第一部 天の教え
第五章 徳(心の糧)
二節 魂を磨く徳に適う生き方とは
 徳に適う正しい生き方とは、徳の観念を究め、観念を信念へと高める生き方です。

 (一) 魂の研磨の大切さ
「JI」81年7月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」138頁

「あなた方自身の心の内を省みた時、少しの曇りもない状態が続くことがありますか。
 恐らく無いでしょう。浮かんでは消え、消えては浮かぶ偽我に悪戦苦闘している筈です。
 何故悪戦苦闘するのか、出来るのか、それは正しきものを知るからです。
 これを魂の研磨といいます。」

「慈悲と愛」78年11月創刊号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」18頁

「神に於ける善我の心とは、磨かれた、光を放つものでなければならぬのです。
 原石を磨いて宝石とするのに研師はどのような仕事をするでしょうか。
 磨かれる原石にとっては決して居心地のよい、楽しいものではありません。
 研磨とはそのような仕事です。
 ごつごつとした石を割り、荒い表面を磨きに磨いて表面を滑らかにし、
水を掛けては汚れを洗い流す。
 それを何度も何度も繰り返すのです。
 そのようにあなた方は神の戒めと光によって、
そして自己の反省と改めによって魂を磨かねばなりません。


「慈悲と愛」78年11月創刊号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」20頁

「魂に於てはもっと進んだ形での己を磨き、鍛え、浄化させることが必要となります。
 これは己について反省を日々行い改めねば達成されません。
 サタンの甘言と誘いと甘やかしに、己の虚栄心をくすぐらせて喜んでいるような人間は、
正法を学ぶ資格さえないのです。


現象テープ№40 「天上界からの苦言」より
 83年7月10日 ガブリエル様現象

「今まで私達はあなた方にとって、出来るだけ穏かに、
また説得を以て理解して頂くように努力を払って参りました。
 が、今は言葉に厳しく態度もより明確にせねば、甘やかされてきたあなた方の魂は、
中々目覚めないという結論に達しましたので、尚、心の奥、
即ち魂の研磨の砥石の目を少し粗くして研磨することに決意しました
ことを、
ここに伝えましょう。
 砥石の目を粗くするというのは、各自がこの会場よりお考え続け下さい。

 私達はユートピア建設の妨害、破壊をする者、その手先となって働く者には、断固戦い、
生存を許さぬ決意を固め、又そのように現天上界の方針を各善霊に指導、通達を致しました。

〖備考
 神の計画を妨害する、正法流布を妨げる邪教、及びその信者に対してもです。
 彼等が神を求めたのであっても、偽りの神に仕え、
真の神に抗う魂に堕したことに変わりはありません。
 この世あって、天の法を犯してもこの世の法には裁かれることなく生きられた者も、
天の世界を生きる生命は与えられないということです。

 心に罪を隠し持つ者が人を裁こうとする
(姦淫を犯した女を法によって処刑しようとした)人々をイエス様は戒められましたが、
同様に姦淫を犯した女にも、二度と罪を犯してはならないと戒められました。
 誘惑(楽しみ)の前に、罪を犯した人々の後悔の思いも忘却し、自ら悪の力に跪く、
悪に染まった魂の絶望をこの世の人々の解し得ぬからと言って、
そのような心を捨て去る神の心に徹した聖霊は、
はっきりとその(善なる心を汚し、善なる人々の不幸を悦ぶ)邪悪を見ているのです。

 たとえ犯罪を犯しても証人も証拠もなければ、刑罰から逃れられるかもしれませんが、
加害者に於ても被害者に於ても事実は魂に刻まれ、消すことは出来ません。
 また、(善なる人々には必ず共に居られます)守護霊、合体霊も目撃しておりますから、
天に於ける裁きは逃れようがないのです。
 神の御意志を自らの意志として、人を天へと導く為に彼等は降りてきたのです。
 神の思いを軽んじる偽我から、善なる心を救う為に、
善なる心に立ち返らせる為に、導かれるのです。
 神の思いを受け入れぬ、邪念に生きる偽我を庇う為に来たのではありません。
 神の御前に罪を明らかにされて、神の思いに打たれることなき者、
善なる心の目覚めることなき者に救いはありません。
 左翼、邪教徒に関わらず神の法を侮るすべての者は、
無視していられるのはこの世に於てだけであることも判らずじまいに終わるでしょう。備考終〗

 現正法を学び、使命感を持って、私達と共に働こうと決意されている皆様は、
特にここに気持ちを刷新して、今日から力強く命の終るまで、その努力、精進を怠ることなく、
毎日を過ごしていって下さることを切に願うと共に、私達天上界の意志でもあるのです。
 あなた方は決して一人ではありません。


「天国の証(78年8月初版)」114頁 サリエル様メッセージより
サタンの誘惑があれば、そこから抜け出る智恵と防御本能、そしてその経験から習得した知識、
そのようなものの集積が善我の歴史であり、魂の修行とも申せましょう。



魂の研磨の難しさ
 神の心を自らの心とする為に、
常に天に信頼を寄せる心である為に、
常に善を求める心である為に、
魂を研磨するのであることを教えられました。

「天国の証(78年8月初版)」60頁 エル・ランティ様メッセージより
「霊体は一つのことについて迷いが生じると、
なかなか他のことに気を転ずることが出来難いのです。
 その欠点がここ(善霊と悪霊との決戦)に於て具体化(善霊の裏切り)され、
天国がバウンティ号の叛乱の如き様相を呈しました。
 天国だとて、霊の世界は、心の修正が何時も要求されるのです。
 霊はエネルギーそのものといってよい程ですから、
一つの思念がそれの持つエネルギーと等量になって、それだけ集中したエネルギーの塊となります。
 肉体を有していれば、種々の生活上の必要性から気分を転換させ、
悪心、邪念の集中が避けられますが、
霊体はこの点に於て、辛い日々を送らねばならぬのです。


「天国の証(78年8月初版)」94頁 ラグエル様メッセージより
「この度天上界の戦いで出た半数の人の裏切りに加えて、
高橋信次氏の生前のあれ程の善行と徳行にも関らず、天上界に於て天上界を裏切り、
悪魔とも見える行為をなした。
 それが天国の規約を一層厳しいものにし、永遠の生命を一層数少ないものにしました。」

「天国の証(78年8月初版)」85頁 ガブリエル様メッセージより
「一人高橋信次氏のみならず、今までも高次元にありながら、天上界の法に触れ、
その反逆的な態度により罰せられ、生命を取り上げられ、
即ち永遠の生命を奪われた者は何人かおります。
 しかしそれは世を騒がせる為、発表されませんでした。

(注。
 天に迎えられるほどの磨かれた魂すらも、
(常に神の御前に在って魂の研磨に、善我に徹してこられた聖霊の齎された)
天の真理、徳の前に謙虚なる魂であろうと研磨を、
己が偽我に厳しく向き合うを怠る者は、
魂を曇らせ、善我に生きていると慢心する
(天上界に刃向うほどの増上慢になって尚、正しいのは自分であると信じる)
自己肯定という偽我に魂が侵されていることにも気付かないのでしょうか。
 天上界の戒めの前に自分は大丈夫であると、
他人事のように聞いていた者は、悉く悪魔に魂を支配されて行きました。注終)」

"愛に生きるということ"
 力ある者が力のない者を裁くのは簡単です。
 力のない者を破滅させることも訳のないことでしょう。
 個に力がなくてもその者に従う組織に力があれば同じです。
 中世の暗黒時代では、サタンに魂を渡したローマ・カトリック教会は、
サタンの導きで権力を握り、教会に従わない者を迫害したのは、
共産主義の粛清と同様の自己保存に生きていたからでした。
 神の道を踏み外し、天上界に見捨てられたローマ・カトリック教会は、
本当に人を救おうとしてきたでしょうか。
 救われたと信者に思わせることは出来たでしょう。
 教会が免罪符であると言えば、信者は信じたのでしょう、
後ろめたいことを隠し持っていた信者はそれで救われたと思ったかも知れません。
 そんなことで安心して自ら反省を、魂の研磨を忘れて、神の裁きを受けたとなれば、
邪教以外の何ものでもありません。

 ローマ法王が同性愛を認めれば、信者は安心かも知れませんが、
法王自らが神の愛を捨てることを認めたことが、何を意味しているのか全く解っていない者が
自らを王としているのです。邪教の指導者としては申し分ないことです。

 この世の恵みを得て、力に、また金銭によって、人の気持が何も解らない者であっても、
人を従わせることも、従わない者を裁くことも出来ることでしょう。
 力で、金銭で得たものの喜びは儚いと天上界の方は仰しゃいます。
 少なくとも天上界に生きる魂にとっては、
人の欲望の目を奪うこの世に価値を認める方はおられません。

(人から力で奪ったもの、人を負かしての自らの力に相応しいものを得たと、
また自分の下に生きられるのはその者にとって幸福なのだと自惚れることは簡単でしょう。
 自分の心を満たす為に、得ようとする如何なる物も、永遠に心を満たすことは出来ず、
そのような物を求め続ける心は、永遠に安心を得ることはない、
乾き続ける魂であるとイエス様は仰しゃっております。
 欲望に生きる心は、真理に生きる心を見失わせる、心から自由を奪われている、
一時の満足を得る為に、求め続ける人生に倦んだ時、
その魂の虚ろであることに気付くのかも知れません。しかしその時にはもう魂を救えないのです。)

 力や金銭を、世の為人の為に、人の心を損なうことなく役立てられない者にも、
それらを得ることは出来ることでしょう、それは身を破滅させることになるかも知れませんが。
 しかし愛は自らの魂の研磨なくしては、真の愛は持てないのです。
 その為に天の与えるものは、苦難の道であると言われます。
 その苦しみを誰よりも彼等は知っています。
 神といわれる彼等もまた今生に於て、また転生に於ては人を導いての共に歩かれた道です。
 その道を歩いた者だけが持つことの出来るのが神の愛です。
 神の愛を信じた者だけが歩むことの出来た道です。何故神を信じることが出来るのか。
 神を信じる心は神の御心が波動によって伝わるものであり、
神を疑う心は、悪魔の心が波動によって伝わるものです。
 神を信じる心は神を存在を、その心を感じ取っているのです。
 神を疑う心は悪魔の波動を受け入れているのであり、内なる神の心を見失っているのです。
 人を(従わせる、従わぬ者を)裁くは、悪魔の心を自らの心とした者です。
 人を従わせることを喜びと感じているのかも知れませんが、
真実は邪念に侵されているに過ぎないのであり、
多くの悪霊と同じ心故に彼等の波動を常に受け力強く感じている為に、
己の力と過信していますが、その力から逃れる力はありません。
 真の自由を、愛に生きる自由を奪われているのです。

 自らの意志で魂を研磨に掛けることでしか、神の愛を得ることは出来ません。
 自己犠牲を厭わぬ心を持たぬ限り、
自らの不利にあっても他への愛に生きることは出来ないからです。
 故に自分を優先しようとする偽我を研磨しなければ、
善我(神の心)を見出した者でなければ、
自己愛に堕することなく神の愛を貫く精神を持つことは出来ないのです。
 自らの意志で選び取った道であり、その道が魂の生きる道であり、
天国に至る唯一の道であると確信されるものです、
その魂を満たすものは愛以外にないことはその道を行く者は誰もが知っています。
 愛を人に与えることは出来ても、愛する心を人に与えることは出来ない、
自らの魂を研磨に掛けることでしか、
愛する心を自らのものにすることは出来ないのです。

第一部 天の教え
第五章 徳(心の糧)
二節 魂を磨く徳に適う生き方とは

 (二) 天の徳とは
「慈悲と愛」79年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」32頁

天の徳とは、悪を鋭く見抜き斥ける強さを有し、しかも善であり義なるもの、
常に真理に聡く、真理のみを愛し、美しきもの優しきものを喜び、涙する者、
万人に分け与える者、三次元の名誉や地位や財に奢らぬ者、
人の僕となり得る謙虚さを有する者 ー
そのような豊かなしかも偏らぬ心を持ち、生き生きとした知性を備え、
しかも理性においては悪なる者、過てる者を正す天の裁きに心乱されぬ、
そのような人徳を基盤とした
三次元の世界に於ても四次元の天なる私達の世界に於ても敬うべき人格 ー 
それを指すのです。」

〖備考
 徳がこのようなものであることを、教育されたという方はいらっしゃるでしょうか。
 日教組や左傾マスコミに偽善、欺瞞、自己肯定(自信過剰、独善、独り善がり、高慢)、
自己優先という偽我が人間らしさであるかのように
歪んだ価値観を植え込まれてきたのではないでしょうか。

 保守、革新(左翼)を問わず倫理観の欠如した政治家の犯した罪が明るみになる度に、
メディア関係者(コメンテイター気取りのネット民も同類)が
これ見よがしに人の低劣を見下す優越感に浸っているとも知らず、
自らを誇る高慢を晒すという自らの下劣も悟れぬほどナルシシズムに溺れていますが、
そもそも人の倫理観を育てる道徳教育(躾けとも言われる、善の指針、徳を学ぶこと)を
"子供の自由な精神を損なうことになる"とか何とか詭弁で子供から真の教育を奪って来た日教組の
愚かを悟るどころか支持してきたのが左傾メディアでした。

法を犯すのは、ー 欲望に靡く心に生きてきた、
人の欲望を満たさんが為の悪への誘惑を見抜く知恵を、善悪を峻別する心の目を、
そして何よりも善を愛する心を育てる徳に生きてこなかった、
道徳を教育されることがなかったからである ー
ことを理解しようとしない人々の集まりであるのが左傾メディアです。

 神々の愛する美しい心から、神の愛に促されて為される行いが
徳であることを天上界は教えられました。
 その行いが人に神の愛を伝えるもの、人を神の心に目覚めさせるのです。
 悪霊と同じ感性を心とする、悪魔の心に生きる左翼は、
神の心に触れれば邪悪な念に支配され、
神の心に生きる人々を貶めずにはいられないのは当然の成り行きでしょう。

 無論正法流布を、そして真に正しい人々、光の下に生きる人々を
理解することなく妨害(邪魔ばかり)してきたことは言うまでもありません。
 正法を学ばれる人は、厳しく己を律していかなければなりません、
取分け、道徳教育を知らないまま、徳を心にかけることもなく過ごされたと思い返される
善男善女の皆様に於ては。備考終。〗

第一部 天の教え
第五章 徳(心の糧)
二節 魂を磨く徳に適う生き方とは

 (三) 正しい生き方の指針・八正道
「JI」88年4月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」96頁

「今月は私が八正道について少しお話したいと思います。
 集いの議題で取り上げられ討論されたことへの助言と回答として必要に思えたので。
 まず正見、正思については、性格的に偏見や独善で物事を処理する傾向のある人には
会得することが難しい
道であるかも判りませんね。
 人によっては自分が人にどう見えているか、印象を与えているかと考える方が、
人にどのようにしてあげれば良いかと思いを巡らすよりも
重要である性格特性に育ってしまっている人も居り、
愛を与えるよりも、与えてほしい。
 尽くすよりも尽してほしい(その中に愛を感じたい)
とまだ偽我を持ったままの人も多いでしょう。

 特にこれが世間一般の通念として、求める人には与え、自己を顕示したり、
他人の目に確認を求める者にはそれを寛大に与えるのが慈愛であるように、優しさであるように、
"偽我"を温存、奨励する三次元の社会では、正見、正思を会得しにくいことでしょう。

 正語についても同じことです。
 正見、正思を以て評価し、先に述べた良き方向に向ける為に正しく忠告し、助言し、
或いは批判して反省を促すこと、悪口とは違います。

 悪口とは相手を陥れる為の歪曲が多く、言われる人の評価が正しくなされず、
偏見を以て非難する。復讐的に讒言する。
 或いはどうでも良い事をあげつらい、特定の人物の評価を下げる為に虚言を用いて中傷する ー
これを悪口と言います。
 所謂左翼がマスコミなどを介し、良識的な政治家や政党を支持する人々、
国家や民族の側に立つ人々、 正しい形での、教育や家庭を保とうとする人々を中傷する、
それを言うのです。

 厳しさと愛と、正しさと慈悲とは区別が付けにくいものです。
 定義付けするよりも、寧ろやはり健全な生活、精神のあり方と、
天と地との調和を求める方向に一人一人が努力し、
協力する事を善しとし、それから外れるものを是正する。
 努力も協力もせず、破壊と破滅を齎そうとする者、社会の秩序を乱し、
神の法(モーセ様の十戒)に背く者は厳しく対し、悔いて改めるなら許す。
 そのような心構えでいるならば、何を是とし、何を非とするかがよく見えてくると思います。

 共産主義思想もこの点に於て、世界の秩序を喜ばずに、民族と国家と家庭を否定し、
国民と国を守る軍隊を否定し、社会の体制を根本から忽
(ゆるがせ)にする不穏な主義である限り、
天は容認することはありません。
 色々と欺瞞に満ちた言葉と主張で人々を欺きますが、根本理念が変わらぬ限り、
共産主義は、神と対立する悪魔の甘言であり、思想でしかないのです。


 偽我が判らない人には悪魔の甘言は見抜けないことでもあるでしょう。
 まず偽我とは何かをしっかり理解し、自らの生活に改めていく必要があると思います。


「天国の扉(77年12月初版)」156頁 ブッタ様メッセージより
「私の説いた八正道とは、"第三者の立場(に留まるなら傍観者に過ぎないのです)"
から相手の立場に立ってものを考え、行動するという
"思い遣り"、詰りは"慈悲の心"に根差しているのです。
 仏教は生老病死からの解脱法だけではないのです。
 八正道とはどのようなものか、一つ一つ説明しましょう。

 正見(しょうけん)  正しくものを見る。第三者の立場から事柄を見るのです。
   表面だけでなく、それに隠された真意を見るのが大切です。
 正思(しょうし)  正しくものを考える。
   思うことはその人の心を明るくするか暗くするかを決めます。
   思い遣りの心を基に、正しくものを考えれば対人関係を良くし、
  自分自身の心も明るくなります。
 正語(しょうご)  正しくものを語る。正しく語るというのは、愛と慈悲のある言葉を語る、
  愛と慈悲を籠めた語調で語るというものです。正しく語れば、調和を作り出せます。
 正業(しょうぎょう)  正しく仕事をする。現代社会は分業によって成り立っています。
   自分の仕事を他の人、世の中への奉仕と考えれば、公害、貧富の差も無くなり、
  社会全体の調和へと繋がります。
 正命(しょうみょう)  正しく生活をする。自分の長所を伸ばすことと、
  短所を修正することです。
   短所は持って行きようによっては、直ぐ長所になります。
 正進(しょうじん)  正しく道に精進する。社会関係の中の調和です。
   人間関係の中で自分を見詰め、考え、道に沿って生活する、ということです。
 正念(しょうねん)  人の一念は三千の世界に通じ、それに応じて物を引き寄せます。
   類は友を呼ぶのです。
   ですから正しく、濁りの無い心で念じないと、悪友、悪霊が憑いたりするのです。
 正定(しょうじょう)  以上の七つのことを行ってきたかどうかを、
  第三者の立場から反省することです。
   そうして、過ちを見つけ、同じ間違いはすまい、と決意することです。

 八正道とは、行うのに少しも難しいことではないのです。
 心の濁りを取り、素直な心持ちで実践すれば、直ぐに体得出来ます。
 八正道に沿った生活をしてゆけば、必ずあなた方の前途は光で満たされるでしょう。」

〖備考1
 ブッタ様のお悟りになられた八正道についてブッタ様ご自身から伺うことが出来ました。
 真理を見出せず、偽を見抜けないのは、自己保存に生きる肉の目を通してしか見ず、
すべてを生かしめる自然の調和を見る心の目が目覚めていないからです。
"生老病死"という肉体の現象を受け止めるだけが心ではない。
 現象を在らしめている永遠の宇宙の法則に従う時、魂は不滅となるのです。
 その魂に目を見開かせ、
すべての生き物が宇宙の法則に従っている調和の姿を見出すことを教えられました。
 現象(生老病死)に心を奪われ苦しむしかなかった心は、
宇宙の心を人は自らの心に出来ることを、
その宇宙の心に立ち、宇宙の法の下に永遠に生きる魂を悟られたブッタ様が、
法を知り、法に従い、法の心に生きる、調和を求める心についてお教え下さいました。備考1終〗
 
「天国の証(78年8月初版)」141頁 ブッタ様メッセージより
「生老病死を超えた人間の一生とはかくあるべしという悟りを得たのです。
 そして禅定を重ねた末に私の得たものは、
苦行僧の得る悟りより遥かに大きく、遥かに素晴らしい、
宇宙の摂理に従うあらゆる生命有るものも無きものも、
それらが生命と死という、或いは形有るものから形無きものへ、大きな境界を経ても尚存在する ー
且つ永遠にその存在は消滅せず、絶えず宇宙の法則に従い生まれては死に、死んでは生まれ変り、
形作られては滅し、滅しては形作られ、
そして人間の生老病死というものも同じことを意味するものである、
という真理を悟ったのです。三十五歳になった年の五月でした。
 即ち生老病死を超えた人間の一生とはかくあるべしという悟りを得たのです。

 そして大宇宙、大自然の一環である人間に
大自然との調和ということが義務付けられていることも悟り、
調和の為に人としてなすべきことは、大らかな宇宙の広さに立って、その大きさを心とし、
自然の流れ、水の流れにも似た自然の法則を掟とし、
流れくるもの流れ出ずるものをそのままに激情に心を乱されず、
感情の渦に巻き込まれて人と人との交わりに破壊を齎すことのないよう中道の道を歩むべきこと、

僧侶としては無論のこと、普通の人間としても人と人の交際に於て
心穏かに、中庸の徳を以て対すること、これが一番大切なことであり、中庸の心と共に

人の心を正しく判断し(正見)
相手の求めるものを正しく受取り、理解し(正思)
常に慈悲と愛の心で口から出る言葉を整える(正語)
 そのようにして対人関係を調整し(正進)

延いては自分の生き方をそのように徳のある人として正し
その徳を滲み出るものとして周りの人に与え、
それらの人々に良き感化を与えるように人生を送らねばならぬこと(正命)
善き心、善なる思いを以てすべてのことに当り、すべてのことを計り(正念)
生計の道を立てる職業に於てもその精神を忘れず
人の為になる、即ち人への奉仕の為に自分の人生、仕事はあること、を忘れず(正業)
又それが正しく自分の人生に、生活に、対人関係に、仕事の上に生かされているか、
何か何処かで、誰かに対し誤りを犯さなかったか、
間違った態度で接しなかったかを一日の終りに、或いはその度毎に反省し、
その次からは再び同じことを繰り返さぬよう注意し、行動するよう自ら常に戒める(正定)
これを八正道(八つの正しい道)と申します
が、それを当時の人々に教えたのです。」

〖備考2
 仏教の真髄である八正道とは、正しく生きようと望む心を育てる為の指針であり、
方法なのですから、実践しないならば何の意味もない、
指標を打ち立てても、己自身である心がそのように生きないならば、
知識が心に記憶されても生かす知恵を生むことのないものなら、
善なる指針を知らずとも、自然の世界に素直に適応する心だけに生きる
(ブッシュマンのような)人間の方が遥かに天国に近い
とラファエル様は仰しゃいました。

 正しく生きるとは、たとえ利益になろうと、成功を得ようと、
それが正しくないことであれば、魂を悪に染めるならば、
そのような道を歩まないことであり、それは魂の研磨でもあります。
 若い時には正義感に溢れた者も、周りからの理解や評価に慢心し、感謝や愛の念を忘れ、
己の未熟を省みる謙虚な心を失い、正道を見失った人達は皆様もよく知る所だと思います。

 真に天上界の教えに出会えたことを理解された方なら、
善と悪を正しく判断し、正しい指標(知識)を魂に刻み、
正しい道を歩む心(善我)を育てる決意を持たれることと思います。備考2終〗

第一部 天の教え
第五章 徳(心の糧)
二節 魂を磨く徳に適う生き方とは

 (四) 徳の大切さ
 天に財宝を積むということ

「天国の証(78年8月初版)」38頁 ミカエル大王様メッセージより
「エル・ランティ様の申された言葉に次のような句があります。
「エル・ランティ様の申された言葉に次のような句があります。

 人己(おのれ)を高しとせんは低きなり。
 低しとせんはこれ即ち高き地位に置かるべき人なり。
 人これを知らぬは愚かなり。
 愚かにしてその向かう所を知らぬなり。

 向かう所は光なり。
 光の溢るる所これ天の国にして、
天の国に入るべき人はすべて己を低しとせる人のみなり()。
 その他になきなり。

注。
「これで私達が何故あなた方に、
一人一人の活動を要求するのか、して下さいとお願いするのか、
お解りになったと思います。
 一人一人の心が、そういった状態にならなければ、ユートピアは出来ないのです。」
 人類を救おうとされる天上界の思いが、どのような心から生まれるものなのか、
ウリエル様の言葉から明らかに知ることが出来たのではないでしょうか。
 神々の心へと導き育てられたイエス様は、
神の思いの伝わらぬ、神の求められる人格(の基準)を一向に悟ることの出来ぬ人類に、
このように諭されました。
「人の上に立つ者は、人に仕え(ようとす)る者でなければならない。」
「己を高しとする者は、天(霊の世界すべて)に於て最も低き者である。」注終)

 己に忠実なるは良きなり。
 然れども、偽善に終始するは愚かなり。
 偽善とは、人その価値を認めぬにて、自ら高しと公言するものなり。
 その目する所、これ栄耀栄華を望む心にして、栄耀栄華を望むは儚きことを知らざるなり。
 その向かう所は砂の楼閣の如きにして、手にしたるは、ただ崩れ落つる砂の城の如きものなり。
 空しきものよ。

と、これは聖書の中で、イエス・キリストの譬話(※1)として録されているものの原文ですが、
実はエル・ランティ(エホバ)様がお書きになり、
私がイエス様の意識を通してお話して頂いたことなのです。
 エル・ランティ様の人となりを知らぬ方は多く居られますが、この方は私達と同じく、
ゼウス様に始まる数回の転生を経て、総ての人の世の空しさ、成功、財の、
天の財宝※2に比べれば、
(これは心の糧のことです。すべて徳を高める精神的遺産 これを天の財宝と申します
何の価値も無い。
 それを御存知で居られたのです。」

※1注。
「ルカによる福音書」第十四章七節~十一節
 客に招かれた者達が上座を選んでいる様子をご覧になって、彼等に一つの譬えを語られた。
「婚宴に招かれた時には、上座に着くな。
 その場合、あなたとその人を招いた人が来て、『この方に座を譲って下さい』と言うであろう。
 その時あなたは恥じ入って末座に着くことになるであろう。
 寧ろ、招かれた場合には、末座に行って座りなさい。
 そうすれば招いた人が来て、『友よ、上座の方へお進み下さい』と言うであろう。
 その時、あなたは席を共にするみんなの前で、面目を施すことになるであろう。
 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

「ルカによる福音書」第十八章九節~十四節
 自分を義人だと自認して他人を見下げている人達に対して、イエスは又この譬えをお話になった。
「二人の人が祈る為に宮に上った。その一人はパリサイ人であり、もう一人は取税人であった。
 パリサイ人は立って、一人でこう祈った、
『神よ、私は他の人達のような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、
又、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
 私は一週に二度断食をしており、全収入の十分の一を奉げています』。
 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った、
『神様、罪人の私をお赦し下さい』と。
 あなた方に言っておく。
 神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 自分を高くする者とは、
神の福音(救いへの導き、教え)を知らない多くの人々がいることも、
神の救いの意志(福音)を伝えることも忘れ、
他に誇る心、自己顕示欲という欲望に生きているのです。
 彼等が善なる心に生きていると信じられるのは、
善を為さぬ愚者を軽蔑することで、自分はそうではないと思い込めるのでしょう。
 自らを誇ることで、自らの慢心を疑う謙虚さを失うのです。

 真に善なる心は善なる行為を生むのです。
 善なる心に生きようとする、そうでなければ善なる心ではないのです。
 善なる心は人に伝わります。
 善(の念)を受けた者に善(の念)が起きるでしょう。
 真に人の善の心を証するのは善を受けた人の心です。
 人から(善であるとの)評価を求めての、自ら善を証そうとするなど
偽善(悪)以外の何物でもありません。※1注終)

※2注。
「マタイによる福音書」第6章19節
「あなた方は自分の為に、虫が喰い、錆が付き、
又盗人等が押し入って盗み出す様な地上に、宝を蓄えてはならない。
 寧ろ自分の為、虫も喰わず、錆も付かず、
又盗人等が押し入って盗み出すこともない天に、宝を蓄えなさい。
 あなたの宝のある所には、心もあるからである(※3)」。
(善なる心の糧である天の財宝・徳こそがその人の心を天に繋ぎ止めるものである
との教えです)※2注終)

※3注。
 天に心を繋ぎ止めるには、自らの心を神の心に近付けねばなりません。
 神の心から生まれるあらゆる善き行為を、他に優先させずに行うこと、
善を行うことで善なる心は養われます。
 神を求める意志のない心に神の心は養われません。
 天に積まれる、天を証する徳とは、悪から目を背けず善に、
神の心に生きた人格のみ天を証することの出来るものです。
「真理を行っている者は光に来る。
 その人の行いの、神にあって為されたということが、明らかにされるためである」
と聖書に書かれてあるのがそうです。
 神の心によって為された行為は神を証する光です。
 神に生きる心であることを証する、天に嘉されるもの、
天に積まれた徳とは、尽きることのない神の愛の豊かさを言うのでしょう。※3注終)

「天国の証(78年8月初版)」138頁 イエス様メッセージより
「徳というものはどのような賢者の本からでも学ぶことが出来ます。
 おおよそ人の道、この世の法に適うものは徳なのです。」

〖備考
 ミカエル様はイエス様の指導霊として導かれたと言われました。
 このミカエル様の言葉を伺い、聖書の伝えるイエス様の言葉を知ると、
イエス様がミカエル様の意識から多く学ばれたことが真実であると解ります。
 イエス様を神の独り子とクリスチャンは崇めますが、
神に学ぶことで神の子になった(※4)ことに意義があるのだと、これこそ真実であり、
人が神の子となる唯一の道であり、人類の魂の救いを可能ならしめるのは
天の導き、熱意しかないのであり、 だからこそ神の愛以上に尊いものはないのです。
 その思いに応えようとする内なる神の心が目覚めるからです。

※4注。
「天国の証(78年8月初版)」113頁 サリエル様メッセージより
「ベー・エルデからは奇しくも神々と悪魔が地球を訪れたのです。
 そして神々は神と等しき人々を作り、
(精神に於て、魂に於て、作ったと言えばその意義は深いものがありましょう)
悪魔は悪の魂と精神を養成しました。」※4注終)備考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法