第一部 天の教え
第八章 宗教
備考 一考察

 (一) 神の愛に背く者
 天の神々は、愛する価値のある者のみが、神に愛されると仰しゃいました。
 人を悪に打ち克つ善へと導く天の愛の厳しさを理解せぬ者の言う、
誰をも無条件に愛するのが愛と信じる、
慈悲を掛ければ誰もが正しく受け取るものと信じる慈悲魔は
人(与える者も受ける者も)を最も愚かにすると教えられました。
 天の救いとは、人が自らの意志で立ちて(正道を)歩む力を取り戻させるもの。
 正邪を、善悪を選択する自由があるから、善悪の本質を知ろうとし、
無意識の中に潜む邪心を、また目覚めの時を待つ神の心、真の望みを知ろうとし、
自分の意志で行うが故に責任の自覚を持つのです。
 悪の道を行くのは、本人の意志であり、責任であるから、天は罰するのです。
 神は人の心を見て、救うべきを救い、罰すべきを罰するのです。
 人は天に心を向けているのでしょうか。
 人を救わんが為に裁きの基準である神の法を伝えられているのです。

 如何なる者であれ、人を強制に依って従わせるなら、
仮令人の為を思っての善も強制という、自らの意志に生きる自由を奪う悪になります。
 自由のない強制からは善への愛も、己を顧みぬ他への愛も生まれないからです。
 宗教団体は法人化され、信仰の自由を法律で守られ、
如何なる宗教をも信じる自由が保障されました。
 信仰を明かせば命の保証はないといった時代ではありません。
 信仰を守るには、命を捨てる覚悟で生きねばならぬ世でもありません。
 この世の認めた宗教の中に温まって生きることに満足(世俗化)して、堕落していきました。
(信仰の自由を法律で守られている、信じる者も信じない者も平等であることに満足せず、
信者でない一般人の受けていないような優遇を、信者(宗教)は受けるに値すると考える、
法人化を神が嘉されるなどと考えるのは邪教徒に他ありません。)

 世に媚びる教義はどうであれ、神の御意志は、愛すべき者を愛する。
 心の正しい者、義を求める者に義は与えられる。
 人の自由は奪ってはならないが、放縦を許してはならない。
 中道に生きることが真我を救うことを教えられる。
 差別され、迫害される者は助け、害を加える者は許してはならないが、
自ら堕落する者、情欲に耽る者を保護してはならない。
 内なる悪を許さぬ神の善に在っての魂の平和であり、
安楽に求める平和は精神の堕落であり、
魂の破滅までの平和を約束するに過ぎぬものです。

 愛の名の下に、如何なる者にも愛は差別しないと言う者の心の底に隠し持った、
偽りの愛、偽善、真なるものを貶める心を、己のみか人に、社会に浸透させようとする者に
手を貸してはなりません。
 エゴイストの主張を肯定し、人の魂を損なわせるものへと、
法を悪に利用されるようなものへと変えさせてはならないのです。
 偽我を、悪を見抜けぬ善我であってはなりません。
 悪に足元をすくわれるような善であってはならないのです。

 法の守る自由とは、人の自由を奪い、人の意志を踏み躙り、人を従わせ、
従わない者を迫害し、恐怖によって自由を求める精神そのものを破滅させる如何なる行為、
思想も許さない、人の自由を奪う如何なる悪の力にも屈しない善であるもの。
 善に従う、善に生きることで得るものが自由なのです。
 法も人が死守せんとする善なる心にあって生きるものです。
 法は人の自由(に生きる精神)を他による侵害から守るもの。それが法の守るべき人権です。
 人が法の定めていない(法の及ぶ所ではない)悪(白く塗られた墓と形容された偽善)
を自らに赦すこと、ましてその悪を他に及ぼすことは、天の徳(自由を守ること)
を冒瀆するものです。

 天の法とは、すべての人の自由と平等(天の法に従い、神を善を愛する者が等しく救われる、
条件に分け隔てがない)を守ろうとされますが、
神の御心を顧みず己が魂を堕落させる者は、神の国を捨てた者です。
 天の愛に値する心の清い者が神の国に迎えられるのであり、
神の愛は邪な思いを宿した魂と相容れません。

「友の為に己が生命を捨つ、これより大いなる愛はない」これがイエス様の伝えられた神の愛です。
(同性への愛であろうと異性への愛であろうと)性愛は自己愛から齎されるものです。
 自己への愛を捨てての、人への愛とは、自己愛を乗り越えた心からしか生まれません。
 数億年に亘って遺伝されて来た本能からの異性愛によって結ばれた、
社会に認められた者達は誰もが真の幸せを得て来たでしょうか。
 同性愛をこの世が認めて異性愛と同等に受け入れれば平等なのかも知れませんが、
それで真の幸せが得られるのでしょうか。
 男女のカップルであれ、同性のカップルであれ、
子が精神的に成熟した、真の社会人になる為には、母性愛と共に父性愛が注がれねばなりませんし、
それが子への両親の愛であり、義務です。
 その面から考えれば、相応しいカップルとは親子間の愛情から問われるべき
であって、
父性愛と母性愛が性別に一致するとは限らないものですが、
だからといって自然が男女各々に分け与えた愛情の質の違いを無視して良いとは思えないのです。


注。
「JI」90年8月号 ラファエル様メッセージより
「最近岩間文彌博士のお便りに、IQ二〇〇以上の天才児が米国人の夫と日本人の妻との間に産まれた、
それは胎教の時期からの両親の注意深い生活環境によって可能になったとありました。
 ー それには勿論妊婦の栄養、ストレスの解消法など多々あるでしょう。
 夫婦の愛情の安定も大切です。
 日本はまだまだ、夫婦の意識がそこまでのレベルには達しておらず、
両親の離婚や、子供の虐待対策などが、漸く情報化している位の所です。

 いずれにせよ、子供は両親の愛なくしては、
健康も才能も得ることは出来ず、成長の芽は摘まれてしまいます。
 良き教育者に出会うまでに、良き両親の愛と家庭が子供の成長と才能開花の未来に向けて、
機会を与えることが出来るのです。
 夫婦の不和と、母親の育児への無関心、愛情の欠如は子供の不幸な運命を定めてしまうのです。

 
 そこから抜け出るには、教育者が、人生の先輩が、福祉関係者が、
良き友人としてどれだけ、その傷を負った、歪められた不運な子供の心を正しく方向付ける為に、
また、第二の正しい形での環境を与えることが出来るか

それが日本のような亜先進国や先進国の欧米でさえ、まず解決されねばならない問題でしょう。
 
 胎児の時代から赤ん坊の学ぶ速度は、天才のそれであると岩間先生が伝えてこられましたが、
その時期に両親の歪んだ精神や愛の欠如が赤ん坊に与える不幸な影響は、
計り知れないものがあります。
 それによって後年の成人の社会への適応度が決まるのです。
」)

 煩悩からの解脱を、邪心の無い神の心に導くのが宗教家ではありませんか。
 苦しみから逃れられぬ人間に、真の救いを齎す知恵に至らしめんと神が導いていられる、
その助けをするのが宗教家ではありませんか。
 優先順位を間違えているのです。
 最初に神の思いを考えないなら宗教家は必要ありません。その資格もありません。
 イエス様が磔刑で死ぬことなどあり得ないことと、イエス様を気遣ったペテロに、
イエス様は何と言われたか。
 神を思わず、人のことを思っていると、己の優しさに酔い、悪魔に付け込まれて気付かぬペテロを
厳しく諫められた(ペテロをサタンと呼ばれた)ことを学ばなかったのでしょうか。

 この世しか認めぬ者には、この世の幸せしか満たされない心には、
この世にのみ心を開き、この世の与える価値を信じ、
与え得るこの世に支配されていると思わず、幸せと安心を覚える心を養ってゆくのでしょう。

(そのような心にとって幸せとは、
すべて自己保存の本能(大脳の旧皮質)に依存するものであり、
理性が真の愛が生きる善我から齎されることはありません。
 善我という高等感情から成る意識も、本能に依存する心から昇華しなければ、
大脳の新皮質(動物にもあります)が開発されなければ存在し得ないものです。
 神の心の目覚めとは大脳の開発に他ならないのです。

 自己保存の本能に留まる者は、感受性や繊細さや愛の生きる心がないので、
言葉しか彼等に伝え得るものがなく、
言葉(の意味)さえ解ればそれで理解したと思い込むのです
(彼等の愛が冷酷であっても不思議ではないのです)。
 故に彼等はイデオロギーの偽善が悟れないのです。
 真の善(真理)が理解し得ないからです。
 善我(神の心)が開発されないのは、神を求めることを知らないからです。)

 この世の与え得る幸せはこの世の問題を扱っている人々が扱うのが相応しいのです。
 イエス様の弟子が、亡くなった父親を葬る為に帰ることを願った時、イエス様は何と言われたか。
 死人を葬るのは死人に任せれば良い、
神に仕えることの、世に妥協しないことの厳しさを言われたことを忘れたのでしょうか。
 神に仕える者が、神を二の次にしてこの世に仕えてはならないと、
二人の主人に仕えるなと言われたことを忘れてしまったのでしょうか。
 神が自分に望み、語り掛けている思いも届かず、
思い返すこともなくなったのでしょうか。
 
 宗教家は、人々の魂を救う為に存在しているのでしょう。
 宗教家は神に魂を救われていると信じるから、人の魂を救う資格が与えられるのではありませんか。
 神の救いとは、神と共にあると信じられた時、齎されるのです。
 神を信じる心は、内なる神の心です。神の心だけが、真の神の御心を理解出来るのです。
 真の神の愛を知らずして、自らの内に神に愛を持つことは不可能です。
 神の愛を持つ者が、神の愛を伝えることで、人は神の救いを信じる者となるとを知りながら、
それを伝えず、何故神の愛から迷い出ているこの世の人々の信じている、この世の愛に媚びるのか。
 神の意志に従うこの世へと、人の生きる道がそこにあることを証すことなく、
如何なる生き方であれ神の救いを約束し、信者を得ようとするなど悪魔に仕える宗教に過ぎません。

 自分が生まれてこれたことに、自分を生かしてきてくれたものに、感謝する心を持つ者なら、
そのものが何であるか、誰であるのか判らない筈はありません。
 そのものと同じ心を持っていたのなら、何も感じないでいられる筈がないのです。
 愛を知る心があるなら、自分に注がれてきた愛に気付かない訳がないのです。
 自然への、神への感謝する心がないのです。
 自らの愛を誇ることよりも、自分に注がれてきた愛に感謝する、
応えないではいられぬ心であってほしいと思います。

(パウロも、愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、
と言ってます。)
 自分が生まれるまでに、何億年と絶えることのなかった愛です。
 その愛が続いてきたから今が在るのです。私達が生まれてきて、今在るのです。
 その愛を顧みなくなったら、これからこの自然から生まれてくる人類に、
如何なる心を、愛を、希望を残すことが出来るのでしょう。
 真の愛を顧みることを知らぬ、そのような心に、如何なる愛が宿るというのでしょう。

 種がそれまでのままに留まるなら自然淘汰を余儀なくされたであろう環境を
生き延びることが出来たのは、種が進化し得たからでした。
〖隔絶され不変の環境の下に適応する種は進化しません
(苦労なく平穏に生きられる者に精神の向上(進化)の望めないことと同じですね)。
 環境が変化したが故に、生存を脅かされた本能が適応する力を獲得する為、
種の進化が齎されるのでしょう。〗
 種を進化させたのは、自然の与えた本能に他ありません。
 進化してもその種にある本能はずっと生命を支え続けた同じ本能です。
 古い本能を滅ぼした新しい本能が取って代ったのではありません。
 生存を支える本能を否定するものは、自然を生きる知恵を捨て去るものです。

 本能の齎した調和を顧みず、個人の欲望を尊重するならば、
調和よりも個人の欲望を優先するならば、
共産主義がその行き着く先(地獄)を示した同じ道を行くことになるのです。
 他への気持ちなど一顧だにしないエゴイズムと、
自分達は社会の犠牲者というナルシシズムから如何なる復讐をも正当化し
破壊衝動を生きる糧とする社会・共産主義者、そのシンパは
神の心を捨て去り、偽善に、偽りの神に生きる者達であると知るなら、
そのような自己愛(ナルシシズム)が真の愛、
神の愛に相容れぬものであることを理解するならば、
真の愛を拒否してまで求める如何なる愛も愛に値しないものであると理解されるでしょう。
 神の愛の理解し得ぬ者の言う愛が、
ナルシシズムを克己したものでないことも見抜かれることでしょう。

 私達が求めるのは神の国であり、
地獄へと導く偽りのユートピアであってはならないのです。

 本能が人の生きる意志の、力の源泉であり、
真に生きる者とは生かされてきたことを知る者であり、
命の大切さの解らぬものに、人を生かそうとの思いも生まれてきません。
 異性愛が同性愛よりも優れているとか、異性愛が愛であって、
同性愛は愛ではないといった(次元の)ことを言っているのではないのです。
 また同性愛だから不健全であり、
異性愛だから健全な精神であるといったことにもなりません。

 ナルシシズムに立っての偽りの愛を、愛と誇る心が醜いのです。
 同性愛者を罰する法が存在するといった社会なら、
罰される者が不平等と言うのは尤もなことですが、
同性愛を認めないのは悪である、
正義を認めない者の為の法であってはならないと彼等の奪い取ろうとする法が、
真の善を求める心に立っての、神の法に適ったものでしょうか。
 同性愛が神の愛に繋がるもの故に、彼等の言う愛を法で認めよと、
そのような法が神の法に基づくものだからと言うのでしょうか。

 如何なる法も神の法に従うものでなければならない理由は、
法も愛も知らぬ動物と何ら変わらぬ種であった人類を、
それらを尊ぶ理性へと人類を導いたのが、他ならぬ神の法であり愛であったことを
私達が理解されるまでになったからです。
 そのような真なるものを与えられたが故に、法を愛を知ることが出来たのです。
 また偽りの法が、愛が齎されたのも、
神だけが真なるものを生み出すことが出来る故に、
真なるものを貶めることでしか偽りのものが作れないからであり、
真なるものがあって尚、偽りを与えられて喜ぶ低劣な人間がいるからです。
 真なるもの(真理)を愛する清められた心だけが、
神に生きる心だけが(真理に、自然の法に)生きるのであり、
真理に生きた心を堕落させることが、滅ぼすことが、
邪悪な魂にとって、神を貶める喜びを齎すからです。

 彼等の齎す偽りを受け入れたすべて人々から神の心を奪い取り、
偽りに生きることしか出来ぬ者へと、
神を、真理を愛するとの自惚れの内に悪魔を神と信じる者へと導かれるのです。

 種の存続を齎す自然の知恵によって同性への愛が生まれたのではない。
 自然に生かされてきたあらゆる種の中で、
自然によって同性愛が与えられた種は一つとしてありません。
 あらゆる種を生かす愛こそ真の愛であり、そのことを理解したのは人類だけであるのに、
その理解へと、知性へと進化しながら、
自らが生かされてきたことを、自然の恩恵に与ってきた幸福を感じることの出来た種が、
あらゆる種を生かしてきた自然の恩恵を、
地に擲(なげう)つ邪念に侵されようとしていることを悟れないのです。

(神の愛が真の愛であるのは、与える者は無論のこと、受け入れる者にも神の心へと導く故に、
人を神の心に繋げる、調和を齎すことが出来るものです。
 エゴイズムを解放する(自己愛から来る)エロスの愛は、
共にエロスの愛によって繋がることは出来ても、
決して真に相手を思い遣る神の愛に根差していない為、
自己愛を満たすことがなくなれば簡単に冷めてしまう、
人を裏切ることも顧みないものです。)

 自然の法(の内に、すべての生き物を永続させる調和を見出し、
人間の指針にしたものが天の法・正法です)に従うことで、
調和の内に、平和(愛)の内にあらゆる種を永続させてきたのです。
 その自然の法に背く法を人間社会に齎し、如何なる調和を築けるのか。
 自然界の調和を、愛を蔑ろにする高慢に生きるが故に、
そのような心にありながら調和を愛を人間社会に齎せると自惚れるのでしょう。
 個人が自然の法に、神の法に背くことを知りながら敢てそうするのなら、
その者が神の法に裁かれるだけでしょう。
 しかし自然の法に背く法を人間社会の法にするなら、
それを受け入れた者が、天の法を、神の道を見失うのです。

(左翼の言うままにすることが、人を思い遣ることなのだと、そのような社会を作った時、
真に人を思い遣る社会が生まれていると考えるなら、何も真実を知る智慧のない者です。
 神の、真の愛に背を向けることは、悪魔の心を受け入れた者です。
 左翼の言う愛も正義も悪魔の偽善であり、偽りの愛へと堕落へと導くものです。
 それを信じる者も神の救いから見放された者でしょう。)

 外国籍でありながら参政権を認めようとする左翼の偽善が理解出来て、
同性婚を認めようとする左翼の偽善が解らないのでしょうか。
 同性愛者も人間性はピンキリでしょうから、
左翼の偽善を嫌う者も中にはいるのではないでしょうか。

 こういった問題は何時も二者択一とされ、
彼等左翼は独善にしか生きられない為、反対する者への寛容を持ち得ません。
 彼等を支えるのは人を生かそうという愛ではなく、
自己肯定の、自分だけを信じることしか知らない自我(偽我)なのです。
 自分が間違っていると認めることは自我の崩壊を招くものです。
 故に独善にならざるを得ないのです。
 相手の反論は自我に危機を齎すもの故に
(実行する気など更々ない)理論で武装するしかないのです。
 人の本当の幸せなど考える余地はありません。
 人を生かす為ではなく、自分を守る為の正義でしかありません。
 愛を信じる心などないからです。
 自己欺瞞から自分達にこそ愛があるのだと言わずにはいられないのでしょう。
(パウロの言った、誇ることのない愛とは異質のものなのでしょう。)
 社会の調和と秩序を愛する神に抗う悪霊に心を支配された人達です。
 同性愛を同性婚を認めない人々を、固定観念に縛られた、
自由な愛が理解出来ない時代遅れの、時代の進歩の足手纏いの如くに蔑んでいる人々こそ、
その高慢こそ地獄へと繫がれた悪魔の心であり、
この世に地獄を齎さんとしていることも悟ることのない盲目の魂であり、
真の知恵の奪われた心であることを証しているのです。

 自然の与えた本能を正しく理解する心が、神への愛へと昇華する為に必要なのです。
 すべての生き物の愛に生きる心を作ったのが、自然の与えた本能です。
 その本能を壊してきたのは、人間自身なのです。
 本能が正しく働く健全な心にあって、理性へと昇華する道が開かれるのです。
 本能(の愛)を軽んじる心を育てた同性愛を唯一の愛と生きる限り、
神の心(善我)を理解することは、神の心を持つことは、
神への愛に生きることは出来ないでしょう。


 自分達の(同性)愛は、相手の幸せを望む真の愛である、性欲からではないと考えているなら、
それは自己愛、自己肯定からの認識であることも悟れない人です。
 性愛は本能(同性愛も根源は本能の異性愛です。
 環境に適応した故に性の対象が歪められたのでしょう)に根差すものです。
 性愛を情欲(自己愛)から救えるのは、より高次の愛(神の愛)によって本能が、
自己愛が生かされている場合だけです。
 その神の愛を失えば性愛に、自己愛に生きることになるのです。
 少なくとも神の愛を何よりも尊いと思う者なら、
左翼の言う性の解放とは、性欲を克服しての真の愛に導くものなのではない、
性欲の解放された心とは、欲望に支配させるという精神の自由を失うということを、
欲望から、執着から解放されるのではなく、
欲望に縛られる、精神の拘束に他ならないことを見抜けない筈がないのです。
 神の愛を感じている、神の愛に清められている心にあって、
自己愛を満たす、性愛の対象に惹かれ、神の愛を忘れるなどあり得ないのです。
 そのような思いに惹かれていながら自分の(同性)愛は純粋であるなどと思うなら、
神の愛を感じたこともない者なのです。

 神の愛を見失わせる自己愛の愚かを教え、克己に導くべき宗教家が、
カトリック教会の首領が、自己愛を、同性愛を承認する。
 神への愛とこの世の愛(精神の糧を見出すことのない思い)を同列に扱う。
 最早、神の代行者として語る資格はないと、
既に天上界は宗教界を人類の足かせとして見限られましたが、宗教界の堕落は歴然です。

 種を残そうとする本能は、自然が与えた智慧です。
 種を存続させる本能(異性への愛)があるから、生まれてこれたのです。
 生後の環境が本能に背く意識を育てたのでしょう。
 何億年と種が生き残れてこれた知恵を顧みようとせず、
蔑ろにすること自体が邪心に従っているのです。
 自然の法に生かされていることを知るのなら、
すべての生き物の種の存続を願わないではいられないものです。
 自然の中にあっての人類を考えようとさせない者の言う愛は、
真の愛を見失っているから、偽りの愛を声高に言えるのです。

 種を存続させる本能の大切さを、顧みなくさせることを目論んでの、
同性愛の婚姻を法の下に受け入ることが正しいと、
寛容であり平等であるとの言い分は、(左翼の)偽善です。
 自然の法に従おうとする心を破壊する行為と見做すべきであり、

同性愛者の心を堕落へと導く、神の心に背けさせることを目論んだ、
悪魔に従う心の仕業であると言わねばなりません。

 悪魔は、自分を人に信じさせるのに、
人の都合の良い(人を肯定し、自尊心をくすぐる)ことを、
受け入れやすいことを言って信じさせてから、騙して人を堕落させる、
破滅させるのが常套手段であることをシェイクスピアは語っています。
 堕落させんが為に自尊心をくすぐる悪魔の悪意が、甘言が見抜けないのです。

 共産主義は、虐げられていた労働者を救う者であることを装って彼等に取り入り、
ルサンチマン(弱者の嫉妬)を解放し、殺人者の集団に変えました。
 今も、共産主義者は弱者の味方を装い、彼等に取り入り、

彼等の心を悪魔に従うものへと変えていきます。
 弱者に、虐げられていると信じ込ませ、復讐の心に、憎悪の心に変えていくのです。

 仮令弱者を真に助けたい思いからであっても、そのような心を支えている心根が、
己を高しとし、神に遜(へりくだ)る心を知らぬ偽我に生きる、
悪霊の心に同調し、支配された者達であることを忘れてはならないのです。

 彼等の言う愛の求めから性別の枠を取り払うことが、
性への執着から解放された、自由な思いが、真の愛へと昇華するのではありません。
 同性への愛は性愛に過ぎません、性に執着する愛です。
 彼等の
(エゴを剝き出しての)主張がどのような心から出るものであるか知るべきです。
 真の愛の宿る心からのものであるか。
 左翼思想に染まった者が、そのような考えが正しいと判断する心に立っての、
地球から国境をなくせば、

悪魔の与えた欲望を、感情を満たす自己愛に生きる喜びしか知らぬ彼等は、
神の与えた戒律が、徳の観念が人の善なる心(理性)へと導く指標であることを理解し得ない、
神の伝えられた真理を、ただ人の心を縛るもの位にしか心に留めてこなかった彼等が
人を縛る観念から自由になれば、人種差別はなくなると、
(悪魔の心に生きる、彼等にとっての)ユートピアが生まれると信じているようですが、
自由な思考力を、理性を育てる、大脳を開発することを奪われる、
本能に代ってイデオロギーに隷属する
自然の叡智の生み出した本能に、
愛に生きるあらゆる種と共に生きる心を棄て去る、そして自然から棄て去られる
だけの種にとってのユートピアが齎されることでしょう。

 国境が、己が民族を同胞を守らんが為にあることすら理解しない、
自らを生み、注がれてきた愛を顧みず自己愛に従い、自己愛を満たさんと貪りに生きた者が、
愛を、神の心を知らぬが故に、イデオロギーを神と信ずるが故に、
イデオロギーを受け入れぬ心を、虫けらの如くに踏み躙る心を当然とする
悪魔の冷酷に生きる知性故に、善なる人々の愛を守る城壁である国境を破壊し、
世界を征服せんとする彼等の野望は、力によって他を支配することを喜びとするのです。

 彼等に支配されることを喜びとする者だけが、
奴隷の心を育てた者だけが生きる資格を与えられる、
自らの意志に生きんとする者の思いは、生命は、羽毛の如くに扱われる、
支配者であると信ずる彼等の心は、欲望の奴隷であることを、
神の怒りに焼き尽くされる魂であるとは決して認めることは出来ないでしょう。

 性別の枠を取り除いた先にある愛とは、神の愛に背いた先にある愛とは、
そのような愛へと導いているのは、
種の破滅へと、人の心に地獄を齎す悪魔であることを見抜かねばならないのです。

 現天上界(高次元の聖霊)の御意志である、
共産主義者(そのシンパも含めて)を消滅の対象としか見ていないことを理解出来ない人は、
神を、また神が愛されるものを、愛する心が自分に本当にあるのか、
神の憐れまれた、迫害の中で神の救いを求め続けた、
あらゆる法にかけて、良心にかけて守らなければならぬ真の犠牲者に
共産主義者が為して来た非情を、その悪魔の心を、考えてほしいと思います。
 彼等と同様に神を見失い、悪魔に仕えない為にも。

(ウクライナを血で染めたロシアの殺人鬼達は共産主義の落し子であることが判らない者達は、
日教組という同じ共産主義の落し子だからでしょう。
 神々と心を一つに生きた何千、何万の天上界の善霊を滅したサタンと心を同じくする
共産主義者への神々の怒りが理解出来ない者は、同じ怒りを覚えない者は、
愛を知らぬ冷酷な心に生きる者です。)

 何時、自由を、国を失うかも知れない世界情勢で、左翼メディアは、
国防への人々の意識を逸らせる為に、人々の精神を停滞させる為に、
偽善という罠を仕掛けるのです。
 信じる自由を、自由な思考を奪う、社会、共産主義という全体主義国家の隷属を
強いられかねない時に、真の自由を守ることから目を奪い、
さも弱者の、虐げられてきた人々の権利を勝ち取る自由の為に戦っている気にさせ、
真の自由を守る為に、戦うべきものが本当は何であるかを悟れなくしているのです、
左翼メディアという悪魔の傀儡は。
 真に国民を生かしているもの、自由を得させているものを心に留めず、守ろうとせず、
国を、自由を失ってしまえば、他の如何なる権利も自由も無に帰することも悟ることがない。

 自由を平等を権利を主張し、己が正義を盲信し、
自分達に同意しない者を、社会の敵とレッテル貼り、社会から葬り去ろうとする。
 そのような者が群をなし、力を得れば(又、その力を悪に利用されれば)、
やがては国が亡ぶことになるのです。

 欲望を、エゴイズムを解放することが自由を齎すのではありません。
 欲望に支配されれば魂の自由を失うのです。

 何からの解放であり自由であろうとしているのか、どのような心を己が心としたいのか、
その為にはどうすればいいのか。
 偽我(自己への執着心に自由な心の働きを、意志を奪われた心であり、執着の力に、
悪魔の力に支配された心)からの解放でなければ、
心の、魂の救いに至らないことを考えなければなりません。
 自由や解放を叫ぶ人々の魂が、真に自由を得た心の働きであるのか、
人を救いに至る正しい道を示したものであるのか、悪魔の導きでないと言えるか、
真理に従おうとする者なら、正しい判断をしなければならないのです。

 同性愛であれ、異性愛であれ、欲望に、情欲に執着することが、神の愛を遠ざけるのです。
(情欲の虜となった者の心が如何に醜いか。
 邪欲を抑制する理性の働き、研磨された魂が齎す真の思い遣りを心から失えば、
天の守護を失い、己が魂の邪念は、邪念を満たそうとする悪霊を招き寄せるのです。
 邪欲に飢え渇いた悪霊が憑依を繰り返し、
肉体の滅びるまで貪りの内に生きることになるでしょう。)

(本能の働きを利用した)欲望に停滞すれば、理性は育ちません。
 本能とは自然の法則に従い、調和から逸脱することを許さないものです。

 動物は無意識に本能に従うから、自覚的に生きる人間に劣ることにはならないのです。
 自覚した上で自然のすべてを貫く法に従わない
(自然が与える恩恵がすべて法に則っていることを悟らない)ならば、
法を犯すことを許すならば、自然の中に生きる資格を失う、滅び行く種となるのです。

 人間の欲望は本能に根差しながらも、本能が満たされても、欲望は満足しません。
 飢えが満たされても、味わうこと(生き物を殺すことさえも)の
欲望による喜びを求めることだけに生きる者は、
その為に他が受ける苦しみを顧みなくします。
 そのように人間は堕落し得る生き物であることを忘れてはならないのです。
 そうであるから天は中庸の徳を教えられたのです。
 中庸とは人を救う道に他ならないのです。
 神は救いを齎してこられました。


"魂の救いの道、中庸の徳に生きるとは"
「JI」88年5月号初出 ミカエル大王様メッセージより
向上心なく、高貴な心の養いも目指さず、
エゴイズムの悪を正当化しては、自らを甘やかし、
身勝手な人生を反省もなく生きた人間の老年は、

只々心の醜い部分を剥き出しに暮す晩年でしかないのです。

"心が美しい"ことは何にも優る人間の徳性であり、
"顔形が美しい"ことは何の利点でもありません。
 私達はそれを正法を通じ、常に教えてきました。
 又、老年になっても"美しい心"を保つには若年の頃より努力しなければ、
大脳の細胞が多く死滅して習慣としての言動しか残らなくなった時に、
その人の真の心の歴史が表面化してくることも覚悟しておいて下さい。

「天国の証(78年8月初版)」65頁 エル・ランティ様メッセージより
おおよそ人間として俗世の心、俗人の心として疎ましく思われるものを鋭く見抜き、
それを自分の心から追い出すのです。
 何故ならば、それらはすべて悪霊の喜ぶものであり、自らを悪の魂と変えるものであり、
私達天上界が受け入れぬものだからです。


「慈悲と愛」79年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
真理と天は社会の調和と秩序を擁護するものであり、
それを乱し破壊するものは全て"罪"なのです。

 "愛"は一部の楽天的なクリスチャンが解釈する如く、
"律法"と"罪の観念"を空しくするものではなく、
"慈悲"が"戒律"と"魂の修業"を離れては存在し得ないように、
"律法"を完成するものであることを私は何度も繰り返して皆様にお話したいのです。
 自己を厳しく戒め、法と戒律を当り前のことと、その如く生きようと志す人にでなければ、
真の価値ある"慈愛"の限界を知ることもなく、
思い遣りと甘やかしの違いさえも会得することはないのです。


「慈悲と愛」79年11月号初出 ラファエル様メッセージ
三次元に於て仲良く肩を叩き合って人間が住めば良いというものではないのです。
 そのような浅薄な考えしか持たぬ人は、それ相応の報いしか受けないでしょう。
 詰り、私達は天上界にそのような人を迎え入れたくないということです。
 又、そのような人々が築くユートピアは神の国ではなくて、
人間的な俗臭を持つ人間のユートピアでしかあり得ません。
 それが如何に容易に毀
(こぼ)たれ、再び地獄と化すかは言うまでもないでしょう。
 聖書の中の"エデンの園"の物語と同じことです。


「JI」81年3月号初出 パヌエル様メッセージより
「先日テレビチャンネルの一つで、世界で数少ない、残された自然の動物王国の中で、
南米のジャガーの王国というのが取材され、南米特有の動物の生態が実録、放映されていました。
 その一コマに、年若く見える一匹のジャガーが餌を探して歩く場面がありました。
 野生のイノシシやバクやカメで失敗した挙句に、親の側を離れてふと迷い出た子鹿を見つけ、
たちまち攻勢に出た途端、横合いから父親のシカが躍り出、
気を逸らせる為にゆっくり別の方角に走り、
簡単に子鹿の代りにジャガーの餌食となりました。
 ジャガーに食べる物を与えて、子鹿を生かそうという気持であったのでしょう。
 それは静かな悲鳴一つ聞こえぬドラマでした。

 しかしここに人間が範とせねばならない自然の大きな智恵
種の保存の為に身を以て子を守り、犠牲となる親が動物には実に多く見出されるということです。
 そして彼等はそれを当然の事として少しも自分の犠牲について過大評価しない、
後に残された母親或いは父親或いは子供は、悲しみを黙って耐え、
自然の掟に従って己が生命を生きていられる間生かし、種の存続に役立てる。

(中略)
「古代人と同じく、現代の無知な人々(何を為すべきか、為さざるべきかも心得ていない)
に天は再び判り易い言葉で教えましょう。
"種の存続の為に  戦うを嘉しとし、快楽の為に殺すなかれ"。
"天は少しも人類を動物以上の優れた種とは見做していず、
動物界でも下等なレベルの生き様をしか生きぬ恥ずべき人間が増え過ぎている"。
"人よ、謙虚に自然を見習え"と。」

 種を存続させる為には、
自らの生命を犠牲にすることも厭わぬ愛を与えたのは本能なのです。
 動物が幾ら愛の自覚がないと言えども、自分が殺される恐怖心から愛を見失うことなく、
貫き通した事には変わりがないでしょう。

 健全な本能が生きているから、心の中に優しい思いが生きているからこそ、
その尊さに目覚め、意志によって真の愛を貫くそのような心を
自らのものとし得るのではないでしょうか。

 生命を失う恐怖から逃げずに、子への愛から自ら生命を捨てる、
動物にそれを為さしめる本能を持たぬ人間が如何なる愛を誇るのでしょうか。
 本能(自然の恩寵)を蔑ろにする心にあって、己が愛の権利を主張する

(自らの性格の悪さが原因で避けられている者が、同性愛者云々故に差別されていると、
自らの原因の隠れ蓑にするなど以ての外でしょう)、
そのような者が己の偽我を悟るなど望みようもありません。

 動物における自己保存は、種の保存であり、
自らの生命に掛けても種を守り抜く、真の永遠は種に於てであり、
種を生かそうとの思いに、生命を継いで行く子孫へと愛が溢れるのでしょう。
 彼等は自らが死のうとも、その思いは死ぬことはないと信じるまでに強められるのでしょうか。
 自己への愛しか持たぬ者、
自らの死に向き合おうとも、永遠に存続し続ける子孫への思いが最後まで蘇ることのなく、
ただ恐怖に心を失うしかない者、そのような者でも人間は動物に勝ると、
そのような人間を神は愛するとあなたは思われますか。

 同じ種であるから個を生かそうとするのも、同じ個に於てであり、
本能も個に於てのみ働くのですから。
 動物にとって生きるとは本能に従う意志しかないのであり、
本能こそ種を生かすもの、動物にとって神の心なのです。
 神の心へと導いてきた自然を破壊する悪を為す力を得た人類は、
悪に勝る善に生きる力を持たなければならないのです。
 生きる自由を奪う、生命を奪うことが悪であり、それを望む心が悪魔の心であり、
他を生かす、他の生きる自由を守るのが善であり、それを望む心が、神の心、
自然が生き物に与え続けた心であり、この心を知った全ての人々が子孫に与えたいと望んだ心です。

 何故人間の自己保存の思いは醜いまで自己への執着として表れるようになったのでしょう。
 たとえ自分が利他的に生きることが出来ず、利己的にしか生きようとしない者であっても、
自己犠牲を顧みず人を助けようとする人々を見てきているのです。
(利己的な)その人が彼等の恩恵を受けてきた、苦しみから助けられてきた、
曾て彼等の愛がその人の醜き心を清め、彼等によって真の愛を知ったにも関わらず、
利他的な愛こそ人の心を救うものであることを忘れ去り、
自分のことだけを考える利己的な愛を選び取ったのです。
 真の愛を捨て去る醜き心を自らのものとしたのです。
 自然の与えた自己保存(種の保存)の思い、我が子を守る(種を生かす)為に自らを擲つ愛を、
自己のみを愛する自己愛に変えたのが、人類という種なのです。
 これでは天上界から進化の途上であると言われるのは当然でしょう。
 自己犠牲を厭わぬ種の保存(愛)に生きてきた故に、動物が種を残してこれたのですから、
自己保存に留まることなく利己的な愛(エゴイズム)を克服した真の愛を得なければ、
人類という種は生き残れない。
 人類は精神を向上させ、真の愛の宿る理性を育てなければならない、
その為に神の心に至る道の指標である神の法、正法を天上界は与えられたのです。

 本能を与えられ、本能に従う心(旧皮質に宿る意識)にのみ生きることから、
理性(本能ではなく理性を意識する心は新皮質・前頭葉の働きです)に生きる自由を得た代わりに、
本能に生きる心故に為し得た愛を失いました。

 自然の法に、愛に生きる心(本能)を自らの意志で生きる為には、
人自らによって作る心、理性に於て育てることでしか、愛に生きる心を得ることが出来ない。
 それが人間であり、如何なる遺伝を、本能を以てしても、
前頭葉にのみ宿る高等感情は、この世に生まれてからの己が人生に懸かっていることを、
天上界は証されました。

 本能に見出された(他へと向かう)真の愛へと(自らに向かう)自己愛を昇華させる、
自らの意志で自らの心を、理性を作る、
あらゆる真理を見出した理性を自らの心と生きんとする意志の現れこそ真の愛を証するものです。
 動物にあって守られてきた本能の愛を、

そのすばらしさを理解する心、理性に於て蘇らせた方々が、現天上界の神々に他ならないのです。
 神の愛は自然の与えた本能の愛から来ているのです。
 本能の愛の昇華したものが神の愛に他なりません。
 神は人間であったことを証された現天上界こそ真の神であると直観されるのです。

 生き物への愛以外に真の愛はないと言われた現天上界こそ、
動物の進化に過ぎぬ、種の一つに過ぎぬ地球人類の誕生に立ち会い、
人類の誕生から変らず善導されて来られた唯一の神であることが何故悟れないのでしょう。

〖人の魂を救う善と滅ぼす悪を明らかにする神の光を、神の知恵を
イエス様によって、目の当りに知った為に、内なる悪魔の心に目覚め、
神を悪魔としか理解出来ぬ心からイエス様を殺害したパリサイ人のように、
現天上界の神々の語られたこれらの真理を嘲笑い、地に擲ち、
悪魔に操られ、利用される間、悪魔の甘言によって高慢な思いに満たされるなら、
神の愛を、真理を知れば憎しみしか生まれぬ悪魔の心に繋ぎ留められているのです。

 同性愛を擁護する法律を定めることに、何故左翼が固執するのか。
 神に抗う共産主義の亡霊と一体であるのが左翼であり、
悪霊がただ人類を、神を神と思わぬ魂へと堕落させんが為に行動していることを知れば、
彼等が言う所の姓の解放に導かれた者の人格が如何なるものであるか、
ラファエル様のメッセージから理解されることでしょう。

「JI」89年9月号 ラファエル様メッセージより
特に昨今のリベラル礼讃の傾向から"性の解放"といったスローガンで、
男性好みの過剰な興味本位の表現が、青少年から成人男女(老年も含め)に与える悪影響は、
つとに気持ちの余裕を失くし、殺伐とした病的な性格を作り上げております。

 これは欧米のリベラル思想とその影響を受ける青少年や一般人にも言えることで、
(左翼的)マルクス・レーニン主義の信奉と実践に他ならないもの。
 このような自由主義社会の人心の退廃と絶えざる闘争をかき立て、
内紛による家庭と国家の弱体化、崩壊を目指しているのです。
 "性の解放"運動なるものは、人間の高等感情即ち情操の育成とは関わりなく、
大脳旧皮質の生命への執着が、
人間以外の動物や植物によってストレートに表現される
"弱肉強食"正にその生存競争の強化訓練とでも言えるでしょう。
 "人間であることを放棄させる"運動でしかありません。
 愚かの限りです。

 リベラリズムの他の面 ― "女性解放"の動きは確かに良い面もあります。
 男女共にそれぞれ性格の一長一短があり、
それを補い合う社会がバランスの取れた平和で健全な社会と成り得るからです。
」〗

 45年前に性の解放と言って人を堕落させて喜んでいた悪霊が、
LGBTと看板を変えただけの、同様の手口で悪霊が手玉に取って弄んでいるとも知らずに、
至上の徳である愛の名の下に情欲を貪っている、これほど神を貶めた行為はないのです。
 悪霊の存在を知らないからとはいえ、元は堕落した人間に過ぎません。
 死んでも考えることは変わらないのです。人を堕落させることに罪の意識など持ちません。
 同類の悪霊と人間が共に堕落を味わっているのです。
 そのような者の主張を法にすれば、人類は神の法を失う、神の道を失うのであり、
人類が神の心を失う時、地球人類にユートピアの望みが絶える時、
天上界は他の星へと立ち去るであろうことを、最後の審判に於て、
地球人類の救いに与る最後のチャンスを与えらると共に、語られております。
 人類がどのように堕落していったか、自らが堕落してから、
堕落した魂にそれを悟ることは望めないのです。
 堕落を求める心を他のみならず己が心からこそ厳しく摘み取らねばならないでしょう。

 神の心に生きたいと望む者なら、必然的にエロスの愛の思いは
弱まって行くのではないでしょうか。
 神の愛を感じ、理解するまでになれたのなら、
同性愛にしろ異性愛にしろ天上界が定義されたエロスの愛に生きようと欲する思いは
疎ましいものに思われて行くのではないでしょうか。
 エロスの愛はナルシシズムであると、その思いの醜さを知るのは、
神の心を知り、その心の素晴らしさを実感しなければ解らないかも知れません。

「JI」84年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「天への愛を普通の人間愛へ振り向けることこそ神の子として相応しい人格であり、
人間愛も動物や植物への愛も共通のものであると何度もお教えしましたが
(動物虐待を意に介さぬキリスト教信者は、愛を口にしながら愛とは何かを知らず、
人間虐殺の共産主義を先頭に立って広めようとしていることから理解は容易でしょう。
 愛はあらゆる生命を持つものへの愛。その一種類しかありません
思い遣りもその現れでしかなく、愛と思い遣りがあれば、
正法者として相応しくない人格とはなり得ないのです。


 あなたの抱く愛が、神があなたに伝えた思いと同じものなら、
「愛」の真の望みが、今を生きる、そしてこれから生まれて来る生きとし生けるものへの
幸せ以外にないことを理解されるでしょう。
 
それを望まぬような、あなたとあなたの愛する者だけを考えることで満足するようなものなら、
偽りの愛、自己欺瞞に、自己満足に生きる自己愛に過ぎないのです。

〖参考
「わかりやすい交流分析 1(1984年出版)」88頁 中村和子、杉田峰康著
「交流分析では、私達の人生を一つのドラマのようなものとして捉え、
その中で自分が演じている役割を脚本と呼んでいます。
 脚本は私達が子供時代に、両親の影響を受けて発達し、その後の人生体験によって強化、
固定化された人生計画(青写真)なのです。」(中略)
「脚本を分析することで、今まで宿命とか運命とか諦めていたものが、
実は自分が無意識の内に強迫的に演じていたドラマであることに気付きます。
 また、自分の性格形成の過程が解り、人生早期に作られた基本的な構えなどについても、
詳しく知ることが出来ます。」

 子供に向けられた親の強力なメッセージは禁止令と呼ばれ、
子供の自我を従わせる脚本の如く決定力を持って支配するものであることを解説しています。
 その一例を紹介します。

"女(男)であってはいけない"
 これは自分の性別を嫌ったり、
自身が持てずに不適応を起こしやすい人の行動を支配する禁止令です。
1)女児の場合
 母親は、そのP(交流分析の用語で、親の自我状態を言う)から
"女の子は女の子らしくしなさい"と言い、それが子供のC(子供の自我状態)に入ります。
 しかし、その同じ母親が、「女は損よ」、「男ばかり得をして」、
「この哀れなお母さんを見て」、「今度生まれてくる時は、絶対に男に生まれたい」など、
事ある毎に愚痴をこぼし、父親に対しても、この種の気持を非言語的に表現します。
 その結果、「女はつまらない」というメッセージが発信されることになります。
 これは母親のC(子供の自我状態)から子供のCに伝わり、
子供は「女になるまい!」と決心します。
 これに加えて、父親が「お前が男だったらなぁ」などと後悔した姿を見せると、
禁止令が強化されることになります。
 最終的に、子供は「お前はいらない子だ」とか「男の子のようになれ」といった、
非常におかしなメッセージを受けることになります。
 そこで子供は、お転婆娘になったり、Gパンをはくのを好んだり、男性の仕事に引かれるなど、
男性のように振舞う習慣を身につけていきます。
 こうして結婚適齢期を迎える頃になると、女性としての同一性が確立してないことになり、
社会的に見ると不適応に陥りやすくなる訳です。
 女であることに自信がなく、性に対して嫌悪感を持つ為、内心で混乱が生じる為に、
なかなか優しく振舞うことが難しくなります。
 その結果、いわゆるヒステリー性格が形成されます。
 こういうと、女性の自立を軽視しているように響くかもしれませんが、
本当の女性の自己の確立には、自分の性別を受け入れ、
男性との調和も含まれるのではないでしょうか。

 この禁止令の特色の一つは、"男性をやっつけてやるぞ!"、
"主導権を握りたい!”という気持です。
 この傾向があまり強いと女性からも敬遠されかねません。
 いずれにせよ、こうした偏った自分に気付かず不適応に陥る訳です。
 結婚しても、夫を心から尊敬できず、争うことが多く、
夫婦の関係を険悪なものにしていきます。また、"誘惑のゲーム"も演じやすいのです。

2)男児の場合
 大声を出すと親から叱られ、兄弟げんかをすると説教され、
木登りは危ないからやめろと言われて育つと、
"男であってはいけない"という禁止令が下される可能性があります。
 その結果、男の子でありながら、受身的で消極的な人となるでしょう。
 男の子が、母親ベッタリでは、男性性を身につけることができません。
 いわゆるマザ・コン的な母子密着から抜け出せないと、
男性にとって将来、職場や家庭での適応が難しくなります。
 今、増加の傾向にある、登校拒否や家庭内暴力は、
たくましさを欠いた父親と、優しさを十分発揮できない母親の下に育てられ、
男性としての同一性が確率できないでいる子供に多く見られる問題といえるのです。
 現在、アメリカで問題になっている同性愛、性犯罪、
あるいは近親相姦なども性同一性の混乱によるものが多く、
幼児の親子関係にその原因があるといわれています。
 性転換を望む人が増えているという現象も、
この脚本の社会的な症状といえるかもしれません。参考終〗

「天国の扉(77年12月初版)」145頁 ラファエル様メッセージより
平和と調和は、言うべきことも言わずにお互いに甘い言葉を交し合って、
お互いの性格の不健全さも歪みもそのまま受け入れ、それが習慣になれば、
社会の歪みも黙認して個人個人がそれに合わせてしまう。

 そうして、三次元の人間が十パーセントの意識と智恵が大半で
作り上げている社会がすべてであり、
地上のことのみが人生に於ける唯一の関心事になってしまう。 
 そう考えていられる方、そのように三次元の世界を理解していられる方があるとすれば、
それは正しい受け取り方ではなく、健全な判断ではないことを知って頂きたいのです。
 寛容の心といっても、徒に許すことのみが社会に平和を齎すとは限りません。
 悪と不正と不健全な考えをそのままにしておくことは、却って社会に混乱を招き、
精神の向上や文明の発展を遅らせるだけなのです。

「JI」85年7月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」55頁

「例えばノイローゼなど(の病んだ心)を治す場合に、
医師や心理学者が繰り返し助言することの一つに、
自分の過ちに拘るな。自分の欠点についてくよくよ考えるな。
 そういうものは忘れて、もっと目を外に向けるように、という場合があります。
 ノイローゼの治療には確かに役立つでしょう。
 しかし正法はノイローゼ(病んだ心)を治す場ではなく、良識的な人格の育成を目指す所です。

 男女間の愛は言うまでもなく本能に根差しており、
たとえ神の真の愛を見出すことはなくとも、
本能の愛以外に神への愛に至る思いを心に育てることは出来ません。
 本能なくして如何なる種も、生存、存続(遺伝)、
生きる喜び、生かし育てる喜び、愛、優しさを持つことはありません。

 本能の愛、男女間の愛を軽んじる、同性間の愛を誇る心は、神の愛とは無縁です。
 神の導きに抗う心は悪霊と変らず、
その念に同調せざるを得ないことは既にご存じであると思います。
 少なくとも本能(真の愛は自然界の生命の大切さを感じる心からしか生まれない
ものであり、本能の心から昇華されるものであることを天上界によって知らされました)
から来る思いを感受する素直な心を失っている、心は歪められているのであり、
他の心の働き、理性などの高等(自己保存、自己愛を克己した)感情が、
そのような心に正しく育つことなどあり得ないでしょう。
 彼等が共産主義者の心に同調していることが既に、
真の愛や優しさに生きる心ではないことを証しているのです。
 共産主義(的価値観)が根を張り、邪念に心が蝕まれた人達です。

「JI」82年11月号初出 ミカエル大王様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」159頁 

「今日は"姦淫するなかれ"という戒めについて、真の意義をお教えしたく思います。
 現正法は正しく私達天の法を介して、極端に走る思想や行為を戒めております。
 人間間の愛情が恋愛感情に発展する時も同様に、
恋愛は自由であると思い違いをして、
愛の溢れるまま何等理性でそれを制する努力を為さぬらば、
それは一つの過ちとなり、悲劇で終わる場合が却って多いのです。
 未婚の者同士でも、社会には制約があり、その制約を踏み越えても互いが愛を失わず、
周囲もそれを暖かく理解し、受け入れるならば、誰も傷付くことはないでしょう。
 しかし現実は、男女の考えの相違や心理的な変化が、
自由な恋愛を何時も成功には終わらせないのです。
 互いを愛するならば傷付けぬこと。不幸にせぬこと。 
 それをまず第一に考慮するものでなければ、愛とは言えず、
一時の遊び、好奇心、欲望の満足の対象としてしか相手を見ていないことになります。

 未婚の者の自由恋愛は"姦淫"とは言いません。
 しかし何れかが既婚であるか、何れかが配偶者を持つ場合、
それは社会が許さぬものであり、お互いをより傷付け、
又、幸福な家庭を壊す場合は、二人のみでなく多くの人を不幸に突き落とすことになるのです。 
 現正法はまず第一に"人の幸せを願い、思い遣ること"なのですから、
社会の制約が厳存し、お互いのみならず多くの人を傷付けるならば、
愛がたとえ心の中に芽生えたとしても、自分で厳しくそれを摘み取らねばならないのです。

 相手の幸せを願い、思い遣るならば、自らの愛と良心、善我に掛けて、
相手を傷付けることは出来ない筈です。 
 その意識がなく、エゴイスティックな愛を強要する相手は、
勿論悪と見做し、斥ければ良いのです。
 どうしてもあなたへの愛を断ち切れない人は友人とすれば良いでしょう。
 人の幸せを奪う行為は盗みにも等しいものです。
 たとえ二人が合意しても、"第二の死"が裁きとして二人に与えられます。
 しかし私達は、一旦夫婦となるならば、如何なる理不尽な言動にも耐えて、
子供共々不幸と苦しみに喘ぐ生活を強制する相手と永遠に絆を断つなとは言いません。
 真の愛が通じぬ、
人間として価値なき人格に繋がれて共に地獄への道を歩む必要はないのです。
 如何なる場合も離婚を禁ずるという一部キリスト教宗派の戒律はサタンの束縛であり、
人の苦しみはサタンの喜びそのものであるからです。」

「JI」81年3月号初出 パヌエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」132頁

「動物界にとって性の乱れはなく、近親相姦、乱婚と見えるものもすべては
何時襲われるとも知れない生命の危険の中での"種の存続"の智恵なのです。
 それを動物と蔑むことは出来ません。
 然るに保護された社会で、人間は互いに何を馴れ合って堕落を容認しているのか。
 古代に於て人類は、家畜の如くそれを不要な快楽であるとは知りませんでした。
 だから神は許し、教え導いたのです。
 これだけ知性の開発された現代に於て、
まさか人々は種の存続の為に快楽を貪りたがっている筈はないでしょう。
 それを許容させようとする社会の傾向並びに声を大にして誘惑的言辞を弄する左翼団体は、
マスコミも含めて逃れようのない罪です。
 極端になりつつある快楽的嗜好、傾向が愚行であり、
自然に反し、不要のものであることを知らぬ現代人に天は再び教えねばならないでしょうか。

 ユーモアとそういった不健全な嗜好、傾向とは別物です。」

「JI」87年3月号初出 ラファエル様メッセージより
良心や愛は人間社会と種の存続の保護に繋がり、"種の繁栄と存続"を。
 性の乱れは犯罪と闘争と死に繋がり、"種の絶滅"を招きます。
 神は前者を望み、良心と愛と生命を人間の世界に齎しました。
 悪魔は後者を望み、闘争と死を齎そうとしているのです。

 私達を信じるあなた方も、信じず従っていない人々も生命と死のどちらを選びますか?

第一部 天の教え
第八章 宗教
備考 一考察

 (二) 真の天上界が理解出来ないキリスト教徒
 聖書ではイエス様に出くわした悪霊が命請いをして逃げ出してますが、
悪霊と雖(いえど)も神を恐れるが故に服従したのでしょうか。
 天に反逆さえしなければ神に恐れを感じることもなかったでしょう。
 悪霊が真に恐れたのはサタンと呼ばれたダビデでした。
 サタン・ダビデが消滅させた霊は数知れず、
その非情さと他の霊と比ぶべくもない霊能力の前に恐怖せずに自由でいられる霊はいませんでした。

 そのダビデもイエス様の時代は、天上界の一員であり、
イエス様には守護される天上界がおられただけではなく、
十字架をダビデの筋書き通りに実現する為に、
イエス様の行く手に(天上界の協力者として)介入していきました。
イエス様を神格化させ、神に遣わされた救世主と人々に認めさせた上で、贖いの為の犠牲にする。
 人類の救いとは、神を、そして神の子らを"犠牲"(を神の嘉される"信仰の証"と信じさせる)
という名の下に迫害する為の口実に過ぎませんでした。
 そして迫害することを、神に反抗することを喜びとする分身(悪霊)を作っていきました。

 病人をイエス様の許に連れてこさせて、癒しの奇蹟を天上界の聖霊に強要させました。
 悪霊がイエス様の前にのこのこと現れて、神を恐れて見せるのも、悪霊の邪魔をさせない、
神エホバ様に協力的であることを信じさせる為のダビデの演出であったかも知れません。
 聖書に記載された通りに信じる者は、今、悪霊が神に逆らう存在となっていることなど、
天国を葬り去り、天国に代わる地獄の王国を齎す為、
天上界と死を賭けた戦いが行われていることなど、とても信じられない事であろうと思います。

サタンはGLAに於て、神と言わずにサタンの宣言とした。
 天上界を滅しさえすれば、地球人類の心から神の心を滅し、エホバ神を捨てさせ、
サタンを拝させることが出来る自信があったのでしょう。
(ダビデはルシファーを隠れ蓑にヒトラーを操りドイツ国家全体を支配しました。
 ダビデは天上界の神々の一人として振舞う陰で、地獄の魔王ルシファーをも恐れさせ、
従わしめていたことを、ルシファーはエホバ様に証言しました。
 神の選民であるユダヤ人の大虐殺は、ダビデの兄エホバ神への挑戦でありました。)
 天上界の、善霊の懸命な働き掛けで、
かろうじて、共産主義やヒトラーを操るサタンに抗し得たのです。
 天上界が滅びれば(その時には、イエス様もブッタ様もモーセ様もサタンに殺され、
彼らに成り済ました偽りを人類は崇めることになるのです)、
サタンの前に全人類が跪いたかも知れません。
 そして二十世紀後半に天上界の聖霊の善の信念は、悪魔に屈せず、天の真理を齎しました。

 悪霊は真実(悪魔は、人の信仰を試みる者として神に許されている存在などではありません。
 真の神の敵対者であり、神に導かれる人を、善霊を滅することだけが
悪霊の存続する道だということ)に拠って、神に反逆している。
 幾ら純粋な気持ちから絶対神を愛し、祈っても、真実を知らない、
聞いても悟れない人々の知性や神への愛よりも、
悪霊の悪を為そうとする悪智恵や邪念(神の真理をも、人を欺く為に利用する)が勝るのです。
 悪霊は、真実を、真の神を知った上で、善霊の知恵を悟れない頑迷な者の心に入り込むのです。
 真実を認識する知性を持つ悪霊は、光を知らず闇にあって神を求める者に、
偽りの光、偽りの神の顕現を以て信仰心を邪な思いへと導くことが出来るのです。
 クリスチャンは、真の神を愛しているのではありません。
 宗教団体に依存しての安心感から、宗教に執着し、
偽我(執着心)の目に映る偶像を崇めているのです。
 彼等の崇めているものが偶像であることを悟れない心に、執着心に生きる限り、
偽りの神を見抜くことも、真の神を見出すこともありません。
 キリスト教の歴史(科学者や異教徒への迫害)を見て尚、選民意識の内に慢心し、
サタンに欺かれてきたのがキリスト教徒の真実の姿であることを悟れないのです。

第一部 天の教え
第八章 宗教
備考 一考察

 (三) 輪廻、過去世について
 一生の間には、絶対に忘れることの出来ないことがあるでしょう。
 愛するものを失った時、新しく家族を持った時、救いを実感した時のこと。
 それ程の記憶が思い出せないで、どうして過去世というものがあると
信じることが出来るのでしょう。

 それとも転生とは新たな心を持つ為に、それまでの記憶を消し去ることなのでしょうか。
 人間(肉体)が誕生する度に、誰かしらの魂が転生しなければならない、
魂が入らなければ植物人間になる
と考えているのでしょうか。
 新しい生命に転生しようとするのは、意志ですから、思考は記憶が無ければ不可能です。
 転生しようとする者は、今思考している自我が、前世の記憶が、
すべて消えてしまうことを承知の上で、新しい自我を得ようとして
新しい生命に投身(転生)していると信じているのでしょうか。

 それが掟なら、今生にあってどれ程人を大切に思っても、自分を愛する人を生き甲斐に思っても、
すべて記憶から消し去られると信じたのなら、生きることは只楽しければ、
苦しみを避けられればそれで良いことになってしまう。
 今、苦しんでいる人は、その人の前世の所為である、
その人を助けるのは来世で自分が苦しみたくないから。
 転生に、来世に備えて善行をする。その目的は、良い星の下に生まれてくる、それだけなのです。
 このような考えは、霊魂が初めから、肉体の誕生、
死と関係なく存在するとの考えからでなければ生じません。
 このようなことまで、天上界に間違っていると言われる迄、
気付けないというのは、宗教が阿片と言われる訳です。

 真実は、魂は肉体の誕生によって、初めて形作られるものであることを
天上界から知らされました。
 稀に自分の過去世について語る方もいますが、彼等が捉えている思い出は、
感情を伴っても、傍観(観賞)者のものであり、当事者のものではない。
 思い出として語る者の中に、その場に在って、当事者として、
その時、その場所で遭遇した驚きや、
引き裂かれるような悲しみや苦しみなどの記憶ではありません。

 過去世とは、合体霊となった者の生前の記憶が本体
(合体霊とは別人格のこの世に生きている当人)
の意識に現れたものに過ぎないと天上界は
(無知な時代に信じられた教えに、現代にもなって尚、疑問にすら感じない人類の為に)
教えて下さいました。
 過去世などという概念は、来世があってほしいという願望の産物に過ぎないのです。
 転生の事実は何処にも見当たらないからこそ、転生が信仰の対象になる。
 転生を信じなければ始まらなくなる。
 そう信じるから、今生に於て業(カルマ)を浄化する時、幸福を実感し、
この幸福の世界に再び生まれてくることが出来ると予感される、希望を信じる心が生まれる。
 再び目覚めを迎えることを信じられるから、安らかに今生の世界から暇乞いをすることが出来る。
 宗教が成立する。

 人間が生まれてから霊体(魂)が肉体(心)の一部として作られる。
(生前の神経細胞の一部から成る分子組織(霊体)が、
肉体の死後も永遠の物質(素粒子の)エネルギーに支えられて同じ機能(慣性の法則による)
を持って存続している)とは、ブッタ様の時代には、理解し得ないことでした。
 現代に於ても理解されていませんが。
 当時、既に人々に転生が信じられており、
自分の来世の為と信じるからこそ善行を心掛けていたのです。

(生まれて来る他者を善導する為に合体霊としてこの世に帰って来る、
人の為、天の使命の為であり、それが真の我を作るに他ならないからなのですが、
自分の思うように、自分の為の人生を何度でも生きることが出来る
(今生の人生経験しか記憶にないにも関らず)ものと勘違いしてしまいました)
 転生を誤りであるとの直観を齎す本当の真理を人々が見出すその時まで、
未来の幸福を求める心から善行を為そうとする人々が信じる、
希望の拠り所としている"転生輪廻"論の誤りについて指摘することは、
人々を苦しみから救う為、魂を救う為に、
善なる魂へと導かれていた天上界には出来ないことであったと思います。


第一部 天の教え
第八章 宗教
備考 一考察

 (四) 創造神
 超高温で爆発し、膨張し続ける世界が宇宙です。
 その爆発の瞬間の一点が現在に至る宇宙の始まりです。
 その一点以外は宇宙の外部であり、どこまでも膨張していく、
宇宙の内部は押し広げられて行くばかりで、膨張を遮る如何なるものも存在しない
(あるとすれば絶対零度と言われる世界でしょうか、
そのような何ものも存在し得ない世界というのは、言葉だけで実質は無
(認識する如何なる者も存在し得ない)に過ぎません。)、
宇宙の外に世界は存在しないことを証明しています
(創造神は宇宙の外部には存在しないのなら、内部におられるのでしょうか)。

 神が宇宙の内に在るのなら、一点の内に在ったことになります。
 一点となったが故に爆発、膨張を得たのですから、
このような状況(一点の内)で意識作用(創造神の思考)が働くと考えるなら、
神は物質ではあり得ない。
 その神が神の存在する物質以外の完全なる世界とは別の、
物質なる世界を作らねばならなかったのか。
 真実は、神という存在者が作ったのではなく、物質自らの化学反応に過ぎなかった。

 超高温の世界が冷却されて、水が出来、生命が誕生したのです。
 神の創造ではなく、そこに在るのは宇宙の法則だけです。
 宇宙の爆発は創造ではなく、起きたのであり、
生命世界が生まれたのは、そのような環境になったからです。

 宇宙(物質)と法則(存在様式)は別々には存在し得ぬ一つのものです。
 自然(宇宙と法則)の力と恩恵が古代人にとって生きる望みのすべてでした。
 人類が圧倒的な存在を実感させる宇宙の前に生きる時、幼児が親を見る如く、
宇宙に対して全人類の親である神という人格を抱いて仰ぎ見たのです。
 神が人間の、生き物の世界を作ったのは自らが関わる為であったとの教義ですが、
何故神自らが支配することなく、宇宙の法則により支配をさせたのでしょう。
 絶対神は人類を、自然を支配することが出来ないから、
宇宙の法則を必要としたのでしょうか。
 宇宙の法則もその支配者である神も同じ一つのもの、
即ち宇宙の法則こそ神と呼ぶべきものです。

 ビッグバンから何億年も経って、生命が誕生したのです。
 そのような事実を知らないからこそ、
宇宙誕生から6日で人間が作られるという物語が信じられたのでしょう。
 旧約聖書の創世記をそのまま信じる知性には、
神が人間の霊であるという真理を理解させることは不可能でしょう。
 幼児期に狼に育てられた人間が、その後人の手で学習を施されても甲斐がなかったように、
間違った思考の土台を作ってしまった者は、
その土台に立脚しながら土台が間違っていると改めることは出来ません。
 それは自己否定、自己崩壊と言われますが、実際には、防衛機制が働いて、
改めることは決してありません。

 新たに真理であると証明された科学を理解しようとも、照らし合わせようとせず、
宗教の教えを通してしか世界を見ることが出来ない者は、
教えの誤りを悟れず、教えと異なる科学を真理と認めることが出来ません。
 思考の条件反射を変えることが出来ないのです。
 条件反射と言う心の働きが現代の精神医学で解明される二千年前に、イエス様が語られています。

 新しい葡萄酒(真理)は、新しい革袋
(固定観念という条件反射に縛られていない柔軟な心)に入れなさいと、
古い革袋には新しい葡萄酒を保つことが出来ないと仰しゃられているのです。
 イエス様の言葉は知っていても、真理を直観する柔軟な思考力を持たぬ者には、
固定観念から逃れられないのです。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法