第一部 天の教え
第二章 最後の審判
現象テープ№10 ②「新天王の宣誓」
 78年7月22日 ミカエル大王様現象

 (今からは、各守護霊達に、大天使方及び天上界によって消滅され、
微粒子となったサタン()が 未だに意識に働き掛け
その扇動に乗る人々への注意と警告が始まります。)

「今日は、ご機嫌如何ですか。私の名前はミカエル大王です。
 この度、七月一日よりエホバ様の最高責任者としての地位を引継ぎ、
四次元である天上界並びに三次元即ち地上に住める人々を統括し、平和と調和を齎す為、
悪の名に於て、正法の流布を妨害せんとする全ての悪霊並びにその霊に意識を支配され、
この天より備えられたる正当なる後継者より出ずるメッセージを妨害し、
失脚せしめんとする意図を持つ者を、悉
(ことごと)く滅し或いは罰し、
恥と死に至らしめんとする決意をここに述べ、又誓うものです。

 あなた方はそのような人々に心を閉じ耳を塞ぎ、常に光を信じ、私を信じ、
高橋信次氏の正統且つ合法的な後継者千乃裕子様を信じ、
悪の惑わしに己が信念を揺がせられること無きよう、
固く正法の教えを身に付け八正道と中道とに歩み、
そしてイエス様の如くブッタ様の如く善と悪と、正しきものと過てるものと、
神と悪魔と、善なる者と偽善者とを見分け、
理性と信念と揺がざる神への信仰とを持って、
神に離反する者、神を罵(ののし)る者を心より退け
正法流布の為に己を賭して働いて頂くことを望むものです。
 神を罵る者とは粒子となりて扇動するサタンに惑わされし人々のことです。
これで終ります。」
             (一九七八年七月二十二日)

注。
 天上界によって消滅されたと思われていたサタンの如き仕業が、消滅後も起きていた為、
粒子となってもまだ存続していると判断されたのですが、
粒子となっては思考活動は不可能であると訂正されました。
 その後サタン・ダビデは消滅されたように装って生き延び、
再び天上界への破壊行動からその存在が発覚、
エル・ランティ様によって消滅されたと天上界により証言された。)

現象テープ№40 「天上界からの苦言」より
 83年7月10日 ガブリエル様現象

「今まで私達はあなた方にとって、出来るだけ穏かに、
また説得を以て理解して頂くように努力を払って参りました。
 が、今は言葉に厳しく態度もより明確にせねば、甘やかされてきたあなた方の魂は、
中々目覚めないという結論に達しましたので、尚、心の奥、
即ち魂の研磨の砥石の目を少し粗くして研磨することに決意しましたことを、
ここに伝えましょう。
 砥石の目を粗くするというのは、各自がこの会場よりお考え続け下さい。
 私達はユートピア建設の妨害、破壊をする者、その手先となって働く者には、断固戦い、
生存を許さぬ決意を固め、又そのように現天上界の方針を各善霊に指導、通達を致しました。


二節 最後の審判
「慈悲と愛」78年11月創刊号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」17頁

「『天国の扉』に続く天上の書『天国の証』に於て私達は、
今迄皆様に語ることの出来なかった天上の苦衷を、
誠意と限りなき悲しみを籠めて語りました。
 そして同時に"最後の審判"という大いなる裁きが、
人々の徳と罪とを秤りに掛けて行われているという事実も明らかにしました。

 しかしそれは善なる心の人に恐れを齎すものでもなく、
徳高き人々に世界の暗闇が身近にあると伝える宣言でもないのです。
 却ってこれらの人々は神にありて喜び、
その人々と同じ心を神々が、天上の者が有していることに
共感を覚えて勇気付けられねばならぬものなのです。

 人々の中には"厳し過ぎる""慈悲と愛が足りない"と評された人もいますが()、
神に於ける善我の心とは、磨かれた、光を放つものでなければならぬのです。」

注。
 天上界が極悪非道な悪霊を消滅してこられた事実を知って、
悪を憎み善を守ろうとされる神の御意志を知って尚、
自らを正す気持ちにもなれないのでしょうか。
 神を神と思わぬ悪霊に導かれ、
善を憎み悪を喜ぶ邪念が世界を飲み込もうと、善なる心を犠牲にしようと、
天の裁きの前に自らの偽我が耐え得るか不安しかない。
 神の裁き、即ち善悪の判断力、善への愛を信頼していないのです。
 自己保存の力の前に、他への思いも、他の思いを感受する優しさも見失う、
そのような心(エゴイズム)を育ててきたのです。

 善なる心を律する厳しさに耐えられずに天への道から逃げ出した魂が、
悪魔の甘言を真に受けて導かれる世界が如何なるものか解っているのでしょうか。
 自分の身を優先する心が、自分が幸せな気分でさえあれば好いと、
人が苦しんでいようと悲しんでいようと、自分の幸福感を壊すものは感じたくないと、
自ら感受性の芽を摘んでいるのです。
 悪魔のような冷酷な心に育つのは当然の成り行きでしょう。

 神に裁かれる心となりたくないのなら、本当に自分の為を考えるのなら、
善なる心へと変えて行くしかないのであり、
その為には神の導きに従う、即ち苦難の道に投げ込まれる以外にないのです。
 そのような偽我しか持たぬ者の生きる世界は天上に存在しない
と言われる神に慈悲がないというのなら、
神の慈悲に勝る慈悲とは如何なるものか、
それによって齎される救いとは、世界とは如何なるものか、
神に納得させることの出来る者がいるでしょうか。注終)

「天国の証(78年8月初版)」74頁 ラファエル様メッセージより
「何故それが突如として今日行われねばならぬに至ったかを申し上げますが、
それは言うまでも無く、私達の第一番目の書である『天国の扉』にて
神と人との在り方、繋り、天上界の仕組み、その歴史に於て、
人は神と究極の意味に於て魂の家族であり、兄弟であることを、
その理由を明らかにし証明致しました。
"人は神の子である"という言葉が何ゆえ繰り返し宗教家
及び偉大な世の救世主の口から出るのか、
という謎の理論的説明であり解釈を与えたのです。」

現代の末法の世に於ては、
そういった神の人への近寄りが却って害となり、人は神への敬意を失った。  
 持つべき畏敬の念を持たなくなった。
 それが最後の審判を決定せしめるに至った一つの大きな要因であり、動機でもあるのです。
 それまでにもこの二十世紀に於ては神を無視し、冒瀆し、戒律を平気で破り、
人間としての魂は悪魔に売り渡されてあった

その為に最後の審判は必至のものであることは天上界に於て決議されておりました。
 しかし最後の赦しへの機会として、
千乃裕子様の編纂せる私達のメッセージを通し、現象テープを通し語りかけましたが、
却って人々が私達の言葉に慣れてしまい、度重なりと共に、新たな感激を持たず、
メッセージに含まれている意義深い警告、予言などに注意を払わなくなったのです。」

「しかし少なくとも地球人類に先んじて、天国を創始し、
人類に意識を通じて、文明を伝えて来た先覚者とも言うべき私達
及び他のベー・エルデの善霊達、
及びこの人々の転生により新しく生まれた徳高き人々、偉大なる人々の魂は、
共にこの天国における構成員であり、神であり、仏であるのです。」

神との(仏との)連帯感や親和感を持ち過ぎ、然るべき敬意を払わない
そのようなことがあってはならないのです。
 やはり天上界の方々は、その啓示、警告、教訓に、歴史を通じての経験と叡智を含み、
善なる意志と救いを齎す人々として、謙譲なる心を以て謹んでその言葉を傾聴し、
(盲従せよとは申されておりません)良きことであれば従うことが賢者であり、
善我の持主であると言えます。


 それが為されていない今日、『天国の扉』にて私達の人々への歩み寄りは、
あまり良い結果を生みませんでした。
 一つには善霊と悪霊を見極めるのに、非常に困難な課題を与えられたからでしょう。
 しかも如何に論旨が通り、語られていることが首尾一貫して立派であり、
真理が大きいものであろうと、

読者の意識の高さにより、また悪霊、サタンの暗示と誘導により、
必ずしも正しきものを正しいと人は判断出来ぬことが明らかになったのです。


「望むらくは、すべての人々が最後の審判に於てその罪を軽くせしめられ、
天国に席を連ね、或いは地上を真の仏国土、ユートピア、神の国にする使命を自覚し、
行う者として残されることを私は祈る者であり、また神々の怒りをなだめる者として、
貴方がたにその真意を伝える者なのです。」

「慈悲と愛」79年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」31頁

「天が裁き、従って、それに準じて消滅という、世界を浄化するための悪を断つ手段が取られ、
そしてその意に従わぬ愚かな善霊が浅薄にも天の意に反して悪の側に立ち、悪霊と化す。
 それ故その悪霊を"最後の審判"の場に於て、厳正なる天の法の名の下に消滅、即ち死刑に処す。
 それが何故一部の三次元の人々の疑念を生ぜしめるのか私には理解出来ません。
 天なる国の法に従い、幾度も警告を与え、
三次元の人々にも善霊が守護、指導し、反省と更生の機会と場を与えてきた。

 しかしながらそれに従わず、サタンの惑わしと誘惑に負け、
この世の名誉と地位と金銭に目が眩み、己の偽我と欲心の世界に生き、
その己が醜さにも気付かぬ腐った魂を育て、
それが増上慢と偽善と自己欺瞞という白壁で己が人生の城を塗り立てる。
 三次元の世界に於て崇められ尊敬を勝ち得て遂に真の我、
即ち真我は如何なるものかについては全くの盲目であり無知である生涯を終えて、
天に迎えられるは当然のことといった傲慢な心を以て死を経て死者の世界に来る人々 ー
これらの人々を待ち受けているのは、厳正な徳の裁きです。

「その厳正な徳の秤りに掛けて裁かれ、
全人口の九十%が地獄に落ちる国と高橋信次氏を通して警告を与えたその国に於て、
その価値無き悪と偽我の魂と、天に背く善の意識の定かならぬ魂であり人間である人々が裁かれ、
消滅され(私達はそう警告し続けてきたのです。二千年の昔より)、
そして裏切る者と呼ばれてそれに疑いが生ずる人々、
天は裁かず、只許すのみであるといった甘い考えで自己保存の欲心を捨て切れぬ人々に、
私達は再び語らねばならないのです。


 あなた方は"末法"や"人類の滅亡"はどのようにしてサタンと人々の手によって齎され、
その危機を招いているか立ち止り、省みたことはあるのですか。
 ただ平穏無事な日々が自分の周囲にだけあれば良しとするあなた方にとって、
末法や人類の滅亡は何の意味も危機感も与えぬのですか。
それを是正して行こうとする天の真意が分らぬのですか。

 そのような人々であるからこそ私達のいま為している裁きに対し、
批判的になり疑いを持つような自己保存の偽我を捨て切れず、
又その偽我に気が付きたくないのです。
 正定を語りつつ、それを以て自己を断つ勇気がない。
 真の己が如何に醜いものであるか、
諸々の自己保存と欲望の壁を剝ぎ取りそれを正視する決断の心がない。
 己を正しとし、完全であり、己の過してきた人生に徳ありと誇る人々こそ、
その偽善の中に天は鋭く真理とそぐわぬ傲慢な心を見通し、指摘する者であり、

そのような人々には永遠に天の法も心の浄化も学び取る機会は無いことを
知らしめねばなりません。



 地位や権力から人々の従うを、自分への信頼、愛からと自惚れる者が、
人を生かすことを望まず、人を従わさることで権力欲を満たそうと地位にしがみ付く者が、
人に愛される自分が天国に行くことを当然と考える。
 地位や権力に与ろうとする者からは信頼を示されようとも、
そのような地位も権力も全く通用しない、
魂の美しさの前に、如何なるこの世の価値も色あせる天国にあって、
善霊の心に信頼される、愛されることなき者が、天国に迎え入れられることはないのです。)

「天国の証(78年8月初版)」130頁 イエス様メッセージより
「今は千八百年前に行われるべくして行われなかった、
そしてやはり避けようとして避け得られなかった最後の審判の時に当り、
行いの正しくない人々、
心に於て、言葉に於て偽善を行う人、
学者でありながら正しく真理を見抜けぬ人、
真理に従わぬ人、
サタンに仕え神に逆らう人、
罪と破壊を生み出す人、
神の教えを説きながら自分が神であると思い上がる人、
一つの天に繋がるものでありながらそれぞれの神が唯一の神であると信じ疑わない盲目の人々
一つの宗教を導く者でありながら、人々の多額の寄進や贈り物で肥えたり、
富める者であるかの如く振舞う人々、
傲り高ぶる人、
おおよそ古代より禁じられている戒めを破る者 ー
これらの人々が篩(ふるい)にかけられ、裁かれているのです。」

「天国の証(78年8月初版)」144頁 ブッタ様メッセージより
「私の死後二千五百年の年月が経つ間に、
イエス様の罪の贖いにも関らず、人々がその慈悲の心を忘れ、
人種や階級による差別、貧富の差、王権の乱用、神主や僧侶の傲り高ぶりと、
堕落した世を堕落とも思わず生きる間に、この恐ろしい最後の審判がやって来たのです。

「天国の証(78年8月出版)」千乃先生 巻頭詩「最後の審判」
「神の声を聞き、神を見しものが、盲いて、光りに歩まず、
 ついには離れゆく時、天は涙す。

 生まれしときより慈しみ育てし人が、その手を離るる時、
 天使は悲しみに憂う。

 神は人々と共に喜び、憂い、苦しみ、歎き給うた。
 その果てしなき年月を一顧だにせず、
 人は神を見棄てんか。神の子である人は。
 苦しみの時、悲しみの時求めた神は
 いつも救いの手を伸べて側に居給うた。

 その愛深き神を棄てて、人は何処へ行かんとするか。

 人々よ、悪に魂を委ねんと志し居るか。
 神の声を聞けと、天の使いは呼びかけ給う。

 自ら伸べられし手をつかみ、救われよと ー 」

"神の救い"
 神の差し伸べられた手を掴む者が自らを救うのだと天上界は仰しゃいます。
 神から授けられた正法を受け止め、正法に生きることで神の心を養った者の心に神が現れる、
真の神に出会うことが出来るのであり、
自らの心に神(の御意志)を見出すことなく神の救いに与ることの出来た者はいないのです。

〖備考1
 自己保存の本能は、自己肯定の安定した精神状態を維持しようとしますから、
他から非難されるような悪が明らかになることを怖れ、
無意識の闇に押し込め、意識から消し去ります(自己欺瞞という防衛機制です)。
 彼等の悪を批判する真の善人は、自己保存を脅かす敵である故に彼等にとって、真の悪なのです。
 己が優位を守ることを善と信じて主張する彼等と、
その為に犠牲を強いられる人々を助けようとする、天の意志に、善に生きる人々は、
決して相容れることなく、対立し続けるのです。


"この世から善と悪の対立が無くならないのは何故なのか"
 キリスト教徒が信じているように、天界には、善と悪の対立は無く絶対神の前に、
神に抗う(命知らずの)悪霊など存在しないのでしょうか。
 そうでないことは、善霊の思いを知ることの出来た人々は皆知っております。
 天界に於て、善を、愛を憎む悪なる霊が存在し、神に、善霊に抗っている。

 彼等は人間の人格を尊重することを知らず、自分が楽しむ為にこの世の人々を利用し、
その為に人々が破滅しようと、人々が同じ悪に染まり地獄の魂となろうと、
何ら呵責を感じる心無く、己が悪の心を満たすことに生きるのです。
 その邪心に抗えなかった人々は、自分がされた悪を人に為す悪霊となるしかないのです。

 この世の善と悪の対立は天界の神(善霊)と悪魔(悪霊)の対立の反映に他ならないのです。
 この世の悪を野放しにし、悪に勝る(善に生きる者の意志の)力を知らしめられないならば、
人の心にどうやって善を愛し、善を貫く精神を齎すことが出来るのでしょう。

 そのそうな心がどうやって天上界を守っていく、
この世に神の国を齎そうと善なる意志を持つことが出来るのでしょう。
 天上界が、人間を悪に誘う悪霊を滅ぼしてきたのは、
この世の人々から、善を信じる心を守る為なのです。
 善を信じる心を失えば、人間は生きる希望を失うのです。
 堕落していった、悪魔に魂を委ねた人々の中に、

希望を、善なる者と同じ優しさを、喜びを抱いていられる人がいると思われますか。
 最後の審判によって、善に生きるすべての魂にとって福音、生きる希望が齎されたのです。

 備考1終〗

〖備考2
 生前に犯した罪が、その人の死後に明らかにされても、"死者を鞭打つことはしない"と
それが慈悲であると言わんばかりに仰しゃる方が居られますが、
人の心を踏み躙る、その苦しみに欲望の成就を知る、汚れた心が満たされる、
情欲の、邪念の力の過ぎ去った後にさえ、
後悔を齎す良心の現れることのなかった者に支配されてきた、
その者によって苦しめられた、犠牲になった人、
また騙されていた人々の存在が明らかになって尚、
彼等の思いを理解出来ない、犯罪者に通じる心なのでしょう。
 自分の犯した罪(の重さに良心が耐えられないからではなく)
に相応しい償いをすることに耐えられず、
罪を隠し、償うことなく、ただ自分の為に生きることしか学ばなかった者さえ
許すのが神であるとでも思っているのでしょうか。

 神の御心を蔑む、神の愛される人の心を虐げる、不幸に突き落とす、
そのような者が神に罰せられる、そのような者を庇うことが愛なのでしょうか?
 そのような邪悪に心を捧げた者、自ら破滅した者を憐れみ、
彼の犠牲になった者を顧みぬ心に愛があろう筈はないではありませんか。
 邪悪を邪悪と思わず、一生真の愛を顧みなかった死者を、
鞭打つなと言う者のどこに愛があると言うのですか。
 人を神の愛に抗うような者にしてはならない、真に人の心を大切にする思いがあるなら、
神の愛を捨て悪魔の邪念を選び取るようなことを許してはならない、
人が破滅するような道を歩ませてなならない、
悪魔に魂を渡し、神に罰されたような者を庇うのは、
真に神を貶める心、悪魔の心であることが判らないのでしょうか?

 死者を鞭打つなと言う人が、真の神を敬う心故に、神の愛故に、
被害者よりも加害者を助けずにはいられないのだとでも思うのですか?
 自分の犠牲になった者に償う、神の法を犯した己が心を罰することなき魂を、
神が迎え入れるとでも思うのですか?
 天国とは、この世の悪の犠牲となった魂の、
苦しみを、悲しみを癒す、神の慈愛に満ちた所であることはご存じでしょう。
 この世に於いてすら、そのような邪悪な魂の生きる所はないと逃げ出した魂が、
神に愛される穢れなき魂の前に耐えられるとでも思われるのですか?

 その死者を迎える天に於て、
天の法の前に如何なる悪も逃れることが出来ないことさえ知らず、
罪を罪と思わぬ者をも、人が法で罰することは出来ないと、
それがあたかも本当の慈悲であるかのように信じ、振舞う
(慈悲魔と呼ばれる)偽りの慈悲が天に通用しないことも、
慈悲を語る心の偽善を見逃すような天ではないことも、
罪に生きる心を悔いることすらない魂に慈悲を掛けようとする慈悲魔とは魔性のもの、
真の慈悲ではないことを、天は明らかにされました。
 天の善は真理であり、光であり、悪を明らかにするもの、悪を拒絶する正義の現れるもの、
自らの悪なる心をごまかすことのない、悪へと向かう心にあって常に善を顧みる者に、
神を求める者に、救いは齎される、神の慈悲は注がれる、
自らの心に悪を認めまいとする偽善者には注がれぬことも知らぬ者なのでしょう。

 天に抗う者として、天に消滅させられた真の悪なる魂の、
この世に於ける名誉など恥ずべきものに過ぎず、
消滅された者はもはや鞭打たれることもないのだから、
自らの悪の心に負けて、神の善を、愛を捨てた者と、記憶に留める価値も捨てた者です。
 又、この世は死者を裁くことはないから、死者に罪をなすり付けても良心の呵責も感じず、
自分も無罪で助かればメデタシと考える真の悪党が
天の裁きから逃れられることはないのも言うまでもありません。備考2終〗

〖備考3
 天上界による審判、及びその罰としての消滅を知って
(自分は大丈夫だろうかとの不安からか?)、
消滅者のブラックリストが存在するのは本当なのか天上界に質問された人がいましたが、
天上界からあなたは大丈夫だと、神々を前に自らの安全の確証を得んとする
己が魂の浅ましさからの問いであったとすれば、
神に裁かれるまでもなく、神にも救いようのない者と言わざるを得ないでしょう。備考3終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法