第一部 天の教え
第五章 徳(心の糧)

三節 神の徳を軽んずる愚かさすら解らぬ者
「慈悲と愛」79年4月号16頁 千乃先生解説より
「(俗世に浸かった正法者から神々の神、天地の統轄者であるミカエル様が
大王と名乗られることについて千乃先生に異議を申し立てたことに対して)
大天使長ミカエルが大王となられ、そうお呼びすることに反感を覚える人がいたり、
魔性のものだろう、と言われる徳の高い()僧正がおられるから"大王"を付けないで欲しい、
といった要請がありました。
 これは御意向に添うことは出来ません。
 何故ならば日本人は王族に慣れておらず、
" … 王"といった身分は仮空のもののような印象を受け取り、
"王"と呼ぶのは"魔王"位だなどといった誤った知識しか無く、
歴史に現れる多くの王や、現在も元首を王と呼ぶ国があることを
絵空事のように意識の外に置いてしまう癖があるようです。

 そのくせ"大僧正""法王"といった称号には何の反発心も湧かないのは
大変奇妙な考え方の癖と言わねばなりません。
 ミカエル様は王族ですから、エル・ランティ(ヤーウェ = エホバ)様から王位継承の際には
戴冠式をなさり、天上界の統治権を引き継がれました。」

「(ミカエル様は)"大王"呼ばれるに相応しい最高の徳を備え、
それだけのことを為してこられたのです。
 三次元の法王や大僧正は、余程立派な人でも如来界止まりで、
天上界に於て"王"や"大"をつける程の価値は与えられません。
 イエス様やブッタ様やモーセ様は"王"と呼ばれるに相応しい方々ですから
ミカエル様と同じ時期に宇宙界に上られたのです。

 そしてまた"大王"と呼ばれるにはそれだけの魂の価値を有していられるのは言うまでもなく
(天上界に於ては徳の高さで次元が定まります)、
その徳即ち次元の違いは今生で少しばかり正法を齧
(かじ)ったり修行をしたからといって、
不遜にも魔王と間違えたり、大王と呼ぶなとは言えたものではないのです。

 そういった方はミカエル大王様と同じだけ(革新的なお働き)の転生と修行を積み、
人類の為に尽し、しかも謙虚で慈愛と正義と信義に満ちた者と成られてから

初めて考えてみて下さい。
 それが如何に苦難と忍従との茨の道であるかを。
 栄光の冠を与えられるに相応しい徳の道であるかを。


「希望と愛と光」82年6月号初出 ガブリエル様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集(初版)」222頁

「今月は、私がお話を致しましょう。
 今までより何度も、私達天上界の者が繰り返し、あなた方にメッセージを送って参りましたが、
今月は私達のこれからの方針というか、目的をより明確にする為に、
少し苦言を呈したいと思います。
 あなた方正法者、機関誌の読者の皆様に、
もう一度ここではっきりとさせておかねばならない事があります。

 それは、私達がこの地上を神の国、ユートピアにする為に、
あらゆる方法と人物を通して語り続けてきました
が、あなた方現代に住む人々にとって、
最早私達の真なる心からの呼びかけにも関らず、何故か功を奏する所少なく、
そればかりか却って正法を一宗教視し、挙句の果ては、私達天上界に対して畏敬の念さえ失い、
三次元に住む俗人と何等変わらぬ態度で接し、
千乃裕子様に対しては取りも直さず、
(以前に私、ガブリエルが『 JI 』誌一九八一年四月号に於て、
苦言をあなた方に申し上げた筈ですが) これ以上の侮辱はないと思われる程の有様です。

 私達はあなた方に言います。
 己の偽我すら厳しく見つめることの出来ぬ人間が、
己ほど正しき者はないとばかりに他を裁き、

罵詈雑言を浴びせ、根拠の無い噂話、中傷等であれば
熱心にしかも飽くことなく実践するとは、何たることでしょうか。

 私達が天国シリーズにて、機関誌にてあなた方にお教えしてきたものは何だったでしょうか?
 只、一読しただけで積み重ねて置いてあるだけではありませんか()。
 そのような人々に私達は言います。
 一度読んで理解し、悟れたものなら何故、あなた方は未だに進歩出来ないのでしょうか?
 何故、魂の自由を得られないのですか?
 昨年(八一年)十二月のクリスマスの時にも、イエス様が仰しゃった筈です。
「私達は、血を吐く思いであなた方にメッセージをしているのです」と。
 この意味を真に理解していたならば、私達、いや千乃裕子様に対しても、
もっと温かい、もっと思い遣りのある言動がとられる筈です。
 私達は何の為にあなた方にメッセージを送っているのか、
忘れた者はもう一度最初から読み直して見なさい。
 最早、残された時間は刻一刻と迫って来ているというのに。
 それでは最後になりましたが、
「心に安定した支柱のない者は、ザルに水を注ぐが如き」と以前にも言いましたが、
これを今月のあなた方へのメッセージとして、再度与えましょう。
 愛は、与えられる資格のある者のみに与えられるのです。
 そして、茨と石ころで作られた天上界の光の道を見失わず、
(苦難と忍耐の荷を負い、それでも尚、)努力し続け歩みゆく者こそ、

真の正法者と成り得るのです。
あなたはどうですか。」

(注。
一度読んで理解出来たと自惚れる位ですから、
その程度のメッセージを語っているのが天上界であると、
神を侮っていることも悟れない(メッセージの内容は言う迄もなく)者なのでしょう。

 例えば、メッセージから善について学ぶとしましょう。
 メッセージを理解するとは、理解する能力を開発したということであり、
心が目覚めたということではないでしょうか。
 善を理解し得たのなら、悪が理解される筈であり、
それが出来ないでいることに気付けないようでは、
何ら(正見をなさしめる)能力が開発されていないのです。

 メッセージを読んで、メッセージに籠められた天の思いが理解されないなら、
メッセージは理解されていないのです。
 何度もメッセージを読んでいく内に、理解する能力が開発された時に、
悟ることが出来ることでしょう。
 天上界の教えがすべて繋がってくるのです。
 すべてが一つの善なる心(神の心)から表れた意志であるからです。
 同じ神の心を持つすべての天上界の聖霊に繋がるのです。
 彼等の思いが伝わる者は、同じ神の心で繋がるのです。
 同じ神の心で生きるようになるでしょう。

 天が善を語る時、如何なる悪に立ち向かってこられたか、
悪に苦しめられる者に心を痛めてこられたか理解されるのです。
 真に理解するまで、努力し続けるしかないのであり、
そうやって理解していく内に、天の思いに生きることの難しさを知るのでしょう。
 メッセージを理解したと自惚れる人は
天の思いを理解したいと求めてこなかった人達なのではないでしょうか。注終)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法