第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)
備考 一考察

 (一) 共産主義とは、人の心を悪魔に導く為の指針である
 何ゆえに彼等は共産主義を信じるのか。
 共産主義を信じない人々を粛清してきたことに
(イデオロギーに心酔する)同志は顧みることすらない、
それでも彼等は共産主義に生きることに疑いを持たないのは何故なのか。
 共産主義を受け入れない(善なる心)故に、憎悪の的とされて殺された何億もの人に対して、
何ら罪を感じないでいる者同士で、一体どのような心で以て信じ合えていると認識しているのか。
 共産主義というイデオロギーの何を信じるるのか、何の為に信じるのか。
 人々の幸福の為なのか。
 世界中の人々が共産主義を信じる世界がユートピアと信じているからか。

 苦しんでいる者を知れば、苦しみが取り除かれることを、
人の心が縛られているなら、自由へと解放されることを願うのではないでしょうか。
 人の痛みを知る者であるならば。
 人が自由な心で、そうありたい、そう生きたいと、自らの心で判断し、
自らの意志で生きることが真の幸福なのです。
 イデオロギーを強制する権力者は、自由(意思)からしか生まれないあらゆる善き思い、
願いに生きる者を絶望に陥れるのです。
 共産主義や社会主義者は(狂信的な宗教もですが)生命を失いたくなければ、
イデオロギーを受け入れさせる、即ち生命を奪う代わりに自由な精神(魂)を奪うのです。

 人の思考の自由を、自由に生きる希望を認めようとしない、
共産主義しか受け入れられぬ者が、共産主義を受け入れぬ者を地球上から滅し去る。
 共産主義がこの世に生まれる以前に生きた、
すべての善き人々の、神を、愛を、善を信じて幸福であった人々の心を、
人類の歴史から滅し去る。
 
そして新しく生まれてくる人類の心に、共産主義以外の思想も信仰も知ることなく、
悪魔のイデオロギーを植え込む。

 このような人間の心も、世界も地獄以外の何物でもありません。
 人類を破滅させようとする悪魔の邪心を悟り得る知性の、

理性のない不毛な心に巣くう思想が共産主義です。

 共産主義者及びそのシンパは、彼等のイデオロギーを拒む者を虐殺し、
権力を得て何ら良心の呵責を感じない、

良心を捨て去らしめるイデオロギーであることを証明されて尚、
共産主義を信奉する者達は、自分達が虐殺される側の人間ではない、
虐殺する側の、権力を持つべき人間であると信じる
悪魔に魂を渡した
(共産主義を認めぬ、 自由と平等を信じる神の愛に生きる者の不幸を、死を願う)
イデオロギーの狂信者です。

 力しか信じない彼等は、己の信じる唯一の力を失う時、生きる力を意思を失い、
自らの狂信故に滅びるのです。
 どんな共産主義者も何時かは他の力に、己の無力に滅びることを理解しようとしない
(無論、彼等が信じようとしない神の前に滅び去ることも)。
 今現在の敵への憎しみの世界にしか生きられないからです。
 教義であれ、イデオロギーであれ考えることから
真理であるか否かを判断できる理性を育てるように導くものでないならば、
真理ではなく人を破滅させるものです。

 天上界が常に考えなさいと言われて来たのは、精神の自由を失えば、
精神の自由を奪うものを許すようなら、理性に生きることは出来ないからです。
 精神の自由を失わない為なら生命を失うことも顧みずに戦うことが出来るのは、
人類が生きる道はそれしか残されていない
ことを知るからです。
(国民の肉体の生命を守る為なら、悪魔(に従う国)にも降伏することが、
愛だと考える人を、又それを評価するメディアを何とも思わないなら、
天上界のご意志は理解不可能でしょう。)
 人から考える自由を奪う者に無自覚に従うなら、
人間の尊厳を奪われても肉体の生命を維持することを望むのなら、
そのような国に、民族になることを受け入れるなら、
尊厳を捨てた人間を人間と言えるでしょうか。
 彼等は自分達と同じ(堕落した)精神へと導いているのです、
それが解らないのでしょうか。 

注。
「JI」85年1月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」47頁

「社会・共産主義化諸国の悲劇の歴史。それらを理解しながら蜘蛛の網に捕えられた虫のように、
自らを解き放てない人間の知性は、人類という種の滅びを暗示するかのように見えます。
 多くの善霊が殺され悪霊の跳梁する天の反映でもありながら、
世の終りが避けるベくもなく忍び寄る現実と、
それを来たらせるのは偏(ひとえ)に人類の無知と無自覚と無思慮な支配欲であると、
如何にすれば覚らせ得るのか。
 善を喜ばず、悪に走る人類の業と言うべきでしょうか。
 人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ないと、
あなた方は果たして理解しているのでしょうか。
」)

〖備考1
 公用でなくともグリーン車を使うことが政治家としての振舞いなんだそうです。
 一般人の海外旅行も政治家にとっては国民を知る上での研修なんだそうです。
 彼等は自分達のしてきたことの代償が如何に高くつくものか知らないのです。
 無論知らないからといって許されるはずがありません。
 罪の重さを自覚出来ないでいただけで、罪であると知らなかった訳ではないからです。
 他に信頼されたが故に与えられた権利であることも失念し、
特権を持つから特別な存在であると慢心する。
 善行(政治家としての義務)を可能ならしめる力を委ねられながら、
自らの邪念を満たすことに利用する、その代償が魂を堕落させるということであり、
虚栄に、偽りの自分に生きたが故に、善を真理を求めている真実の自分に目覚めることなく、
己が偽善を、虚栄を人に信じ込ませるような者が、
世の悪を、不正を正す為に自らをなげうつなど出来る訳がないのです。

 彼等の偽善が明らかにされたとなれば、後は虚構の世界に、自己欺瞞に生きる、
自ら善我を滅し去る道しか残されていないのです。
 その魂を待ち構えているのは、そのような魂の価値を一切認めぬ世界であるということです。

(神に背く共産主義者、共産主義国家に与するシンパ、
真の神を侮る、魂の研磨を知らぬ邪教徒の魂は言うまでもなく天上界に迎えられぬ魂です。)
 備考1終〗

〖備考2
 まさか自民党の中に、共産主義者や容共の者がいるとは思いませんでした。
 共産党という党(地獄)があるのに、共産主義者であることを隠して自民党
(天上界には遠く及ばないまでも)に臆面もなくいられようとは。
 本性を偽って天上界にいた悪魔(ダビデ)と同じ心を持った者がいようとは。
 高貴な精神とは程遠い者もいる党とは思ってましたが、
神を捨て悪魔に跪く者を容認していようとは思いも寄りませんでした。

 悪を憎まない心に善はなく、
善のない心は悪の支配から免れることはありません。
 共産主義を憎まない者は、共産主義に生きる邪念を拒絶する善なる心がないのであり、
共産主義者に支配され、利用されていることが理解出来ぬ愚者です。
 悪の自覚なく利用された者が、悪の自覚を持って為した者よりも罪が軽いのではありません。
 極悪の大罪に手を貸せば、自覚がなかったで済む訳がないのです。

 2024年の衆議院の補欠選挙で自民党が全敗するのは当然の成り行きでしょうが、
よもや立憲民主党が全勝するとは思いませんでした。
 ソ連が攻めて来たら白旗を振って迎えようといった(看板が変わっただけの)、
中身は社会党そのものの党ではないですか。
 左傾メディア(在日朝鮮人を取り込んだ、もしくは取り込まれた)は、
彼らの大嫌いな日本人から自分達を中国やロシアが解放してくれると、
(左翼の嫌いな)日本人に変わって自分達を支配階級に迎えてくれるとでも
思っているのでしょうか。

 自民党の堕落に気付かないで来たのは、国民自らが堕落した為とは考えないのでしょう。
 自民党を懲らしめんとする左傾メディアに煽てられ、
自民党を裁くは、善なるが故と自惚れるような者は、
キリストを十字架にかけたユダヤ教徒を裁かれる神の側に自分達はいるのだから、
彼らを裁くことこそ神の子に相応しいと、自らを神の選民と自惚れに生きる
クリスチャンの心とどこが違うでしょう。
 それどころか国家の左傾化に、悪魔に手を貸す、
慢心から悪魔の操られていることも悟れない、
彼らに比べればユダの方がはるかに正直な人間であったことでしょう。
 共産主義によって自由を、生命を奪われた、
ウクライナや香港やアフガニスタンの人々の苦汁すらも忘れ去るような心なき者に、
正義を語る資格などありません。
 このままでは、悪に従うしか生きる道がない中国やロシアの国民の二の舞でしょう。

 現天上界(唯一の真の神の統治される天国)は、
社会・共産主義者及び邪教徒は悪魔に心を渡した者(即ち消滅の対象)として
対処されることを明らかにされております。
 たとえ彼らを信用しての支持ではなかったにしても、それが天上界に通用すると、
天上界の神の法に徹する厳しさをその程度のものであると思われるのでしょうか。
 彼らにとって利益となることを知っての、自らの意志で行うものなら、
それに相応しい罰を以て天に対して犯した罪を思い知ることになるであろうことは、
疑いようのないことではないでしょうか。備考2終〗


"悪魔の種を撒いた日教組"その一証例
〖参考〗
「人望の研究(山本七平著)」111頁 祥伝社黄金文庫
戦後の教育の破綻を予言した小林秀雄の洞察
 小林秀雄は、常に「常識」を問題にしていた人だとも言えるが、その彼が、
今(1983年頃)から二十余年前に書いたことを、少々長いが、次に引用させていただく。
 これを読むと、こんなことをしていると、二十余年後には、
「戸塚ヨットスクール」を招来するような状態になるぞ、
といった一種の予言のように思えてくるからである。

「実は、別の事を書こうと思っていたのだが、昨日から、ある中学校の先生の長い手紙を読んで、
その事を書く気になってしまった。
 早急の事なので、事後、御承諾を願うことにし、無断で、若干の引用をさせてもらう。

 この人は、ある都市の、生徒二千名をかかえた中学校で、
最近まで、十年間、実地教育に専念した人だ。
 嘘が書かれているとは、どうしても考えられなかったし、
また、条件の下に、格別な観察がなされているものでもない。
 したがって、最近のわが国の義務教育一般を考える上にも、参考になるものと思った。
 読んで行くと、あきれ返って、開いた口がふさがらないような事が、
いくつもいくつも書かれている。
 いや、いや、こちらの見聞の狭さに、あきれたほうがいいだろう、
と反省することにしたのだが。

 毎週、各クラスから選抜された男女の生徒委員百余名が集まって、
当番教師を中心として会議が開かれている。週に一つ実行すべき事項を決めて、議論するのだ。
 今週の課題は、黒板に、チョークで書かれている。
『教室であばれないように』。まず、教師が口を切る ー 。
『今週は、教室で、あばれないように、という問題だが、教室で、あばれては、なぜいけないのか』、
生徒の手がすぐ上がって、『教室は勉強するところだからです』と答える。
 すると別の教師が発言する。
『勉強するところだから、なぜあばれていけないのか。君たちは、あばれたいだろう』
『あばれたくても、あばれてはいけないのです。あばれたければ、校庭に出れば、よいと思います』
『校庭では、無論、あばれてよい。しかし、教室ではなぜあばれてはいけないのか』
 生徒は、ガヤガヤと私語し出す。
 常識じゃないか、という一生徒の言葉を、耳にはさんで、教師がつづける。
『常識? 常識ってなんだね。
 そんなわかったような、わからないような、いいかげんなものは信じられないね』
『議長ッ』と一年の男生徒が立つ。
『教室で、あばれると、窓ガラスや机や椅子をこわすからいけないのです』
『うん、なるほど。だが、なぜ、窓ガラスや椅子をこわしていけないのか。
  君たちは、あばれたい。それなら、ちょっとあばれるとこわれるような安物のガラスを、
なぜ入れて置くか、と考えないか』
 教師は、指で窓のガラスをはじき、
『こんなやくざなガラスを入れたのは誰か。やくざな政治家だ。政治が、なっていないのだ』
 全生徒は沈黙する。以上。文字どおり以上である。
 生徒は、教室であばれる事をけっして止めなかったからだ。
『サイレンが鳴ったら、すぐ教室にはいるように』『廊下を走らないように』
『道で先生に会ったら、挨拶するように』努力目標はいくらでもあるから、
毎週違った議題が論じられるが、実地に努力され、目標が達成された事は、一度もない …… 」

 まだつづくが、ここまで教師が言ったことを要約すれば、まず「常識」の否定であり、
次に「克己復礼」すなわち「己に克ちて礼(ルール)に復(かえ)る」の否定であって、
「あばれたければ、常識を無視してあばれてよろしい」であり、
次に、それをすれば、すぐ壊れてしまう窓ガラスや椅子・机があるのは政治が悪いからだ
ということである。ある意味では、そのような政治を許している社会が悪いともいえる。
(注。自らの与する組織の指示に従わぬなら、その組織の妨害者であり、
その組織が如何に迷惑を被っていようが、
自分を排斥する資格はない、自分の自由を侵害する資格はないと、
自己保存の為には他の犠牲を厭わぬ者に、
そのような自分の所為で迷惑を被っている他人の心など感受し、反省する善意など欠片もない者は、
如何なる社会にあっても存在する価値なきものであることも悟らぬ愚者なのです。
 左翼は左翼でない如何なる人間社会にあっても、クズとされる所以です)

 では、どうすればよいというのか。
 次に、日教組講師団のことが出てくる。

日教組講師団に対する現場の教師の怒り
「手記によると、昭和三十三年六月、小中学校生徒指導代表者会議の席上、
東京大学教授某氏は、講師として次のように語った。
『私たちは、全国的にいろいろな学校に行きますが、どこへ行っても、たいていの学校には、
廊下を走るな、廊下は静かに歩きましょう、といった意味のポスターが張り出してある。
 しかし、考えてもごらんなさい。
 走りたいさかりの子どもが、横綱鏡里(かがみさと)のように、
のっし、のっし、と歩いていたら、それこそ滑稽ではありませんか。
 そんなに廊下を走っていけないのなら、廊下を止めにして、
校庭から、直接に教室にはいる事にしたらいいではありませんか』」

 この発言も前記の教師の発言と同趣旨で、あばれたいだけ、あばれるように、
走りたいだけ、走りまわれるように、学校自体をつくりなおせばよい。
 それが教育だと考えている点にあるであろう。小林秀雄はつづける。
「 …… 私の注意を引いたのは、この(東大教授の)話を聞いていた手記の筆者が、
聞いているうちに、なんと愛情のない、冷たい言葉か、さっさと還って、生徒を教えてくれ、
と腹の底から怒りが、こみあげてきたと書いている事であった。
 私が、開いた口がふさがらないで済ませるのは、わが身にふりかかる事柄ではないからだ。
 しかし、事柄がわが身にふりかかった人を想像し、たやすく口に言えぬ事の真相は、
おそらく其処にあると感ずるのを妨げる何物もない。
 手記の筆者は、経験者でなければ、決してわからぬ事があるのだ、と繰り返し訴えている」
 これはたいへんにおもしろい言葉である。日教組講師団や、おそらくその系統の教師は、
子どもに、常識などは無視して、あばれたいだけあばれさせ、走りまわりたいだけ走りまわらせ、
それを可能にする施設をつくること、
もしくはそのように造りかえることが子どもへの愛情だと考えている。
 一方、これを聞く現場の経験者のこの教師は、
「なんと愛情のない、冷たい言葉か、さっさと還って」くれと、
「腹の底から怒りが、こみあげてきた」というのである。
(中略)
「あばれたければ、あばれたいだけあばれてよい、したいことを自由にさせ、
のびのびとその才能を伸ばすことが教育だ」というのも教育論の一面にちがいないが、
しかし同時に「喜・怒・哀・懼(おそれ)・愛・悪(にくしみ)・欲」の「七情」を
野放しに爆発させて、暴れさせておいては、いかなる教育訓練も不可能であり、
のびのびと才能を伸ばすことなど、まったく不可能で思いもよらぬことになってしまう、
ということもまた事実なのである。
 否、それどころか、「七情」を野放しにしてあばれまわらせたら、
その人が社会生活ができないだけでなく、周囲の者も社会生活ができなくなってしまう。

 前に「戸塚ヨットスクール」が存在しうることが最も問題だと記したが、
親がそこへ送る子どもの一例(すべてではないと思うが)を読むと、
前記の『近思録』の言葉を思い出す。
『 …… 形(かたち)既(すで)に生じ、外物(がいぶつ)其の形に触れて其の中に動く、
其の中に動いて七情出(い)づ、喜怒哀懼(おそれ)愛悪(にくしみ)欲と曰(い)う。
 情(じょう)既に盛んにして益(ます)ます蕩(とう)し、其の性鑿(さく)す。
 是(こ)れ故に覚者は其の情を約(やく)して中(ちゅう)に合わせ使(し)め、
其の心を正し、其の性を養う。
 愚者は則(すなわ)ち之(これ)を制するを知らず、
その情を縦(ほしいまま)にして邪僻(じゃへき)に至り、其の性を梏(こく)して之を亡ぼす」
 その状態はまさに、七情を思うがままに激発させて、
人間の本性を自ら亡ぼしてしまった人の姿なのである。
 子どもがそうなって当然と思っている教師がいたら、
真の教師は「腹の底から怒りが、こみあげてきた」で当然であろう。
 この人は、教育というものが持つ本質的な矛盾を現場の経験で知っているから、
子どものことを思っているような偽善的なきれいごとに耐えられないのであろう。

「中庸とは、皆が持っている常識のことだ」
 ここでもう少し、前記の引用をつづけよう。
「 …… 経験者にとって、経験的事実を離れることが、いかにむずかしいかをいう。
 それは、どんなに注意しても、注意し足りない事だ、と言うのだ。
 事、生活に関しては、経験者の頭数だけ、真相の数がある、
そんな不毛の考えに、もし注意力を働かせているなら、導かれるはずがない、
そんな認識の遊戯に、注意力なぞ要らないであろう、と言いたいのだ。

 生活経験の質、その濃淡、純不純を、私たちは、お互いに感じ取っているものだ。
 あえて言えば、その真偽、正不正まで、暗黙のうちに評価し合っているものだ。
 それが生活するものの知恵だ。
 常識は、そこに根を下(おろ)している。だからこそ、社会生活の塩なのだ。
 無論、分析の適(かな)わぬものだ。
 
 週番制度会議の席上で、精神薄弱な教師が、常識というような、
わかったような、わからぬような、曖昧なものは信じない、と言うのは無理もない。
 彼には、生活に対する注意力が欠けている。
 分析の適わぬものを、見詰める忍耐を失っている。
 現代に蔓延した悪疫(あくえき)である。
 常識という原石は、常に実在するのだが、自覚的な生活人がだんだん稀(まれ)になれば、
原石が磨かれるのもだんだん稀になる理
(ことわり)であろう

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法