天上界メッセージ・エッセンス(神から授けられた正法)
(掲載しましたメッセージは、本来のメッセージからの一部抜粋です。)
第一部 天の教え
第一章 天の歴史
一節 天の救いの歴史

 (一) 現代に現れた神
 真理の探究に生きる真の科学者に向けて、
神の御使いであられた大天使(現在は天上界高次元の神々)が
真理について神の存在について語り掛けられました。

「天国の証(78年8月初版)」96頁 パヌエル様メッセージより
「何時の世紀、何時の時代にも宗教は日常の生活から切離されたことはなく、
科学者と雖(いえど)も、究極に於ては自分達の力及ばざる神秘の世界が存在し、
三次元の常識では計り知れぬ謎が、
あたかも真理の発見を待つが如く人々にその世界を匂わせているとそう解釈されてきました。

 そしてその神秘のベールが今降ろされ、謎の世界が明らかにされているだけなのです。
 昨今の現象は原始宗教の名残りでも何でもなく、
昔から常に隣接していて人々の側に在った ー その世界が明らかにされただけなのです。
 それが余りにも一目瞭然に目の前に在るが故に信じ切れないのでしょう。
 日本の科学者は尚も、その奥に未開発の探求されざる神秘の世界があるのではないだろうか、
と疑っています。
 何ゆえ今まで求めてきた神が人々の前に現れた ー 
のに、それに対し一言も発言をせず、半信半疑のままでいるのか。
 それが私には不思議でなりません。

 世界にはまだまだ怪しげな宗教が蔓延(はびこ)り、
霊示の偽物が横行していることは否めません。
 しかしそれだからといって、科学文明の先端を行く専門家に、技術の権威に、医学者に
何が真実のものであり、納得し得る理論であり、
何が虚偽で曲論であるか、その是非が解らない筈はないのです。
(中略)
「私は『天国の扉』が世に出た時、多くの科学者が先を争って読み、
少なくともそこに啓示されたことによって、
科学する者の心構えが変ってくるものと期待していました。
 科学者は常に神、霊魂、天国、に関心を示し、
その神秘の向こう側を覗きたいと思っているものと考えておりました。」
(中略)
私達は宗教というものの虚しさ、宗教団体の愚かしさについて説きました。
 そのことを他の方々に伝えて頂きたかったのです
※1
 勿論内容は進化論に言及し、宇宙の法則を解明し、
何ゆえ人は一人一人がその責任を義務を呼び覚されねばならぬかということから、
徳を高めることが如何に大切であるかまで

一つ一つ説いてゆかねば聞く人を納得させ得ないでしょう。
 そしてこれは宗教運動ではありません。
 寧ろ宗教反対への動きと取って頂きたかったのです。

 でなければ私達はもっと私達の大いなる力を用い、
恐れと服従を強いてあなた方や他の人々にこうすべきであると述べたでしょう。
 科学的な心を充分備えた人の多く生きるこの世紀であるからこそ、
私達はことを分けて説明し、理論的手法を用いて
神と人との繋がり、天国と地獄とはどのようなものか、その実在性について
充分解き明かし、納得して頂けると思ったのです。

※1注。
 天上界が二十世紀になって宗教による救いを断念されたのは、
真の宗教心(神の教え導かれる人のあるべき心 ー 神の心に生きることの幸福 ー を求める)
を失い、宗教(組織)が神の国を求めず、この世の幸福によって人の心
(偽我、即ち自己愛、利己主義)を満たすものとなったが故に、
人は宗教に執着するようになったからです。
 自己への執着は、心を自分に向ける、自分(の幸せ)が目的にならざるを得ない、
心の成長は抑えられ、未熟な心である限り、愛を求め続けるのであり、
与えられる愛は成長に導く真の愛ではなく、自己愛を満たす偽りの愛故に、
成長を奪われた心は、永遠に神の心(善我)を知ることなく、偽我に留まるのです。
 宗教は信者を自分の幸福を求める心に留まらせることで、
神の心へと導かれるべき信者の心を偽我に繋ぎ止めてきたのです。※1注終)

「天国の扉(77年12月初版)」124頁 ミカエル大天使長様メッセージより
「もし、世の科学者と言われる人々が敬虔な心を持って、真に神の意義を問い、
私達が何を人々に伝えようとしているかに耳を傾けて下さるならば、

これを契機に宗教をもっと詳しく科学的に研究された書も
これからどんどん世に出てくるでしょう。

 ギリシャの時代から哲学の分野で説かれてきた真理を冷静に見つめ、
自然と人間の関りについて探求し、明らかにしてきたもの ー
それが今再び明らかにされ、
過去に於けるメシヤと呼ばれた人々が全体として解き得なかった事柄や真理を加えて、
皆様に学んで頂き、如何に人は生きてゆくべきかを悟って頂きたいのです。

 その為に、私達異次元の者である天上界の使者が霊として、
霊と語り合える能力のある方々を通じてお話ししているのです。

 人間とはどういうものか、どうあらねばならないか、どう生きなければならないか、
お互いの協力によって初めて世界の平和と幸福と繁栄が齎されることをよく理解し、
その通りの人生を生きて頂きたいのです。」

「天国の扉(77年12月初版)」137頁 サリエル大天使様メッセージより
「体の傷や病気は、治療によって必ず治ります。
 現在、不治の病といわれる病気でも、医学が進歩すれば近い将来、
完治出来るようになるでしょう。
 しかし今、この地球上の人々は心の病気に罹っているのです。
 自分のことだけにしがみ付き、他人のことを顧みず自己の利益や快楽だけを追い求めて、
人間本来の姿を全く忘れ去っています。」
(中略)
「早く病気を治すことが必要です。その為、今、広く人々に伝わらねばなりません。
 私達は、とても切羽詰った気持ちでいるのです。ぐずぐずしてはいられません。
 今直ぐ正法が必要なのです。人々の心に愛の心と、安らぎを取り戻す為

 私は医学やその他、すべての面に於ける人類の進歩と、精神、魂の進歩を願っております。
 すべての人々が神の心を一日も早く取り戻すことが出来ますように

 すべての人々に、真の幸福が訪れますよう。」

「天国の扉(77年12月初版)」152頁 ウリエル大天使様メッセージより
「今、現在、どれ程の国が水爆・原爆を確保していることでしょう。
 このような中で戦争が起きれば … 、と想像するだけで胸が痛くなります。
 地球上のあらゆる生物は滅び去り、地球は二度と住むことの出来ない死の星と化すでしょう。
 戦争から良い物は何一つ生まれません。戦争が齎すものは、只破滅のみです。
 私達は許してはいけないのです。決して … 。

 このような事態を避ける為、今正法が必要なのです。
 一人でも多く、一刻も早く正法を理解し、伝え広めなければなりません。

 全人類に正法が正しく理解されたならば、真の意味の民主政治が行われ、
政治や経済も理想的な状態になり成長してゆくことでしょう。
 常に他の人々のことを考え、お互いを思い遣ってゆけば、理想の社会が作れるでしょう。
 このような社会を作らねばなりません。
 それはあなた方に懸っているのです。
 悪を蔓延らせ、人類を滅亡させ、地球を死の星にするのも、
理想の社会を建設し、地球を調和されたユートピアにするのも、あなた方次第なのです。
 私達はユートピアを建設する為には、どのような協力も惜しみません。
 しかし、私達天上界の霊は、助力することしか出来ません。

 あくまでも行うのはあなた方なのです。

 ですから一日も早くこの法が、多くの人々に伝わることが必要なのです。
 一刻も早く、一人でも多くの人に … 。

 この方達の手を借りてこの本を出したのはこういう理由なのです。
 決してこの方達の勝手な想像や考えだけで書いているのではありません。
 私達は最早、一刻の猶予もないことを悟り、大勢の人々に伝える為、
この本を出すことを決意しました。  
 私達の願いは唯一つだけです。理想の国・ユートピアを作り上げることなのです。
 この本が出来るだけ、大勢の人に読んで頂いて、正しく理解されることを望んでおります。


第一部 天の教え
第一章 天の歴史
一節 天の救いの歴史

 ㈡ 宗教による救い
「天国の扉(77年12月初版)」120頁 ミカエル大天使長様メッセージより
「私がこの度、この書を通じて皆様にお話ししたいことは、
メシヤとして崇められてきた釈迦牟尼仏様やイエス・キリスト様、モーセ様、
他にも多く偉大な教えを残された宗教界の人々も含めて、これらの方々が
すべて一つの源から出ていること、即ち、同じ教えを広めてこられたことなのです。
 その教えは、遍(あまね)く宇宙を含めて同じ法則に従うものであり、
自然、人間、動物、植物を問わず、
ありとあらゆるもの、並びに現象は宇宙にその源を辿るものであり、
宇宙はそのあらゆる事柄や現象を生み出したものと見做されるべきであり、
これが即ち、皆様が神と同じものと定義すべきであるというものなのです。

 何故ならば、今まで神と崇められてきた方は、すべて偉大な人間の魂であり、
進化の法則に従って派生した一生物の一環をなすもの、
動物の種族の一つである人間の魂に過ぎないからです。

「宇宙の一部である人間は、お互いに助け合い、身を供して他のものを生かしている動物や植物、
或いは恒星と惑星間の繋がりにも見られる大自然の法則を無視して、
勝手な行動に出るのは許されないことであり、私達天上界の魂はそれを許さぬために、
 地上の人々を幻惑し、或いは煽動して自然破壊、環境破壊、延いては人類滅亡、
地球上の自然現象にも影響を及ぼし、地球滅亡を速めるような愚行に導く  悪霊達
との戦いに、日々努力を惜しまず働いているのです。

 それは愛の心、慈悲の心無くしては理解し得ない真理であり、行い得ない事柄なのです。
 モーセ様もイエス様も等しく、放縦に身を任せ野蛮な心しか持っていなかった当時の人々に、
人間としてしてはならぬこと、為すべきことを戒めとして又教訓として教えられ、
イエス様は特に愛とはどのようなものかを説かれました。
 その教えや戒めをもう一度読み直し、或いは、学んで頂きたいのです。
 又、ブッタ様は、宇宙と個人とは同じものである。
 同じ法則に従った生れ変りを永遠に繰り返すものである。
 これを科学の世界では物質不滅、質量保存の法則と言い、
ブッタ様は生れ変り、死に変る永遠の魂を持っていることを転生輪廻と名付けられました。

 又、太陽があらゆる物に変りなくその光と恵みを与えるように、
人間の心も慈悲の心で満たされなければなりません。
 そして、人間や階級の差別を無くすために、人々はお互いを尊敬し合って
正しい判断のもとに中庸の心で生きてゆかねばならないことを教えられました。
 これらの教えは、すべて天上界の意志であり、教えであるのです。

〖備考1
 天(の計画)によって齎された、天(の聖霊)に導かれた宗教は、
すべて唯一の天上界によるものでした。
 各々の宗教を導かれた聖霊が、互に自分達が齎した宗教だけが、宗祖だけが、
真の神を、真理を告げる者であると争っている訳がありません。
 内輪で争えば、悪魔の国でも立ち行かないとイエス様も仰しゃっています。
 神様は、他の宗教の神は、御自分ではない、真の神ではないとは言われておりません。
 御自分以外を神とするなと仰しゃっているだけです。

 宗教の内容が異なるのは、伝えておられる方が違うからではありません。
 救いに与る人々の苦しみの原因が異なれば、
救いの表れもそれに応じて変ってくるのは当然のことです。
 天上界が真理を伝えたのは、人々が間違った道をそうとは知らずに歩んでいるからであり、
正道(真理の道)に導く教え(宗教)が異なるのは、
それぞれの宗教の齎された状況(人々を縛る愚かな社会通念、
真理に盲いて自由な思考を奪ってきた教義など)が違うからに他ありません。
 天上界の導かれる真理の道は一つです。

 天の聖霊は、他に尽くされる方々であり、そのような愛を人の中に見出せば、
尊敬と愛を以て、信義を通される方々です。
 己の犠牲を顧みず、他に尽くす心、愛にのみ生きられる方々です。
  天上界が関与されていなかった者であったとしても、真理を語り、愛を行っている者の心は、
神の心であり、その心の美しさが天に伝わらない筈がない、
彼によって救われた者の喜びが、天の喜びとならない筈がないのです。
 心が正しければ、美しければ必ず神々の心と通じ合うのです。

 神様は何でも御存知と教えられてきましたが、私達も神様の心を知ることが出来るのです。
 神様を愛することは、善を愛すること、その心が良心と呼ばれ、
神に聞き従う者には、良心の声となって伝わるのです。
 神様に嘘を吐いてはならないように、自分の良心にも嘘を吐いてはならないのです。
 自己欺瞞というのは、己が良心を死に至らしめるものです。

 人々は何故、自分達の信じる宗教と他の宗教が、
同じ神によって齎されたと理解出来なかったのでしょう。
 宗教は、己が心の中の神の心、真理に生きる心へと導く道です。
 そうでなくして何が宗教でしょう。
 人それぞれ心が違うように、同じ宗教でさえ、理解が違うのです。
 真理に盲いてきた者が、己が魂を救う道を見出した時、
魂を目覚めさせた宗教が真理となるのです。
 魂の目覚めぬ者には、如何なる宗教も真理とはなりません。

 心の目覚めた者だけが光に照らされた道を歩くことが出来るのです。
 信者は唯一の光の源に思いを向けてきたのでしょうか。
 見出した光の世界におられたのは、神のみでしたか、それとも仏だけでしたか。
 どちらの信者も神様の心も、仏様の心も置き去りにして、争ってきたのです。
 どうして神仏が、真理を求める者を拒むことがありましょうか。
 神が受け入れないのは、善を語りながら善に生きぬ偽善者だけです。
 人の心に真理への愛を見出せない者同士で否定し合ってきたのでした。

 真の神(の御心)を、神を愛する心(自らの神の心)を見出す為に、
妨げている偽我を克服する、その為の方法が宗教なのであり、
宗教の違いによって同じ神であることが悟れないようであってはならない、
真に神への愛があれば、(信じる宗教が違っていようと)
同じ愛を持つ者であることが解らない筈がないのです。
 神の思い(人類を真の幸福に導く、魂を救うこと)に応える為に、
その思いの為に民族、国家の、宗教の執着を乗りこえること。
 自らの宗教の神のみを信じる、己が宗派への愛故に真の神への愛を見失う、
そのような愛に宗教が支えられているなら、それは神の宗教ではあり得ない、
偽りの神に仕える邪教に過ぎません。備考1終〗

〖備考2
 仏教が、キリスト教が伝えられた時、それが天上界の神々の、
最高の知性の理解した真理のすべてが伝えられたのではありません。
 当時の人々の救いとなる、理解し得るものが与えられたのです。
 現代に伝えられた正法が、当時に(天上界に理解されていなかったのでは)なく、
仏教から、キリスト教から、天の叡智によって更に深められたのではありません。
 当時から天の真理として在ったのです。
 天上界の神々が従う法、絶対(即ち神)なるものとして存在したものが正法なのです。
 神の与えた宗教が深められて生まれたものが正法ではなく、正法から宗教が生まれたのです。

現象テープ№7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」②より
 77年12月1日 イエス様現象

「内村鑑三の言うように、キリストなる大岩は決して崩れ去りはしません。
 同じように正法という不滅の岩は、何時までも何時までも人々の心に燃え続けなければなりません。
 永遠という言葉は、正法の上にのみある言葉で、仏教でいう諸行無常という言葉も、正法という、
人々の心に不変の倫理には当てはまらないようです。
 物質はすべて輪廻を繰り返していますが、正法だけは何億年、何千万年の彼方から続いて、
何時までも何時までも不変なのです。

(神は真理(正法)を明らかにする光です。神に導かれ真理の道を歩むことで心が目覚めるのです。
 盲目のまま神を崇めていては、神の心は解らない、偽りの神の甘言(魂を堕落へと誘うもの)
を悟る知恵も、悪魔に付け込まれる自らの持つ邪悪も悟れないのです。
 神の子が、神の預言者が、覚者がみな神の導き(苦難の道)に生きて悟られたというのは、
研磨なくして自らの内に神の心は表れない、この世に適応するだけで生きていられる心を、
そうであってはならないと決意するのは自らの真理を求める心しかないのであり、
世に真理を照らす光を齎す、自ら真理に生きんとする魂にならないのです。)

 それまで神の与えてきた真理がすべて正法を伝える為の導きであった。
 人類の知性の開発であり、現代人がその時を迎えたが故に、
天上界は正法を、神の法のすべてを証されたのです。

「天国の証(78年8月初版)」
 "天使の詩集"ミカエル大王様「二十一世紀」より

「金色の光差し込む朝の訪れと共に
 世界は眩(まばゆ)く新しき世紀を迎えん。
 それを待ちし幾星霜の時の長さよ。

 この時迄年月(としつき)を経て人々の迎えしものはすべて虚偽のもの。
 新しき世紀でなく、
 偽りの救い主の到来を知らせる
 虚言の歓声(ホザナ)であった。
 その中に真の救い主の出現も、虚偽のたれ幕にドラマの終りを見た。
 そして幾度(たび)となく、人々は失望を味わい、
 味わいつつ再び待ち望んだ。
 いつ末法の世が過ぎ、
 神の国の到来は側に在るかと。

 人類が神と同じ心を自らの内に見出して生きる、
神の授けられた正法とは、人類のみならず神も従うもの、
真に神の法を貫く人間は、天上の聖霊と同じ魂を持つ者、
神への信義に生きる天上の聖霊の思いに生きる、
神の業(救い)に、ユートピア作りに加わっているのです。

 人類を神に依存する、神の守護の下に生きんとする信仰から、
自らの神の心に立つまで天上界が導いての今、人類に正法が授けられたのです。
 神の法に生きることは真理に生きるということ、
神自ら生きられる道を見出した心は神に導かれていることを知る、
神の生きる道に生きることが自らを救うことを知るのです。
 神と共に在るとは、神(光)の道を生きるということ以外にありません。

 正法に生きる世をこの世に齎そうとされたが故に、
この世に地獄を齎さんとした悪魔は、
絶対神の力に依存した宗教の培った信仰に生きる人々を、
サタンの力が神に勝ることを信じさせての、
全地を人類の魂を賭けての天上界の死闘が起きたのです。
 その事実を人々が悟ることなきよう、人々が神の心に目覚めることなきよう、
サタンは人々の精神を堕落へと誘うあらゆる邪念で世を満たしてきたことも
よく理解し得ることと思います。

 天上界は人類の知性が理解し得るように、理解し得ることだけを伝えられました。
 あらゆる学問を通じて知性を開発するべく人類を導かれました。
 人類の知性が成長した時、
神の愛が父親の思い
であることを理解するまで人類の精神が神に近付いた時、
それまで伝えられなかった真理を、神の教えを伝えられたのです。
 イエス様は天上界が教えられることはすべて伝えられたと仰しゃいました。
 それを理解するか否かは今を生きる人類の天上界への、
真理への思いひとつであるということです。

注。
 子の成長を願う愛が、子を育てる、
愛なくば心の成長は奪われることを知らぬ者はいない。
 人類の心の成長を願った神の愛は父親の愛であると言われてきたにも関わらず、
神に依存するを信仰と呼び、神の心へと成長出来なかったのは何故か。

 自己愛を克服する道を奪われてきた、心の目が開かれることがなかったからです。
 足なえの如き人類に向かって、立ちて歩めと言われたイエス様の言葉に
神の御意志を悟ることが出来なかったのです。
 神に縋って立とうとしない者に、神の心に目覚める、自らの意志で立つことが出来ると、
それが真の信仰であると、神を愛することだと仰しゃったのです。
 自ら立とうとしない心は、神への愛がないことを教えられたのです。
 神の愛の伝わらぬ心から出る祈りなど神の心には伝わらないものであると
神は証されました。
 神の愛を受けるとは、自らの神の心に生きようと、神の心へと成長しようと、
真の心の意志に目覚めることです。

 自己愛から祈るのではない、自ら立ちて天への道を歩む、善なる心からの願い、
真の愛からの祈りでなくば天には伝わらず、
神の愛は伝わらない、神の心の成長はない、
悪の心へと、魂を破滅へと導く、自己愛をくすぐる甘言に、自らを甘やかし堕落させる、
そのように生きてきたからこの世が神の国(天国)を見出せずに来たのでしょう。
 注終)

 神の伝えた真理(宗教)も、教義が理解されれば(他の宗教に惑わされることがなければ)
よしとする宗教に、自己肯定の偽我に生きる者には、心の盲いた者には、
神にあって尚、魂を研磨する、真理を貫く精神に生きんとする、
その思いの強さ、人類を救わんとする神の心は伝わらない、
悪魔の邪悪に立ち向かう、善を愛する心を得ることは出来ないことを、
神の法と共に聖霊は伝えられたのです。

 悪魔の偽りの真理(神の真理を、聖なるものを汚すことを、人を破滅させることを
喜びとする邪な思いによって、捻じ曲げられたもの)を見抜き、
神の真理のみ受け止める知性を人類が持つことが出来ていたら、
宗教が堕落していることを、何故堕落したのかを悟ったことでしょう。
 現代に於て神自ら正法を伝えられるまでもなく、
人類は正法を見出すことが出来ていたでしょう。

 二千年前に正法の核心が神の(導かれた)予言者に、覚者によって伝えられているのです。
 地動説も進化論も神々自ら合体して伝えられました。

 正法の内容が既に証されてきて、それが神の法であると知らされて尚
(神の徳はすべて理性の働きであり、知性を開発せずしては理性を持てない、
神の善への愛も知恵も理解出来ないのであり、
宗教の盲信に安住する知性なき心は悪魔に支配されるということも悟れない)、
神の人類への思いが、人類の導きが、悟りへの指針(神の教え)
すべて繫がってこないならば、それは自分が信じたことで安心を得た宗教に、
イデオロギーに固執する
(自己保存の)心の妨げによるのであり、
善なる心に生きている
(真理に生きる善霊に繋がっている)ならば、
天の思いが伝わる、真理を理解されなくとも正しいとの予感、信頼、安心が齎されるでしょう。
 動物の本能が自然の法則を理解せずとも正しく捉えているように。

 ドグマにイデオロギーに執着するのは、精神の不安定を恐れるからであり、
不安を齎す新しい教えに拒絶反応を起こすのです。

 地動説も進化論も宗教を盲信する者が拒んだのです。
 ユダヤ教を盲信する信者が、生ける神が人々を救う為に齎されたキリストの教えを拒みました。

 真の神を求める善なる心に立つ者なら、
その真理(宗教)を与えた者が神であるか悪魔であるか、
その教えから人の心をどこへ導いているか見極めようとしない訳にはいかないでしょう。
 その導いている先に、その存在の心を、世界を見出だしていないのなら、
真理に盲いているのであり、それが悟れない者は
(自己保存に生きる)偽我から目覚めることはなのでしょう。
 神は人が目覚め自らの意志で真理に生きることを、
それ以外に真理に生きることは出来ないことを伝えてこられました。備考2終〗

第一部 天の教え
第一章 天の歴史
一節 天の救いの歴史

 ㈢ 天の霊の合体、守護(という直接個人への働き掛け)による救い
"天上界による大事業"
 ルネサンスではダビンチ、そしてミケランジェロが同じイタリアに、同じ時代に生まれました。
 十八世紀には、ドイツ、オーストリアに集中して大音楽家が生まれました。
 古代ギリシャでは、ゼウス、アポロの父子、七賢人(七名全員に高次元より合体)、
またソクラテス、その弟子のプラトン、その弟子のアリストテレス、
その弟子のアレキサンダー大王へと偉大な精神が引き継がれました。
 宗教、思想の分野では、アブラハム様、モーセ様、ブッタ様(とお弟子のモンガラナー)、
孔子様(とお弟子の曾子)、イエス様、マホメット様などに高次元による合体、
守護が為されました。
 科学の分野では、天文学者コペルニクス、ガリレオ=ガリレイらが地動説を唱え、
キリスト教会による精神の隷属に屈しない、自由な精神の中に真理の表れることが示されました。

 人間の努力だけでこのようなことが起き得ると思われますか?
 時代が変ろうとする、変えねばならない時に、偉大な人々が現れたのは何故か。
 何故その時その場所に於て起きたことが、その一度だけで、その後二度と起きないのか。
 実にこれらの天才、偉人達はすべて天上界高次元の聖霊が、その時代、その場所に於て、
人類への導きを計画し、自ら転生して実現されたのです。
 目的が達成されれば、無計画に同じことを繰り返すことはありません。
 天上界高次元の方々は、今生に於て又、転生に於て医学、及び科学を研究され、
また合体者にその知識へと導く探求心を伝え、人類に貢献されました。
 第二部の高次元の方々の転生を見て頂ければ、医学、科学への功績は圧倒するものがあります。
 彼等の人類への愛情と真理に対する姿勢がどのように培われてきたものか、
よく伺われるのではないでしょうか。

「慈悲と愛」78年12月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」23頁
「合体霊は合体する人間に高い意識を与え、
そしてその人生をより良きものにするために働きかけるものなのです。
 ですから決して二つの魂は一つになることなく永遠に二つのままなのです。
 そして更に詳しく申し上げると人間はその受精卵が出来た時より魂の歴史が始まるのです。
 そして受精後(胎児の脳の形成が整う)三箇月目より天上界からの合体霊が合体を始め※1)、
 そこから新しく出来た魂が魂を通し合体霊の意識の吸収を始めるのです。
 
合体霊は合体霊であり、新しく出来た人間の生命は
決して合体霊と同じものとは言えないのです
※2)。
 このことを皆様は確りと理解しておいて下さい。」

※1注。
 胎児は、視聴覚のない世界にあり、
そのような中で8箇月近く善なる意識を維持することは合体霊にとって大変なことだと思います。
 悪霊から胎児の精神を守り、善なる意識を養い育てねばならないからです。
 母体の合体霊や守護霊との意識の交流はあるのかも知れません。
 子供の生まれた後の母親の守護(育児ノイローゼに負けないように)や、
健全な子供に育つ為には、穏和な家庭環境が不可欠ですし、
児童期は善霊のみならず悪霊からの想念に影響され易いことから、
善霊の守りに与る所がとても大きいのです。

「JI」90年8月号 ラファエル様メッセージより
「子供は両親の愛なくしては、
健康も才能も得ることは出来ず、成長の芽は摘まれてしまいます。
 良き教育者に出会うまでに、良き両親の愛と家庭が子供の成長と才能開花の未来に向けて、
機会を与えることが出来るのです。
 夫婦の不和と、母親の育児への無関心、愛情の欠如は子供の不幸な運命を定めてしまうのです。

 胎児の時代から赤ん坊の学ぶ速度は、天才のそれであると岩間先生が伝えてこられましたが、
その時期に両親の歪んだ精神や愛の欠如が赤ん坊に与える不幸な影響は、
計り知れないものがあります。
 それによって後年の成人の社会への適応度が決まるのです。

 
 正法者の夫婦となる人達は、子供が欲しいと思われるなら、
まずお互いの愛情の確保と、子供を産み育てる為の責任の大きさを、心すべきですね。
 生まれてくる子供の運命を、左右するのは両親なのですから ー 。」

 精神の未熟な者同士が結婚し、子供を授かりながら真の愛情を育てることが出来ず、
離婚し片親で子を育てるのは厳しいことでしょう。
 しかしその為に子供が充分に愛情が注がれなかったとしたら、本当に気の毒なことです。
 人に愛を与えられる健康な精神を養えられなかった人、精神の歪んだ人、愛を貪る人、
このような人達の内で真の愛が充分に注がれた者が一人でもいるでしょうか。
※1注終)

※2注。
 今を生きる人間の自我は肉体と共に生まれたもの、
今生の体験を、学習を通して培われた心でしかなく、
人間として生まれるまで存在していないものです。

 合体霊は合体者(人間)の意識を通して理解されるに過ぎません。
 今生で盲目であった方の霊が、合体者の視神経を通して視力を得ることは出来ません。
 合体霊が合体者の口を通して語り掛ける現象も、
合体者が意識を通じて聞こえたことを合体者が語るしか出来ません。
 合体者(人間)が神経細胞によって感受しているものを、
合体霊が同じように感受することは出来ず、
あくまでも合体霊本人の今生で獲得した条件反射
(見る聞く語る思考する能力はあっても皮膚感覚はない、
あったら高度10万メートル上空にはいられないでしょう)、及び
合体者の意識から伝わる思いによって判断されるに過ぎません。

 悪霊が人間の自我(意識)を支配し、邪念を満たす、人間に悪を為さしめることを憑依と言い、
人間の唯一の自我が霊体の転生によって齎されると考えた転生論とは全く別のものです。
 憑依する悪霊は、天使によって消滅されて来ました。※2注終)

〖参考
「わかりやすい交流分析 1 (チーム医療)」65頁 中村和子、杉田峰康著 
「人間が、心身共に成長する上で食物と同じように欠くことの出来ない
愛撫・接触・音などの生物学的刺激を、ストロークといいます。
 それは肌の触れ合い、心の触れ合いをいい、交流分析の基礎的理論となっています。
 まず、ストロークの概念を具体的に把握して頂く為に、
アメリカの記録映画「第二のチャンス」の概略を紹介しましょう。

 1歳10ヵ月の女児が、父親に連れられてある小児専門病院に入院しました。
 当初の体重は6.8kg、身長71cmでそれぞれ5ヵ月、10ヵ月の乳児の平均値だったのです。
 また、運動能力もなく、這うことや、("マンマ"、"ブーブ"といった)
片言すら言えなかったのです。
 表情は悲しそうで、口許も堅く閉ざしていました。

 入院後3週間経っても、この女児を訪れる人がいないので、
ソーシャルワーカーが母親に連絡を取ったところ、
母親は「赤ん坊の為に私達の生活が犠牲になることには耐えられない」と
逆にワーカーに訴えたのです。
 これまでの育児について、生まれつき抱かれるのが嫌なたちで
一人にしておく方が機嫌がよかったと説明しました。
 ソーシャルワーカーが母親の気持ちを聞いたところ「もう娘を養育する気はありません」と、
子供に対する否定的な感情を認めたのです。
 入院後の諸検査からは、心身両面の極度の発達遅滞に関して、
何等その原因を見出すことが出来ず、結局"母性愛欠乏症候群"と診断されたのです。

 治療は母親代りのボランティアの女性が週5日間、毎日6時間に亘り、
愛情の籠った態度で患児の世話をしました。
 また看護師や保育士達も極力この子を抱いたり、この子と話したり、遊んだりして、
十分な心身の接触を与えるように努めました。

 このような治療を続けた結果、6週間後にはかなりの感情反応が起こって、
口許には笑いが見られ、体重が2.7kg、身長は5.1cmも増加しました。
 運動機能も、はいはいから伝い歩きが出来るまでに進歩したのです。
 また入院時はまったく拒絶していた人間的な接触もずっと積極的に行うようになったのです。
 この症例から、身体的な接触を断たれた乳児では、
成長を促すホルモンの働きまでが異常をきたすことが理解されます。

 一般に施設に育った赤ちゃんは、栄養や衛生管理が十分行き届いていても、
心身の発達が悪く、病気や感染を起こしやすいと言われています。
 この施設児を早い時期に愛情深い家庭で十分世話をすると、
ほとんどの赤ちゃんは食欲・表情・反射機能などが安定して劇的に回復することは、
しばしば体験されるところです。
 母親から温かい接触を受けている赤ちゃんの表情は、明るく生き生きしていますが、
母親と接触のない赤ちゃんは、落ち着きがなく、周囲には無関心で、
表情も何となく暗いのが観察されます。
 幼い子供にとって愛撫と肌の触れ合いは身体の成長に欠かせないだけでなく、
心の面でも基本的な安心感を齎し、
人間や世界に対する愛情と信頼へと発展していく為の土台を形づくっていきます。

 人間は一生、このストロークを求めて生きており、子供が大きくなるにつれて、
その性質も、肌を通しての触れ合いから、言葉や動作による愛情表現へと変化していきます。
 人が社会生活を営む基本的な動機は、
ストロークを与えたり、受けたりする為と考えられています。
 また幼時に親を中心とした養育者からどんなストロークを貰ったかによって、
他者に対するストロークの与え方や受け方が決まり、
人生への態度にも大きな影響を与えると言えましょう。


「未来へつづく進化論 (NHK出版)」116頁 長谷川眞理子著 
「もう一つ、最近の分子生物学的な発見のなかで非常に重要だと考えられるのは、
エピジェネティックな変化です。
 エピジェネティクスとは、遺伝子そのものに変化はなくても、
生まれてからの生活環境からの刺激によって、ある遺伝子に修飾がつき、
その遺伝子が働かないようにされることがある、ということを指しています。
 ある遺伝子を読み始めさせるプロモーター部分に
メチル基がつくことをメチル化と言います。
 メチル化が起こると、その先は読まれなくなり、
従って、その遺伝子はあるにもかかわらず、その効果が発現しません。

 これはどういうことでしょう?
 これまで、遺伝子には、突然変異で生じたいくつかの対立遺伝子があり、
それらが親から子へと伝えられ、
自然淘汰の結果、そのような対立遺伝子はやがて消えたり増えたりする。
 または、小さな集団内に生じた中立な変化であれば、
単なる偶然によって、消えたり増えたりする、
というように考えられてきました。
 それはその通りなのですが、遺伝子があるにもかかわらず、
その遺伝子の持ち主の個体がさらされた環境刺激によって、
その遺伝子が働かないこともある、ということです。

 たとえば、ヒトの子どもが生まれて育つ時、
普通は愛情たっぷりに誰かが世話してくれるはずです。
 しかし、そういう環境がなかったり、虐待されて育ったりすることが、時としてあります。
 そうすると、愛情たっぷりという普通の環境刺激のなかで
普通に発現してくるはずの遺伝子の一部にメチル化が起こり、その遺伝子が発現しなくなる、
ということがあります。
 情動やその制御にかかわる遺伝子の一部に、そのような効果が見られています。

 育つ過程での環境が普通と違うと、大きくなってからも、
普通と違う環境になるかもしれません。
 そうだとすると、そういう環境では、普通の環境で有利に働くような表現型ではなくて、
何か別の表現型を持ったほうが有利かもしれません。しかし、遺伝子はもはや変われない。
 そこで、表現型の可塑性
(かそせい)を増やすための一つの方法として、
メチル化による遺伝子の修飾というやり方が進化したのかもしれません。


注。
 生き易くする為に、性格(心の条件反射)を環境に適応し易くする、悪なる環境に染まる、
環境から得易いもので愛情(ストローク)を満たそうとする性格が造られてゆく、
同性愛志向など、自然の与える本能を抑えつける心も
そういったところに原因があるのかも知れません。

 自分が満足できるなら、そういった心を、世界(価値観)を正しいものと疑わない、
ナルシシズムに生きる世界が如何に容易に毀たれるものか、
自我が脅かされれば、簡単に自分を失う、自己保存への執着心だけの人格となる、
すべての良き心を留める力を失う、愛した筈の者をも裏切る、そうなった心に救いはないのです。
 心の脆さ、弱さを齎すものが自己愛に生きる心なのです。
 自分に厳しく出来るのは、自分よりも人を思う愛だけです。注終)

 このような、環境刺激による遺伝子の修飾を、エピジェネティックな変化と呼ぶわけですが、
これは、獲得形質の遺伝でしょうか?」 参考終〗

〖備考1
"合体霊、守護霊の役目"
 合体霊は、本体(合体者)の良心の育成・強化。
 守護霊は、人の取り巻く状況を外から見守り、正しい判断へと意識に働きかける。
 悪霊の干渉により道を誤ろうとしている時、
必要に応じて天上界への報告も行う役目が与えられています。

"人の中の合体霊"
 人間は生まれてから、自ら思考し始める、感情の働きが自らの意志を育てる前から、
他人(合体霊)の思念を、感情を波動として受けています。
 まだ働き出していない理性・前頭葉に、自分の思念から出る波動ではない、
他者からの働きかけ(波動)によって、同じ波動の思念が起き、
心に条件反射として刻まれて行きます。
 合体霊と同様の感性を持つ心に成長します。
 初めは本能だけの行動しか起きませんが、
その本能による行動も、他人を苦しめる時、合体霊は不快の念を伝えます。
 自分勝手な行為には、満足感が得られないことを学んで行きます。
 価値観が自覚されてくると、苦労しても価値観に従うことで、
心は自分を裏切らなかったことに満足します。

 良心(合体霊)の声は、人にとって己自身の声、真の我の思いとして意識されます。
 人から注意、又批判されて
(それが正しいと判ったとしても、
その者の善意が信じられなかったら、伝わらなかったとしたら)
素直に反省出来ないような我の強い人も、
己が本心から善を望んでいるのだと理解
※3した時、
素直に良心(善我)の声に聞き従えるのでしょう。
(真理に対する謙虚な心であって、独り善がりや偽善といった高慢な思いとは正反対の心です。)
 己が非を悟る、悔い改めることが出来るのです。

※3注。
 反省とはそれを言います。
 自らの過ちを認め、改めることは魂の研磨であり、
偽我を削り落とし善我へと至る過程です。
 反省が辛いのは、善我に立っていないからです。
 反省するとは、善我へと、神の思いを理解しようと意識を向けることであり、
罪を、悪を隠そうとする偽我に、善なる心、神に繋がる清められた心を持たぬ者に
反省が出来るものでしょうか。

 善我に立つ程の強い精神を持つには、天へと続く程の長い道のりでしょう。
 大切なのは今、善なる心を意識する、
神の物差し(判断基準である正法)は何を善としているか理解されれば、
その善を認めようとしないこの世の物差しに人々が振り回され続けるのは、
ただ偽我にのみ働き掛け執着させる、
愛(神の心)を偽善で覆い隠し、自己愛に溺れさせているこの世を支配する邪悪を
実感されるのではないでしょうか。※3注終)

 人の内なる善霊は、自ら良心となって導き、私達自身の良心を育てて下さるのです。
 世の人は、良心に恥じない生き方などと己を誇る者の如くに言ってますが、
内なる善霊の愛の賜物に他ならないのです。
 愛、人の幸福を願う、思い遣る熱意がないならば、善も義も人の心を打つことはありません。
 天に果たす使命として、善霊が私達の生涯を通す為に、私達の肉体に降りて来られました。
 彼等の愛のお蔭で、天の真理の観念が、
天への指針として生きようとする熱意となって理解されるのです。
 神と人を繋ぐものは、愛以外に無いことを身を以て伝えられるのです。備考1終〗

現象テープ№34 「天の現象と霊体の構成」より
 81年10月18日 ミカエル大王様現象
&「エルバーラム」59頁

「私がGLAにいた当時は、いろいろな人々に異言を喋らせ、
またそれがその人々の転生を示すものとして霊能者は誇りを持っていたようですが、
転生という事自体が、今回私達が現正法者を通じて解説したように、
実は生れ変りではなく、単に霊体が人間に合体して色々な事をやらせる、行わせる、喋らせる、
書かせる、そういった現象と申しましょうかそういった状態を指すものであって、
GLAで理解されていたものとは全然異質のものであるという事は、
皆さん正法者の方々は既に学ばれてお解りになっていることと思います。」

  GLAの人々は、高名な誰それの生れ変りだと悪霊に煽てられ、
ウソを真に受けて自己陶酔に耽ったようです。
 傍から見てこれほど滑稽な姿はないでしょう。悪霊が笑い転げる姿が目に浮かぶようです。
 これを悪魔の甘言と申します。
 人間の最も愚かしい心に人を突き落とす。
 真理の前に謙虚な心があったら、己が慢心を悟れたことでしょう。
 己を高しとする自惚れが、あなたは高次元の生まれ変わりであると言い寄る悪霊を、
天上界の霊であると思い込んで益々自惚れるのです。
 選民意識を持つ信者と同じ、悪魔に手玉に取られる心です。

〖備考2
 天上界高次元の方が合体された場合、
天上の仕事の為に合体者から出られることもあったそうです。
 何も事情の知らない合体者は、心に穴があいたような、気持ちの張りを失ったであろうことは、
想像するに難くないことです。
 彼等の中に自ら人生の見切りをつけた方がいるのは、
そのようなことが影響しているのかも知れません。
 同じことが悪魔の力を得た者にも言えます。
 ユダでなくとも、弟子の誰であろうとサタンは支配し、イエス様を裏切らせたことでしょう。
 サタンの入ったことを悟らず、サタンの思いの強さを自分のものと思い違いをしてしまいました。
 その精神力の強さに恐れるべきことすら解らなくなったのです。
 それでもかつてはイエス様を、主と理解するだけの善なる心をユダは、持っておりました。
 神をも恐れぬ悪魔の心からイエス様を裏切り、
役目の終えたユダからサタンが立ち去り、空っぽな心の我に帰った時、
悪魔の思いに己の心を満たしたことを、
そのような心を心として生きたのが自分であることを、
償いようのない罪にまみれた己が姿を自覚したのです。絶望の果てに自殺しました。

「希望と幸福 ヒルティの言葉」秋山英夫訳編 12頁
「我々の行動が神の意志に従っている場合、
一番はっきり表れてくる結果は、心の楽しさということである。
 これは単なる神経の興奮に過ぎない騒々しい陽気さ、
あとから哀愁を伴う陽気さとは違ったものだ。
 それは静かで明朗な快活さと生気に溢れた喜ばしさであり、
しかもそれが例外的に起こるというのではなくて、ノーマルな状態として与えられるのである。
 正にこれこそ人の心が本来最も強く憧れ、
もし一度それを実感し、のちにまた失ってしまった場合には、
その喪失の痛手を最も激しく感ずる境地なのだ。

 勿論このような心は、自らの意志で得られもし、失いもするものでもあります。
 そしてこのような心を持つならば、同じ心を持つ天上の霊の思いが伝わり強められるのです。
(善なる心であることが普段の心の状態の者には、意識されないのが普通ようです。)
 しかし、私達の心の半分は合体霊の心に影響され、形成されたものですから、
自らの心なのですから、やがては一個の魂として独り立ちする為に、
たとえ一人ぼっちだと思うような時でも、
揺るぎない善の心だけは失ってはならないのです。備考2終〗

〖備考3
 合体霊など感じたことがないから、
自分の中に合体霊がいるなど信じていないという方も居られますが、
合体霊の意識を自意識としか判断されない人も、
実は合体霊がそういった意識、考え方、感じ方、価値観を持つが故に、
自分も同じような感じ方、考え方になった、
別の人格から伝わったとは意識されないのが普通でしょう。

別の人格が表れるのは精神の病であると心理学は説明しておりますが、
現実は別人格の悪霊が人間の精神を支配した時に現れる現象です(※4)。

※4注。
「JI」89年1月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・Ⅲ」124頁

「(正法者で精神科医の)木村先生からのお手紙で以前から御相談があったことですが、
精神病と霊障との差異については、
やはり症状として診(み)るから誤診が出るのではないかと思います。
 もし可能であれば脳波やスキャン撮影によって
器質変化の有無を調べて初めて診断を下すのでないと、
精神病の症状としての本人の行動が憑依によって動かされているものか、
本人の妄想的な行為なのか、外部から判別は付け難く、
また悪霊もそれを狙って操るようです。

 その例として憑依でしかなかった一青年が
暴れたという理由だけで警察の保護を受け、強制入院。
 そしてその繰り返しで、暴れなくなったからと
一時帰宅させた翌日に、また憑依されて暴れ出し、
心臓が弱っていたのを知らずに暴れないように押さえ付けた為、
本人が苦しいので反抗し、押さえる側は判らず力を加えて、
いろいろ揉み合ったはずみに内臓が破裂、死亡に至ったケースもありました。
 つい最近の警察の制圧行動に似たようなことです。
 こういった不幸なことが起こらない為にも精神病の診断は内科、外科と同じく、
検査という科学的、客観的な手段を経て治療を決めて頂きたいと思います。
 勿論、本人が行う行動の理由付け又は説明によっても診断出来るでしょう。

 しかし、私が相談を受けた中では
只二例のみ明らかに、思春期の精神病の症状と判断した以外は、
総て巧妙な悪霊の操りによるもので、不幸にもソ連の"良心の囚人"の如くに
正常でありながら、入退院を繰り返されている人が多く、気の毒なことでした。

 特に若い人達は安易に妄想と診断され、内臓を壊すだけの精神科医薬を飲まされたようです。
 ああいった誤診を何とかする方法はないか、その努力をお願いしたいと何時も考えます。
(第一部 第十章 一節 精神面 (四) 精神病と霊障の差異)※4注終)

 善霊は人間の人格を成長させる、生かすのが目的です。
 人間の精神を支配し、人の肉体を利用して自分の欲望を満たす、
人間の人格を破壊し、家族を苦しめて楽しもうとするのは悪霊だけです

 自分と合体霊の意識に開きがあり、自分が自己保存から、欲望(自己愛)から
間違ったこと、悪いことを、そうと思わずに行おうとする時、
そのような偽我に反撥する心、呵責となって意識される、
それがはっきりと言葉として伝わるのは、合体霊の思いを理解する心があるからです。
 そのような思いを感じ取る良心が、合体霊によって育まれてきた者に、
己の善を誇ることなく、人の善意を、合体霊の存在を信じる心を見出せるのかも知れません。

 鈍感な合体者(人間)に無視される程、どうでもいい存在は合体霊ではなくて
合体者の方だと、合体霊は思いの伝わらないことを無念に思っているかも知れません。
 実の家族でも、一緒に暮らすしかない為に、いがみ合う環境に馴染んでしまい、
憎み合う心(条件反射)に生きることしか出来ない、
その心しかない為に今の環境に執着してしまう。

批判ばかりして、責任感の自覚なき特権階級を当然とする在日朝鮮人はその典型でしょう。
 彼等は自覚の有無に関わらず、北朝鮮の工作員としか思えません。
 自己保存から左翼に沈黙するだけならそれ以下と扱われるしかないでしょう。

 日本人に自分達は虐げられてきたと批判しても、
自分達の非を非難されることを許さず、他の外国人にない特別待遇を当然と考え、
本国の同胞が如何に虐げられているか、
権力者を批判すれば、見せしめに迫害されている同胞にさえ痛める心を持たない。
 地獄の北朝鮮から逃れていられながら、北の独裁者の望み通りに
(彼等在日に選ばれた左翼政党によって)日本を社会主義国へ、
権利を貪ることしか考えない獣に堕としめてきたではないですか。
 無論、日本の共産主義者も同様であり、社会共産主義国を天国と信じているのでしょう(※5)。

 本国の同胞の悲哀の伝わらぬ在日が如何に冷酷で自己愛に生きる心であるか、
自由な日本に住みながら同胞を助ける処か、自由な身であることさえ恵まれているとは考えず、
北朝鮮国家に成り代わって、彼等が日本国家を従わせてきたのです。
(立憲)民主党や、社民党(社会党)がこれまでやって来たことを見れば明らかでしょう。

※5注。
「希望と愛と光」81年2月号 ミカエル大王様メッセージより
「あなた方は正法者や正法誌に関心を持つ読者ですから、
そのようなことはよもや無いとは思いますが、
もし社会主義国が共産党や社会党の宣伝のように"人権尊重"を第一義とし、
"労働者の権利と平等"を第二とする理想の国家と考えている人があるとすれば、
ひとたび前記の二政党が政権を取るや否や(いわゆる連合政権でも単独政権でも)
それが如何に大きな誤算であったかを嫌という程思い知らされるでしょう。※5注終)

 共産主義者の亡霊が天上界に刃向かっているのです。
 旧日本軍人の亡霊ではありません(例外は何処にだっております)。
 昭和天皇を敬ってきた日本人の心は、神を敬う心と同質です。
 日本人は宗教を信じる者も信じない者も、昭和天皇を通して神を敬う心を育ててきたのです。
 その心は真の人格者
※6であるか否か見抜く知恵を育ててきたのです。

※6注。
「JI」88年9月号初出 ウリエル様メッセージより
日本の人達の本質は、国境のみで他国と接し、生活を文字通り闘い取ってきた国々とは異なり、
鎖国の長さと、天皇制に統一された国として、まだまだ他人への信頼も大きく、

"まず人を見れば泥棒か強盗と思う国柄"ではなく、純粋な人が多いのです。
 それが故に私達はここに居り、天の新しきメンバーを養成して居る積りなのです。

「JI」84年2月号初出 ウリエル様メッセージより
共産党議員が、彼等に比ぶべくもない有徳、高潔なる人格の天皇陛下の国会ご出席の度に
欠席し続けることをも伝えていないのです。

 全国紙はすべて徐々に或いは急激に左傾の途を辿りつつあることは、
明白と言わねばならないでしょう。」※6注終)

 サタンに操られ立派な人格を妬む人々とは正反対です。
 良き人格を知ると貶めずにはいられぬ邪念(悪霊)に突き動かされてきたのが左翼
(日本人であろうと朝鮮人であろうと神に抗う悪霊と同じ心であり、
悪霊の邪念に抗えぬ心へと導かれた人々)です。
(真偽に関わらず、人の非は責め、自分達の非は一切認めず)
ひたすらに日本人を貶めることで自己肯定(自己満足)の心に堕し、
悪霊に弄ばれるまでに盲目の心となったのです。
 彼等が今犯している(神の計画に抗う)罪の重ささえ理解せず、
天に対してこれ以上ない罪を犯す心が、共産主義者の偽我(悪魔の心)なのです。

 そのような環境にあれば、人を思い遣る気持ちも育たず、
自我を守ることしか考えない、人を信じない、
素直な心がない為に、人の優しさにさえ素直になれない、
協調する優しさを持たない、人の善意に反撥する偽我しかない、
それでは人の善意を喜ぶ優しい心も育たないでしょう。

 合体霊(善霊)も神(天上界高次元の聖霊)の霊も、
霊能力を持たない者は、目に見えず、声も伝わることがなければ、
存在を認識出来ず、会話をすることも出来ません。
 かりに霊能力があっても、善霊であるか悪霊であるか判断を誤らない
能力を持つことは至難のことでしょう。

 神を実感したことがない(神と同じ心を持たない)ままに信じ続ける信者は、
真の天上界が真理を、神の愛を伝えようとも、教義に則って解釈する思考しか持たず、
真の神の繊細な、優しい思いの伝わる善我を見出していない
(教義に順応する条件反射しか持たぬ)人々の神への信仰も同様であり、
神の心に触れて(神の心の波動を受けて)も神の存在を直観するだけの
善なる心が開発されなかった人なのでしょう。

 霊能力は、力ある霊(善霊、悪霊の区別なく)によって齎されるのみならず、
悪霊の憑依(人の意志を支配しようとする念の力)によっても
霊道が開いてしまうことがあるそうです
(霊道が開かないまでも、霊の想念の感じ易い心になるようです)。

 霊能力を持たねばならないということではないのです。
 霊能力を持つ者を通して神の意志を、
天の計画(合体霊によって天の道に導く)を知らされました。
 合体霊によって神の思いが伝えられたと信じられても信じられなくても、
天上界の教えが正しいと、真の天上界であると直観されたのなら、
彼等の思い
(人類を救う)を受け止めるか否かは、真に己が良心の問題、
即ち神の導きであると信じようと信じまいと、神の心、善なる心に生きることが、
人類に平和と良心を齎すものと確信を与えたのなら、
それが自らの善の意志で得たような慢心を戒める心を、
霊能者を通して語りかけた彼等が、
同じ善なる心に生きる者であることを信じる心を
見出さなければならないと思われるのです。

 これらのメッセージが真理であると理解するなら、
このようなメッセージを語った者が他にいなかったのなら、
彼等以上に真理を知り、真理を齎す熱意を持った者がいないということが
理解されるのではないでしょうか。

 真理を知り、真理を愛する者が、偽って自らを神と名乗ることはあり得ず、
神を名乗るは、その真理が神に相応しいものであるか、人々に問いかけている、
真の神であると理解する者を呼び集める為であり、

その真理を理解する者とは、実に彼等がそのように導いてきた
(天の善霊を合体霊として、守護霊として遣わした)
ことを自ら証されたのです。

 その神々のメッセージが真理であると理解されたのなら、
その思いがどのようにして伝わったのか
(善なる霊が私達の内に在って自覚せずとも互いに意識の交流によって伝わったのか、
外に在ってその思いを伝えてこられたのか)など問題ではないでしょう。

 真理を伝えたのは自分であると評価されることを望んでいるのではありません。
 彼等と同じ心なら、神の御心が伝わる、神への愛が伝わる、
その思いに生きているのだから、伝えるべきものもそれしか考えないでしょう。
(彼等の真の幸福を齎したいとの願いも伝わらないから信じない、
もし自分の心に中に別の人格がいようとも、思いを伝えようとも、
伝わらないのにどうして信じられるのか、
そんなものは唯の思い込みであると納得する。
 もし本当にそのような人格がいたとすれば、
合体霊を、そして自らの良心を自分の死ぬまで闇の中に閉じ込め、
良心を顧みず、己の為にのみ生きる。
 そのような心の行く所が天国とは思われないでしょう。)
 彼等の思いの伝わらない心なら、悪魔の思いも伝わることはないと、
悪の導きから、悪霊の干渉から安全でいられると、
そういうことにはならないのです。

 悪魔は人の自己愛を満たすことで、
人は自分を愛する心にのみ生きる心へと堕落させます。
(悪魔に意識を支配された心は、
邪念を苦しむ心を、善に飢え、神を求める心を失うのです。)
 善なる心の滅びが真の滅びであるとの恐れも感じぬ者とは、
悪魔の甘言に侵され神の心を失った、
善なる心を悪霊の条件反射へと変えられ、
神の救いから零れて行った魂の存在を
一度として顧みたこともない人なのかも知れません。

 もし天上界が見放していたら人類は、
善を愛する心を持ち続けることが出来たでしょうか。
 神の存在がなくとも、信じなくとも、悪魔の破壊が現れる時、
永遠の生命の失う恐れにも屈することなく善を貫けたと、
そのような善の大切さに目覚めることが出来たと思うのでしょうか。
 苦しくとも善を愛する思いに生きようとするなら、
自己愛に生きる心の冷酷を知るなら、
どうして今、善なる心に従わないでいることが解らないのでしょう。
 悪を軽んじていることにも気付かないから、
悪が現れれば悪を恐れる心に勝る善が自らに現れるなどと
自分を過信していられるのでしょう。

 本当に自分を滅する力ある悪魔に立ち向かうことが意識された時に、
悪魔と戦うまでもなく、恐怖から自らの自己保存に支配されては、
自己保存に屈しては、もはや善なる心、真理を愛する心を自ら捨てることになると、
偽我に屈しない善我を、神の心を求めているでしょうか。

 善に生きぬ心故に、善の厳しさを知らずして善人と自惚れる、
悪に苦しむ者に痛む心なき故に悪に寛容を優しさの表れと勘違いする、
自らの良心よりも人の批判を恐れる小心に、
「善に生きんとする者に神は苦難しか与えない」という言葉に、
それなくして善なる心へ導かれることはないと、はたして覚れるものでしょうか。

 自らを神に導かれるに相応しいと慢心し、真の心に目覚めることがなく、
盲いて滅びに導かれて行った多くの魂の無念の全く伝わらぬ心であり、
そのような感受性がないからこそ、善に生きない心であっても、
悪を前にすれば、己が善は目覚めると自惚れていられる。

 人の苦しみも感じぬ冷酷な心に向き合わず、
人が自らに見ようとしない悪を見抜けるからと己が善に慢心する。
 己が悪を認めようとしない心が、自らの内に悪を育てることを知らず、
自分への愛に満たされる心とは、
偽我(愛を得ることしか知らぬ心)さえ神に愛されると自惚れる、
それこそが悪魔の心(増上慢)であり、
己を低くすることなき心に真に崇めるべき神の心が見出されることはない。

 自らの神の心を顧みぬ心に生きるなら、
悪霊の干渉から自分を守ることは出来ないのです。
 良心の声、内なる神の心に生きる善の思いが伝わらないからと
良心を顧みぬようなことでは自らを失うでしょう
※7

※7注。
94年7月18日 ブッタ様メッセージより(未出版)
私はこのメッセージを受け取る人々に
もう一度"正法者"と成られる為のチャンスを与えたいのです。
 あなた方をこれまで導くために努力され、
そして天上の戦いにおいて無念にも亡くなってしまわれた人々の
想いに気付いてほしいのです。
 一言の言葉も交わされる事無く、只、あなた方お一人ずつの意識に呼びかけられ、
誕生の時より共に苦楽を味わわれた方々なのです。
 その方々の意志を受け継ごうとは思われませんか。


 彼等の思いを感じて、そのように生きる決心をされた方は、感受性の強い方なのでしょう。
 私はそのように生きたいと思うようになった時に、
やっと彼等の思いを受け取る資格が与えられたのか、
それまで彼等の思いを感じていなかったことが分りました。

 神(善に徹する人格)への、真理(魂の救い、平和)への愛を見出していなかった善霊が、
天上の戦いで勝利し、永遠に生きるのは、今の天上界に勝利する
(彼等を滅ぼし天上界を支配する)我々であると宣言した(サタン)ダビデの言葉に、
自らの生命を失う恐怖から自己保存に心奪われ、神の愛よりも己への愛を選ぶ偽我へと堕し、
天上界を裏切って行きました。
 彼等は今生に於て、善なる心に生きた人達であったことでしょう。

 しかし真の善に徹する心とは、今ある悪に気付かぬような、
自分の周りが平和であれば満足するような心を言うのではない。
 真に悪を憎み、悪に苦しめられている人の思いを感じないような心に生きるなら、
悪が立ちはだかった時、心に現れるのは悪への怒りではなく、
自分の安全の為なら悪にさえ従う自己保存の心に堕することになることを、
今生に於て我々は悟らねばならないことを知らされたのだと思います。

 今、真の悪に目を背ける、その悪こそ彼等にとって掛け替えのない善と信じる
偽我の塊である左傾メディアの言うがままを信じ、
そのように考えれば善なる心が養われると思ったら、
取り返しのつかないことになることは、気が付いておられることと思います。
 彼等は共産主義を信じていようといまいと、
その偽我ゆえに悪霊の支配から逃れることの出来ない人達です。
 どうして左傾メディアにあって善我でいることが耐えられるものでしょう。
 彼等は善に生きることよりも、名誉、財産を選んだのです。
 サタンの道に踏み出した人達です。彼等を信じる方がどうかしているのではないですか。
 ※7注終)
 備考3終〗

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法