第一部 天の教え
第八章 宗教
二節 真の宗教

"神の与えた真の宗教の目的"
「天国の証(78年8月初版)」67頁 エル・ランティ様メッセージより
「今数えきれぬ程ある宗教団体でそれ(ブッタ様が人々に説いた真の道)を説き、
また地球の危機を救う為に積極的に努力し、世界に呼びかけるものは幾つあるでしょうか。
 本当に道を説くものならば、そのようなことに黙っていられる筈はないのです。

(注。
 現代に現れた彼等が真の神であることを自ら宣言する言葉でもあります。
 他を思い遣る優しい、美しい心を自ら捨て去る冷酷な心へと、悪魔に導かれるがままの人類に、
黙っていられなかった彼等だけが真の聖霊であり、天を代表する方達ではないですか。

 真の天上界の齎した宗教であっても、その宗教の心を失った、
真の神に繫がる心を失った信者には、真の神の声を聞くことが出来ないでいることからも、
彼等が真の神に生きていないことを証しているのです。
 真理を求めている者なら、真理に生き真理を齎して来られた神を求めているのなら、
これまで人類を導いて来た神であると名乗る彼等の齎した正法に勝る真理が、
彼等に勝る神が存在すると信じる信者は、その神が何も語らないのに、
正法に勝る真理が存在すると何故信じられるのか。
 正法が真理でないとする根拠を見出しているとするならば、
正法に勝る真理が見出されていなければならない筈です。

 悪の限りを尽くす共産主義独裁国家の非道に沈黙する、
ましてや彼等を支える(悪魔に魂を渡したロシア正教の如き)宗教が
如何なる真理に従っているというのでしょう。
 この一事を以てして、
彼等が真の神(現天上界)と何の関りもない団体であることを証明しているのです。
 彼等は神に救われたと信じるのは何を以て言っているのでしょう。
 苦しんでいる者を前に何もしようとしない者が証す神とは、
一体何を今望んでいる神だと語るのか。
 神の救いを伝えられない彼等は何を以て神の愛に生きていると信じるのでしょう。

 苦しんでいる人々の心に希望を齎し、彼等に救いの手を差し伸べてきたのは、
彼等の思いに苦しみ、自らを救えぬ彼等を神の下に救おうと、
苦しみにあって神を見失っている彼等の傍らにはいつも神が共にいることを、
彼等を見捨てない神の存在を証されたのが、
神の遣わされた預言者であり、メシヤ(救い主)でした。
 正しい教え、救いに導く教えは全て天上界から齎されました。
 人々が心に神を見出し、救いを確信し、真の神に心を委ねた時から、
神の善なる波動を受け止める、内なる神の心に導かれて理解された正しい教えを、
悪魔による迫害と邪念によって、人々が自己保存に、
他を顧みぬ自意識に執着した心へと導かれての、誤った解釈によって、
宗教は人の心を偽りの神へと導くものに変えられていったのです。注終)

 ですから私達は宗教は人の夢や希望に巣喰う害虫のようなものであるから
駆除しなければならないと説き始めたのです。今世紀に於て初めて。
 
 宗教は人々にお行儀よく座って食事をしなさいという親のようなもではありません。
 人の先に立って善とは正義とは何かを説き、
積極的に世の誤りを正して歩くべき目的で結成されたものです。

 (一) 衆生済度
「慈悲と愛」79年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」47頁

"衆生済度"とは在るが儘の俗人を救うのではなく、天に相応しい人格と成す為に
良き教えを万人に説き、心を浄め、そして救う事なのです。
 自然界にある動物や植物は人間の如くに過度の破壊を求めず、従って在るが儘で救われる。
 同じ救いでもそれだけの大きな開きがあります。
"衆生再度"を説くからには心を浄めず、天の意に沿わずとも救われるであろう、
というのはあまりに身勝手な考え方と言わねばなりません。
"どうでも良い"と言う人もいますが、心の底、意識の深層に於てはやはり救われる事、
天に生かされることを願っているのです。
 私はそれを知っています。」

注。
天上界(善霊)と同じ波動に生きる心に、
神々の思いが伝わる
(心は天国に属している)ということ
 怒りや憎しみを受けると、同じ思いを返すことで、同じ憎しみの波動で互いの心を縛る者。
 愛を受け、愛に心打たれ、愛に応えようとする心に目覚め、自らが愛を与えることを知った者。
 己が心の感受する波動を己が魂の生きる世界と選ぶのです。
 内なる魂の世界と同じ霊の世界に自ら行くのです。

 己が心が地獄ならば地獄の心を感受し、同じ心を返す、
同じ心に留まるしかない者達で世界を共有するのです。
 同じ波動の想念を心とする者達だけがその世界を唯一の世界と生きるのです。
 互いを自由にさせたいという愛のない者達が、己が思いに従わせようとする、
縛ろうとする鎖で、互いを地獄に繋ぎ止めるのです。注終)

「慈悲と愛」79年1月号12頁 (質問への)ミカエル大王様の解答より
「(真の宗教家の)教えるべきは"衆生済度"の心のみ。
 そして"魂の研磨"のみ。その他に必要はありません。

(注。
 このことを理解し、伝えようとしてこなかった宗教は人を何処に導いたのでしょう。)

第一部 天の教え
第八章 宗教
二節 真の宗教

 (二) 真の宗教が齎される時
「慈悲と愛」81年2月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」129頁

現在も残るような巨大な宗教組織の生まれた背景には、
その時代特有の歴史的な必然性があるからです。
 例えば民族の弾圧、為政者の無能、天災など、続く不幸に人間が耐えかねた時、
天の計画によって、その時代に応じた救世主を出し、
理性を失いかけた人々に安らぎと、再起の力、希望を与えたのです。

真の神の教えが齎される時、人間の宗教の教えの誤りが明らかにされる
"偽りの宗教は、人間の自己保存の本能に語り掛けます"
(人を自己に執着させる為に自意識を呼び起こすのです。
 偽我(我執)からの解放へ、真の救いを見出すべく導く為に齎された宗教(神の教え)を、
似非宗教家は人の偽我(自己保存)に語り掛け、
自己保存にとっての幸福を求めるべく人を導きます。
 盲信の内に従った信者は、彼等を迎える世界の、彼等を導く指導者の心の、
その世界を天国と信じる自らの心の真実の姿を悟る知恵に恵まれなかったのでしょう。)

「この宗教を信じなければ、あなたは不幸になりますよ、天国(極楽)にゆけません
(地獄に落とされます)よ、
神仏はあなたの子孫に心を掛けられず、御加護が得られませんよ」と、
あなたを不安にさせるのです(一体誰がそのような教えを語ったと言うのでしょう)。

"真の宗教は、人間の理性に語り掛けます"
"神の導きを信じて自らの意志で立ちて歩め"
"自らを救おうとする者を天は救われる"
といった言葉は正にそうです。

現象テープ№23「心の美は」より
 80年5月11日ガブリエル様現象

「私達は時々、正法者の中にも、
"私は正法をしているのに、何故幸せにならないのだろう。"
"何故、身体が健康にならないのだろう()。"

注。
 天上界の気持ちを少しでも思い遣ることが出来たら、
このような思いを抱いたことに恥じ入ったことでしょう。
(ご利益)宗教が如何に人の心を、エゴイズム、ナルシシズムに留まらせるものか、
精神を成長に導くものではなかったか痛感されるのではないでしょうか。注終)

 そういう人を、よく聞きます。
 私達はそういう人を見ると情けなくなるのです。
 あなた方は何の為に、正法に集って来たのか。
 己の病気を治す為だったのか。家庭不和を直して貰う為だったのかと。
 私達はあなた方の家庭不和を直す為にやって来たのではありません。
 あなた方を賢くする為にやって来たのです。
」 

 人は自らの内に神と同じ心、善を愛し、真理に従うことを喜びとする心を持っていると教えます。
 私達が神と出合う場は、自らの心の内(善我と呼ばれる神の心)にあるのです。
(立派な教会や寺など必要がない、寧ろそのような場は、個人の悟りとは無縁であり、
真理を語り得ぬ僧侶や牧師の周りに集う信者を、
悪霊が憑依するための場と成り果てているのです。)
 高額な寺院などただ宗教関係者を高慢にする、堕落させるためのものに過ぎません。

 故に、天上界は、苦しんでいる人々への援助を、寄附を呼び掛けますが、
天上界(の代行者)への献金など無用であると言われました。
 そしてその様な天上界こそ真の神であると共感した人々が集ったのです。
 献金する者もされる者も居りません。
 すべては正法(真の神の実在を証すメッセージと
この世を、人々の魂を救い得る唯一の真理・神の法)の流布の為の寄附であったのです。
 イエス様は、心の貧しい者が神を見る
(立派な僧衣や教会を欲する高慢な者は神を知ることは出来ない)と言われました。
 キリスト教会は神がいなくなっただけでなく、
真の神を求める、神の心に生きる者もいなくなったようです。

 堕落した宗教は人類を神の救いから遠ざけるものと、
宗教には神は最早存在しないことを天上界は宣言されました。
 神と宗教を同じものと否定する者はどちらも理解していないのです。

 宗教を信じている心に間違いなどあろう筈がないと、
神が導かれているのだから疑うことはあってはならないと、
神の教えを誤って、自分の都合の良いように解釈するのは己自身(偽我)なのであって、
自ら神の導きに背を向けていることに気付くことがないのです。
 常に自己肯定に導く自己愛の内に安住する者に、神の愛を心とすることは不可能なことです。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法