第一部 天の教え
第三章 善我(神の心)を見失わない為に
二節 内なる悪との戦い

 (一) 偽我との戦い
94年7月18日 ブッタ様メッセージより(未出版)
「私が曾て肉を持つ身であった頃、カピラ城を出る前も、そして自らの意志で出家した後も、
心の葛藤は続き、様々な難行苦行の末、
辿り着いた安心立命の境地は、とても言葉では言い尽くせぬ喜びでした。
 しかしその喜びも、己を甘やかさず、僅かな偽我の芽も意識して取り除かねば、

忽ち雲散霧消してしまうのです。
 この繰り返しを経ても前進しようとする強い意志を持てた時、
私は己の心に克つ勇気を得たのです。
 取り払っても、捨ててしまったはずの偽我の芽が、心の隙に執拗に忍び込むのは、
自分の周囲の人々の悪に踊らされた姿による誘惑と、
意志の弱さに負けてしまうからなのです。
 正しきを知るならば、この悪戦苦闘は避けられない筈です。

 人間の心は弱い。
 しかも己が肉の身の、需めそして意の虜になったが最後、
遂にはその身を永遠の魂と共に滅してしまうのです。
 毎日、世間を騒がす事件の原因もそこにあるのです。
 それだからこそ、"正法"を知らず、迷妄に取り憑かれた人々を正しき本道へと導き、
盲いた人々の心の眼を開かせ、魂の救いに与れるよう、手助けする人々が必要なのです。
 それをする人々が"正法者"と呼ばれるのです。
 自らの経験を通し迷いにある人々を理解し、助力出来るのは、
同じ苦しみを味わった人でなければ、どうして出来るでしょうか。

【現象テープ№23 「心の美とは」より 
 80年5月11日 ガブリエル様現象
あなた方は、他人の苦労を知った時のみ、他人の幸せを考えることが出来る。
 又、他人の苦労を知るためには、自分も苦労しなければなりません。そのようなものです。


 一人一人の置かれた立場と経験による知恵と協力が相互に必要なのです。
 一人の人間としての一生には限りがあるのです。
 しかし、互いに老若男女の違いを取り除き、学び合えば、
どれだけ多くの知恵ある者が育つでしょう。
 皆様方の抱えている諸問題を、天の正しき法に基づいてのみ解決出来る方策を生み出し、
それを直ちに実行に移され、
そして皆様お一人お一人がその使命を全うすることの出来るよう、成長されますには、
天上界から、愛の鞭としての厳しき叱正と苦言とを喜んで受けて頂きたいと思います。
 己の生活の維持にのみ心を奪われず、地域社会や延いては日本という国を含む、
地球全体にまで考えを及ぼし、行動をしなければなりません。

 私はこのメッセージを受け取る人々に
もう一度"正法者"と成られる為のチャンスを与えたいのです。
 あなた方をこれまで導くために努力され、
そして天上の戦いにおいて無念にも亡くなってしまわれた人々の想いに気付いてほしいのです。
 一言の言葉も交わされる事無く、只、あなた方お一人ずつの意識に呼びかけられ、
誕生の時より共に苦楽を味わわれた方々なのです。
 その方々の意志を受け継ごうとは思われませんか。

 望むらくは、己が身を清く正しく保ち、各人の身辺をきれいに片付けられ、
私達天上界の下に、集って来られることを願っております。」

注。
 低劣なメディアによって伝えられる世界、
人の(心の)生きる唯一の世界、人の心を満たす世界であると、
偽りの光に浮かび上がる堕落への道、
虚構の舞台のスポットライトに心奪われ、魂を奪われ、
地獄の世界へ、炎の中を自らを焼き尽くす夏の虫のように消えて行く。
 地獄の門を入って行く人々を見るダンテに聖霊は語りかけた
"彼等について語るのを止めよ、汝、ただ見て過ぎよ"
 注終)

「JI」81年7月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」138頁

「あなた方自身の心の内を省みた時、少しの曇りもない状態が続くということがありますか。
 恐らくないでしょう。
 浮かんでは消え、消えては浮かぶ偽我に悪戦苦闘している筈です。
 何故悪戦苦闘するのか、出来るのか、それは正しきものを知るからです。

 これを魂の研磨と言います。
 ユートピアもこれと同じです。

 社会の規範、常識が正法となることを言うのです。
 狭い範囲しか見えず、限られたものしか分からない現身(うつしみ)故に、
判断の誤りもあるでしょう。
 そういった時に、正しい方向に修正出来る健全な状態なのです。
 正に天上界とは、この意味でのユートピアです。」

第一部 天の教え
第三章 善我(神の心)を見失わない為に
二節 内なる悪との戦い

 (二) 悪霊に支配され易い性格
「慈悲と愛」80年1月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」82頁

「(悪魔の力を背景に事を企てたイランのホメイニに言及されて)
 私達が彼の行動を見る時、この国(日本)にあって私達天上界に反逆し、
他を扇動する者に奇妙に一致した感情の上下が現れ、何かに駆り立てられるものの如く、
些細な論拠と論旨を振りかざして世の正義と秩序を乱し、省みない高ぶりと、
形勢が自らに有利とならないと悟る場合の一時的な平静の波があることを解します。

 これは病的な性格の特徴でもあり、理性に基づいて行動しないタイプの人間が、
悪霊の支配下にあって示すパターンでもあるのです。
 何ゆえ悪魔や悪霊の支配であると見るかは、
その歪められた感情が単に本人の世界のみで表現されるならば、
あのような激情が持続し、他の同様の性格を持つ人間
(若者の場合も情緒が不安定で病的になり易い)の異常性を
引き出すだけのエネルギーを持ち得ないからです。

 この点から見て、悪魔や悪霊は扇動し、支配し易いタイプ ー 
感情的な、無定見な、且つ情緒の欠乏せるものを選ぶ
ということが明らかであり、
反面理性的で、真理に対して柔軟な姿勢を持つ性格は支配し得ないということがお判りでしょう。
 勿論自らの意志で以て心の浄化を図る人間でなければなりませんが。

 感情も容易に表さず、抑圧する、つまり魂も知性も自由でも柔軟でも無く、
偏見や完全癖や頑固な思考の表れを示すタイプも、
本人は穏やかで、心乱れず、理性的であると考えているかも知れないが、
実は感情的な人間であること。
 不安感情で理性や知性の柔軟な働きを阻害しているに過ぎないこともお教えしましょう。
 このようなタイプも悪霊の餌食になって誤った説を流し、世の災いとなるのです。
 非常識な言動が見られ、変人視される人物もあります。
 如何にも賢明であるような表れに反して、己の愚行を悟れない人物もあるのです。

 これが只一説のみに固執し、譲ろうとしない左翼思想家(穏健派も過激派も含め)
狂信、盲信の宗教家及び信者の背後に悪霊の跳梁ありと断定する所以
(ゆえん)でもあります。
 はっきりしたイデオロギー、信念を持たずとも、理性に乏しく、
感情的に自己表現をする扇動家のタイプも同じ事が言えるのです。

 感情がプラスに働くのは、情熱や熱意が正しい方向に向けられた場合のみです。
 且つ情緒が安定し、理性の働きとのバランスが取れている場合にのみ、
悪霊支配から安全圏にある
と言えるでしょう。


 これが結論として、現象、証、奇跡の如何を問わず、
背後の悪霊の有無、動きを把える方法であり、智恵であるのです。

 真正のものと偽物、預言者と偽預言者、メシヤとその偽者を見抜いてきた、
私達の方法でもあるのです。
 真理によって、理性によって、悪霊の罠に陥らないパニャパラミターそのものなのです。
 正しいものを愛すること。真理を愛すること。
 それが永遠に私達、唯一の天を見失わぬ生き方です。
 たとえ私達の声が悪霊や闇に住む人々に妨害され、聞えぬ日々があったとしても、
この心を持ち続ける限り何時如何なる人を介して私達が法を、或いは啓示を与えようとも、
それを必ず直感し探り当てることが可能なのです。

 偽の啓示、偽の現象、偽の奇跡に少しも惑わされること無く、
光を正しく感知する能力を持ち続けるのです。

〖備考
 曾てある小学校に侵入した者が、児童を次々と襲う事件がありました。
 怒りと憎しみの炎となって、自らも死刑によって焼き尽くされることを望んだのです。
 自らの邪心を満たさんと悪霊が働きかけました。

このような大罪を犯す者の心は、その前から悪霊の支配下にあります。
 大罪が起きる時は、多くの悪霊がその邪悪の限りを尽くさんと、
血を求めて暴れまわるのです。
 悪霊に憑依され大罪を犯した者への天の裁きによる消滅は、
彼に悪を為さしめた悪霊に成り果て、
自分と同じ罪を人に犯させることからの救いとなるのではないでしょうか。

 サタンに魂を渡し、使徒として選ばれたイエス様の信頼を裏切ったユダについて、
イエス様はユダは生まれて来ない方が良かったと悲しまれました。
 大罪を犯す、己が魂を悪魔に渡した者は、絶望だけが魂に残されるのであり、
神による消滅こそ永遠の苦しみからの解放であり、神の慈悲と言えるのではないでしょうか。

 死刑反対を唱える人々は、慈悲の積りなのでしょうが、
悪に負け大罪を犯した者の絶望が理解出来ない、自らの慈悲に溺れる人達なのでしょう。
 天への導きを得ることのなかった者、
平和を幸せを齎す為に愛に、善に生きる精神へと導く(真理、徳の)道を示されることなく、
精神の堕落の道へと導かれて来た、偽我を育て罪に染まった魂に、
真に神の慈悲に与るべき人々を地獄に蹴落とした者に、
神の救いに与る心が残されていると信じる
〖自らの善なる心を破壊しない限り不可能と思われる罪を犯した心に、
どういう(人間の心が条件反射であることを否定する)根拠で、
罪を悔いる善なる心が残されていると信じられるのか理解出来ませんが、
彼等に善を求める心が生きていると仮定して、
改心してゆくとは、罪の重みを実感してゆこということでしょう。
 神の愛される者の命を、その精神(魂)を破滅させた者への神の怒りを、
やがて思い知ることでしょう。

 神に許されることなき魂であることを、
己が肉体の滅ぶ時、魂も滅ぶ者であることを悟ることでしょう。
 大罪を犯した者を改心させるとはそういうことなのです。
 彼等を延命させてどのような救いを与えられると考えるのか〗、
神の愛を拒んだ魂を更生させるような愛が存在すると、自分達に与えることが出来ると、
死刑を支持する者に真の慈悲心を知らしめねばならぬと、
己が愛を誇っている彼等こそ、偽りの愛に溺れているのです。
(悪を憎む神の心を、神の法を知らず)彼等自身が神の救いを求める心を持たぬ、
自らが、この世の法が、悪魔に導かれた魂を救い得ると考える、
悪魔に支配されていることも覚れないのです。

 悪霊は支配し易い(偽我に生きる)者を選ぶのですから、
内なる偽我に悪霊が働きかける時、
善なる心を信じてきた者が、真の自分である善我に立つことの出来た時、
悪霊は支配し易い他を求めて出て行くことでしょう。

 悪霊に、偽我に負けない善我を育てる為の教育を、
道徳(徳とは何か)、倫理(人の生きる道)を、
子供の自主性を、自由を奪うものであると言って教育させなかったのは、
他ならぬ(日教組などの共産主義者である)教師でした。
 そのような赤化教育が、誰もが与えられるべき神の心(善我)を
摘み取って来たのです。

 人を間違った方向に、罪を罪と思わぬ心へと誘う者に、
人を導く資格はありません。
 罪を犯した者よりも、罪を犯さしめた者の罪の方が遥かに重いのです。
 真理に目覚めた者に導かれたなら救われたであろう者が、
盲(めしい)に導かれたばかりに、真理の道を失うなら、
道を誤らせた者の罪は計り知れないと聖書に記されています。
(現天上界は、天に背反するよう人を誘う者には、一切斟酌せず消滅の極刑を科します)

 左翼(日教組)に人を導く資格を与えてはならないのであり、
左翼に従って罪に堕ちた者は自業自得(犠牲者では通らないの)であって、
犯罪者に過ぎないのです。備考終〗

"悪(霊)に対する心構え、及び悪霊に付け込まれ易い心について"
「希望と幸福(ヒルティの言葉)」16頁
「何かにつけ怒りを抱く間は、その人はまだ自分を制御(マスター)していないのだ。
 すべての悪に対しては、平静な抵抗が、最もよく勝利を収める。

(注。悪に負けてはならないとは、悪魔の目論みに乗せられ感情的になって、
理性を見失うようではいけないということです。)

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」25頁
断固断念すべきもの。復讐、憤怒、貪欲、怠惰、虚偽。

現象テープ№4 「ある日の高校生クラスの討議より」
 77年6月23日 ミカエル大天使長様現象(霊媒 土田展子)
 (「天国の扉」89頁掲載)

高校生S そういう(地獄に落ちた)霊は助けて上げることは出来ないのですか?
ミカエル 貴女がもし助けようとすれば、貴女に憑依しますよ。
     何故なら、彼等は人の心の暖かみというものを忘れてしまって、
    ひたすら自分だけが助かりたいという目的で貴女に憑依します。
     あなた方のように光の出ている人達は、特に憑依され易いのです。
     しかし、あなた方が善の心を持っているので、長い間は憑いておりません。
     何時の間にか離れてしまいます。
     そういう浮遊霊、詰り迷っている霊の処置は、天上界の者に任せなさい。
     なまじっか救ってあげようと考えると、大変な目に会いますよ。
     あなた方は、まだ善霊と悪霊の区別が付き難いので、そういうことは危険なのです。
     止めて下さい。
その為に諸天善神という光の天使がおります。

    (注。邪念に心を支配された者に、心を許してはならない、
    善意から向けられた人の優しい心に、彼等は冷酷な心で憑依してくるからです。

高校生T それでは悪霊に憑依されたと解ったら、どうして取れば良いのですか?
ミカエル まず、自分の心をきれいにしなさい。
     悪いことをしたのなら、それを反省して悔いなさい。

「JI」84年4月号初出 ミカエル大王様メッセージより
(「天上界メッセージ集(84年7月初版)」184頁掲載)
「悪霊の世界などあなた方が関り合って、戦う必要もなく、又、その能力もないことは、
天国シリーズの第一巻『天国の扉』からお話ししております。
 人間と霊が戦うことは映写幕に写る映像と戦うに等しく、
破れ壊されるのは、布幕(スクリーン)であり、部屋の壁でしかないのです。
 悪霊は虚像を幻燈のように三次元の物体に写して見せるか、あなた方の網膜に刺戟を与え、
頭に中に描き出すしかなく、善霊とて同じ手段しか取り得ないのは、
私が霊に関して詳しく説明したことで理解しておられると思っておりました。
 ドン・キホーテが水車と戦う如く、人間が霊と争うと惨めな結果にしかならないのです。

 私達が悪に譲るな、悪霊に負けるなと言う時は、
心で相手の操りに乗じて愚かなことをするなという意味で、実際に戦えと言うことではないのです。

 実際には空気のような相手と戦うならば、あなた方は狂人にしか見えません。
 他の人に見えぬ幻と格闘するほど愚かしい姿はないのです。
 それを冷めた目で見、自らの理性を働かせる位の大人であってほしい。
 そう願って、霊のすべてをあなた方の前に明らかにしたのです。


 そして憑依があればその度に私達に千乃裕子を通じて除霊を願うように言いました。
 その度に何度でも。
 何故ならば、私達にしか悪霊を消滅する力がないからです。
 除霊は天に頼む以外に方法がない
と申しました。
 霊に関して、又、正法について、
浅い理解しか示していない読者以上に浅薄な正法者もかなり多いことを知り、
改めて、既に何度もお話ししたことも含めて説明致しました。」

「天国の証(78年8月初版)」112頁 サリエル様メッセージより
「多くの人々は高橋信次氏を通して迷える霊を救う為、
慈悲と愛の言葉を掛けるよう天上界が指示した

それを唯一絶対の除霊法と信じ込んでいられる所に誤りがありました。

(注。悪なる魂を救おうと手を差し伸べた者が、地獄に引き摺り込まれたのです。
 木乃伊(ミイラ)取りが木乃伊になってしまったのでした。
 自らの悪に苦しみながら善なる心に生きんと、
神に救われることを心から願っている者に救いが差し伸べられるのであり、
彼等に勇気を与えられる者とは、彼等が信じるに値する、
真に善なる心に徹して生きる者だけでしょう。
 そのような者の愛だけが救いに与るに値する者を知るのです。)」

 悪霊に憑依された者とは、
それまでの本人の自我意識を支える脳(神経細胞)の働きが抑えられ、
精神力の勝る悪霊の意識に変えられるのであり、
自分自身である自我意識を齎してきた心(条件反射)を失って行きます。
 自我を在らしめてきた脳(神経細胞)が不活性化し、
悪霊の心と同調することで同じ条件反射が活性化する、
悪霊と同じ心の自我が作られて行きます。

法律は正しい道を行こうとしている者の指針になるものであって、
他を生かそうとする愛のない者に、正しい道を歩かしめるものではありません。
 自分を在らしめた、あらゆる善き思いを断ち切ってまで、
悪なる道に足を踏み入れる者は、正しい道を歩んだであろうそれまでの自分を
捨て去ってまでして求めるべきものであると思うのでしょうか?

 欲望の対象となるものが現れると、欲望が理性に取って代わる、
その条件反射を繰り返すなら、パブロフの犬と変らない心(世界)に生きているということです。
 それで満足するのなら、理性も神の心も意識から完全に消失されるでしょう。
 本当にそれで構わないと思うのでしょうか?
 人間は動物と違って肉体が成長するだけではない、言葉を、考えることを学ぶことで
理性を宿す神の心へと成長させることが出来る種として生まれてくるのです。
 その心を開発することが出来るのです。
 それが出来るのは、この人生に於てだけなのです。
 そのように生きることを今の社会では敗北者のように蔑み、
人々に彼等の信じる価値観を植え付けているのです。

 人が正しく生きようとの思いを育てることを疎かにする社会
(魂を養うことの出来る唯一の人生を、犯罪や不倫の偽我なる心に生きた為に地獄の魂に終わる、
その愚かを伝える所か、さも魅力のあるもののように
ー そうしないと視聴率を取れないからですが ー 思わせるドラマを公共放送の場で見せる、
そのようなものを大企業が(スポンサーとなって)薦めている訳です)に、
欲望に生きる者を生かす社会に適応してきた者は、
悪を為さないことよりも、法に触れないことを考えるようです。
 それが偽我であることが、悪霊に繋がる心であることが解らないのです。

「現代訳 論語(為政第二の三)」下村湖人訳
「法律制度だけで民を導き、刑罰だけで秩序を維持しようとすると、
民はただそれらの法網をくぐることだけに心を用い、
幸いにして免れさえすれば、そこで少しも恥じるところがない。
 これに反して、徳を以て民を導き、礼に依って秩序を保つようにすれば、民は恥を知り、
自ら(の善なる心に促されて)進んで善を行うようになるものである」

〖参考
「清らかな厭世(2007年10月出版)」94頁 阿久悠著 
"善人には壁ばかり見え
 悪人には隙間ばかり見える
 それが法律だ"
「法律は必要悪だと思っている。誤解を生むかも知れないが、法律がなくても秩序が保たれ、
善が保護され、棲み分けの知恵が授かるとしたら、それがいちばんいいということである。
 ただし、人間というのはそうそう大人しいものではないので、
いろんな制約を加えないと共存が出来ない。その制約が法律である。
 神のような心の持主だけなら不必要な、必要悪であると考えても間違いではないだろう。

 人と人でも国と国でも、この必要悪を中に置いてつきあっていく。
 ただし、しばしばこの「必要性」の解釈の違いで揉めることもある。
 そうなるともう、すっかり無力になってしまい、
声の大きさや力の強さを誇る人や国の必要性が採用されることになる。
 こんなことは裁判やら外交やらで見せつけられることである。
 だから、ぼくらは時々虚無的になり、信じられるものは何なのかと、
叫んでみたりするのである。
 ただ、残念なことは、虚無に力なく、諦観に逃げ込んで心を鎮めるしかないというのが実情だ。
 そんなことをいいながらも、ぼくらは法律の存在を信じなければならないし、
法律の基準に守り守られして生きるしか方法がないのである。

 それにしても、法律というのは実に不思議なもの、
考えようによっては、魔女の文章とさえ呼びたいものである。
 現代社会は無数の事件によって構築されている。
 かつては、社会は文化や善意で構築されたものだが、いつの間にか、
事件と悪意で組み立てられるようになった。それらの認定を法律が行う。
 だから、ぼくらは日常法律書に馴染んでいないけれど、法律の意味するところは知っている。
 そして、この文章の悪魔性に気がついて愕然とするのである。それはこういうことだ。
 心理試験にこんなのがある。白黒組み合わせの絵で、
白の部分を意識して見ると、接吻しようと唇を近づけた横顔が浮き立ち、
黒の部分を凝視すると大盃に見えるというものである。
 その一枚の絵を白黒どちらで見たかで、何らかの分析をする。

 ちょうど法律というのが、それと同じに見える。
 法律の真理は一つであってもらわなくては困るのに、黒で読む人と白で読む人がいる。
 また、そのように読める。
 自分のことを善意の、というのもどうかと思うが、
ぼくが法律を読むと、「これをしてはならない」という壁ばかりが道を阻むが、
全く別の素質の人には、「ここまでやっても罪にならない」という、
隙間ばかり見えるらしいのである。

 そして、現代では、この「隙間論」が多数派のような気がしてならない。
 壁は隙間を教える道標のようなもので、まるで傍若無人の使い方をして勝者になっている。
 これでいいのだろうか。ああ虚無。」参考終〗

現象テープ№19 「宗教と人間の関係」より
 80年3月9日 ガブリエル様現象

「人間の生活には内的な面と外的な面があります。
 言い方を変えれば、公的な面と私的な面とも言えるでしょう。
 外的な面を司るのが社会生活であり、又その行動を規範するものが法律と呼ばれるものです。
 では、内面生活はどうでしょうか。
 内面と言われるもの、それを司るものが宗教と呼ばれ道徳と呼ばれてきました。
 何故、道徳や宗教が必要になるのか、
内面的な生活の規範が何故必要になるのか。

「宗教の発生の根源には、未来に対する不安から来る、確信を得たいという気持ちと、
それからもう一つ大切な最も忘れてはならないもの、行動規範ということでした。
 何故行動規範が無くてはならないのか、何故法律だけで、人間は規制出来ないか。

(注。内なる悪を規制する心を忘れてはならないということです。)

 人間は知性を持つ事が特徴です。
 知性というものは善性と結びつけば素晴らしいのですが、
欲望と結びついた知性というものがどのように恐ろしいか、もうご存知でしょう。
 現在はその危機に晒されているのです。」

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」33頁
「悪人が受ける罰の主なものは、彼ら悪人が善心に立ち返った瞬間に、
よりよくなろうと願っても、もはや善の道に帰ることが出来ない
(悪の思考の誤りを糾し善なる思考(正思)を獲得することが出来なかったからです)
という点にある。
 彼等は、何時までも彼ら自身の低劣な本質の奴隷として留まらなければならない。
 彼等は本来の収穫を上げることもなく、来世の希望もなしに、
その生命を失わなければならないのだ。
 彼等にとっては、来世など、ただ恐怖の種でしかあるまい。

 しかし、只それぐらいの罰では、善人がこの世で数々の苦難を嘗め、
困苦欠乏に堪えているのに対して、十分釣り合いが取れているとは思われないというのなら、
読者よ、その時には次のことも計算に入れて見給え。
 即ち悪人は、人間の愛と誠実という、凡そこの世の提供する最善のものを
我が身に経験して味わうことが出来ないということだ。
 愛と誠実がなければ、それ以外のどんな財宝も、それをふんだんに持っている人にさえ、
大変つまらないものに思われるであろう。
 誰をも愛せず、誰からも愛されないような者は、
たとえ普通の解釈で幸運児と言われる人であっても、実は哀れな見捨てられた人である。
 これらの不幸な人達は、時に彼等に寄せられる愛をさえ理解し尊重することが出来ず、
その愚かさ故に、必ずその愛をも失わなければならないように、運命的に定められているのだ。
 それだから、人生最高の宝、即ち神の近くに在ることや、
立派な生涯を送れば必ず善い終りが来るに決まっているという内的確信や、
相互の尊敬なくしては成り立たぬこの愛や誠実(天上界の伝えられてきた教えそのものです)
といったものを、悪人は決して手に入れることはない。

 悪人には、幾千人の人々の嫉(そね)みと憎しみを絶えず恐れながらも、
別の財宝を享楽させるがよい(これをしも享楽と言い得るなら)、
そして君は幸福を羨
(うらや)むなかれである。
 それは大部分、他の人々が間違って幸福だと考えるからこそ、幸福に過ぎないようなものだから。

彼等について語るのを止めよ、汝、ただ見て過ぎよ(ダンテ地獄篇第三歌五一行)。』」

「現代訳 論語(顔淵第十二の一)」下村湖人訳
「顔淵が仁の意義を尋ねた。孔子は答えられた。 ー
『己に克ち、私利私欲から解放されて、調和の大法則である礼に帰るのが仁である(克己復礼)。

(注。調和を齎す神の法(正法)に帰る(生きんとする)のが神の心(善我)です。)

 上に立つ者がひとたび意を決してこの道に徹底すれば、
天下の人心も自ずから仁に帰向するであろう。
 仁の実現はまず自らの力に依るべきで、他に待つべきではない
 顔淵が更に尋ねた。 ー
『実践の細目について、お示しをお願い致したいと存じます』
 孔子が答えられた。 ー
非礼なことに眼をひかれないがいい。
 非礼なことに耳を傾けないがいい。
 非礼なことを口にしないがいい。
 非礼なことを行わぬがいい。

 顔淵が言った。 ー
『まことに至らぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りに致したいと存じます』

(注。昔、大手新聞は自分たちの主張を国民の主張の如くに世論をリードする
(言論の責任も国民とする)為、読者(の声)として伝えました。
 最近はその役目も職業化(コメンテイター)されて重宝がられていますが、
それだけに留まらず(インターネット)大衆のコメント(声)を伝えることで大衆を煽る
只の扇動家(アジテーター)が今のメディアの本性のようです。
 耳を傾けないがいい類です。)」

 自信満々に自己主張するコメントから優しい思いが伝わってくるでしょうか。
 それを聞いて人にも伝えたいと、優しい思いに立ち返ることが出来たでしょうか。
 真理を理解する心は、謙虚な心であると言われるのは、
真理を理解する心を得る時、正しい思考が開かれる時、
それまでの考えが、思い込みが心を縛ってきたことが理解されるから、
真理によって心が解放される、自由な心から生まれる、
心が自由になったからこそ初めて真理が理解されるのではないでしょうか。
 真理を伝えてきた人の思いに打たれるからこそ、
謙虚な心が現れるのではないでしょうか。

 真理に生きる心、自由な心だから、
心を縛る考えが偽我(真理に目覚めぬ心)に生きる者の、
自由な思考を奪われてきた人の苦しみが理解されるのであり、
彼等の自由を願う心故に真の救いたいと、優しい思いが現れるのであり、
その思いの真なる故に、偽我に苦しむ人の真我に伝わるのではないでしょうか。
 真なる我の思いが目覚めるから、
偽りに生きてきた己を覚らしめることが出来るのではないでしょうか。

 真理に生きぬ心から生まれる考えは、人の心の自由を望まず、
自分の考えによって人の心を縛ろうとの願望を抱いてるのです。
 人の心の悪しき思いを覚らしめる光を望まず、
自分の考えが人の考えに勝ることを示すことで、
自分が人に勝るものであることを認めようとするのです。
 己を高しとする自己認識に喜ぶ自己愛を満たしたいのです。
 己が(人に勝る思考の)力の前に、
力ある者に跪かんとする卑しい心へと人を貶めることに喜びを見出す
悪魔の心に侵された者です。

 ブッタ様メッセージ
「取り払っても、捨ててしまったはずの偽我の芽が、心の隙に執拗に忍び込むのは、
自分の周囲の人々の悪に踊らされた姿による誘惑と、意志の弱さに負けてしまうからなのです。
 正しきを知るならば、この悪戦苦闘は避けられない筈です。

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」21頁
世の中には幾らか煩わしく思われる人々が沢山いるけれども、
しかしほんの暫
(しばら)く経てば、我々はもうその人にお目にかからなくなるのであり、
それから先になれば、恐らく二度と相見ることはないであろう。

 だから、我々は、せめてこの短い間だけでも、彼等に親切に接しようではないか。
 しかし、もし我々が更に永遠に彼等と一緒に生き続けねばならないなら、
尚更そうする方が当を得ているであろう。」

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法