第一部 天の教え
第三章 善我(神の心)を見失わない為に

四節 善我に生きる
 善我であることに執着して(拘って)却って善我の心を失う。

現象テープ№12 ②「善我の目覚めから自我の目覚めへ」より
 78年10月1日 
ブッタ様現象
「正しい自我の目覚めを迎えるに当り、大切なことは、
八正道を実践し、正しく生活しようと心掛けるあまり、自分に厳しくなりすぎてしまい、
八正道や中庸といったものに執着してしまうことなのです。
 自分は正法をしており、八正道を守り、中庸を守っていかなければならないということが、
ふとした拍子で八正道を踏み外し、中庸を超えてしまった場合に、
自分は何ということをしてしまったかと、自責の念に絡れ、

軽く反省して流してしまえば良いものを、
愚かなことをしてしまったと何時までも悔み、執着を生み出すのです。

 この様に正法をしながらも執着を生み出すことが数あるのです。
 曾て、ラファエル大天使が、或る方に申されましたが、
良いことをして美しい天国に迎えられようとする心が、それ自体執着※1を作る基にもなる
というものです。
 この言葉は、本当に私達が声を大きくしてあなた方に言いたいことでもあるのです。」

「天国の扉(77年12月初版)」155頁 ブッタ様メッセージより
「大切なことは自分のなかのそういう(欲望、妬み、譏(そし)り、怒りなどの自己中心的な)
感情を抑えるのではなく、さらりと受けとめて流す※1ことです。」

※1注。
 悪を為す者は、それを受ける者に影響を与える、
悪なるが故に人の心に働きかけることが出来る、
自分を嫌な者と忌み嫌わせるが故に、人は自分を特別な存在であると認めざるを得なくする、
彼等の生きるナルシシズムの心とはそれを喜びとするが故に悪を為すのです。
 そのことを知らなければなりません。それが正しいと認めるということではありません。
 きれいな水で流してしまいなさいとイエス様も言われています。
 彼等に播かれた悪の種を心に根を張らせてはならないのです。
 真理の根に譲らせてなりません。陽の当たる所に陰は存在出来ません。
 悪なる思いは受け止めるものではなく善なる心の前に消え去るものです。
 自然(動植物)には毒を持つ種が生存していますが、
食そうとするものに毒である故に恐れさせ、
避けさせることで生かしてきた自然の知恵なのですが、
その毒によってしか生きることの出来ない世界に
己が種のみを自ら閉じ込めて生きているのです。
 そのような闇の世界を人間社会に、人の心に作ってはならないが故に、
光が天より齎されてきているのであり、
邪悪に陰に生きる心であることを彼等に知らしめることが出来るのは、
悪なる心を捨て去った者だけが知る、光に生きる心の歓びだけであろうと思います。※1注終)

〖備考1
 ブッタ様が真理を悟る為に、
あらゆる執着から自由になる為に、正しい道を見出す為に、
その妨げになると思われるものをすべて手放されました。
 愛する家族(勿論愛を捨てたのではありません)を、
自己認識(存在証明)である王子という身分(特権階級)への執着も断ち切られました。
 この世のあらゆる自由を捨て、住む家さえも持たぬ生活へと自らを追いやり、
己が生命を支える肉体であろうとも、己が意志に従わずこの世に執着せんとするならば、
肉体の執着する力を滅する為ならば生命を失いかねない苦行をも辞さなかった。
 真理を見出せぬ盲いた心の、肉体の求めに盲いて従う、
自由なき魂の苦しみからの解放(※2)への望みが、
ブッタ様に真の目覚めを齎したのではないでしょうか。

 苦しむのは心が自由ではないから、心を縛っているものがあるからとだと理解しても、
この世から得るものに満足したからこそ執着してきた、それらを捨てようとすれば、
却って(失うことへの懼れや、執着心が意識されて)苦しくなってしまうのでしょうか。

 楽しみを喜びを求め執着すれば苦しいが、
その執着を失えば(解脱すれば)楽しみを喜びを感じない心になってしまうのではないかと、
現状のままが良いと自己肯定の欺瞞に逃げようとするのでしょうか。
 自由な心とは執着からの自由です。
 自分に執着する心にあって、人に良き思いを向ける愛を持つことはありません。

 裕福な者は、満たされていると思えさえすれば、執着心などないと思っているかも知れません。
 貧しい者は執着心がないから貧しいのだと思っているかも知れません。
 しかし裕福な者が富を失いかねない時、貧しい者が富を得るチャンスが訪れた時、
富に執着しない、自由な心のみ見出す真理に、愛に生きることが出来るでしょうか。

 裕福であった、何不自由することがなかった(とブッタ様は仰しゃいました)にも関わらず、
それで良いと思われなくなられました。
 真の心に目覚められていたからで、この世の内に真我を満たし得るものを見出せなかったのです。
 この世の与えるものに満足する心とは別の、
真の心に生きたい、真我に生きんとする思いが、
それを抑えているものがあることを感じ取られたのでしょう。
 真我から自由を奪っているものを、偽りの心に自分を縛っているものが何であるか、
それを断ち切る為に、この世に生きる心を満たして来たあらゆるものを捨てられたのです。
 裕福であることに満足する心を、富もろとも捨て去る者など、
世の人に理解出来るでしょうか、人の知り得るものでしょうか。
 それを為したのが王国の王子であったのです。
 もし悟りを開いた人間が曾ていたなら、天上界が世に知らしめた筈です。
 誰も居なかったからこそ、天の計画の下に、
天上界の守護と聖霊の合体によって真の覚者(ブッタ)へと導かれたのです。

 このことから人はブッタ様に遠く及ばぬことを覚らずにはいられないものでしょう。
 苦行などは悟りへの執着を生むに過ぎないと、
中道に生きることで仏(覚者)の心を自らの心とする
(解脱する)ことが出来ることを悟られたのです。

 そのブッタ様の教えを侮り、愚鈍故に悪霊の憑依を招き、苦行を悟りへの通過儀礼と錯覚し、
悟りに、苦行に、執着する信者は、悪霊に弄ばれていることが解らぬ、
賢者どころか廃人として一生を終えるしかない哀れな人々です。

 神々の教えを敢て無視する愚か者が真の悟りに導かれることはありません。
 このような愚行に導く指導者は、天の断罪を免れることはないでしょう。備考1終〗

※2注。
〖参考〗
 真の心が如何に大切であるか悟ることなく、損なわせているのは己自身の心であることを
世の人々に悟らしめた、ブッタ様がご生前に説かれました法話です。
「禅問答 55の知恵」77頁 中野東禅著
「釈尊は『四人の妻』という話をしている。
 あるところに、一人の商人がいた。この人は四人の妻を持っていた。
 第一の妻は、とても可愛くて、何時でも傍に置かないと気が済まない妻であった。
 第二の妻は、美人で人と争って取った。
 第三の妻は、ときどき会って、互いに好き勝手に語り慰め合う間柄であった。
 第四の妻は、働き者で、何時も汚れて働き続け、彼はその存在すら忘れていた。
 この商人がある時、急に旅に出なければならなくなった。
 一人ではさみしいので、四人の妻達の内、一人を連れて行こうと思った。

 第一の妻に相談すると、「私はあなたと一緒に行く訳にはまいりません」と振られてしまう。
 第二の妻の所へ行くと、「何を言っているんですか。
 私はあなたが好きであなたの妻になったのではない。
 あなたが人と争って取ったからここにいるのです。
 そんな遠くの国へ行かなければならない義理はない」と、これも断られた。
 第三の妻は、「それは大変です。妻としてお供したいですが、出来ません。
 せめて町の外まで送らせて頂きます」と言う。
 第四の妻は、「私はあなたの妻ですから、
たとえどのようなことがございましょうとも、何処までも付いて参ります」と言う。
 こうして商人は、第四の妻を伴って旅に出た。
 この旅に出るとは死ぬということである。釈尊は言う。
「ところで諸君、この旅人とは誰であろうか。それはあなた自身である」

 第一の妻とは肉体である。何時までも傍に置いて、一番愛おしいものだ。
 そして死ぬ時は置いて行かねばならない。
 第二の妻は財産だと言う。
 美人で、人と争って取り、あなたと一緒に行く義理などないものである。
 第三の妻は親族だと言う。たまに会って好き勝手な話をし、心を慰めている。
 共に泣いてくれるが、死後までは来てくれない。
 町の外の墓場までは来てくれるのである。
 第四の妻は心だと言う。普段は在ることも忘れて、汚れ放題に汚れている。
 それでいて、たとえ火の中、水の中でも付いて来るのである。」※2注終)

"正法に拘る心とは、執着心から正しく理解する能力を奪われた者です"
 真理である神の法、正法が理解出来ないのは、
真理に反した生き方を自ら選び取っているからだとは、思いもよらないのでしょう。
 正法に出会っても、それでも尚、正法が煩わしいものと思う人は、
善我を顧みぬ偽我を自らの心としてきたからと悟ることの出来ない、
そのような正法者がいました。
"正法という事が頭にあって、正法に拘(こだわ)り過ぎてしまっているのではないか"
という質問者に対するガブリエル様からの戒めです。
現象テープ№31 「天上界による質疑応答(天上界の見解)」より
 81年9月10日 ガブリエル様現象
&「エルバーラム」75頁

「正法、正法と拘り過ぎてしまっているならば、一度正法を離れてごらんなさい。
 そうすれば又、否応なしに自分から正法に戻りたくなる時がやって来ます。」

〖備考2
 疲れ果て、それでもやらないと誰かが困るからと、
義務感で無理を強いることもあるでしょう。
 しかし、そこに何の熱意も人を思う気持ちを持つ余裕もなくなっていることに
気付かないようでは既に偽我に陥っているのです。
 そのような思いは人にも伝わり、互いに思い遣る心を忘れさせ、
互いを義務で縛ることにもなり兼ねません。
 何故、自分はそうしてきたのか、その思いを取り戻せないで、
その心を失って一体何を得ようと言うのでしょう。
 その思いが熱意があったからこそ成し得たことではないでしょうか。
 正法を無理に行なって苦しんでいる人に、一度正法から離れなさいと
ガブリエル様は仰しゃいました。

 正法が自分を縛っていると思う者は、既に正法を(伝えた方の思いを)見失っているのです。
 それが分かる為には、正法から一度離れてみるべきかも知れません。
 失った(と分かった)時、初めてその大切さを痛感したと言う人もいるのですから。
(自己満足の為に、偽我を満たす為に)正法を行っている者は、
宗教の信者と変わらないのです。真理を見出していないのです。
 自分も人も救うことは出来ません。備考2終〗

「JI」82年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」145頁

「何ものにも囚われないというのは、放縦や身勝手な心とは違います。
 厚かましさや傍若無人さをいうのでもありません。
 あなたは無理に優しくなろう、強くなろう、厳しくなろう、善くなろうとしていませんか。
 無理に、というのは、訳も判らずにしなければならぬから、という心から来ています。
 これは偽我
ー 本当の自分の気持ちでない気持ち ー に繋る心です。
 何故無理するのでしょう。無理は続けると苦しくなります。
 正法に縛られているのは無理に"正法者"になろうとした人達です。

 
 無理して苦しんだ挙句、挫折するか、立ち直るかは、正法を続けている動機によります。
 自己の完成のみを願う人は挫折するか、偽我を大きくするだけで、
ユートピアを願って正法を続けている人は過ちに気付くのです。
 無理して良き人となろうとする人は向上心というよりも偽我が先立っているのです。
 果して善行や義行は無理して行うものでしょうか。
 心からそうしたいと思い、行うもので、そういった心が天へと通じ、人の中へと繋がるのです。


【「慈悲と愛」80年9月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」115頁

 人は神と繋がる(善我に立つ)時、
人と神の愛を以て繋がり(神と同じ波動を持つ心が通じ合う)、
人に神(聖霊の御働き)を見出す時、
(聖霊達の御心を一つにする愛と信義)と繋がる。

 何ものにも囚われぬ心は無理せず努力し続けます。各々人により程度も速さも違うのです。
 無理を続けていけば、心は硬くなり、判断力も無くなります。
 焦らずやってゆくことです。焦るのもまた偽我へと繋がってゆくのです。


現象テープ№32 「物の考え方について」より
 81年9月13日 ラファエル様現象
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」317頁

「自己犠牲はいけない。我慢してやるのはいけないとは言いながらも、そのままではいけません。
 やはり、しなければならないと思った時にはしなければならないのです。
 そこから出てくるもの、何故その気持ちが出てくるのか。
 それは(責任を問われることを怖れる自己保存の心からではなく、
善我に立っての已むに已まれぬ思い、主体性からの)責任感を言うのです。
 責任感がそうさせるのです。
(自己保存から強迫観念的に自らを強いる)義務感がそうさせてはいけません。
 お解りですか。
 それではあなた方の為にもならない、助けて上げる人の為にもならないのです。
 自分をごまかしてはならないが、天をも人をもごまかしてはいけません。

現象テープ№38 「ユートピアについて」より
 82年1月17日 ウリエル様現象

「心の中というものは、何時も何時も動いているものであり、
悪い心が起こるのを止めることは仕方がないのです。
 それを許されないというのならば、一体如何なることが出来るのでしょうか。
 如何なる欠点をも許されない。
 そのような事に、耐えられますか?
 耐えられはしないでしょう。」

「あなた方の、湧き起ってくる心を、それを天上界が常に、
権威で押さえつけたなら幸せはどこにもありません。
 何ものにも縛られず、押さえられず、自由に出てくるもの、それを重んじるのです。
 たとえそれが悪い気持ちであったとしても、それは自分で変えてゆかなければならないのです。
 最後まで自分でやってゆかなければなりません。
 私達がそうであるように、あなた方も又、そうなのです。

〖備考3
 今正しい心に生きんとする、神の伝えた善我の指標が意識されている時、
その心から現れる如何なる思いも人の善我へと繋がる、善を生み出すことが出来るでしょう。
 人から評価を得るのは結果であると信じる者は、
結果が伴わねば人を満足させることはない、
人から認められることはないとの思いを持つからでしょうか。

 真に善き結果を齎す(偽善、欺瞞に盲いて自己愛に安住する偽我を克服した)善我からでなく、
人の評価を求める自分への思いを隠し持つ者の偽善は、人の心の偽我にしか伝わらず、
人の偽我の求めに応えるものであっても、
人の善なる心に伝わり、彼等の喜びとはならないのです。
 互いに偽我の世界に繋ぐものしか齎せないでしょう。備考3終〗


善我を守り抜く強い心を持つために
「天国の扉(77年12月初版)」138頁 サリエル様メッセージより
「人生に於ていろいろ難しいことや辛いことにも出会うでしょう。
 しかし、そこから逃げてはなりません。
 快楽だけを、楽なことばかりを求めてゆき、その先に何が残るでしょう。
 試練に耐えることを知らない、弱い空虚な心だけです。
 このようなものは、自己の成長に何の役にも立ちません。妨げるだけです。
 益になることは決してございません。

 試練に耐え抜き、自らを高めようと努力してゆけば、
必ず、強い心と、充実した日々と、永遠の命が与えられるでしょう。
 試練を恐れてはいけません。」

〖備考4
【「現代訳 論語(述而第七の三)」下村湖人訳
 修徳の未熟なこと、研学の不徹底なこと、正義と知って直ちに実践に移り得ないこと、
不善の行いを改めることが出来ないこと。ー 
 何時も私の気掛かりになっているのは、この四つのことだ

 自ら望んでいる生き方を、自覚すべき時(望む道と望まぬ道のどちらかがはっきりと定まる時)、
真の望みを忘れ、望まぬ心に従う(自らを信じる、愛する心を失わせます)ことを
孔子様は懼れると言われるのでしょう。
 天の思いを、自らの神の心を(無意識であろうと)拒み、
悪(魔)の思いを自らの心と選び取ることを懼れるということだと思います。
 悪しき思いが心を占めても気付かない
(そのような思いに従っている自分を恥ずべきものと認める心があるなら、
人がそうであるからと、高みから軽蔑など出来ないものです。
 軽蔑すべき自分を許している心に生きていることを思い出させる為の天の戒めが、
"人を軽蔑してはならない、自らを知らねばならない"
ということではないでしょうか。)のは、間違った道にいるということです。
 正しい道を行く者には、善なる心の働きが現れるのです。
 悪に対して善なる心は何を為すべきか。その指標を見出しているからです。
 善我にとって、善なる指標を見失うようなことがあってはならないのです。

【「現代訳 論語(里仁第四の五)」下村湖人訳
 君子が仁を忘れて、どうして君子の名に値しよう。
 君子は箸の上げ下ろしの間にも仁に背かないように心掛けるべきだ。
 いや、それどころか、粟を食ったり、けつまずいたり瞬間でも、
心は仁にしがみ付いていなければならないのだ

【「希望と幸福(ヒルティの言葉)」181頁 (エピクテートスの『語録』より)
 何か事を始めようとする時、
それがどういう性質のものであるかを、とくと考えるがよい。
 浴場に行こうとするなら、
予めどんなことが浴場の中で起こりがちであるかを、思い巡らすがよい。
 人を押しのける者もいる。性急に飛び込んでくる者もいる。
 ののしる者もいる。盗む者もいる。
 だから君が、「自分は風呂に入りたいのであり、
そしてそこでは理性に適った振舞いを守ろうと、
予め自分に言い聞かせておけば
、比較的間違わずに事を為し得るであろう。
 あらゆる事にあたって、この手で行くがよい。
 そうすれば、入浴中に何か妨害が起こっても、君は直ぐこう考えることが出来るのだ。
「自分が欲したのは、只この事(例えば入浴)だけでなくて、
私の自由な意志と品性の保持であった。
 しかし、ここで起ったことに腹を立てては、それが守れまい」と。備考4終〗

〖参考
 ヒルティのエピクテートス語録をもう一つご紹介致します。
「自分のものでない長所を鼻にかけるな。
 もし馬が自慢して「俺は美しい」と言うなら、これはまだしも(笑いを)堪えられよう。
 しかし君が「俺は美しい馬を持っている」と得意になって言うなら、
馬の持っている長所を誇っているだけなのだ。
 この場合、君のものと言えるのは何であるか。考え方だけである。
 この考え方の点で君が間違っていない時に初めて、君は正当に誇り得るであろう。
 何故ならこの場合には、君は本当に自分のものである一つのよい性質について
誇っているのだから。」

 高級車や豪奢な家を持つことで驕り高ぶる人間の心は、
エピクテートスの時代から一向に変わらないようです。
 勿論そのような上辺だけに生きている人ばかりではないのですが。

 神に繋がる心を顧みることなく、
人の虚栄心から羨まれて喜ぶ心もまた虚栄心であるとも悟らず、
悪魔に弄ばれているとも、嘲笑されているとも知らずに、
唯々自分への愛に、自らへの欲望に生きる。
 全世界を得てもその為に魂を失ったら、
全世界を以てしても魂を取り戻すことが出来ようか、
そのように語った方が、イエス様であっても伝わる心を持たないようでは、
誰が何を言おうと無駄なのです。
 どうかそうでないことを祈るばかりです。参考終〗

〖備考5
現象テープ№33 「慈悲について」より
 81年9月13日 ガブリエル様現象

「何故彼等は慈悲魔と呼ばれ、他人から踏付けにされても、人に慈悲を掛ける事を厭わなかったか。
 何故そうせずにはいられなかったか。
 慈悲を掛けるに値しない者にまで慈悲を掛けてしまう事が、どうして止めれなかったか。
 お解りになるでしょうか。

 どうしても慈悲を掛けずには居られなかった。その人の弱い心を見て、助けざるを得なかった。
 或いは、その人が自分で怠けているから、そういった状況になった時に於てさえ、
助けざるを得なかった。
 それはどういう気持ちを言うのでしょうか。

 苦しみに対して免疫がないのです※3
 苦しみに対して耐えることを知らないからです。
 耐えることを厭うが故に、慈悲魔になってしまったのでした。

 人が自ら苦難を乗り越える、精神の成長を助けることが真の助けであるのに、
その人に代って苦難を取り除いてしまっては、人をダメにするものと教えられたのですが、
人から真の救いを奪うことになろうとも、
人から喜ばれる偽りの慈悲に、見せかけの人間愛に溺れてしまう。
 真に人の為になることを望む者なら、
人から誤解されても、非難されても、真の救いである真理を伝えたでしょう。
 神の救いを得ずに、如何なる救いもない、
その救いを奪っても、その場の苦しみから救えば、
人に喜ばれれば(神の救いの思いを踏み躙っていようとも)、人を助けたと満足する。
 そのような慈悲魔に堕した者を、苦しみに免疫がない
(真理の道を知らぬ故に、楽な道に解決を求める)者と形容されたのでしょう。
 そのような心に留まれば、
環境の変化に適応する生命力を得る為に進化することの出来なかった種が自然淘汰したように、
やがては苦難に、悪の前に滅びることになるのです。備考5終〗

※3注。
〖参考〗
"免疫を持たないということは、守るべきものを守る力を持たないということ"
「清らかな厭世(2007年10月出版)」110頁 阿久悠著
"社会の常識と人間の心
 これをたっぷり吸っていないと
 天才も秀才も滅びる"
「オウムの時にも感じた。
 優秀といわれた若者たちの発する、奇妙な無個性のSF的恐さである。
 また、ライブドアの時にも似たものを感じた。
 人間社会を見ずして成果を挙げる人たちの、独特の奢りと儚さである。
 実験室感覚とでもいおうか、前者はガラス器具の中で毒薬を作り、
その結果は考えずに、出来た出来たと快哉を叫ぶ。
 後者はパソコンの中で数字化した財を作り上げ、目下世界一まであと少しと気炎をあげる。
 どちらも作業に於いては人間社会を断ち切った感覚で、あくまで毒を作り、あくまで金を作る。
 この気密室の天才たちは人の心を読もうとしないし、また、読むことも出来ない。
 だから、毒が完成し毒を誇示してみたくなった時、
数字化した財がその量も重さもわからぬまま長者の名乗りをあげた時、瓦解が始まった。

 天才たちの特長は単一の価値観しか持っていないことである。
 逆にいえば、単一だから実験室 ー あくまで比喩的な言葉だが ー を全世界と思えるし、
そこでの作業に没頭し、人が驚く成果も挙げ得たといえる。
 
 そして、瓦解は、気密室から出てどうだとばかりに社会を圧迫した時、
そこから風化現象が始まる。
 天才たち ー これも比喩、もしくは揶揄 ー の最大の弱点は大人にならないことの奢りと、
時代には風があり、その風には逆風があることを知らないことである。
 邪気満々のムジャキという妙な個性で、結局は社会の常識と人間の心の前に挫折するのである。
 権力も法律もなかなか通用しなくて、むしろ、逆手に取られたようなところもあるが、
常識と心には法のような隙間はなかった。これらは善玉のウイルスなのである。

 そこで、ぼくは、H・G・ウエルズの古典的SF「宇宙戦争」で、
地球を滅亡寸前まで追い込んだ火星人が、突然バタバタと死んだのは、
地球の大気中の微生物に免疫がなかったせいだというオチを思い出した。
 天才や秀才の若者たちは、ちょうどあのSFの知力能力に抜群に優れた火星人のようなもので、
如何せん闘争の対象外のものに対する体力も免疫もなかったということである。
 普通の人間にとって何でもないことを、軽視し過ぎた失敗である。
 平成になって後、二十一世紀になってから、火星人が増えてきた。ウジャウジャといる。
 実例もオウムやライブドアに限らない。
 たとえば国会での偽メール騒動の顛末を見ていても、
民主党の新勢力も免疫性のなさそうな顔をしている人を見かける。
 秀才だろうに、可哀相に社会的免疫がない。
 昔風の言い方をするなら、世間を知らないであり、人が読めないである。※3注終)


"人を正しく生かすということ"
 その人の本心、性格、能力を(本人の認識を鵜吞みにすることなく、
正見、正思から正しく認識する精神を以て)正しく理解しようとする者が、
真に人を生かすことが出来るということ。

「JI」83年1月号 ミカエル大王様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」161頁

あなた方へのメッセージは常に何らかの教訓を含み、
私達の世界へ招じ入れる為の道を示すものであることは、既に解っておられると思います。
 一人一人の心をより良く精錬し、この世の苦難をも味わって、磨かれた、強く、
且つ弾性に富む魂を自らの財産としてほしいと、何時も願っているからです。
 又、そういった人を天のメンバーとして望んでいるのです。

 一九八三年が明けて年頭のメッセージとして、今年は正法の為に一助となる、
役立つとはどのような態度を言うのかを改めて考えてみて頂きたいと思います。
 よく、私は少しもお役に立っていない、
正法流布のお手伝いもしていないという手紙が千乃裕子の許に届きます。
 そう言うならば、言うだけでなく、集いに或いは出版社に申し出て、どんな形でもよい、
手伝って頂く方が、言い訳やお詫びよりも嬉しいと昨年ガブリエルが申しましたが、
今日は逆の立場の人について評したく思います。

 正法者と言っても千差万別、誰もが理想的なタイプではなく、それぞれに欠点、弱点があり、
偽我を持ち、且つその偽我にさえ気付いていない人が多いのは悲しいことです。
 そして又、その偽我を指摘されても認めたがらない人が
積極的な人格に多いことも歎かわしい事実です。
 積極的であることは、正法に役立つ面が大きいということでありながら、
往々にしてその人物が優秀で才能に溢れる人である場合、
正法を自己のみの活動及び発表の場としてしまい、
他の人の存在を認めさせない雰囲気にしているのです。
 それがどの場合も十二分に正法にプラスとなる満足すべき働きであり、発表であれば良い。
 しかし、他に私達が起用したい人物が居て、
その人の活動の方がより満足すべきものである場合、
積極的な人物の存在が却ってマイナスになるのです。
 過去に背反のリーダーとなった人物は、やはりこのような優秀で才能に溢れ、
且つ積極的な人物であったことを思い出す時、
その欠陥とする所は、天が充分にその人を起用し、
その人のみを主として用いなかったことを不満とした故であるのでしょう。

 しかし、各人が今後も心して頂きたいのは、
天も正法も一人一人のそれぞれの才能や器を公平に求めるのであって、
求められた人はその求められたものに最善を尽して天と正法に寄与して頂きたい。

 反面求めないのに自分を押し付けるのは、
それを私達が受け入れなかった場合にどうしてもあなた方を傷付けずには居られないので、
私達を困った立場に追いやるのです。
 あなた方の熱意は嬉しい。
 しかし、私達は他の人の働きが正法に大変プラスになるのであれば、
その人も同じく用いたいのです。

 厳しく戒めるならば、このような心情は自己顕示という偽我であって、
天が起用しないからといって不満を持つのは、充分に謙譲ではない、
研磨を怠る人物であるということです。

〖参考〗
"偽善はそれ自身が目的の為、人を生かすどころか損なわせるということ"
「論語物語」(講談社学術文庫)下村湖人著 49頁

「子路(しろ)の舌」
 子路、子羔(しこう)をして費(ひ)の宰(さい)たらしむ。
 子いわく、かの人の子を賊(そこな)うと。
 子路いわく、民人(みんじん)あり、社稷(しゃしょく)あり、
何ぞ必ずしも書を読みて、しかる後に学びたりと為さんやと。
 子いわく、この故にかの佞者(ねいじゃ)を憎むと。 ー 先進篇 ー

「子路は、季氏(きし)に仕えて、一時はかなり幅をきかしていた。
 彼は人に頼まれると、例の親分肌を発揮して、よくいろんな人を採用したものだが、
子羔(しこう)を費邑(ひゆう)の代官に任命したのも、そのころのことである。
 費は季氏の領内でも難治の邑(むら)として知られ、
閔子鶱(びんしけん)などのような優れた人物でも、完全には治めかねたところである。
 しかるに子羔は、まだ年は若いし、学問は生(なま)だし、
人物も、性格も悪くはないが、少しのろまだし、
どう見てもそんな難治の地方で、代官など勤まるがらではなかった。
 このことを知って、だれよりも心配したのは孔子であった。
(子路にも困ったものだ。向こう見ずのもほどがある。
 なにかとちがって、人事だけは慎重にやってもらわないと、政治の根本が壊れる。
 それに、第一本人の子羔がかわいそうだ。
 自分では出世をしたつもりで、喜んでいるかもしれないが、
おそらく彼の前途もこれでだめになるだろう。
 愚かな者は愚かなりで、ぽつぽつやらせておく方が、かえって本人のためになるのだが)

 子路は、しかし、孔子が自分を非難していようなどとは夢にも思っていなかった。
 彼は、孔子の門人を一人でも多く世に出してやることに、大きな誇りをさえ感じていた。
 彼の考えでは、それが孔子の教えを広めるにもっとも効果の多い方法であり、
そして孔子を喜ばす最善の道だったのである。
 で、彼はある日、得々として孔子の門をたたき、子羔を採用したことを報告した。
 ところが、孔子はただ一語、
「それは人の子を賊(そこな)うというものじゃ」
といったきり、じっと子路の顔を見つめた。
 子路はめんくらった。彼はこれまで、門人たちのうちでも、
もっとも多く孔子に叱られてきた一人ではあるが、
いまだかつて、こんなにだしぬけに、しかも、こんなにぶっきらぼうな言葉をもって、
あしらわれた覚えがなかった。
 彼は、目をぱちくりさせながら、孔子はなにか思い違いをしているのではないか、
と考えた。で、もう一度彼は、
「このたび、子羔を費邑の代官に登用することができました」
 と、出来るだけゆっくり報告した。
「わかっている」
 孔子は、眉ひとつ動かさず、子路を見つめたまま答えた。
 子路は、これはいけない、先生は今日はどうかしている、と思った。
 しかし、子羔を用いたのが悪かったとは、まだ夢にも思っていなかった。
 で、彼は軽く頭を下げながら、
「また一人、同志を官界に出すことができました。道のために喜ばしく存じます」
「人の子を賊うのは道ではない」
 孔子の視線は依然として動かなかった。子路は、この時はじめて、「しまった」と思った。
 孔子の機嫌を損じている理由に、やっと気がついたのである。
 しかし、あっさり自分の過失を謝ることのできないのが、彼の悪い癖だった。
 それに、第一、彼は、のろまだという定評のある子羔を自分が知らないで用いた、
と孔子に思われるのが辛(つら)かった。
(自分に人物を見る明(めい)がないのではない。
 子羔の人となりぐらいは、自分にもよくわかっている。
 わかっていて彼を用いたのには、理由があるのだ)
 そう孔子に思わせたかったのである。

「子羔のためにならないことをした、とおっしゃるのですか」
 彼はつとめて平気を装いながらなずねた。
「君はそうは思わないのか」
 孔子の態度は、あくまでも厳然としている。
「むろん、子羔には少し荷が勝ちすぎるとは思ってますが……」
「少しぐらいではない、彼はまだ無学も同然じゃ」
「ですから、実地について学問をさせたいと思うのです」
「実地について?」
「そうです。本を読むばかりが学問ではありません」
 子路は、とっさに、孔子がいつも自分たちにいっていることを、そのまま応用した。
 孔子は、それを聞くと、すぐ目をそらして、妙に顔をゆがめた。
 子路は、しかし、孔子の表情をこまかに観察する余裕を持たなかった。
 彼はやっと孔子の凝視から逃れることができて、やれやれと思った。
 とたんに彼の口は非常に滑らかになった。
「費には、治むべき人民がおります。祭るべき神々の社(やしろ)があります。
 そして、民を治め、神々を祭ることこそ、なによりの生きた学問であります。
 真の学問は体験に即したものでなければならない、
とは常に先生にお聞きしたことでありますが、
特に、子羔のように、古書について学問をする力の乏しい者は、
一日も早く実務につかせる方がよろしいかと存じます。
 だれだって、実務を目の前に控えて、ぐずぐずしてはおれませんから」
 子路は、一気にしゃべりつづけた。
 そして自分ながら、とっさに孔子自身の持論を応用して、
それを自分の言葉で巧みに表現することのできたのを得意に感じながら、
孔子の返事をまった。
 孔子は、しかし、そっぽを向いたきり、ものをいわなかった。
 彼はじっと目を閉じて、なにか思案するようなふうであった。
 子路の目には、妙にそれが痛々しかった。
 自分の言葉が、図星に中(あた)りすぎて、さすがに先生も困っておられるな、
と思った。彼はなんとかその場を繕(つくろ)わなければならないと思ったが、
残念ながら、そんな場合の技巧は、彼の得意とするところではなかった。
 で、彼も丸太のようにおし黙っていた。

 そのうちに、彼はしだいに孔子の沈黙が恐ろしくなりだした。
 孔子の沈黙は、いつもただごとではなかったからである。
 彼は孔子の横顔をぬすみ見ながら、そろそろ自分を反省しはじめた。
(自分は、今先生にいったとおりのことを、ほんとうに信じているのか)
 いや! と、彼は即座に自分に答えざるを得なかった。
(子羔のためにならないのは、先生の言葉をまつまでもなく、知れきったことだ。
 すると、自分は、いったいだれのために彼を採用したのだ?
 むろん費の人民のためではない。子羔自身のためでもなく、
費のためでもないとすると……)
 彼はここまで考えてきて、もう孔子の前にいたたまれなくなった。
 なんとか機会をとらえて逃げ出す工夫はないものか、と考えた。
 向こう見ずの彼だけに、いったん反省し出すと、
矢も楯もたまらないほど恥ずかしくなるのであった。

 その時、孔子の顔が動いた。子路にはそれが電光のように感じられた。
 孔子の声は、しかし、ゆったりと流れた。
「()私は、議論がりっぱだというだけで、その人を信ずるわけにはいかない。
 なぜなら、真に道を行わんとする人であるか、
表面だけを飾っている人(※1)であるかは、それだけでは判断がつかないからじゃ。
 われわれは、正面から反対の出来ない道理で飾られた悪行(※2)、
というもののあることを知らなければならない。
 己の善を行わんがために、人を賊(そこな)うのがその一つじゃ。
 そんな行いをする人は、いつもりっぱな道理を持ち合わせている。そして私は、……」
 ここで孔子は、いちだんと声を励ました。
「その道理を巧みに述べたてる舌を持っている人を、心からにくむのじゃ」
 子路は、喪心したようになって、孔子の門を辞した。
 彼が体験に即した学問というもののほんとうの意味を、はっきり理解し得たのは、
それ以後のことだといわれている。

原注。
 子いわく、論の篤(あつ)きにのみこれ与(くみ)せば、
君子者(くんししゃ)か、色荘者(しきそうしゃ)かと。(先進篇)

※1注。
 偽善に、虚栄に生きながら、言葉巧みに、己が善を飾り立てる者は、
左傾メディアに支持されることもあって、人々を間違った判断へと導いていますが、
善を愛し悪を憎む心など持たず、己を高しとする、他への支配欲から、
己が善を主張せずにはいられぬ心を偽善というを今もって理解せぬ者がいるのですから、
当然そのような者は昔もいた訳ですが、現代人も見抜けない者が多いのに、
さすがは孔子様です。
 このような偽善者を見抜かれた、そしてその心の醜さを嫌われたということです。
 真に天上界の方と同じ心を持たれた方であった、真に天上界に導かれた方であり、
無知な時代にあって、倦むことなく人々を教え導かれた方であられました。※1注終)

※2注。
 悪行故に人に隙を与えないように、偽善で武装する、
不安から自分が有利な立場にあることを示さないではいられない。
 真に相手の反省を望む者は、反省した者を受け入れんが為に忠告する者は、
反省が力尽くで齎し得るものでないことを知っています。
 相手が悪であることを裁きたくて、
自らの正義を認めさせようとせずにはいられないのは、
パリサイ人・偽善者しかいません。※2注終)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法