第一部 天の教え
第三章 善我(神の心)を見失わない為に
三節 善我と偽我について

 (一) 善我(神の心)とは
「天国の証(78年8月初版)」34頁 ミカエル大王様メッセージより
神と結びつく善我とは、真に悔いなく働きかける心、 ー
即ち憐みを掛けたいと願い、与えたいと願い、働きたいと願い、尽くしたいと願う ー
それが素直な心の動きでなければならないのです。
 自己を偽り、強制することは真の善我ではありません。
 何故ならば、強いられてする行為には、何時も後で不快な気持ち、疲労を覚えます。
 その行為に喜びと満足感が付いて来なければ、それは善我ではなく、偽我なのです。
 
神と結び付く善に苦しみや、悲しみや、功名心、見栄、虚栄は存在し得ません。
 もしそれがあれば、それは偽善なのです。
 善に基づく自然な心の流れが第一です。」

「天国の扉(77年12月初版)」154頁 ブッタ様メッセージより
「自分の心の中にある善の自分、それこそが人間の心のすべてであり、
永遠不滅の生命の根本なのです。
 そして心が善我だけならば(他人の為に尽くし、愛を分け与える)、
心は清々しく浄化され、何の苦しみも起こりません。」

94年7月18日 イエス様メッセージより(未出版)
「あなた方の歩まれた道には、その時々に咲き乱れる美しい名も無き草花も、
神の愛を教える手段として与えて来たことを、どれだけの人がお気付きだったでしょうか。
 あなたの目のくもりを取り除き、清らかな水によって汚れを流してしまいなさい。
 そうすればあなた方はもう少し、天上界の者達の注ぐ愛がお解りになられるでしょう。」

「天国の扉(77年12月初版)」160頁 イエス様メッセージより
「私は神の国を作る為には、どのような人が相応しいかを悟らせる為に、
山上の垂訓と呼ばれるものを説きました。

  心の貧しい人たちは幸いである。
   天国は彼らのものである。
  悲しんでいる人たちは幸いである。
   彼らは慰められるであろう。
  柔和な人たちは幸いである。
   彼らは地を受け継ぐであろう。
  義に飢え渇いている人たちは幸いである。
   彼らは飽き足りるようになるであろう。
  憐れみ深い人たちは幸いである。
   彼らは憐れみを受けるであろう。
  心の清い人たちは幸いである。
   彼らは神を見るであろう。
  平和を作り出す人たちは幸いである。
   彼らは神の子と呼ばれるであろう。
  義のために迫害されてきた人たちは幸いである。
   天国は彼らのものである。
                       (マタイ福音書・第五章三節~十節)
 
 心の貧しき者とは、謙譲なる心の持ち主で高ぶらぬ心、傲らぬ心を指します。
 己を高しとする心や行為に天国はなく、天国を見ることも作ることも出来ないのです。

 又、悲しみや苦しみ、悩みのある人は、人によって慰められなければ、
天国からの霊によって、又、導きによって救い出され、慰められるのです。
 又、心の柔和な人、穏かな人は、地上に於ける良き支配者となり、
人の心をよく導く者となるであろう。
 又、義に飢え渇いている者とは、正義を求める人で、そのようなものはないと絶望していても、
きっと天も人も、その人を満ち足らせるだけの正義が地上にもあるということを、
その人に知らしめるでしょう。
 憐れみの心を多く持つ人、これは慈悲の心から出るものです。
 そして、その人が苦境に陥った時、人から憐れみを受けるでしょう。
 そして心の清い人だけが、神を見ることが出来る、
即ち、自惚れや自我、増上慢、自己顕示、憎しみ、姦淫、平和を壊すもの、その他すべて、
人間として持っている隣人愛の齎すもの以外の感情を取り去らなければ、
天国からの使いも、神も見ることはないであろう
と言ったのです。
 平和を作り出す人は勿論、地上に神の国を作るのです。
 それ故、真の神の子と見做される資格があるのです。

 また正義の心を持ち、信念を持ち、正しい事の為に迫害を受けた人々、
キリスト教では多くの殉教者が出ましたが、それのみでなく、
他の正しい思想の為にも人から誤解を受け、迫害された人々はすべて、
天国に来るべき人であり、又、天国を代表する人達です。
 即ち、自己を犠牲にして、他に尽くす愛の心がそこに在るからなのです。
 私が、律法に苦しめられ、愛を失い、罪の中に生き、

神に見放されようとしていたユダヤ人の為に、 十字架につけられ、
その罪の贖いとなり、神の救いを人々に分かち与えた意味も、そこに在るのです。

現象テープ№17 ①「愛について」より
 79年12月23日 イエス様現象

「私も又普通の人であった。
 そして普通の人として生を受け、そして神により、三十歳になった時に啓示を受けてから、
神の子であると自覚しました。
 神の子であるというのは、神より法を授けられた者、
地上に法を広める者としての自覚※1なのです。
 そうでなければ何の意味があるでしょうか。
 私が初めから、生まれた時からあなた方と違う人間である、神の子であると、
実在の人間とは違う人間であると、何か神格化された人間であると広められていたならば、
何の価値がありましょうか。」

※1注。
 人が神の心に目覚めることで、神の子になるのです。
 初めから神の子としての自覚を持って(神の心に目覚めて)生まれて来るのではないのです。
 そのような者はおりません。
 ブッタ様ですら三十歳になるまで真理を悟れぬ為に思い悩むようなこともなく、
何不自由することのない王子として生きて来られたと証されております。
 人は合体霊に導かれ、共に天への道を行くことで、
善なる意識に生きる神の心が自覚されて行くのです。

 善なる道を求めることよりも、苦難から逃れる道を求める者は、
その求めが神の救いの御心に相応しくないことを理解することなく、
平安に生きられるのは神の加護を受けるに相応しいからと自惚れるような心に
善我が育つこともなく、神の思いを感受する心の開発されることもなく、
そのような魂は神と縁なき世界を生きることになります。

 苦難から苦しみから逃れることだけを思う自己保身に生きんとする本能の前に、
あらゆる徳を忘却することなきよう、
真の救いの道を行かんとする理性を育てる為に、
善に生きる強い精神へと導く為に、
心の中から合体霊が愛の、善の想念を伝えてこられました。
 神の心を育て、徳に生きる者に、
神の子であることを自覚する、神の心に目覚める時が訪れるでしょう。

 ラファエル様も仰しゃってられるように、
美しい心に、イエス様のような心になりたいと望むだけならば、
今心にある善なる思いに心が動かされないようでは、愛も働き掛けることがないならば、
愛を求める人の思いも心に伝わることのない、心の盲いたままで終るであろうと言うことです。
現象テープ№21 「原罪について」より
 80年4月13日 ラファエル様現象

 何よりも自分が立派になろう、きれいな心になろうとすることよりも、
きれいな心でいることを望むことです。
 自分はこうなりたい、ああなりたいと願うよりも、まず自分がそういう心でいること、何よりも、
何時も何時も他人のことを願う人間であってほしいのです。※1注終)

"善を愛する心"
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」28頁
「善に対する怠惰は極めて大きな欠点である。
 恐らくあらゆる欠点の内の最大のものであろう。
 というのは、この欠点には何の取り柄もないからだ。
 それにも関らず、多くの人々は、自分の場合にも、他人の場合にも、
この欠点をさほど重大視しない。
 それは、この欠点が純粋に受動的(善の必要の生じることが善の為される(必要)条件)
であって、時には容易にそれを見破られない所為である。
 人が全く賢明でさえあれば、善行の為に出来るだけ多くの機会を望み且つ求めるであろう。
 ところが実際には人々はそういう機会を寧ろ避けているのだ。

 そこで我々は天国を、善行に対して無制限の機会を与えてくれる場所だと考える。
 勿論そこには善行に対する無制限の力と喜びが伴っているのである。

 これと違った天国など、凡そ思索する人間には、天国とは言えないであろう。
 時に休みたくなる欲望など、全生涯を満たすことは出来ない。
 まして永遠の生活を満たす訳にはいかぬ
※2
 それは只一時の感情に過ぎないのだ。
 それと反対に、目の前に何ら為すべき善がなく、また善を為す力も欲求もないということこそ、
それだけで既に地上の地獄だ。
 この地獄に落ちて、あたら貴い生命を抱きながら、多くの人々は酔生夢死に終るのだ。」

※2注。
 現象テープ№23 「心の美は」より
 80年5月11日 ガブリエル様現象

「私達が何億年もの長い年月を耐えてこられたのも、
偏(ひとえ)に人の幸せを考えてきた為でした。」※2注終)

「現代訳 論語(季氏第十六の一一)」下村湖人訳
「孔子が言われた。
『善を見ては、取り逃がすのを恐れるようにそれを追及し、
悪を見ては、熱湯に手を入れるのを恐れるようにそれを避ける。
 そういう言葉を私は聞いたことがあるし、また現にそういう人物を見たこともある。
 しかし、世に用いられないでも初一念を貫き、正義の実現に精進して、道の徹底を期する、
というようなことは、言葉では聞いたことがあるが、
まだ実際にそういう人を見たことがない』」

第一部 天の教え
第三章 善我(神の心)を見失わない為に
三節 善我と偽我について

 (二) 偽我から救われる為に
 人に幸福を齎すものが善。不幸を齎すものが悪。
 人の幸福を願い、人の幸せを己れの幸せと喜ぶ心を善なる心・神の心と言われます。
 善と悪が相容れないように、善に生きる者と悪に生きる者は相容れない。
 善と悪は一方が他方を征服するために戦うものと天は語られます。
 寛容という名の下に、共にその存在を認めるという考えは、
善にも悪にも干渉されない中間地帯があるという認識です。
 彼等に、神の力も悪魔の力にも屈しない何があるというのでしょう。
 悪を許す善など善ではないのですから、善も悪も認めるという彼等に、
真の善を理解出来る智恵はありません。
 己が心の内に神の心を望むならば、無意識であろうと、自己欺瞞であろうと、
神の受け入れぬ心を隠し持つことを許してはならないのです。
 
悪霊は、私達の偽我にしか働きかけることは出来ません。
 善我を滅ぼすのは、己れ自身の偽我に他ならないのです。


 人間が自己保存の本能を持つ以上、何時も偽我の芽が出るのです。
 その心を摘まねば如何に醜い心になるかは、幾らでもこの世に見出せるでしょう。
 あらゆる生命を繋ぎ止める調和という自然界の法則は、
その法則に従う知恵を本能に刻み込んだ生き物にのみ、自然界に種を残すことを許しました。

 人類は、本来の本能の力を失った代わりに得たものが、考えることであり、
自然の業(調和)への認識、 理解であり、調和を作り出す知恵なのです。
 自然との調和を破壊しても欲望に従い、
その制御の為に与えられた理性に従おうとしない者が偽我に生きる、滅びに向かう者なのです。
 調和に生きる喜びへ導く理性に従う、
善我に生きることが自らを救うことであると、神々は教えられるのです。

 神と言われる聖霊は、彼等を守る者も、その思いを知る者もいない中で、
魂の危険を冒して人類を守り、真の幸福に繫がる道へと導いてこられたことを、
その為に彼等自身が転生されてきたことを、今まで証されることはありませんでした。

神の意志が臨む(その業を為そうとしている)者が知れると、
必ずサタンが試みという名目で、破滅させようとしたからです。
 また本人が慢心しないように気遣われた為でもありました。
 己を誇らぬ謙虚さが聖霊の本質であることを理解し得ぬ故、
天使とは人に仕える為に神の作られた被造物であると、
さもそれが天の秘密とされた真実であり、
選ばれた者だけが知らされているのだと得意に語る(統一教会の)信者が居りましたが、
デタラメもいいとこでした。

 この世を地獄に変えるサタンの企みの前に、自ら立って阻止されてこられたのが彼等でした。
 そのような危険の中で神の法が伝えられたのです。
 彼らが証さなかったとは言え、守護する義務など無い、ただ愛から救おうとされてきた彼等に、
神様に出来ないことはないからと、
お祈り(お願い)しさえすれば良いと自らは何も努力しようとしない人々に、
同じ人間の心を持つ彼等がどれ程悲しく、情けない思いに耐えていられるか、
全く省みられてこなかったのです。

 自分の魂を救う為に、神に祈り求めてきた者が、
魂の永遠の生命を保障するという悪魔の申し出に、
神を裏切り、悪魔と共に天に刃向ったのです。
 神への信仰が、人の心の何処に根差したものであるか。
 神の愛を裏切る冷酷さを天は痛感された。
 天国に席を置きながら、悪霊と化した善霊の、ユダの如き仲間への裏切りで、
真の善霊の多くの多くの命を、天は失ったことを証されました。
 神は二度と愚かな霊を天に迎えないと誓われました。

「天国の扉(77年12月初版)」141頁 ラファエル大天使様メッセージより
「健全ということの尺度はこれもいろいろあるでしょう。
 私達天上界の者の尺度から見れば、多くの人は不健康な生活を送っていられるのです。
 それは多くの場合、社会の階級と、制度と習慣や様式と、
一番根の深い偏見という病気に冒されて、人間の魂の自由とは何かを見失っているからです。
 次いで、人間の魂の自由を奪うものは人間の欲望と虚栄心と執着なのです。
 それらが人間を地上に縛り付ける鎖であり、

天国を遠く隔たせる空と大地のクレパス(割れ目)なのです。

 そのような鎖に縛り付けられた方々は、どうやって天国へ来ることが出来るでしょうか。
 勿論、自由を奪う鎖を断ち切らなければいけないことは、言うまでもないでしょう。
 さて、そのような鎖を断ち切る為には何が一番近道でしょうか、考えてみて下さい。
 まず、ブッタ様の説かれた八正道があります。ブッタ様の章が後の方に出てきますが、
それは如何に物事の判断の基準を正しくするか、という方法について述べてあるのです。
 正しく見、正しく思い、正しく語る。
 この三つが物の表面的な表れ、及び内面的に隠されたものを同時に判断し、
正しく行動する上での基準にする為に必要な心構えです。
 後の五つはブッタ様の説明されたことを読んで理解なさって下さい。
 ここではこの三つだけが必要なのです。
 そして、ブッタ様が説かれた慈悲とイエス様の愛の心を加えるのです。
 その五つが揃えば、先に述べた鎖を断ち切り、天国へ行くことも出来、
又、地上に楽園、ユートピアを作ることも可能なのです。」

「天国の証(78年8月初版)」86頁 ガブリエル様メッセージより
「誰でも私に付いてきたいと思うならば、
自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。
 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
私のため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。

 人が全世界を儲けても、自分の(永遠の)命(魂)を(神の心を)損したら、
なんの得になろうか。
 また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことが出来ようか。
 邪悪で罪深いこの時代にあって、私と私の言葉を恥じる者に対しては、
人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使達と共に来る時に、その者を恥じるであろう。」
                      (マルコ福音書第八章三十四節~三十八節)

「慈悲と愛」80年1月号11頁 (天上界の教え)
「偽我を浄化するのは、ひたすら反省し、それで正しいかどうか、
自分の心の在り方が誤っていればどのように、又どうあるべきであったかと正定を行い、
正思への習慣を付けることが浄化の段階です。
 そして善意を持つこと。
 常に善意が悪(意)に先行するべく自らを矯め直し、厳しく鍛えてゆくのです。
 善我には如何なる虚栄も、我欲も、我執も、嫉妬も、優劣を競う為だけの競争心も
(これは顕示欲と深く関り合っています)、存在してはならないのです。
 それが出来ないようでは義人とは定義付けられません。
 己を忘れて他に尽し、(儀礼的にサービスするのが滅我の行為と勘違いしますがそうでは無く)
他の幸福を祈り、他の苦しみや迷惑さえも思い遣る事です。
 そして正法流布の協力とは神の御意志を、代行する者として、
世の悪をすべて一掃する気構えを以て為して頂く心です。

 これは善我に立って強く生きるという事です。
 こういった種々の努力から真理を即座に見抜く正見、正思が自ずと培われてきます。
 それも浄化の過程です。」

〖備考
 偽我とは何か、その心にある者には理解されず、
人を傷付けて顧みぬ心の内に留まり、
そのような自分を愛する為に生きんとする心です。

 善なる心とは、人の内にあるものと知らされた、神と同じ(故に真の神に通じる)心です。
 この世に神の国を作る為に生きることと、
自らの心を神の心に近付けようと努めることは、
同じ一つの善なる心から来るものであることが理解されると思います。

 神の国を作ろうと努力しても、自らが神の国に生きるに相応しい、
真に愛すべきものを愛する神の心を求めようとせず、
偽我に生きていることも悟れず、神の国に入るに値しないとされるようでは、
神の愛を説きながら、自己愛の内に生きていることの悟れぬ宗教家と変らないのです。〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法