第一部 天の教え
第二章 最後の審判

四節 天国の法律を犯す者
 人間として生まれて初めて、無人格の魂は本能に生きることから始まり、
学習、経験を重ねながら自我を獲得します。
 魂は無から(必要な条件が満たされて)生じたのですから、
真理ではなく真理に生かされてきたに過ぎません。
 真理に生きることを拒む魂は無に返るしかないのです。

 誰からも天の法律を教えられなかったから、知らなかった(※1)のだから、
法を犯したからと裁くのは不当と言えるでしょうか。

 この世があなたから神を奪ったのだと思われるのでしょうか。
 あなたは自分の意志で生きるを許されなかったと言われるのでしょうか。
 この世の人々の心に神を見ることはなかったと言われるのでしょうか。
 彼等の心を感じることが、彼等と同じ心を自らの内に見出すことがあったでしょう?
 そのような心を捨てたのは自分自身だったではないですか。
 自ら望んで堕落したのなら、それを世の所為にする、そのような思いで、
偽我に立って、魂を研磨することが、魂を救うことが出来るとは思われないでしょう。

 自分を救いたいのなら、自分で救おうとしなければならないと言われるのは、
自分の意志でしか研磨は出来ないからです。
 平和であろうと、苦難に遭おうと、自らの意志で善に生きようとしなければ、
平和は魂にとって堕落となり、苦難は魂にとって神の導きを、神の愛を見失うのです。

 自らの悪を知る善なる心を自らの心と生きて来たのでしょうか。
 偽善者でさえも人の悪なら、何ら自ら苦しむことなく非難出来ます。
 善なる心のみに生きる聖霊が、悪を非難するあなたは善なる人だと、
あなたの中にある邪悪を見逃されるとでも思われるのでしょうか。

 己を正しいとの慢心から人を貶める偽善を許す心故に、
善霊の思い(波動)が伝わらないのです。
 自らの悪を知り、自らをごまかすことなく、辛くとも改める為に努力してきた者の、
悪を非難するのは、悪に勝つことの出来ぬ善であってはならぬ思いから来るのです。
 悪に打ち克つものが善なのです。
 内なる悪に打ち克った心だけが、人の悪を指摘する資格があるのです。
 真理に従う者だけが、真理に従わぬ心の悪を見抜くのです。
 人の善を奪ってきた悪を覚らしめることが出来るのは、
己を誇ることを知らぬ純粋な善意だけです。


 真の神を信じたことのない者が、真の善意を感じ取ることのなかった者が、
それまで悪に勝てなかった心を、自分だけの力で悪に打ち克つ心へと、
善を貫く(神に繋がる)心を自らの力だけで持ち得るでしょうか。
 そのような心が真の神を見出せないままであるとしたら、
善人のつもりで善を語ろうとも、
真理に生かされる心を持たぬ、真理が明らかとされる謙虚な心を知らぬ、
自惚れに、増上慢に生きる心でしかないのでしょう。

※1注。
 反省とは自分でしか行えないものです。
 反省を妨げる者は、あなた以外に存在しません。
 警告は為されてきました。
 如何なる者にも天上界は合体霊を与えてきました。
 あなたの一生を通して合体霊があなたを救いたいと、意識を通して伝えてきたのです。
 知らなかったのではありません。
 知っていたから、拒んだのです。
 悪であると知っていたのです。
 悪を為す誘惑を感じなかったのではない、
誘惑に魅せられたのであり、善なる心を捨てたのです。
 それを為さしめたのは、それを望んだのは自らの心です。※1注終)

 イエス・キリストを十字架に掛けたパリサイ人は、
彼等の信じる神(悪魔)と相容れぬ神を語ったが故に、
神を冒瀆した者とイエス様を死刑に定めました。
 彼等はイエス様を通して現わされた神の愛を、正義を見て憎んだのです。
 イエス様を神の子と知らなかったからと、
パリサイ人の行った悪が天に許されるとでも思われるのでしょうか。
 神の愛と正義を憎む心に生きる邪悪な魂故に、罰せられたのです。

 天の警告を知らされて尚、天の思いを、正義を理解しようとせず、
警告に従おうとしないではないですか。
(天は悔い改める者を許そうとされているのです。
 でなければ警告など無意味でしょう?)
 天上界からのメッセージが伝えられ、神の心を知って尚、
美しい心を愛され、愛するものの為には命を惜しまない、
そのような心に触れたであろう己が心に、神への愛が伝わらぬ、
神の思いに応えようとしない自らの心に苦しまぬような魂ならば、
その魂の行かんとする世界は、自らが望んで行く世界なのです。
 あなたは知らなかった筈がないのです。
 神に背を向けた、悪魔に従った魂が、
この世の人々を地獄に突き落としてきたことを。
 邪悪な魂を滅するのが神であるということを。


 信義とは、何よりも大切なもの(すべてを生かす根源)である真理に従う心を、
人の内に見出し、同じ基準に立って善悪を判断するが故に、
人から指摘されての己が誤りを受け入れることが出来るのでしょう。
 互いの真理への、神への信義を信じる故に、人からの苦い忠告にも、
愛故であると信じることが出来るのであり、互いの切磋琢磨が望めるのです。
 信義を裏切るとはその真理を、神を蔑ろにして悔いぬ心です。
 真理を愛し、信義で以て人と繋がる神々に対して、信義を裏切る以上の大罪はありません。

「天国の証(78年8月初版)」88頁 ラグエル様メッセージより
「いろいろな形で最後の審判というものが、予知され、予言されてきたことは御存知の筈ですが、
この度新たに天上会議に於て議論の対象となり、決定要因になったものは、
人間が"神の裁き"というものを何か別世界の、自分達とは関係のない、
書物に録されてある事柄としてより以上のものとは考えていない
ということでした。」

「それはイエス・キリストの十字架の贖いにより、人類の原罪は赦された ー 罪は許された ー
従って多少の罪に生きても神は最早罰し給わない。という甘さから来ているのです。
 無関心であるということの証明になるかも知れません。」

「天上界の最高権威であるエホバであり、ヤーウェである、エル・ランティ様は
人類にイエス様の十字架上の死を通し、人類の罪の贖いを通して、
一つの取捨選択の自由をお与えになったのです。
 善と悪との取捨選択の自由と魂の成長の機会をお与えになったのです。
 子が親から離れて巣立つように、
人類はそれ迄のまたそれからも犯すかも知れない罪を問われず、
罪があるならばそれを反省し、己を罰する心を神への詫びとして、
自由なる人間として良き生を選び、悔改めの生涯に何か意義を与え、
人々に、己を十字架に付けて、その隣人愛の証とする ー
それをエル・ランティ様は人々に範としてお示しになった。
 イエス・キリストの犠牲を通して。

 しかしその後人類は何を為したか。考えて見なければなりません。
 歴史を通して人類の罪は再び贖うべくも無く深きものとなったのです。
 そしてひとたびイエス・キリストが人類のため己の生命を捧げて、
神の前に犠牲(いけにえ)の仔羊となった。
が故に、その後人類が償わねばならぬものは各々の生命で以てしか無いのです。」

「人は人生におけるその為してきたことの数々、善きに付け、悪しきに付け、
それらをすべて秤に掛け、 残った重みのある方に於て裁きを待たねばならぬのです。
 もはや貴方がたのために生命を捨てて、罪を贖って下さる方は与えられてはおりません。
 神の烈しい怒りも、厳しき裁きもすべて貴方がた自身で受けねばならぬのです。


掲載位置の変更
 自己保身の為ならオリンピック代表選手をも大義名分の下に切り捨てる
教育者(日本体操協会)の冷酷さについてこの場所に記載していたものを、
「第一部、第六章、三節 愛、(五) 愛についてのイエス様のメッセージ」の末尾に移しました。

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法