている信者や信徒のお蔭で、
天より告発され解散を命じられたにも関らず却って一層団結を深め、
偽善や偽我のあるがままに、最早真理の抜け殻となった既成宗教が新興宗派と手を結び、
派手に勢力範囲を拡大してゆきつつあります。

 それは単に彼等の自己保存の現われであり、
心血を注ぎ生涯の信念として生きてきた人生への執着であり
且つまた天を裏切り真理に背を向けることになりはすまいかという恐れと、
過去の遺産を壊せと言われても壊すだけの勇気がない人間の弱さでもあるのです。

 歴史の中で真理は何時も思いもかけぬ形で人の前に提示され、人々は誤った過去の教説、
学説と新しい説との間に立たされて二者択一を迫られ、又、そう余儀なくされてきました。

 天動説を地動説に切換え、天地創造説から進化論に切換え、
モーセの律法からキリストの愛の教えに切換えることを何時も神に迫られて来ました。
 そして博識を自ら任じつつも、実は判断力に欠ける大勢の暗愚が旧い教えに拘(こだわ)り、
文明の進歩を阻んできました。
"神"という名を人類の堕落と低迷の手段として
驕慢な僧侶や教祖や牧師達が天と人の間に立ちはだかってきたのです。

 今や神々は、神は人であり、霊は人に属するものと認めることを人類に要求されています。
 古い習慣
(しきたり)とマンネリに安住するのが多くの人の本性であり、
世界情勢が激しく変化すればするほど不安な心は一定不変のものに執着しようとする。
 それを神は"立ちて歩み出せ"と言われた。
 何時の間にか迷路に入り込み神から遠く離れてしまった、
(めしい)でいざりの宗教人であり信者達に。

 宗教の指導者側でそれが出来ないのは、
彼等がいざりのままで盲目(めくら)として安住した生活の歴史が長すぎて、
自ら努力して真実を見よう、歩き出してみようとする勇気がないからでしょう。
 今迄の教えのすべてが真実であって動かし難く、且つ実証可能な真理であると盲信しているか、
或いは確信はなくても、多くの人が血を流して遵守して来たものだから、
これが唯一のもので、他はあり得ないと脅迫的に思い込んでいるのでしょう。

 一方信者の側では、天に財宝を積んだのだから、万一地に積んだのであったとしても、
その報酬はその宗派、教団から何らかの形で来る筈だと内心考えており、
考えていないとすれば慈悲魔という愚かであって、教祖や僧侶や牧師は彼等が養わなければ、
生活の道を知らないほど尊い雲上人だと思い違いをしているのでしょうか。

 一体何の為にそうなのかは解りませんが、
ブルジョア階級であり特権階級である僧職者並びに教祖は、
"人の子に枕する所なし"と言われたイエス様の時代には比ぶべくもなく、
ブッタ様やイエス様の教えに各自様々な解釈を加え、後代の学者の論述を併せて、
形而上学の堂々たる体系として展開、教示し、著述することで
莫大な献金や会費が手に入るとあっては、教会や教団も彼等を離さず、
彼等自身もそれに甘んじて座食するのは当然の成り行きでしょう。

 そして天に仕えず地に仕え始めた僧職は、踏み絵
(信者をあぶり出し、信者を滅する目的で、突き付けられた踏み絵に、悪魔の邪念の前に、
自己保存から信仰を棄てることなく、圧制者に屈することなく、
神への信義を貫くほどの信仰へと、かつて信者が神に導かれたように、
自らもその信仰心へと導く、神の与える苦難の道を行かんとする)どころか、
自らを教会を代表する者として
"奇跡は教訓を効果的にする為に、学者が勝手に作り上げた作り話"であるとか、
"イエス・キリストは実在したが、ユダヤ人モーセは実在の有無は不明である"などと平然と書き、
世に阿(おもね)ることとなり、
仏教は曲折、派生して"南無妙法蓮華経"や曼荼羅、太鼓や錫杖で象徴され、
神道は巫女としめ縄と榊と簡略な祝詞(のりと)に変化(へんげ)することになるのです。
 新興宗派は何と表現すべきものでしょうか。

 実に莫大な財産を手にしてそれを壮麗な建築物に変えてしまった教会や教団や寺が、
それらをすべて売却、処分して難民や飢えた国々の救済に投ずるならば、
国民に政府がインフレ経済と耐乏生活を要求し、対外援助として税金から敢て捻出する必要もなく、
宗教教団が常に率先して、世界の苦境を助けるべく駆けつけるならば、
その国の名誉となりこそすれ、国ぐるみ糾弾されることは決してないのです。」

注。
 従えてきたというのは、法に定められた罪を犯す者を罰する、
法に逆らうことを許さないということです。
 悪を許す心は、人のみならず己自身の心も滅ぼす、
善を愛する心は育てることでしか得ることが出来ない、
自己愛に生きる心には育たないからであり、
正しく生きる、正しい心を育てる指標が、神の法であり、
人々が神の法を見出す、神の法に生きる心へと神が導かれた、
神の愛とは太陽の如き慈愛であり、
神の導きに従わず、愛を拒み、人の心を、自らの心をも破壊し尽くさんとする衝動、
力の奔流に、破壊に現れる力に酔い痴れる者を許さぬ、
善なる心を貫く意志で以て、邪悪に君臨されてこられたのが天上界です。

 自分の力に抗えぬことを思い知らせれば、
自分に逆らえばどうなるか恐怖させる力を示せば、人は自分に従う、
世の権力者が力しか信じられぬのは、己が欲望を満たす心しか育てられなかった者であり、
人の心を信じる、大切にする心を顧みることが出来なかったのでしょう。
 人の心を価値あるものとするのは、真に人の心を生かす、生きる喜びとなる
(神自ら証して来られた徳に生きる)心が理解出来なかったのでしょう。
 神の導きに従ってきた人々は、
神の心を育てることが、自らに神の愛を持つことが出来た者は、
如何なる者にも支配されぬ、真の自らの意志に生きる者であり、
そのような愛の理解出来ぬ者の目には、
権力者(宗教の指導者)に従わされているとしか見えないのかも知れません。

 しかし自ら神の愛に生きる者は、神の御心を受け止めているのです。
 自分は権力者に従う者ではないと信じている者は、
如何なる権力者(悪魔)にも屈することはないと思っているのか或いは、
力ある者の側にあることだけを望む、
力以外(の価値)に従う者を踏み潰す側に在ることだけを望む、
そのような動物(以下)の心しか育てられなかったなら、
神の心を理解する知恵などなく、自分を(価値あるものと)信じる心の虚しささえ判らぬでは、
神に顧みられぬ魂として忘れ去られるしかないでしょう。
 それでいいと思われなかったから神は救いの手を差し伸べてこられました。
 それが判らないでは救いようがないではありませんか。注終)

〖備考1
 神の導きに従った宗祖によって、真理を、神の教えを託された、
宗祖と共に生きた直弟子達が宗祖の心に生き続けたように、
今の信者達もそのような思いを見出すことが出来たでしょうか。
 もはやその教えは世界の隅々まで伝えられていると
自分の生きる神の世界は安泰だと満足してしまっているのではないでしょうか。

 広まったのは教義(知識)だけではないですか。
 真理が伝わればこの世に仏国土が、神の国が齎されると宗祖は信じられたのに、
今もこの世は悪魔の為してきたことさえ悟れない、
悪魔の邪念に満ち溢れていることさえ悟れないのは何故なのでしょう。
 宗祖の意志を継いだ弟子達がこの世の邪念に打ち克つ、
真理が世を切り開いていったのは、熱意と共に伝えられたからではないですか。
 知識は教義は残されましたが、人々から熱意が伝わらないのは何故なのでしょう。
 信者が、今を生きられる、現に今伝えられている真の神の思いを
見失っているからではないですか。

 何故熱意なき心で神を愛していると思えるのでしょうか。
 悪意に怒りを覚えるまで、自らが悪に苦しめられるまで、
常に悪魔が働き掛けてきたこと(悪霊の憑依に人々の心が侵されてきたこと)
に無関心だったからであり、
常に神が悪魔から人々を守る為に戦ってきたということが、
また如何なる犠牲に遭うとも悪から逃げれば、
二度と善なる心に生きることは出来ない、神の心を持つ資格がないことを知る善霊も、
この世の悪と戦っている善なる人々と何ら変らないということを
今に至るまで人類は悟ることなく、
人類の生存のかかった現代に於いて初めて、
神と共に立つ人々を呼び集める為に、天は語られたのです。

 悪を、悪に苦しめられている人々を忘れるようでは、
善の思いに生きることなど出来ないのであり、
悪の業が見えているのに悪の思いを許さぬ善が心に現れない、
そのような心に神の思いは伝わりようがありません。
 神の救いの手を見出すことのない者です。

 何故神の心を見失っていることが解らないのでしょう。
 神の国をこの世に齎そうと、
人類を破滅から救おうとされてきた神の熱意を感じ取ることがない。
 何故神を愛せないか。
 真に神の御心に触れたことがない、自らの愛に生きて、内なる神の心の目覚めることがない。
 陽を求め幹を枝を伸ばす、それが生きるということも悟れない。
 自分を守ることだけに生きる、自己愛だけの世界から、
神々の生きる世界へ、人を生かそうとする、愛に光に満ちた世界へ踏み出す勇気を、
神への信義を求めることがない。

 何故真理を求め、真理に生きることが出来ないのでしょう。
 自らを救うのは真理(正しい道)に生きることと言われた神を信じることが、
自らの人生をただ自分の欲望に生きて、
神の人類への、自分に向けられた愛に応えんとする愛に生きる熱意が持てないからでしょう。
 自らの為に生きんとする思い、自らへの執着、自分を守ろうとする
(自分の為に生きることが正しいとする)自らを正しいとする(自己肯定の)高慢故に、
(自分の為なら他を顧みる愛をも忘れる)偽我を削り取った、
磨かれた精神、光に愛に満ちた精神を理解し得ない。
 真理を見る心の目の汚れを洗い流すことを魂の研磨と教えられた
天上界の叡智を理解する知性を育てることの出来なかったのでしょう。備考1終〗

〖備考2
 某イスラム教の解説書を読んでいたら、
"カリフ(ローマ法王のような存在)制、イスラム法による統治といった
「イスラム国」の掲げるイデオロギーに賛同する人々がかなりいる"と書かれており、
教義さえ信じられれば、正しい宗教であると信じる、
現代にあって神のご意志を知る全ての善霊の願いの伝わる善なる心を持たぬ、
人類救済を願う今を生きる神の御心に全く盲目な者による書であることが明らかでした。

 如何なる宗教指導者(ローマ法王であろうが、カリフであろうが)も、
直接人々に救いの手を指し伸べようとしている神の意志を遮る者は許されない、
人々の救いを神から奪っているのが宗教指導者である、
天上界は宗教の解体を宣言する、宗教教義を盲信してはならない、
神の心に目覚め、真の神の心に繫がる者だけが天の救いを見出すことが、
その導きに従うことが出来ることを天上界は明らかにされております。

 嘗てGLAの高橋佳子氏は悪魔に唆され、
増上慢から自らはミカエル様の本体であると盲信し、ミカエル佳子と改名、
GLA会員の一人である流行推理作家に(天上界が話したことではなく)
自分のした話を元にした本を作らせ、天上の書であるからと会員に購読させたのです。
 この本にサタンはその息吹きを吹き込み
【その読者を憑依するべく、悪霊の感知可能な波動の出る物質を本に入れたのです。
 天上界もまた、当時天国シリーズの本から天上の書であることが解る波動を出させました。
 天上の守護している者であることを悪霊に判らせたのです。
 この読者を憑依すれば消滅するという意志を明らかにしたのです】、
その波動を天上の光の代りに流しました。
 本を読んだ会員すべてが悪霊に憑依されたのです。
【悪霊の介入した本を読むと(嫌な波動に犯されてきますから)
そのことに気付いて本を投棄ててしまいます。
 そのまま意識を支配されて読み続けた者は、憑依されていることでしょう】
 天上界が宗教を解体するよう指示されて以降に書かれた宗教(へと誘う解説)書は、
神のご意志に逆らう悪霊が介入していると判断して間違いありません。
 天上界のご意志を知らなかったからにしろ、
悪霊の介入を受けている者の心が悪霊の波動によって善我が蝕まれないで済む訳がなく、
悪霊の傀儡としての人生を生き、その魂もそれに相応しいものとならざるを得ないでしょう。

現象テープ№10 ①「正法を学ぶ人々の為に① 天の方針」より
 78年7月10日 ミカエル大王様現象

「今生に於ける正法流布の目的は、
人々をして迷信から合理的思考へと導き出し、徹底的に霊の世界と三次元との関り合いに於て、
不明の点を明らかにし、即ち私達天上の者の知る限りの真実と真理を与え、宗教という有名無実の、
却って人々の魂の修業の妨げとなり、神についての知識を迷妄に導く宗派・団体を解散させ、
この世から去らせるものです、この世から消え失せさせるものです。

 僧職の解釈がある為に、牧師の説教と独断的解明がある為に、
どれだけ天上界と人々は遠きに隔てられ、理解を阻まれたことでしょう。

 世の中があらゆる分野に於て科学優先となり、人々の学習レベルが上がり、
知的水準が高くなり、私達の語るごく人間として当たり前であり、
常識的に物事を見極めていこうとする態度を理解して下さる迄に成長された、
それが故の私達の証です。」

牧師であっても、僧侶であっても天上界の語る言葉とサタンの惑わしを見抜けぬ
者の方が多いという悲しい事実も知っております。

 それが故に宗教は人の知的水準を高めるものではなく逆に低めるものであり、
盲(めし)いたる者にするものであるとの結論に達し、その解体に踏み切ったのです。」
 備考2終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法