第一部 天の教え
第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー)

四節 共産主義の本質
「慈悲と愛」79年7月号29頁千乃先生解説
「レーニンが母国に与えたものは理想主義ではなく、"力を誇れ"という言葉であったのです。
 彼等の唯物思想とは、美しいものではなく、野獣の如く赤裸々な"力の争い"なのです。
 正法の光に照らせば、日本を含めて世界の共産党員はソ連の内在せる脅威に気付かず、
"革命"という言葉に酔っているのです。

 神を認めぬ彼等が"唯一の貧者の味方なり"と謳う心の底には人間愛があるのではなく、
力と支配への欲求が隠されているのです。

 自由社会に於ても心に善意を持たぬ人々は社会の屑であり、心豊かな天に愛でられる人々は、
貧しき人々の為に、苦しみ悩む人々の為に涙し、一生を捧げて悔いないのです。
 共産主義者のように言葉を弄ぶのではなく、

自由社会を敵とし、憎しみと闘争に明け暮れて、出ぬ涙を出して見せるのではなく、
黙って愛を与えるのです。
 どちらが美しく崇高な魂でしょうか。
 世界を救うことの出来ぬ仏教徒やキリスト教徒も、心は遥かに美しく、
若者の範となすべき人格を生み出します。

 共産主義者はマルクス主義という神に心を委ね、偽善に生きるべく教育された幼児であり、
"力"という阿片つまり麻薬に心を蝕まれた集団なのです。

 正法は自由社会に於ける政治と宗教の堕落を指摘すると同時に、
共産主義の血塗られた赤旗をも、それは染色の赤ではなく、
虐殺した人々の血で染めた色だという真実を世界の良識に提示する使命を持つものです。
 人々を正道に帰す為に。
 唯物思想こそ実存主義の極致であると結論したサルトルもソ連のみならず、
あらゆる共産体制下の国々の良心的、良識的反体制活動家の幽閉と弾圧に
語る言葉があるでしょうか。
 共産主義に希望を繋ぐ限り、
人間愛から出発した彼の理論もまた"虚しいもの"とならざるを得ないのです。」

「JI」86年9月号初出ミカエル大王様メッセージより
「アガペーやフィリアの代表する優しさや暖かさが人間としての高等感情であり、
対人関係を円滑にするものでもあると言えます。
 そしてこれが思い遣りなのです。
 優しさや暖かさ即ち思い遣りは、しかし、優しい言葉や声音(こわね)とは違います。
 言葉や文は繕うことが可能で、偽ることも出来ますが、
思い遣りは真に他の益となり、動物や人間に代表される他者を育成し、
その存在や生存を支えるもの。建設的な感情です。
 即ち思い遣りが個人の愛情の基盤にある限り、それは知恵の泉ともなり、
正しい判断の指針ともなって、あらゆる繁栄が齎され得るでしょう。
 商いや政治も互いの生存を許した上での個々の存立を追求するものであれば、
広義の思い遣りであると言えるのです。

 それに対する感情がエゴイズムであり、ナルシシズム。
 他を犠牲にして省みず、破壊と崩壊に導く感情で、総ての物を破壊し、
遂には自らも滅してしまう幼児的な性格が代表します。

 そしてこのような人物の下には、動物も人間も社会も、国家さえも存続し得なくなるのです。
 共産主義を信条とするソ連や共産圏、共産主義政権が
如何にこのエゴイズムに成り立ち、幼児的な残酷な世界を展開して、
他国や他民族を破壊し、崩壊させつつあるかを見れば、良く理解し得るでしょう。



"共産主義者の本質"
 左翼の得意とするというより、ねじ曲がった心故に、自然な行為なのかも知れませんが、
無自覚では済まされぬ悪魔的な行為です。
 人の真意を、伝えようとしている趣旨を捻じ曲げて伝える、
人の主張を自分のものにすり替える(その逆もあり)、
詭弁を弄し、話を不毛のものとし追及を逃れる
(これは得意中の得意か。リンチ殺人の宮本顕治はこの世での裁きは逃げおおせたが、
無論あの世ではそうはいかなかった)。
 しかしここで取り上げるのは、天上界の齎した教えを捻じ曲げようとした、
明らかに悪霊の介入したものです(旧約聖書などは、サタンの言葉が入り込み、
未だに神の言葉として罷り通っていることが、天上界の証言で明らかにされています)。

〖参考
「現代訳 論語(泰伯第八の九)」下村湖人訳
 孔子がいわれた。-
「民衆というものは、範を示してそれによらせることはできるが、
道理を示してそれを理解させることはむずかしいものだ」
(原注。
 ※本章は「由らしむべし、知らしむべからず」という言葉で広く流布され、
 秘密専制政治の代表的表現であるかのごとく解釈されているが、
 これは原文の「可」「不可」を「可能」「不可能」の意味にとらないで、
 「命令」、「禁止」の意味にとったための誤りだと私は思う。
  第一、孔子ほど教えて倦まなかった人が、
 民衆の知的理解をみずから進んで禁止しようとする道理はない。
  むしろ、知的理解を求めて容易に得られない現実を知り、それを嘆きつつ、
 その体験にもとづいて、いよいよ徳治主義の信念を固めた言葉として受け取るべきである。

「論語の読み方」27頁 山本七平著 祥伝社
「由らしむべし、知らしむべからず」は
「民には何も知らせてはならない。信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と解釈され、
それを戦時中の日本になぞらえて批判された。(中略)
 前に、ある人が通俗的誤用でこの言葉を引用したので、
それは間違っている旨を公開の席で指摘したところ、
その人は憤然として(如何にも左翼と判り易い)
「戦後になったら、世の中に迎合してそんな新解釈をやっているだけで、
戦前はそうではなかった」(この詭弁も左翼らしくて納得)と言った。
 だがこれは誤りで、戦前の宇野哲人の『論語新釈』でも、
この「可・不可」を「できる、できない」と読んでいるのは同じである。
(左翼は大脳硬直しているから何時かはボロが出るということです)
 参考終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法