神から授けられた正法
天上界メッセージ・エッセンス(ダイジェスト版)


(編者)
"メシヤ崇拝について"
 何故メシヤ崇拝が間違っているのか。

 メシヤに依存する精神は、真のメシヤと偽のメシヤを見抜くことが出来ないからです。
 何故見抜けないのか。
 自分を守ってほしいと神に依存する者以上に悪魔にとって騙しやすい者はいないからです。
 まして真の神はそのような依存心に生きる、自らの精神を成長させようと、
自らを救おうと努力しない者に救いの手を差し伸べようとは思われませんから、
例えば悪霊に支配された新興宗教が、
信者に向かって信心が足りないなどと精神的に追い詰めれば、
益々邪教の、偽りの神のご機嫌を損ねまいと縋りついて行く、
自己保存に執着し、冷静な判断力を失くして行くのです。

 何故偽メシヤが存在するのか。
 真のメシヤがいないということでしょうか。
 真のメシヤがいるから偽のメシヤが現れるのです。
 人々が真のメシヤを見出し、救われてはならない、
神を意識することのなくなった人類が再び真の神に出会う、自らの内に神の心の目覚めを迎える、
そのようなことがあってはならないと悪魔の遣わした偽メシヤに人々を導かせたのです。

 偽メシヤ(麻原彰晃や大川隆法や文鮮明など)が日本の周辺に現れたのは何故か。
 現天上界がメシヤとして人類を救済する、神の法を伝える為に日本を起点とする、
その計画を実現する為に、多くの善霊が合体霊として日本人に転生したのであり、
神の意志を、神のメッセージを託すことの出来る真の霊能者(であり指導者)を育てるべく、
天上界最高次元の聖霊(ブッタ様、ミカエル大天使長様)が合体されました。
 これまでも天上界は日本に正法を伝えてこられましたが、
救世主・メシヤを日本に齎すことをエル・ランティ様に提案したのは
ダビデであったのだそうです。

 神の、メシヤの救いが現れる時、悪魔の破壊が現れます。
 光には常に陰が付いて回るといわれてきたことです。
 神自ら伝えたこれらのメッセージは、
何時でも必ず天の善霊がメッセージに出会った者の心に善なる波動を以て働き掛けます。
 悪霊も常に天のメッセージに出会った者を悪霊の世界に導くのです。
 神に導かれ神に出会えた、天国に導かれていると安心した、弛緩した精神に付け込むのです。
 神に選ばれた者、神に救われた者、救われるべき者と人を増上慢に、悪魔の心に導くのです。
 真の神を信じた者を堕落させる、その心を悪に染めることで、
世の人々に偽りの神、邪教であると思わせる、人々から真の神の出会いを、救いを失わせるのです。

 悪魔の導きを神と信じる人々が神の救いから零れてゆく、
神の人類救済の計画の破壊こそ、悪魔の神への挑戦であったのです。
 悪魔の邪心の歓びであったのです。

 何故メシヤ信仰が精神の成長を奪うのか。
 メシヤを信仰する者、メシヤ信仰に留まる者とは、
神の思いを知ろうと、神の思いに応えようと、
今までのこの世(の与えるものしか知らない心)に生きる自我を捨て、
神の心を自らの心に求める、真理を見出し、愛し、生きる知恵を得ようと魂の研磨に、
徳に生きることが精神の目覚めを齎すとは理解出来ぬ(心に留める)からです。

 何故なら、神自ら証されたように、神の思いは人の神の心(善我)にしか伝わらないのであり、
神の教えを見失ったことも悟れぬ心で、自らの幸せを、自己愛を満たす為にしか生きようとしない、
そのような誰もが持つ(人間的な、煩悩にまみれた)心を是認し、
その心(の成長への指標を与えず)のままで神に救われると、信者に安心を与えることで
宗教団体に繋ぎ止める。
 宗教は神を捨て、神の心を求めず人間の未熟な心に留まる、
神の真理に生きんとする神の心を求めないのは、
人は神に生かされていることで愛されることで満たされるのが神の子だからと
信じているのでしょうか。

 人は神の心を知ることも、自らが神の心を真理を愛する心を持つことが出来ると、
それを神が望んでいると考えることが出来ないのではないでしょうか。
 神に依存する心、未熟な心を、幼子の心を神は愛されるとそれが御心であると
(そのように自ら成長を放棄した、堕落した心をごまかして)
安心しようとしているのかも知れません。

「慈悲と愛」81年1月号初出 ラグエル様メッセージより
「人一人の人生に於ても、赤子のままの心で成長したら、如何なる人間になりましょうか。
 求めるばかりで与える人間とはなりますまい。
 天上界が赤子のような心で、と喩えるのは、その姿勢であって、
決して無知を言うのではないのです。」

 また政治家に対して強いリーダーシップを期待するあまり、
必要以上に権力を行使するを強いリーダーと勘違いするのも、
力への崇拝、メシヤ信仰と同じ依存心と深く関わっているものです。
 政治家に委ねる権力も正しい目的の実現の為に、あくまでも権力は法に従う、
正しい法を生かす、守る以上のものであってはなりません。
 権力(力)の人を魅了する以上に、理性(徳に生きる心)の働きに心打たれる、
成熟した精神の価値を悟った者であること、
また、そのような心を持つ者であるか否かが人の心の価値を定めるものと弁え、
人が理性に真理に生きる心であるか否かを判断出来るように努めるべきですが、
判断できないならば、それは自分が未熟であるからと
弁えるだけの理性を持たねばならないと思います。

 精神の未熟な者、取分け若い人に顕著ですが、
ヒーローに憧れる、そのような人に自己投影することで、
自己愛と同じ感情をヒーローに抱く、
自分に対してと同様にヒーローを盲目的に信じる。
 国民の自由意志に選ばれたにも関わらず、後に絶対権力を恣(ほしいまま)にした
独裁者もまた国民がヒーロー視した、強いリーダーを欲したが故に
自己投影し自己愛から盲信(自己肯定の表れ)する、理性的判断力を喪失したが故に
独裁者という化け物へと成長を許すことになるのです。
 依存心が悪魔に心の隙を与えることを自覚し、人類全体が克服しない限り、
再び人類の悲劇を招くことになるとの警告を天上界は、神は伝えられたのです。※注終)

 真に自分の成長を促す人、誠実な心が伝わってくる、自分の誠実な心へと振り返らせる人、
自分の生きるべき道(正道)を先に行く(人の指針になる)人こそ、
そのような人に出会えた時、そうであると直観される人こそ、
真に立派な人なのではないでしょうか。
 尊敬すべき人、指針と仰ぐべき人、
また善の道を示す真理、神と判断される基準が、
自分を無条件に愛してくれる、自分を大切にしてくれる、
そのような(自己愛に生きる)自分を受け入れてくれるから
(悪魔の甘言の効用も同様)と判断しているとしたら、
盲目的な母性愛なのか、偽善者なのか解りませんが、
正しい道を見失わせる、偽りの愛、
あなたから愛を返されることを、良く思われることを求めてのものです。

 自分の心が善であるか否かを問うことがない、己を知らしめようとしない、
自分は受け入れられているとの安心感故に、その人は愛するに値すると思うのなら、
それは自己愛の延長に過ぎなのであり、そのような愛に留まらせるのは、
人の成長を望み、導いてこられた神の、真の愛を知らない者なのです。
(自分の心を知ることなく盲目的に自分を愛するように)自己投影した人を愛する、
自分にそのことを気付かせないのなら、その人もまた自己愛に生きている者なのです。
 神が愛するに値する者を愛すると仰しゃったのは、真の神の愛とは、
自己愛に生きているその心(偽りの愛)をその人の前に明らかにするものだからです。

 神の愛に生きるか自己愛に生きるか、神の導きに従うか、拒否するか、
人が自らの意志で選択させる、自らの責任を自覚させるものです。
 自らの十字架を背負って私についてきなさいとイエス様の仰しゃったのは
そういうことなのです。
 自己愛に生きる者が真理の道を歩むことは出来ないのであり、
神に導かれることはありません。
 己自身(の心)を知らぬ者、知ろうとしない者に正法は、
真理は理解されないと天上界の言われるのはそういうことです。
(これからメッセージを読まれる方に)

"宗教による救い"
(編者)
  天上界が関与されていなかった者であったとしても、真理を語り、愛を行っている者の心は、
神の心であり、その心の美しさが天に伝わらない筈がない、
彼によって救われた者の喜びが、天の喜びとならない筈がないのです。
 心が正しければ、美しければ必ず神々の心と通じ合うのです。

(中略)
 人々は何故、自分達の信じる宗教と他の宗教が、
同じ神によって齎されたと理解出来なかったのでしょう。
 宗教は、己が心の中の神の心、真理に生きる心へと導く道です。
 そうでなくして何が宗教でしょう。
 人それぞれ心が違うように、同じ宗教でさえ、理解が違うのです。
 真理に盲いてきた者が、己が魂を救う道を見出した時、
魂を目覚めさせた宗教が真理となるのです。
 魂の目覚めぬ者には、如何なる宗教も真理とはなりません。

 心の目覚めた者だけが光に照らされた道を歩くことが出来るのです。
 信者は唯一の光の源に思いを向けてきたのでしょうか。
 見出した光の世界におられたのは、神のみでしたか、それとも仏だけでしたか。
 どちらの信者も神様の心も、仏様の心も置き去りにして、争ってきたのです。
 どうして神仏が、真理を求める者を拒むことがありましょうか。
 神が受け入れないのは、善を語りながら善に生きぬ偽善者だけです。
 人の心に真理への愛を見出せない者同士で否定し合ってきたのでした。

 真の神(の御心)を、神を愛する心(自らの神の心)を見出す為に、
妨げている偽我を克服する、その為の方法が宗教なのであり、
宗教の違いによって同じ神であることが悟れないようであってはならない、
真に神への愛があれば、(信じる宗教が違っていようと)
同じ愛を持つ者であることが解らない筈がないのです。
 神の思い(人類を真の幸福に導く、魂を救うこと)に応える為に、
その思いの為に民族、国家の、宗教の執着を乗りこえること、
神と共に(真理に)生きる為に人類が繫がること、
真理を、神を愛するとはそういったことではないでしょうか。
(第一部、第一章、一節、(二)宗教による救い)

"天の霊の合体、守護(という直接個人への働き掛け)による救い"
 天上界による大事業

(編者)
 ルネサンスではダビンチ、そしてミケランジェロが同じイタリアに、同じ時代に生まれました。
 十八世紀には、ドイツ、オーストリアに集中して大音楽家が生まれました。
 古代ギリシャでは、ゼウス、アポロの父子、七賢人(七名全員に高次元より合体)、
またソクラテス、その弟子のプラトン、その弟子のアリストテレス、
その弟子のアレキサンダー大王へと偉大な精神が引き継がれました。
 宗教、思想の分野では、アブラハム様、モーセ様、ブッタ様(とお弟子のモンガラナー)、
孔子様(とお弟子の曾子)、イエス様、マホメット様などに高次元による合体、
守護が為されました。
 科学の分野では、天文学者コペルニクス、ガリレオ=ガリレイらが地動説を唱え、
キリスト教会による精神の隷属に屈しない、自由な精神の中に真理の表れることが示されました。

 人間の努力だけでこのようなことが起き得ると思われますか?
 時代が変ろうとする、変えねばならない時に、偉大な人々が現れたのは何故か。
 何故その時その場所に於て起きたことが、その一度だけで、その後二度と起きないのか。
 実にこれらの天才、偉人達はすべて天上界高次元の聖霊が、その時代、その場所に於て、
人類への導きを計画し、自ら転生して実現されたのです。
 目的が達成されれば、無計画に同じことを繰り返すことはありません。

"合体霊"
「慈悲と愛」78年12月号初出 ミカエル様メッセージより
 人間はその受精卵が出来た時より魂の歴史が始まるのです。
 そして受精後(胎児の脳の形成が整う)三箇月目より天上界からの合体霊が合体を始め※1)、
 そこから新しく出来た魂が魂を通し合体霊の意識の吸収を始めるのです。
 
合体霊は合体霊であり、新しく出来た人間の生命は
決して合体霊と同じものとは言えないのです
※2)。
 このことを皆様は確りと理解しておいて下さい。

(※1注。
 胎児は、視聴覚のない世界にあり、
そのような中で8箇月近く善なる意識を維持することは合体霊にとって大変なことだと思います。
 悪霊から胎児の精神を守らねばならないからです。
 母体の合体霊や守護霊との意識の交流はあるのかも知れません。
 子供の生まれた後の母親の守護(育児ノイローゼに負けないように)や、
健全な子供に育つ為には、穏和な家庭環境が不可欠ですし、
児童期は善霊のみならず悪霊からの想念に影響され易いことから、
善霊の守りに与る所がとても大きいのです。

「JI」90年8月号 ラファエル様メッセージより
 子供は両親の愛なくしては、
健康も才能も得ることは出来ず、成長の芽は摘まれてしまいます。
 良き教育者に出会うまでに、良き両親の愛と家庭が子供の成長と才能開花の未来に向けて、
機会を与えることが出来るのです。
 夫婦の不和と、母親の育児への無関心、愛情の欠如は子供の不幸な運命を定めてしまうのです。

 胎児の時代から赤ん坊の学ぶ速度は、天才のそれであると岩間先生が伝えてこられましたが、
その時期に両親の歪んだ精神や愛の欠如が赤ん坊に与える不幸な影響は、
計り知れないものがあります。
 それによって後年の成人の社会への適応度が決まるのです。

 
 正法者の夫婦となる人達は、子供が欲しいと思われるなら、
まずお互いの愛情の確保と、子供を産み育てる為の責任の大きさを、心すべきですね。
 生まれてくる子供の運命を、左右するのは両親なのですから ー 。

(編者)
 精神の未熟な者同士が結婚し、子供を授かりながら真の愛情を育てることが出来ず、
離婚し片親で子を育てるのは厳しいことでしょう。
 しかしその為に子供が充分に愛情が注がれなかったとしたら、本当に気の毒なことです。
 人に愛を与えるられる健康な精神を養えられなかった人、精神の歪んだ人、愛を貪る人、
このような人達の内で真の愛が充分に注がれた者が一人でもいるでしょうか。※1注終)

※2注。
 今を生きる人間の自我は肉体と共に生まれたもの、
今生の体験を、学習を通して培われた心でしかなく、
人間として生まれるまで存在していないものです。

(合体霊は合体者(人間)の意識を通して理解されるに過ぎません。
 今生で盲目であった方の霊が、合体者の視神経を通して視力を得ることは出来ません。
 合体霊が合体者の口を通して語り掛ける現象も、
合体者が意識を通じて聞こえたことを合体者が語るしか出来ません。
 合体者(人間)が神経細胞によって感受しているものを、
合体霊が同じように感受することは出来ず、
あくまでも合体霊本人の今生で獲得した条件反射
(見る聞く語る思考する能力はあっても皮膚感覚はない)、及び
合体者の意識から伝わる思いによって判断されるに過ぎません。)

 悪霊が人間の自我(意識)を支配し、邪念を満たす、人間に悪を為さしめることを憑依と言い、
人間の唯一の自我が霊体の転生によって齎されると考えた転生論とは全く別のものです。
 憑依する悪霊は、天使によって消滅されて来ました。)※2注終)
(第一部、第一章、一節、(三)天の霊の合体、守護(という直接個人への働き掛け)による救い)

"奇跡の目的"
「天の奇蹟 上巻(80年10月初版)」104頁
 著者(岩間先生)の質問へのラファエル様による解答より

 奇蹟というものは神と呼ばれる人間の霊による作意であり、
人為的に拵え上げられた舞台及び演出効果であるということ、それ以外にはないのです。
 私達が霊であるが故に、
人間の身体という衣を着ている間は可能でなかったかなりの能力を会得し、
それを駆使してあなた方人類に畏敬の念を起こさせ、
それによって天の権威と言葉と法に従わせ、あなた方を正しい方向へと導く。

 その為の演出であり、舞台設定であるのですから、
悪霊やサタンの力が威を振い、只人を傷付け不幸に陥れ、天から引き離す為の
誘惑的、且つ破壊的奇蹟とは自ずから質を異にするのです。
 勿論、奇蹟の現出はあくまで私達天の声を人々に素直に聴かせ、
受け入れてもらわんが為のもの以外にはありません。
(第一部、第一章、二節、(一)、②奇跡の目的)

"神による奇蹟の謎の解明"
 イスラエルで為された奇蹟が、日本では為し得ない訳。

天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」342頁
 著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より

(聖書に書かれているイエス様の変容についての質問に言及されて)
 強い思念で身体が電磁場となるのは、ガリラヤ地方の電磁場の度合いから見て有り得ることです。
 それが為に天の多くの霊がエネルギーを当てると光に満ちて、衣服も真白に輝いたのでしょう。
 日本で同様な事を行っても、同じ現象は出ませんでした。
 写真には写し得ても、肉眼では見えないのです。

 同じ理由でフィリピンに於ける心霊手術なるものも、強度の磁場に助けられて可能となるのです。
 霊がエネルギーを少し加えただけで、
メスを使わずに心霊者の手が電気メスの役割りを果たすのですね。
 フィリピンで可能な事が日本では可能でありません。
 だからユリ・ゲラーを演出させた悪霊はテレビ局の電力を利用しました。
 テレビの前のスプーンを曲げるのは、各家庭に潜り込んだ悪霊が、
別の霊達が局から流した強い電流を感じた人の前で曲げて見せただけなのです。
 霊の数が多ければ大規模な現象が可能です。
 超能力などは存在しません。

「天の奇蹟 中巻(82年9月初版)」95頁
 著者(岩間先生)の質問へのミカエル様による解答より

 死海がある上に地中海も深層水が比較的高温で、塩分濃度も大西洋より大部分の水域が高く、
且つ地中海火山帯という地中海の2/3を占める火山帯もあります。
 火山・地震国である日本と比較すると、地磁気の強度は大阪以降に似ておりますが、
地質、水質、生物界に含まれる塩分濃度は、あの辺り一帯の気象条件から局地的に異常に高く、
日本の比ではありません。
 地質や水質に関しては地中海沿岸諸国もかなり類似しております。
 塩分濃度が高いということは、電気伝導率が高いということに注目して下さい。
 又、イスラエル周辺はアフリカ中部以南、赤道環電流
(奇蹟の現出に利用された。電力など無い時代であり、奇蹟現出の場となった要因)が
西向きに流れている地域に近く、それが気流の方向によって北上する可能性も多いのです。

(編者)
 イスラエル(死海近辺)は磁気の強い土地であった為、
霊体のイエス様に天上界が強いエネルギーを与えると、
人の目には肉体の如くに見せることが出来ました。
 イエス様が魚を食べて見せた()ことで、弟子達は復活したイエス様が霊ではなく、
生前のままの肉体であると信じました。

注。
 イエス様が食べたと見せた魚は、善霊により隠して捨てたとの天の証言です。)

 すべての戸に鍵の掛けられた部屋にイエス様が現れたことが、
何度も聖書(ヨハネによる福音書)に記されているのは、
復活したイエス様を肉体と考えた為に、理解し難い奇蹟と思えたのでしょう。
(人々がイエス様を霊であると知ったら復活とは考えなかったでしょう。
 それまでも歴史を通して天の霊がイスラエルの人々の前に現れたことを、
また見えなくとも悪霊に憑依された時と取り除かれた時の人々の心の変りようからも、
霊の存在は、神の存在と同じくイスラエルの人々の信じるものでした。
 亡くなられたイエス様が人々の前に霊として現れたと思われたなら、
肉体として蘇ったと人々が信じなかったならば、神の奇蹟とは思わなかったでしょう。

 霊が存在することも、嘗ては人間であったと信じることが出来ても、
霊は二度と人間のようにこの世に生きられないと考えられていたのだから、
神は霊に生前と同じ肉体を与える、人を蘇らせることが出来ると信じる時、
それが神の御意志であると信じる時、人は死の不安から救われたのでしょう。)

 イスラエル以外の土地では、天上界がエネルギーを与えても、
人の肉眼に霊体を確認させるのは困難であると言われました。
 神々は限られた(磁気の強い)場に於てしか霊は姿を見せることは出来ず、
霊能力を与えられた者を通してしか語りかけることが出来ません。
 霊体は、人の目に見えず、霊能者を通して語らないと聞くことが出来ない、
その霊が、本物の神々か、悪霊が成り済ましているかは、その言葉で判断するしかない。
 その霊を仲介する霊能者の人格(悪霊を見抜くことが出来る知恵者であること)が、
神々に認められねば、霊能は与えられません。
(サタンによるサタンの為に霊道を開かれた霊能者とは正反対の性格です。)
 イスラエルだから可能であった、どこでも誰にでも解るようにイエス様が現れるということは、
イスラエル以外の地では起きないのですから、天上界がその存在と共に真理を伝える為に、
私達が正しく真理を捉えることが出来るように、
天上界の善霊を(合体霊として)遣わして下さいました。

"天上界がカナン(パレスチナ)の地を神の国(イスラエル)とされた訳"
 カナンの地は、霊が人の目に姿を見せることを可能にする磁気の強い土地でした。
 天上界が人類の前にその存在を明らかにし、人類に真の神の存在を確信させ得る、
神と人類の交流を実現させる為に、
アブラハム様(とその民)をカナンへと導かれたに違いありません。

 神が神の民とすべき民族を選び、神の国に相応しい地を選び、導かれました。
 選ばれたヘブル人に天の導きを与える為、真の族長を天より遣わしました。
 神々の霊を宿したアブラハムの中に人々は神の心を見出し、彼に従うことが出来ました。

 カナンは人々の需(もとめ)を満たさんが為に、
肥沃な(乳と蜜の流れる)地を与える為に選ばれたのではなく、
人々の前に神が臨む、この世(地)からあの世(天)へと永遠の神の導き(天への道)に生きる
神の国を築く為に選ばれたのです。
(第一部、第一章、二節、(一)、③ 神による奇蹟の謎の解明)

"サタンの仕組んだ復活劇"
(編者)
"一説に「(聖骸)布を畳む」とあるが、復活の状態では立ち上がり、歩く以外の動作は不可能、
と天上界の証言あり ー 千乃。"

「ヨハネによる福音書」第」十九章三一節~三六節
「さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、
安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと(特にその安息日は大事な日であったから)、
ピラトに願って、脚を折った上で、死体を取り降ろすことにした。
 そこで兵卒らが来て、イエスと一緒に十字架に付けられた初めの者と、
もう一人の者との脚を折った。しかし、彼らがイエスの所にきた時、
イエスはもう死んでおられたのを見て、その脚を折ることはしなかった。
 しかし、一人の兵卒が槍でその脇を突き刺すと、直ぐ血と水とが流れ出た。
 それを見た者が証をした。そして、その証は真実である。
 その人は、自分が真実を語っていることを知っている。
 それは、あなたがたも信ずるようになる為である。これらのことが起こったのは、
「その骨は砕かれないであろう」との聖書の言葉が、成就する為である。

 何故そのように予言されたか。
 サタン・ダビデが天上界に無理やり承諾させた復活とは、死者が動く、歩く
(復活の状態では立ち上がり、歩く以外の動作は不可能)ことで、
蘇ったかのように見せる、人々を信じさせる
【(骨は砕かれないという)予言が実現したことを明らかにすることが
聖書記者(ヨハネ)の使命との理解から証言された】為であり、
イエス様の脚を折らないことが、蘇りの奇跡の為に必要であったからですが、
何故、脚の骨が折られなかったかは、
死者の歩行だけが人々に神による蘇りの奇跡を信じさせる
唯一の(天上界の可能な)手段であったことは、現天上界によって奇跡の解明
(奇跡の原因、その軌跡に必要な条件(磁場)と奇跡の限界)が為されるまで
誰にも理解し得なかったのではないでしょうか。
 この天上界の証もまた、イエス様を遣わされた神が、
現代に現れ自らを証された現天上界であることを裏付けるものでしょう。

 それでも疑問に思うことがありました。
 磁気の強いイスラエルで霊体に天上界の強いエネルギーを当てると、
肉眼で捉えられる波長を霊体に持たせることが出来る。
 また、人の網膜に霊体の姿を映すことで、
霊体が目の前に存在するように錯覚させることが出来ることを知らされておりましたが、
実体は霊体であるのに、霊体とは見えず肉体のように人に見せることが出来た。
 若しくは復活を知らされていた、
生前のイエス様の姿を知る弟子達の目の前に現れたイエス様の姿が
それまでと変わらないと信じられるような(喜びの)念を天上界が与えたのかも知れません。

 実際に復活後に弟子達の前に現れたのは、
弟子達が見たのは生前のままの生きた人間に映じるように、
天上界がエネルギーを与え続けた霊体のイエス様でした。
 霊体のイエス様を人間の如くに思わせることが出来たのなら、
何故亡くなったイエス様の肉体を歩かせる奇跡を行う必要があったのか。

 しかもその蘇った肉体を以て人々に神の奇跡を見せたのだはない、
人目を忍んで、死体を歩かせて近くの川に沈めたのに過ぎない、
それならば、イエス様を聖霊が持ち上げてガリラヤ湖の上を歩かせたように、
死後硬直した死体を持ち上げて川まで運ぶだけでよいのではないか。
 実際は霊体を肉体の如くに見せて、人々に復活の奇跡を信じさせることが出来たのに、
人々が蘇りを信じる為には死体を歩かせるしかないと、
死後硬直することのないように大勢の善霊が二日間に亘りエネルギーを与え続け、
肉体を葬るだけの為に死体を歩かせたのか。

 この復活はサタンが計画したことでした。
 その復活によって神の子であることが証明されるようにサタンは予言したのです。
 天上界はその計画の筋書きに従いながら、真の天上界の救いの計画を余儀なくされました。
 勿論、天上界が十字架の拷問の痕を刻み付けられたイエス様の肉体を世間に晒して、
神の栄光を伝えることなど天上界にとって耐えられる筈がなかったのです。

 サタンの計画通り肉体を復活させるが、
真の神の救い、魂の救いは、天上界が齎すのであり、
その救いの証明は、使命を成就され真に神の子として天国に迎えられた
イエス様の霊によって為されたのです。

 サタン・ダビデが企て、天上界に演じさせた人類救済のドラマとは、
救世主を生け贄として神に捧げる、その救世主は聖霊によって身籠られる(※)、
事実か否か誰にも確かめようのない、誰も知ることのないものにも関わらず
(イエス様が生まれるまでヨセフはマリヤを知ることはなかったとの聖書の記述は
どのようにして知るものとなったか不明ですが誇張でなく真実のものでした)、
ダビデによって夫ヨセフの精子を妻マリヤへ人工授精によって実現させる。

【※注。
 受胎告知と同時に、エル・ビルナビル様がイエス様の合体霊として
マリヤ様の胎内に入られたので、
聖霊によって身籠られたと天上界が言われたことを千乃先生が書かれていましたが、
そんなことなど知る由もないヨセフ様が、
まだ知ることのなかった許嫁のマリヤ様が身籠っているのを知って離縁しようとしたことが
聖書に書かれていますが、
天上界はマリヤ様に、聖霊によって身籠った(のでありマリヤ様は無実である)
ことを受胎告知で既に知らせていたのであり、また親戚にあたる、
(長い間子供の授かることがなかった為に石女と思われていたエリザベツ
(洗礼者ヨハネの母)が(同様の人工授精だったそうです)身籠ったことも
マリヤ様の知るところでした。

 イエス様の神話作りの為とダビデの勝手な行為に対して、
天上界による救世主の備えであることが人々に理解させるように配慮されました。
 ダビデがこのような神話作りを必要としたのは、天上界を滅ぼした後、
自分がエホバ神に、また時にはイエス様や他の偉大な預言者に
なり替わるつもりだったからではないか。
 その為にエル・ランティ様のご性格の正反対であるダビデを人々が同じ神と信じるように、
神と判断されるイメージを植え付けるための神話作りであったと思います。
 神とは如何なるものか、その権威を、力を明らかにする、
その権威の、力の現れを以て神とする、異論を認めない、認めぬ者を許さない、
そのような基準を明らかにする為に、偽りの神を権威付けるものとして神話を作る、
神話によって何時の時代の人々にもそのような神への渇望を起こすことを
目論んだのではないでしょうか。

 そして、悪魔によって計画され、天上界に為さしめたこれらの事実
【神の子を生け贄とする、
処女懐胎(神の子とは受精によらず聖霊が肉体を纏ったものとキリスト教会は信じたようです)、
医者に見放された患者を(天上界の聖霊によって)癒すという、
奇跡を行う真の救世主であることを示せるか、
難病の者を探してイエス様の前に連れてくる】を聞かされて、
真に神々の伝えるものと納得されるのは、今まで明かされることのなかったこれらのことが、
神によって為されたと聖書は伝えてきたのですが、
イエス様の語るエホバ(エル・ランティ)様とは明らかに矛盾しているのです
(「JI」85年12月号 ガブリエル様メッセージに詳述)。

 復活劇に伴うこれらの業が、実はサタンの考案したものであったこと、
それを神の業と信じるような信者の心を作る、そのための宗教としていったのでしょう。
 天上界を破壊して後、エホバ神にイエス様になり替わる為だったのです。

 キリスト教会が信じているのは神ではない、サタンの作り上げた神話です。
 今も天動説を信じているキリスト教徒はいないとは思いますが、
天上界(エル・ランティ様の合体(転生)されたコペルニクスや
パヌエル様の合体されたガリレオガリレイ)によって伝えられた天動説を
キリスト教会は彼等の権力によって葬ろうとしました。
 正に悪魔の齎す権力によって彼等の権威が支えられていることを証明したのです。

 これに懲りずに、ミカエル様の合体されたダーウィンによって伝えられた進化論にも、
唯一絶対の創造神の狂信から目を覚ますことはありません。
 神の齎された真理を受け入れられないのは、神の心が受け入れられないからです。
 神の善の波動を拒絶する心に生きていたのです。
 彼等の心を縛り付けた教義は、彼等の精神に自由を齎すものではなかった、
神の心を見出すように導くものではなかったのです。

 サタンの齎した教義、またイデオロギー(社会、共産主義)はサタンの心に導くものです。
 人の心に自由を齎そうとするのが神の愛です。
 自由の中でしか精神は成長出来ないことを知るからです。
 神の愛だからこそ人は神に縛られることがなかったが故に、
神に与えられた、神に守られての自由であったことを悟れなかったのです。
 サタンが齎した教義(神話)、イデオロギーは人をサタンに繋ぎ止める、
人を支配しようとするのです。
 そのような支配を受ける心が偽我であり、自己保存の思いに縛られる心です。
 自己保存から、教義をイデオロギーを守ろうとするのです。
 守らないものを裁こうとする、
自己を優位な立場に置こうとする自己愛しか知らない心(偽我)だからです。
 そのような自己愛を刺激するのが悪魔の甘言と言われ、
自己保存に意識を繋ぎ止めるのが恐怖心を齎す力であり、
サタンが人々の心に力への崇拝を齎す為、弱肉強食に生きる獣性を解放する、
その為に理性を捨て去らせる、神の愛する徳を、愛を、優しさを顧みぬ心とする。

 人の幸せを願う、人の心を気遣う優しさから、神の心から生まれるものが愛であり、
神の御心と繫がるのは愛だけであると教えるのが神であり、
サタンが人を力によって支配する為に、人を力あるものを崇拝する者とする為に、
教義を、イデオロギーを信じる者に、信じない者を踏み躙る力を与えた、
そのような力によって維持される(宗教の教義に、イデオロギーに生きる)
世界を作ったのです。注終

 死体の歩くところを見せる訳でもなく、
人々の目には霊体を肉体の如く見せて復活を信じさせ(ることが出来)たにも関わらず、
何が何でも死体を歩かせなければ復活と認めよとしなかった。

 イエス様を神の子と人々に信じさせる為には、そうしなければならないとダビデは考えたのです。
 真に人類を救うことを望み、イエス様を救世主として導いた天上界の誰一人そのような
(ゾンビのように死体を歩かせることを復活と予言し、
精子の(人によらず霊による)受精を聖霊により身籠ると予言した)イカサマに手を貸すばかりか、
救い主を十字架という最も残酷な方法で死に至らしめての復活劇を、
何とかエル・ランティ様に思い留まるように七大天使は説得しようとされましたが、
必ず人類は神の心に目覚め、神の齎した救世主を信じ、従うことになるとの
ダビデの思いが偽りとは、天上界の計画を破壊する為の企てであるとは
エル・ランティ様には考えられなかったのです。

【1977年に天上界が最終決戦を迎えるまで、天上界にダビデのいた間、
天上界はこれらの事実を人類に伝えることは不可能だったのです。
 サリエル様は「天国の証」で証言なさいましたが、
天上界は最後の審判、及び善霊の生命を賭けた最終決戦を避けようと
努力されたのでした。
 ダビデがそれまで天上界に於て犯してきた犯罪が神の前で問われた時、
ダビデが神に裁かれることを察した時、ダビデが如何なる行動に出るか、
天上界には解りきっていたのです。

 天上界でダビデが犯してきた罪が神に知られることをダビデは阻止してきた、
ダビデの為してきた犯罪をエル・ランティ様に、
また七大天使に伝えようとした善霊をダビデは陰で消滅したのです。
 ダビデは魔王ルシファーをも従わせた真に神に抗う悪魔であったことが
ルシファーによってエル・ランティ様に証言されました。

 そのダビデが人類救済の名目で日本に救世主を齎すことを提案したのは、
救世主を天上界から奪い、天上界を滅する計画が出来上がっていたからでしょう。
 善霊と悪霊を二分した最終決戦に於てダビデを消滅し得たからこそ、
天上界の真実を初めて人類は知ることになったのです。】

 イエス様に十字架の道を歩ませ、神々によって亡骸に葬りの道を歩ませる、
神が人類を救わんと血を流す時、人々は神の愛に目覚めるとエル・ランティ様に信じさせ、
天上界に為さしめた(ダビデの練り上げた)イエス様の復活劇とは、
生命が絶えるまで苦しみを与え続けさせた後、
復活させる(生命が蘇ったように見せる)というものだったのです。
 そして天上界自らが背負った十字架とは、
エル・ランティ様の証された通り、ダビデを救うことが永遠の夢であった、
その為にエル・ランティ様が背負われたものであったのです。
 エル・ランティ様の証によって、
常に悪魔と戦いながら人類を救いに導いてきたと言われた天上界とは、
エル・ランティ様を唯一神とした現天上界以外にあり得ぬことが
この事実を知る者すべてに理解されたことと思います。

「天の奇蹟 下巻(87年7月初版)」166頁
 著者(岩間先生)の質問へのガブリエル様による解答より

あなた方は、真に天の神々が諸々の残酷な処刑と、預言者や聖人の虐殺、
そしてイエス様の十字架の死のような流血の悲劇を備えたとでも思われるのですか。
 サタンの冷酷非道な頭脳からしか次々とあのような筋書きは生まれて来ません。

 それが理解し得ぬ心へとサタンは導いたのでした。
 人類を救う為に、我が子を十字架に掛ける、
そのような愛を神の愛であると信じたのです。
 このガブリエル様のメッセージを知って、
如何に人類が神の心を知らずに生きてきたか、
神の思いの届かぬ、邪悪な思いの支配する世に馴らされてきたか、
初めて思い知ることになったのではないでしょうか。

 真の天上界の愛が、その自己犠牲を厭わぬ愛が、
自己愛に克己することなく齎されるものではないと考えることがない。
 サタンの心の冷酷さえ知ることがない、
まさか人を破滅させる為に、甘言を以て人を喜ばせている、
人の思い上がるのを腹立たしく思うことなく(大したものです)、
よしよしその調子でふんぞり返れば間違いなく破滅だと喜んでいようとは
想像できないのかも知れません。

 真理に、神に対してすら謙虚な思いを奪うものとは、
己を高しとする高慢だけが真実の己(の小ささを知る理性)を見失わせる、
理性の光の届かぬ心が動物的、盲目的、自己愛だけの心です。
 昇華された精神に初めて宿るのが神の愛であり、
自己愛とは神の愛(理性)を知らぬ心に蔓延り、
人の精神の自由を奪い、ただ自分の為にだけしか生きることを知らない、
思考が教義の型にはめられ精神の開発されることがない。
 自由な思考によって齎される精神の広がりに解放感を自由を感じるからこそ、
未だ悟ることなき真理を信じ、天の光の中に神の叡智を見出そうとする
真の神を求める心が現れるのだと思うのです。
(第一部、第一章、二節、(一)、⑥ トリノの聖骸布の奇蹟)

"正法の原点"
現象テープ№37 「メッセージ」より
 82年1月10日 イエス様現象

 もし今、天変地異が起こって、あなた方の家族がバラバラになり、家は崩れ、
あなた方の生活が駄目になりそうになったとします。
 その時あなたは何を考えますか。何をしようと思いますか。
 あなた方はそう考えて、心の中に熱い思いが入って来ませんか。
 是非助けてやりたい。残った人を助けてやりたい。
 死にかかっている人を助けてやりたい。
 苦しんでいる人を助けてやりたいとそうは思いませんか。

 それが正法の原点なのです。
(中略)
 何が正しいか判らず、何が間違っているか判らず、何が悪いか判らず、迷っている人は、
天変地異に遭っている人と同じではありませんか。
 ならばその人達に少しでも救いを、正しいことを教えてあげよう。
 そうは思いませんか
※1

(※1注。
 神を見失ったが故の苦しみであることを悟れないばかりに、
偽りの救いを、幸せを約束する悪魔を神と信じた人々の心に、
真の神の救いから零れて行く絶望を天は見られました。

 救った者の愛が信じられた時、救われたことを知るのです。
 本当の救いが何であるか知るのです。
 自らが救う者となる、愛に生きることを知るものとなることが真の救いなのであり、
真の救いを齎してこられた天の思いに繋がるのです。

 真の救いを、神の導きを示すことなく、
偽りの救いを示す者は、
人を破滅に導くなら、人にそして神に対して罪を犯すものです。
 人に不幸を齎して己の悪に苦しまぬ善意など只のナルシシズムです。

 又、あなたが苦しみから求める救いが、
偽りの幸福に浸る人々の内に見るなら、
神が自分の為に与えられたのだと、人を自己満足に満たすようなものは虚栄
(堕落させんが為に悪霊が与えた)に過ぎぬもの、
神を、神の愛を求める善我を人の心から奪わんが為に、
人を偽りの心に生きる為に、人の心をこの世に縛る為に
悪霊の与えた喜び、虚栄心の糧(この世の持て囃すもの)であるとを伝えられた
天の忠告を思い返すべきなのです。

 神と何ら係ることのない世界しか理解できぬ心に留まるか、
それとも苦しくとも、苦しいからこそ悪の世に善を求める心に生きていると、
神に導かれていると、真理を知る心に、光の中に在ろうとするかは、自分の意志次第なのです。
 神がその道を明らかに示されたのですから、
あなたは真理を見たのだから、
真理を見出せぬ心から救われた者なのだから、
真の己を知ろうとせずに、自己欺瞞を許し、
人が自己愛に自己保存に生きる偽我を心の内に隠し育ててきた者が、
真理に神に出会った時、真理への神への敵愾心が露わとなる、
自ら神の心を滅ぼし、神を滅ぼさんとの悪魔の心に堕する、
邪悪を喜びとする心に従って滅んでいった者を証された
イエス様の思いが理解されるのではないでしょうか。

 真の愛に生きる心を得た者は、人を救わんとする愛に生きる心は、
既に自らを救っているのだと、
愛に生きる心が神の救いに与る、神と共に生きる心であることが解るのです。
神は愛すべき者を愛する
(神と共に在ることを喜びとする心だけが、天の光(慈愛)の下に来ることが出来る)
とはそのことです。
 愛は愛に生きる心に於てのみ在るのだから、愛に生きない者が、
「愛されないのは不当である、それは神の愛ではない」と非難する時、
彼等はその憎しみを満たすことに、神を否定することに喜びを得ているのです。
※1注終)

 あなた方が、その気になりさえすれば、冷たさや空白感は消えるでしょう。
 だが、それも待っていては、何も出来ません。
 自分で始めなければならないのです。
 まず、そういう状態が苦しいと思ったならば、努力しなさい。
 何時迄も何時迄も、私達があなた方一人一人に、手を差し伸べていることが出来るでしょうか。
 あなた方は自分で、救われなければならない。
 そして、まだ救われぬ人に、手を差し伸べなければならないのです。
 その為にも、賢くならなければならない。
 そうではありませんか。

 今日は、これから、沢山の人が現象をするでしょう。心して聞いておいて下さい。
 同じことを繰り返して、いろんな方が、お話をなさいます。
 ですが、同じことを繰り返して天上界が言うということは、どういうことなのか。
 本当に、本当の意味が、天上界の悟ってほしいと思っている意味が、
あなた方に伝わっていないと見ているからです。
 少しの機会も、無駄にしてはいけません。努力して下さい。
 あなた方一人一人に、お客さんになってほしくないからです。仲間ではありませんか。
 私が生きていた頃に、法を広めようとしたように、
あなた方も又、私達の仲間ではありませんか。
 分らぬことがあれば、聞いてきて下さい。分らずともよいのです。
 一回で分らぬ者を、馬鹿者と怒鳴りつける程、天上界は狭義ではありません(※2)。
 ですが、その前にまず、あなた方は考えなければなりません。
 考えて、考え抜いて、それから私達に聞いて下さい(※3)。
 そうすれば、自分のどのような所が間違っていたか、分るでしょう。
 それではこれで、私の現象を終ります。」

※2注。
 天上界は解らないものを愚か者と言われているのではありません。
 解らないでいながら、解ろうと努力しない者を愚か者と言われるのです。
 誤って改めないのを過ちと言われるのも、
誤った為に人に迷惑をかけたからと反省して改める、
偽我から逃げずに直そうとする、向上しようと努力する時、
天への道を歩んでいるのだと言われます。※2注終)

※3注。
「現代訳 論語(述而第七の八)」下村湖人訳
「私は、教えを乞う者が、まず自分で道理を考え、
その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。
また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引きを与えてやらない。
むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。
しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、
二度と繰り返して教えようとは思わない」

 我執から逃れられずに苦しんでいる者なら、現天上界を信じている者なら、
彼等のメッセージの中に答えが与えられていることを知らない筈がないのです。
 それでもメッセージの中から、求めていた真理を見つけられない者は、
真理についての理解力を養ってこなかったのだから、何度でも解るまで読み返すことです。

 このようなメッセージを学べる機会を得て尚、それを為そうと欲しないのなら、
真理に、自らの意志で生きんとする自我に目覚めないのなら、
真理に生きようとする意志を持たない、
自ら生きぬ故に責任を担う苦しみがない代りに、克服しようとの精神の目覚めもない。
 如何なる結果となろうとも自らの人生を自分の意志で生きることよりも、
自ら考えることを捨て去り、責任の自覚なく、
人に言われるままに生きる精神の隷属にも苦しいと思わない、
神に救いを見出す心も知ることなく依存の内に、心の目覚めないままに終わるなら、
真理に生きる精神の齎す真の幸せも、
精神に於て見出される神に齎されたあらゆる真理の観念も、
ただ言葉(知識)だけのものに終わるしかないでしょう。※3注終)

(編者)
 悩みを克服出来ずにいる、疑問を解決出来ずにいる者が、
克服して、解決して来られた人を知り、学ぶことが出来るのはすばらしいことです。
 しかし肝心なことは、精神を成長させねば解決には繋がらない、
自らを救うことは出来ないということです。
 正しい知識に、指標に、真理に生きることを通して、
安楽へと、精神の堕落(退行)へと導く甘言を見抜く知恵を、
苦労の先にある精神の成長を信じる心を自分のものにすることが出来るでしょう。
 悩まなくなりさえすればいいのではありません。
 感受性を鈍くすれば、人の神の心に繋がることがない。
 人の思いも感受出来なければ、
自分の喜びしか感じない心は自分の為だけに生きるしかなくなります。

 神を求めているのなら、何よりも神ご自身が直接人類に語りかけたメッセージに
耳を傾けないでいられるでしょうか。
 その思いが本当に伝わって、それまでの自分の心の本当の姿を知って、
そのままでいられると思われるでしょうか。

 神の思いに応える内なる神の心に目覚めない、
真理を求める心を顧みることなく、心の飢え渇きが神の心から来ることを悟らず、
目に見える上辺で、人の賞賛で得られるものと、
偽りの真理を信じさせたこの世の、悪魔の価値を追い求め、
真の心を見出せないでいるのです。
 一生を通して私達の心と共にあって、
思いを掛けてこられた合体霊や守護霊の思いにすら耳を傾けずに生きてきたのです。
 このメッセージに出会えたのは、
彼等の導きであったことさえも悟れないでいるのではないでしょうか。
(第一部、第一章、三節、(二)正法の原点)

"真理である正法"
「JI」88年3月号初出 ガブリエル様メッセージより
 正法が新旧宗教と異なる点は、法の解釈が、奇蹟に関わるものでさえ疑問の余地なく解明され、
良識と科学的な分析、真理に裏打ちされたものを良しとする方向付けが為されてきたことです。

(第一部、第一章、三節、(三)真理である正法)

"天の指導"
「慈悲と愛」79年11月号初出 ラファエル様メッセージより
 只天の為に働くならば、私達が天上界の一員として迎えると安心するのは大間違いです。
 天上界の一員となるにはそれに相応しい人格と、思考、判断力を身につけて頂かねばなりません。

 三次元に於て仲良く肩を叩き合って人間が住めば良いというものではないのです。
 そのような浅薄な考えしか持たぬ人は、それ相応の報いしか受けないでしょう。
 詰り、私達は天上界にそのような人を迎え入れたくないということです。

 又、そのような人々が築くユートピアは神の国ではなくて、
人間的な俗臭を持つ人間のユートピアでしかあり得ません。
それが如何に容易に毀
(こぼ)たれ、再び地獄と化すかは言うまでもないでしょう。
 聖書の中の"エデンの園"の物語と同じことです。
 あなた方が我が身を振り返って、
私達天上の者より優れた識見と判断力を備えていると考えられるならば大きな誤りです。
 私達が義というものの本質について、どのように験され、鍛えられ、
年月を通じて正しい判断力を備えるべく教育されてきたか、
あなた方にはお判りにならないでしょう。
 それ無くして、巧妙な悪魔や悪霊に操られた人々のすり替えの理論や罠を見抜き、
三次元を正しく導き、或いは人の愚かさを教え、賢き道を歩ませることは出来ないのです。

(中略)
 三次元の歪みを正しくし、人々の心を正しい方向に向けることのみが
地球に平和を齎す唯一の方法であり、且つそれ以外にはない
ことも改めて述べておきましょう。
(第一部、第一章、五節、(一)天の指導)


"天の方針"
現象テープ№10 「正法を学ぶ人のためにⅠ」より
 78年7月10日 ミカエル様現象

 (第一は)善霊の基準が大幅に変り確りした善悪の判断力を身に付けた方でなければ、
天上界に迎え入れることは出来なくなりました。

 微細な点に至る迄善悪の判断力がなければならないのです。
 又、勇気のある方のほうが、ない方よりも喜ばれます。
 人の為に進んで己を投げ出し、善の為、平和の為に、正法の為に尽す、
それが最も私達天上界の喜ぶところなのです。

 (第二は)その人の一生が後の霊としての生涯を定めるのです。
 価値ある者か無き者か、優れたる者か、成長の止まれる者か、
本人が生ある間に如何にその脳細胞、大脳皮質に学習をさせたかによります。
 それによって全体の価値基準が決まるのです。誰もが同じレベルになる訳ではないのです。
 能力を開発させ思考訓練をしておかねば死して後に同じことは絶対に出来ません。
 霊体の仕事はただ人の一生の助力者として導き教えて行かねばならないだけです。
 他の人の指導をしなければならないのです。
 たとえ合体霊としてもその人を導いて行かねばならないのです。
 それが出来ない頭脳ならば最早、天上に籍を置く資格は無くなるのです。

 (第三は)今生に於ける正法流布の目的は人々をして迷信から合理的思考へと導き出し、
徹底的に霊の世界と三次元との関わり合いに於て不明の点を明らかにし、
即ち私達天上の者の知る限りの真実と真理を与え、
宗教という有名無実の却って人々の魂の修行の妨げとなり、
神についての知識を迷妄に導く宗派・団体を解散させこの世から去らせるものです、
この世から消え失せさせるものです。

 僧侶の解釈がある為に、牧師の説教と独断的解明がある為に、
どれだけ天上界と人々は遠きに隔てられ、理解を阻まれたことでしょう。
 世の中があらゆる分野に於て科学優先となり、人々の学習レベルが上がり、知的水準が高くなり、
私達の語るごく人間として当たり前であり、
常識的に物事を見極めてゆこうとする態度を理解して下さる迄に成長された、
それが故の私達の証です。
 これは私達を低くする訳でも卑しめる訳でもありません
(※)。

注。
 私達に伝える為に神々がこの地上に天上から降りて来られたという意味であって、
神々と同じまでに私達の知性が高められたが故に、私達は彼等を見出したのだと、
彼等の仰しゃったことをそのように聞くのなら、
これ程彼等を貶めていることはないのです。

 古代の人類の知性にあって、同じ人間とは見做し得ぬ知性を彼等に見るが故に神とされた、
その彼等の知性を同じ人間のものと判断出来るまでに私達が成長したとしても、
私達の前に現れた同じ彼等を仰ぎ見た古代人の、
神を神と知り、己を低くする心を持っていた古代人に私達が勝ることにはならないのです。
注終)

 教養と立派な人格、徳と知性とを備えた者のみを私達は今、選んでいるのです。
 それ以外は只人類を混乱と、破壊に陥れる者のみでした。
 善人であっても愚かであれば人の迷惑となり、全体の進歩を阻むものです。
 人々の全体の向上を低下させるものです。
 そのためにあなた方は、老いも若きも等しく向上し続けなければなりません。
 要するに精神的な成長を望むのです。立派な成人としての人格を望むのです。
(第一部、第一章、五節、(二)天の方針)

"大脳の開発あっての精神の成長"
「JI」87年4月号初出 ラファエル様メッセージより
 精神の成長も健全の度合いも(ひとえ)大脳の発達に依ること。
 又、それは良き正法者となる基準の物差しであり、研磨の目安、私達の規範であって、
あなた方にお教えしてきたものです。
 精神の成長なしに、良き社会も文明の発展も、世界の繁栄もありません。
(第一部、第十章、一節、(三)大脳の開発あっての精神の成長)

"イエス様の贖罪の死を計画したサタン"
(編者)
 詩人バイロンの劇詩に「カイン」があります。
 物語のクライマックスは、神に捧げものをするため、カインは穀物を祭壇に供えます。
 弟のアベルは生き物を殺して生贄を捧げました。
 神は、カインの供えた穀物を風で吹き飛ばし、アベルに殺された生贄を喜ばれた。
(生贄の血の匂いを煙らせて、天に立ち昇っていくとの表現に、
生贄を喜んでいるのが誰なのかよく表れています。)
 神が血を喜ばれるなら、神を愛する者の血は一層捧げる値打ちがあるに違いなかろうと、
アベルにお前自身を神に捧げよとカインは殺してしまいます。

 生き物を愛し、生かされることを何よりも喜ばれるのが神(空の鳥、野の百合の譬えの通り)
であることを知るなら、悪魔はその心と全く逆の心を神の心と思わせるため、
悪魔の(生き物を殺す)喜びを人間に吹き込んだのです。
 その喜びを聖なるものと信じさせたのです。
 生贄を神は嘉するものと聖書の中に書き記させました。
(一字一句聖書の言葉は神によると信じる者の頑なさは、神を知る智恵を奪われた人々です。)

 サタン・ダビデが兄の天王エホバ様に、自らには罪から逃れられる力の無いユダヤ人に代わって、
罪の力の及ばぬ神の子の血で清めることでしかユダヤ人を神の下に救い出すことは出来ないと、
エホバ様を無理やり信じさせイエス様の贖罪の計画を受け入れさせました。

 既に義人アベルの殺害やアブラハムの子イサクの生贄という善人の犠牲が、
神の心に憐みを起こさせることを、救いはこのように犠牲によって齎されるものであることを、
サタンはユダヤ教徒に信じ込ませたのです。
 このような歴史を聖書に残すことで、イエス様の刑罰による死の贖罪を神のものとし、
実現させるように計画しました。
 その先にあるものが(天上界高次元の聖霊を滅し去り、この地球を、人類を
兄エホバ様から奪い取り)悪魔の王国の実現を目論んでのこととは、
ダビデの邪心を知る天上界の神々にも考えも及ばなかったのです。
 神の遣わされた救世主を贖罪のために殺すという考えは、
悪魔の心から生まれたものであることを、バイロンは見抜いています。

そして悪魔の心から生まれた証拠は、
イエス様ご誕生の際、お生まれになったユダヤの王(イエス様のこと)を拝する為に、
東方から三博士が来たことから、
メシヤが遣わされることが預言されていることを祭司から聞いたヘロデ大王は、
自分もメシヤを拝したいからと、博士達に戻って居所を教えるように計りました。
(天上界は阻止する為、夢で告げ知らせて博士達をヘロデの下に戻らせなかったことに、
預言が本物に違いないと不安を募らせたヘロデは、
冷酷に徹する悪魔の心を自らの内に抱き、
ヘロデの心は真にサタンの支配するものとなったのです。)
 メシヤ一人を殺す為に、ベツレヘム中の幼児(おさなご)を悉く惨殺しました。

 そのような幼児の惨殺まで聖書は預言していたのです。
 サタンは自ら預言者に語らせた預言を実現させるべく、ヘロデを操りました。
 これを悪魔の仕組んだものと考えず、天による業と信じる者は悪魔の同類に違いありません。

(第一部、第一章、六節、 (二)イエス様の贖罪の死を計画したサタン)

"神と悪魔が共に神として人類に働きかける中で、神を信じる者に真の神が見出されたこと"
(編者)
 今を生きる神の心を知ることが出来ず、何故知ることが出来ないのか分からず、
それでも神を信じるしかないと考えている人は、神の心に近付こうとしていない、それが出来ない。
 宗教は、神の御心を知ることは出来ないもの、
知り得るという考えは、神を畏れることを知らない悪魔の心というのです。
 現正法は、神の心は人々の内に誰もが持っているものだと教えます。
 その心に近付けば、天上の神々の心と同じ波動を持つ故に伝わることを教えます。
 そして天上界はその思いを人が受け止められる為には、人が内なる神の心に近付くしかない、
その為に魂を磨くこと、正しく生きること、人を愛することが、何故大切なのか、
それによって人々が神の心を得る、その心だけが天と人を繋ぐものであることを教えられます。
 宗教が神の教えを妨げているのです。
 神の心を感じ取ることが出来ない心だから、悪魔を見抜けないのです。
 悪魔も人を導いているのです。心が盲目であってはなりません。
 神の心が解らなくても信じるというのは、深い信仰ではありません。
 深い信仰とは、真の神の御心に繋がる内なる神の心に立脚した信仰です。

(第一部、第一章、八節、 (三)神と悪魔が共に神として人類に働きかける中で、
 神を信じる者に真の神が見出されたこと)

"真理を語る者として"
「JI」85年2月号初出 ミカエル様メッセージより
 私達は真理をのみ語り、明かす為にあなた方の前に現れたのです。
 従って真理以外のものを正しいとする訳には行かず、
真理に照らして善とはならぬものを善と呼ぶ訳には行かないのです。
 誤った結果を齎すものは寧ろ偽善と呼ぶべきでしょう。
 しかも今、宗教が産んだ共産主義の弊害が、人々の意識を低下させ、
現代社会の正常化に何が必要なのかを悟らせる知性と感性を鈍らせています。

 宗教も共産主義も人類に必要ではないとするのはその点なのです。
 神を求めることは必要だが、それを阻んでいるのが宗教宗派と共産主義だからです。

(第一部、第一章、九節、 (一)真理を語る者として)

"神を愛する曾ての天の御使いとして"
「JI」84年4月号初出 ミカエル様メッセージより
 あなた方を含め、全人類をモーセ様出エジプト以来、イエス様ご誕生の時より更に、
どれだけ私達天があなた方に愛の手を差し伸べ、救いの言葉を掛け、
あなた方迷える人類の虚ろな心に悲しみの涙を流したことか。

 そして何時までも成長することなく、
同じことの繰り返ししか出来ない神の子は堕落の天使と同じ、
突き放さねば、己の姿さえ見出すことはないと私達も漸く悟ったのです。

 だからと言って、悪魔に魂を渡せと言うのではありません。
 父である天を喜ばせる神の子として相応しい人格に成長してほしい。

 自らが苦しみと努力の内に、
何が人間として正しいあり方か、何を為すべきか、人間の価値は何か、
世界とは地球とは人類に取って何を意味し、その為人類は何を為さねばならないか

社会を形成する一個人として当たり前の人間の成長と悟り

それ無くして人類の為の世界など存在し得ないことを早く悟ってほしいのです。

(第一部、第一章、九節、 (二)神を愛する曾ての天の御使いとして)

"偽我との戦い"
94年7月18日 ブッタ様メッセージより(未出版)
 私が曾て肉を持つ身であった頃、カピラ城を出る前も、そして自らの意志で出家した後も、
心の葛藤は続き、様々な難行苦行の末、
辿り着いた安心立命の境地は、とても言葉では言い尽くせぬ喜びでした。
 しかしその喜びも、己を甘やかさず、僅かな偽我の芽も意識して取り除かねば、
忽ち雲散霧消してしまうのです。
 この繰り返しを経ても前進しようとする強い意志を持てた時、
私は己の心に克つ勇気を得たのです。
 取り払っても、捨ててしまったはずの偽我の芽が、心の隙に執拗に忍び込むのは、
自分の周囲の人々の悪に踊らされた姿による誘惑と、意志の弱さに負けてしまうからなのです。
 正しきを知るならば、この悪戦苦闘は避けられない筈です。

(第一部、第三章、二節、 (一)偽我との戦い)

"善我(神の心)とは"
「天国の証(78年8月初版)」34頁 ミカエル様メッセージより
 神と結びつく善我とは、真に悔いなく働きかける心、 ー
即ち憐みを掛けたいと願い、与えたいと願い、働きたいと願い、尽くしたいと願う ー
それが素直な心の動きでなければならないのです。
 自己を偽り、強制することは真の善我ではありません。
 何故ならば、強いられてする行為には、何時も後で不快な気持ち、疲労を覚えます。
 その行為に喜びと満足感が付いて来なければ、それは善我ではなく、偽我なのです。
 神と結び付く善に苦しみや、悲しみや、功名心、見栄、虚栄は存在し得ません。

 もしそれがあれば、それは偽善なのです。
 善に基づく自然な心の流れが第一です。

現象テープ№17 ①「愛について」より
 79年12月23日 イエス様現象

「私も又普通の人であった。
 そして普通の人として生を受け、そして神により、三十歳になった時に啓示を受けてから、
神の子であると自覚しました。
 神の子であるというのは、神より法を授けられた者、
地上に法を広める者としての自覚()なのです。
 そうでなければ何の意味があるでしょうか。
 私が初めから、生まれた時からあなた方と違う人間である、神の子であると、
実在の人間とは違う人間であると、何か神格化された人間であると広められていたならば、
何の価値がありましょうか。」

注。
 人が神の心に目覚めることで、神の子になるのです。
 初めから神の子としての自覚を持って(神の心に目覚めて)生まれて来るのではないのです。
 そのような者はおりません。
 ブッタ様ですら三十歳になるまで真理を悟れぬ為に思い悩むようなこともなく、
何不自由することのない王子として生きて来られたと証されております。
 人は合体霊に導かれ、共に天への道を行くことで、
善なる意識に生きる神の心が自覚されて行くのです。

 善なる道を求めることよりも、苦難から逃れる道を求める者は、
その求めが神の救いの御心に相応しくないことを理解することなく、
平安に生きられるのは神の加護を受けるに相応しいからと自惚れるような心に
善我が育つこともなく、神の思いを感受する心の開発されることもなく、
そのような魂は神と縁なき世界を生きることになります。

 苦難から苦しみから逃れることだけを思う自己保身に生きんとする本能の前に、
あらゆる徳を忘却することなきよう、
真の救いの道を行かんとする理性を育てる為に、
善に生きる強い精神へと導く為に、
心の中から合体霊が愛の、善の想念を伝えてこられました。
 神の心を育て、徳に生きる者に、
神の子であることを自覚する、神の心に目覚める時が訪れるでしょう。注終)
(第一部、第三章、三節、 (一)善我(神の心)とは)


"偽我から救われる為に"
(編者)
 己が心の内に神の心を望むならば、無意識であろうと、自己欺瞞であろうと、
神の受け入れぬ心を隠し持つことを許してはならないのです。
 悪霊は、私達の偽我にしか働きかけることは出来ません。
 善我を滅ぼすのは、己れ自身の偽我に他ならないのです。

(第一部、第三章、三節、(二)偽我から救われる為に)

"その教えから真の神(天上界)であると知る者"
「天国の証(78年8月初版)」65頁 エル・ランティ(エホバ = ヤーウェ)様メッセージより
 人間として三次元で過ごされているあなた方は益々己の善我を強め、その心を浄化させ、
社会悪、 道徳に反する諸悪を憎み、正義とは何かをもう一度考え、
その基盤に立ってのみの信義と愛を貫き、慈悲を与え、
そして神(天上界)の守りと愛への信仰が互いへの同じ質の信頼感と変わるよう
努めて頂きたい
のです。
 事の善悪、是非、真実と虚偽、(それらの判断を誤らせる)
おおよそ人間として俗世の心、俗人の心として疎ましく思われるものを鋭く見抜き、
それを自分の心から追い出すのです。
 何故ならば、それらはすべて悪霊の喜ぶものであり、
自らを悪の魂と変えるものであり、
私達天上界が受け入れぬ
(真理、善の観念を愛する神の心とは相容れぬ)ものだからです。
 人間的な欲望、虚栄の心、自己顕示、競争心、名誉欲、支配欲、権勢欲、所有欲、
金銭に対する執着の心 ー 。」

(編者)
 誰をも平等に愛するのが神だと言う者の愛とは、
愛を受ける者の価値を問わない愛とは、
受ける者の心の中に何の価値も見出すことが出来ない、
善なる心へと働きかけることの出来ない、
人の心を目覚めさせることの出来ない、
真の愛と自己愛の違いの理解出来ない、
自ら価値ある者と振舞う虚栄に生きる心に空しさも感じることのない鈍き心にあって、
真の愛が伝えられて尚、偽りの愛の内に生きていることの悟れぬ愚か者の抱く
己が心から何処にも伝わることのない、伝わる価値のない思いです。

 幾ら美々しく言葉で飾り立てても心の糧にならない、生命を持たない愛です。
 神に愛されるに値する者とは、神の愛を、神の思いを受け入れる者です。
 神の愛を受け入れるとは、神の教えを受け入れることです。

 神の教えとは、友の為に己が命をも顧みぬ愛を心とせよということ、それが神の愛であり、
神が人類を救い得る唯一のものと心に掛けてこられた思いです。
 神は平等に人を愛すると言う者は、この神の御心を理解した上で、
神の愛を望んでいるのでしょうか。

 神の愛を求めながら、愛に生きようとしない、そのような心に神の愛は何の役にも立ちません。
(中略)
 彼等の心は、神の愛を求めていないのに、
神に認められないことに傷付く自我(偽我)を守ろうとするのです。
 自分を認めぬ神は、神ではないという思いを隠し持つからこそ、
神が言われることに納得がいかないと平然と言えるのです。

(第一部、第四章、一節、 (二)その教えから真の神(天上界)であると知る者)

"自己犠牲を厭わぬ、人への思いに溢れる美しい心"
現象テープ№28 「自己犠牲について」より
 80年9月14日 ミカエル様現象

 自己犠牲とは、神に対する素直さ、謙虚さを必要とします。
 謙虚さ、素直さと申し上げるものでも、何に対して謙虚、或いは素直でなければならないのか。
 人に対してそうなるのではありません。
 神に対して、天上界に対して、或いは真理と呼ばれるものに対して謙虚でなければならない、
素直でなければならないのです。
 そうであってこそ初めて、悪に対して拒否反応を示す事が出来、拒絶する事が出来、
戦う事が出来るのです。

(編者)
 神々の心を知らされて、その心を愛そうとする心が生まれたのです。
 そのような愛が生まれたから、その心に相応しい、その心に生きる為に、
彼等の生き方に倣おうとするのは真に自然のことです。
 天上界の方々が、自分の為ではなく人の為に生きる者になってほしいと願う時、
私達に幸せになることを願ってのことであって、
犠牲を強いる心など微塵もないことは言うまでもないことです。
 そのような犠牲と思われる心に勝るものが、神の愛であるからです。
 天上界が、愛とは自己犠牲を厭わないものと言われるのは、
苦しんでいる者、助けを求めている者を知った時、
自らの心に現れる自己保存への思いに克てない者であってはならない、
助けたいという思いを自ら捨て去るような冷酷な心を齎す自己愛に
克てない者であってはならないということです。

 彼等が望んでいることは、私達が神の愛を見出して、神の愛に生きて、
真の幸福を知ることなのです。
 天への道を行く者を迫害し、神の道を行く者は幸福になれないと神の愛に背かせ、
堕落への道に誘おうとするのは、悪魔に他ならないのですから。

 破滅させんが為の迫害と、善我を貫く精神を鍛えんが為に神が与える苦難と
見分けられねばならないのです。
 神の御心を理解しなければならないというのはそういうことです()。

(人が自ら見出した真の愛に生きることを願うが故に、
自らの意志によらずば人は愛に生き得ぬ故に、神は強制されないのです。
 イエス様は自らの意志で十字架の道を逃げなかった故に、
自らの犠牲を厭わぬ神の愛故に、人は神の愛を知ったのです。
 神を十字架に付けた人類の罪に生きる心を知ったのです。
 真に人の心を救うのは、神の愛以外にないのだから、
自己保存の思いを乗り越えることが出来るのは、
愛に生きんとする自らの意志以外にない故に、
神は私達の心に彼等と同じ、彼等の思いの伝わる神の心があるがあることを、
それを今伝えようとする彼等こそ真の神であることを信じて、
神の心に目覚めるように訴えるのです。)

 只自分が救われたいという自己保存(偽我)を持ちながら、そのような心にしがみ付きながら、
自分が救われることよりも、人が救われるように、人を生かそうとする正法を行えば、
自分の本心に偽って、自分を正法に従わせようとすれば、
自己犠牲を強いられているとの思いが募っていくでしょう。

 偽我に生きる者は、自己保存の本能に意識を支配されている、自己に執着しているのであり、
それが自由を奪う鎖であると認識することが出来ません。 
 その鎖を解き放ち、
自己保存という本能から自由になって善我(理性)に、愛に生きる自由な精神の者は、
自己保存(我執)に盲従し、自己喪失という強迫観念に怯える者の目には、
自己犠牲としか映らない、犠牲を強いるものと見做すことで、今のままで良いとする、
自己欺瞞の内に安心するのでしょう。

 自らを顧みぬ真の愛を拒絶する偽我(自己愛)に生きている者にとって、
自分(偽我)を顧みない真の愛に従うことは、偽我にとっての犠牲(偽我犠牲)なのであって、
善我、内なる神の心にとっては、
(自由な心から自分の意志で愛に従う)真の解放を知る喜びに他ならないものです。

 愛は犠牲を強いるものであると、自己保身の心(偽我)にあればそう思うでしょう。
 しかしそのような心に留まる者は、真の愛を知ることは決してありません。
 真の愛が心にあれば、人が愛を必要としている時に、自己愛に生きれば苦しくなるのです。
 真の愛こそ己(の善を愛する心)に自由を齎すものと判ることでしょう。
 真の愛が自己愛に生きようとする者の偽我を顧みなくする、棄て去ろうとするのです。
 それを恐れる偽我(に生きる者)が、人を善我に生きようとさせる真の愛を、
人に犠牲を強いるものとしか思えないのは、偽我にとって当然のことなのでしょう。

 天上界の方の仰しゃることが厳しいのは、
神となられるまで正しい道を歩む厳しさに負けなかった彼等の精神力の、
愛の強さの表れに他ならないからです。
 そのような思いを自分のものにせねば、天への道を歩き続けることは難しいことだからです。

注。
 神を見失った人類が、救いの希望を、真の信仰を取り戻せるのは、
人類の罪を贖う救い主の犠牲しかないと天王エホバ様を信じさせたのは
弟の(サタン)ダビデであったことが天により証されました。
 愛する子を十字架に掛けても人類を救いたいとの思いが、神の御心であると、
神の愛であるとキリスト教徒は信じてきたのです。

 自らを犠牲にするとの思い(自意識)から真の愛が生まれるとの理解は、
人の精神を歪めて行くのではないでしょうか。

(自己保存(自己愛)の引力圏に留まる心は、
常に自己愛の、自分を優先しようとする心の働きを受け続ける中で、
そのような自己愛に屈することなく、善我に立脚し、
神の愛を自らの意志と自覚する、貫くことで自己愛という心から脱出する、
神の愛に生きる、神の差し伸べる手に自らの手を繋ぐことが出来るのではないでしょうか。)

 真の愛は人を生かそうとする、その熱意が犠牲を乗り越えて行く
(独裁者が民に犠牲を強いるが如くに、宗教を貶めんが為に信者に強いるのが自己犠牲であると、
堕落に生きる者に悪魔が言わしめた、
宗教は、神は、信者に自己犠牲を強いるものと思わせたのであり、
真に自己を生かす愛を見出した者に、
自己犠牲という観念は、人を自己愛に縛りつける為の、
悪魔に植え込まれた欺瞞であることが解る)のです。

 我執から自由になった心が、人の幸せを
(自分と同じように人も真の自由を得て、真の愛に生きてほしいと)願うのであり、
(犠牲を厭わぬ真の愛なのか自己欺瞞なのかと思い悩むような)
自意識に縛られた心から真の愛は生まれません。

 自然から自己保存という本能を与えられたから、自分を大切にする思いを持てたのです。 
 大切にする思いこそ愛の生命です。
 無条件に愛し得る自分から、(自分に喜びを齎してくれるから)大切と見做すものを愛する、
価値観によって愛すべきものだから愛するという、自分の価値観というフィルターを通った、
自分を幸せにする条件に適った愛(自己愛の延長)が他へと向けられます。
 そのような自分本位の愛が他の幸せのみを望む真の愛へと、
人類は昇華させることが出来ると天上界は語られたのです。

 天上界の教えから学んだことですが、
自己保存という本能は、すべての動物と等しく大脳の旧皮質にあり、
理性(神の心、神の愛)は前頭葉という新皮質にあり、理性は遺伝されることなく、
生まれてからの学習を通じて大脳を開発しない限り得ることの出来ないものであったのです。

 そして天上界の人類への信頼と共に伝えられた素晴らしい教えの一つに、
天上界の聖霊(神々)は人間であったこと、人間として生きる過程で学習、
(知恵に生きた)経験によって自己愛を乗り越える理性(神の愛)を獲得された。
 その愛に生きる時、欲望に、自分の為に、他よりも自分を大切と他の犠牲を顧みない、
あらゆる自分本位の思いが、真の愛の前に色褪せてゆく、
何も得ることがなくとも、何を以てしても齎し得ない清々しい、
自由な心を得ることが出来ることを、真の愛を知った者に、
愛なくば一切が虚しいと言わしめてきたのです。

 同じ人間として生きて真の愛を見出した彼等が、
地球人類に真の幸せとは何か、それを見出せなくしている原因とは何か、
それも心の成長なくしては理解されぬ故に、人の一生のみならず、人類の歴史を通じて導かれた、
そして神の法を理解するまでに人類が成長された
(と同時に、地球を滅ぼし得るほどの破壊を求める邪悪と、
真の神に背くまでに己を神とする増上慢と、知能を人類は得た)今、
神の法を神(天上界)自ら伝えられたのです。
 これまで天上界が伝えられてきたにも関らず、
何故人類が神の愛を見出し、神の愛に生きられずに来たかも。

 神の心を、神の愛を歪めて伝える者(悪魔)が存在し、そのような悪魔を悪魔と見抜けず、
歪められた宗教によって悪魔に導かれ、真の神の思いの理解出来ぬ、
邪教に洗脳されて真理を悟る知恵を育てられなかった信者が、
今この世を救う為に人類が悟らねばならない、神の伝えんとされる真理を阻んでいるのです。
 イエス様を拒絶したパリサイ人のように。

 十字架という残酷を、愛する神の子に課す、
そのような神の犠牲によって初めて人類は罪に生きた心を悔いることになると、
サタン・ダビデは兄エホバ神に人類の救いを説得しました。
(罪深い人類が救いに与る為に、
神への供物を必要とする悪魔に歪められた教義に生きるユダヤ教徒を救う為に、)
神の子を生け贄としてでも神のユダヤ教徒を救わんとする思いが
伝わらない筈がない、あってはならないのだからと。
 必ずユダヤ教徒は神の心に目覚め、イエス様の教えに神の御意志を見出すに違いない。
その為にダビデ(サタン)は、
兄エル・ランティ様(ヤーウェ=エホバ神)への協力を誓ったことでしょう。
 エル・ランティ様はダビデの心を疑われなかった、
人類が神に救われることを、神と共に生きる幸せを望んでいることを疑われなかったように

 犠牲によって人々が真の愛の尊さに目覚めると、
イエス様が十字架に耐えられた愛を、自分も絶えられると思う程の愛に突然目覚めると、
愛がそのようなものと言われて、
自らに持ち得た(と思うような心が謙譲に生きる心でしょうか)者がいるでしょうか。
 もしイエス様の十字架に真の愛を見た者なら、
天の光はその人に己が偽我を知らしめるでしょう。
 己が心は真の愛を宿す神の心に程遠い、罪に生きる偽我を知って打ちのめされることでしょう。
(己が偽我をすら克服出来ぬ者が、
神の愛に生きることが出来ると自惚れる心こそ偽我そのものであり、
サタンの甘言の偽りも悟れず、愚かしい一生に終るのです。)

 偽我を一掃する善我に徹することで自己への思いから、
周りへの目が開かれ、神の愛に生きるようになって行くのでしょう。
 自己愛を乗り越えるとは、
大切に思う心はそのままに、自己へと向けてきた思いを他へと向ける、
その為には自らを苦難に追い込もうとも、
愛に生きんとする自らを信頼し、他を大切にする思いを失わぬことです。

 自分よりも他を大切に思えるのは何故か。
 真の愛は、愛に生きる者から対象(外)へと向かうものだからです。
 自らに向かう愛は、自己保身から苦難を避けるでしょう。
 他に向かう愛だから、
真の愛は如何なるものにも屈することを許さず貫こうとするものとなり、
真の愛を見出した者にすべてに勝るものが愛であると言われてきたのでしょう。
 真の愛は他へ注ごうとされるものです。
 他の幸せを願うものだからです。

 イエス様の真の愛を犠牲としか見ない眼(偽我)にあっては、
神の愛を見出すことはありません。
 偽我から真の愛は生まれません。

 強いられて従う心(偽我)に立っての、自らを偽っての愛を、偽善を為し得ても、
人を、己自身をも幸せにする、心を自由にする
(愛に従って悔いることのない)ことは出来ません。
 愛を強いれば、真の愛が生まれる自由な精神を人から奪ってしまうのではないでしょうか。

そのような愛を神の愛として人類が受け入れるか、ダビデは人類を試みに掛けようと、
高貴な魂故に犠牲を顧みぬ真の神の愛が如何なるものか、
人類に突きつけたかったのかも知れません。

"真に高貴なる魂の愛を、受ける価値なき者を救う為に自らを捨て去る真の愛に、
その価値なき者であるあなた達が応えられると思うのか。
 真の神の愛を知った時、己への愛に盲いて真の神の愛を憎んだあなた達が、
自らを捨て去る真の愛を自分のものに出来ると思っているのか"

(己への愛に盲い神の道を見失った人類を救わんとする神の愛を、
サタンは嘲笑ったのでした。)

 堕落への本性を捨てきれぬ人類を知りつくしてのダビデの誘惑に
克つ力を持った者など(偽我に屈することなく善我を貫いた者以外に)存在しなかった、
彼等の邪悪な心に取って救いとは、神ではなく、悪魔によって齎されるものであると
人類に知らしめんが為に、
そのような人類が神の犠牲によって救い得るものであるとエホバ神に信じさせ、
真に高貴なる魂の愛を人類に突きつけたのではないでしょうか。】

 神の愛を知った者が、自己愛を克服しようとするのです。
 真に自由な心(神の心)を知る時、自己愛が自分を縛る心であることを覚らせるからです。
 自由な精神とは(真に価値ある生き方とは何かを、そのような生き方を求める神の心を、
顧みようとしない心を言うのではありません)、
自由な精神を奪う我執に打ち克った心を言うのです。

 真の愛は犠牲によってもたらされるとの考えは、精神の解放を齎すより、
(原罪の如くに)人の精神を縛ることで、神を、真の幸福を見失うことになり
何故なら、犠牲を強いられたと思う心は、真の愛を失っているのであり、
犠牲を超えていく心に生きるのが真の愛だからです。
 犠牲を強いる者は、真の愛を信じることのない者です

決して聖霊の望まれるものではなかったのです。

 十字架という残酷な犠牲から、真の愛が人の心に生まれると神に信じさせようなど
悪魔の冷酷がなければ思いもよらぬものであると天の聖霊は証されたのです。
 サタン・ダビデの悪魔の心を、人類は神の心と信じてきたのです。
 そのような人類の心は神を求めながら悪魔と繋がり、
悪魔の齎した共産主義を受け入れた時、悪魔に魂を渡したのです。注終)備考終〗
(第一部、第四章、二節 自己犠牲を厭わぬ、人への思いに溢れる美しい心)

"天への使命に目覚める者"
「慈悲と愛」80年11月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」124頁

 正しい使命感の芽生えは愛が始まりを告げます。
(中略)
 天の使命というのはとても地道で、現実に即応したものであり、
決して夢の如きぼんやりしたものではないのです。そして誰もが持つべきものなのです。
 世を変えてゆくのは一人の偉大な万能のメシヤではなく、
"こうしたい"と望む一人一人の全人類なのです

注。
 合体霊も守護霊も私達の一生を通して、
私達が彼等と同じ神の心に目覚めるように善導されます。
 私達が目覚めれば多くの人に天上界の人類への思いを、
真の救いへと導く正法を伝えることが出来るでしょう。
 彼等の思いを知ることが出来るのは、彼等が思いを掛ける私達自身しかいないのであり、
彼等がそうされて来たように、たった一人でもそれを伝えようとする思いになった時
人々の心に天の思いを伝えられるのではないでしょうか。)
(第一部、第四章、三節 天への使命に目覚める者)

"神の恵み"
「慈悲と愛」78年11月創刊号初出 ガブリエル様メッセージより
 慈悲と愛は如何なる世にも善に徹し、徳に親しみ、賢者となる時自然に解るのです。
 魂が堕落を許されぬ環境に於て、神の光を感じ、

清々しく悪の心を容れぬ浄められた良心に於て、人と対する時、
心からなる誠意と善と思い遣りが湧き出てきます。
 何の躊躇もなく、何が正しく、何が誤りであるか見抜き、指摘することが出来ます。
 それは魂の歌であり泉なのです。
 そして人の世の汚れに染まぬ心を持ち、自然の美しさに触れ、
鳥や動物の無邪気なそして自然の摂理に適った生活を目にする時、
それらへの限りなき慈しみの心が溢れ出てくるのです。

 神の恵みとはこのことであるかと悟り、
天上の大いなる慈悲と愛をしみじみと感じるでしょう。
 そしてこれは波動の荒々しい、投げやりで荒んだ感情や心の人や、
己のことのみに明け暮れる人には決して悟れぬものだと私は断言致します。
(第一部、第五章、一節、(一)神の恵み)

"正しい生き方の指針・八正道"
「天国の証(78年8月初版)」141頁 ブッタ様メッセージより
 大宇宙、大自然の一環である人間に
大自然との調和ということが義務付けられていることも悟り、
調和の為に人としてなすべきことは、大らかな宇宙の広さに立って、その大きさを心とし、
自然の流れ、水の流れにも似た自然の法則を掟とし
流れくるもの流れ出ずるものをそのままに激情に心を乱されず、
感情の渦に巻き込まれて人と人との交わりに破壊を齎すことのないよう中道の道を歩むべきこと、

僧侶としては無論のこと、普通の人間としても人と人の交際に於て
心穏かに、中庸の徳を以て対すること、これが一番大切なことであり、中庸の心と共に

人の心を正しく判断し(正見)、
相手の求めるものを正しく受取り、理解し(正思)、
常に慈悲と愛の心で口から出る言葉を整える(正語)。
 
そのようにして対人関係を調整し(正進)
延いては自分の生き方をそのように徳のある人として正し
その徳を滲み出るものとして周りの人に与え、
それらの人々に良き感化を与えるように人生を送らねばならぬこと(正命)
善き心、善なる思いを以てすべてのことに当り、すべてのことを計り(正念)、
生計の道を立てる職業に於てもその精神を忘れず
人の為になる、即ち人への奉仕の為に自分の人生、仕事はあること、を忘れず(正業)
又それが正しく自分の人生に、生活に、対人関係に、仕事の上に生かされているか、
何か何処かで、誰かに対し誤りを犯さなかったか、
間違った態度で接しなかったかを
一日の終りに、或いはその度毎に反省し
その次からは再び同じことを繰り返さぬよう注意し、行動するよう自ら常に戒める(正定)
これを八正道(八つの正しい道)と申しますが、それを当時の人々に教えたのです。」
(第一部、第五章、二節、(三)正しい生き方の指針・八正道)

"神の徳を軽んずる愚かさすら解らぬ者"
「希望と愛と光」82年6月号初出 ガブリエル様メッセージより
 私達がこの地上を神の国、ユートピアにする為に、
あらゆる方法と人物を通して語り続けてきました
が、あなた方現代に住む人々にとって、
最早私達の真なる心からの呼びかけにも関らず、何故か功を奏する所少なく、
そればかりか却って正法を一宗教視し、挙句の果ては、私達天上界に対して畏敬の念さえ失い、
三次元に住む俗人と何等変わらぬ態度で接し、 これ以上の侮辱はないと思われる程の有様です。

(第一部、第五章、三節 神の徳を軽んずる愚かさすら解らぬ者)

"自然への、生き物への愛"
「JI」84年6月号初出 ミカエル様メッセージより
 天への愛を普通の人間愛へ振り向けることこそ神の子として相応しい人格であり、
人間愛も動物や植物への愛も共通のものであると何度もお教えしました
が、
(動物虐待を意に介さぬキリスト教信者は、愛を口にしながら愛とは何かを知らず、
人間虐殺の共産主義を先頭に立って広めようとしていることから理解は容易でしょう。
 愛はあらゆる生命を持つものへの愛。その一種類しかありません

(注。本能によって与えられた自己愛を昇華させることで神の愛を持つことが出来ることを
天上界に教えられました。
 大切に思う心は本能によって与えられる、本能だけを持って人は生まれてくるのであり、
生きることを通して、常に本能から来る感情に支配されるしかない、
知恵も理性も知能も持つ(大脳を開発する)ことの出来ぬ生き物ではない、
自らの意志によって制御し得る心を獲得しようとする生き物であると
自覚することの出来るのが人間なのであり、
感情に勝る価値を、真の生甲斐とは何かを、
真に人を価値あるものとするものは何かを求め、見出し、自らをその価値に従わせることが出来た時、
真のあるべき己を悟るのであり、
そのような人々に導かれてきたことを、愛を与えられてきたことを知る時、
生かされてきた者は、生かすことを教えられてきたのであり、
人を生かそうとの思いに満たされた者は、永遠に生きる自然と繋がるのです。
 そのような愛も心も生命も全ては自然が、全ての生きとし生けるものに与えたのです。

"愛はあらゆる生命を持つものへの愛"であり、
その愛も生命も全ての生き物に分け隔てなく与えたのは"自然"であることを、
人間に与える為に生き物は創られたとの教えに関しては、真の神によるものではなく、
悪魔によって齎されたものであることが解るのです。注終)

思い遣りもその現れでしかなく、愛と思い遣りがあれば、
正法者として相応しくない人格とはなり得ないのです。
(第一部、第六章、三節、(一) 自然への、生き物への愛)

"アガペーの愛と慈悲、エロスの愛と慈悲魔"
「希望と愛と光」81年9月号初出 ガブリエル様メッセージより
 奪うのみの愛は、自己に対する不安から来ます。
 自己に安定した支柱無き故に、他に対して安心出来るものを求める結果なのです。

 アガペーの愛は与える者にも受ける者にも何らかの支柱があった場合に調和と均衡を齎します。
 その支柱とは何でしょうか。
 神
、すべての執着や欺瞞を捨て去った形の真理を求め信じる心、
少なくとも、醜さの無い美しい交流や行為を信じる事が出来る心です。
 そして行おうとする意志がある事です。

現象テープ№33 「慈悲について」より
 81年9月13日 ガブリエル様現象

 "奪うのみの愛が不安定な心から来るのなならば、
無差別の慈悲は優しい心からというよりは、弱い心から来るのです。"
 ここはどうお考えになりますか。
 "心弱さも又、自らの支柱無き故にそうなるのでしょう。"とあります。
 私達は何千年もの人間の歴史の中で、こういった善人を数多く見て来ました。
 何故彼等は慈悲魔と呼ばれ、他人から踏付けにされても、人に慈悲を掛ける事を厭わなかったか。
 何故そうせずにはいられなかったか。
 慈悲を掛けるに値しない者にまで慈悲を掛けてしまう事が、どうして止めれなかったか。
 お解りになるでしょうか。

 どうしても慈悲を掛けずには居られなかった。その人の弱い心を見て、助けざるを得なかった。
 或いは、その人が自分で怠けているから、そういった状況になった時に於てさえ、
助けざるを得なかった。
 それはどういう気持ちを言うのでしょうか。

 苦しみに対して免疫がないのです。
 苦しみに対して耐えることを知らないからです。
 耐えることを厭うが故に、慈悲魔になってしまったのでした。

 確かにかわいそうな人を見た時、どういう原因で、その人がそうなったのであれ、
簡単に慈悲を掛ける方が、本当に簡単です。
 しかし、そうしてはならないのは、どういう意味か。

 相手の成長を願うならば、安易に慈悲を掛けるものではないのです。
 あくまでも、その人が自分で考え、自分で立直り、
自分で生きるようにしなければならないからです。

 慈悲魔が最も愚かと言われるのは、そういう意味からです。
 人を最も愚かにするのは、こういうところから来るのです。
(第一部、第六章、三節、(二)アガペーの愛と慈悲、エロスの愛と慈悲魔)


"神の愛は父性愛である"
「慈悲と愛」80年2月号17頁初出 「アガペーの愛について」千乃先生法話より
 アガペーは利他的感情の神髄であって、
イエス・キリストの自らを燔祭の生贄となす十字架上の死に象徴される、
"自己犠牲の愛"即ち"愛を与えること"に集約されます。
 哲学者も語り続けるように、人間は"愛を与える"というアガペーの思いや意志、
行動を止めた瞬間にその関心は自己愛に向い、他に求め奪う愛、エロスの愛、
即ち自己の存在を確かめる為だけに表現される本能的な愛に堕してしまうのです。

(中略)
 "与える愛"はその与える行為に於て充足感があり、
アガペーの愛であればある程、与える側の精神の昇華と受ける側の感動が惹き起こされます。
 ここでしかし混同してはならないのは、
"与える愛"は良き師の如く育てる愛でなければならない点です。
 無限に与える母の愛はアガペーの本質ではないのです。
 イエス様が"一粒の麦落ちて死なずば"と言われたのはそこにあります。

(中略)
 イエス様は厳しく人々の過ちを正され、父性愛を与えた方でした。
 アガペーは母親の愛ではなく、父親の愛の表現であったのです。
 師として人々を導き、病人には"立ちて歩め"と自らの意志を強くする言葉と、
魂に自由を与える言葉を掛けられました。
 宗教やイデオロギーが自らの益の為に、或いは自己の存在の再確認の為にのみ、
母親の如く人々の魂を束縛する
ならば、目を開けて、意志強く歩み出さねばなりません。
 神は父親の愛を以てそう命ぜられているのです。

(編者)
 母性愛は本能であり、神の愛、父性愛は理性です。
 理性は本能を従わせるものです、
理性の内にあって生かされる本能が真に人を生かすのです。
 理性とは健全な本能の働きを通して成長した心に宿る知恵です。

(母性愛は、本能(種の保存)から来る肉体の生命を助けようとするもの、
種を残そうと、子を生かそうとする(自己愛から延長された愛です)
のは愛の本質ですが、本能に留まるものです。

 母性愛は本能に生かされるに過ぎず、
自らの犠牲を顧みることのない神の愛を自覚し、愛に生きんとする
(精神の昇華によって齎される)真の愛ではありません。
 健全な精神の礎を築く健全な肉体を育てる働きに留まる愛です。

 父性愛は、理性によって齎される調和・人間社会に適する知恵を育てるもの、
真の人格である理性・神の心へと導くものです。

 人間が成長する過程で注がれるべき愛は、
母性愛に始まり父性愛に導かれて、独立した人格に育つのです。
 子の成長に伴い、真に必要とする愛を理解し、与えることに努めることは、
母親にとり、また父親にとり、変わることはないのです。

(第一部、第六章、三節、(四)神の愛は父性愛である)

"愛についてのイエス様のメッセージ"
現象テープ№29 「イエス様クリスマス・メッセージ『愛と信仰』」より
 80年12月21日 イエス様現象

 愛は犠牲を厭いません。
 又その犠牲の結果が何であろうとも、愛は恨むことをしません。妬むことをしません。
 悔やむことをしません。焦ることもないのです。
 あなた方の身が貧しい時に、あなた方が人に与えた愛が撥ね付けられたり、
又は逆恨みされたりした時に、その時にあなた方の心の中に起こった葛藤、
私達はそれを深く悲しみます。
 愛はどのような犠牲でも厭わないのです。
 この意味で、愛はすべてを超え得ると言うことが出来るのです。
 愛は何ものをも超えることが出来ます。

 私一人が声を大きくしてこのようなことを申し上げても、
あなた方自身の人生の中で見つけることが出来なければ、それは無にも等しいのです。
 私達が如何に力を持ち、奇蹟を起こし、天変地異を起こそうとも、
そして如何なる人の上に奇蹟を起こそうとも、それは無に等しいのです。
 私達が如何に語ろうとも、あなた一人の身に奇蹟が起こらなければ、
あなたが愛を知ることがなければ、何の価値があるでしょうか。
 天上界とはそういう所なのです。

 神の愛とは如何なるものでしょうか。
 神の愛を知れ、神への愛を通せ、神を愛しなさいと私達は言います。
 神を愛するということはどういうことでしょうか。お解りになりますか。
 それは神を見なくても信じるということなのです。

 見なくても信ずる。何を基に信じるか。一人一人で心の中を探ってみなさい。
 尽きることのない神への愛とはどのようなものを言うのか。
 神を見ることなく信じることである、と申し上げました。それはどのようなことを言うのか。
 例えば、あなた方の身の内に艱難、苦難が訪れるとしましょう。
 それでもあなた方が神を見失わず神を信じる時に、神への愛を見つけたと言うのです。

(中略)
 私達が如何に声を大きくして神の愛を叫ぼうとも、
あなた方自身の心の中に神の愛を見出すことが出来なければ、それは無にも等しいのです。
 私達はあなた方に服従を強いる者ではありません。
 あなた方の心の内に起こる隣人への愛に賭けているのです。

(中略)
 いざという時に艱難、苦難がやって来て、
その時に私達の言葉を忘れるようでは何にもなりません。
そのことをよく覚えておいて下さい。

(第一部、第六章、三節、(五)愛についてのイエス様のメッセージ)

"神への愛"
「天国の証(78年8月初版)」137頁 イエス様メッセージより
 神に対する敬虔な心を(人に対する)謙譲に、神に対する愛を隣人に、
神の国の美しさと正義と平和をこの世にそのまま保ち、
又作るようにお互いに努力してゆくことが、
神への信仰をこの地上に形として表したもの
と言えましょう。
(第一部、第六章、三節、(六)神への愛)

"正義(悪に立ち向かう)"
「慈悲と愛」80年9月号初出 ラファエル様メッセージより
 私達天の者は何故勤めが厳しいか。
 何故行いが正しくなければいけないのか。
 それは常に悪に対して強くなければならないからです。

 機関誌にも書かれていました通り、
悪に負けるということは、悪に負ける条件反射の結果なのです。
 たえず悪に囲まれ悪に慣らされていたならば、その人は悪に染まってしまう。
 如何に善の心を持とうとしてもそれは無理なのです。
 常に善の方を向き、善の心を持っていなければなりません。

 抽象的な言い方ですが、それは自分自身の悟りの中に於てしか分からないのです。
(第一部、第六章、四節 正義(悪に立ち向かう))

"理性"
「JI」81年8月号初出 ガブリエル様メッセージより
 天上界の秩序、正しさは、愛と義からなっています。
 愛と義は何処から来るのか。
 透徹した理性による判断力から来ます。
 理性は如何なるものか。
 正しく認識しよう、或いは理解しようという姿勢からなります。
 その姿勢の基本となるものは、
やはり人の幸せの為という愛、真理を通す為という義なのです。

(第一部、第六章、六節 理性)


"中庸"
「JI」83年2月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」162頁

あなた方は、義に完全であって、落度なき完璧な人格を持つよう努めるよりも、
人間性を学び、従って互いに寛容であろうと努め、
思い遣りという優しい気持ちを互いに注ぎ合う
方が、
より幅のある、心にゆとりのある人物になり得ることを、ここで確認しなければなりません。
 中庸の徳とはそれを言うのです。

(編者)
 心理(交流)分析などで明らかにされた心の働きで「抑圧」などよく知られていますが、
無意識に行われている心の働き(すべて自我の安定を図ろうとするもの)は、
防衛機制と呼ばれているものです。
 色々な働きが解明されていますが、すべて人自らの性格に最も適した心(条件反射)が
無自覚であろうと機能しており、多様な性格にそれぞれ適した防衛機制を
自己保存なる心は作り出しています。

「抑圧」とは反対の働きをするものに「反動形成」というのがあります。
 例えば、偽善と形容される心の働きは、
自分は善人であると信じることで自我の安定を保てている者が、
心の奥底にうごめく邪悪が意識に知られないように(押さえ付けるのが「抑圧」です)、
逆の心を意識させようとする(深層意識の為す自己欺瞞という)ものが「反動形成」です。
 例えば人を見下す高慢の心を隠し持つ者が、
上辺の言動には、人を思い遣る優しい素振りを示そうとする心です。
 それによって自らを善人であると、神に愛されているのだと信じられて安心出来るのです。
(真に人を思い遣る心からではなく、
自己愛(人からよく見られることで満たされる)から出るに過ぎません)

 本人が善なる心と信じて生き続けさえ出来れば、
偽我を深層意識に持っていようとも、何ら問題ないものでしょうか。
 無意識の内に偽我を持つとは、偽我を容認する心だということなのでしょう。
 それが本性なのです。
 そのような隠された心が、自我を飲み込むまで力を蓄え続けているのです。
 本性を改めることが出来ないのは、
本性を偽る、人を騙す心を育てているということです。
 そして自らをも騙し、独善的に人を裁いているのです
(世の活動家、左翼を見れば納得されることでしょう)。
 人を、そして自らをも騙す自己欺瞞を、
悪を偽って善に見せる、悪に生きながら善を愛する者のように見せ、
人の善意を盗む、人の心を操る支配欲を深層意識に持つ。

 偽善者の心から徳に生きんとする思いは生まれません。
 偽善者に対して信義を持つことは無意味です。人を裏切るような者を信じるのは愚か者です。
 真理を偽るような者は、真理を貶める者です。
 そのような心を自らに許すのは偽我に他ならないのです。

 本能と理性のバランスを執るものが中庸の心であることを教えられました。
 理性とバランスが執られる時、健全な本能が生きるのです。
 共に存在しなければ人間は生きられないのです。
 故にバランスを執る理性がなくてはならないのです。
 本能を理性に背く偽我が利用し、欲望に生かしめるなら
最後には自我は破滅するのだから、
自己愛も、本能も救えず共に滅びることになるのが、偽我には悟れないのです。
 偽我はその邪念を満たす喜びに溺れるからです。
 自己研磨を、向上を、目指すべき神の心を理解出来ないからです。

 中庸とは、バランスを執る健全な精神に於て徳に生きる心の状態です。
 徳の見出されぬ心は中庸とは呼べません。
 極端を知り、退ける知恵は徳に生きぬ心には宿らないのです。〗
(第一部、第六章、九節 中庸)

"霊体の構成について神自らが、現象(人々の前で霊能者を通して直接語り掛ける)
 という奇蹟によって証言される"

現象テープ№34 「天の現象と霊体の構成」より
 81年10月18日 ミカエル様現象

 霊体としてのエネルギーは何処から取り入れるかと申しますと、
私達が何かをしようと意志する、そしてその通りに行動する、
即ち大脳の機能を働かせると、自然にそのエネルギーが意志に伴って吸収されてくる訳です。
 そのメカニズムは何であるかと言いますと、
まず私達に考えられるのは、直径5cmという霊魂の塊の中に凝縮されている分子、
それは一つの磁石の役割りをし、電磁場の役割りをしている。
 そして、私達が色々思考したり、言葉を用いたり、行動したりする時に、
そこに生前にあったような活動電流が流れ、
そして反射的に機能し、反射作用が機能し自然にエネルギーの交換が行われる

そういったものであろうかと思われます。
(第一部、第七章、一節、(一)霊体の構成について神自らが、現象
 (人々の前で霊能者を通して直接語り掛ける)という奇蹟によって証言される)

"真の宗教が齎される時"
(編者)
真の神の教えが齎される時、人間の宗教の教えの誤りが明らかにされる
"偽りの宗教は、人間の自己保存の本能に語り掛けます"
(人を自己に執着させる為に自意識を呼び起こすのです。
 偽我(我執)からの解放へ、真の救いを見出すべく導く為に齎された宗教(神の教え)を、
似非宗教家は人の偽我(自己保存)に語り掛け、
自己保存にとっての幸福を求めるべく人を導きます。
 盲信の内に従った信者は、彼等を迎える世界の、彼等を導く指導者の心の、
その世界を天国と信じる自らの心の真実の姿を悟る知恵に恵まれなかったのでしょう。)

「この宗教を信じなければ、あなたは不幸になりますよ、天国(極楽)にゆけません
(地獄に落とされます)よ、
神仏はあなたの子孫に心を掛けられず、御加護が得られませんよ」と、
あなたを不安にさせるのです(一体誰がそのような教えを語ったのだと言うのでしょう)。

"真の宗教は、人間の理性に語り掛けます"
"神の導きを信じて自らの意志で立ちて歩め"
"自らを救おうとする者を天は救われる"
といった言葉は正にそうです。

「現象テープ№23「心の美は」より
 80年5月11日ガブリエル様現象

「私達は時々、正法者の中にも、
"私は正法をしているのに、何故幸せにならないのだろう。"
"何故、身体が健康にならないのだろう(※)。"

注。
 天上界の気持ちを少しでも思い遣ることが出来たら、
このような思いを抱いたことに恥じ入ったことでしょう。
(ご利益)宗教が如何に人の心を、エゴイズム、ナルシシズムに留まらせるものか、
精神を成長に導くものではなかったか痛感されるのではないでしょうか。注終)

 そういう人を、よく聞きます。
 私達はそういう人を見ると情けなくなるのです。
 あなた方は何の為に、正法に集って来たのか。
 己の病気を治す為だったのか。家庭不和を直して貰う為だったのかと。
 私達はあなた方の家庭不和を直す為にやって来たのではありません。
 あなた方を賢くする為にやって来たのです。

(第一部、第八章、二節、(二)真の宗教が齎される時)

"神に向き合わずして、誰に真理を学ぼうとしているのか"
(編者)
 良心が苛まれるなら、悔い改めるしかない、
良心に戒めの力が無ければ、真理の言葉に良心が目覚めないなら、
良心を捨てたに等しいのです。

(第一部、第八章、四節、(一)神に向き合わずして、誰に真理を学ぼうとしているのか)

"宗教宗派"
「慈悲と愛」80年2月号初出 千乃先生「アガペーの愛について」より
 神々の意志と力は古代より人類と地獄の上に君臨し、
彼等を従えてきたと言い伝えられているのは、
それだけの強い善の意識と正義が天の国に迷わぬ無限のエネルギーを与えてきたからでしょう。

(中略)
 神の示された人類の過ちの中に、世界にガン細胞のように蔓延った宗教宗派という
人類の寄生虫、サタン、悪霊の中間宿主が明らかになりました。

 それは『天国の扉』によって、神々や天が、
人が夢み、宗教が築いた儀式と偶像と幻想の中にはいないことを明言されたことに始まったのです。

(第一部、第八章、四節、(六)宗教宗派)

"神の愛に背く者"
(編者)
 共産主義は、虐げられていた労働者を救う者であることを装って彼等に取り入り、
ルサンチマン(弱者の嫉妬)を解放し、殺人者の集団に変えました。
 今も、共産主義者は弱者の味方を装い、彼等に取り入り、彼等の心を、
悪霊と同じ心に変えていきます。
 弱者に、虐げられていると信じ込ませ、復讐の心に、憎悪の心に変えていくのです。

(中略)
 現天上界(高次元の聖霊)の御意志である、
共産主義者(そのシンパも含めて)を消滅の対象としか見ていないことを理解出来ない人は、
神を、また神が愛されるものを、愛する心が自分に本当にあるのか、
神の憐れまれた、迫害の中で神の救いを求め続けた、
あらゆる法にかけて、良心にかけて守らなければならぬ真の犠牲者に
共産主義者が為して来た非情を、その悪魔の心を、考えてほしいと思います。
 彼等と同様に神を見失い、悪魔に仕えない為にも。

(中略)
 欲望を、エゴイズムを解放することが自由を齎すのではありません。
 欲望に支配されれば魂の自由を失うのです。

"同性愛について"
(編者)
 男女のカップルであれ、同性のカップルであれ、
子が精神的に成熟した、真の社会人になる為には、母性愛と共に父性愛が注がれねばなりませんし、
それが子への両親の愛であり、義務です。
 その面から考えれば、相応しいカップルとは親子間の愛情から問われるべきであって、
父性愛と母性愛が性別に一致するとは限らないものですが、
だからといって自然が男女各々に分け与えた愛情の質の違いを無視して良いとは思えないのです。

(中略)
 異性愛が同性愛よりも優れているとか、異性愛が愛であって、
同性愛は愛ではないといった(次元の)ことを言っているのではないのです。
 また同性愛だから不健全であり、
異性愛だから健全な精神であるといったことにもなりません。

 ナルシシズムに立っての偽りの愛を、愛と誇る心が醜いのです。
 同性愛者を罰する法が存在するといった社会なら、
罰される者が不平等と言うのは尤もなことですが、
結婚を法で認めろというのはエゴイズムが齎すものです。
(神の愛が真の愛であるのは、与える者は無論のこと、受け入れる者にも神の心へと導く故に、
人を神の心に繋げる、調和を齎すことが出来るからです。
 エゴイズムを解放する(自己愛から来る)エロスの愛は、
共にエロスの愛によって繋がることは出来ても、
決して真に相手を思い遣る神の愛に根差していない為、
自己愛を満たすことがなくなれば簡単に冷めてしまう、
人を裏切ることも顧みないものです。)

 自然の法(の内に、すべての生き物を永続させる調和を見出し、
人間の指針にしたものが天の法・正法です)に従うことで、
調和の内に、平和(愛)の内にあらゆる種を永続させてきたのです。
 その自然の法に背く法を人間社会に齎し、如何なる調和を築けるのか。
 自然界の調和を、愛を蔑ろにする高慢に生きるが故に、
そのような心にありながら調和を愛を人間社会に齎せると自惚れるのでしょう。
 個人が自然の法に、神の法に背くことを知りながら敢てそうするのなら、
その者が神の法に裁かれるだけでしょう。
 しかし自然の法に背く法を人間社会の法にするなら、
それを受け入れた者が、天の法を、神の道を見失うのです。
(左翼の言うままにすることが、人を思い遣ることなのだと、そのような社会を作った時、
真に人を思い遣る社会が生まれていると考えるなら、何も真実を知る智慧のない者です。
 神の、真の愛に背を向けることは、悪魔の心を受け入れた者です。
 左翼の言う愛も正義も悪魔の偽善であり、偽りの愛へと堕落へと導くものです。
 それを信じる者も神の救いから見放された者でしょう。)

 外国籍でありながら参政権を認めようとする左翼の偽善が理解出来て、
同性婚を認めようとする左翼の偽善が解らないのでしょうか。
 同性愛者も人間性はピンキリでしょうから、
左翼の偽善を嫌う者も中にはいるのではないでしょうか。

 こういった問題は何時も二者択一とされ、
彼等左翼は独善にしか生きられない為、反対する者への寛容を持ち得ません。
 彼等を支えるのは人を生かそうという愛ではなく、
自己肯定の、自分だけを信じることしか知らない自我(偽我)なのです。
 自分が間違っていると認めることは自我の崩壊を招くものです。
 故に独善にならざるを得ないのです。
 相手の反論は自我に危機を齎すもの故に正論で武装するしかないのです。
 人の本当の幸せなど考える余地はありません。
 人を生かす為ではなく、自分を守る為の正義でしかありません。
 愛を信じる心などないからです。
 自己欺瞞から自分達にこそ愛があるのだと言わずにはいられないのでしょう。
(パウロの言った、誇ることのない愛とは異質のものなのでしょう。)
 社会の調和と秩序を愛する神に抗う悪霊に心を支配された人達です。

「JI」87年3月号初出 ラファエル様メッセージより
 良心や愛は人間社会と種の存続の保護に繋がり、"種の繁栄と存続"を。
 性の乱れは犯罪と闘争と死に繋がり、"種の絶滅"を招きます。
 
神は前者を望み、良心と愛と生命を人間の世界に齎しました。
 悪魔は後者を望み、闘争と死を齎そうとしているのです。

 私達を信じるあなた方も、信じず従っていない人々も生命と死のどちらを選びますか?

「JI」88年5月号初出 ミカエル様メッセージより
 向上心なく、高貴な心の養いも目指さず、
エゴイズムの悪を正当化しては、自らを甘やかし、
身勝手な人生を反省もなく生きた人間の老年は、

只々心の醜い部分を剥き出しに暮す晩年でしかないのです。

 "心が美しい"ことは何にも優る人間の徳性であり、
"顔形が美しい"ことは何の利点でもありません。
 私達はそれを正法を通じ、常に教えてきました。
 又、老年になっても"美しい心"を保つには若年の頃より努力しなければ、
大脳の細胞が多く死滅して習慣としての言動しか残らなくなった時に、
その人の真の心の歴史が表面化してくることも覚悟しておいて下さい。

「天国の証(78年8月初版)」65頁 エル・ランティ様メッセージより
 おおよそ人間として俗世の心、俗人の心として疎ましく思われるものを鋭く見抜き、
それを自分の心から追い出すのです。
 何故ならば、それらはすべて悪霊の喜ぶものであり、自らを悪の魂と変えるものであり、
私達天上界が受け入れぬものだからです。

「慈悲と愛」79年6月号初出 ミカエル様メッセージより
 真理と天は社会の調和と秩序を擁護するものであり、
それを乱し破壊するものは全て"罪"なのです。

 "愛"は一部の楽天的なクリスチャンが解釈する如く、
"律法"と"罪の観念"を空しくするものではなく、
"慈悲"が"戒律"と"魂の修業"を離れては存在し得ないように、
"律法"を完成するものであることを私は何度も繰り返して皆様にお話したいのです。
 自己を厳しく戒め、法と戒律を当り前のことと、その如く生きようと志す人にでなければ、
真の価値ある"慈愛"の限界を知ることもなく、
思い遣りと甘やかしの違いさえも会得することはないのです。

「慈悲と愛」79年11月号初出 ラファエル様メッセージ
 三次元に於て仲良く肩を叩き合って人間が住めば良いというものではないのです。
 そのような浅薄な考えしか持たぬ人は、それ相応の報いしか受けないでしょう。
 詰り、私達は天上界にそのような人を迎え入れたくないということです。
 又、そのような人々が築くユートピアは神の国ではなくて、
人間的な俗臭を持つ人間のユートピアでしかあり得ません。
 それが如何に容易に毀
(こぼ)たれ、再び地獄と化すかは言うまでもないでしょう。
 聖書の中の"エデンの園"の物語と同じことです。

「天国の扉(77年12月初版)」145頁 ラファエル様メッセージより
 平和と調和は、言うべきことも言わずにお互いに甘い言葉を交し合って、
お互いの性格の不健全さも歪みもそのまま受け入れ、それが習慣になれば、
社会の歪みも黙認して個人個人がそれに合わせてしまう。

 そうして、三次元の人間が十パーセントの意識と智恵が大半で
作り上げている社会がすべてであり、
地上のことのみが人生に於ける唯一の関心事になってしまう。 
 そう考えていられる方、そのように三次元の世界を理解していられる方があるとすれば、
それは正しい受け取り方ではなく、健全な判断ではないことを知って頂きたいのです。
 寛容の心といっても、徒に許すことのみが社会に平和を齎すとは限りません。
 悪と不正と不健全な考えをそのままにしておくことは、却って社会に混乱を招き、
精神の向上や文明の発展を遅らせるだけなのです。

「JI」81年3月号初出 パヌエル様メッセージより
 先日テレビチャンネルの一つで、世界で数少ない、残された自然の動物王国の中で、
南米のジャガーの王国というのが取材され、南米特有の動物の生態が実録、放映されていました。
 その一コマに、年若く見える一匹のジャガーが餌を探して歩く場面がありました。
 野生のイノシシやバクやカメで失敗した挙句に、親の側を離れてふと迷い出た子鹿を見つけ、
たちまち攻勢に出た途端、横合いから父親のシカが躍り出、
気を逸らせる為にゆっくり別の方角に走り、
簡単に子鹿の代りにジャガーの餌食となりました。
 ジャガーに食べる物を与えて、子鹿を生かそうという気持であったのでしょう。
 それは静かな悲鳴一つ聞こえぬドラマでした。

 しかしここに人間が範とせねばならない自然の大きな智恵
種の保存の為に身を以て子を守り、犠牲となる親が動物には実に多く見出されるということです。
 そして彼等はそれを当然の事として少しも自分の犠牲について過大評価しない、
後に残された母親或いは父親或いは子供は、悲しみを黙って耐え、
自然の掟に従って己が生命を生きていられる間生かし、種の存続に役立てる。

(中略)
 古代人と同じく、現代の無知な人々(何を為すべきか、為さざるべきかも心得ていない)
に天は再び判り易い言葉で教えましょう。
 "種の存続の為に 戦うを嘉しとし、快楽の為に殺すなかれ"。
 "天は少しも人類を動物以上の優れた種とは見做していず、
動物界でも下等なレベルの生き様をしか生きぬ恥ずべき人間が増え過ぎている"。
 "人よ、謙虚に自然を見習え"と。

(編者)
 種を存続させる為には、
自らの生命を犠牲にすることも厭わぬ愛を与えたのは本能なのです。
 動物が幾ら愛の自覚がないと言えども、自分が殺される恐怖心から愛を見失うことなく、
貫き通した事には変わりがないでしょう。

 健全な本能が生きているから、心の中に優しい思いが生きているからこそ、
その尊さに目覚め、意志によって真の愛を貫くそのような心を
自らのものとし得るのではないでしょうか。

 生命を失う恐怖から逃げずに、子への愛から自ら生命を捨てる、
動物にそれを為さしめる本能を持たぬ人間が如何なる愛を誇るのでしょうか。
 本能(自然の恩寵)を蔑ろにする心にあって、己が愛の権利を主張する

(自らの性格の悪さが原因で避けられている者が、同性愛者云々故に差別されていると、
自らの原因の隠れ蓑にするなど以ての外でしょう)、
そのような者が己の偽我を悟るなど望みようもありません。

 動物における自己保存は、種の保存であり、
自らの生命に掛けても種を守り抜く、真の永遠は種に於てであり、
種を生かそうとの思いに、生命を継いで行く子孫へと愛が溢れるのでしょう。
 彼等は自らが死のうとも、その思いは死ぬことはないと信じるまでに強められるのでしょうか。
 自己への愛しか持たぬ者、
自らの死に向き合おうとも、永遠に存続し続ける子孫への思いが最後まで蘇ることのなく、
ただ恐怖に心を失うしかない者、そのような者でも人間は動物に勝ると、
そのような人間を神は愛するとあなたは思われますか。

 同じ種であるから個を生かそうとするのも、同じ個に於てであり、
本能も個に於てのみ働くのですから。
 動物にとって生きるとは本能に従う意志しかないのであり、
本能こそ種を生かすもの、動物にとって神の心なのです。
 神の心へと導いてきた自然を破壊する悪を為す力を得た人類は、
悪に勝る善に生きる力を持たなければならないのです。
 生きる自由を奪う、生命を奪うことが悪であり、それを望む心が悪魔の心であり、
他を生かす、他の生きる自由を守るのが善であり、それを望む心が、神の心、
自然が生き物に与え続けた心であり、この心を知った全ての人々が子孫に与えたいと望んだ心です。

 何故人間の自己保存の思いは醜いまで自己への執着として表れるようになったのでしょう。
 たとえ自分が利他的に生きることが出来ず、利己的にしか生きようとしない者であっても、
自己犠牲を顧みず人を助けようとする人々を見てきているのです。
(利己的な)その人が彼等の恩恵を受けてきた、苦しみから助けられてきた、
曾て彼等の愛がその人の醜き心を清め、彼等によって真の愛を知ったにも関わらず、
利他的な愛こそ人の心を救うものであることを忘れ去り、
自分のことだけを考える利己的な愛を選び取ったのです。
 真の愛を捨て去る醜き心を自らのものとしたのです。
 自然の与えた自己保存(種の保存)の思い、我が子を守る(種を生かす)為に自らを擲つ愛を、
自己のみを愛する自己愛に変えたのが、人類という種なのです。
 これでは天上界から進化の途上であると言われるのは当然でしょう。
 自己犠牲を厭わぬ種の保存(愛)に生きてきた故に、動物が種を残してこれたのですから、
自己保存に留まることなく利己的な愛(エゴイズム)を克服した真の愛を得なければ、
人類という種は生き残れない。
 人類は精神を向上させ、真の愛の宿る理性を育てなければならない、
その為に神の心に至る道の指標である神の法、正法を天上界は与えられたのです。

 本能を与えられ、本能に従う心(旧皮質に宿る意識)にのみ生きることから、
理性(本能ではなく理性を意識する心は新皮質・前頭葉の働きです)に生きる自由を得た代わりに、
本能に生きる心故に為し得た愛を失いました。

 自然の法に、愛に生きる心(本能)を自らの意志で生きる為には、
人自らによって作る心、理性に於て育てることでしか、愛に生きる心を得ることが出来ない。
 それが人間であり、如何なる遺伝を、本能を以てしても、
前頭葉にのみ宿る高等感情は、この世に生まれてからの己が人生に懸かっていることを、
天上界は証されました。

 本能に見出された(他へと向かう)真の愛へと(自らに向かう)自己愛を昇華させる、
自らの意志で自らの心を、理性を作る、
あらゆる真理を見出した理性を自らの心と生きんとする意志の現れこそ真の愛を証するものです。
 動物にあって守られてきた本能の愛を、

そのすばらしさを理解する心、理性に於て蘇らせた方々が、現天上界の神々に他ならないのです。
 神の愛は自然の与えた本能の愛から来ているのです。
 本能の愛の昇華したものが神の愛に他なりません。
 神は人間であったことを証された現天上界こそ真の神であると直観されるのです。

 生き物への愛以外に真の愛はないと言われた現天上界こそ、
動物の進化に過ぎぬ、種の一つに過ぎぬ地球人類の誕生に立ち会い、
人類の誕生から変らず善導されて来られた唯一の神であることが何故悟れないのでしょう。

〖人の魂を救う善と滅ぼす悪を明らかにする神の光を、神の知恵を
イエス様によって、目の当りに知った為に、内なる悪魔の心に目覚め、
神を悪魔としか理解出来ぬ心からイエス様を殺害したパリサイ人のように、
現天上界の神々の語られたこれらの真理を嘲笑い、地に擲ち、
悪魔に操られ、利用される間、悪魔の甘言によって高慢な思いに満たされるなら、
神の愛を、真理を知れば憎しみしか生まれぬ悪魔の心に繋ぎ留められているのです。

 同性愛を擁護する法律を定めることに、何故左翼が固執するのか。
 神に抗う共産主義の亡霊と一体であるのが左翼であり、
悪霊がただ人類を、神を神と思わぬ魂へと堕落させんが為に行動していることを知れば、
彼等が言う所の姓の解放に導かれた者の人格が如何なるものであるか、
ラファエル様のメッセージから理解されることでしょう。

「JI」89年9月号 ラファエル様メッセージより
 特に昨今のリベラル礼讃の傾向から"性の解放"といったスローガンで、
男性好みの過剰な興味本位の表現が、青少年から成人男女(老年も含め)に与える悪影響は、
つとに気持ちの余裕を失くし、殺伐とした病的な性格を作り上げております。

 これは欧米のリベラル思想とその影響を受ける青少年や一般人にも言えることで、
(左翼的)マルクス・レーニン主義の信奉と実践に他ならないもの。
 このような自由主義社会の人心の退廃と絶えざる闘争をかき立て、
内紛による家庭と国家の弱体化、崩壊を目指しているのです。
 "性の解放"運動なるものは、人間の高等感情即ち情操の育成とは関わりなく、
大脳旧皮質の生命への執着が、
人間以外の動物や植物によってストレートに表現される
"弱肉強食"正にその生存競争の強化訓練とでも言えるでしょう。
 "人間であることを放棄させる"運動でしかありません。
 愚かの限りです。

 リベラリズムの他の面 ― "女性解放"の動きは確かに良い面もあります。
 男女共にそれぞれ性格の一長一短があり、
それを補い合う社会がバランスの取れた平和で健全な社会と成り得るからです。


(編者)
 45年前に性の解放と言って人を堕落させて喜んでいた悪霊が、
LGBTと看板を変えただけの、同様の手口で悪霊が手玉に取って弄んでいるとも知らずに、
至上の徳である愛の名の下に情欲を貪っている、これほど神を貶めた行為はないのです。
 悪霊の存在を知らないからとはいえ、元は堕落した人間に過ぎません。
 死んでも考えることは変わらないのです。人を堕落させることに罪の意識など持ちません。
 同類の悪霊と人間が共に堕落を味わっているのです。
 そのような者の主張を法にすれば、人類は神の法を失う、神の道を失うのであり、
人類が神の心を失う時、地球人類にユートピアの望みが絶える時、
天上界は他の星へと立ち去るであろうことを、最後の審判に於て、
地球人類の救いに与る最後のチャンスを与えらると共に、語られております。
 人類がどのように堕落していったか、自らが堕落してから、
堕落した魂にそれを悟ることは望めないのです。
 堕落を求める心を他のみならず己が心からこそ厳しく摘み取らねばならないでしょう。

 神の心に生きたいと望む者なら、必然的にエロスの愛の思いは
弱まって行くのではないでしょうか。
 神の愛を感じ、理解するまでになれたのなら、
同性愛にしろ異性愛にしろ天上界が定義されたエロスの愛に生きようと欲する思いは
疎ましいものに思われて行くのではないでしょうか。
 エロスの愛はナルシシズムであると、その思いの醜さを知るのは、
神の心を知り、その心の素晴らしさを実感しなければ解らないかも知れません。

「JI」84年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
 天への愛を普通の人間愛へ振り向けることこそ神の子として相応しい人格であり、
人間愛も動物や植物への愛も共通のものであると何度もお教えしましたが
(動物虐待を意に介さぬキリスト教信者は、愛を口にしながら愛とは何かを知らず、
人間虐殺の共産主義を先頭に立って広めようとしていることから理解は容易でしょう。
 愛はあらゆる生命を持つものへの愛。その一種類しかありません
思い遣りもその現れでしかなく、愛と思い遣りがあれば、
正法者として相応しくない人格とはなり得ないのです。


(編者)
 あなたの抱く愛が、神があなたに伝えた思いと同じものなら、
「愛」の真の望みが、今を生きる、そしてこれから生まれて来る生きとし生けるものへの
幸せ以外にないことを理解されるでしょう。
 
それを望まぬような、あなたとあなたの愛する者だけを考えることで満足するようなものなら、
偽りの愛、自己欺瞞に、自己満足に生きる自己愛に過ぎないのです。

〖参
「わかりやすい交流分析 1(1984年出版)」88頁 中村和子、杉田峰康著
「交流分析では、私達の人生を一つのドラマのようなものとして捉え、
その中で自分が演じている役割を脚本と呼んでいます。
 脚本は私達が子供時代に、両親の影響を受けて発達し、その後の人生体験によって強化、
固定化された人生計画(青写真)なのです。」(中略)
「脚本を分析することで、今まで宿命とか運命とか諦めていたものが、
実は自分が無意識の内に強迫的に演じていたドラマであることに気付きます。
 また、自分の性格形成の過程が解り、人生早期に作られた基本的な構えなどについても、
詳しく知ることが出来ます。」

 子供に向けられた親の強力なメッセージは禁止令と呼ばれ、
子供の自我を従わせる脚本の如く決定力を持って支配するものであることを解説しています。
 その一例を紹介します。

"女(男)であってはいけない"
 これは自分の性別を嫌ったり、
自身が持てずに不適応を起こしやすい人の行動を支配する禁止令です。
1)女児の場合
 母親は、そのP(交流分析の用語で、親の自我状態を言う)から
"女の子は女の子らしくしなさい"と言い、それが子供のC(子供の自我状態)に入ります。
 しかし、その同じ母親が、「女は損よ」、「男ばかり得をして」、
「この哀れなお母さんを見て」、「今度生まれてくる時は、絶対に男に生まれたい」など、
事ある毎に愚痴をこぼし、父親に対しても、この種の気持を非言語的に表現します。
 その結果、「女はつまらない」というメッセージが発信されることになります。
 これは母親のC(子供の自我状態)から子供のCに伝わり、
子供は「女になるまい!」と決心します。
 これに加えて、父親が「お前が男だったらなぁ」などと後悔した姿を見せると、
禁止令が強化されることになります。
 最終的に、子供は「お前はいらない子だ」とか「男の子のようになれ」といった、
非常におかしなメッセージを受けることになります。
 そこで子供は、お転婆娘になったり、Gパンをはくのを好んだり、男性の仕事に引かれるなど、
男性のように振舞う習慣を身につけていきます。
 こうして結婚適齢期を迎える頃になると、女性としての同一性が確立してないことになり、
社会的に見ると不適応に陥りやすくなる訳です。
 女であることに自信がなく、性に対して嫌悪感を持つ為、内心で混乱が生じる為に、
なかなか優しく振舞うことが難しくなります。
 その結果、いわゆるヒステリー性格が形成されます。
 こういうと、女性の自立を軽視しているように響くかもしれませんが、
本当の女性の自己の確立には、自分の性別を受け入れ、
男性との調和も含まれるのではないでしょうか。

 この禁止令の特色の一つは、"男性をやっつけてやるぞ!"、
"主導権を握りたい!”という気持です。
 この傾向があまり強いと女性からも敬遠されかねません。
 いずれにせよ、こうした偏った自分に気付かず不適応に陥る訳です。
 結婚しても、夫を心から尊敬できず、争うことが多く、
夫婦の関係を険悪なものにしていきます。また、"誘惑のゲーム"も演じやすいのです。

2)男児の場合
 大声を出すと親から叱られ、兄弟げんかをすると説教され、
木登りは危ないからやめろと言われて育つと、
"男であってはいけない"という禁止令が下される可能性があります。
 その結果、男の子でありながら、受身的で消極的な人となるでしょう。
 男の子が、母親ベッタリでは、男性性を身につけることができません。
 いわゆるマザ・コン的な母子密着から抜け出せないと、
男性にとって将来、職場や家庭での適応が難しくなります。
 今、増加の傾向にある、登校拒否や家庭内暴力は、
たくましさを欠いた父親と、優しさを十分発揮できない母親の下に育てられ、
男性としての同一性が確率できないでいる子供に多く見られる問題といえるのです。
 現在、アメリカで問題になっている同性愛、性犯罪、
あるいは近親相姦なども性同一性の混乱によるものが多く、
幼児の親子関係にその原因があるといわれています。
 性転換を望む人が増えているという現象も、
この脚本の社会的な症状といえるかもしれません。参考終〗

「天国の扉(77年12月初版)」145頁 ラファエル様メッセージより
 平和と調和は、言うべきことも言わずにお互いに甘い言葉を交し合って、
お互いの性格の不健全さも歪みもそのまま受け入れ、それが習慣になれば、
社会の歪みも黙認して個人個人がそれに合わせてしまう。

 そうして、三次元の人間が十パーセントの意識と智恵が大半で
作り上げている社会がすべてであり、
地上のことのみが人生に於ける唯一の関心事になってしまう。 
 そう考えていられる方、そのように三次元の世界を理解していられる方があるとすれば、
それは正しい受け取り方ではなく、健全な判断ではないことを知って頂きたいのです。
 寛容の心といっても、徒に許すことのみが社会に平和を齎すとは限りません。
 悪と不正と不健全な考えをそのままにしておくことは、却って社会に混乱を招き、
精神の向上や文明の発展を遅らせるだけなのです。

「JI」85年7月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集・続」55頁

 例えばノイローゼなど(の病んだ心)を治す場合に、
医師や心理学者が繰り返し助言することの一つに、
自分の過ちに拘るな。自分の欠点についてくよくよ考えるな。
 そういうものは忘れて、もっと目を外に向けるように、という場合があります。
 ノイローゼの治療には確かに役立つでしょう。
 しかし正法はノイローゼ(病んだ心)を治す場ではなく、良識的な人格の育成を目指す所です。

(編者)
(人々の一様に評価される表面的な価値に捉われることのない)
善なる心、愛に満ちた心を他に見出すを喜びとする心、
素直に人を信じる合える心に生きる社会こそ求めるべきものと弁える、
真理を求める心の目で人を判断する、人に対して真(まこと)を尽くす、互いを大切に思う心が、
神の国を神の心の生きる世を作ることが出来るのであり、
心の病んだ者に健全な心を育てる世を作ることは出来ません。
 それを認めまいとする心が既に神に抗う心に捉われているのであり、
それを悟れない心に留めるが故に病んでいるのです。

 同性愛が、不倫や近親相姦のような道徳を捨て去った、
堕落した精神から生まれる情念であるとは思いませんが、
悪霊の憑依を撥ね退ける善我(神の心)を持たず、
また自らの情念を正当化しその思いに溺れるようでは、
悪霊に弄ばれ、魂の堕落は逃れられないでしょう。
 神の法に抗っていることも悟らずLGBT法を世に齎そうとする者であろうとなかろうと、
自らの非正法的な生き方の愚を悟ることなき(心の病んだ)者は、
神の法に生き、この世に平和を、人々の心に幸せを優しさを齎す神の業に、
また神の民に与ることは出来ないのです。

「JI」82年11月号初出 ミカエル大王様メッセージ全文
&「天上界メッセージ集」159頁 

 今日は"姦淫するなかれ"という戒めについて、真の意義をお教えしたく思います。
 現正法は正しく私達天の法を介して、極端に走る思想や行為を戒めております。
 人間間の愛情が恋愛感情に発展する時も同様に、
恋愛は自由であると思い違いをして、
愛の溢れるまま何等理性でそれを制する努力を為さぬらば、
それは一つの過ちとなり、悲劇で終わる場合が却って多いのです。
 未婚の者同士でも、社会には制約があり、その制約を踏み越えても互いが愛を失わず、
周囲もそれを暖かく理解し、受け入れるならば、誰も傷付くことはないでしょう。
 しかし現実は、男女の考えの相違や心理的な変化が、
自由な恋愛を何時も成功には終わらせないのです。
 互いを愛するならば傷付けぬこと。不幸にせぬこと。 
 それをまず第一に考慮するものでなければ、愛とは言えず、
一時の遊び、好奇心、欲望の満足の対象としてしか相手を見ていないことになります。

 未婚の者の自由恋愛は"姦淫"とは言いません。
 しかし何れかが既婚であるか、何れかが配偶者を持つ場合、
それは社会が許さぬものであり、お互いをより傷付け、
又、幸福な家庭を壊す場合は、二人のみでなく多くの人を不幸に突き落とすことになるのです。 
 現正法はまず第一に"人の幸せを願い、思い遣ること"なのですから、
社会の制約が厳存し、お互いのみならず多くの人を傷付けるならば、
愛がたとえ心の中に芽生えたとしても、自分で厳しくそれを摘み取らねばならないのです。

 相手の幸せを願い、思い遣るならば、自らの愛と良心、善我に掛けて、
相手を傷付けることは出来ない筈です。 
 その意識がなく、エゴイスティックな愛を強要する相手は、
勿論悪と見做し、斥ければ良いのです。
 どうしてもあなたへの愛を断ち切れない人は友人とすれば良いでしょう。
 人の幸せを奪う行為は盗みにも等しいものです。
 たとえ二人が合意しても、"第二の死"が裁きとして二人に与えられます。
 しかし私達は、一旦夫婦となるならば、如何なる理不尽な言動にも耐えて、
子供共々不幸と苦しみに喘ぐ生活を強制する相手と永遠に絆を断つなとは言いません。
 真の愛が通じぬ、
人間として価値なき人格に繋がれて共に地獄への道を歩む必要はないのです。
 如何なる場合も離婚を禁ずるという一部キリスト教宗派の戒律はサタンの束縛であり、
人の苦しみはサタンの喜びそのものであるからです。

「JI」81年3月号初出 パヌエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」132頁

「動物界にとって性の乱れはなく、近親相姦、乱婚と見えるものもすべては
何時襲われるとも知れない生命の危険の中での"種の存続"の智恵なのです。
 それを動物と蔑むことは出来ません。
 然るに保護された社会で、人間は互いに何を馴れ合って堕落を容認しているのか。
 古代に於て人類は、家畜の如くそれを不要な快楽であるとは知りませんでした。
 だから神は許し、教え導いたのです。
 これだけ知性の開発された現代に於て、
まさか人々は種の存続の為に快楽を貪りたがっている筈はないでしょう。
 それを許容させようとする社会の傾向並びに声を大にして誘惑的言辞を弄する左翼団体は、
マスコミも含めて逃れようのない罪です。
 極端になりつつある快楽的嗜好、傾向が愚行であり、
自然に反し、不要のものであることを知らぬ現代人に天は再び教えねばならないでしょうか。

 ユーモアとそういった不健全な嗜好、傾向とは別物です。

「JI」87年3月号初出 ラファエル様メッセージより
 良心や愛は人間社会と種の存続の保護に繋がり、"種の繁栄と存続"を。
 性の乱れは犯罪と闘争と死に繋がり、"種の絶滅"を招きます。
 神は前者を望み、良心と愛と生命を人間の世界に齎しました。
 悪魔は後者を望み、闘争と死を齎そうとしているのです。

 私達を信じるあなた方も、信じず従っていない人々も生命と死のどちらを選びますか?
(第一部、第八章、備考 一考察、(一)神の心に背く者)

"共産主義とそのシンパ"
「慈悲と愛」83年4月号初出 ミカエル様メッセージより
 人は美しい物よりも醜悪を好み、正しい物よりも偽りの言葉や企みを良しとするのは何ゆえか。
 恐らく美しさも正しさも知らぬ環境に育った者が醜く偽りに満ちた対象をしか与えられず、
より良き物を求める本能も育たず、暗く悲しい世界
 即ち人の地獄を作る故でしょう。
(中略)
 地獄とは正に社会主義国の、虐げられた、
"罰されることを恐れ、それを逃れる為にのみ我が身の行く末を思う世界"なのです。
 サタンの配下である
(共産主義者であり、科学者であり、文化人の)密林の腹黒き使者の
偽りの言葉や夢を信じる時、あなた方はすべて良き物を失うのです。


「JI」85年1月号初出 ウリエル様メッセージより
 社会・共産主義化諸国の悲劇の歴史。
 それらを理解しながら蜘蛛の網に捕えられた虫のように、自らを解き放てない人間の知性は、
人類という種の滅びを暗示するかのように見えます。

 多くの善霊が殺され悪霊の跳梁する天の反映でもありながら、
世の終りが避けるベくもなく忍び寄る現実と、
それを来たらせるのは偏
(ひとえ)に人類の無知と無自覚と無思慮な支配欲であると、
如何にすれば覚らせ得るのか。
 善を喜ばず、悪に走る人類の業と言うべきでしょうか。
 人間の知性が滅びを求める時、天もそれを救い得ないと、
あなた方は果たして理解しているのでしょうか。

「JI」86年2月号初出 ラファエル様メッセージより
 自らを制する基準を持たぬ者は、正しい性格形成が行えず、徳とも無縁であるし、
幼児か病人のまま一生を終えることになるのです

 その様な者の説く理想など現実生活に役立つものではなく、虚構にしか過ぎません。
 分析すればマルクス理論も一大虚構、盲説であるし、それに心酔する者は批判力を持たぬ幼児、
それを利用して主権を得ようとする者は精神的な病者に過ぎない
ということなのです。

(第一部、第九章、一節 共産主義とそのシンパ)

"イデオロギーの狂信者"
「慈悲と愛」79年8月号29頁初出 千乃先生「愛を知らず」より
 マルクス・エンゲルスやサルトルの考えた図式や思考過程を青写真のように写し取って、
その通りに幾ら語り尽くし、行動の限りを為しても、
それは所詮レールの上を何処までも走る列車の如しであって、主体性の欠片も無いのです。
(中略)
 これだけマルクス理論が歪められてしまう迄、内部からの是正が叫ばれなかったことは、
即批判力欠如型の優等生が、習い覚えた理論を正確無比に繰り返してきた歴史であり、
実証ではないでしょうか。

(中略)
 科学的、世界主義的、民主的、ヒューマニズム、と
既に世界に確立されているものを唱い文句に

革命、詰り既成社会の破壊をのみ目指すのは、
全く時代錯誤も甚だしい
のではないでしょうか。

(中略)
 人間の精神に取って自由の喪失と批判を禁じられる(誤りであると判っていてもです。
正しい法を批判しそれを歪曲することは、却って精神の後退と荒廃を招きますが)、詰り
思考力の活動を阻止され抑圧されること程、恐ろしいものはないということ ー 
それが人間としての死であることを同志は教えてくれない
のです。

 民主主義の政治理念に第一義として唱われている
個人の自由なくして何の民主主義でしょうか。
 キリストは愛を説き、
キリストに従った幼児である人達は同じ精神支配であっても恐怖ではなく喜びを得た。
 そしてマルクスやエンゲルスは愛を強調しなかったという只そのことの為に、
社会主義国家に住む国民は自由を失ったのです。

(第一部、第九章、五節 イデオロギーの狂信者)

"共産主義とは、人の心を悪魔に導く為の指針である"
(編者)
 共産主義がこの世に生まれる以前に生きた、
すべての善き人々の、神を、愛を、善を信じて幸福であった人々の心を、
人類の歴史から滅し去る。

 そして新しく生まれてくる人類の心に、共産主義以外の思想も信仰も知ることなく、
悪魔のイデオロギーを植え込む。
 このような人間の心も、世界も地獄以外の何物でもありません。
 人類を破滅させようとする悪魔の邪心を悟り得る知性の、
理性のない不毛な心に巣くう思想が共産主義です。

 共産主義者及びそのシンパは、彼等のイデオロギーを拒む者を虐殺し、
権力を得て何ら良心の呵責を感じない、
良心を捨て去らしめるイデオロギーであることを証明されて尚、
共産主義を信奉する者達は、自分達が虐殺される側の人間ではない、
虐殺する側の、権力を持つべき人間であると信じる、
悪魔に魂を渡した

(共産主義を認めぬ、 自由と平等を信じる神の愛に生きる者の不幸を、死を願う)
イデオロギーの狂信者です。
(第一部、第九章、備考 一考察、(一)共産主義とは、人の心を悪魔に導く為の指針である)

"未熟な精神"
「JI」83年12月号初出 ミカエル様メッセージより
 文明国でありながら、古代の人々のように、日本人に多く幼児の性格が見られるということは、
(発展途上国も同様ですが)、封建時代から民主主義への移行の途中に、
共産主義という個人の道徳や責任を全面否定する思想が広がり、
そこで個人の人格的成長が止まってしまったからでしょう。
 宗教も少なからず蔓延り、ここでは個人の自主性が否定され、依頼心を助長してくれたので、
益々人は精神面の成熟に関して無知、無関心に留まったのでしょう。

(第一部、第十章、一節、(一)歪んだ性格、未熟な精神)

"疑心暗鬼という偽我"
「JI」83年2月号初出 ラファエル様メッセージより
 悪を許さぬ心は正しい心でありながら、
そこに疑心暗鬼という偽我が忍び込む時、病的に相手を悪と断じてしまうこと。
 相手のすべての行動を善意と寛容で観ずに、狭量と悪意で観て結論を下してしまうこと

(中略)
 この疑心暗鬼という偽我は往々にして義人で完全主義の人物が健康を害した時に度々現れ、
周囲を悩まします。

 正法者が追い詰めるのは共産主義という悪魔の思想であり、
手段を選ばず、社会の規約のすべてを破壊してその主義を他に押し付け、
自らの権力を得ようとする共産主義者であるべきであるのに、
少しでも弱点や欠点を見せた同志に猛然と飛び掛かり、攻撃を繰り返すのです。
 これを心理学者は被害妄想と呼びますが、
そういった病的な心理状態に陥ると、同志が忽ち仮想敵国に見えてくるのです。
 過労が原因となって健康を害し、精神的な不安を高め、疑い深くなる ー
その時あなた方は充分に休息を取り、人の欠点も許せる寛容な心になった時、
初めて自分の精神は健康を取り戻し、天の意に適う正法者の在り方に戻ったと考えて下さい。
 俗に"健全な精神は健全な身体に宿る"と言うではありませんか。

 共産主義者の好む総括の手段は、仲間である一人の人間を多数が批判し、吊し上げ、
二度とその屈辱を味わいたくないと思わせる効果を狙うものです。

 しかし正法者は決してそうであってはなりません。
 それは弱い者いじめの心理と何等変らないからです。
 義人の陥る偽我は、不寛容の悪であることをよく心して頂きたいと思うのです。

(第一部、第十章、一節、(二)心の病)

"善意の迸りを止めた時(その原因が精神の堕落、退行であれ、前頭葉の委縮であれ)、
 自己保存の前に善我を失う"

「JI」88年5月号初出 ミカエル様メッセージより
 精神病者であれ、老人の痴呆であれ、生来の痴呆を刻まれた精神薄弱児でない限り、
罹患するまでの生活や人生観が習慣として残り、意志表示をさせるものです。

(中略)
 復讐心、殺意、嫉み、など他への破壊を目指すあらゆる人間の悪は、
善意の迸りを止めた時に生じ、又、精神もその時点から退行を始め、
精神病となるか痴呆化するのではないかと感じ始めております。
 一言で言えば、高等感情を齎す前頭葉の活動が鈍くなるか、萎縮し始めると共に、
善人が悪人に変わり得る
ことも可能であるということです。

 同時に向上心なく、高貴な心の養いも目指さず、
エゴイズムの悪を正当化しては、自らを甘やかし、
身勝手な人生を反省もなく生きた人間の老年は、
只々心の醜い部分を剥き出しに暮す晩年でしかないのです。

 "心が美しい"ことは何にも優る人間の徳性であり、
"顔形が美しい"ことは何の利点でもありません。
 私達はそれを正法を通じ、常に教えてきました。
 又、老年になっても"美しい心"を保つには若年の頃より努力しなければ、
大脳の細胞が多く死滅して習慣としての言動しか残らなくなった時に、
その人の真の心の歴史が表面化してくることも覚悟しておいて下さい。

(第一部、第十章、二節、(二)善意の迸りを止めた時、自己保存の前に善我を失う )

"神(聖霊)の御人格"
 神の御心に適った、神の預言者として遣わされた者と偽りの者との違いは
何処で見分けられるか、ミカエル様が語られております。
「天国の証(78年8月初版)」23頁 ミカエル様メッセージより
 それが作り上げた虚像の崇拝であるか、偶像化された救世主であるか、教祖であるか。
 その人個人個人の語る言葉に於て尊敬に値する人物であるか、そうでないか。
 徳が心に染み入る真実の言であるかどうか。
 通り一遍の道徳論や、哲学論の上辺のものだけで人々に神の真理を伝える者とはなりません。
 そのためには光を伴わねばならないのです。光の言葉でなくてはなりません。
 その光の言葉は天上の霊に守られて、人々の心を満し、心を強く打つものがあり、
聞く人は何か神の与え給うた使命を遂行しなければならぬという意識に目覚めるのです。
 その使命感が天上界の善霊の共感と加護を得て、何時迄も持続するのが必要なのです。
 勿論そこには何ら虚偽とごまかしがあろうはずはなく、追求を度重ねても、
やはり天上のものであるという証明が私達の手でなされるはずなのです。
 その証明が為されなくなった時そこには神は最早無く、天上よりの光も無く、善霊の加護も無く、
私達に見放された群衆に媚び、或いは瞞着する宗教家、聖職者及び教祖などが詐欺師の様に横行し、
悪霊の助けを得てこの世を地獄と化す為に繁栄するのです。

(編者)
 真の天上界の言葉が、人の心の信仰の灯となる為に、
必ず天の霊自らが神の言葉を心に響かすでしょう、神の心を目覚めさせるでしょう。
 神と名乗る方がこの世に現れた時、当時の人々を救わんがために自らを顕すのに、
その時代の人々の求めている姿によって
〖力による保護を求める"全能"の力の神か、
人が自らの心の内に見出した神・理性に従うべく求める神の授けられた法か、
神自らが法に従うというその知性故に認められる神か、
愛の神、キリストの父なる神か〗違っていようとも、その心は一つです。
(第二部、第三章、二節 神(聖霊)の御人格 )

"愛に生きる魂"
現象テープ№23 「心の美は」より
 80年5月11日 ガブリエル様現象

 魂の研磨、魂の研磨と申しますが、私達でさえまだまだおぼつかないものです。
 目を閉じれば、こうして三億年の年月が蘇ってきますが、その中に於てさえ、
私達はどれだけのことをやってきたのかと問われると、少し答えに困ってしまうのです。
 私達が何億年もの長い年月を耐えてこられたのも、
(ひとえ)に人の幸せを考えてきた為でした。
 無論、そうなるためには若干の苦労は要ります。
 あなた方は、人の苦労を知った時のみ、人の幸せを考えることが出来る。
 又、人の苦労を知るためには、自分も苦労しなければなりません。そのようなものです。

 考えてごらんなさい。
 自分が幸せになった時に、隣人が不幸ならば、
その幸福は、果たしてあなた方の心の底から喜べるものでしょうか。
 そのような人間にはなって欲しくないのです。
 お互いのことを思い遣り、お互いの心を理解し合い、
お互いのことを幸せになって欲しいと願う心。
 そういう心をユートピアを作る心と言います。

(第二部、第三章、四節 永遠に生きる魂(天上界の栄光) )

真理(愛)に生きんとする意志の内に、真理(愛)は働きかける
「JI」82年1号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」144頁

「愛は気付くのにそう難しいものではありません。
 大自然の中に探さずとも、周囲の者の中には無くとも、自分自身が発火点となることが可能です。
 信義は古代の義人が遭遇したような迫害に遭わずとも確信出来ます。
 正義は大上段に振りかざすものではなく足場を固めているものなのです

注。
 人に誇る、人を裁く権利があると保証する為に善が存在するのではなく、
善に生きることで魂が救われることを、
自らが善に生きることで証すべきであるということでしょうか。)
(第二部、第三章、四節 永遠に生きる魂(天上界の栄光) )


"真なるものがある故にこそ偽なるものがある(パスカル)
 真の神が現れたから、偽りが、成り済まそうとする者が出るのです。
 どちらが本物なのか、疑いの念から本物と信じることに躊躇する、
自己保身から臆病になるのです。

(米国が、ホメイニやフセイン率いる悪魔の国と戦っている時に、
米国に付けば戦争に巻き込まれると主張していた左翼は、
神の意志に背けば平和でいられると、そのように日本国民を誘導していたのです。
 彼等の魂を支配していた者が誰であるか明らかでしょう。
 戦わないということは、生命を失わない為なら、善も信義も捨てる、何の為に生きるか問わない、
生命さえ生かして貰えるなら、言われるままに生きる、考えることを捨てるということでしょう。
 共産主義に反発しない、左翼の言うことを鵜呑みにしてきた日本人の精神は、
信じるべきものが何か、何も考えない動物であっても、戦って死んでいった米国人よりも、
生きているから良しとする人間であることを自ら選んできたのではないですか。

 肉体の生命以上の価値を見出す心への成長を奪われてきたのです。
 本当の愛を見出していたなら、人の魂を生かしたでしょう、自らの魂を救ったでしょう。
 魂の目覚めずして肉体を失う者に、この世に於ても、あの世に於ても、
生かすことの出来た魂は何一つないのです、人も、己自身も。
 真理を拒んだ者は、真理に拒まれるのです。
 神の愛を、あらゆる良き思いを遮って、
人々に己が生命に執着する思いがすべてと、冷酷の魂の世界を信じさせる、
そのような世界に生きられて幸せであると信じさせることのできる者が
悪魔以外に存在するでしょうか。)

 それが悪魔のやり口です。人間を愚劣にさせることで、目的を果たすのです。
 天の証が現れなければ、悪魔の出る幕はないのです。
 人が神を見出そうとするから、悪魔は神を偽って現れ、騙そうとするのです。
 神を求める善なる心を堕落させる時、己が悪の力に酔いしれる、
神の愛する心を、汚すことに喜びを覚えるのが邪悪な魂の本性であるからです。

 人が神(の心)を見出そうとしないならば、人は悪霊と変る所がないではありませんか。
 神を信じない者は、悪霊が抛(ほお)っておいても自分から堕落していくでしょう。
 この世を悪霊の世界(地獄)であるなど思いもよらぬほど悪霊と同化した者ならば。

 真が現れ偽りが明らかとされることで、
光が現れ隠されたものが明らかとされることで、
真なるものを偽りと騙す邪な心を本性とする悪霊の仕業であることが証明されるのです。
 この天上界メッセージを偽りと言うならば、このメッセージより先に、
彼等が信じる神のメッセージが出ていなければならないのです。
 このメッセージを悪魔のものとするならば、このメッセージが真似たであろう、
元となる神のメッセージが出ていなければならないのです。
 でなければ贋のメッセージを出す意味がないのです。
 神のメッセージに聞き従おうとする者がいないならば、妨害のしようがないではありませんか。

 悪魔は彼が持ち得ない心を持つ者への嫉妬から、その心(神を愛する純粋さ)が、
悪魔の与える享楽の前に、神の心を失っていく過程を楽しんだと、天上界は伝えられました。
 神を愛する純粋な心の者にサタン(ダビデ)は自らを崇めさせたかったのでしょう。
 神の愛した美しい心を人々から奪い、神の失望とする、邪悪な心に変えることで、
支配欲を満たしたのだそうです。

 純粋な心の、神を求める者を神が呼び集めた時、神の御心(メッセージ)を伝える時、
悪魔は、彼等を堕落へと導く甘言(メッセージ)を語り掛けるのです。
 神が呼び集めなければ(メッセージを伝えなければ)、悪魔の語り掛ける者はいないのです。
 悪魔にとって、神を愛したことのない者、
神の導きにその救いの思いに、心動かされ聞き従うことなき者、
既に邪欲に溺れ、邪念に魂を侵された者など、彼にとって何の価値もなかったのです。

 悪魔が永遠の生命を神の裁きから守ってやると言っても、
神など信じぬ者に、そんな誘惑が何になるのでしょう。
 既に己を高しとする者を煽(おだ)てたとて、サタンの得られるものなど何もないのです。
 神の前に謙虚な者から、謙譲の徳を、神への信仰を捨てさせる、
人々の心の玉座を神から奪い取ることでサタンは支配欲を満たしたのです。
(中略)
 神の救いの愛が現れる時、サタンはその邪悪な心に一層邪念が現れます。
 サタンが踏み躙ろうとする神(の遣わされた預言者)の人類へのメッセージがあるから、
それを捻じ曲げることで、神のメッセージを無にするだけでなく、悪魔のメッセージが生まれます。
 人々が真に神のメッセージであると、真の神の御意志であると心に受け止めた時、
悪しき解釈へと導き、人の悪なる心の糧にするのです。

サタンは神の教え、イエス様の教えだからと人々が何等疑いを持たぬ、
受け入れようと開かれた心に、邪悪な想念を伝えることは訳のないことだったでしょう。

 人の内なる邪悪な心を呼び覚まし、
神の教えを、イエス様の教えを誤った解釈へと導いたのです。

 サタンは神の心を持たぬ汚れた心に興味はなく、
美しい心、神に愛される心を神から奪い取ることを欲した、
神の教えに聞き従う正しい者を堕落させる為に、
彼等の聞こうとする神の言葉を以て、悪しき解釈を吹き込むことで邪悪な心に導いたのです。

 神を求める者を、神の思いに生きんとする者を騙す為に、
神が与えられた救いの教えの中にサタンは破滅の種を蒔いたのです。
 神を求める者を悪魔に従わせたのです。
 キリスト教が神の愛を見失った時、社会主義が生まれました。
(第二部、第三章、五節 
 この方を神と認められぬ者の信じる神とは如何なる人格を持つものか )

"神は人間の霊である"
(編者)
 この世に生まれる前から霊は存在しており、
その霊が肉体に転生するという説が二千年以上前から信じられてきているのですが、
それは誤りであると現天上界は、今この世に生きている人々に語られているのです。

 この世に生きている私達は、生れる前から霊として存在していた(記憶は全く無くとも)
とするならば、自然の中に生きる動物には人間も含めて、自然の与えるのは肉体のみで、
霊は肉体によって与えられるものではないという考えになります。
 霊が転生していない人間には、自我がない、
勿論動物も転生していなければ自我がないことになります。
 自我意識を持って考えている私達は霊であり、
肉体の大脳にはそのような精神活動(意識)は無いと言うことになります。

 しかし、大脳に損傷を受けたり、薬物など(が働くのは肉体です)で精神を患った場合、
それまでの自我(霊体)は、肉体の障害に何ら影響を受けず、
霊体の意志を表現する機能を肉体が失っただけなのでしょうか。
 そうではないことは、自我の一部(性格や人格の特性)だけが変わったり、
失ったりするだけの場合もあることからも、
肉体(頭脳)の機能の変化が直接自我に反映していることは明白なことです。
(何も解らない赤子と、何もかも忘れ去って行っていく老人が存在しています。
 今のあなたの過去と未来の姿を人々の内に見て、
どうしてそれらが同じ人格のまま存在していると、
肉体が変化しただけで自我は不変であると、
そしてその人格が肉体に何ら影響されることのない独立した霊として
転生を繰り返すものであると、そのようなことが真実であると思えますか?)

 神が、聖霊が人間として生きた経験を持たぬ霊であるとしたなら、
肉体に於て如何に生きるかによって、魂は養われるなどと言われるでしょうか?
 神は肉体を持たずにその魂に徳を養い得たのなら
同様に人間も魂(霊体)に於て徳(神の心)を養い得るのではありませんか?

 神が、聖霊が人間として生きた経験を持たぬ霊であるとしたなら、
肉体に於て如何に生きるかによって、魂は養われるなどと言われるでしょうか?

 神は肉体を持たずにその魂に徳を養い得たのなら
同様に人間も魂(霊体)に於て徳(神の心)を養い得るのではありませんか?

養うまでもなく初めから神は完全であったというのは妄想です。
 完全なる神の作った完全なる世界であったなら、
愛に満たされずに苦しむ者は存在しなかったでしょう。
 常に人が愛に満たされているなら、愛が尊いものと思われることもなかったでしょう。
 愛が尊いとされるのは、心に見出せないでいるからであり、
愛のない心の、愛を拒む心の、愛の救い得ぬ心のどこに神の愛の跡(創造神の業)
があると言うのでしょう。
 そのような愛が本当に神の愛なのでしょうか、神は完全な愛の内に生き、
その神から与えられた愛も人の心に入ると神の愛ではなくなるということでしょうか。
 人間が持ち得ぬ神の愛に何の意味が、価値があるのでしょう。
 人間の持ち得ぬものを持つから崇めるべき神とするなら、
神と人と繋がることはありません。

 そのような神とは、愚かしい人間の妄想からでなければ生まれぬものでしょう。

 動物を愛する人たちは、動物を人間のするような生活に従わせようとしますか?
 動物の本来の生活に最も適った生き方を尊重するではありませんか?

 神が人間の霊でないなら、違う種である人間に神の生き方に従わせようとするでしょうか?
 神の愛がそのようなものだと言うのでしょうか?
 人間に取って最も相応しい生き方について人間に指針を与え得るのは、
人間として生きた者をおいて他ありません。
 そしてそのように他の幸福の為に尽くす人(又、私達の内に在って良心を支えてきた善人の霊)
こそ、真に人類が指針とすべき者ではないでしょうか。

 神々は同じ人間であるが故に、宇宙の法則である正法を生き抜いたが故に、
神と呼ばれるに相応しい魂となったのです。
 魂の研磨によって、神となられたことが理解出来る、理解から来る尊敬なのです。
 神への畏敬となった、その智慧と愛と、
(人の霊道を開かせ、神と悪魔を識別する知恵を授けて、その霊能者を通して語り掛ける)
霊能力が、私達の持ち得ぬものでありながらも、彼等が同じ人間であると私達は理解されたのは、
同じ波動故に伝わる、善我という神と同質の魂(心)を持つからだと私達は教えられました。
 神(天上界)の声は人の内なる神の心から伝わるものだと、
己が善なる心に従うことを求めれば、
善に徹する神の御意志を自らの心にすることが出来るのだと仰しゃいました。

 素晴らしいことだと思われませんか。
 私達の心次第で天と繋がると教えられたのです。
 私達は善なる心に生きることが出来る。
 善なる心にある者は、神(の御意志)に生きることが出来る、
真に神の愛を知ることが出来るのです。

 神の恩寵ではなく、自然、宇宙(の法則)の恩寵です。
 聖霊もその恩寵に与ってこられました。
 自然の法(調和、中庸、愛)こそ私達が守るべき、天と人類の絆なのです。
 その絆に繋ぎ止めるのは、法を認識し、従う私達の心だけなのです。

 数億年に亘って、真理に生きられた、
それ故に彼等は、真理を如何なるものであるか証する存在となりました。
 神々(天上界高次元の聖霊)を名乗る彼等が人間の霊であると語る時、
彼等を否定する如何なる存在も、彼等の語る真理が偽りであると証明する如何なる真理も、
人類の前に呈示されておりません。

 彼等の伝える真理が、神の心に生きようとする者に、真の導きであるとの確信を与えます。
 私達の知る真理は、すべて彼等を通して伝えられたことが理解されたからです。
 彼等が伝えたものは、数億年に亘って真理であり、その真理は人間の霊にとっての光であり、
人類を天へと導いたものです。
 彼等は自らが生きた真理を伝えられているのです(創造神に作られた真理ではありません)。
 その真理が齎した愛を、愛に生きる人格を証されているのです。

 彼等の救いを妨害する者がなければ、また人類にそのような悪を愛する心がなければ、
神の国は、この世に作られたことでしょう。
 神が全能であろうと、なかろうと、人類が神の救いに疑いをもつことはなかったのです。

 しかし人間の心には、何時も偽我、悪の芽が出るのです。
 自分に厳しく出来るのは、他の為に尽くす愛が無ければ出来ないことです。
 悪の心を、偽我を摘むことが出来るのは、善我しかありません。
 それが魂の研磨であり、そのような心でなければ神の国は作れないのだと、聖霊は語られます。
 神の国を作れと、それを為し得るのは、人の中の神の心だけなのだと。

 私達が聞くことの出来た、真理を、救いを伝えんと語り掛けた霊は彼等だけであり、
又、彼等に敵対する(悪)霊が現れたのは、現天上界を信じる者達の前に、
現天上界を偽りのものと信じ(背反)させる為に現れたに過ぎません。
 この敵対者が、もし真の神ならば、現天上界を信じる者達の前だけではなく、
現天上界を知らぬ者にも現れて、彼等の真理を伝えている筈ですが、
何も伝えていない、伝えるべきものなど何もないからです。

 この敵対者(悪霊)達は、自分達の存続に脅威となる真の神を、
その神に従う人々を何よりも憎む邪霊であるが故に、彼等が正法者を背反させ、
正法を信じる者達が内輪で権力争いをしている団体の如くに、
世の人々に信じさせようとしてきたのです。
 彼等が真理を愛する者に向けた憎悪の現れによって、また妨害によって、
正法が真の神の(真理を齎さんとする)意志の表れたものであることが証明されているのです。

(第二部、第三章、六節 神は人間の霊である )

"正法を守る"
現象テープ欠番 「イエス様メッセージ」より
 83年12月24日 イエス様現象

 魂の堕落というものは、己が身を安穏な所へ置くところから始まります。
 我が身をより困難な所に、又、そして、
より知恵と勇気とこの法を生きる糧として生きようとしていく人の中で、
私達はその方達を守護していく者であることをここに断言致します。

 法の如く生きようとする方々、あなた方は心を強くしなさい。
 そして、今あなた方がその持っている決意、
そして、その信念を悪に決して譲り渡すことのないよう私達の前で誓いなさい。
 私達は、その者達と共に今後又、歩いてゆくことをここに約束する者です。

 いい加減な形で、又、その場しのぎの形で法を論ずるのは止めなさい。法が汚れるだけです。
 私達天上界のものと巷間で騒がれている偽正法的な論法と同一視されては
天上界を侮辱するものです。
(中略)
 私達は、もうこれ以上、あなた方へ対して教えるべき法はすべて語り尽くしました)。
 後はあなた方が、私達天上界が今まで血のにじむ思いをして説いてきました
この法を如何に守り抜くか、そして、次の世代へと正しく継承していくか、
それはあなた方に掛かっております。

注。
 私達が神の心を見出せば、天上界と心が通じるだけでなく、
神の意志を自らの意志として生きられるのです。
 天上界は私達に神の心が与えられていることを、
そして神の心を見出すには、自らの魂の研磨以外にないことを教えられました。
 そして己が心を神の心(善我)とする為には、偽我に生きる自らを知ること、
偽我を削り落とすことが天への道の一歩となることを、
その為に、如何に生きるべきか、すべて伝えられたのです。

 彼等が思いを掛けて伝えたその言葉を聞いて尚、
目覚めぬ心が何時までも天のメッセージを求めようとする、
天が語り掛け続けねば安心出来ぬ心に、成長の止まった心に、
天の思いを理解させる言葉など無い(メッセージは子守歌ではない)のです。

 天がすべてを語ったと聞いて、彼等の思いに応えようとする思いが生まれなかった心に
(永遠に)生きねばならぬのはその人自身であり、
人生に於て出会ったであろう良き人々の思いも受け止めようとせぬあなたの前から、
彼等は虚しく通り過ぎて行ったのです。

 自ら何とかしようとしないならば、神と繋ぎ止める愛も、信義も心に宿すことが出来ない、
只の言葉として受け止める器しか持たないのです。
 愛を受け止められぬ心に如何なる言葉を語り掛けようとも、無に等しいのです。
 天上界は私達が神の心を見出す為に、
天への道から脱落することなく、天へと歩み続ける為に、
必要なことをすべて為されました。
 後は私達自身しか解決出来ぬ問題であると覚らねばならないのです。注終)

"正法の道"
現象テープ№7 ①「『天国の扉』出版お祝いの言葉と共に」より
77年12月1日 ミカエル大天使長様現象

 あなた方にあるのは、真直ぐな天へと伸びている正法の道であり、
それ以外にはあなた方には、 というよりも人間のあるべき道はないのです。
 すべての人間の歩むべき道は天へと向かって伸びている正法の道であり、
その道は永遠に限りなくあなた方の前に開いて待っているからです。
 その道をなくしては、最早私達の存在はあり得ません。
 ですから、どんなに厳しい試練が待ち構えていても、どんなに厳しい目に会っても、
決してあなた方は挫けてはいけない。
 あなた方は一度正法という光を目にしてしまったのだから、決して道を逸れてはなりません。

(第三部、第三章、一節 正法の道 )

"正法流布のこと"
(編者)
 天使から連想されたのか、天使が登場する映画を思い出しました。
 映画監督のフランク・キャプラの作品で『素晴らしき哉、人生』という有名な映画です。
 主人公が苦境のどん底に落とされ、最早これまでと自殺寸前に天使が現れます。
 主人公がもしこの世に生まれていなかったら、
彼の周りの人達の人生はどうなっていたかを、天使が主人公に見せる話です。
 人々が苦難に遭った時、彼等の苦しみ故に苦しみ、
自らを救う如く彼等を救おうとしたのは主人公の優しさと強さだけでした。
 その彼がいなかった為に、彼のような人を知ることがなかった為に、
誰からも彼等の苦しみを思い遣る優しさを受けることなく自暴自棄になって破滅した人や、
人の心の優しさを知らないまま、冷たい心の中に一生を終えてしまうような人達を、
彼が愛してきた人々の見る影もない姿を、
彼は見るのです。

 彼の優しさ、暖かさが人々を救った、今絶望にある主人公の前に、
彼と同じ優しさを持った、彼を救おうとする天使が現れたのです。
 彼はそれまで自らを苦難に追いやってでも、人々の幸せを考えた人でした。
 そして自らを犠牲にしてでもその心を捨てなかった。
 そのような強い精神と愛を持った者さえも耐え難い苦境が訪れる。
 そのような者を神が心に掛けない筈がない、救おうとされない筈がない、
キャプラの思いはここに表れています。

 正法流布の話に戻しましょう。
 もし正法(そして、今の世に語り掛ける神の思い)に出会っていなかったら、
私達はどうなっていたでしょう。
 主人公に出会っていなかったらこうなっていたと天使が見せた人々の姿
(真の愛を知らずに生きる人間の象徴です)は
正法に出会う前の私(達)そのものだと思いました。

 私達は、真の救いとなる真理(正法)を聞いただけではありません。
 神ご自身の思いと共に伝えられたのです。私達は神と出会って信じたのです。
 そのことを理解される方なら、
何としてでも正法を人々に伝えたいとの思いをきっと持たれるに違いない、
そう思ってこの映画のことを書くことにしました。

「天国の扉(77年12月初版)」201頁 モーセ様メッセージより
 魂の修業をどの次元の者もさせられますが、
天使の修業が一番厳しく、特に人間に生まれ変わった時は、
九次元の光の大指導霊よりも厳しい人生を送らねばならぬ者もいます。

 その中で悟りを得て、正法の助力者としての賢明な人格を持ち、陰の力になるのです。
 美しい姿だからと憧れる方達は、この天使達の為すべき勤めや修行を知れば、
安易に天使になりたいとは思わないでしょう。

「JI」83年12月号初出 ミカエル様メッセージより
 (イエス様は)伝道と癒しに集中しておられましたから、かなり多くの病者の癒しも可能でした。
 しかしそれでもイエス様の到着が遅いとか、種々の不満が病人とその家族からよく出たものです。
 金持ちにも自分の益となることしか望まぬ者も多く居り、過分の寄附をしたから、尽したから、
特別扱いをされねばならないという考えの者が居りました。
 この人達の欲する物を得られぬ時は天を恨むという我が儘な思いに接する時、
イエス様ではなく私達天上の者が悲しい思いをしました。天上の者が奇蹟を行わしめたからです。

 現代にも人の心は変わらず同様の人々が居ります。

(編者)
 このような人達(人間の霊)がこの世の人々の心(魂)を救おうとされているのです。
 彼等の私達を救おうとする思いの解らないことが、その思いを信じる心の無いことが、
救いから彷徨い出た魂なのです。
 天の聖霊の思いが伝わる時、人はどのように変わるのかルターが言われております。
『ルター(ミカエル様の本体)も言っている。
「この世の与え得る一切の財宝に事欠く困窮に際して、どのようにして人の心を満たし、
又慰めるべきかについては、理性は全く施す術を知らない。
 ところが、キリストがやって来ると、
キリストは外的な、厄介なことはそのままにして置きながら、しかし人を力付ける。

 そして臆病を大胆さに、小心を不敵な心に、揺らぐ良心を穏かな、静かな良心に変えてくれる。
 だからそのような人は、世間がみんな腰を抜かしてしまうような問題に出会っても、
自若としてたじろがず、勇気に満ちてほがらかである。
 これは死にあっても、罪の恐怖においても、
又この世の慰めと財貨ではどうにも出来ないあらゆる困窮に際しても、変わることはない。
 これでこそ本当の不断の平和であり、
心がキリストを離れない限りは永遠に続く難攻不落の平和である。

「希望と幸福(ヒルティの言葉)」秋山英夫訳編 40頁 』

「パスカル パンセ(B553)」より
 小事をも大事のように行うがよい。それらのことを我々の内で行い、
我々の生涯を生きられるイエス・キリストの御稜威
(みいつ)のゆえに。
 また大事をも、容易い小事のように行うがよい。彼の全能のゆえに。

 神(聖霊)と共にあると確信した者が、
神の思いに生きることについてこのように語りました。

"真の神と共にあることに勝るものが、求めるに値するものが他にあると、
それは神よりもあなたの心を満たすものであると、
それがあなたの心からの望みであると思われるのですか?"

現象テープNo16 「自由を齎すもの」より
 79年11月4日 ウリエル様現象

 あなた方は、幸せに思わなければなりません。
 この最後の審判に生まれたということは、
あなた方が一人一人その、私達があなた方に与えた数々の言葉の、証言者となれるからです。
 何時の時代にも、私達の言葉を聞く者は少なく、私達を嗤う者の方が多かったことを、
あなた方は知っています。
 ですが結局は、私達の言葉に従う者が最後には、勝ったということを
あなた方は又、知っている筈です。


(編者)
"徳は弧ならず、必ず隣有り(逆もまた真なり。)"
 徳を汚す、真理を踏み付け悪徳に生きる社会は、
必ず力弱き者の犠牲の上に成り立っているのです。
 そのような社会に目を瞑る心に善はありません。
 既にそのような人間に人類は蝕まれています。
 神の心に生きた先人は、神を愛せと言われました。
 神を愛する心からすべてが始まるのです。
 私達の心が弱く、未熟であってもその心のすべてを以て神を愛するなら、
神の道を生きるのだと言われたのです。

 神の善とは、悪に生きる邪心を憎む、その犠牲となった者を苦しみから救わんとする愛に従う、
今この時を生き、働き掛ける心です。
 天は常にその実行を以て、人々の心に神の愛を、神の実在を現わして来られました。
 その神のこの世を救わんとされる心が伝えられたのです。
 この世に神の国を作れと(悪魔は同じ言葉を使って、地獄を作ろうとしました。
 この悪魔の言葉を聞いた為に、同じ言葉だからと、神に耳を塞ぐなら、
悪魔の笑いものとされるのが似つかわしいことでしょう)。

 流布活動は、生きているこの時しか出来ません。
 この世を変えてゆくことは、今を生きている私達に掛かっています。
 ですから、神と呼ばれる偉大な霊が、
僅か数十年の人生経験しかない未熟な人類に尽くされているのです。
(無論、私達が偉いからなのではありません。)
 私達が心に感じて動かないで、
未だこの世しか知らぬ者の心に天の思いをどうして伝えてゆけるでしょう。

 何時の時代も、神に不服従の世も、神をも否定し自己を拡大しようと尊大に振舞う人類の、
絶望の心を否定せんとあがく心の表れに、
憐憫からの温情と救済の熱意を失わなかった神々の御心を、人類は顧みねばならないのです。
 何ら評価されることを求めず、自らを表さず、
その信念に生きる心を彼等を通して学ばずに理解し得た者など誰も居はしないのです。

 たとえ死後天上界に迎えられても、私達に出来ることは、魂の研磨と、
(合体霊や守護霊として)この世の人達を善導するしかありません。
 その時、私達が導かんとするこの世の人々が天を信じているか、
天のメッセージを、御意思を知っているか否かで、その成果は大きく違ってくるでしょう。
 勿論、その時の私達の生き甲斐も、喜びも。
 正法を広める為に役立てられる時は、生きている今しかないのです。

 天上界のメッセージは、神々の存在の証です。
 人類の魂を天国に導いてこられた、救いの、愛の証です。
 今、心に止めなければ、二度と目覚めることはないであろうと、
目覚めた者は、正法を伝えなければならないと天上界は仰しゃいました。
 真にその通りであると思います。
(第三部、第三章、備考 一考察、(一)正法流布のこと )

"神の法"
「JI」82年12月号初出 ウリエル様メッセージより
 正法とは天の美しさを伝える以上に徳の厳しさによって導かれねばならぬ神の法であること。
 神の法であるが故に、そこには微塵も軽々しく、且つ俗的で、
視野の狭い考えが存在してはならぬこと。

 天が未来を語る時、それは常に永遠に連なる善と正義の予見が存在していること ー
それらをまず心に深く留めて、自らの洞察を養い、過ちを防ぐ努力をして頂きたいと思います。

(編者)
 神の与えられる法とは、神自らが従われている法です。
 神ご自身が従うべきものとされてきたものです。
(神は御自分に従えと仰しゃっているのではない、
すべての生き物を生かしめている法に、自らを救う為に従うように、
強制ではなく、人自ら神の心に目覚める、真の愛、万物への愛に目覚めるように
導いてこられたのです。) 
 神の法を差し置いて、従うべき如何なる法がありましょう。
 宗教ならば内容如何を問わず、信じる自由を保障するという法(※1)は、
神からのものではありません。
 偽りの神を信じる自由を保障することは、神への背信行為です。
 真か偽か判断出来ない為に宗教を平等に扱うならば、
すべての宗教に法人と認めてはなりません、邪教を法で守ってはならないのです。
 悪に利用されるだけです。
 盲いて滅びようとしている人類が目覚めて救いの道を見出すことを神は願われているのです。
 信仰の自由は守らねばならぬからと、
盲いた者に悪魔と同列に扱われて神が喜ばれるとでも思っているのでしょうか。

 宗教は、宗教に従事する者は特別だから、
特別扱いされることを当然と考えているのでしょうか。
 彼等は本当に神を敬っているのか。
 本当の神を敬っているのか。
 真の神は、高慢を戒められたのではなかったのか。
 神を敬う心を失ったら、もう宗教家でも何でもありません。
 常に神を敬う心に生きる、天の光の下にあろうと望むならば、
神の光を、慈悲を求める心ならば、
神を戴くべき高みに己を置くことが出来る筈はないのです。
 特別扱いに甘んじることから、堕落が始まるのです。
 己を特別と思うことが既に堕落しているのです。

庶民が救われると、自分も神の子になれると信じることが出来る為には、
彼等を導く宗教家が人として生きる上での苦しみに耐え、克服した者、自分が救われたように、
庶民の救われる為の手助けをしたいとの熱意を持った者でなければならないのは当然でしょう。
 そのような者が初めて宗教家になり得るのです。
 自らを庶民に秀でる者と見做しているような者を天が必要とされている訳がありません。

 人が神の子になるとは、
そのような神の心を誰もが持っている、
その心に立ち返ることで神の子となるのです。
 人が神の子になるとは、
真の神を神であると知る心に目覚めることです。

 宗教家は大切な神の子を預けられた者です。
 神にその信頼を受ける、それ以上に誉とすべきことがあるでしょうか。
 神の信頼を得て、神の愛に満たされた心が、
神の愛以外に何も望むものはないことを知る貧しき心(謙虚な心)にある者が、
自らを高しとする(自らを特別な者と自惚れる)心を抱くことなどあり得ないのです。

 そんなことも解らなくなってしまった、善我を見失ってしまった者が、
堕落の道にある者をどうやって正道に導くことが出来るというのでしょう。
 盲目(めしい)が盲目を導くとはこのことです。
彼等が宗教家を名乗るなど、以ての外です。

 信仰の自由とは、唯一の天へと導く道へ、何処から入るか
(真の神の与えられたどの宗教から入るか) の自由であって、
信じることが赦される(認められる)神は唯一の方です。

(天の国に、神と共に、生きるに相応しい心を世に明らかにする、
世に働きかける者が天への道を歩む者です。
 宗教はその入口に過ぎません。正しい道に足を踏み入れたに過ぎないのです。
 知識を得ただけで心を磨くことのない者は、
教団という組織に居ることは出来ても天国に入ることは出来ません。
 天国に相応しい心を持つ者が、磨かれた魂のみが天国に入るのです。
 宗教の導きによって神を、真理を信じた時、天への道に踏み出したのです。
 善なる心(で世に働きかける)を貫いた魂のみが天国に迎えられるのです。
 如何にして善なる心を見出すか、善なる心を貫くか、
正法を通して明らかにされました。
 天国に招く神々の思いが初めて証されたのです。)

 法は罪を罰する為にあるのに、天の法はこの世に属さないからと、
法の守護者(神)に背く行為を許容する法であってはならないのです。
 人間の良心は神から来ているのです。
 神の与えられた良心に逆らい、己が良心の痛むことがない、
そのようなことを許してはならないのです。

 この世の人々が神と悪魔のどちらに従っているのか見分けが付かないからと、
神も悪魔も信じるのは自由であるという者が神の裁きから自由である訳がないのです。
 天国の法を成り立たせているのは、どこまでも善です。
 そして善を愛する者しか天国は受け入れません。
 神から与えられた善の上にこの世の法を築こうと為されてきましたが、
この世の物差しで神の御心を測る偽善が悪の心を生かすものとなっています。
 神の法は、良心を生かしめるもの、良心に目覚めさせるものです。
 この世の法を、神の法・正法に従うものにしなければなりません。
 それがこの世に神の国を築くことに他ならないのです。

※1注。
 如何なる宗教や思想でも信じることを許すのが真の自由なのではありません。
 それは真の自由に生きんとする善なる心を失わせるものです。
「JI」84年4月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」184頁

「理性を働かせて、科学的に冷静な目で事象に対処することが文明人の智恵であり、
迷信や盲信、はたまた狂信的な人格とは異なるあり方であると、私達は幾度お教えしたことか。
 しかし理性と科学的な判断力を培えない現代の日本の教育法では、
そこで育った若い正法者も、共産主義者や年長の宗教的人格と同じく、
迷妄の域を出ない人が多いのは止むを得ないかも知れません。
 すべては左翼である日教組の為した破壊現象であるとしても、日教組を排除する智恵なき親と、
老獪(ろうかい)なマスコミの洗脳活動の狭間(はざま)にあって、
自由な国に住みつつも、子供達や若者は既に社会主義の犠牲になってしまったのでしょう。

 民主主義という虚名の下に、弊害のみと知りつつ、
誤った思想の教育団体や政治・宗教・文化団体を擁護しなければならぬ民主政治の仕組みは、
自由競争と人格の錬磨の場を与えてはくれてもその利点に関しては
時に疑いの念が湧くのを防ぐべくもなく、最近は焦慮することしばしばです。

 政治家を選ぶことが出来るのは選挙権を持つ者だけです。
 その資格を持つ者は国民であるが故に、
政治家にとって国民は神様(この世的な表現に於いてですが)ということになります。
 しかし政治家は国民でなければその資格が与えられないのですから、
神様の立場である国民から自ら国民の僕である政治家になろうというのであれば、
真に自己犠牲的な精神の持主でなければ出来ないように思うのですが
(最も能力のある者として選ばれるスポーツ界の(国民の)代表のように、
選挙で選ばれるということも、誰よりも優秀であると国民に認められたという意味の代表だと
当選された代表の皆さんは思われているのでしょうか?)、
その能力が認められた者が大臣などになっているのでもないようです。
 各派閥から派閥の力関係に相応しい大臣の椅子が振り分けられていたとしても、
相応しい能力を持つことが前提条件とされるのは言うまでもないことと思うのですが、
それも人を見る目のある者が組織の長に選ばれる、
真の民主主義が貫かれてこそ為し得るのでしょう。

 どのような立場に於てもその役目を自覚して為そうとする者でなければ、
如何なる世界にあっても(その能力は)認めれることはなく、
政治家も選挙で思い知ることになればまだ救いはあるのでしょうが、
日本国民が自ら勝ち取ったものが民主主義の精神という訳ではないので
(左翼などは民主主義と言っても中身は全くの共産主義でしょう)、
到底民主主義者とは思われないような者も選ばれるのが
現代の(発展途上の?)民主主義と呼ばれるもののようです。※1注終)

「慈悲と愛」79年4月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」40頁

 「しかしあくまで私達天上界の見解は、
真に民主主義の原理を生かし得るものは自由主義思想の中に於てであり、
人身、内心、言論、表現、学問、等の自由を保障し、
人間が神の前に平等に有する権利は、国家に先立つもの
※2であり、自由たるべきものとし、
如何にプロレタリアートが数に於てその権利が保障される社会が
真の民主主義政治形態であると(誤導)し、
国民の選出した機関であるソビエトへの権力集中をマルクス主義が唱えたとて、
その原理の優劣のみを盾に取り、しかるが故にソ連は世界を支配し、
その侵略的態度を正当化するものとはなり得ないことを改めて説かねばならないのです。」

「天の奇蹟・上巻(天上界への質問と解答)」ラファエル様解答より
 勿論この聖典(旧約・新約聖書)を伝えた民族が文化が低く、大部分が稚拙な表現や、
ヘブル人特有の民族性、習慣を通じて伝えられたものであろうとも、
私達天の与えた真理は永遠のもの※2であって、
私達がそれを否定する者では決してないことは、
イエス様が旧約の律法を否定される立場になかったと同様のものであると
理解して頂かねばなりません。

※2注。
 「アンティゴネーの決意」江藤淳著 産経新聞平成九年五月五日掲載 「月に一度」120頁
 (前略)いうまでもなく『アンティゴネー』とは、
国禁に背いて戦死した兄の屍(しかばね)を手厚く葬り、
その廉(かど)によって石牢に生き埋めにされ、
自ら縊(くび)れて死んだテーバイの王女アンティゴネーの悲劇である。

 オイディプース王の二人の息子のうち、弟のエテオクレースはテーバイの王になっていたが、
王位を弟に奪われた兄のポリュネイケースが、復讐のためにアルゴスの軍勢を糾合し、
テーバイの市門に押し寄せてくる。
 凄惨な激戦の結果、兄弟は共に刺し違えて戦死する。
 そのあとを継いでテーバイの王となったのは、二人の叔父に当たるクレオーンであった。
 クレオーン王は直ちに勅令を発し、
テーバイの七つの門を守り抜いたエテオクレースは最高の礼を以て葬るが、
不義に与した反逆者ポリュネイケースの遺体は野ざらしにし、
烏や禿鷹のついばむままにせよと厳命した。
 これに背いた者は、石打ちの刑に処するというのである。

 ところでオイディプース王には、刺し違えて死んだ兄弟のほかに二人の王女がいた。
 姉がイスメネー、妹がアンティゴネーである。
 アンティゴネーは、王の厳命とはいえ戦死したのは自分の血を分けた兄弟である。
 弟が義戦を戦ったからといって栄誉を以て葬られ、
兄が不義の戦いに与したという理由で野ざらしにされるのは納得できない。
「お姉様、お手をお貸しください。
 ポリュネイケースの屍に礼を尽くして葬りましょう」と訴える。
 王命には抗えないと、イスメネーがそれを拒むと、
アンティゴネーは、それならもう頼まない、自分一人で兄を葬り、
死罪になることも厭(いと)わないと、決意を告げる。
生きている人の気に入られようとしても、時間はあまりにも短い。
 でも死者を愛する者は、永劫の時間の中で愛するのです。私はそこに行きましょう。
 お望みなら生きておいでなさい。生きて、最も神聖な神々の法に背きなさい

 
 やがて登場し、国禁の絶対を説くクレオーンに対して、アンティゴネーは昂然と言う。
「そんな禁令は神の思(おぼ)し召しではありません。
 冥界の神々とともにある正義は、そんな法を認めていません。
 あなたの勅令には、どこにも記されず、
変えられもしない神々の法を無効にする力などありません。
 あなたは只の人間で、勅令は昨日今日のものですもの。
 神々の法は永遠で、人間にはその起源すら確かめられないのです」

 ここでアンティゴネーのいう「神々の法」「冥界の正義」とは、過去現在、宗教宗派、
勝者敗者の別や習俗の違いを超えた人間の死者を悼む心情にほかならない。
 殊に「義戦」か否かに拘らず、戦死者は手厚く葬らねばならず、
いかなる国法といえどもこれを妨げることはできないというのである。

 去る四月二日、最高裁判所大法廷が下した
いわゆる「愛媛県玉串訴訟」に対する違憲判決の報道に接したとき、
私がとっさに思い浮かべたのはここに紹介した『アンティゴネー』の一節であった。
 先の大戦は連合国側の「義戦」であり、敗戦国日本の戦死者は、
そちら側から見れば不義の戦いに斃(たお)れたポリュネイケース同様に、
追悼に値しないというのかも知れない。
 そして、「義戦」の勝者アメリカが書いて与えた
現行憲法第二十条が「政教分離」の原則を謳っている以上、
愛媛県が靖国神社春季例大祭のために支出した玉串料十六万六千円は、
当然違憲ということになるのかも知れない。
 だが、そのとき、私の脳裡で最高裁大法廷の多数判決を支持した十三人の裁判官が、
俄にクレオーン王の末流に変貌したことだけは記して置かなければならない。
 現行憲法の禁令のごときは、人の、それも外国人の定めた「昨日今日」の法令ではないか。

 ソポクレース以来、
自国の戦死者を、威儀を正し最高の儀礼を以て追悼することを禁じられた国民が、
この地上のどこにあっただろうか。

 国人よ、誰に謝罪するより前にこのことを嘆け。そして、決して屈するな。

(編者)
 政治が宗教(団体に隷属する人々)に支配されてはならないように、
政治が悪(魔)に支配されてはならないのは言うまでもありません。
 愛のない政治は悪そのもの、
共産主義に支配された政治です。
 政教分離でさえあれば良いと、愛を顧みる心を忘れるようなら、
この国は充分、共産主義に洗脳されているのです。
 米国に押し付けられた現憲法は、
ニューディール(共産主義者)によるものだからです。※2注終

 天上界は、あのような人間になりたくないといった、
軽蔑すべき人間であったとしても軽蔑してはならないと言われます。
 何故なのかと考えた時、そこには人を哀れむ、気の毒に思う気持ち ー 
人を助けたい心から来る、
助けたくとも自分に助ける力が無い為の苦しみを伴う哀れみを知る心を持っているか
問われているように思います。

 人を裁いていることすら気付かないでいる、
そのような心は、罪に巻き込まれる環境にいた者が単に自分ではなかったに過ぎないことさえ
考えられない者なのでしょう。
 周りの悪や苦難によって罪に追い込まれる。
 悪を憎む良心を持つ者であっても逃れられぬ世界に生きざるを得なかった者もいるかも知れません。
 何等同情する心がない為に理解せず、
罪を犯したのは、その者の悪なる心だと独善的に裁くことに躊躇する、
人の心を顧みる優しさを持たない者が、裁かれるべき罪を宿す心を克服した者なのでしょうか。
 罪に負ける心に打ち克った者が、罪の力に苦しむ者を助けられる者が、
救おうとせずに裁こうとするでしょうか。

 罪に苦しむ人の前に立つ資格がある者とは、
裁こうとする心ではなく、救おうとする心を人が見出せる者、善なる心に立つ者と信じられる者です。
 罪に苦しむ心を何とも思わないような者に、人を裁く資格がある訳がないのです。

 人が罪を償う、心の中の悪に向き合う勇気を人に与え得るのは、信義に生きる者だけです。
 人を信じようとしない者は、その人の前に立つべきではありません。
 人を裁くことが出来るのは、神の法だけです。
 神の法に依って人は生かされることを知る者が、
人の心の善と悪を正しく捉えることが出来るのです。

 罪の力から、偽我から逃れられない彼等が、
もし正法を知っていたならこのようにならなかったかも知れない、
善我こそ真の己として生きることが出来たかも知れない。
 正法を知らされながら、人に伝えたい、知ってもらいたいという思いもない者に、
人を裁く資格があるでしょうか。

 慈悲を与えるに値しない者に、
慈悲を与えるのは慈悲魔という偽我であると天上界は教えられました。
 慈悲を与えるべき価値が人にあるか否かは相手の心を理解しなければなりませんが、
それも私達に慈悲心があってのこと、私達が神の心に在らねば何の意味があるというのでしょう。

 人を軽蔑する心は、偽我から来るのであり、偽我に立つ者に人を裁く資格はありません。
 慈悲という徳は真に人を生かす、人が自らを救おうと、生きようとする善我
(神と共に在ることを信じることの出来る心)へと導くものです。
 慈悲を与えられて、慈悲を知り、
慈悲に応えようとする心に立ち返らずして天の心に繋がることはないのであり、
慈悲に背く心に留まる者に尚も慈悲を与えるならば、
人はその心を認められたものとしか解さないのであり、
彼等の偽我を肯定するという、
邪心を助ける慈悲の名を借りた魔性のものに過ぎないことを知らされました。

 正法を知って尚、神の道を拒み、悪魔の道を選んだなら、
その者は自ら神の心を捨て去り、悪魔の心を己が心に選び取った者。
 善に、神に敵する悪として扱えばよいのです(※3)。〗

※3注。
「JI」88年4月号 ラファエル様メッセージより
 厳しさと愛と、正しさと慈悲とは区別が付けにくいものです。
 定義付けするよりも、寧ろやはり健全な生活、精神のあり方と、
天と地との調和を求める方向に一人一人が努力し、
協力する事を善しとし、それから外れるものを是正する。
 努力も協力もせず、破壊と破滅を齎そうとする者、社会の秩序を乱し、
神の法(モーセ様の十戒)に背く者は厳しく対し、悔いて改めるなら許す。
 そのような心構えでいるならば、何を是とし、何を非とするかがよく見えて来ると思います。

 共産主義思想もこの点に於て、世界の秩序を喜ばずに、
民族と国家と家庭を否定し、国民と国を守る軍隊を否定し、
社会の体制を根本から忽(ゆるがせ)にする不穏な主義である限り、
天は容認することはありません。※3注終

 神の法とは、この世が滅びるまで、
一点一画も廃れることはないとイエス様が仰しゃったものです。
 天のすべての聖霊が、神の法に生き、この世に齎そうとされてこられたものです。
 救世主が人類を救うのではない、天のすべての聖霊が心を一つにする救いの意志、天の計画が
人類を救うのだとイエス様は仰しゃいました。
 神の救いの思いが一つとなるのは、すべての聖霊が神の法に生きる心であるからです。
 人自らを救わんとする者を天は助けると言われた天の救いとは、天への道を歩むとは、
人が神の法に生きることに他ならないのです。
(第三部、第四章 神の法 )

"真の神に帰れ"
「慈悲と愛」81年1月号17頁初出
 千乃先生「正法者への伝言板」より

 善と正義と信義は三本の縒り合されたひもであり、
愛と信仰は、それによってもう二本加えたより丈夫なひも、というよりロープとなるものです。
 その様な幅広い人格を持とうとするならば、与えて貰うのを只受けて、
"万象万物すべてはお恵みだ。心が清まった。有難い"
という受身の姿勢では到底我慢出来ないでしょう。
 正義は歪みを嫌うもの。信義は卑劣な生き方を嫌うものです。善は悪心とは相容れません。
 愛は自らにも厳しく、他にも厳しい。自他を損なわない為に塩味を有するものです。
 信仰は天に己を合わせ信義で以て天と繋がる心。
 天は世の歪みを許しません。

(中略)
 宗教的な建物や雰囲気が無ければ精神活動も始められず、
神についても思い出すことも出来ない。
 良心もぐらついてばかり居る
ー 何という人格の怠惰と未熟さでしょうか。
 人間性が高尚な人格の熟成を示したのは古代ギリシャの一時期、
善志向の哲学が学問をリードした時期のみではありませんか。

 神を知ることと、僧職、宗派に隷属することとは全く別次元。別の世界であるのに。
 正法というのは堕落した宗教界を離れて、真の神に帰れ、という啓示なのです。

(編者)
 真なるものと偽なるものを見分けることの出来る真の知恵を得た者なら、
人類は神と共にあったことを信じる者なら、
偶像など目もくれないでしょう。
 偶像とは、神が心の盲いた人類の為に、目に見えぬ神の代りに崇める為に、
神が作った訳でもない、神の与り知らぬ物です。
 神を求めるならば、何の価値もない物です。

 神の思いが届かない所に私達の心がある故に、神の思いが解らないのなら、
私達の心を神の心へと近付けなければなりません。
 それが私達に出来る唯一のことであり、神を愛するということではないでしょうか。

 偶像崇拝をして、それで神を信じていると満足するのは、自己欺瞞です。
 しかも神はそのような神の心を知らぬが故に(知っていたら偶像など作りません)
作り得た偶像を、神ご自身の代りに崇拝することを忌み嫌っておられるのです
(至極尤もなことだと思います)。

 生ける神の心を、神の愛を伝える繊細な波動を遮る偶像
物でなくとも、教義の押し付ける神の概念も同じです。
 真の神を見失っていることに気付かせないものを崇めるなら(神の与り知ることのない)
偶像なのです。
を何ゆえ神を差し置いて求めるのか。
 人々に語り掛けられている神が何故、偶像を必要とされていると考えるのか。
(悪魔ならいざ知らず神が偶像を通して人々に語り掛けるなど絶対にありません!)
 彼等は神の語り掛ける声に聞き従うことを本当に望んでいるのでしょうか。
 真に神の思いに生きたいと望んでいる者が
何ゆえに本当の神に向き合おうとせずに沈黙の偶像を崇めるのか。
 偶像を崇めるなと言われた神の思いを考えたことがあるのでしょうか。
(中略)
 偶像を崇めてはならないのは言うまでもなく、
真のメシヤを偶像視してもいけないとイエス様は語られています。

 ご自分を、そしてブッタ様もモーセ様もメシヤとして崇め慕ってはならない、
(メシヤが)個人である場合には人を救う神とはならない
天に在る神々の意志と計画のみが人類を救うからである

とイエス様は『天国の証』で証されております。


 ユダヤ教徒であろうとキリスト教徒であろうと、自らの心から神の心を締め出しておきながら、
モーセ様を、イエス様を信じると言う信者
(己が宗教を信じる者だけが救われる、他の宗教を信じる者は救われないのが当然と考える、
神の愛を踏み付けて自己愛に生きている)を天上界が信じられるとでも思っているのでしょうか。
 イエス様が仰しゃっている天上界の御意志がこの世を救うとは、
己が宗祖を崇拝して、天上界(すべての聖霊)の御意志(想い)を感受出来ぬ
尊大な心(偽我)が己であることを悟らぬ者を天が信用されるなどあり得ぬことです。
(第四部、第一章、一節 真の神に帰れ)

"神の思いの伝わらない心"
(編者)
 神の心も悪魔の心も、波動は全く異なりますが、その心から出る波動は、唯一の波動であり、
その波動は真にその心の姿を伝えるものです。ごまかすことは出来ません。
 同じ一人の聖霊から、受ける者のそれぞれの心に合わすように、
違う波動で神の心を伝えるということは不可能なのです

人を騙す偽りの愛を表せても、真の愛の念を生むことはサタンにも出来ないのです。
 神の心は悪の心を寄せ付けず、悪の心には伝わらない。
 神を偽る悪魔も神の波動を持つことは出来ない。
 邪心からは邪念の波動しか生まれない。
 善なる心には神の想念が、悪なる心には悪魔の想念が伝わり、思いを強めます。

 神の御心は人間には理解出来ないと言えば、
謙虚な思いの表れとでも思い違いをされているようですが、
そのような考えは神には通用しないものです。
 神を愛する者は、神の御心を愛する者であり、
御心が理解されるのは、内なる神の心だけがそれと知る真の神の愛を感受するからです。
 理解出来ないのは、"謙虚な心"の所為ではなく、"神の心"を見失っている所為です。

注。
 邪念からの波動は変えようがありませんから、
それを感じ取らせない為に悪霊は物理的に温かい波動を人に当てて、
善霊であると人を勘違いさせて、善霊に成り済まして人に近付くということがありました。
 善なる思いから出る波動は人の善なる心に働き掛ける、悪霊には真似出来ぬものですが、
善霊が自らを人に証す目的でも、現象(温かい波動も現象の一つ)を用いてはならないと
天上界は定めました。
 ですからそのような区別の出来ぬ者にとって、単に暖かいだけの波動
善なる心から伝えられる繊細な波動と違い、誰にでも強く感じさせるもの
(故に悪霊の荒々しい波動も気付かれない)を、善なる波動と勘違いすることから、
又、天に信じられている確証を得ねば不安で仕方がない、
天の愛を信じる心の育っていない者は、
高次元の聖霊の働きかけ(訪れ)を期待する心を見抜かれて、
聖霊を偽る悪霊に付け入れられてしまうことから、
暖かい波動という現象を以て近付く霊はすべて悪霊であると、
誰もが正しく判断出来るようにとの天のお計らいでした。
 それを伺っていながら、甘言によって近付く悪霊を見抜けず、
唆され天に背反する者が絶えませんでした。

 善なる心から自然に伝わり、私達に理解される思いは、
善人も善霊も変る所のない優しい、人を思い遣る神の心です。
 このような愛は悪霊にとって耐え難いものですから、
私達を善なる優しい思いに変える波動を送られる方達は、
善霊以外にあり得ないことが解るのです。注終)
(第四部、第三章 神の思いの伝わらない心)

"この世に神の国を"
(編者)
 神の愛されるものへの、神を愛するものへの憎悪に、
美しい心を持つことの出来ぬ妬み心に、
神から、美しい心から愛されなかったことへの復讐心に、
自らの心を焼き尽くそうとも、自らをも滅し去ろうとも、
その憎しみの念を押し留める如何なる心も持たぬ悪霊

から安全であると、目に見えぬ悪霊など恐れぬに足りぬと、
悪霊の誘惑など屈しないと、人は己が力を過信するのでしょうか。
 悪に一歩も引くことのない善霊に神の精神を見出すことも出来ぬ
盲目に生きていることすら悟れぬ人間であるのに。

 神の心を見出さねば、天上界と共に善我を貫く者とならなければ、
人類は悪魔の前に屈する、あらゆる善なる心を失うことになるのだと
天上界は伝えているのです。
(中略)
 悪に勝るから善が存在し得るのです。
 悪が始まりなのです。
 何故なら、人間が動物から進化した際、自分の生存の為にのみ生きようとする心にあっても、
生命の意志である本能により自然の法に従い、自然の調和の内に生かされてきた心が、
自らの生きる知恵を得て、自然の法に従う本能から解き放たれた時、悪が生まれました。

 自己保存の本能(に従う自我意識)は、すべてを生かそうとする自然の法から、
自分を優先する自己愛に従うものへと変わりました。
 盲目の内に自然の法に従っていた自己保存の本能(に従う自我意識)は、
何よりも本能の欲求を欲望に従うことで満たされることを知ったからです。
 自己愛から自己肯定(自己の優位の為なら善も調和も顧みない)という偽我が生まれました。

 自己愛から自然の法を犯す己をも許す悪が生まれました。

 自然の法を犯した為、動物(人間の生きるに必要を超えて殺されました)が犠牲になりました。
 犠牲は動物に留まらず、同じ種である人類をも手を掛けていきました。
 自然の法は、悪(法を顧みぬ偽我)を抑えられず、
善(神の愛に生きる善我)だけが悪に立ち向かう、
滅ぼすまで悪と戦い続ける善無くば、自然の法によって齎された調和に、
人類は与ることが出来ないのです。
 何故なら、善(自然の存続する状態)にあって、初めて調和が齎されるからです。

 悪(共産主義)によって齎された闘争に生きる偽我は調和を求めません。
 支配を求めるからです。

 神の国を、神の善を受け入れることで、人の心から悪の芽を摘むのです。
 自然の法を蘇らせる神の法が、人の心に調和を齎すのです。 
 自己保存の本能は必要です。
 その本能が自己愛に留まらず、神の愛へと昇華させることで調和を得るでしょう。
 その指針が神の法である正法です。

 動物は悪を意識出来ないので善も意識されません。
 他を食する、他も自分を食べようとする、
それは必然(自然の法に従うということ)であるからです。
 だから生かされている間を懸命に生きることが彼等の意志なのです。
 人間のように神の法も知らず自らの判断基準で他を裁き、己を許す自由など知らないのです。

"創造神は存在しないということ"
 悪が始まりであった。
 法に背き、人(自分)に危害を加える人間の心が生まれたから、
大切なものを守ろうとする愛の現れる善なる心が、悪に負けぬ善が意識されたのです。
 故に悪を知らぬ善なる者など、
悪を知らず、悪を創造することなく(悪を創造したとすれば悪魔です)
善のみを創造し得た神など存在し得ないのであり、
自己保存に生きる動物にもなかった悪が、
自然の法を見失い、肉体の求めが満たされても、心の渇き続ける、求め続ける、
満たされることの知らぬ心(自らの心を制御する理性を育てることを知らぬ)人類が誕生した時、
初めて悪(自らが生きるに必要を超えて他を貪る、他の幸福を踏み躙る)が現れたのです。
 法に従う、知恵に生きる意志の理解出来ぬ、
破壊衝動に生きるを喜びとする偽我(悪霊の心)を知って、善(に生きる心)が現れたのです。
 悪の存在しなかった、自己保存の本能を持つ人類の存在しなかった、
宇宙の存在しなかった時から、善を知る創造神など、
真の神を理解出来ぬ蒙昧な人間の頭脳にしか存在し得ぬものです。

 動物にない人間の獲得した知性とは、
全て生まれてからの経験、学習を通して初めて精神(の働きを齎す大脳)が開発されるのであり、
それなくして判断力も、その基準となる善悪の知識も持ち得ない、
動物社会で育てば肉体上は人間であっても開発された頭脳は動物社会で学習したもの、
即ち動物の心(条件反射)しか持つことが出来ないのですから、
環境に適応しようとするのは全ての生物の持つ本能の力であり、
人間社会という環境に生きることに於てしか善悪の判断力にあっての善の選択
(自然、即ち全ての生き物の調和に於てしか人間社会の存続は出来ぬこと)も為し得ず、
また善に生きることに於てしか善なる心(神の心、真の神を知る心)を自らに現れないのです。
 その人間の内なる神の心に於てしか、神は認識されないのなら、
真の神も人間と同じ心でなければ、人間との心の接点を持ち得ないのではありませんか。
 経験することなく完全な善なる心を持った創造神など、
知恵の開発途上であった人類の想像の産物に過ぎません。
(人間に霊体が見えないように、人間として生きた霊体は人間の属性しか持たない為に、
霊体は霊体が見えない、肉体を持った人間しか見えないことが知らされましたが、
人間の霊体である神には人間が見えても、人間には神は見えないのが当然なのであると、
故に神は善なる心からしか生まれぬ善なる波動の力(それは熱意に他ならぬもの)
によって人の心に働きかける、
人の善なる心を目覚めさせるのは、神の愛(熱意)しかないのであり、
真に神の心に目覚めた者はそれが神によって為された業であることが直観されたのです。
 そのことを伝えた彼等は真の神であると直観されるのです。)
(第四部、第四章 この世に神の国を)

"おわりに"
(編者)
 神々が今この時代の人々を救う為に、
人がその魂に、神と同じように悪に対する強い精神と、
悪を見抜く知恵を持たねばならないことを、
そして、人間の魂にはそれが可能であることを知らせる為に、
彼等が私達と同じ人間として生まれてから、数億年という長きに亘る魂の研磨と、
破滅へと導く悪魔から人類を守り、天へと導き続けての、
現天上界の神と呼ばれる存在に至ったということを、
そして彼等の教える正法(ブッタ様の、イエス様の教えを更に深めたものです)
に従うことで人類が彼等と同じ神の心(善我)を掴むことが可能であることを
伝えようとされたのです。

 何故ならば、天上界の神々は、創造神の子として永遠に神の庇護の下に生きようとする人類の
認識を改めざるを得ない真実を知らせる為でした。
 神の人類への思いは、人類が天の思いを理解し、
信義で以て天へと繋がることの出来る精神へと成長すること。
 その為に父として我が子を成人した精神へと導こうとされました。
 その為に彼等の知る、彼等が命に代えても守ろうとした真理である正法を伝えるのです。
 それを受け入れる魂しか、天国を、善なる魂の喜びであり、希望である世界を守れないからです。
 この世に天国を齎すことが出来る魂とはならないからです。

 その正法とは、彼等天の聖霊が、数億年に亘りこの地球の自然の営み、
生物が生き抜く為に進化してきた、そして人類が誕生する姿を、
彼等進化し終えた異星人(の霊)にとって、
初めて目の当りにする自然のダイナミズムの表れの中に見出されたものです。
 その間の生き物が生き続ける、種が保たれている法則と、
その法則に従う生き物の知恵から見出された真理、自然の中に生きる調和と中庸と愛こそが、
永遠の存続を支えるもの(真理)であることを伝えねばならない。

 人の短い一生では理解されず、
また人類を滅ぼさんとする邪悪な存在により、
欲望に生きる喜びの内に破滅へと導かれた者達に、
神の願いを妨げられてきたからです。

 真に人々の魂を救いへと導く指針こそが正法です。
 そのような教えを、古代の人々に、
自然現象が、宇宙の誕生が神の業と考える、自然科学を何も知らぬ人々に、
理解出来る精神は育っておらず、彼等(の幼い精神)には
絶対神と信じられる方の保護が必要でした。
二千年に亘って、精神の成長を齎し得なかったキリスト教会は、
信者を支配する為に神への依存心を信仰と呼び、精神の成長を阻んできたのです。

 すべての生き物を救う、地球をサタンの破壊から救おうとされる神の御意志に、
神を愛するあらゆる宗教の信者が互いに唯一の神に導かれた者同士である自覚を持って、
今語り掛ける生ける神の教えに聞き従うよう、
神の真理へと導かれた宗祖達が一つになって救おうとされているのです。

 私達は、天上界の伝えようとされた意味を、理由を、
そしてその思いを理解するに充分な知識を与えられました。
 彼等と同じ心となって自ら神の愛を持つ心に変える為には、
その知識を指標にして生きられるか、心が目覚めるか否かに懸っています。
 天の道に生きることを喜びとする心に変え得ないならば、
その心に真の自由を見出せないならば、
光に背を向けさせる偽我を、天を裏切るとも知れないような心を許しているのです。
 現実に天に踵を返した者達の存在したことを知らされたのですから、
偽我を軽く見ているならそれが偽我なのです。

 善我の光が心のすべてを照らす(常に良心に意識を向けていられる)時、
偽我から安全でいられる善我に立っていると言えるでしょう。
 神の心(善我)という真実は、天上から齎された光であり、恵みであり、
人は光の中を歩むべき存在であることを証するものです。

 天国とは神の心を持った人々の生きる世界です。
 神々がこの世に神の国を作れと言われ続けたのは、
天の法が真理(魂に永遠の自由、解放を与える唯一の道)に基づいたものであり、
あらゆる生き物の種を存続させる調和を齎すものに他ならないからです。

 この世に生きれば、悪に苦しめられれば、怒りに苦しみに自分を見失うこともあるでしょう。
 優しい思いが踏みにじられれば、何故愛に生きるべきなのか解らなくなるかも知れません。
 満たされた人にしか、余裕が、優しさが持てないのだと思うかも知れません。
 しかし裕福な中で、求めずとも得ている、優しさが、愛が、本物なのでしょうか。
 本物の愛が、人を安穏とさせて、満足するものでしょうか。

 裕福に生きる幸せを失うかも知れぬ時に、
理性を見出していた心の余裕を失うことなく、
人の思いを顧みる心を変わらず持ち続けていられるでしょうか。
(自らの生きる環境が平和でありさえすれば、優しい心でいられる、
それが目的で、自分の平安を脅かす争いの世界から、救いを求める人々から目を逸らす、
そのような心に愛が宿るとは思わないでしょう。
 本当の優しさは、人よりも自分を優位に置こうとする、
人よりも優位にあると優越感に生きる心からは決して生まれるものではありません。

(中略)
 私達は人を憎んで、人に腹を立てて、
それでよいと思えないから苦しんでいるのではないでしょうか。
 善が悪に負けてはならないように、
善を愛する心が、憎しみから愛を見失うようではいけないのです。

 イエス様が仰しゃった、本当に苦しい時に私達の言葉を、
思いを忘れずにいることが出来る心とは、そのような道を神が導いていると、
天の霊が傍らにあって善なる意志を、神の愛を伝えてきたと確信されるのは、
苦難としか思えなかった、光を見出せないでいた自身の心から、
闇の中を光へと導かれていると信じる心に、
悪を悪と認めて立ち向かう善なる心に目覚める以外にないのです。
 この世に正しい道を歩く者の苦しまない者はいないのだと天上界は仰しゃいます。
 彼等は常にそのような者と共にあって、人々の希望となり、救いであり続けたからです。

天は何時も心正しき人の味方であり、
義に飢え渇き、世の不義に泣く人が私達の袂で泣くからです。
 その為に私達があるのではありませんか。
 世の不義に怒り、この場に集って来たのではありませんか。
」(ミカエル様
 真の愛を必要とする者は、皆神の袂に行くのです。
 彼等を苦しみから喜びに変える真の愛を与え得る者は神だけである()からです。
 苦難に負け、神に背を向けて、何を求めるのでしょう。
 神を捨てた心に満たし得る何があると言うのでしょう。

 人々の前に初めてその姿を現し、語り掛けられた存在を神と知る心へと、
天に導かれてきた者が、その愛に立ち返ることがない、
神と知って尚、神に生きる心の目覚めぬ者は、二度と目覚めることはないでしょう。
 天と共にこの世を救おうとの愛に生きる人々を、天は今呼び集めている、
それが神の私達への思いであることを、
受け止めようとしない者が自ら神の救いから零れていくからです。
 真に神を見出そうとする者を愛する彼等は、そのような者に手を差し伸べる、
共に人類を救わんと神の心に生きる人々だけが神の御心を知ろうと、
神の心に近付こうと、神の導く天への道に生きんと
その為に自らを律する、切磋琢磨することを厭わぬからです。

注。
苦悩の中にもあなたは、しばしば、大変強い内面的な慰めを味わい、
その為この苦悩の時さえもが、のちには幸せな時として
あなたの記憶に残ることになろう。
」(「希望と幸福(ヒルティの言葉)」120頁)

不幸の中に於ても、私達の存在を感じる時、
私達天上界の霊が共に歩み、恵みの光を注いでいることを、
見出して頂きたいのです。
」(「天国の扉」136頁 パヌエル様

誰の心の中にも天上界と私達が存在するように、
私達の中にも、あなた方一人一人が存在しているのです。
 あなた方は、敵の迫害に遭い、言葉のつぶてを投げられようとも、私達が傍らにいます。
 あなた方は決して一人ではないのです。覚えて置いて下さい。

(「現象テープ№27」 ガブリエル様

 神の思いに、喜びに満たされたことも苦しみの内に忘れ去るようでは、
愛を、正義を行う者に必ず立ちはだかる苦難を知ることのなかった者なのでしょう。
 人を絶望に陥れる悪意をも顧みぬ世の冷酷にあって、
神への愛を見失わぬように、
神の袂に導いてこられた神の思いを信じて生きる幸せを忘れぬように、
苦しみから神は救ってくれなかったと神の救おうとする思いすらも信じられなくなるような、
愛をも捨て去る冷酷な心を許すことなきように、
苦難に屈しない為には、自らがその心を持つしかないのであり、
その心へと導ける者は、その道を歩んだ者しかいないのだから、
厳しい道であるからこそ神が導かれていることを忘れることなきように、
艱難、苦難がやって来て、その時に私達の言葉を忘れるようでは何にもならないのですと
私達に語りかけられたイエス様の思いを心に留めて下さいますように。注終)

「慈悲と愛」80年12月号初出 ガブリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」125頁

「抜き差しならぬ立場に立たされても、自らを守る為の、自己保存の嘘で言い逃れを計る
(自分を騙す、良心の声に耳を塞ぐ)のは止めましょう。
 それを始めるや否や、あなた方は天から後じさり(後退)を始め、
遂には背反の曲がり角へと追い詰められて行くのです。
 すべての反逆者、消滅宣告者もこの道を辿りました。
 よく心して毎日を過ごして下さい。」

 心に余裕のある(、与えることの、神の愛を為すことの出来る己を誇る)、
そのような者が愛を施すことは容易いとイエス様は仰しゃいました。
 そのような愛は金銭と同じである。
 与えるという愛を為したという自己満足を、代償として得ている、
この世の価値(金銭)に生きる心と同じなのだと言われました。

(胎児の時から守護される為に天から降りてこられた善霊は、
悪霊の憑依から私達を守る為に戦われて亡くなられた方もおります
(その度に新しい方が守護に来られました)。
 彼等は私達に何を伝えようとされてきたのでしょうか。
 私達が善なる心を、神を信じる心を持てたのは、彼等のお陰であるといったことでしょうか。
 皆様が人に親切にされた時、人からの感謝を求めてのことでしょうか。
 そのような心ではないでしょう。
 私達に伝えた善霊の心もそのように感謝されたいといった思いからではありません。
 善なる心に生きる者は、そのような心を見出せずにいる人が、
神の心を知り、神を信じて救われることをこそ願っているからです。
 イエス様の伝えようとされた、報酬を求めないのが神の愛であると言われたことも
そういった思いからではないでしょうか。)

 自己愛に満たされた心が、余裕から愛に見える行為をなしたからといって、
自己満足している心に真の愛はありません。
 何故なら、自分が苦境に立たされた時(自己保身から他を裏切る)、
中庸を逸脱した報酬や高い地位や人々の賞賛を得るチャンスが訪れた時、
善我を、良心を裏切る偽我を、人は気付かず(気付こうとせず)に隠し持っているからです。
 心に余裕がある、幸福に感じている時、
偽我を持った者も、自分さえ良ければいいといった偽我が
首を擡(もた)げることはありません。
 善人のつもりで、人から善人と言われるように
(それが自己愛を満たすという自分中心の心の陰性の現れであり、偽我に変わりはありません)
人は生きようとするからです。

(自らを繕うことの出来る自我の維持が困難な状況に追い込まれた者、
偽善に生きる余裕の失われた者、
偽我をそれと認め、偽我に打ち克つ善我を求めようとする心を培うことのなかった者は、
自らの偽善(真の自分を知ろうとせず、偽りの自分(偽我)を盲信する)を見抜けず、
神を偽って人を騙す悪魔の偽善を見抜けず、
魂の自由を齎す真理に(生きる神の御霊を感じる魂として)生きることなく、
悪魔の悪知恵に、己が知恵(己を知る心)のすべてを奪われていったのです。)

 平穏な時の、偽我に生きていない者だからといって、
その人を信用するに足るものと、天上界が見做されることはありません。
(そのような者達が、自らの神の心を捨て、天を裏切り、自己保存の偽我の塊と化したのです。)
(自己保存という)偽我が首を擡げてくるような艱難、苦難に遭って、
自らの内に偽我のあることを知って、偽我に打ち克つ善我を貫いた者を
天は仲間と迎えることを繰り返し伝えられてきました。

 艱難、苦難の前に、神を愛する心を失い、すべての真理に盲目になり、
己の命だけに執着する、そのような心は堕落の坂道を押し留める善我を失うのです。
 善我を、信念を失った人間の弱さ、脆さを痛感したなら、
偽我に勝る善我を、神々が伝えたその神の心を得るために、神の備えた道を進むように、
苦しいからこそ、正しい道を見失うまいと、人は神を求めるのだから、
神に生きんとする者に、必ず天上界の者が付いているという言葉が実感されるのは
神の道においてだけなのだから。

「現代訳 論語(泰伯第八の七)」下村湖人訳
 曾(曾子:ラファエル様本体)先生が言われた。ー
「道を行おうとする者は大器で強靭な意志の持ち主でなければならない。
 任務が重大でしかも前途遼遠だからだ。
 仁を以て自分の任務とする、何と重いではないか。
 死に至るまでその任務は続く、何と遠いではないか

「天国の証(78年8月初版)」 "天使の詩集"
 ラファエル様「追想」全文

時は満ち 大いなる霊は総て立ち、人の子もそれに従え。
イエス・キリストの預言せし神の国の到来は間近く、
釈迦の説きし仏国土ユートピアの建設も近し。
エルデンの園の復活は約束されたり。

古代フェニキア人は黄金を夢見て帆を張り、
ギリシャの国の、果てなくどこまでも青き空と海は、
あのエーゲの輝きをそのまま伝えん。
唐の都はいまも目の前に浮かび、
      東西文化でわきかえる様が、
李白を、胡弓弾く胡姫を思い出(いだ)させる。
かつて自由と若さで彷彿としたアメリカは、
ピューリタンに始まるバイタリティと、
明日を夢見るフロンティア精神で、
      歴史のページを開きたり。
フランス革命は平等意識に火を点し、
人間の尊厳を認め、ナポレオンは馬上で指揮を執る。
明治維新の雄達を覚えているか。 
あのパワフルな動乱の人間像を、数々の悲劇を。
血の滲む過去の、悲劇に綾取られし栄光の偉業を。
その精神を忘るるな。
求められて来しはいつも、
      そなたらの幸せであり、自由なりしを。
かくの如く若き人々よ。
先達のごとく自由であれ、
      そは放縦を求めるものではなく、
柔和であれ、そは弱さの結果ではなく、
賢明であれ、しかも心は貧しく保つべし。
求める心は与える心ともなり、
愛する心はそのまま愛される心とならん。

若枝よ伸びよ、天まで届け。
手を伸ばせば星々に触れ、
      太陽を手中にすることも可能ならん。
立ち止らずそのまま頭を真直(ますぐ)に上げ、
希望に胸膨らませ、一歩一歩踏締めて行け。

道は限りなく宇宙にまで伸び、地平にまで伸び、
地なる母のもとに、
      天なる父のもとに、繋がりてあらん。
(おわりに)

天上界からのメッセージ - 神から授けられた正法