これからメッセージを読まれる方へ
"最終の警告"
「慈悲と愛」78年11月創刊号初出
&「エルフォイド」14頁掲載
「手記(口述筆記) 土田展子(霊能者)
(一九七八年)一月四日 夜十二時、
眠ろうとしていた私の眼の前に、 直径四十センチの真赤な火の玉が
二つ黄金色の光を伴って飛んで来ました。
火の玉は二、三分静止すると寝ている所の一メートル上に留まって
かげろうの様に黄金の光を放射していました。
その内どこかへ飛んで行き、目を見開いて見ていると、
ブルーの服を着た長身の天使様が飛んで来られました。
その天使様は私の上を、黄金色の光を振り撒きながら二、三回旋回し、私の横に降りて来られ、
良く見ると他に黄金色の服の方、銀灰色の服の方、緑の服の方がおられました。
驚きで呆然としていると、その内のどなたかが、
「起きて今から私の言い示すことを筆記し、人に伝えよ」と仰しゃり、
私は急いで起き上がって電燈を点けたのですが、黄金の光で周囲は何も見えませんでした。
(明るい方が霊視がよく利くのです)
そしてペンを取って待っていると
「メッセージ。エル・リヒトエイム・カンタルーネ王、エル・シャルレア・カンターレ公爵
(エル・ランティ=エホバ)、エル・ピレッテラ伯爵(ミカエル大天使長)、
エル・ビッテルナ・ピラッティライラ公爵(テリエル(ベー・エルデ星)大天使長)
より千乃裕子様へ」と指示され、次のようなメッセージがありました。
「千乃裕子様を通じて人々へのメッセージ
銀河に輝く何億万もの星は真実を余す所なくそなたに伝えよう。
正であり義であると記された天上の信義は自然の中に姿を変え、
歴史の中に人を変え明示されてきた。
宇宙の中で精巧でしかも狂うことの許されない法則と同様に存在する
正法と名付けられた真理は絶対なものである。
妥協を許されぬ厳しいものであり、誰も正法の上に君臨することは許されない。
メシヤ崇拝(※1)を繰り返そうとする汝等よ。
正法を理解はしても悟り鈍き汝等よ。
裁きの時は来ているのだ。
最後の羊飼いとして選ばれ、ミカエルの意識を通じた後継者をも認めようとはせず、
汝等は一体どこに救いを求めるのか。
金銭であるか、権力であるか、名誉であるか。
権力によって、金銭によって、この世の名誉によって救いの道が開かれると思いしか。
天の意志に沿うと思いしか。
目明きでありながら盲である人は、今真実を見なければ、
魂の終る時までその世界は暗闇であろう。
後継者と名付けられしは王に権力を売る者ではない。
天の意志を伝え、そなたらの僕となるためである。
嗚呼、歎きの鐘は天に鳴り響き、地上には警告の鐘が鳴っている。
悔い改め刷新せよ。
最終にして最新の後継者(詰り汝等の心の僕である)も間もなく最後の灯を消すだろう。
その昔、数々の法灯が万民の僕となる為、
すべてを使い果たして燃え尽き天に上がって来たように、
千乃裕子も細い糸のような灯を消しかけている。
人々よ。
何が素直であるのか、何が謙譲であるのか、何が正法を広めるのに相応しいのか、
よく考えるが良い。
かくの如く最も基本であり、簡単で易しいことが最も忘れ易く踏み躙り易いのだ。
それを忘れ、踏み躙る人々に、法を説く権威は与えられない。
人に崇められ、奉られ、尊大に扱われることを望むメシヤと自称する人々に天は何も求めず、
只、正法の実践のみを人々に訴える後継者、千乃裕子に、
そしてその協力者、助力者に天の光は与えられる。
我等が後継者として天上の意志を伝えるは、ミカエルの本体なる千乃裕子なり。
拝み、崇めよと言うのではなく、只、天上の意志の仲介者として、
彼女を通して示される我等の言葉に耳を傾け、正しいものを判別せよ。
これが最終の警告である。
心があり、目が明き、耳の聞こえる五体満足な人間ならば、
この天の声が聞こえたものと信じよう。
光は何時も心素直な者にあり、栄光は心豊かな者にある。
願わくば、人の子皆イエス・キリストの再臨の時に目覚め、集まり来ることの出来るように。
(一九七七年)一月八日 土田展子」
付記 (このメッセージ(一月四日)は、伝えられて間もなく五、六名の重要な方々に
お送りしましたが、その後サタン・ダビデと信次先生の手により私、土田展子さん他、
問い合わせた先で下書きも共に紛失させられてしまい、
新たにミカエル様他の方々により作り直された(一月八日)ものです。
現象部分は幸いメモにしてあったものがそのまま残っておりました。 ー 千乃 )
(※1注。
"真のメシヤは天が証される。
天に証されぬ者が自らメシヤと名乗るは、悪魔に唆された者であるということ"
天に証されないのならメシヤではないことも判らないのか、
サタンの甘言に自分をメシヤと信じるほどの自信をどうすれば持てるのでしょう。
そのような高慢を持ち続けるのは、悪霊の憑依なくば起き得ないのです。
偽メシヤを信じる(憑依された)者が誰もいなければ、
世間から冷笑されるだけならば、惨めな自分の姿に目が覚めたかもしれません。
天上界に見棄てられた、GLAの偽メシヤ(高橋佳子)とその信者を見れば
悪霊に支配された人々であることが納得されることでしょう。
天上界は、彼等が導いた真のメシヤを、世に証する為に、
天自ら証言されてこられました。
偽りのメシヤも、その者をメシヤと証言する者も許してはならないからです。
「天国の証」ミカエルの章より
「偽善とは、
人 その価値を認めぬにて、自ら高しと
公言するものなり。
その目するところ、これ 栄耀栄華を望む心にして、
栄耀栄華を望むは
儚(はかな)きことを知らざるなり。
その向かうところは砂の楼閣のごときにして、
手にしたるは、ただ崩れ落つる
砂の城のごときものなり。
空しきものよ。」
(「天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻」第二部 「天国の証」第一章 ミカエルの章)
現象テープ№10 ②「新天王の宣誓」
78年7月22日 ミカエル大王様現象(霊媒 千乃裕子)
(「慈悲と愛」78年11月創刊号&「天上界メッセージ集(84年7月初版)」21頁掲載)
「悪の名に於て、正法の流布を妨害せんとする全ての悪霊並びにその霊に意識を支配され、
この天より備えられたる正当なる後継者より出ずるメッセージを妨害し、
失脚せしめんとする意図を持つ者を、悉(ことごと)く滅し或いは罰し、
恥と死に至らしめんとする決意をここに述べ、又誓うものです。
あなた方はそのような人々に心を閉じ耳を塞ぎ、常に光を信じ、私を信じ、
高橋信次氏の正統且つ合法的な後継者千乃裕子様を信じ、
悪の惑わしに己が信念を揺がせられること無きよう、
固く正法の教えを身に付け八正道と中道とに歩み、
そしてイエス様の如くブッタ様の如く善と悪と、正しきものと過てるものと、
神と悪魔と、善なる者と偽善者とを見分け、
理性と信念と揺がざる神への信仰とを持って、
神に離反する者、神を罵(ののし)る者を心より退け、
正法流布の為に己を賭して働いて頂くことを望むものです。」
真理の現れる精神に至る迄の道、真理を見出した者なき、真理の光なき道を、
真理を悟るまで、苦難に、孤独に、焦燥に耐え抜かれたのは、
ブッタ様以外にありませんでした。
【天上の霊はブッタ様の精神を真理を見出す、天の聖霊と同じ高みへと導かれたのであり、
安易な納得を、妥協を齎すことを望まなれなかった、理解ではなく悟りへと導かれました。
何故なら、天上界の一員であった(サタン)ダビデは(善霊を装って)
イエス様やブッタ様に働きかけることが出来たのであり、
尤もらしい言葉の裏に、悪の思想を生む心を育てる言葉(※2)を伝えて、
天上界の真理を歪めさせる、真理に生きんとする人々の心を、
サタンの心に適う心に歪めさせたのです。
真に天上界と同じ心にまで研磨された者でないと、サタンの甘言を見抜く知恵を、
歪んだ想念に反撥する善我を持った者でなければ、
天の真理を、神の法を授けることが出来ないからです】
その道を、真理を見出すまで人々を導くことなど自分には出来ないと、
真理を世に齎そうと望まなかったブッタ様に、
真理を悟れず、迷いの内に魂を見失って行く人々を救う為に、
真理を、神の慈悲を見出したブッタ様こそ、
衆生済度、神の救いの意志を託すべき真の覚者であると証されたのは、
ブラフマンと名乗って現れたミカエル様でした(※3)。
(※2注。
「JI」87年5月号 ガブリエル様メッセージより
「"健康な人には医者は要らない。要るのは病人である。
私が来たのは、義人を招く為ではなく、罪人を招いて悔い改めさせる為である
(義人は要らない。罪人を救う為に来た)"
(ブッタ様が親鸞上人に言わせられたお言葉 ー 、
"善人なをもて往生す。まして悪人においておや"も、実はダビデの言葉でした。)」
※2終)
(※3注。
「一九七七年の約束(天上界よりの通信)」より抜粋
ミカエル大天使長様 77年1月12日現象
GLA関西新年講演会 於東大阪市民会館 霊媒:高橋佳子
(「慈悲と愛」80年8月号14頁掲載)
今から二千五百年前に、ゴータマ・ブッタ(釈迦牟尼仏)
がこの地上界に出た時のことです。
私はバフラマン(高橋信次氏がそう呼ばれていました。
ミカエル様は、仲介されている佳子さんや、話し掛けているGLA会員の理解に合わせて、
敢てバフラマンと言われたのでしょうか。
辞典にあるのはブラフマン(梵天)だけです。)として協力致しました。
そして彼に天の世界について、
そして人間は何ゆえに、どのように生きるべきかを教授しました。
それと共に、一番大切なこと、肉体と魂の関係について教えたものでございます。
二千五百年が昨日のことのように思い出されます。
パピラの樹の下に於て私は懇々と彼に教えました。
人間は何の為に生きるか、そしてこの世界三次元は仮の世でしかないことを教えました。
(「天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻」第五部 現象テープ)※3終)
「マタイによる福音書 第一六章 一五節~二〇節」
「そこでイエスは彼らに言われた。
「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、
「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
すると、イエスは彼にむかって言われた、
「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。
あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、
天にいますわたしの父である」。
(中略)
そのとき、イエスは、
自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、
弟子たちを戒められた。」
イエス様は自分がメシヤであると語ることは、
自分を信じていない人に、強いて信じさせようとするものと思われたのでしょう。
それは真の信仰ではないし、人の心を救うことにはならない、
そして人に対して自分は高い者であるかのように振舞うことを
何よりも嫌われたご性格だったのでしょう。
イエス様をメシヤであると信じたペテロの心が、
神の御心に適うものであったから神の御意志が伝わったのだと、
神に愛される者に見出されてこそ真のメシヤであると思われたからではないでしょうか。
愛するとは、人の心の自由であることを望む心なのだから、
信仰は人に強いるものであってはならない
(神の心に目覚めた者に神の道が現れる、
神の声に耳塞ぎ、自らを甘やかす心に聞き従う者には偽りの道が現れる)と言われました。
神を愛することも同じであり、(御心を知ろうと)神を試みるなとイエス様が言われたのも、
神への愛の表れでした〖神の善なる心への全き信頼であり、
真の善を知り、神に伝わらぬ己が心の未熟を覚り、
神の生きてこられた(自らを甘やかさす心を嫌う善なる心を求める、魂の研磨の)
道に生きるを決意する、神への信義とはそれを言うのでしょう〗。
自らをメシヤと名乗り、人に信じさせようとする偽物と何という違いでしょう。
その違いが解らない人は、神の思いの伝わらぬ世界にいることに
気付いているのでしょうか。
"メシヤ崇拝について"
メシヤ信仰とは
真のメシヤであると確信を与えられるのは、メシヤに神の御心を見出した者だけです。
メシヤに神の御心を見出せぬなら、奇跡を行い得ても人の心を変えることは出来ません。
(パリサイ人は、イエス様に奇跡を行わしめたのは、悪魔だと信じました)
そのメシヤとは、人間の子ではなく
神の子(霊)が入った方と信じるのがキリスト教です。
人の内に神としか思えぬ知恵、愛を見出したから、メシヤであると信じるのは、
その人自身の、人間の心であり、その人が信じられなくなれば、
その人にとって神もメシヤも存在しないに等しいのです。
サタンに疑いの念を受けれてもそれが自分の知恵から齎された判断と盲信し、
真のメシヤさえも認められない高慢な心になるのです。
悪魔を見抜くどころか、神を否定するまで心を支配されていることも自覚されません。
初めから神の心を持って生まれてきたのなら何の意味があるか、
神の御心を知りながら、神の心に生きられないならば、何の意味があるのか。
自らの内に神の心を見出す時、神の心を自らのものにすることが出来る、
神の心に生きる者となった時、人は神の子になるのだとイエス様は仰しゃいました。
神の心を持つ為に、己の偽我を見つめようとしない者に、
そのような美しい(神の)心を持たぬ者が、人の内に見たなら嫉妬せざるを得ないでしょう。
偽我を削り落とすことで神の心(善我)の力を得るのであり、
神の心を持つ者を妬まざるを得ぬ偽我を克服出来ぬ人間の弱さを知るのは、
自ら克服した者だけです。
だからこそ、そのような人間を救いたいと、また救われると信じ、
救いの手を差し伸べることが出来るのでしょう。
それが真のメシヤです。
(メシヤと崇める者に持ち上げられて満足しているような者は、
偽メシヤ以外の何ものでもないことさえさ分らぬのが偽メシヤとその信者です)
人として生まれて、苦難の中に神の導きを信じ、神の真の愛にのみ生きたが故に、
神の心を育てることの出来たのだとイエス様は証されましたが、
人が神の御心を知って、それまで知ることのなかった自らの神の心に目覚める、
神の御心に、導きに生きようとする、それなくしては、
神の知識を、教義を信じるだけに留まるならば、何の意味もないのです。
メシヤが神の生まれ変わりと信じ、自ら神の心を育てず、
メシヤに縋(すが)るを信仰とするは、神の導かれたものではない、
神の思いを見失った、サタンに導かれた宗教に過ぎないなのです。
キリストの認められたペテロだけではなく、人間によって認められたその後継者をも、
神の承認された者と信じたのがキリスト教会の信仰でした。
メシヤを通してでなければ、神は自分を顧みてくれない、
メシヤに嫌われたら自分は神に救われない、
宗教団体に権威(権力)を与えた、
自己保存が力に隷属するに至った原因がメシヤ信仰です。
宗教指導者(の判断)に依存する者は、
自ら善悪を判断し、善を選ぶ知恵も善を貫く精神も養うことはない
本当に神を信じる心に立っていたなら、
神の御心に適う者でありたいと望んでいたら、
正しい道を求めていたなら、
今の自分の心が、神の思いに生きようとしているか否か、
解らない筈がないのです。
自ら判断することで誤る、罪を犯す、その為に地獄に落ちたくないと、
善即ち神の意志と、悪即ち悪魔の意志を理解出来ぬ己が心に向き合うことなく、
決して間違うことのない(神に選ばれた)宗教指導者の言われるがままに
(疑うことのない素直な心で)神に従うように従えば良い、
羊飼いを信じる群れの中にいれば、道を誤ることはない。
宗教団体はそれで安泰だと考えるかも知れませんが、
そのような善悪の判断力を持たぬ者がサタンに唆され、天上界を裏切り、
仲間を窮地に陥れたことを、
善悪の判断力なき者は天に迎えないことを神は言明されました。
"神の子であるというのは、神より法を授けられた者、
地上に法を広める者としての自覚なのです"と
イエス様は「天国の扉」で述べられておりますが、
神の法を理解した、神の法に生きる者となった、
天の聖霊(神の子)と変らぬ心であると神に認められた者なのです。
神の法に生きる(神の)心を見出すことでしか人を滅びの道から救うことは出来ない、
神の法を齎すことが神の救いであり、神の法を伝えることが如何に困難であるか、
それ故に神に導かれた(それを妨害する、法を歪めようとする悪魔の意志を見抜く知恵と、
善を貫く精神力を持つ)メシヤでなければならなかったのです。
その法が伝えられたなら、神の法を理解した時、人は神の心に目覚めることが出来る、
自らの意志で神の心を育てなければならないと天上界は仰しゃったのです。
何故偽メシヤが存在するのか
真のメシヤがいないということでしょうか。
真のメシヤがいるから偽のメシヤが現れるのです。
人々が真のメシヤを見出し、救われてはならない、
神を意識することのなくなった人類が再び真の神に出会う、
自らの内に神の心の目覚めを迎える、
そのようなことがあってはならないと、
悪魔の遣わした偽メシヤに人々を導かせたのです。
偽メシヤ(麻原彰晃や大川隆法や文鮮明など)が日本の周辺に現れたのは何故か
現天上界がメシヤとして人類を救済する、神の法を伝える為に日本を起点とする、
その計画を実現する為に、多くの善霊が合体霊として日本人に転生したのであり、
神の意志を、神のメッセージを託すことの出来る真の霊能者(であり指導者)を育てるべく、
天上界最高次元の聖霊(ブッタ様、ミカエル大天使長様)が合体されました。
これまでも天上界は日本に正法を伝えてこられましたが、
救世主・メシヤを日本に齎すことをエル・ランティ様に提案したのは
ダビデ(イエス様を試みたサタンとして聖書に書かれている者)でした。
神の、メシヤの救いが現れる時、悪魔の破壊が現れます。
光には常に陰が付いて回るといわれてきたことです。
神自ら伝えたこれらのメッセージは、
何時でも必ず天の善霊がメッセージに出会った者の心に善なる波動を以て働き掛けます。
悪霊も常に天のメッセージに出会った者を悪霊の世界に導くのです。
神に導かれてきた、自分はそれ(選ばれる)に相応しいと、
慢心した隙だらけの心になった時、その心は同じ波動を持つ悪霊(の憑依)を許すのです。
真の神を信じた者を堕落させる、その心を悪に染めることで、
世の人々に偽りの神、邪教であると思わせる、
人々から真の神の出会いを、救いを失わせるのです。
悪魔に導かれて人々が神の救いから零れてゆく、
神の人類救済の計画の破壊こそ、悪魔の神への挑戦であったのです。
悪魔の邪心の歓びであったのです。
何故メシヤ信仰が精神の成長を奪うのか
メシヤを信仰する者、メシヤ信仰に留まる者は、
そのメシヤを遣わされた神の思いを知ることがありません。
知ることが出来ないからメシヤを遣わされたと、
メシヤを理解すれば神を理解したと、
実際に聞くことの出来た、神を証したメシヤの言葉を理解したのだから、
神を理解したと思い込むのでしょうか。
実際に神の思いを理解したからメシヤは神について語ったのですが、
メシヤを通して神を理解したと思っている信者は、
何故神の心を自らの心と出来ていないのに、解った気になっているのか、
それがメシヤ信仰なのだと神が言われるのではないでしょうか。
一人の人間であるメシヤがどうやって神の心を自らの心としたか、
神の心に生きるメシヤの思いが伝わったなら、
メシヤを導かれた神の思い、人を神の心に導くのが神の思いであることを
悟れたに違いないのです。
メシヤのように人を救おうとするのではなく、
メシヤに救われることで満足してしまうのがメシヤ信仰なのでしょう。
何故、人はメシヤ信仰に留まってしまったのか。
神自ら証されたように、神の思いは人の神の心(善我)にしか伝わらないのであり
(神の御意志に生きている心に神の思いは伝わっているのだから、
神を見ている者は神を信じねばならないなどと考えたりしません)、
神の教えを見失ったことも悟れぬ心で、
自らの幸せを、自己愛を満たす為にしか生きようとしない、
そのような誰もが持つ(人間的な、煩悩にまみれた)心を是認し、
その心(の成長への指標を与えず)のままで神に救われると、信者に安心を与えることで
宗教団体に繋ぎ止める。
宗教は神を捨て、神の心を求めず人間の未熟な心に留まる、
神の真理に生きんとする神の心を求めないのは、
人は神に生かされていることで愛されることで満たされるのが神の子だからと
信じているのでしょうか。
人は神の心を知ることも、自らが神の心を真理を愛する心を持つことが出来ると、
それを神が望んでいると考えることが出来ないのではないでしょうか。
神に依存する心、未熟な心を、幼子の心を神は愛されるとそれが御心であると
(そのように自ら成長を放棄した、堕落した心をごまかして)
安心しようとしているのかも知れません。
苦しみから神に縋(すが)ろうとする者を、
神は顧みないと仰しゃっているのではありません。
依存心から神(の救い)を求める者は、自らを救うことが出来ない、
偽りの神、偽りの宗教を見抜けない為に、真の神の救い(神の心への導き)を失うのです。
自らを救おうとする者を天は救われれると言われてきたこのと真意です。
神は人を知恵に導かれるのです。
人自らの愚か(神の救いを失おうとしている己の真の姿を知らない)を悟らずして
真理(人自らの歩むべき道)を求める心は生まれない、
神の智慧へと導こうとされる神の思いが理解される精神へと成長することはない、
神の心を理解出来ないでどうして自分は神に愛されていると思えるのでしょう。
それは正しい信仰ではありません。
神の救いを奪う悪魔に盲いて導かれているのです。
神の思いが理解される(伝わる心となる)精神に成長するまで、
神が人類を救う為に伝えられた真の教え(偽りの教義を神のものと教える、
盲が盲を導くを神は許されないとイエス様は言われました)を信じて生きる、
それが真の信仰ではないでしょうか。
「慈悲と愛」81年1月号初出 ラグエル様メッセージより
「人一人の人生に於ても、赤子のままの心で成長したら、如何なる人間になりましょうか。
求めるばかりで与える人間とはなりますまい。
天上界が赤子のような心で、と喩えるのは、その姿勢であって、
決して無知を言うのではないのです。」
「慈悲と愛」79年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「天の指針であり、イエス様の言葉である、
"幼な子の如き心を持て"というのは真理に対して素直な信頼の心であり、
精神の怠惰から幼児に帰れという意味では決してないのです。」
また政治家に対して強いリーダーシップを期待するあまり、
必要以上に権力を行使するを強いリーダーと勘違いするのも、
力への崇拝、メシヤ信仰と同じ依存心と深く関わっているものです。
政治家に委ねる権力も正しい目的の実現の為に、あくまでも権力は法に従う、
正しい法を生かす、守る以上のものであってはなりません。
権力(力)の人を魅了する以上に、理性(徳に生きる心)の働きに心打たれる、
成熟した精神の価値を悟った者であること、
また、そのような心を持つ者であるか否かが人の心の価値を定めるものと弁え、
人が理性に真理に生きる心であるか否かを判断出来るように努めるべきですが、
判断できないならば、それは自分が未熟であるからと
弁えるだけの理性を持たねばならないと思います。
精神の未熟な者、取分け若い人に顕著ですが、
ヒーローに憧れる、そのような人に自己投影することで、
自己愛と同じ感情をヒーローに抱く、
自分に対してと同様にヒーローを盲目的に信じる。
国民の自由意志に選ばれたにも関わらず、後に絶対権力を恣(ほしいまま)にした
独裁者もまた国民がヒーロー視した、強いリーダーを欲したが故に
自己投影し自己愛から盲信(自己肯定の表れ)する、理性的判断力を喪失したが故に
独裁者という化け物へと成長を許すことになるのです。
依存心が悪魔に心の隙を与えることを自覚し、人類全体が克服しない限り、
再び人類の悲劇を招くことになるとの警告を天上界は、神は伝えられたのです。※1注終)
真に自分の成長を促す人、誠実な心が伝わってくる、自分の誠実な心へと振り返らせる人、
自分の生きるべき道(正道)を先に行く(人の指針になる)人こそ、
そのような人に出会えた時、そうであると直観される人こそ、
真に立派な人なのではないでしょうか。
尊敬すべき人、指針と仰ぐべき人、
また善の道を示す真理、神と判断される基準を、
自分を無条件に愛してくれる、自分を大切にしてくれる、
そのような(自己愛に生きる)自分を受け入れてくれるから
(悪魔の甘言の効用も同様)と判断しているとしたら、
盲目的な母性愛なのか、偽善者なのか解りませんが、
正しい道を見失わせる、偽りの愛、
あなたから愛を返されることを、良く思われることを求めてのものです。
自分の心が善であるか否かを問うことがない、
自分は受け入れられているとの安心感故に、その人は愛するに値すると思うのなら、
それは自己愛の延長に過ぎなのであり、そのような愛に留まらせるのは、
人の成長を望み、導いてこられた神の、真の愛を知らない者なのです。
(自分の心を知ることなく盲目的に自分を愛するように)自己投影した人を愛する、
自分にそのことを気付かせないのなら、その人もまた自己愛に生きている者なのです。
神が愛するに値する者を愛すると仰しゃったのは、真の神の愛とは、
自己愛に生きているその心(偽りの愛)をその人の前に明らかにするものだからです。
神の愛に生きるか自己愛に生きるか、神の導きに従うか、拒否するか、
人が自らの意志で選択させる、自らの責任を自覚させるものです。
自らの十字架を背負って私についてきなさいとイエス様の仰しゃったのは
そういうことなのです。
自己愛に生きる者は、真理を愛することは出来ないのであり、
真理に、神の導きに従うことのない者です。
己自身(の心)を知らぬ者、知ろうとしない者に正法は、
真理は理解されないと天上界の言われるのはそういうことです。
"天上界メッセージ(天の御意志)を理解するということ"
例えば、天上界はこのように語っております。
「軽蔑されるべき人間であっても軽蔑してはならないのです。
(そのような者を愛せと仰しゃっているのではありません)」
(現象テープ№31 ガブリエル様現象)
「決して他を軽んじてはいけないのです。
他を軽んじる所からあなた方の堕落が始まります。
これも何故か考えてみてごらんなさい。」(現象テープ№35 イエス様現象)
もし神が愚か者を軽蔑するだけの方であったのなら、
神に愛される者となるまで、忍耐強く、見捨てることなく
人類が導かれることはあり得なかったのですから、
彼等のような心に導くのが天への道ならば、
それを理解する為に妨げとなる思いを改めようとしない者は、
この道を進むことは無理であろうと言われるのです。
天上界の愛とは、神に愛されるに値しない(美しい、善なる心を持たぬ)者であっても
神を信じ神に従うことに思いを掛ける者を見捨てられることはない、
神に愛されるに相応しい者へと導かれる、
神の愛以外にそれを可能にするものはない、
それ故に神自らが人類を導かれてきました。
「上着を奪う者から取り返そうとしてはなりません。
下着をも与える者となりなさい」(イエス様)
という教えを聞いて、その通りだとあなたは思われましたか、自分もイエス様と同じ心だと。
それ程の愛を持たれる方なら、人が罪を犯してまでして得ようと、あなたから奪う前に、
持つ物を悉く貧しい者に分け与えられたに違いありません。
〖イエス様の前に現れた金持ちが自分は神の教えをすべて行っていると言った時、
イエス様が財産を貧しいものに施し、私に付いてきなさい
(と神の下に招かれたのです)と言われたこの金持ちは、
神(イエス様)の下を去り、財産に生きる世界へと帰って行きました。〗
真理を求めたこともなく、何よりも己を愛することに喜びを得ているナルシストに、
神への、真理への愛を見出すことはないでしょう。
(左翼は例外なくナルシストであり、)ナルシストは例外なく偽善者であり、
自己欺瞞を本質とするものです。
真理に生きぬ世の人々の需とする、喜びとするものが、
真に幸せを、平和を齎すものであるが如くに語る偽善者を許してはならぬ故に、
この世の齎す幸福に浸る心が天国に招かれる魂の如くに語る偽善者に人々が騙されない為に、
真理に生きぬ者が真理を語ることを許さぬ為に
(偽りの心に生きる者、偽善者へと人を導くからです)、
彼等に神の真理を知らせることは「聖なるものを豚に与えることになる」のだから、
イエス様は彼等の理解し得ぬ譬えで以て真理を語られたと聖書に記されています。
天上界メッセージは自ら神の心に立って伝えようと努力しない者には伝え難く、
又、聞く者も神の言葉と信じて、内なる神の心を信じて耳を澄ます者でなければ、
天の心を感じ取ることは、伝わることは難しいかも知れません。
善を愛する心が何かも知らずして、自らを救われるべき者と自惚れに生きる彼等を
導いている者が、彼等の信じる神ではないことを、
自らを救う真理に生きんとする内なる神の心が目覚めを待っていることを、真の救いを
明らかにされた天の人々への思いが何故伝わらないのか、
何故人の心に響かなくなったのか、
そのように語る天の苦しみを感じていないことにも気付かず、
研磨を知らぬ鈍き心故に(自分には解っていると、他に言われているのだと)
欺瞞から目覚めることもなく、
心に響かない者とは自分のことだと覚れない内は何も始まることはないでしょう。
そのような自分を、耐え難く思うようでなければ、正法を、天上界メッセージを学ぼうと、
真理に生きんとする神の心を自らの心とすることは出来ないことでしょう。
"天上界とこの世の判断の違いについて"
人の心を思い遣る優しさのない、他への思いから自らを忘れる愛のない者も、
人に愛を、優しさを思わせる行為を施すことは出来ます。
行為が同じなら、神が与えても悪魔が与えても同じであると言えるでしょうか。
同じと思えるなら、与えた者の心が本物でも偽りでも構わないのでしょうか。
本当に同じものと言えるでしょうか。
正邪を見抜く智恵へと導こうとされる神と、
真か偽か判らぬ成長の止まった心に留まらせようとする悪魔の思いの見分けが付かない為に、
悪魔の偽善を見抜けず、偽りの神を崇めて、真の神を、良心(神の心)を見失うまで、
人間は堕落し得ることが明らかにされているのです。
人を裁くことから心は堕落するというイエス様の言葉は知っていても、
愛のない者によって裁かれる者の痛みを理解出来ぬ者には、
神の愛が、智恵がすべて人を助けたいとの思いから来ていることを悟ることは決してないでしょう。
神への、真理への愛がなくて、どうして己が判断が真理に従っていると考えるのでしょう。
真理に従っていると思うだけなら誰にでも出来るのです。
真理に盲いているから思い込めるのです。
(迫害を受けても抵抗しない人類を嘲笑おうと)悪に抗する為でも、暴力を用いれば悪であると、
力によって悪に抗することは許されない(※4)と、悪魔が人類の意識に語り掛けたとしたら、
それを正しい判断であると考えたとしたら、
悪魔の考えと知らずに受け入れたとしたら(悪魔は常に偽善で騙そうとします)、
人は悪魔の魂胆(人に神の善を拒否させ、悪魔の偽善に従わしめる)を見抜けるでしょうか。
善我が如何なる心か意識することのない者が、
偽我の内に生きていることに気付けるものでしょうか。
(※4注。
"右の頬を打つ者には、左の頬をも向けよ"とイエス様の仰しゃった真意は、
"目には目を、歯には歯を(※5)"という報復を、復讐を神の教えであると信じ、
許す心の内に、神の愛が現れることを理解していなかった当時(※6)の人々に、
(罪を)許すとは神の心に立つ者が出来る、神の愛であることを伝えようとされたのです。
真の許しは神の心から来るのです。
(真に寛容な者が、許すことを神の愛を知らぬ者を救おうとせずに裁こうとするでしょうか。
優しさ(寛容な心からくる)を知らぬ者に、
優しさを伝えることが出来るのは真に寛容な心を持つ者だけです。
それを為されて来られた方達が、天上界の神々です。
自分が神々から程遠いことを知る者なら、神を思う心のある者なら、神々に倣おうとするでしょう。
神の心を知らぬ者が人を裁くことに優越感を抱くのです。
悔い改めようともしない罪人を守ることが慈悲であると、悪を容認することが寛容であると、
悪なる心に傷つく善なる心の理解出来ぬ、偽善に生きる左翼に、
真に(神の心に立ち返ったが故に)人を許す、善への愛が理解されることはありません。)
真に許す心が神の心なのであり、信仰が愛が自由な心からしか生まれないように、
強要によって持つことの出来ないものです。
それは自己犠牲を厭わぬ愛がそうであるように、
己に打ち克つ者にしか持てないものだからです。
人が真に生かされる、正しい道に帰らんが為の神の許しに応えられぬ、
神の救いに与れぬ者は、真の救いを見失った者であり、
神の慈悲を受け止められぬ者は、神に裁かれるまでもなく、
自ら滅びの道に定めているのです。
神の救い得ぬ人間を、救いを求める同じ人間として憐れむ心もなく、
神の慈悲に生かされていることも気付かぬ者に、
人を裁く資格があると神が認めているとでも思っているのでしょうか。
真の慈悲を知るには、
真に救うべき者を、裁くべき者を明らかに知らしめる
神の法に従う者でなければならないのです。
(人を裁く心とは、自らの心が裁かれることも、戒められた神の存在も忘れるまでに、
神の愛を見失った心だということです。
神に抗う者、神の愛する者を迫害する者を神は裁かれることをあなたは信じているのなら、
あなたは神に愛される生き方を選ばねばならないということです。
神を愛さない者のように神の戒めに従わないでいては、神を愛する者とは言えないでしょう。
神の法に生きる者のみが、正しく判断することが出来るのです。
神の心を見失っている者が、間違った判断で人を裁くのであり、
神の戒めを破り、人を傷付ける罪を犯しているのです。)
裁くべきは悪の観念であり、悪の観念を生む偽我から自らを救うには、
善我に徹するしかありません。
己が偽我を滅することが出来るのは、己自身の善我だけです。
(人を憎む心は偽我から来ます。
そのような偽我が己が心の全てと、
善我なる神の心が、自らの内に存在すると知らなかった者も、
立ち返るべき真の自我に目覚める時が訪れるかも知れません。
憎しみを注ぐべき人を求める偽我から、
真に愛すべきものを愛そうとする善我に生きようとするのです。)
神の善に対して、悪が現れる者は悪魔の心であり、
神の善に生きようとする者だけが悪魔の心に繋がる悪を断ち切れるのでしょう。
己が善我の証を神に求め(神を顧みる心が人に謙虚な心を齎すからです)ず、
人の悪を裁けば自らを善人と証できると信じる。
自己愛から真の愛が生まれることはないことも理解できない。
自らが善であることの証の為に、人の悪を証明せずにはいられない。
このような思いの中に真の善なる思いの宿ることなどはあり得ないでしょう。※4注終)
(※5注。
「慈悲と愛」80年3月号初出 ミカエル様メッセージより
「目には目、歯には歯を、と言うのは、決して字義通りに解釈すべきものではなく、
奴隷として卑屈な生き方を強いられてきたイスラエルの民に自己を守る強さを教え、
心理的に奴隷であることからの解放を目指したものなのです。
聖戦もその延長でした。
日本の国民も同じであり、正法者も例外ではありません。
善人が悪に屈従し、賢者が愚者に跪き、正義が暴力に屈することのないよう、
自由と平和と国を守る為に、立ち上がり、勇気を持って侵略者と戦い、
排さなければならないのです。 」※5注終)
(※6注。
「天国の扉(77年12月初版)」159頁 イエス様メッセージより
「自分を愛することは勿論大切です。
良い意味での自己愛、自らが持っている人間としての尊厳、神の子としての悟り、
そういうものを知って、隣人を己の如く愛せよ、と説いたのです。
それは奴隷が未だ用いられている時代で、人間の尊厳についての意識が低かったからです。
その次に説いた中で重要なことは、地上に神の国を作ることの必要性でした。
何故ならば、ご存知のようにその頃の人々は、
無知な者や闘いしか知らぬ武骨な者が多く、野蛮な行為を何とも思わず、
また学者は律法に縛られ、戒律で人を裁き、
神の心という計り難い、どのような者にも分け与える愛や、平和を求める柔和な心、
慈悲心と等しく、許す心、気持ちなどを知らぬものでした。
そのような人々が真の神の国、
即ち天国と同じ秩序と平和と調和と光で満たされた場所を地上に作るのは、
何と困難な問題でしたでしょう。
自分の心の中にある神と等しくなれる心、真我は善なる心であることなど、
振り返ってみたこともない人が多かったのです。
ですから私は神の国を作る為には、どのような人が相応しいかを悟らせる為に、
山上の垂訓と呼ばれるものを説きました。」
当時の人々の心に神の心である寛容の心を、許す心を伝える為に、
人が神の心を、神の教えを自らのものとするには、
"自分を迫害する者の為に祈る"程の深い慈悲心がいるのだと、
人を裁こうとする心に打ち克ち、人を許す神の心を己が心にする為には
それほどの強い意志を持たねばならないのだとイエス様は教えられたのです。
内なる悪に打ち克つ善を持たぬ者が、人の悪を裁くことを偽善であると
イエス様は教えられました。
真の善を持とうとしない、善を愛していない者が
善を愛する者の如くに人に信じさせようとするのは、自らの神の心を騙す者であり、
真の神を貶める者とイエス様は非難されました。
内なる悪を憎む善を持たぬ者が、人による悪を憎むのは、
善なる心が自らに現れたからではありません。
他よりも自らを大切にする自己保存(の本能)が脅かされるからです。
そのような者が人を悪と非難する時、
相手が悪であるからとは、(自己欺瞞の)口実に過ぎず、
たとえ相手が善であっても自分の(悪なる)心の自由が奪われるなら手向かうのです。
悪に手向かうなと言われたイエス様の言葉をそのまま受け取った方もおられますが、
自分は神の側(でないのにも関わらず!)と思っている者にとっては、
(悪魔の側と思っている他人の)悪に無抵抗というのは
(イエス様の)真意ではないと(都合の良い)解釈をして来た方がほとんどでしょう。
"真理が顕れなければ、彼等は真理を憎まなかったであろう。
真理が顕れた為に、真理とは相容れぬ内なる邪心(本心)が顕れたのである"
とイエス様は言われたように、
【これまでの自分は楽をして人の迷惑を顧みぬ自己本位を改めることを欲しない、
(内なる)悪に従う偽我を削り落とそうとしない、
己が心の邪悪には手向かわない】彼等の本心を天に見抜かれない為に、
自分は悪を憎むという、神をも騙そうとする悪魔の心(偽善)から、
人々は(どうして(人の)悪を裁かずにいられようかと)自らを正当化して
安心していられたのでしょう。
人々の偽善の内に隠し持つ、邪悪を明らするかにする光の言葉が
"(人の悪を責めれば、己が善の証明になると、偽善故に人の悪を非難する者に向けての)
人の悪を見て何故自らの悪を見ないのか、人の悪に手向かう前に、己の内なる悪に手向かえ
(自分の目には梁があるのに、どうして人の目から塵を取らせてくれと言えるのか)"
であったとすれば、現代に至ってまだイエス様の精神が無抵抗主義
(ガンジー氏の生きた状況に於て、
彼の為した行為以上に神の栄光を顕わすものはなかったでしょう。
天の教えの真意はさておき、どこまでもイエス様への信仰に徹する、
自らの犠牲を顧みぬ信義が求められたのだと思います)と信じている人類は、
サタンに導かれてきたことの証となるでしょう。
イエス様がサタンに打ち克ったのは、
サタンの働きかける内なる悪を滅ぼしてこられた、善に徹する精神であり、
人を悪なる魂に導こうとする如何なる悪も、イエス様の善に徹する、
神の心の前に存在の許されるものなどあり得ないのです。
イエス様は悪に無抵抗であることが神の御意志であると伝えられたのでは決してないのです。
悪の支配するこの世に神の救いが齎される為に、
妨げる如何なる悪にも屈することなく、
この世から悪を一掃させるまで、神に抗う者を滅ぼし、
神の国を地上に作らねばならないとイエス様は仰しゃったのです。
「マタイによる福音書 第一〇章 三四節」
「地上に平和を齎す為に私が来たと思うな。平和ではなく、劔を投げ込む為に来たのである。」
「天国の証 ラファエル様メッセージより」
「戦いと平和が相容れるものであるかどうかは、何時も大きな疑問を残してきました。
今、私が述べた事で、再びその疑問が浮かぶならば、天上界の尺度によれば、
悪の侵略の為に平和が脅かされるならば、正義の劔は取らなければならないと理解して下さい。
再び繰り返しますが、平和と調和は、言うべきことも言わずにお互いに甘い言葉を交し合って、
お互いの性格の不健全さも歪みもそのまま受け入れ、それが習慣になれば、
社会の歪みも黙認して個人個人がそれに合わせてしまう。
(中略)
寛容の心といっても、徒に許すことのみが社会に平和を齎すとは限りません。
悪と不正と不健全な考えをそのままにしておくことは、
却って社会に混乱を招き、精神の向上や文明の発展を遅らせるだけなのです。」※6注終)
天上界は常に個(人)を重視されることを仰しゃっております。
戦争などの民族的衝突を被害者としての立場に固執し続ける者は、
一方の(自分達)民族はすべて被害者とし、
他方はすべて加害者と認めさせることで、民族的優位に立つことで、
恨みが晴らせるとの思いに囚われているのではないかと思われる程ですが、
どちらの側に与しようと心の清い、正しい者を心に掛けられ、
自ら悪魔に魂を売った者、神の法を犯した者の犠牲となった者の無念に報いられる
真の神の存在を忘れているのではないでしょうか。
真の慈悲心を、神の心を持つ者ならば真の神を忘れるなどあり得ぬことです。
(罪を罪とも思わぬ悪魔の心から悪を為し、既に神に裁かれている者に留まらず、
無実の、邪念に心を明け渡すことなく善なる心に生きた者、神の導きに生きた者さえ、
左翼は自らが(また自らの崇めるイデオロギーが)正義であると顕示せずにはいられぬ、
高き者と人に認めさせずにはいられぬ衝動から、
力を信じる(神を、愛を信じぬ)彼等は多数(左傾マスコミ)でもって、
無力な人々を突き落とすのです。
彼等が神の正義に、真の悪を滅してきた善を貫く精神に生きていたなら、
今この時代の善(なる人々)を守る為に、神の救いを妨げている悪と戦ってこられた、
今を生きる神の思いに繫がる、同じ心を抱いている筈なのです。
今悪を為している共産主義国家、独裁国家(北朝鮮)と戦っている筈なのです。
彼等の為していることは真の悪(彼等のことです)から人々の意識を逸らせる為であり、
人々から真の悪への怒りを逸らせようと、私達の愛する祖先を罪に陥れ、
私達に罪の意識を起こさせる、後ろめたくさせるのが目的なのです。本当に悪魔の心です。
神の心と相容れぬ共産主義者が、神に抗う悪霊と同じ心であると理解される者なら、
彼等が如何に自らの正義を盲信しようとその行為のみならず心もまた悪霊と変わらないのです。)
罪を犯した者ならば、既に神に裁かれているであろう過去の人の罪を、
その時代に生きたすべての日本人が侵した者の如くに裁くことを
容認しない今を生きる多くの日本人は、
その先祖が罪に生きたように罪に生きていると、
(日本人を貶めずにはいられぬ彼等に)裁かれるべきであると、
思い知らさんとする、彼等こそ裁くべき立場であると微塵も疑うことのない、
己自身が神に裁かれようとしていることを微塵も感じることのない(自らを神としている)、
真の神の心の前に己が心の醜さを知ることのない、
悪魔の共産主義に支配されてきた者達が、
善なる心に生きるすべての善霊(天上界)に抗ってきたのです。
人を裁くな、自らを裁けと言われた神の心を踏み躙ってきたのが彼等共産主義者です。
百年前の先祖の罪を償うべく十字架を背負えと悪魔(左翼)の言われるがままに、
自らの先祖を今また罪に貶めて、償わねばならぬという、
己が善を誇る心の何処に愛があると思っているのか。
『もし私達が先祖の時代に生きていたなら、
預言者の血を流すことに加わってはいなかったであろう』(「マタイによる福音書」第二三章三〇節)
そのように語った者達が、預言者を遣わしてこられた真の神の子を殺したのです。
共産主義者は、彼等にとっての自由と平和に邪魔な無垢な何億もの人々を虐殺してきたことに、
痛む心を持たず、自分達はそのような過去の共産主義者とは関係がないと、
同じ悪魔の共産主義(偽善)に生きていることを、
自分達こそ邪悪(罪)に生きていることを認めようとしません。
彼等が『もし私達が文化大革命の時代に生きていたなら、
中国共産党に与して、罪無き人々の血を流すことに加わってはいなかったであろう』
と言ったとしたら、彼等が本心からそう言っているのだから信じられるとでも思うのですか?
彼等が日本人は南京大虐殺を行った、関東大震災で朝鮮人を虐殺したと言い続ける(※7)のは、
そのような虐殺を批判出来る自分達には、
何等やましいことがないからであると人々(自らをも含めて)を信じ込ませているのです。
彼等が偽善に、欺瞞にしか生きられぬ歪んだ精神であることがまだ信じられないのでしょうか?
ユダヤ教徒のルサンチマンから生まれたものが共産主義であり、
自分達の支配欲を満たす為なら、人々を地獄に突き落とすことも、
罪無き心を犯罪者に変えようとも、罪人の汚名を着せようとも、何等痛む良心を持たぬ者達なのです。
邪悪(罪)に生きていることを認識することなき者達が、
支配者たる共産主義者に跪かせる為に、日本国民を貶めているのです。
彼等にとって日本人であることなど何の意味も無いのです。
(※7注。
このような記事を例年書き続ける左傾新聞(朝日新聞は、当時北朝鮮を地上の楽園と持ち上げ、
そのような思想を植え込まれたイデオロギーの狂信者が、
よど号をハイジャックし、北朝鮮、悪魔の国に帰って行きました)は、
かの国に嫁いだ日本人女性の人生を地獄に突き落とすといった悪魔の業を為したことを、
神に許されることなき罪であると自覚するだけの知性があれば、
自分達の犠牲者を顧みぬような者が他を裁くことに、
神は決して許されることはないと悟ったことでしょう。
"自分の大きなとが(負債)を責められないでいる(または神に許された)者が、
自分に対して小さなとが(負債)のある者を許そうとしなかった時、
その者の大きなとがを償うまで神は決して許さない"、
自分の罪を償おうとしない者が人には強制しようとする、
それは神の慈悲心を踏み躙り、悪魔の心に生きる者であることを
イエス様は譬えで教えられたのです。
"かつてイエス様に向かって、律法では姦淫した者は石で打ち殺すことになっていると、
そのような人々に向かって、罪を犯したことのない者がこの女を石で打てと言われた、
人々はみな自らの罪を認めて女を罰することを止めた、
自分が悪の心に生きながら、人の心を裁くことを神は嘉されない、
それをすれば自分は神に救われることはないと、
神の思いを理解する心を当時の人々は持っていた"、
ということです。
本当に今の時代は、悪魔に植え込まれたイデオロギーの育つに任せさえすれば、
悪霊の如き人格に育つということが明らかにされたのではないでしょうか。
彼等の敵であれば裁くべき悪であると、罰すべき罪であると、
人々を信じさせる為に、悪霊の邪念を伝搬する為に、
彼等は悪魔の広報(左傾メディア)に生きているのです。
彼等の心は自分(の仲間)さえ良ければいい、自分達の敵は抹殺されるべき悪と信じる、
かつての仲間さえも自分達を受け入れない、
否定する者を粛清した共産主義者の心こそ悪魔の心であり、
彼等は同じ心に繋ぎ止められているいるのです。
このような善の心を持たぬ者の言う正義など偽善に過ぎないことは
皆様もご理解されることでしょう。※7注終)
(私達は岐路に立った時、苦難が予想される道と、
人々から羨ましがられ、賞賛されるような幸運の道が目の前に開かれた時、
自ら苦難の道の中に神の意志を見て、進む人がいるでしょうか。
天上界が何度も、幸運に安楽に思える道は天が備えた道ではない、
悪魔が拵えた、堕落への道だと言い続けられるのは、
神の救いの思いを、そして悪魔の魂胆を、人々が全く見抜けないでいるからです。
心を救う真理を理解せず、この世の価値観で判断する心に生きることしか知らないからです。
盲いて悪魔の思い通りの道を歩まされ、自らを不幸にし、
神に抗う悪魔の道具と成り果てているのです。)
イエス様は私達に、自分の知っている罪よりも、
知らないでいる罪を恐れなさいと言われました。
そのような悪に自らを従わせる心が、
人が自らを善人と信じる盲目の自己愛の中に隠れているのです。
自分が正しいと信じることは簡単です。
だから簡単に人を裁けるのかも知れません。
【自分は優れていると自惚れる心も同じで、
人を価値ある者とするのは何か、自分はどうであるか、
真実の自分を知ることの恐れからの自己防衛(自己保存)の心の表れが高慢な心なのです。
人が自分を優れていると評価する理由があり、それを知ったが為に
自惚れてしまった訳ではありません。
本当に優れている人は自惚れた心(己が愚を認められない)から
向上心の生まれないことを知っています。
はた迷惑な愚か者に謙虚な人間などおりませんでしょう?
人は自己愛から自惚れることは出来ても、自己愛では満たされないのです。
自分が愛されるに値すると考えなければ、人に愛されると信じられないからです。
自分に自信がないのは、信じるべきもの、
信じる価値のあるものを見出していないからです。
そのようなものを見出すだけの力を人は持っているにも関わらず、
見出すことの出来ぬ故に、底知れぬ空虚の満たされぬ思いに苦しむのです。
自然の法を知らずとも、法に従うことで満たされる心に生きる動物ではないのです。
知性(理性)の開発されるべき広大な心(大脳新皮質)が飢え渇いているのです。
旧皮質の本能に根差した自己愛が、自分を忘れての他を生かすことを願い求める理性を、
神の心を新皮質に育てられる訳がないのです。
心が本能の条件反射に従えば、理性の条件反射は開発されません。
解らない者は、いくら言っても解らないと天上界が言われたのは、
難しいことを言っているからなのではありません。
人が自己防衛の思考の癖(条件反射の型)を作ってしまったのです。
自己愛に生きる条件反射の誤り、その人の心を縛っていることを悟らせる神の言葉を
理解するようには思考し得ないのです。
彼等は決して悟ることがないとはそのようなことを言うのでしょう。】
この世の言う善が、神の心に、善我に根差しているならば、
人々は神の愛の内に、善なる心に生きていたでしょう。
天上界が正法を、御意志を伝えようとされたのは、
神の、真理の名の下に偽りがまかり通り、
偽りの心に生きる者にとって偽りが真理と信じられているからです。
私達の心が、この世が如何に真理から離れているか、
天上界のメッセージを学ばれる方は、きっと理解されることでしょう。
歴史を通して現天上界から齎された真理が、福音が本物であると知る者も、
如何なる心から齎されたものであるか知り得ないものでした。
宗教の堕落に気付くだけの誠実さがあったなら、
真理を愛する美しい心の神が宗教と共に在すとは考えられなかったでしょう。
宗教の堕落を覚れなかったのは、神の心を理解していない、
理解しようとすらしてこなかったからに他ならないのです。
天上界高次の霊を名乗る彼等が現代に、
しかもこの日本に現れたのか不思議に思われることでしょう。
それについては彼等自身が語り掛けられた言葉から理解されることでしょう。
その言葉から真の神が見出せないならば、
その人は彼等とは相容れぬ存在に繋がれておられるのでしょう。
彼等が伝えてきた真理を理解した者も、真理に目覚めた者ではなかった
(真理を神を裏切る者がいた)ことを伝えられたのであり、
真理を見出そうとする(真我に目覚めんとする)意志なき者、
悪魔の偽善を見抜けぬ知恵なき者から邪念に侵されて行ったのであり、
人々の邪欲を喰い物にするが故に邪教がこの世を覆い、
真の神の光を遮って来たのです。
神の教えを知り、神の御意志を理解されれば、
この世を支配してきた者が誰であるか、
人類を何処へ導こうとしたか理解されることと思います。
何故人類が神の心に盲いてきたかも。
天上界が伝えた真理とは、
自らの苦しみから救えるのは、真理を見出した自らの心しかないのであり、
悪魔の甘言に唆される偽我を自ら克服した者でなければ、
善への愛に生きる者でなければ、
天の真理(の内に生きるあらゆるもの)を守れぬとの思いからであったことが理解されたなら、
彼等の語る神、そして彼等に敵する悪魔以外には、
彼等〖善(理性)に徹する神の、悪(自己愛)に徹するサタン〗の信念を受け付けない、
干渉を許さないでいられる如何なる霊(精神)も存在し得なかったことが、
すべての霊がそのどちらかに従ったことが理解されると思います。
【神が人類を救う為に与えた指針が宗教でした。
真理を与えられながら真理に生きることの出来ぬ者のいることを、
イエス様の語られた真理の種蒔きの譬えで教えられました。
イエス様の教えを学びながらキリスト教徒は、
真理に生きていない宗教であることに気付くことが出来ません。
宗教(ユダヤ教)からサタンの思想(社会・共産主義)が生まれました。
キリスト教徒でありながらサタンの教えを信じて、神の救い(の計画)に抗っているのです。
宗教を通じて与えられた真理に目覚めることが出来ない人類を救う為に、
宗教に代り(神によって)科学を通じて与え続けてきた真理に立脚した
最新の教え(指針)を明らかにする霊は、
人類を救う為に現れたことは疑いようのないことではありませんか。
宗教を信じる者にとっての神と、
サタンを見抜けず、滅びに導かれていることも悟れぬのが宗教であることを、
明らかにするに留まらず、救いに導く指針である神の教え"現正法"を伝えた神の内の、
一方が神であれば、片方は(宗教を与え、今正法を伝える真の神に抗う)偽りの神、
悪魔に他ならないのです。
宗教だけが変らず人類を救い得る真理とする神と、
堕落を堕落とも思わぬ信者を救えぬ、悪魔の支配する宗教を解体し、
真の救いの教えを齎した神が、
どちらも偽りの神であり互いに滅ぼし合っているのを、
何処かに傍観している真の神が存在していると、
そしてどちらにも与しない真理が存在しているなど、あり得ないでしょう。
人類を支配しようとする悪魔を阻止しようとしない神など神ではないし、
そのような神なら、人類はとうの昔に神の観念など持たぬ悪霊に、
地球は地獄になっていたでしょう。
高次元の霊であると偽って名乗る霊は極刑に処すことをガブリエル様は仰しゃいました。
(注。「天国の証(78年8月初版)」85頁 ガブリエル様メッセージより
「高次元の霊に反抗することは許されておりません。
低次元の霊が三次元で高次元の霊の名を騙ることも、申すまでもないことです。」)
もし元七大天使と名乗る彼等が偽りで、真の神が別に存在しているとすれば、
その神は元七大天使を極刑にした筈ではないですか。
元七大天使を恐れてその神は名乗れないということでしょうか。
悪霊の甘言を真に受けて自らを真の後継者と信じ込み、
背反した彼等が現天上界を裏切るや否や、
悪霊達は消滅されたか、正法者を背反させることに、天上界の威信を貶めることに成功したからと、
消滅される前に逃げ去ったのか知りませんが、
背反者達は新たな後継者としての道を示されることなく、天の光の下から闇に消えて行きました。
神も悪霊も信じない人々は(自分を生かすものは)この世だけと信じて生きています。
この人達の心に在るとすれば、真の神でも悪魔でもない、彼等に何の力も持たぬ傍観者の如き、
困ったときや欲しいものや望みがあるときだけ思い返される神なのかも知れません。
しかしそう信じる彼等の心を支配しているのは、紛れもない真の悪魔なのです。
真の神を顧みさせない、真の神を侮るが故に背反の道を転げ落ちていった背反者と
同じ世界に導かれているのです。
宗教の教えが間違っているのではありません。
真理を悟れない(知性を開発することが出来なかった、
故に科学を否定せざるを得なかった)故に、
偽り(神の愛を棄てたイデオロギー)を信じて、宗教を信じる者が堕落したが故に、
神の法を人類が見出すことが出来なかったが故に、
現天上界の神々が自ら神の法を伝えたのです。
偽りを明らかにする、今を生きる神を証する光を齎したのです。
今、宗教を否定する現天上界が、
これまで宗教によって人類を救おうとされてきたことを証言されているのです。
救い主が齎され、救い主の下に人々を導くことが出来るのは、
真の天上界しか出来ぬことであると、サタンでさえ神に従ったのです。
何故なら、その神の救いの業を破壊することが、神に愛され導かれた信者を迫害することが、
神を悲しませることが何よりも喜びであったからです。】
霊の生きる世界とは、神(善我)は生命を守り生かそうとする愛に生き、
悪魔(偽我)は善なる心を憎み、滅そうとする、そのような心に生きようとする世界であり、
決して共存はあり得ないのです。
そしてこの世は霊の存在も、働き掛けも認められず、
霊の念に支配されての業も見抜くことは出来ず、防ぐことも出来ない。
滅びに向かっていることを悟ろうとしない人類に、神の智恵へと導く真理を伝えようと、
初めてその姿を現わされた神に背を向けるような愚かしさに留まるならば、
人類に残されるものは、神を拒んだ心に相応しいものとなるしかないのです。
私はそれを望みません。あなたもそうに違いないと思います。
"人を軽蔑してはならない、人を裁いてはならない"という天上界の教えについて ー
過去の時代の人々の常識(良識に於ても)が罪としなかった行為を、
現代の人々にとっての常識や倫理に反するからと批判する者の動機とは何でしょうか。
自分の考えが正しいと判断する善悪の基準が、信頼し得るものであるとする根拠は何であるか。
その善悪の基準の根拠は何から見出されたのか、彼等は考えたことがあるでしょうか。
(最後の審判によらねば救われぬまでに悪に染まった世界に生きながら、
その悪から目をそらし、過去を裁くことに現を抜かす。
魂の研磨を知らぬ偽我ゆえに、己が善を誇る高慢すらも悟れないのでしょう。)
【善悪の基準は自然の摂理の内に見出される、
すべての生き物を生かさんとする自然の法則こそ善である、
その法則に善悪の基準を見出し、法の根本理念としなければならないと
正法は明確に伝えています。】
過去に於ける人々と現代の人々の、自分は正しいとした根拠に違いがあるでしょうか。
【聖典の伝える神による人類の導きも、
天に昇った霊の全てがその真実を知る者であり、その霊が今を生きる人々の心に入り、
善なる波動により直接意識に働き掛ける導きさえも、何等悟ることなき鈍き心のままに、
(神の道を導かれた者に見出される精神的な飛躍など一生縁の無い、)
ただ自分が正しいと思ったが故に正しいと結論するに過ぎない】
今を生きる者が、過去の人に対して有利な立場から批判しているに過ぎず、
彼等が未来の人々の不幸の元になるなら、自分も同じ愚に生きながら反省することなく、
人を批判するだけで己を顧みることのない愚か者として、
神に顧みられることなく悪魔に弄ばれるだけの一生を終えることになるのです。
【例えば、大東亜共栄圏という理想を信じた日本人の良心は偽善であったと、
共存を望む思いなどなく支配欲がすべてだったのでしょうか。
善から生まれた理想も、神の与えた宗教も悪魔の介入(を許した人々)によって歪められ、
堕落して行きました。
それだから理想も宗教も人間に取って意味がないのでしょうか?
考えることを、より良きものを求める心を、知性を養うことの出来なかった中世の(暗黒)時代は
悪霊が跳梁し、憑依された人々が残虐の限りを尽くしたと天上界は証されています。
無論戦争などの、自己保存の本能を研ぎ澄ました極限状態に於ては、
悪霊が地獄を求めて暴れまわります。
殺人、虐殺の限りを尽くそうとするのが悪霊の本質だからです。
何時になっても霊の存在を認めぬこの世の識者達は、
この世に地獄を齎そうとしている共産主義者の亡霊の思うままに操られていることも覚らず、
民主主義国家同士(民主主義の価値も忘れて)憎み合い、共産主義の策略に乗せられている、
悪魔の邪念の浸透を許していることを悟れないでいます。
善も愛もその思いに生きた者の心から、人々の心に伝わって行きます。
その心を伝えてきた人々を気に留めることも忘れてしまったのでしょうか。
自らの神の心を信じ、真の神の促しであると信じ、
人の善なる心を、人は真の幸福を、
真の善である神と共に生きることを求めていると信じ、
神々の生きる天国を地上に齎すことが出来ると信じ、
天への信義を、神から授けられた法灯を心に、
闇なるこの世に立ち向かっていった先人の信じた
理想を実現させようとする真のフロンティア精神
(人類自らの精神を開発してきたものです)を失うなら、
人類の未来を悪魔の破壊から守る如何なる思いも心とすることは出来ないでしょう。
約束の地へと、新大陸へと、新しい惑星へと、
理想の、希望の実現を求めずにはおれぬのが自由な精神なのです。
共産主義国家のような悪に生き、悪の支配
ー 精神に於て、地球人類を凌駕するサタン(地球外星人)の霊能力によって
支配されて来ました ー
から地球を、神の正義を守る為にも、全地に真の神の下に一つになる、
偽りを光の下に消え入らせる真の福音を伝えて行かねば、
神の真理を、正義を奪われてきた人々に神の現存を伝えて行かねばならないのです。
「太陽系の衰退までに、人類は宇宙への移住を試みるであろうし、
創意に富む人類はそれに成功するに違いありません。
私達天はそれをこそひたすら望んでいるのです」とガブリエル様はメッセージされましたが、
天上界はモーセ様を通して、奴隷を強いられていた六十万ものユダヤ人をエジプトから救い出し、
再び約束の地カナンに入る為に、神の国を作る為にユダヤ人を神の心の下に一つとする、
神の心に繋がる善なる心へと導く為に「十戒」を与えられたように、
人類が(神の愛を見出すことなく憎しみの内に自ら地球を滅ぼすことなく、
神の愛の下に新しい意識の時代へ、そして新しい惑星へと)生存の道を切り開く為に
(仮にサタンの如き邪悪が遮ろうとも、悪に屈してはならないのであり、
善の心を捨てた、自然の法に背いた種に、生存の道は残されていないのです)、
(エゴイズムを克服し)神の善なる心に一つとなる為に、
最後の救いとして神の法(正法)を、神々の知る真理のすべてを地球人類に証されたのです。
これ程の恩寵を、神の御(み)恵を与えられてすら
人類は神の愛に打たれる心を失くしてしまったのでしょうか。
生物の成長しようとする意志は肉体と変らず、精神に於ても同様です。
成長を阻害されれば死に至るのです。
自由なくば精神は生きられず、精神の生きんとする意志は向上することに他ならないのです。
(肉体の需に、刺激に心を奪われる、
精神の需を顧みることなく、良心の声も響かないまま、
善への、真理への意志なくば精神はたそがれるしかない、
精神が堕落すれば肉体の感覚に溺れてゆくのは必然でしょう。)
精神を向上させる、高次の精神を求める意志だけが、
悪魔の甘言、誘惑から、精神の堕落、退行から真の己自身(善我)を
守ることが出来るのではないでしょうか。
人類の未来を信じる、自らの精神を成長(進化)させようとする、
種を存続させようとする心は、
調和の内に在らしめる自然の宇宙の法に従わぬ種を淘汰し、調和に生きる種を残すこの地球を
生き抜いてきたあらゆる生物が育ててきた意志であると思います。
これに抗う者は、調和に与ろうとする遺伝子を破壊された者か、
理性を破壊された者でしょう。】
何時の時代の人々も、人の生きる時代の常識や倫理が社会を支配している以上、
それに従おうとするのは仕方のないことです。
狼に育てられれば狼に育つのが人間という動物なのです。
生きた時代に、環境に適応する心が作られるからです。
現代人ならそれ位は常識として理解しなければならないと思うのですが、
過去を捏造してでも私達の先祖に罪を着せ、
現在の法や倫理など知らぬ者を裁く彼等の正義とは、
裁かんとする彼等自身の心の中に如何なる罪も認めることのない
〖自分の目には梁があるのに、どうして人の目から塵を取らせてくれと言えるのか
(批判しているのは共産主義者[と心を同じくするシンパであり、リベラル]ではないですか、
彼等以上の邪悪な心が曾てこの世にあったでしょうか。
彼等は善なる心故に悪を批判せずにはいられないのではない、
憎しみに満ちた魂であるが故に人を裁くのです)、
偽善者の高慢な心を批判されたイエス様の譬えそのもの〗
某民族の欺瞞に気付いていても、彼等に強要されればその度にお詫びと反省を繰り返す
日本民族も哀れの極みです。
人に向かって反省が足りないと非難し、反省を強制しようとする者がいますが、
彼等は自分が人から反省を強制されて、真の反省が出来たことが一度でもあるのでしょうか。
【先祖の罪を認めてお詫びしようとしない日本人(が左翼の偽善を相手にしないものですから)が、
左翼にとっては我慢出来ないことなのでしょう。
鳩山元首相のように心の底では日本人を蔑視しながら、
同胞の罪を贖う為に、犯罪者と貶められ、処刑されても彼等を救おうとされたキリストに、
己が姿を見たのかも知れません。
自分こそ善人(それとも神の子か?)であると微塵も疑わぬこの底無しのナルシストは、
慰安婦像に土下座することで、
罪を認めぬ高慢な日本人に当てつけ貶めることを悦びとする悪魔の心を、
罪を贖うキリストの如く己を見る自己愛を、満たしたのでしょう。
(昔、中国で土下座してまわった旧日本軍人なる人物(※)を
(※注。
「現代訳 論語(子張第十九の八)」下村湖人訳
子夏がいった。 ー
「小人が過ちを犯すと、必ずそれをかざるものである」
原注。この言葉は痛い。論語の中でも最も痛い言葉の一つである。 ※注終)
朝日辺りが持ち上げていた記憶がありますが、
人間の尊厳に唾を吐きかける行為が正義であると考える、
ナルシシズムに溺れる低劣を嘲笑う悪霊が面白がってやらせたことです)、
非を詫びる態度とは裏腹な自惚れ(自己への盲愛)と、自分と相容れぬ者への冷酷に生きる心です。
自らは神の子の如くに振舞いながら、あらゆる邪念に生きていることを認めぬ偽善者の心を、
白く塗られた墓とイエス様は呼ばれました。
ナルシストの心が如何に醜いものか思い知らされることでしょう。】
しかし中にはこの世に働き掛ける神、または悪魔の思いが伝わった者が、
この世(の価値観)に自らを合わせる心に勝って、
この世(の人間)こそ神(の導き)に従わねばならない、
その為には神の御意志を妨げんとする如何なる悪にも臆することなく、
悪(偽善)を明らかにする神の正義を齎さんとする者と、
(悪霊の念を受け)邪念に突き動かされた者が出てきます。
そのことを全く理解しない人々は、神に生きることのない人々は、
人を批判しているだけで何等建設的な行動を起こそうとしない、
神の意志を知って、真に善なる心の望みを知って、
その為に生きようとするのが真の善なる心であることを知らないのです。
人を神の正義へと導く、人に正しい判断を齎す正しい基準を明らかにする神の法
【この宇宙を貫く法に従わんが為に、
遺伝により、法への従順な素直な心をすべての種に本能として等しく与えらるように、
神により導かれ、人類自らの神に従わんとする内なる神の心が見出してきた
(天に救われた全ての人々が従ってきたものであり、
今を生きる人々が救いの指針として理解せねばならない宇宙の法を根拠とした)基準】
に背かんとする心によって、同じ過ちが繰り返されるのです。
真実を知る過去の者から反論されないことを良いことに、
一方的に批判して、これが卑怯な行為であることすらも判らぬ偽善者とは、
善我に生きる人の心の美しさに真の神の御心を見出すことの出来ない高慢な心に生きる人達です。
過去の人々を批判する者は、それに留まらず反論出来ぬ者に対しても、
容赦することなく批判する卑怯者です。
真の法は、人を生かそうとする心から従うものです。
それが神の心であり、生命の存続の為に生き物の心に及んだ自然の法の働き(種の保存の本能)、
生き物の心(種の生命への愛情)となって現れた自然の心です。
人を生かさんが為に、人を滅ぼそうとする悪に従う者を裁くのであり、
外からの、そして内からの邪心から、
善に、法に生きることを喜びとする神の心を守ろうとするのです。
人を裁くことを、己が力を誇らんとする者の為に法があるのではありません。
人を軽蔑し、人を裁かずにはいられない、
人に己を(優れた者、従うべき者であると)認めさせたがる心は
あらゆる偽我(虚栄心、自己顕示、偽善、欺瞞)に繋がってゆき、
そのような思いに支配され、自ら神の心を締め出すことになるのです。
人々が自分の為すべきこと、正しいことを行う善我に生きていれば、
光が世を照らしているなら、批判するまでもなく悪は光の下に晒されることでしょう。
批判しなければならないのは、世が光を拒んでいるから、
人々が善我に目覚めていないからです。
正しく生きる心が世の光となるのです。
真理を証する灯となれと言われてきたことです。
自らが目覚めて、善に生きぬ者が人の悪を批判するのは、
批判される者と同じ闇に生きているのです。
自分の為に生きんとするエロスの愛(エゴイズム、ナルシシズム)が心を占める者は、
自分に有利か不利かが判断の基準
(有利なら、自分が正しいことが、人の悪が証明されたと考え、
不利なら、不正が為されたと、人を悪と決め付け、認めさせることが正義としか考えない)
となり、敵が共通し、共に闘う為に有益である限りに於て
彼等を繋ぎ止めているに過ぎません。
互いを偽我(他を貶めようとする、人の内に欠点を見んとする心であり、
人に非を認めさせることで、自らを優れた者と、人に優越する者であると自他ともに認めさせ、
その人間関係に於ける優位な立場と、人の支配を得ることを喜びとする。
自分の犠牲にのみ強い自己憐憫を持つのみで、
他の犠牲を痛む心のない自己愛にのみ生きる心です)
に繋ぎ止める、他は自分の為に存在するものとしか見ないのがエロスの愛です。
他を生かす、神の法に生きるアガペーの愛とは、
他を生かそうとする思いのみ、真の愛が生きていることを、
他を愛することが、真に人を愛に留めることを知るからであり、
愛に生きることが真の幸せであると伝えられて来たのは、
他の為に生きている時だけが、愛が心に生きるのであり、
愛に満ちた心だけが知る幸せがそこに在ることを知ったからです。
神の戒めを守り続けられる心となるまで、それを理解しないでいる自分とは、
真にあるべき自分を悟らせまいとする愚(偽我)に生きているのだと、
自らを叱咤するようにとの天のお教えです。
"メッセージを知ることのなかった、
天上界の思いを深く理解した昔の人々の言葉を掲載したことについて"
天上界メッセージでないものも、理解の助けになると思われる言葉を多く載せてあります。
これらの多くは、天上界の方が合体霊、守護霊など生涯を通して指導された方々のものです。
天上界の意識と繋がることの出来た、真に善我に生きた方々です。真の正法者です。
彼等を通して天上界の方々が人類を導かれてきたことが解ると思います。
天上界メッセージはとても解りやすく語られている為、
よほど反正法的な思想に染まった人でない限り、理解されるものと思います。
ですが、理解した気になった者が、研磨を怠り、世の誘惑に負けて堕落する、
悪霊の邪念に侵され天に背反するといった信念の脆さ、精神の弱さが明らかになった為、
天上界メッセージを理解したから、その心に生きていけると安心するなら、
何も解っていないということなのです。
天上界の合体された人達は、私達が学んだように具体的な言葉を以て
神の法を知ることが出来た訳ではありません。
しかし天上界メッセージを学ぶことの出来た人々と比べようもないほど、
正しい心を持ち得たのは何故でしょうか。
彼等は私達のように、メッセージを通して、
例えば正義とは、愛とはこういうものだと詳しく聞くことはなかったでしょう。
天上界の合体された人達は、行為に現れる前の自分の思いを
正しいか間違っているか秤にかける、その判断基準が(天上界の方と同じく)厳しいのです。
私達は、言動に現れさえしなければ、
その思いが悪霊と変わらないようなエゴイスティック(エゴ剥き出し)の思いでも、
バレさえしなければいいと自分を許しているのではないでしょうか。
行為(言葉も含めて)となって現れた時、法(判断基準)に照らし合わせて
初めてこれは正しくないと判断されます。
私達の生きる世界を支配している法は、
正しい世界を作り出すことはありません、その世界を守ることしか出来ません、
証拠となる言動に現れたものだけを量るに過ぎません。
しかし神の法は心に於て見出されないなら無きに等しいものです。
しかしその心なくして神の法に生きる心は生まれません。
そして神の心だけがこの世に神の愛に生きる世界を齎すことが出来るのです。
言動が神の法を犯さないなら、神の法に生きているということにはなりません。
神の法とは神の心へと自らの心を育てる指針なのです。
神の心とは、善を為す、愛に従うを自らの意志とする心です。
正法とは何かと、詳しく理解できる知識をメッセージから知ることの出来なかった
(天上界の合体された)昔の人々が、天上界の意識を通して得たものとは、
神の法とは知らされてさえいない、自らの(善なる心から齎される)意識で見出した判断基準を、
(神の法でもないからと)軽んじることなく、厳しく自らを量ったが故に、
彼等は神の心へと導かれることが出来たのです。
イエス様が色情を抱いて女を見る者は、心の中で姦淫を犯しているのだと言われたのは、
そういう意識からの判断です。
何故天上界の思いが人類に伝わらないできたのか、
天の救いを破壊する悪魔の思いを受け入れる者がいるのは何故か、
単にメッセージを理解すれば、善我を自分の心に出来るのではない、
常に考えねばならないと天上界が言われたように、考えることが理解を深めるのですから、
考えるきっかけとなればと、天上界のメッセージ以外のものも載せました。
天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法
- 天上界メッセージ・エッセンス(はじめに)
- 天上界メッセージ・エッセンス 目次
- これからメッセージを読まれる方へ
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 一節 天の救いの歴史
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 二節 天の奇蹟について
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 三節 人類の歴史と共に天の伝え続けた教え、正法とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 四節 正法に適った生き方とは
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 五節 天の指導と方針
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 六節 サタンによる天の計画の妨害
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 七節 天上界の一員として神と共にありながら悪魔となったサタン・ダビデの人格(悪の想念)
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 八節 サタンの妨害と戦いながら、天の為した救いの業
- 第一部 天の教え 第一章 天の歴史 九節 現代に現われた神々が、神として語るとは何を以て言うかを証された
- 第一部 天の教え 第二章 最後の審判 一節 最後の審判の背景
- 第一部 天の教え 第三章 善我(神の心)を見失わない為に 一節 苦しみに神の信仰を見失う時、神の心に繋がる良き思いが失われる
- 第一部 天の教え 第四章 天上界に愛される人格 一節 天上界の良しとする、愛される人格とは
- 第一部 天の教え 第五章 德(心の糧) 一節 真理は神の霊から齎される
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 一節 徳の観念を悟れず、知識のみに留まる者
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 二節 真理
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 三節 愛
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 四節 正義(悪に立ち向かう)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 五節 信じること(信義)
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 六節 理性
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 七節 ユートピア建設
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 八節 使命感
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 九節 中庸
- 第一部 天の教え 第六章 天から齎された真理及び徳の観念(本質)について 十節 偽我から生まれる観念
- 第一部 天の教え 第六章 備考 一考察
- 第一部 天の教え 第七章 現代に於て初めて証された真理 一節 霊について
- 第一部 天の教え 第八章 宗教 一節 宗教の誕生
- 第一部 天の教え 第九章 共産主義(悪魔のイデオロギー) 一節 共産主義とそのシンパ
- 第一部 天の教え 第十章 病の分析と治療への助言 一節 精神面
- 第二部 神と人類の交流 第一章 天上界の世界 一節 神々の紹介
- 第三部 神から授けられた正法 第一章 正法を信じる
- 第四部 天への思い 第一章 天への信義 一節 真の神に帰れ
- おわりに
- 天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅰ巻 目次
- 第一部 「天国の扉(77年12月出版)」より 第三章 ある日の高校生クラスの討議より
- 第二部 「天国の証(78年8月出版)」より 巻頭 詩 最後の審判 千乃裕子
- 第三部 「天の奇跡」第一章 (天上界への質問と解答)
- 第四部 「天国シリーズ」巻頭メッセージ
- 第五部 現象テープ 一九七七年の約束(天上界よりの通信) ミカエル大天使長
- 第五部 現象テープ No.4「ある日の高校生クラスの討議より」
- 第五部 現象テープ No.7 「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ①ミカエル大天使長様
- 第五部 現象テープ No.7「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」 ②イエス様
- 第五部 現象テープ No.8「正法講座」 イエス様
- 第五部 現象テープ No.10 ① 「正法を学ぶ人の為に① 天の方針」 ②「新天王の宣誓」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.11 ①「正法を学ぶ人の為に② 業(カルマ)について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.12 ①「正法を学ぶ人々の為に③善我と偽我について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ①「この場に集ったあなた方の何を信じて、私達が語り掛けているのか解りますか」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.16 ②「神を畏れるとは」 ウリエル様
- 第五部 現象テープ No.17①「愛について」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.18 「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.19 「宗教と人間との関係について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.20「再び愛について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.21「原罪について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.23「心の美は」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.24「あなた方が賢くなる為に、私達が与えるものとは」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.25「天国語の語源について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.26「良き人間関係について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.27「正法流布について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.28「自己犠牲について」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.29①「愛と信仰」 イエス様 ②「クリスマス・メッセージ」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.31「天上界による質疑応答(天上界の見解)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.32「物の考え方について」 ラファエル様
- 第五部 現象テープ No.33「天上界による質疑応答(慈悲について)」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.34 ①「天による現象と霊体の構成」 ミカエル大王様
- 第五部 現象テープ No.35「クリスマス・メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.36「消滅について」 ガブリエル様
- 第五部 現象テープ No.37「メッセージ」 ①イエス様
- 第五部 現象テープ No.38「ユートピアについて」 ①ウリエル様
- 第五部 現象テープ N0.40「天上界からの苦言」 ①ガブリエル様
- 第五部 現象テープ 欠番 「正法を守る」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 機関誌「慈悲と愛」(78年11月創刊号から79年12月号まで) に掲載された天上界メッセージ 「慈悲と愛」78年11月創刊号 ①「神の恵み」 ガブリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年1月号「霊の能力について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年2月号「最後の審判」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年3月号 ①「精神的成長の齎す愛の昇華」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年4月号「民主主義と共産主義」 ウリエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年5月号「天上界の意志と世の人々に望むこと」 イエス様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年6月号「至高の徳」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年7月号 ①「思い遣りと尊敬について」 ミカエル大王様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年8月号「動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年9月号「再び動物愛護について」 パヌエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年10月号「人間の冷酷さ」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年11月号「天上界を軽んずる正法者について」 ラファエル様
- 第六部 天上界メッセージ 「慈悲と愛」79年12月号「天の真理を、意志を伝えた言葉」 ラファエル様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅱ巻 目次
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年2月号「政治理念」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年3月号「国防に無責任且つ無節操な政府を作った原因」 ミカエル大王様
- 「慈悲と愛」80年4月号「イデオロギーの洗脳から自由な国家を守る為に」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年5月号「時事問題(前編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年6月号「時事問題(後編)」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年7月号「天上界が政治に介入する理由」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年9月号 ①「正法者間の親和力の足りなさについて」 ラファエル様
- 「慈悲と愛」80年10月号 ①「GLAが天上界からの警告を理解し得なかった理由」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」80年12月号「善意から出る嘘と悪意からの嘘の人に齎すものとは」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年1月号「悪霊が滅ぼそうとするもの、天上界が守ろうとするもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年1月創刊号「"希望と愛と光"の意味するもの」 ガブリエル様
- 「慈悲と愛」81年2月号「宗教の弊害について」ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年2月号「道を誤った日本への警鐘」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年3月号「動物の中に生き続ける真の愛」 パヌエル様
- 「希望と愛と光」81年3月号 詩「ファンタジア」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年4月号「サタンの道を行くローマ・カトリック教会」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年5月号「怒りについて」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年5月号「人の気持ちを考えるとは」 ウリエル様
- 「 JI 」81年6月号「信じるということについて」ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年6月号「人に良く見られたいという心」 ラファエル様
- 「 JI 」81年7月号「ユートピア建設について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年7月号「天上界の美しさについて」 ウリエル様
- 「 JI 」81年8月号「理性について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年8月号「赦しについて」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年9月号「己を知った先にあるもの」 ラグエル様
- 「希望と愛と光」81年9月号「慈悲について」 ガブリエル様
- 「 JI 」81年10月号「奇跡について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」81年10月号「愛を受ける方法について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」81年11月号「使命感について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」81年11月号「強さについて」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」81年12月号「何故魂の研磨が難しいか」 ウリエル様
- 「 JI 」82年1月号「正法者について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年1月号「物の考え方について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年2月号「柔軟な心について」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年2月号「悪霊の甘言に騙されて天に背反した者達の偽我」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年3月号「正法の伝える真理とは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年3月号「判断力について」ラファエル様
- 「 JI 」82年4月号「正法を如何に役立てるかを考えるのは、人を生かそうとする思いから来ます」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年4月号「自由な心について」 ラファエル様
- 「 JI 」82年5月号「使命感の本質について」 ミカエル大王様
- 「希望と愛と光」82年5月号「慈悲について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年6月号「魂の研磨について」 ガブリエル様
- 「希望と愛と光」82年6月号「心に安定した支柱なき者」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年7月号「天と共にあるとは」 ラファエル様
- 「希望と愛と光」82年7月号「正法を学び、見出した真の道を本当に歩いてきたのですか?」 ラグエル様
- 「 JI 」82年8月号「暖かい心と冷たい心」 ラファエル様
- 「 JI 」82年9月号「天を信じると言う人々は何を以て、その信仰の根拠であると天に証するか」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年10月号「人を愛する者へと導くのが神の愛であり、人を幸福の内に留まらせるものではない」 ガブリエル様
- 「 JI 」82年11月号「天の戒めである"姦淫するなかれ"の真の意義について」 ミカエル大王様
- 「 JI 」82年12月号「天の徳に生きんとする者が天の導きを知る」 ウリエル様
- 「慈悲と愛」80年1月号「悪霊に支配され易い人格及び国家」 ミカエル大王様
- 天上界メッセージ・集成 第Ⅲ巻 目次
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様
- 「JI」83年2月号「義人の陥る不寛容という偽我」 ラファエル様
- 「JI」83年3月号「自ら神に等しくならんと努める人格とは」 ラファエル様
- 「JI」83年4月号「共産主義者の心の世界」 ミカエル大王様
- 「JI」83年5月号「優しさと慈悲魔の違いについて」 ラファエル様
- 「JI」83年6月号「人を信じることとは」 ミカエル大王様
- 「JI」83年7月号「一箇所に留まらない進化する精神とは」 ラファエル様
- 「JI」83年8月号「正しく躾を、指導を与えなかった保護者、社会人の義務感の欠如」 ミカエル大王様
- 「JI」83年9月号「嫉妬心について」 ラファエル様
- 「JI」83年10月号「神の与えた戒律」 ミカエル大王様
- 「JI」83年11月号「神を捨て、共産主義を信じて得た理想郷とは地獄のことであった」 ウリエル様
- 「JI」83年12月号「精神面の成熟に無知、無関心となった原因」 ミカエル大王様
- 「JI」84年1月号「天と共に働くことが出来る者とは」 ラファエル様
- 「JI」84年2月号「共産国の傀儡(エージェント)と化した全国紙」ウリエル様
- 「JI」84年3月号「他を救おうとする心が人を価値あるものにする」 ミカエル大王様
- 「JI」84年4月号「天の望む神の子に相応しい人格への成長と悟りとは」 ミカエル大王様
- 「JI」84年5月号「神に愛されぬ人生を生きて、何の喜びがありますか」 ミカエル大王様
- 「JI」84年6月号「神との関係か人との関係のどちらかしか大切に出来ない人」 ミカエル大王様
- 「JI」84年7月号「正法者の性格について思うこと」 ラファエル様
- 「JI」84年8月号「次期天王の予告、及び神(現天上界)が最後のメシヤであることの真意」 ガブリエル様
- 「JI」84年9月号「善霊に禁止されている霊現象を行うのは悪霊以外にないということ」 ミカエル大王様
- 「JI」84年11月号「正法の目的を、魂の研磨を忘れてまで霊能力に夢中になる正法者」 ラファエル様
- 「JI」84年12月号「世の終わりを来らせるもの」 ガブリエル様
- 「JI」85年1月号「人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ない」 ウリエル様
- 「JI」86年1月号「ノイローゼの原因」 ラファエル様
- JI」86年2月号「病的性格と未熟な精神」 ラファエル様
- 「JI」86年4月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(1)」 ミカエル大王様
- 「JI」86年6月号「ノイローゼ克服への助言」 ラファエル様
- 「JI」86年7月号「真の人格の向上に繋がる学問への向かい方」 ラファエル様
- 「JI」86年9月号「再び思い遣りについて」 ミカエル大王様
- 「JI」86年10月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因(2)」 ガブリエル様
- 「JI」86年11月号「(神の国の起点となるべき)"集い"の心を一つに成し得なかった原因 (3)」 ガブリエル様
- 「JI」86年12月、87年1月合併号「天の方針」 ガブリエル様
- 「JI」87年3月号「共産主義に蝕まれた社会の現状」 ラファエル様
- 「JI」87年4月号「老人性痴呆となった者に表面化する(精神的障害の原因となった)歪んだ性格特性」 ラファエル様
- 「JI」87年5月号「天の証言(イエス様を通じてのサタン・ダビデの布石)」 ガブリエル様
- 「JI」87年6月号「弛緩した精神に蒔かれるリベラリズムという悪魔の種」 ラファエル様
- 「JI」87年7月号「"幸福の科学"の霊言は、総て天上界を貶めんが為の悪霊によるもの」 ミカエル大王様
- 「JI」87年8月号「既成宗教に安住する国々にとって受け入れ難い天の真実」 ガブリエル様
- 「JI」87年9月号「社交性やユーモアの解せないのは、精神がまだ成長途上にあるからです」 ラファエル様
- 「JI」87年12月号 「人の善意を信じず、自らの偏見を正当化する者」 ガブリエル様
- 「JI」88年1月号 「劣性遺伝子を持つ者が子供を産むことの問題について」 ミカエル大王様
- 「JI」89年1月号「精神病と霊障との差異について」 ラファエル様
- 「JI」90年3月号「夫婦間の思い遣りについて」 ラファエル様
- 「JI」92年1月号「再び偽我について」ラファエル様
- 「JI」93年1月号「魂の研磨で手にした智慧と信義と慈愛を持って、私達の下に帰って来なさい」 ガブリエル様
- 「JI」83年1月号「天に役立とうとする積極性に潜む自己顕示という偽我」 ミカエル大王様