第一部 天の教え
第七章 現代に於て初めて証された真理
二節 進化について
「慈悲と愛」79年12月号初出
「法と人類と進化」清水直紀氏寄稿(抜粋)
&「エルロイ(83年5月初版)」199頁
「黒色人種は赤道直下のアフリカ大陸に発生しました。
熱帯地方の強い光線の下で裸の生活を何百年から何万年も続けると肌の色は
メラニン色素が増えて黒くなります。
私達は夏は黒くなり冬は白くなります。又一日でも日光浴をすれば肌の色は相当黒くなります。
紫外線は皮膚を強くする作用と殺菌作用がありますが、
強すぎると有害であるから黒いメラニン色素で紫外線を吸収して無害化します。
このようにして長年の赤道下での裸の生活が肌を黒くし、それが遺伝子に伝えられたのです。
環境に対する進化適応と言えます。
髪もメラニン色素により黒くなり、目の色も黒い色の方が光線に強いのです。
髪の縮れは、火の上に髪をかざすと縮れることからも推察出来るように熱に関係があります。
天上界の御意見では熱によるのみではなく、汗や分泌物や食事の内容も関係があるそうです。
多汗によって分泌されるアンモニアの量と熱がパーマネントと同じ効果を及ぼすらしいのです。
又黒色人種の、動物に見られない特徴である唇の厚みについては、
原住民の風習に見られるように、
唇を広げるような棒を突き刺したり平らな板を入れたりして異様な顔を作り、
それで威を誇る習慣から後天的に唇の形が変形して来たものだそうです。
整形手術をすると或る種のものは子供に遺伝するとも言われますがそれと同じ事です。
黄色人種は北極地方の原住民がエスキモーであることからも分かる様に寒地適応型です。
およそ百万年前から五万年前にかけて四回程あった氷河期に
(最新の氷河期は二万五千年前という説もあります)、
シベリア・中央アジア・東アジアの内陸地方に氷に閉じ込められて適応した人種です。
氷河期に生物が一変したことからも分かるように、暖房も衣服も未発達の原始時代に、
零下何十度の氷河期に原野で生存する様を考えて下さい。
最も厳しい環境の中で殆どの人は死に絶えて厳しく淘汰されたことでしょう。
アザラシや鯨のように突起物の少ない体形が寒さに最も強いのです。
体熱の発散を少なくする為には、体重に比較して皮膚表面積の少ない体形、
即ち四肢太く短く丸い体形になる必要があります。
身体全体に脂肪が付いてふっくらとなれば良いのです。顔も平面的になる必要があります。
鼻が低くなり、更に平面的にする為に眼球と頬骨と口が前に出て、
瞼や顔に脂肪が付いて腫れぼったい顔になるのです。
そして雪面の光線反射に耐えられる様に一重瞼の細い目になります。
細い目はモンゴル地方などでは蒙古風から守る為にも良いのです。
顎髭の濃さは食料の乏しさと、寒気から来る慢性の代謝障害で白人に比較して薄く、
伸びる速さも約三分の一です。
これらの地域は大気汚染も少なく植物も少ないので、
薄い大気層が紫外線を遮れずに地表近くに達する為に、
目と髪は黒くなり肌も少し黒くなります。
黄色人種と逆の適応をした体系の持主は砂漠地方の原住民です。
汗の蒸発によって体熱を効果的に放散させる為には、
ひれの付いた空冷エンジンの如くに凹凸の多い、体重に比較して皮膚表面積の広い、
手足が細長く骨と皮のような体形です。
細長い四肢は、効果的な放熱パイプの役割を果たしています。
少ない脂肪や骨ばった顔付もそうです。
これは身体の燃焼率の高さに比して栄養が十分に摂れないせいもあるとの天上界の御意見です。
白色人種は様々な髪の色と目の色、及び白い皮膚の持主ですが、
何れもメラニン色素が少ないという共通性があります。
金髪・赤毛・栗毛・灰色毛、それから目の虹彩の青色・緑色・灰色、
これらは少量のメラニン色素と各色の色素によるものです。
天上界によれば動・植・鉱物を含めて自然の色彩は成分や化学変化によるものが多く、
鉱物の黄色は硫黄、植物の緑は葉緑素というような関連があるそうです。
動物や人体の色素はこういった成分とは異なりますが。
白色人種の発生地域である北ヨーロッパは冷涼で、
雲と霧の多いどんよりと曇った気候が特徴です。
昔は氷河が今より発達していて海には暖流が流れているから水蒸気が多く発生し、
従って雲が多く、より曇り勝ちの気候でした。
紫外線の心配のない土地柄が、メラニン色素を殆ど必要としなかったのでしょう。
このように特徴のある環境に数十から数百世代を過し環境に適応化した形態となり、
遺伝子にプログラミングされたのが各人種の発生理由です(※1)。」
【※1注。
"人種差別について"
肌の色の違いは、それぞれの環境に適応したことを証するものです。
自然からそのような進化を齎す生命を与えられていながら、
生命の素晴らしさを悟らぬ者(※2)が、
見た目の違いしか判らぬ者が、己を誇る為に見出した根拠は、
自分の肌の色が(進化の、若しくは)神の創造の到達点であり、
違う肌の色は(進化の、若しくは)神の創造の完成の途上で終わったもの
といった理屈なのでしょうか。
肌の色は環境に適応した結果(現象)に過ぎず、生命の本質は生き抜く知恵です。
生命の知恵の現れが、環境に適応することなのです。
人種の差異による優越感を自我の拠り所とする者は、
虚構にしか生きられぬ偽我に過ぎないのです。
他(の人種)を見下すことで満足する自尊心とは、真我ではない、理性ではない、
動物と同じ旧皮質の働き(自己愛)だけであり何ら発展した、
自らの意志で昇華した、真に自分が作った自分の心ではない。
持って生まれた本能という神経細胞の働きに過ぎないのであり、
生まれる前から存在したものの現れに過ぎず、
この世に生まれてきて初めて存在する己自身ではない、
己自身の魂(善我)は眠ったままで、目覚めることなく、
本能(肉体としての自己保存(※3))に生きるだけの心
(偽我)しか遺伝として残せるものを持たず、
肉体に生きるだけの知恵しか持たぬ者に、偽我(霊体)の生きる世界は天上にはありません。
(※2注。
環境に適応した結果、皮膚の色が変った原因(紫外線から肉体を守らせる)は異なりますが、
生物の環境に適応する能力の表れとして、
周りの色彩の中に身を隠せば生命を守ることが出来ることを知る、
そして実際に身体の色を変える能力を得た種が
(また生存を脅かす敵を撃退する毒を身体の中で作り出すことで)生き残って来たのを見ると、
生物が自然、環境に適応する能力こそ、(自然の中に)生きることと言えるでしょう。
敵が解毒する能力を高めると、更に毒の力を強めるということをしているのですから、
常に環境に適応する能力が種を進化させてきたことが判ります。
このような能力を生物が持ち得たのは、そしてその能力を遺伝させ種を存続し得たのは、
(進化論へと人類を導いた)現天上界が現代に於て明らかにした自然であるか、
それとも四千年前から人類の信じてきた創造神(絶対神)であるか、如何にして判断するか。
現天上界の存在を知った者は、それを理解し得るか否かで答えが出ますが、
現天上界の存在を理解し得ぬ者とは、その存在を認めたら自我の崩壊する者、
即ち創造神の信仰によって人格が作られてきた者です。
生物の教育で学んだにも関わらず、進化論を認める、理解することの出来なかった
(四千年前の人類と変らぬ)知性には、
(圧制者に苦しむ人々の未来への希望(魂の救い)を与える為に、
人々が神を信じて苦難に耐えられるように絶対神として人々を導いたことを語る)
現天上界の愛と叡智を理解させることは望み得ないでしょう。※2注終)
(※3注。
動物に於て自己保存は種の保存から来ています。動物の持つ愛そのものの現れです。
人間に自己保存が働く時、自己愛となって現れる為に、自己を優位に置く思いを正当化します。
己を高しとし、優れた者に嫉妬し、貶めることも辞さぬ偽我に支配された心は
天に拒まれるまでもなく、人自ら地獄を求めて行くのです。※3注終)※1注終】
「これ程科学の発達した時代でありながら今だに進化論を否定する宗教者が多いので、
ほぼ確立された化石や生物学的立証による進化論と別な観点で、
人間の動物からの進化を考えてみたいと思います。
人間は神によって突然に完成された人間として造られた、
或いは永遠の昔より生存していたという説は不合理な妄想であって、
どのように探究してもそのような証拠は出て来ません。
寧ろ逆に探究する程進化論が立証されるだけです。
海中の微生物→小動物→陸上への移動→爬虫類→哺乳類→猿→人間という人間の進化の過程は、
一人の人間の成長過程にそのまま進化の名残り或いは再現として繰り返されます。
(注。
進化論の明らかにしたこととは、魚類が陸に於ても棲息可能な両生類となり、爬虫類が生まれ、
四本足の哺乳類に進化したのであり、
四本足の種が立った時、二本足の人間という新しい種(遺伝)を獲得したということです。
四本足の哺乳類の前に二本足の人類が神によって創造されたと信じる宗教の信者が多くいますが、
人類の誕生してから、別の種、魚や鳥や諸々の生物の種が誕生した(神に創造された)のなら、
人類生存の確認されない時代の化石から
人間以外の生物の化石が存在するのをどのように解釈しているのか不思議です。
神による創造の解釈では、如何なる種も創造された後、オリジナルに神が手を加えた
(種がどのように変化していったか、それによって自然界の適応が強化されていったか)
とは認めていない
(認めたら進化論と同じ見解になります。
自然によるのか、神によるのかの違いだけですが、
その変化を、神(創造神ではない天上界)の真理を見出したのは、
科学者であって、キリスト教などの原理主義者ではありません)
にも関わらず、
人間だけに限らず他の種の哺乳類も、受精から始まる胎内の成長は、
海中の微生物に始まる進化と同一の流れを必要としている。
同じ過程を辿るということは、種の違いとなって現れる
(一つの生命体として誕生する)までは種による違いはない
(違いを必要としない)ことになります
(生命の根っこは一つであるということです。
そこから個々の種へと枝分かれしたということです)。
神によって個々の種が作られたのではない、
生命の誕生の仕組みがまずあって、そこから個々の種へと別れたのであり、
その仕組みとは、一生命体の胎内の成長が種の違いに関係しないと同様、
種の誕生も、他の種と同様の海中の微生物から始まり、
やがて個々の種へと枝分かれしたと帰結するのが
客観的(科学的、理性的)思考なのだと思うのですが。
人類の誕生以前から他の種が在ったとの進化論を認めることは、
人間を作ってから人間の為に他の動物を作ったとされる
創造神の信仰に生きる自我(精神)が崩壊しかねない為に、
人類の誕生前のことは創造神にしか解らないことだと、
創造神が人類の誕生後に他の動物を作ったと言われるのだからそれが正しいのだと
主張しているに過ぎないとしか思えません。
合理的思考なき頭脳から生まれたのが創造神の信仰であり
創造神を信じる限り、明晰な頭脳を獲得する道は開かれないでしょう。
天上界の方々は科学者であったこと、
また正法とは科学的思考であることを伝えられましたが、
科学的思考を持たねば真理を、正法を見出すことは出来ないのであり、
キリストの教えを知りながら、科学的思考を持つことの出来なかったキリスト教徒が、
悪魔の真理、共産主義者になっていったことを知ると、
大脳の開発なくしては真理を理解する精神の成長もあり得ないと仰しゃった現天上界こそ、
真理を伝えてこられた方であったと判るのではないでしょうか。
「正法を理解する為には、一般常識だけでなく、物理、地学、化学、生物、といったように科学、
或いは数学も重要な域を占めており、それらをはっきり理解しなければ、
正法ということを完全に理解することは恐らく無理ではなかろうかと思います。
ブッタ様の時代にはそのようなことはありませんでしたが、今あなた方の世界に於ては、
科学的なことを抜きにして悟るといことは恐らく無理であろうかと思います。
現象テープ№7 イエス様現象より」 注終)
動物は最初は単細胞生物です。人間の時期で言えば卵子に当たります。
やがて海中の小動物になります。
多くの動物の胎児が受胎後暫くは海の小動物様の共通の形をしていますが、
多くの動物の先祖が共通であった現れです。
胎児は出産するまでは母親の胎内の羊水という水中で生きています。
動物は初めは海中に棲息していて、やがて陸に上がって肺呼吸をするようになりました。
これはオタマジャクシが陸に上がりカエルに変態する様子に集約的に、
象徴的な名残りが残されています。
太古に陸に上がっての動物はオタマジャクシに四肢を付けた様な、
或いはカエルに尻尾を付けた様な形でした。人間で言えば出産時に当たります。
やがて腹を擦りながら少しずつハイハイします。
これは両棲類→爬虫類という生物の歩き方を示しています。
この時期の赤児と爬虫類の心のレベルは、ある面では類似性があります。
心が未発達で主として本能による生活を送ります。
やがて早くハイハイ出来るようになります。哺乳類への進化ですね。
知恵のレベルも同程度でしょう。
そしてヨチヨチ歩きは猿への進化の証(名残り・再現)です。
人間の幼児期の心理状態は動物に似ているのです。
このようにして過去の進化の過程を成長する過程でもう一度辿るのです。
人間が突然に完成された人間として発生したのであれば、
このような過程を踏まずに、やはり突然に完成された人間として生まれなければなりませんが、
それは有り得ない事です。
宇宙の万物は親(法)が同じであるから共通性があります。
機械製品を作る時のことを考えてみましょう。
まず様々な材料を集めます(製品であれば主として鉄、人間であれば主として蛋白質)。
そして自然の法に基づいて何千年も何億年もかけて試行錯誤をしながら、
様々な加工を経て徐々に複雑で高度な機能のものとなります。
詰り高度な製品は何千年の、そして人間は何億年の過去の進化の蓄積があるのです。
そして一度設計図(遺伝子)が作成されると、短時間に出来上がりますが、
瞬間的に完成されるのは不可能で、過去の加工過程を辿って製品となるのです。
宗教者の奇跡を求める祈りは、能力の無い幼児が親に縋るのと同様の心理状態です。
そのような宗教者の工夫と行動無しに成果を求める気持ちは、
人間が進化という作成過程を経ずして出現したと思う気持ちに通じています。
正法の教えは、事を成就する為には法に基づいた成就過程を辿りなさいということです。
詰り神(自然)の創造と同様にしなさいということです。
今は二十世紀で大人の時代に入りましたから、天は地の人に大人になるように求め、
そしてそのように扱っています。」
「動物の進化の過程を見つめて興味深いのは、進化すればするほど外界に対する認識が広まる。
詰り心が広くなるということです。」
〖参考〗
「ダーウィン 種の起源 (未来へつづく進化論)」長谷川眞理子著
「自然淘汰とは、ダーウィンの定義によると
「有利な変異(違い)は保存され、不利な変異は排除される過程」で、
簡単に言うと「環境に有利な形質は存続し、そうでない形質は消える」ということです。
たとえば寒い地域において、ある生き物に体毛の薄い個体と濃い個体がいたとしましょう。
この場合は、体毛の濃い個体のほうが薄い個体よりも寒さに対する適応がすぐれているため、
生存競争に勝って生き残り、子孫を残す確率が高くなります。
体毛の濃さは遺伝的な個体差、変異であるため、その子孫は同じ変異を受け継ぐことになり、
最終的にはその個体群は体毛の濃いタイプばかりになっていく ー これがダーウィンの考えた、
変異が自然淘汰されていくプロセスです。」(52頁)
「ガラパゴス諸島のダフネ・マジョール島に
「フォルティス」と呼ばれる比較的厚い嘴を持つフィンチが住んでいますが、
一九七七年、ガラパゴス諸島はひどい干ばつにおそわれ、
多くの植物が枯れたことでフィンチたちの食物にも大きな変化が起こります。
その影響でダフネ・マジョール島のフォルティスの八〇パーセント以上が死んでしまいました。
生き残ったフォルティスを調査したところ、嘴の厚い個体が多いことがわかりました。
それはいったいなぜでしょうか? 普通には「丈夫な嘴を持つ個体のほうが生命力が強いため、
同じ食物を巡る生存競争に勝利したのだろう」と考えがちですが、事態はもう少し複雑です。
実は、嘴の厚いフォルティスは、同じ食べ物を仲間と奪い合ったのではなく、
彼らはそれまでとは異なる木の実を食べて生きのびていたのです。
ふだん彼らが食べている小さくて柔らかい種子は干ばつの影響でなくなってしまいましたが、
堅い殻に入った大きめの木の実は、干ばつ後も島に比較的たくさん残っていました。
つまり、環境が変化したことで、堅い殻を割って食べることのできる厚い嘴を持った個体たちが
生存に有利になったというわけです。
その翌年、繁殖によって増えた若いフォルティスを調査したところ、
前年までのフォルティスよりもさらに嘴が厚くなっていたと言います。」(56頁)
「たとえば、同じものを食料にする、サイズが同じ二種類の巻貝がいたとします。
別の場所に生息している時は、巻貝が足を出す部分(貝殻の口の部分)
の直径はほぼ同じですが、同じ場所に暮らすようになって数世代経ると、
不思議なことに貝殻の口の部分も大きさや形に変化が生じてくるのです。
貝殻の口の大きさが変化するということは、食べる餌の大きさが異なるということです。
二つの種が同じ場所で同じ餌を食べようとすれば、そこに生存競争が生じ、
最終的にはどちらかが滅んでしまいます。しかし、それ以外のことも起こります。
つまり、それを避けて「相手とは違う姿に変わったものが有利」
という自然淘汰が働き始めるということです。世代を経るたびに変異が蓄積されて、
やがてもう一方の種とはまったく別の種へと移行していく」(74頁)
「ダーウィンはまた、自然淘汰は生物と物理的な環境要因との関係だけで起こるのではなく、
多くの他の生物も互いに影響し合っていると考え、花と昆虫の関係にも注目しました。
花は昆虫が好む蜜や花粉を分泌し、昆虫は受粉の手助けをしていることは、
みなさんもご存じですね。
ダーウィンは、花に集まる昆虫と植物の関係性のなかからも自然淘汰のプロセスを考えました。
クリムソンクローバーの蜜を吸うミツバチと、
アカクローバー(花粉の筒が長い)の蜜を吸うマルハナバチ(口吻が長い)を
例に思考実験を繰り広げています。
クリムソンクローバーとアカクローバーでは、花の形状や構造が異なるため、
口吻(こうふん)の短いミツバチは花粉の筒が長いアカクローバーからは吸蜜できません。
アカクローバーの受粉を助けられるのは長い口吻を持ったマルハナバチだけです。
では、もしある地域にアカクローバーだけが咲いている場合、ミツバチの個体のなかでは、
口吻の長さが他よりも少しでも長かったり形状が違っていたりするものがあれば、
そのミツバチは有利となります。
一方、マルハナバチがいなくなってしまったらアカクローバーはどうなるでしょうか。
おそらく、ミツバチでも蜜を吸えるように花粉の筒が短い個体や、
深く切れ込んだ花の形状を持つ個体が有利になるだろう、とダーウィンは予想します。
植物と昆虫が単独で変化していくのではなく、このように互いにとって一番よいかたちに
適応しながら変化していく過程が考えられるのではないか。
自然淘汰とは、生き物と環境の複雑な関係のなかで起こっている ー
と彼は主張したのです。」(57頁)
「ダーウィンは、「自然淘汰が働くなかで、生存に有利な変異は次世代に受け継がれていき、
不利な変異は消滅していく」と考えましたが、DNAのATGC配列を詳しく調べたところ、
分子レベルでの変化はほとんど自然淘汰に対して有利も不利もない
「中立」な変化であることがわかったのです。
とすれば、進化のほとんどは単なる偶然の産物であり、自然淘汰はまれにしか怒っていない ー
ということになってしまいます。
「たまたま運に恵まれたものだけが残っていく」というのが、「中立進化説」です。」(60頁)
「現在では、「中立進化説」はダーウィンを否定するものではなく、進化は、中立進化(偶然)と
自然淘汰による適応進化(必然)の二つのプロセスからなると考えられています。
たしかに、DNAに蓄積される大部分の変異は、
有利でも不利でもない中立的なものがほとんどであるのは事実です。
しかし、それは分子レベルから見た場合においてであり、
わずかに生存に有利な変異は形態などのマクロなレベルでの進化に寄与していて、
そこにはやはり自然淘汰が働いている、というのが現在の認識です。」(60頁)
「彼の理論は、簡単に言うと
「変異」「生存競争」「自然淘汰」の三つのキーワードで説明が可能です。
まず、生き物はさまざまな「変異」というものが生じます。
その変異のなかに他の個体よりも生存や繁殖に有利なものがあった場合は、
「生存競争」のなかでその個体が生き延びて繁殖し、変異は子孫へと受け継がれます。
そして環境に有利な個体は、不利な個体よりも多くの子を残すという
「自然淘汰」を何百万年、何千万年も繰り返す中で変異はどんどん蓄積され、
もともとの個体群とは違った生き物が誕生していく ー このプロセスが進化です。
進化理論自体は、それほど難しい話ではないのですが、
根本的な部分でいくつか誤解されがちな点があるので注意が必要です。
まず一つ目の誤解は、自然淘汰が「目的を持って」働いていると考えられやすいことです。
自然淘汰が働く大前提は、生き物に遺伝的な変異があることですが、
変異は環境とは無関係にランダムに生じます。
現れた変異がたまたま環境に適していて、生存や繁殖のうえで有利となる場合に自然淘汰が働き、
その変異が継承されるのです。
現在では、変異は遺伝子の配列の変化によって生じることがわかっていますが、
すべての変異(DNAのATGCの並び順がいわゆる遺伝情報で、
この配列に変化が生じた時に変異が起こります。
変異は遺伝子が複製される時のミスで生じるのですが、
放射能などの外的因子は、このミスが起こる確率を上げます)は偶然の産物なのです。
もう一つの誤解は、「進化の歴史のなかで生き物はだんだん進化してきた」と考えてしまうことです。
「進化」「進歩」という言葉には梯子(はしご)や階段を一歩一歩上に登っていくような
イメージがあります。
ですから私たちは、生物は下等動物から高等動物へと進化し、
その頂点に人間が君臨していると考えてしまいがちなのです。でも、それは大きな間違いです。
実際は、進化は梯子のようなプロセスではなく、枝分かれの歴史です。
ダーウィンはこれを「特徴の分岐」と呼んで『種の起源』のなかで図版を使って表現しています。
(1章末で紹介した「生命の樹」と題された図を見てください。)
これを見ると、人間が生き物の頂点などではないことがよくわかります。
今、私たちとともにこの世界に存在する生き物 ー
ミミズも、ハトも、イチゴも、スギも ー すべては、
それぞれの枝の最先端に並列に位置しているのです
(注。全ての生き物を生かす自然の摂理、真理への理解、真理(に生かされる物)への
愛があったからこそ、天上界は全ての生き物が平等という真理を見出せたのでしょう)。
「ゴリラはいずれ人間に進化すると考えるのは間違いだ」と私は指摘しましたが、
その理由もこの図を見れば明らかです。
ゴリラやチンパンジーや人間は、同じ先祖から分かれて進化しましたが、
いずれも今は別々のの枝の先端に立っています。
ゴリラが何百万年もの時間のなかで、さらに別の生き物に枝分かれしていく可能性はありますが、
それは決して人間に進化するということではありません。
また、「進化」を単純なものから複雑で高度なものに変化する過程ととらえるのも間違いです。
最初にこの世に現れた生物は単純な構造の単細胞生物で、
その後に多細胞の複雑な生物が誕生していったのは事実ですが、
必ずしも生き物は複雑な方向へと進化していったわけではありません。
たとえば、寄生虫として他の動物の腸のなかで一生を送るようになった生き物は、
祖先が持っていた内臓を失ったものもいます。一見、それは退化だと感じるかもしれませんが、
生物学では退化は進化の反対語ではなく、退化も進化のなかの一側面ととらえています。」(61頁)
「進化とは、決して上を目指す「進歩」などではなく、
異なる環境に適したさまざまな生き物を生み出す、枝分かれの歴史です。
こうした枝分かれがなぜ生じたかは、これまでお話ししてきた
変異 → 生存競争 → 自然淘汰のプロセスを知ることで見えてくるかと思います。
ある特定の競争環境では、他と異なる特質を持っている個体は、その競争が少なくなるため、
生存して子を残しやすくなります。
そこで、自然界の限られた居場所にたくさんの種が共存していられるのは、
このようにして、もともとの集団がいくつにも枝分かれしながら多種多様に進化していった
からと考えられます。」(63頁)
"進化論についての考察"
〖その1
現天上界を信じる者は、彼等が地球に人類がまだ誕生する前に地球を訪れ、
死後も霊体として地球に存在し、人類の誕生を目撃した、
それは神の創造ではなく、自然の業であり、生命自ら生き延びる、環境に適応する為に、
それまで持たなかった能力を得た為に、別の種へと変ってしまった。
それは生命が途絶えることなく流れ続けながら変化したものであった、
それが進化と言われるものであり、当然のことと理解しました。
これを理解出来ない人々は、現天上界を認めることの出来ない、創造神を信仰する人々であり、
進化論を受け入れることは創造神を否定することになるのだから、
そのような思考力を持たない者が進化論を認めることは不可能なのです。
私達が現天上界を信じたから、進化論が当然のことと受け入れられたように、
創造神を信じた者は、人類が神に創造されたと受け入れるのは当然なのであり、
創造神としてかつて自らを語ったのが現天上界であることを信じられない以上、
進化論を受け入れるのは不可能だと思います。
進化論が何故重要なのか、それは現天上界が、地球人類と同じ種でありあがら、
地球人類はまだ彼等と同じ高等感情を宿す前頭葉と呼ばれる大脳を開発されないでいる、
故に彼等を理解出来ず、本能に働きかける悪魔の邪念を拒絶する力を得ていないということです。
生命自らの力で進化する、進化出来ぬ者は淘汰されるのであり、神も救えない、
故に自らを救う意志を持つ者しか天は救いに導けないと言われてきたのです。
自らを救おうとする、生きんとする意志が、
自然の慈悲を、苦難の中に注がれる神の慈愛を疑う心に勝っての、
信じる心を、神の心に繫がる心を育てるのです。
神の心、理性に生きる心を開発しなければならないのです。
苦しみから逃れようとする自己保存の本能に生きていれば、
苦しみを乗り越えての自らへの執着を断ち切る、他を思い遣る愛など生まれません。
神の導きとは、神と同じ種である人類が神の心へと進化することであり、
神の愛に生きる、人を生かそうとの心に於てのみ、幸福が、救いがあると、
それが天上界の伝えてこられた真理です。
創造神が生物をどのように想像したか、
または生き物の種がどのように進化したか、
その様子を見ることは出来ませんから、
今見ることの出来るのは、今を生きている生物がどのように生まれてくるかで、
何がそれを可能にしているか(条件)、何が作用してそうなったか(原因)、
もしくは創造神によって作られた人類(その他の生き物)が、
何時から神の手を借りずに、
自ら子孫を生む(遺伝子も最初のままではなく進化する)ようになったか。
最初に神が作ったであろう人間も受精から細胞分裂して人間が誕生したのなら
その母胎は何であったのか。
聖書の書かれている通りに、神がアダムとイブを作り、
それ以後の人類から受精して生まれるようになったとすれば、
明らかにアダムとイブは現在の人類とは同じ種ではあり得ないことになるでしょう。
彼等が受精後、単細胞から細胞分裂して母胎から生まれたのではないのだから。
(彼等が人間なら、それ以後の人間も、
神が彼等を作ったように作られなかったのは何故なのでしょう。
神が作られたような能力をアダムとイヴに与えることは出来ないから、
生殖機能を与えたのでしょうか?)
それともアダムとイヴは人間ではなかった、
神が直接創った(イエス様は聖霊が肉体を纏ったと信じたように)特別な存在で、
アダムとイヴは受精によっては生まれなかったが、
生殖機能を与えられた彼等から生まれた人間が初めて受精によって、
細胞分裂によって生まれる人類という種になったということでしょうか。
ミカエル様が、「天国の扉」で証されたように、
宇宙が神なのであり、宇宙が人類を創造したとは古代の人類には理解し得ないことだったので、
神が人類を創造したと天上界は聖書記者の意識に伝えたのでした。
それが理解出来ないクリスチャンは古代人と変わらない知性に留められてきたのです。
現在全ての生物が細胞分裂によって作られているのであり、
その細胞の基は蛋白質であり、海にのみ在る。
受精して生物が生まれるまでは体内の羊水に生きていることからも
海から生命は生まれたことは間違いのないことです。
現在の人間の誕生の有り様を遡れば、生命の誕生が海に行きつくことは当然の帰結になり、
それを否定する、創造神により人間が作られたとする根拠は何もなく、
彼等が言っていることは進化論を否定するだけで、創造神がどのように人間を作ったか、
今を生きる人間とどう繋がっているのか全く説明できないのです。その1終〗
〖その2
人間の各々の内臓の造り、配置などは、四つ足動物と同じです。
四つ足動物は肺や心臓の重みを支える位置に肋骨があり、
体を休める時などうつぶせですから体重は四つ足ではなく、肋骨の部分にのしかかる、
肺や心臓を圧迫しないように肋骨が守っているのです。
四つ足動物が立ち上がれば、肺や心臓を肋骨で支えることは出来ませんから、
腰(四つ足動物に腰があるのか知りませんが)や、脊髄、大腸を圧迫するでしょう。
人間が初めから二本足で作られたのなら、
肋骨は前にあるのではなく、肺や心臓の下にあるべきですが、
胃や腸がありますから、下に肋骨はあり得ない、
初めから胴体が垂直であったなら、
前部は(肋)骨よりも柔軟な筋肉の方が適したと思うのですが。
四つ足の動物は、頭を持ち上げていなければならないので、
脳は容積を抑えられてきたのですが、
二本足で立ち上がってからは、頭は胴体に乗っかった状態になるので、
脳の容積を増やすことが出来たのだそうです。
地面に対して胴体の平行する四つ足動物故に肋骨を持つに至った、
人間は四つ足であったのであり、
体を起こし、二本の後足で立つに至ったに過ぎず、
体の造りは、四つ足であった時から変わらないのです。
人間は生まれてきてからハイハイ出来るようになるまで八ヵ月ほど掛かり、
歩き出すのは更に先のことです。
二本足で立つのは親に倣おうとするからです。
狼に育てられた人間の赤ちゃんは、四つ足で動くことを親(狼)から学んだのです。
環境に適応しようとする、それまでの能力では適応出来なければ、
適応出来る能力さえ自ら生み出す、四つ足では生きられぬ環境が齎されたが故に、
四つ足の猿が二本足で歩かなければならなくなりました。
環境次第で狼にもなるのが人間です、最初から人間として完成されているのではない。
創造神の信者は、そのように環境に適応出来るように、
神様は人間をお造りになったのだと、本気でそう信じているかどうか知りませんが、
狼として育てられた人間は、もう人間としての学習をすることが出来なかったのです。
成長過程での学習によって知能の開発、及び人格の可能性が決定されるということです。
人間として生きられる環境を失えば人間は滅びるのです。
神は人間を造り、人間の為に動物を造ったと信じられていますが、
他の動物が生きられなくなれば、人類は滅びるのであり、
人類の為に造られたのが動物だからと、
たとえ飢え死にすることになっても人間を食べることの出来ないように、
神が動物の本能に"人間を食べれば死ぬ"と刻み込んだ訳でもないでしょう。
動物だけでなく細菌にすら人間は滅ぼされて来たのであり
(それが理解出来ぬ古代の人々は神の祟(たた)りと信じました)、
天上界が創造神として現れた古代にあって、神を信じた人々は、
神の造られた人間が細菌(生き物)にも勝てない代物とは知る由もなかったでしょう。
森林での生存が困難となり、地上に食物を求めた猿が、
四つ足のまま二本足で立たないでいたら、猛獣の餌食になるしかなかった、
それまでの条件反射を変えることが出来た、
四本足という常識(固定観念)を超える意識を獲得することが出来たからです。
人類は人類として創造されて出現したのではない、
他の種によって滅ぼされることなく、また自然環境に適応できずに淘汰されることなく、
氷河期に絶滅した多くの種の中で、
そのような環境にあって生命を維持する能力を獲得してきたが故に生き残れた種です。
種を進化させて得たのは、二本足で立ち上がることから自由を得た二本の手であった、
全く新しい能力が、四つ足の動物の持たない知能を開発することが出来たのです。
創造神によって人類だけが四つ足の持たぬ知性を与えられたと信じる信者の、
六千年の昔に信じられたことに何ら疑問を抱かない知性は、
猛獣に立ち向かう武器を、
また食べ物から毒(細菌)を滅し、安全な食物を齎す火を創造する知恵を獲得していった、
知性を開発していった人類の精神力を、意識を受け継ぐことに失敗した変種なのか、
それともサタンや悪霊に知恵を奪われてきた人々に思えてなりません。その2終〗
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の許に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様