第三部 神から授けられた正法
第四章 神の法
一節 神の法
「JI」82年12月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」160頁
「正法とは天の美しさを伝える以上に徳の厳しさによって導かれねばならぬ神の法であること。
神の法であるが故に、そこには微塵も軽々しく、且つ俗的で、
視野の狭い考えが存在してはならぬこと。
天が未来を語る時、それは常に永遠に連なる善と正義の予見が存在していること ー
それらをまず心に深く留めて、自らの洞察を養い、過ちを防ぐ努力をして頂きたいと思います。」
「慈悲と愛」79年12月号初出 ラファエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」79頁
「常に真の物と偽の物とを見分けるべく心を落ち着けて深く考え、
天の法は何れであるか、何れに於ける天の証が真の物であるか、
ブッタ様の法、イエス様の法の真髄が統合された正しい流れは、何れに於いて説かれ、
且つそれよりも新しく、精神を豊かにする価値を持つ法が説かれ(ねばならなかった。
そのことも解って貰えない為に、ラファエル様がこのように語り掛けられました。)ているか、
文明の持てるすべての知識と先人の智恵を照し合わせて判断すべく、心に問うて確信を得て下さい。
生半可な知識では判り得ぬものです。あなた方正法者の中の智者に問うて学んで下さい。」
神の与えられる法とは、神自らが従われている法です。
神ご自身が従うべきものとされてきたものです。
(神は御自分に従えと仰しゃっているのではない、
すべての生き物を生かしめている法に、自らを救う為に従うように、
強制ではなく、人自ら神の心に目覚める、真の愛、万物への愛に目覚めるように
導いてこられたのです。)
神の法を差し置いて、従うべき如何なる法がありましょう。
宗教ならば内容如何を問わず、信じる自由を保障するという法(※1)は、
神からのものではありません。
偽りの神を信じる自由を保障することは、神への背信行為です。
真か偽か判断出来ない為に宗教を平等に扱うならば、
すべての宗教を法人と認めてはなりません、邪教を法で守ってはならないのです。
悪に利用されるだけです。
盲いて滅びようとしている人類が目覚めて救いの道を見出すことを神は願われているのです。
信仰の自由は守らねばならぬからと、
盲いた者に悪魔と同列に扱われて神が喜ばれるとでも思っているのでしょうか。
宗教は、宗教に従事する者は特別だから、
特別扱いされることを当然と考えているのでしょうか。
彼等は本当に神を敬っているのか(※2)。
本当の神を敬っているのか。
真の神は、高慢を戒められたのではなかったのか。
神を敬う心を失ったら、もう宗教家でも何でもありません。
常に神を敬う心に生きる、天の光の下にあろうと望むならば、
神の光を、慈悲を求める心ならば、
神を戴くべき高みに己を置くことが出来る筈はないのです。
特別扱いに甘んじることから、堕落が始まるのです。
己を特別と思うことが既に堕落しているのです。
(注。高慢な心のことを己を神としているといった表現で形容したりしますが、
それは自らは正しいことを何もしようとしないのに、
全能の神の如くに自惚れているといった程度の者のことを言っているのではありません。
神の明らかにされた御意志、それは人類自らそれを望む心と見出さねばならぬものである、
天はそのような心へと導くことしか、人類にその思いを伝えることしか出来ないが、
それを知った人類が神の御意志を自らの意志と生きることが出来たことを伝えたのであり、
その御意志の中にこそ人類は救いを見出し、
自らを救わねばならないことを明らかにされたのです。
その神の御意志に従うことよりも、神と共に生きる唯一の心に生きることよりも、
神を顧みることを知ることなき、真に己を生かしてきたものを知ることなき心に巣食う偽我、
エゴイズムを、ナルシシズムを満たすを以て生きる糧とする。
真の神の御意志を受け止める器なき、神の徳の治められる大海を知らぬ、
蛙の如き小さな心にありながら、その世界は宇宙である、
宇宙を満たす意識ならば神と考えるに相応しいのかも知れない。
神の高みにある彼の心を誰が知り得ようか。
知るに値しないものを、知り得ないと人の無知を嗤う、
神の如くに自惚れる盲いた心でなければ、
その狭い世界から脱することの出来ぬ自我が己であると知る絶望から
逃れられる者はいないであろう。
己を知ることも、人に理解される、愛されることもない心。
誰一人その心に繋がることを望まぬ心、その者にとってのみ神である心、
存在しないに等しい心です。)2026.7
【庶民が救われると、自分も神の子になれると信じることが出来る為には、
彼等を導く宗教家が人として生きる上での苦しみに耐え、克服した者、自分が救われたように、
庶民の救われる為の手助けをしたいとの熱意を持った者でなければならないのは当然でしょう。
そのような者が初めて宗教家になり得るのです。
自らを庶民に秀でる者と見做しているような者を天は必要とされません。
人が神の子になるとは、
そのような神の心を誰もが持っている、
その心に立ち返ることで神の子となるのです。
人が神の子になるとは、
真の神を神であると知る心に目覚めることです。
宗教家は大切な神の子を預けられた者です。
神にその信頼を受ける、それ以上に誉とすべきことがあるでしょうか。
神の信頼を得て、神の愛に満たされた心が、
神の愛以外に何も望むものはないことを知る貧しき心(謙虚な心)にある者が、
自らを高しとする(自らを特別な者と自惚れる)心を抱くことなどあり得ないのです。】
そんなことも解らなくなってしまった、善我を見失ってしまった者が、
堕落の道にある者をどうやって正道に導くことが出来るというのでしょう。
盲目(めしい)が盲目を導くとはこのことです。
彼等が宗教家を名乗るなど、以ての外です。
信仰の自由とは、唯一の天へと導く道へ、何処から入るか
(真の神の与えられたどの宗教から入るか) の自由であって、
信じることが赦される(認められる)神は唯一の方です。
(天の国に、神と共に、生きるに相応しい心を世に明らかにする、
世に働きかける者が天への道を歩む者です。
宗教はその入口に過ぎません。正しい道に足を踏み入れたに過ぎないのです。
知識を得ただけで心を磨くことのない者は、
教団という組織に居ることは出来ても天国に入ることは出来ません。
天国に相応しい心を持つ者が、磨かれた魂のみが天国に入るのです。
宗教の導きによって神を、真理を信じた時、天への道に踏み出したのです。
善なる心(で世に働きかける)を貫いた魂のみが天国に迎えられるのです。
如何にして善なる心を見出すか、善なる心を貫くか、
正法を通して明らかにされました。
天国に招く神々の思いが初めて証されたのです。)
法は罪を罰する為にあるのに、天の法はこの世に属さないからと、
法の守護者(神)に背く行為を許容する法であってはならないのです。
人間の良心は神から来ているのです。
神の与えられた良心に逆らい、己が良心の痛むことがない、
そのようなことを許してはならないのです。
この世の人々が神と悪魔のどちらに従っているのか見分けが付かないからと、
神も悪魔も信じるのは自由であるという者が神の裁きから自由である訳がないのです。
天国の法を成り立たせているのは、どこまでも善です。
そして善を愛する者しか天国は受け入れません。
神から与えられた善の上にこの世の法を築こうと為されてきましたが、
この世の物差しで神の御心を測る偽善が悪の心を生かすものとなっています。
神の法は、良心を生かしめるもの、良心に目覚めさせるものです。
この世の法を、神の法・正法に従うものにしなければなりません。
それがこの世に神の国を築くことに他ならないのです。
神の法に背かせる、神の思いに背く心へと導く邪法の存在を見抜けぬなら、
神の法(真理)にのみ従う理性が育っていないのであり、
エゴイズムに基づいた邪念の解放を齎す(悪魔の息のかかった)法に飼い慣らされてきたのです。
真に人を生かす真理に基づく神の法に従うものに、
この世の法を変えて行かねばならないのです。
神の法を守るとは、守るべき法へ、
善の意志を妨げる如何なる邪念も許さないものへと在らしめねばならないのです。
守るとは、今あるものだけではない、あるべきものを妨げている悪を取り除き、
善なる心に生きる、善なる思いに繋ぎ止める、あらゆる良き観念を守ることでもあるのです。
(※1注。
如何なる宗教や思想でも信じることを許すのが真の自由なのではありません。
それは真の自由に生きんとする善なる心を失わせるものです。
「JI」84年4月号初出 ミカエル大王様メッセージより
&「天上界メッセージ集」184頁
「理性を働かせて、科学的に冷静な目で事象に対処することが文明人の智恵であり、
迷信や盲信、はたまた狂信的な人格とは異なるあり方であると、私達は幾度お教えしたことか。
しかし理性と科学的な判断力を培えない現代の日本の教育法では、
そこで育った若い正法者も、共産主義者や年長の宗教的人格と同じく、
迷妄の域を出ない人が多いのは止むを得ないかも知れません。
すべては左翼である日教組の為した破壊現象であるとしても、日教組を排除する智恵なき親と、
老獪(ろうかい)なマスコミの洗脳活動の狭間(はざま)にあって、
自由な国に住みつつも、子供達や若者は既に社会主義の犠牲になってしまったのでしょう。
民主主義という虚名の下に、弊害のみと知りつつ、
誤った思想の教育団体や政治・宗教・文化団体を擁護しなければならぬ民主政治の仕組みは、
自由競争と人格の錬磨の場を与えてはくれてもその利点に関しては
時に疑いの念が湧くのを防ぐべくもなく、最近は焦慮することしばしばです。
(注。国を良くする、国民を助ける為にある国会の場を、
自己顕示欲、支配欲、その偽我の需にを満たさんとする、れいわの女性議員のような
他を貶めることに喜びを覚えるような精神の歪んだ者を人の上に、
それも国会議員と認めるような社会は、これまでの日本の歴史の上でも起き得ない、
(共産主義が日本に浸透したが故に起きた)日本国民の文化(に生きる心)
が破壊された証拠でしょう。
欲望を権利とすり替えて左翼(日教組)はエゴイズムが正しい心であるかのように
教え導いてきた成果でしょう。
このような人間を持ち上げる左傾マスコミも腹立たしい限りですが、
何千年と亙って引き継がれてきた本来の日本人の心を地に擲ち、
踏み躙る者を見て怒りを覚えるなら、
真の心、神に導かれてきた心に立ち返らねばならないのです。
真の保守派の人々は、このような世を齎した保守派の堕落を許した自らの(人間の)弱さから
立ち上がるしかないではありませんか。
自らの邪悪に勝てない者が世を救えるとは思われないでしょう? 注終)」
政治家を選ぶことが出来るのは選挙権を持つ者だけです。
その資格を持つ者は国民であるが故に、
政治家にとって国民は神様(この世的な表現に於いてですが)ということになります。
しかし政治家は国民でなければその資格が与えられないのですから、
神様の立場である国民から自ら国民の僕である政治家になろうというのであれば、
真に自己犠牲的な精神の持主でなければ出来ないように思うのですが
(最も能力のある者として選ばれるスポーツ界の(国民の)代表のように、
選挙で選ばれるということも、誰よりも優秀であると国民に認められたという意味の代表だと
当選された代表の皆さんは思われているのでしょうか?)、
その能力が認められた者が大臣などになっているのでもないようです。
各派閥から派閥の力関係に相応しい大臣の椅子が振り分けられていたとしても、
相応しい能力を持つことが前提条件とされるのは言うまでもないことと思うのですが、
それも人を見る目のある者が組織の長に選ばれる、
真の民主主義が貫かれてこそ為し得るのでしょう。
どのような立場に於てもその役目を自覚して為そうとする者でなければ、
如何なる世界にあっても(その能力は)認めれることはなく、
政治家も選挙で思い知ることになればまだ救いはあるのでしょうが、
日本国民が自ら勝ち取ったものが民主主義の精神という訳ではないので
(左翼などは民主主義と言っても中身は全くの共産主義でしょう)、
到底民主主義者とは思われないような者も選ばれるのが
現代の(発展途上の?)民主主義と呼ばれるもののようです。※1注終)
(※2注。
"神を敬う心について"
〖神を敬う心は、神の救いの業を知る。
神の業は、人(の心)を救わんとする心の表れであるを知る。
人の心の内に現れる神の心をそれであると知るは、己を低くする心だけである、
そのような心にしか神は現れぬからである。
神を見出した者は天をこのように伝えられた。
人は神と繫る時(人は神の救いを、神の導きを信じる)、
人と神の愛を以て繫り(神の救いを互いに信じる、神を信じる心から繫る)、
人に神を見出す時(神の愛は人の神の心に生きるものだからである)、
天と繫がる(神の御意志に生きる天の聖霊を一つになる)〗
神の思いの伝わった者の、その心に生きる喜びが語らせた言葉であることに気付かぬなら、
何の意味もないものです。
神の心を見出すことこそ伝えるべきであるのに、
天国に行くということが生きる目的であると信者の思いを向ける、
自己愛からの欲望に生きる執着心からの解放へと神は導いているのに、
宗教(教団)は信者を執着心に留めようとしている
(その熱意に宗教団体の存続が掛かっているからです)のです。
信者から魂の救いを、神の心(を見出す)を奪うことがサタンの目的なのであり、
その心に支配されたのが宗教団体(の支配者)であることを悟らねばならない、
自らの悟りだけが、天への道をそうであると知る己が神の心の開かれた目だけが、
己を救うからです。
宗教(組織)を通すことなく、神自ら私達に直接、真理を救いを伝えられているのですから。
現象テープ№12 ②「善我の目覚めから自我の目覚めへ」
78年10月1日 ブッタ様現象より
「曾てラファエル大天使が、ある方に申されましたが、
『良いことをして美しい天国に迎えられようとする心が、それ自体執着を作る元にもなる』
というものです。
この言葉は本当に私達が声を大きくしてあなた方に言いたいことでもあるのです。」
真に立派な人は、良きものを求める心へと人を立ち返らせる、人自らの卑小さを認めても、
それ以上に良きものを求める心がその中に在ることを人に知らしめるものです。
真なるものを得られる世界に生きながら、偽りに心惹かれてきた者が、
自分よりも(この世的な意味で)恵まれなかった、与えられなかった、
失うことがあっても、この世(に満たされた者)に蔑まれようと妬む心を持たず、
神の正義を信じる心に生きる、そのような心を人に見出す時、
人を敬うという心を知るのではないでしょうか。
創造神を、全能の神を(理解する知恵を自分達は与えられたのであり、
創造神を理解しない者は神に与ることなき者であると)信じる信者には、
自らを人間の霊であると証し、
神に仕えてこられた(大)天使として私達の前に現れた現天上界の聖霊は、
次元の低い霊である、自分達の(全能の)神はもっと上だと宣った信者がいたそうですが、
俗世間の目には見えない所に真が在るのであり、真に生きる心には虚栄がない故に、
俗世間の心に惹かれない、この世の認めるものを持たぬ故に軽んじられる者の心に
真(に尊敬されるもの)が隠されているように、
現天上界の(神と同じ心に生きる)聖霊(天使)は軽んじられた来ました。
しかし、神の心が如何なるものであるか、彼等の人類の思いが伝えられ、
その心が人間の心に理解された時、それまで理解されなかったのは、
人が全能の神でなければ信じない、そのような心に生きてきたからであると、
明らかに知るのではないでしょうか。
天上界の伝えられたメッセージから、その心を理解出来ぬ筈はない、
それが理解出来ぬなら、そして何ら語りかけぬ全能の神を信じ続けるのなら、
彼等が理解している神の心など所詮、彼等の心を超えるものではない、
己が神の心の目覚めを奪うものに過ぎないのです。
全能の神を敬うのは、自分(人類)を創ってくれたからとの思いなのでしょうか。
自分の親を敬うのは、自分を生んでくれたからと、それで誰もが敬うことが出来ておりますか?
生きることを通してあらゆる良き思いが注がれてきた、
愛によって愛を信じる心へと、敬う心へと育つことが出来た、
その心あって敬うべき心を知るのではないですか?
嘗て創造神の名で人類を導いてこられた彼等の思いがどのような思いであったか、
彼等が初めて人類の前に現れ語りかけた言葉から理解出来ないのでしょうか?
「現正法理論とは(岩間先生)」より 「エルフォイド」191頁
「絶対的創造神とは、古代の人々に主として多神教及び偶像崇拝を止めさせる目的で、
必要となり誇張された概念に過ぎない。」
創造神を愛する心を養うまで彼等に与えられてきた(と信じる)愛とは
どのようなものであったのでしょう。
彼等の知る神は、神の愛は、イエス様の伝えられた通りのものでしょう。
イエス様の伝えられた真理は永遠に不変であると天上界が証された通りです。
モーセ様、ブッタ様、イエス様、マモメット様を導き、
彼等を通して神の教え(宗教)を与えられたことを現代に証された(元)七大天使
(神の御意志を実現する為に、人類に働き掛けた、
人類を神に繋ぎ、サタンの妨害に屈せず神の御心を人類に正しく伝えられたのは、
彼等の心の琴線に触れることが出来た人々がいたからです)が今の時代に語りかけるのを、
自らの実存を、魂をかけて真か偽か判断する意志を放棄していられるのは何故なのか。
イエス様にブッタ様に語りかけた大天使を信じながら、
その預言者が己が知恵と真理への愛をかけ、その教えから真の導きであると、真理であると、
自らの魂をかけて神の救いを実現させた彼等を信じているのなら、
彼等と同じ心に生きようと思わないのは何故なのか。
救い主によって神は人類を救われたように、救い主の再臨によって神は私達を救われるのだ、
私達を救えなくて何が全能の神なのか、
神の厳しい導きによる魂の研磨によってしか自らを救うことは出来ないなどと言う彼等は、
真の神ではない、本物の七大天使はそのようなことは言わないと
(そのような思いとなって伝わるのが、人の心を神から遠ざけるものが
悪魔の甘言と言われるものなのです)、
彼等の心を神ではないと貶めているのです。そうではありませんか。
彼等は何の為に再びこの世に現れたのか、今まで人々に自らを証すことがなかった彼等が、
その出現の理由を明らかにすれば、必ず人類は彼等の思いが真であることを理解できると
信じられた、そして伝えられたのです。
それは、
一、 真の預言者(即ち神を神と判断出来る賢者)を通して、真理が、神の法が人類に齎されたが、
サタンに歪められても悟ることなく悪魔の心へと導く指針(共産、社会主義)を受け入れたという
事実を伝える為。
二、 天上界が伝えてきた真理から人類は神の救いとは何か、
どのようにして救いは齎すことが出来るか
(善霊は悪霊と戦い、人の善なる心と悪なる心に彼等は働きかける、
人がどちらの心に生きるか決するように彼等は働き掛け続けるという事実)、
その為に神は全てを明らかにされた。
三、 人類が神の法、救いの道を見出すには、自らが神の心を、知恵を持つ以外にない、
如何に神が導こうとも、神か悪魔か見抜く知恵なくば、そして神の善を愛する心なくば、
サタンの偽善を、甘言を見抜いて、破滅の道から自らを救うことは出来ないという事実。
そのためには、魂の研磨しかないのであり、神の心の糧、
神の心なくしては行い得ない徳を教えてこられたのです。
徳に生きることなく、神の言葉を語るは偽善、即ち人の心を神から奪うものであり、
天上界が最も忌み嫌う心(偽我)であることを伝えられたのです。
※2注終)
「慈悲と愛」79年4月号初出 ウリエル様メッセージより
&「天上界メッセージ集」40頁
「しかしあくまで私達天上界の見解は、
真に民主主義の原理を生かし得るものは自由主義思想の中に於てであり、
人身、内心、言論、表現、学問、等の自由を保障し、
人間が神の前に平等に有する権利は、国家に先立つもの(※3)であり、自由たるべきものとし、
如何にプロレタリアートが数に於てその権利が保障される社会が
真の民主主義政治形態であると(誤導)し、
国民の選出した機関であるソビエトへの権力集中をマルクス主義が唱えたとて、
その原理の優劣のみを盾に取り、しかるが故にソ連は世界を支配し、
その侵略的態度を正当化するものとはなり得ないことを改めて説かねばならないのです。」
「天の奇蹟・上巻(天上界への質問と解答)」ラファエル様解答より
「勿論この聖典(旧約・新約聖書)を伝えた民族が文化が低く、大部分が稚拙な表現や、
ヘブル人特有の民族性、習慣を通じて伝えられたものであろうとも、
私達天の与えた真理は永遠のもの(※3)であって、
私達がそれを否定する者では決してないことは、
イエス様が旧約の律法を否定される立場になかったと同様のものであると
理解して頂かねばなりません。」
(※3注。
「アンティゴネーの決意」江藤淳著 産経新聞平成九年五月五日掲載 「月に一度」120頁
「(前略)いうまでもなく『アンティゴネー』とは、
国禁に背いて戦死した兄の屍(しかばね)を手厚く葬り、
その廉(かど)によって石牢に生き埋めにされ、
自ら縊(くび)れて死んだテーバイの王女アンティゴネーの悲劇である。
オイディプース王の二人の息子のうち、弟のエテオクレースはテーバイの王になっていたが、
王位を弟に奪われた兄のポリュネイケースが、復讐のためにアルゴスの軍勢を糾合し、
テーバイの市門に押し寄せてくる。
凄惨な激戦の結果、兄弟は共に刺し違えて戦死する。
そのあとを継いでテーバイの王となったのは、二人の叔父に当たるクレオーンであった。
クレオーン王は直ちに勅令を発し、
テーバイの七つの門を守り抜いたエテオクレースは最高の礼を以て葬るが、
不義に与した反逆者ポリュネイケースの遺体は野ざらしにし、
烏や禿鷹のついばむままにせよと厳命した。
これに背いた者は、石打ちの刑に処するというのである。
ところでオイディプース王には、刺し違えて死んだ兄弟のほかに二人の王女がいた。
姉がイスメネー、妹がアンティゴネーである。
アンティゴネーは、王の厳命とはいえ戦死したのは自分の血を分けた兄弟である。
弟が義戦を戦ったからといって栄誉を以て葬られ、
兄が不義の戦いに与したという理由で野ざらしにされるのは納得できない。
「お姉様、お手をお貸しください。
ポリュネイケースの屍に礼を尽くして葬りましょう」と訴える。
王命には抗えないと、イスメネーがそれを拒むと、
アンティゴネーは、それならもう頼まない、自分一人で兄を葬り、
死罪になることも厭(いと)わないと、決意を告げる。
「生きている人の気に入られようとしても、時間はあまりにも短い。
でも死者を愛する者は、永劫の時間の中で愛するのです。私はそこに行きましょう。
お望みなら生きておいでなさい。生きて、最も神聖な神々の法に背きなさい」
やがて登場し、国禁の絶対を説くクレオーンに対して、アンティゴネーは昂然と言う。
「そんな禁令は神の思(おぼ)し召しではありません。
冥界の神々とともにある正義は、そんな法を認めていません。
あなたの勅令には、どこにも記されず、
変えられもしない神々の法を無効にする力などありません。
あなたは只の人間で、勅令は昨日今日のものですもの。
神々の法は永遠で、人間にはその起源すら確かめられないのです」
ここでアンティゴネーのいう「神々の法」「冥界の正義」とは、過去現在、宗教宗派、
勝者敗者の別や習俗の違いを超えた人間の死者を悼む心情にほかならない。
殊に「義戦」か否かに拘らず、戦死者は手厚く葬らねばならず、
いかなる国法といえどもこれを妨げることはできないというのである。
去る四月二日、最高裁判所大法廷が下した
いわゆる「愛媛県玉串訴訟」に対する違憲判決の報道に接したとき、
私がとっさに思い浮かべたのはここに紹介した『アンティゴネー』の一節であった。
先の大戦は連合国側の「義戦」であり、敗戦国日本の戦死者は、
そちら側から見れば不義の戦いに斃(たお)れたポリュネイケース同様に、
追悼に値しないというのかも知れない。
そして、「義戦」の勝者アメリカが書いて与えた
現行憲法第二十条が「政教分離」の原則を謳っている以上、
愛媛県が靖国神社春季例大祭のために支出した玉串料十六万六千円は、
当然違憲ということになるのかも知れない。
だが、そのとき、私の脳裡で最高裁大法廷の多数判決を支持した十三人の裁判官が、
俄にクレオーン王の末流に変貌したことだけは記して置かなければならない。
現行憲法の禁令のごときは、人の、それも外国人の定めた「昨日今日」の法令ではないか。
ソポクレース以来、
自国の戦死者を、威儀を正し最高の儀礼を以て追悼することを禁じられた国民が、
この地上のどこにあっただろうか。
国人よ、誰に謝罪するより前にこのことを嘆け。そして、決して屈するな。」
政治が宗教(団体に隷属する人々)に支配されてはならないように、
政治が悪(魔)に支配されてはならないのは言うまでもありません。
愛のない政治は悪そのもの、
共産主義に支配された政治です。
政教分離でさえあれば良いと、愛を顧みる心を忘れるようなら、
この国は充分、共産主義に洗脳されているのです。
米国に押し付けられた現憲法は、
ニューディール(共産主義者)によるものだからです。
『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい(モルデカイ・モーゼ著)』
に(マルクスの末裔による悪魔的所業の)全貌が詳述されています。
是非ご覧ください。※3注終)
〖備考
天上界は、あのような人間になりたくないといった、
軽蔑すべき人間であったとしても軽蔑してはならないと言われます。
何故なのかと考えた時、そこには人を哀れむ、気の毒に思う気持ち ー
人を助けたい心から来る、
助けたくとも自分に助ける力が無い為の苦しみを伴う哀れみを知る心を持っているか
問われているように思います。
人を裁いていることすら気付かないでいる、
そのような心は、罪に巻き込まれる環境にいた者が単に自分ではなかったに過ぎないことさえ
考えられない者なのでしょう。
周りの悪や苦難によって罪に追い込まれる。
悪を憎む良心を持つ者であっても逃れられぬ世界に生きざるを得なかった者もいるかも知れません。
何等同情する心がない為に理解せず、
罪を犯したのは、その者の悪なる心だと独善的に裁くことに躊躇する、
人の心を顧みる優しさを持たない者が、裁かれるべき罪を宿す心を克服した者なのでしょうか。
罪に負ける心に打ち克った者が、罪の力に苦しむ者を助けられる者が、
救おうとせずに裁こうとするでしょうか。
罪に苦しむ人の前に立つ資格がある者とは、
裁こうとする心ではなく、救おうとする心を人が見出せる者、善なる心に立つ者と信じられる者です。
罪に苦しむ心を何とも思わないような者に、人を裁く資格がある訳がないのです。
人が罪を償う、心の中の悪に向き合う勇気を人に与え得るのは、信義に生きる者だけです。
人を信じようとしない者は、その人の前に立つべきではありません。
人を裁くことが出来るのは、神の法だけです。
神の法に依って人は生かされることを知る者が、
人の心の善と悪を正しく捉えることが出来るのです。
罪の力から、偽我から逃れられない彼等が、
もし正法を知っていたならこのようにならなかったかも知れない、
善我こそ真の己として生きることが出来たかも知れない。
正法を知らされながら、人に伝えたい、知ってもらいたいという思いもない者に、
人を裁く資格があるでしょうか。
慈悲を与えるに値しない者に、
慈悲を与えるのは慈悲魔という偽我であると天上界は教えられました。
慈悲を与えるべき価値が人にあるか否かは相手の心を理解しなければなりませんが、
それも私達に慈悲心があってのこと、私達が神の心に在らねば何の意味があるというのでしょう。
人を軽蔑する心は、偽我から来るのであり、偽我に立つ者に人を裁く資格はありません。
慈悲という徳は真に人を生かす、人が自らを救おうと、生きようとする善我
(神と共に在ることを信じることの出来る心)へと導くものです。
慈悲を与えられて、慈悲を知り、
慈悲に応えようとする心に立ち返らずして天の心に繋がることはないのであり、
慈悲に背く心に留まる者に尚も慈悲を与えるならば、
人はその心を認められたものとしか解さないのであり、
彼等の偽我を肯定するという、
邪心を助ける慈悲の名を借りた魔性のものに過ぎないことを知らされました。
正法を知って尚、神の道を拒み、悪魔の道を選んだなら、
その者は自ら神の心を捨て去り、悪魔の心を己が心に選び取った者。
善に、神に敵する悪として扱えばよいのです(※4)。
(※4注。
「JI」88年4月号 ラファエル様メッセージより
「厳しさと愛と、正しさと慈悲とは区別が付けにくいものです。
定義付けするよりも、寧ろやはり健全な生活、精神のあり方と、
天と地との調和を求める方向に一人一人が努力し、
協力する事を善しとし、それから外れるものを是正する。
努力も協力もせず、破壊と破滅を齎そうとする者、社会の秩序を乱し、
神の法(モーセ様の十戒)に背く者は厳しく対し、悔いて改めるなら許す。
そのような心構えでいるならば、何を是とし、何を非とするかがよく見えて来ると思います。
共産主義思想もこの点に於て、世界の秩序を喜ばずに、
民族と国家と家庭を否定し、国民と国を守る軍隊を否定し、
社会の体制を根本から忽(ゆるがせ)にする不穏な主義である限り、
天は容認することはありません。」※4注終)備考終〗
神の法とは、この世が滅びるまで、
一点一画も廃れることはないとイエス様が仰しゃったものです。
天のすべての聖霊が、神の法に生き、この世に齎そうとされてこられたものです。
救世主が人類を救うのではない、天のすべての聖霊が心を一つにする救いの意志、天の計画が
人類を救うのだとイエス様は仰しゃいました。
神の救いの思いが一つとなるのは、すべての聖霊が神の法に生きる心であるからです。
人自らを救わんとする者を天は助けると言われた天の救いとは、天への道を歩むとは、
人が神の法に生きることに他ならないのです。
"神の法に生きるとは"
悪を愛する心は善を憎む心です。
もっとはっきり言えば、(偽りの神と知らずに)彼らの神(悪魔)を愛する者は
真の神を愛する心のない者、悪霊の心を受け入れた者です。
私達は自分に有利になること、即ち自己保存の心に適うことであっても、
それは間違っていると判断することがあるでしょう。
自己保存から判断すれば善(有利)であることに従わず、
悪(不利)であっても、より高次の心、神の心にあって善であればそれに従う、
神の心に立って判断する、神の法に於て善を選ぶことの大切さをラファエル様は伝えています。
「JI」87年3月号初出 ラファエル様メッセージより
「良心や愛は人間社会と種の存続の保護に繋がり、"種の繁栄と存続"を。
性の乱れは犯罪と闘争と死に繋がり、"種の絶滅"を招きます。
神は前者を望み、良心と愛と生命を人間の世界に齎しました。
悪魔は後者を望み、闘争と死を齎そうとしているのです。
私達を信じるあなた方も、信じず従っていない人々も生命と死のどちらを選びますか?」
悪を許す心は善ではない。
神の善は、自然の法則が善であることから来ています。
生き物にとって生存条件である環境の変化に適応出来なかった種は淘汰していきました。
生き物の淘汰も環境の変化の一部に過ぎず、すべてが自然の法則の下に起きるものです。
自然の法の支配する世界以外に生きる世界は存在しない。
自然が生き物を生かすことが出来るのは、自然を支配する法だけだからです。
自然の法は生命を生かすもの、それを善といい、
自然の法に生きるを以て生き物に齎される善なる心、愛に生きる心を、
自然の法と共に人類が見失ったが故に、神の法が齎された。
神の法は善である。その善を理解する心が理性(神の心)である。
理性は愛と義からなるとガブリエル様は仰しゃいました。
「 JI 」81年8月号 ガブリエル様メッセージより
「天上界の秩序、正しさは、愛と義からなっています。
愛と義は何処から来るのか。
透徹した理性による判断力から来ます。
理性は如何なるものか。
正しく認識しよう、或いは理解しようという姿勢からなります。
その姿勢の基本となるものは、やはり人の幸せの為という愛、
真理を通す為という義なのです。
理性と愛と義は表裏で一枚となる布のようです。」
神の心へと導く指針が神の法、正法であり、
神の心(善我)に、神の愛に背かせる心が、自己保存に根差した心(偽我)であり、
悪魔の世界に導かれて行くことを天上界は明らかにされました。
神の法が善であるのは、
生き物の心が自然の法に従う善でなければ、種の存続に生きる愛がなければ、
生き物(種)は滅びるのであり、
神の法もまた、善に生きる心しか種を残していけないことをラファエル様は教えられました。
現象テープ№21 「原罪について」
80年4月13日 ラファエル様現象より
「誤解無きように申しておきますが、善と悪は両立するものでもないのです。
両極端に立ち、一方が一方を征服するものなのです。
あなた方は人類の歴史六千年の中に於て、今迄そのことを学び続けてきたのでした。」
(偽善とは、自らの悪を善で装い、偽善の悪を見抜く真の善を悪に貶めようとするものです。
左翼の偽善を見抜けぬ者は、善を全く学んでこなかった者です。
悪魔の日教組に学んできた者が、義務教育を受けてないブッシュマンより知恵がない、
左翼は消滅であり、ブッシュマンは神に救われると言われた天上界を理解することは
不可能でしょう。)
善の心を見出し、善の心を愛し、善の心に生きる者は、
善を憎む悪を、邪悪に満ちた左翼と相容れる心は皆無です。
善の心は悪の心を排除するものである、
善の心に生きるとは、悪の心を排除することに他ならないことを
エル・ランティ様は仰しゃいました。
「天国の証(78年8月初版)」65頁 エル・ランティ様メッセージより
「人間として三次元で過ごされているあなた方は益々己の善我を強め、その心を浄化させ、
社会悪、 道徳に反する諸悪を憎み、正義とは何かをもう一度考え、
その基盤に立ってのみの信義と愛を貫き、慈悲を与え、
そして神(天上界)の守りと愛への信仰が互いへの同じ質の信頼感と変るよう
努めて頂きたいのです。
事の善悪、是非、真実と虚偽、(それらの判断を誤らせる)
おおよそ人間として俗世の心、俗人の心として疎ましく思われるものを鋭く見抜き、
それを自分の心から追い出すのです。
何故ならば、それらはすべて悪霊の喜ぶものであり、
自らを悪の魂と変えるものであり、
私達天上界が受け入れぬ(真理、善の観念を愛する神の心とは相容れぬ)ものだからです。
人間的な欲望、虚栄の心、自己顕示、競争心、名誉欲、支配欲、権勢欲、所有欲、
金銭に対する執着の心 ー 。」
善を愛するとは、悪を憎むということです。
悪があるのは悪を排除する意志が弱い、善を求める意志が弱いからです。
偽善を神は許さないとはどういうことを言うのでしょう。
偽善は、悪を隠すどころか、悪であることを認めさせない心だからです。
隠された悪よりも、それを隠すという悪を天上界は許さないのです。
間違えたことを天上界は責めたりはされません。
間違えても素直に認めない心、人に迷惑をかけても反省して改めようとしない心、
真理を憎む心は、神も救うことは出来ないと見捨てられるのです。
自らの悪を悪と認めず、悪を明らかにする善を、悪にすり替える為に、
差別だと、差別する者は悪であると非難して、
自らの悪を隠すどころか、悪という差別の犠牲になっている弱者、
善人だと言って人を騙す偽善(悪)を善と信じる心は偽我そのもの、
天上界(善我)と決して相容れることなき心であり、
(神の御意志に背く)偽我は削り落とされるまで徹底的に差別し倒すべきものなのです。
(注。
現象テープ№40 「天上界からの苦言」より
83年7月10日 ガブリエル様現象
「私達はユートピア建設の妨害、破壊をする者、その手先となって働く者には、断固戦い、
生存を許さぬ決意を固め、又そのように現天上界の方針を各善霊に指導、通達を致しました。」
現象テープ№10 ②「新天王の宣誓」
78年7月22日 ミカエル大王様現象
「悪の名に於て、正法の流布を妨害せんとする全ての悪霊並びにその霊に意識を支配され、
この天より備えられたる正当なる後継者より出ずるメッセージを妨害し、
失脚せしめんとする意図を持つ者を、悉(ことごと)く滅し或いは罰し、
恥と死に至らしめんとする決意をここに述べ、又誓うものです。」注終)
善を為そうとする者を悪が迫害してきた人類の歴史は説明不要でしょう。
(その悪の心を満たす為に、人を悪人に仕立てて迫害するのは、
キリストを悪魔と仕立てて磔にしたパリサイ人(偽善者)と全く変わらない心です。
日本の戦争犯罪を主張し続ける左翼もまた、
その心に於て迫害することを喜びとする悪魔の心に繋がるものであることも説明不要でしょう)
価値観の(言葉は同じでも意味していることは)正反対の心が、
互いに相容れぬのは当たり前です。
愛する者を滅ぼそうとする者から守ろうとしないなら、愛の観念は滅びるでしょう。
悪を悪と認めないなら善の観念はなきに等しいのです。
「慈悲と愛」81年1月号 ラグエル様メッセージより
「悪霊の狙う善きもの美しきもの、
とは地上に生けるあなた方の心の内にある善や自己犠牲、正義の観念なのです。」
ラグエル様が仰ったように、天上界は正義の観念を守られてきたのであり、
正義(善)の観念が滅びれば、天上界は滅びるのです。
善を拒み悪の観念に生きる、善を滅ぼそうとする者がいる限り、
善なる心を守る為に、悪に従う心を滅ぼし尽くそうとするのが、善を愛するということであり、
真に人類の善なる心を守ってきたのは、天上界の善なる魂以外に存在しなかった、
彼らのような心以外に悪と戦い続けることの出来た魂は存在しなかったのです。
善を滅ぼそうとする悪は、善を偽る偽善は、神の善を以て、
真に神の前に滅びる悪であることを知らしめることが善に生きるということではないでしょうか。
人を信頼して生きられる世界こそ平和でしょう。
精神の平和を願っていない人間などいないでしょう。
いつ共産主義独裁国家(民主主義が守られた世界から独裁政府が生まれたなら、
それは自分達が望んだことです)に密告されるか判らない。
不安に生き続ければ、精神は蝕まれ、疑心暗鬼の心へと病んで行き、
心の支柱である良心を見失えば、悪霊の心に抗うことは出来ず、
悪霊の憑依者に過ぎなくなるでしょう。
肉体の(魂の)生命さえ守られるなら、それを平和という左翼は(神を裏切った元善霊は)、
共産主義に精神を支配され、自由を奪われても苦痛を感じないまでに精神が破壊された
悪魔の操り人形の言うことを信じて、自分もそうされようとしていることの恐怖も感じないなら、
既に精神を共産主義者、悪魔に支配されている者に違いありません。
平和は、天上界が地獄界を支配する、善霊が悪霊を滅し尽くすまで齎されることはない。
人間の心に善の観念を、神の愛を育てることを阻む悪の観念を植え込む
如何なるイデオロギーも宗教も根絶するまで戦いは決して終わることはない。
神、天上界と悪魔、地獄界が共に存在する限り、善霊は人間の良心に、
悪霊は(善悪の判断する理性なき、自分さえ良ければそれが善であるとする未熟な)
悪なる精神に働き掛けるのであり、
一方(天国)が一方(地獄)を滅し尽くすまで戦いはなくならない、平和など存在しないのです。
(悪に支配された魂が、心の正しい人間を、霊を迫害し、破滅させてきたことを知って、
悪を憎む、悪から正しい心を守らなければならないという気持ちが現れない、
そのような魂になっても生きたいと、生き残る為ならそのような魂になってもよいと、
そのような魂を顧みる者など、天国にも地獄にも一人もいない、
未来永劫を己の心の中にしか生きる世界がない、
それでもあなたは神の心を捨てても生きる価値が人間に、自分にあると考えますか。)(2025.11)
悪に支配されようと戦ってはならないという、世の平和主義者(左翼)は、
すべて神と共に闘うことよりも、悪魔の奴隷になることで平和を約束してくれるなら、
悪魔に支配されるを以て平和であると言っているに等しいのであり、
永遠の生命を約束されて神を裏切った元善霊の心と同様、自己保存の塊なのです。
その心は、人間だけが持つことの出来るあらゆる高等感情、
神の齎された徳を踏み躙っていることも、悪魔に善なる心を破壊されたことも理解不能な、
消滅するまでもない心の廃墟です。
精神が破壊されて何が平和ですか。
自分だけではない、これから生まれて来る人間の善に生きる自由も奪うという悪をなして、
平和が全てであると彼等は言っているのです。
平和でありさえすれば善であると、戦うことは悪であると、
その平和の先にあるのが悪と戦う精神へと成長することを奪われた、
恐怖による支配から逃れられない動物を支配する生存本能に生きることだけの許された
(善に生きる自由がなければ、善悪を考える思考力を失うのは当然でしょう)
痴呆にとっての平和に過ぎないことが判らないのです。
差別という言葉も、戦争と同様の意味で悪と騒いでいるだけです。
悪を非難すること、悪と戦うことを差別であると言い続けることで、
悪、即ち彼等と戦うことを悪とすり替える、
人が自ら判断することを、理性を育てることを許さないのです。
彼等の言うがままに従わせようとするのです。
そのような彼等が悪と戦ってはならないというのは、戦うことが悪ではなく、
彼等の信奉する共産主義という悪魔のイデオロギーに反抗することが許し難い悪であると
考えていることも自明です。
悪を容認する心を以て平和であると、弛緩しきった精神を平和であると言っているのは、
共産主義者以外の人間を白痴化させることが目的であることも自明です。
(例えば愛する子を殺した悪を憎む心を失ったなら、愛を失ったということでしょう。
愛を失った心にあって生きていると、愛を失っても生きたいと、
そのような心を生きていると思うのでしょうか。
善を愛する心を悪に破壊されたことさえ分からない、
それでも生きていることに虚しさも感じない心に、
そのような心になることで生き残れるなら自らそれを望む、
そのような心を植え付けてきた者は悪魔以外に考えられないでしょう、そうではないですか。
何時かは滅びる肉体の生命すらそのように執着するのなら、執着する心に支配されるなら、
永遠の魂を失う恐怖から守ってくれると信じられれば、
神を滅ぼそうとする悪魔にも従ったのは当然であり、
そのような心であると知るから悪魔が誘惑しようと、誘惑出来ると試みるのです。
左翼が悪魔に支配された人々であることがよくわかるのではないでしょうか。
そのような心がこの世を、人の心を支配したらどうなるか、
それを何とも思わない心も、自分を守る為なら、
神を、神の愛する心を滅ぼそうとする悪霊と変らないものです。
善を愛する、人を救おうとする愛に生きる魂が、
そのような悪を許すことなどあり得ないのは当然ではないですか。
悪を滅しようとするのが善であることが理解されると思います。)
差別する心が善の心からであるか、悪の心からであるか、
それによって差別されるものが悪人か、善人か別れるのであり、
差別してはならないと言って庇っている者が悪人なら、
庇われる者も悪人であるのは当然ではないですか。
差別が間違っているか正しいかはその心で計られるべきものです。
善にとって悪は敵です。滅ぼすべきものです。
善を破壊してきた左翼が、悪を差別してはいけないと言っているのです。
そう言われてたじろぐ人とはどういう善人なのでしょうか。
例えば、目の不自由な人に向かって、その人を貶める為に、傷つける為に、
メクラと言おうと、モウジンと言おうとメガフジユウナヒトと言おうと、
その心の冷酷さに於いて人間社会から弾き出してしかるべきであると思いますが、
その場に目の不自由な人がいる訳でも、そういった人のことを対象としているわけでもなく、
目の不自由な人をメクラ、心の盲目な人をアキメクラと言ったからと差別と騒ぐのは、
不自由な人への優しさからではなく、不自由な人や欠点を持つ人に、被害者意識を植え込む、
人は自分を差別しているのではないかと被害妄想を抱く心へと導く、
人の健全な心を奪うことで、社会から邪魔者扱いされているかのように思い込ませる、
健全な者への恨みを、社会への憎しみを抱かせる、
社会を転覆させるためには、共産主義革命の実現のためには、
人々の憎しみの、ルサンチマン(弱者の嫉妬)の力が不可欠であったからです。
また、人の心から許す心を奪う、自分が人より恵まれていないのは社会が悪いからだ、
そのような憎しみは、やがてマルクスのように、ユダヤ民族のように、
神を憎むまでにサタンの心に同化して行ったのでり、
言葉では、いくら愛を優しさを主張し得ても、彼らの心から伝わるのは憎悪、怒りでしかない。
そのような心(波動)に同調した時、悪霊の憑依、邪念に侵されることになるのです。
左翼が差別用語であると騒ぐのはそのような邪念に駆られているからであり、
差別用語を以て人を差別主義者であるとのレッテルを貼り、攻撃するのは、
それに恐れて人を委縮させることで、常に自らの主張が正しいが故に人は言い返せないと、
自らの正義を吹聴させる、
そうやって人民をミスリードして行くのが左翼の常套手段だったのです。
何時になったら左翼の偽善に保守派は立ち向かう勇気を取り戻すことが出来るのでしょうか。
(社民党のような国民のほとんどが何の価値もないと見做している党を、
多くの国民に支持されている党と同等(それ以上か)に扱うマスコミ(NHKなどは特に)は、
どの党も平等に扱うのが公正であるかのように偽善を押し通していますが、
党の如何に関わらず国民の支持を公平に汲めば、
社民党などよりもっと国民に伝えられるべき党があるのであり、
それを差別しての、価値なきものを支持する、
そのような者がマスコミを名乗ろうとその中身は活動家に過ぎないこと位見抜けないでは、
騙されて信じる方が愚かであるということです)
自己保存から、自分よりも優れた人を嫉妬から誹謗中傷する、
その人に替わって自分が優位の立場を得ようとする、
そういったエゴイズムを満たす為に、人を貶める、犠牲にする、排除しようとする、
悪の心からの差別が間違っているのです。
悪なる心に立っての、善なる者を貶める行為、卑しい心を差別しないなら、
善なる心に立っていない者でしょう。
(共産主義者でない当時のシナ人を日本軍人が虐殺したと左翼は言い続けていますが、
その共産主義者でない一千万人もの中国人を、
文化大革命に於て中共は虐殺したことには日本の左翼は何ら触れようとしないのも、
悪党が悪党を庇う為なのです。
自分達の敵を罪に貶める、差別だと罪をきせる、
自らの罪を隠す為に善を装い、敵を悪に仕立てる、これは天上界が最も嫌う悪魔的な人格でしょう。
国家を弱体化させて革命を起こすのが共産党の目論見であり、
その為に非難の返されることのない日本軍人を非難し続けることで自衛隊を貶めたのです。
自衛隊も日本軍と同じで国民を戦争に巻き込むものだ、
福祉や教育の(場に於ける左翼活動の)充実を奪っているのは防衛費の所為である、
国民をミスリードして左翼の力(票)を得てきたのです。)
不法入国した者(を擁護する者)が、批判を自分達から逸らせる、自分達の悪をごまかす為に、
自分にとって都合の悪い存在を悪に仕立てるのは、悪党の常套手段ですが、
その国民の文化を、法を、倫理観、即ちその国民の心の拠り所を踏み躙り、破壊しておきながら、
自分達の文化を(破壊衝動を)認めないと言って非難する理屈は、
その心自体がエゴイズムの塊であり、
その心に立っての言動など問答無用に排除されるべきものです。
そのような悪なる心を、さも少数の弱者を大勢の日本人がよってたかって差別している
といった論法を以て非難しますが、
国を愛する者を憎むのが破壊分子の破壊された心です。
天上界の愛される心を日本人に見出すこともなければ、その心を理解したことすらない、
彼らの心が如何に悪霊に蝕まれたものか、神自らその心を明らかにして下さったのに、
それを心に留めてこなかったようでは既に神を軽んじる悪霊の心に近いのです。
左翼が差別というのは、人が差別という悪を犯していると、
彼らにとって邪魔な者にレッテルを以て非難するという、
人から理性を奪う、共産党の支配階級の指示通りに従う判断力なき者にする、
従わない者は粛清する(このような者が差別はいけないと言っているのです)、
これが左翼の心なのです。
彼らの何処に優しさや正義があると思われますか。
左翼に差別だと非難されてたじろいでいてどうするのですか。
どこに神の心を、神の善を忘れてきたのでしょう。
神への愛を失くしてしまったのでしょうか。(2025.9)
"神の法をこの世に齎さねばならないのは何故か"
この世の法が悪魔の意志を生かしている、そのような法を見抜けない、
それに従っている人間の悪が見抜けない、
この世の悪を守る為に神の法に背いているのがこの世の法なら、
神の法が悪魔の法の前に沈黙することがあってはならないのは、当り前です。
神の愛は与えられるべきものにのみ与えられる。
神の法に従う者は守られ、背く者は罰せられる。これが平等です。
神の法に従うことで、神の心が育つのです。
神の愛に生きる心が神の心、神の愛が注がれる心です。
神の心を持って人は生まれて来ると天上界は仰しゃいました。
人が神の愛を受け止めることなく、神の心を育てることなく、悪を喜ぶ心を育てている、
悪に従う、悪を善と信じる、偽善の罷り通る世を作ってきたのは人間自身です。
神の愛を受け止めぬ、踏み躙る者に愛は与えられない、神を蔑む心を満たしてはならない、
悪に力を与えることは許されないことだからです。
神の法を、神の法を齎される神の御心を信じる、
その心が人を自らの悪に立ち向かわせるのです。
己の邪心を、神に愛されぬ心を認めぬ高慢が、平等に神から与えらることを当然とする
(神を信じる者が左翼の偽善に立ち向かうからです。
左翼は彼等にとっての神(悪魔)の前に平等であるとの悪魔の高慢に生きていられるのです)
権利を主張するのです。
神の愛を以て己の偽りの愛を満たそうとする、神の与り知らぬ、悪魔の如き醜き心に生きているのです。
ラファエル様が仰しゃったように、神の法を、神の善悪の判断を認めず、
この世の法に、善に従わせる心は、許し難い悪魔の心なのです。
「慈悲と愛」79年11月号初出 ラファエル様メッセージより
「私達の述べる真理と同じ結論が出なければそれは私達に誤りがあるのではなく、
却ってあなた方の正見・正思・正定に誤りがあって正しい真理に達したのではない、
ということを今後は弁えて頂きたいのです。」
「只天の為に働くならば、私達が天上界の一員として迎えると安心するのは大間違いです。
天上界の一員となるにはそれに相応しい人格と、思考、判断力を身につけて頂かねばなりません。
三次元に於て仲良く肩を叩き合って人間が住めば良いというものではないのです。
そのような浅薄な考えしか持たぬ人は、それ相応の報いしか受けないでしょう。
詰り、私達は天上界にそのような人を迎え入れたくないということです。
又、そのような人々が築くユートピアは神の国ではなくて、
人間的な俗臭を持つ人間のユートピアでしかあり得ません。
それが如何に容易に毀(こぼ)たれ、再び地獄と化すかは言うまでもないでしょう。
聖書の中の"エデンの園"の物語と同じことです。
あなた方が我が身を振り返って、
私達天上の者より優れた識見と判断力を備えていると考えられるならば大きな誤りです。
私達が義というものの本質について、どのように験され、鍛えられ、
年月を通じて正しい判断力を備えるべく教育されてきたか、
あなた方にはお判りにならないでしょう。
それ無くして、巧妙な悪魔や悪霊に操られた人々のすり替えの理論や罠を見抜き、
三次元を正しく導き、或いは人の愚かさを教え、賢き道を歩ませることは出来ないのです。」
左翼が人間の品性を堕としめる為に、神から受けるに値しない者の欲望を満たす、
邪悪な心が認められる世にする為に、この世の法を、神の御意志から遠ざける、
平等とか自由という神の齎された言葉を悪魔に利用させてはならないのです。
神の心に理解させず、悪魔の心を以て理解される、
神の徳を捻じ曲げて、悪魔の指針として罷り通るようなことを許してはならないのです。
神の愛を与えられるに相応しい心になってから、求められるべきが神の愛です。
神に愛される心は、求める前から神は与えられる。
神から与えられない心にあって、不平等だ、差別だという悪魔の心を、
神の光を以て知らしめねばならないのです。
平等というのは、平等であらしめる存在の中でしかありえないものです。
そうではありませんか?
あなた方は神の前で平等であるとミカエル様は仰しゃいましたが、
神の前に在ることを拒む心と平等であるとは何を以て言うのか、
何を以て彼等と平等であり得るのか、
彼等の生きる価値観に於て平等とされることをあなたは望まれるのですか?
神の前に平等であるとは、神の法の前に平等に裁かれるということであり、
神の法に従わぬ心に神の愛が与えられることはあり得ないのです。
神は愛すべき者を愛すると言われたのは、
神の法を愛する心を神は愛されるからに他ならないからです。
神の法を遮るものは存在し得ない。
何故なら自然の法に背くものの存在を許す自然は何処にも存在しないからであり、
自然を破壊するものを許さぬ法が自然を支配するが故に、生命が存在し得たのです。
自然の法の中に見出された真理とは、自然を愛する心にあって見出されたもの、
自然を愛する心を育てたのも自然に他ならない。
自然から与えられながら、自然を破壊する者は自ら破壊(淘汰)の道、滅びの道を望んだ者。
真理とは、理解される心を育てるが故に真理である。
神の真理とは、人の心を育て、永遠に存在する自然の内に見出される、
真理に生きんとする心に於て見出される。
真理(神の法)とは、真理(神の法)に従わぬ心を、
偽善に隠された本心を明らかにする光。
真理(を愛する心)は、真理に背く心を見逃すことはない、
悪を見抜けぬ知恵など知恵ではない、
神の叡智は真理に抗う悪を許さない。
真理とは悪と戦い、善(悪からの解放、真の救い)を齎そうとする
神の心から溢れ出る愛に他ならない。
自然の中に生まれたのだから、その自然の恩恵は平等である、
自然の法に従っているからです。
(自然の法に生きる者は、自然の恩恵を知る者は、自然を愛する心に生きる者は、
自然は不平等であるとは考えません。
自然を愛する心を得る、それ以上の賜物はないのではありませんか。
自分は不平等だと思うのは、恩恵を受けながらそれを認めない、軽んじる心だから。
そのような心になったのは、人よりも自分が上である、
他の者の得るもの以上でなければ満足しない心を自ら作って来たからでしょう。
神は幸運を、幸せを人に齎すことが出来ると、それが神であると信じるのでしょうか。
幸せな人は、神から幸運を与えられているから、
自分は与えられていないから不幸だと思うのでしょうか。
幸せな人は、神に愛されていると信じられる人なのでしょう。
愛があるから、愛から行うことが出来るから、
それを幸せに思う人なのでしょう。
自分の得られぬものを得ることに捉われている人は不幸です。
それを与える者は神ではないからです。
自ら成長しようとする人は幸せです。
自らに相応しいものを手にして満足する心を得ているからです。)
しかしその恩恵に、自然の与えた愛に生きる心を育てることを、自ら拒む、
その自然を破壊せんとする悪に心を委ねるなら、
自然のみ与え得る平等を破壊する者、誰もが等しく愛に生きる権利を奪う者です。
自然の法を、神の法を守ろうとする善を愛する心を憎み、自然を破壊を喜ぶ、
自然の前に、神の前に存在することを許されぬ破壊者です。
平等を在らしめる自然に、神に敵する者を裁く為に法があるのではありませんか。
イエス様が私達の心をご覧になり、どんぐりの背比べであると仰しゃいましたが、
私達が等しく神から遠い心に生きているのであり、
救いのない者が平等であることに何の意味がありますか。
自他に係わらず滅びようとする者を救う心は愛だけである。
自己保存、自分を優先しようとする本能は、それ以上の本能
(種に於て子孫を育てることを通して、動物は死の恐怖にあってもなお見失うことなき愛、
自己保存の本能から種の保存の本能を昇華させているのかも知れません。
死後も引き継がれてゆく喜びを得た心が種の存続に生きる本能なのかも知れません)
を知る動物の齎す調和を人類が知るには、
神の愛の前にのみ平等を知る、神の前に在る者のみ、
己を他に勝る者、他よりも自分が神の愛を多く受けるに値するといった
悪魔の心から救われることが出来るのではないでしょうか。
神の前に在って、その愛の小ささをイエス様に私達は知らされました。
神を愛する心なき者さえ、神の愛が等しく与えられることを当然と信じる悪魔の心に侵され、
神の真理を踏み躙る邪悪な心も悟らぬ、
自己肯定の善がすべての人間の小ささを教えられたのでしょう。
神の愛に生きるとは、天上界が人類を救おうとされているように、
人を救おうとする思いが、自己愛を超えさせる、自己の執着から精神を解放する、
愛する心を育てることが出来る。
愛に生きる、自分が得ようとしない心だけが、神の心を得ることになるのです。
神の人類の愛(導き)は等しく与えられてきたのであり、
それを拒んだ者は、偽りの神から得た者、偽りの思いに満たされる心を育ててきたのです。
偽りの神に生きる者がいう平等とは、神に救われることを望まぬ平等とは、
自らのように神の心に反した、悪魔の心を満たすこと、
等しく神の心を捨てさせる、獣の心にあって貪る心の解放を目的とする大義名分に過ぎません。
人から奪い取って自らを肥え太らせる、
如何なる神の法の介入も許さぬ、誰もが悪魔に生きることを以て平等なのに過ぎません。
人の善なる心に報われた神の愛を妬み、神から愛を与えられぬ心が、
自らの悪魔の心によって満たす、神の愛される心を踏み躙ることを厭わぬ心の言う平等とは、
神の平等の愛を人々から奪い取る為の悪魔の業であることを悟らねばなりません。
神を愛する、神の正義を愛する、神の愛に生きる心を求める、
己の心を悪から守ってくれるのは、神を信じる心だけです。
人が神に愛されること、神の心に生きることに於いてしか人の幸せはない、
神を信じる心を養えずに、悪に打ち克つ心を育てることは不可能であり、
神の心に生きぬ者に、己の神の心を守ることは出来ない、自らの神の心を捨てる、
自らの神の心を捨てる、そのような悪魔の心を隠し持って、
神の前に立つ、神の愛を求めるを当然とする、
そのような下劣な心にこの世が満ちることを望まれるのでしょうか?
人を愛するとは、人が神の心を見出し、神の心に生きる、
人が神の心に生きていることを望んでいると信じる、それが信義であり、
神の心に繋がるを以て人を愛すると言えるのです。
神を顧みることのなき心にあって、愛の名の下に人を信じさせようとする、
人を従わせようとするは神の愛を知る心ではありません。
神の愛に繫がることなく、人を愛することも、人を救うことも出来ない、
人から神の心を奪うものは、人を救う者ではない、人を滅ぼす者です。
この世に神の法を齎す。神の前に平等なのです。
神に背く者を平等に扱ってはならないのです。
悪を滅ぼすのが神の善です。
神の善に背く悪を明らかに出来ぬような法は、神の法に背く法です。
悪魔のイデオロジストの言う、平等や正義や自由に隠された悪、
人の心を神から奪い悪魔に導くその邪悪な意志を見抜けぬようでは、
その意志を打ち砕く神の御意志を理解出来ぬようであってはならないのです。
"真の慈愛は"法"の下にのみ生きるもの"
愛なき者が裁いてはならない。
愛なき者が裁くのは憎しみからであり、神の心を見失った者です。
法が己を生かす真理であることを悟らず、真理に生きる法を己が偽我に従わせる者、
神の法が神の御意志の表れであると悟らぬ者に憎しみの現れるを以て、
神の法を利用する悪魔の心の現れるを以て、
神の法であることが明らかにされるのです。
「慈愛は"法"に譲らねばなりません。(「JI」79年6月)」とミカエル様は仰しゃいました。
法から愛が生まれ、愛から生命が生まれ、愛を糧とすることで、
愛の価値を理解する心を育てることが出来たのです。
その心によって自然も神も存在するものとなるのではありませんか。
人一人救うことの出来ぬ正法に何の価値があるか
(自らの神の心を救え、自らが神の心に立つことの出来ぬ者に人の神の心を救えるのか、
そのような者の内に神の心を見出せないのに、
どうしてそのような者に神の救いを信じることが出来ると思うのか。
そのような自惚れに人は神の救いを見ると思うのか)
自らの神の心を救ってこそ、その心へと導くことが出来てこそ、神の法を愛することではないか、
とイエス様は仰しゃいました。
愛の理解されぬ心に、法が何の意味を持つでしょうか。
法に生きることなき心に愛は生まれないのです。
そのような魂は神の愛を知ることも出来ません。
(人類に仕える為に神が作ったのが天使と軽んじる人の心を邪教から救おうとされてきた
天使の愛を理解することの出来ぬ者に、愛に生きる天使の心に神を見ることの出来ぬ者に、
真の神の御心がどうして理解されるものでしょうか。
そのような者の信仰がどうして神の心を育てることが出来るものでしょうか)
神が与えたのは法であり、真理であり、導きであり、
自らの研磨によらずして偽我から神の心を救うことは出来ない、
自らを救おうとする意志を助けることしか天には出来ないことを、
人自ら救おうとする心へと導くのが神の愛であり父性愛であることを証されました。
この世の人々が愛であるとする母性愛を神の愛と理解する者は
真の神の愛を理解する心を育てることが出来なかった者です。
人の言う愛が、神の法に従わぬなら、その愛は神の愛であろう筈がないのです。
神の与えた法は、神の愛によって与えられたものです。
神の法に生きる神の心から齎されたものです。
悪(の犠牲)から愛を守るのは、
悪を助長する慈悲魔へと愛を堕落させぬ、
真の愛を知る者は、神の法の中に神の愛を見る者です。(2026.3)
"神の法に背かせる法は悪から来たものであるということ"
神を見出した人々とは、神を求めた人々であり、
神を信じる心を育ててきた人々でした。
彼等の、悪に従わない、悪を嫌う心は、悪霊の標的にされてきた
(人の美しい心は、その心を持たぬ者、神に愛されぬ者に(自己憐憫から)嫉妬を齎す)
のであり、力を求める者は、悪の心に生きる者故に、
悪魔の破壊力を以て人々に君臨することで悪の心を満たしたのです。
そのような苦しみを受けた者が、憎しみに善を信じる心を失うことなく、
善の心を満たす存在への確信を(善なる霊達からの善の波動を以て)
天は与えてこられました。
神の救いとは、神を信じる心、真の神に繋がった心に(神の波動の伝わる心に)
生きるということです。
そして神の心を育てるのは自分自身である。
というのは、神の働き掛けだけではなく、
常に悪霊が、悪の心(偽我)に働きかけているからです。
神はその教えを確実に伝える為に(神の立てられた)霊能者を通して人々に伝え、
それを理解した人々が、神の教えを書き残してきました。
そしてイエス様を通して、神はその業を
(奇蹟を、そして神の心が愛であることを、その愛に生きるイエス様の魂を以て)
現わされました。
神の心に生きることを以て、人は神の子になる、
神の心を育てる為に、神の備えられた道を歩むのであり、
その神の道を知らしめる指針を、神の法として伝えられました。
「新約聖書」マタイによる福音書(第二十二章三十六節~四十節)
【「先生、律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」。
イエスは言われた。「『心を尽し、精神を尽し、思いを尽して、主なるあなたの神を愛せよ』。
これが一番大切な、第一の戒めである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
これらの二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっている」。】
愛、神の心なくして、神の法に生きることが出来るであろうか。
律法全体(人を救いへと歩ましめる道)と預言者(神にその御意志を託された者)
に神の真を見出せぬ者は、救いに与ることはない故に、
真の預言者は自らの神の心を貫かれるのです。
真の法とは、人の心を善に生きる心へ、神の心へと導くものです。
神はその法を伝える為に、その法に生きる心を以て、
人の心を神の光りの下に導いてこられました。
人の善の心は、真を生きる為に光を求める、光に向かうことが成長することだからです。
自らの善の意志が、善の道を歩ましめるからです。
この世に生きる人々は、この世の法に生きています。
人の心を育てるものが(神の真の)法であると考えることがない。
故にその法が人の心を何処へ導くものであるか、
見抜く知恵を育てられないできました。
ニューディーラー(現日本国憲法を作ったユダヤ人共産主義者)は、
(神に裁かれて)敗戦国となった日本人は、
正しい心へと彼等の子孫を導くことは出来ない、
それを可能にする憲法を作り出すことは出来ない、我々しかそれが出来ない、
我々の作った憲法によって日本人は正しい民族(共産主義者)に導くと
ニューディーラーに従わされたのです。
(ある者が、ニューディーラーは憲法を押しつけたのではなく、
日本人と討議を重ねて作られたのが憲法だと言ってましたが、
彼らの息のかかった人達か、悪魔に意識を支配され
(なかったらこのような法律になる訳がないのです)たかの何れかでしょう。
悪霊どもがこの期に及んで手抜きなど、悪魔が許す訳がありません。
神も悪魔も知らぬ、自らが悪霊に操られていることも知らない人達の考えです。)
自らの神の心に生きる者が神の子です。
その心に育てるのが正しい法(神の法)です。
ニューディーラーの思いが神と同じなら、日本人は(彼等の与えた憲)法によって、
正しい心を持ち得た筈ではないですか。
善に生きる心を養えないとしても善悪の基準の間違いが解らないようなことは
許されてはならないでしょう、偽善、悪徳の弁護士(グループ)や、
権力者に媚びる(息のかかった)裁判官などもっての外というものです。
現憲法は、エゴイズムの解放を自由といい、人間の獣性を目覚めさせ、
徳を愛する心を摘み取ってきたのです。
自分の国を守る為に、国防費を増やすことさえ、生活を脅かすと反対する、
自分の国の命運よりも自分の生活の裕福を優先することしか考えない、
それで以て他国の正義を信頼するなどと、
それは他国ではなく共産主義国が自分達を支配することを、
彼等の国になることを望むもの、
正義などと偽善そのもの、悪魔の意志(の成就)を信頼すると言っているのです。
彼等が守りたがる現憲法が誰の為にあるものか明らかです。
人類が神の心に目覚め、善の観念を守る、善に生きる神を信じることがなくなれば、
悪の観念にも、悪魔の甘言にも、恫喝にも決して屈しない、
神の心を持たなければ、天国は滅びるのです。
人類は神を、神の心を失うのです。希望も信じる心も失うでしょう。
そうなってしまったら天上界は他の星へと、
神の国を作る為に、地球を離れるであろうと仰しゃいました。
神に見棄てられた獣達は、互いを滅し合って、滅びるしかないからです。
もはやそれを止められることは誰にも出来ないでしょう。
神の御意志にも従わない者しか存在しなくなるのですから。(2025.8)
"礼について"
互いを大切にする、思い遣る心を育てる為に、
日常実践可能な行為を規定されたもの。規律、ルールなど。
礼の実践はあくまでも思い遣りの心を顧みるきっかけとなりその心を育て得た時に、
その人にとって意味のあるものとなるのであり、
思い遣る心を育てることがなければ何の意味もないものです。
真理を行わない者にとって、真理に何の意味もないことと同じです。
規律、ルールなど、マンネリ化(思い遣る心無くしても実行可能故に形骸化)し易い
ことが難点でしょうか。
他を尊重すること無くして精神の成長は望み得ず、
詰まる処、本人の意識次第であり、思い遣る気持ちなくしては、人の心に伝わらず、
思い遣る心のないことに気付かぬ人は、礼を行う自分に満足してるからなのかも知れません。
「JI」81年4月号初出6頁 ガブリエル様メッセージより
「偽善ほど醜いものはない、
その偽善が謙譲な心から出ぬ誠意なき儀式であり、
儀礼であり、しきたりで覆い隠されている時、
それ(善を偽り、邪な本心を隠そうとする心)は救い難い人格であることも
よく知っております。
儀礼は誠意が伴わねば無意味です。」
〖参考
「論語の読み方」164頁 山本七平著 祥伝社
「秩序の形成は、法によろうと礼(社会的ルール)によろうと、
常に自分を克服して拘束を受ける点があることは否定できない。
その意味では、法も礼も外的拘束である。
しかし、孔子は同時に、礼(ルールに合わせようとする意志なくば無に等しい)
も楽(調和へと働く内なる規律に生きる意志:
人の善なる心の琴線に触れる良き音楽が伝わるように、神から齎された者の心に現れる)
も内的な精神秩序と一体化しなければ無意味とした。
「仁を失っていたら形式的に礼をやって何になろう。また、音楽をやって何になろう」と。
「現代訳 論語(泰伯第八の二)」下村湖人訳
孔子がいわれた。ー
「恭敬なのはよいが、それが礼にかなわないと窮屈になる。
慎重なのはよいが、それが礼にかなわないと臆病になる。
勇敢なのはよいが、それが礼にかなわないと、不逞になる。
剛直なのはよいが、それが礼にかなわないと苛酷になる」
真に美しい心、徳に生きる心を敬う、そのような人の心の前に、
素直に自らの未熟を認められる心なき者が、自らを謙虚な者の如くに偽って人に見せようとする、
虚栄を通す心は、ゆとりなき心(窮屈)である。
善悪を正しく認識する為に、偽善に騙されないようにする為に、慎重になる、
それが人を守る、善に徹する心からでないならば、ただ自己保身しかないならば、
人の善意を信じる心を解さない未熟な心は臆病になる。
人を思い遣る心から齎される勇気でなく、人を気付つけても何ら痛みを感じることのない、
力を振るうことで支配欲を満たす高慢な心に生きる者は、
ただの蛮勇を勇気と自惚れる愚鈍に過ぎない。
自分に素直であるべきだからと、
その心が自分さえ良ければいいと思うような心しか理解出来ぬ未熟な精神に生きるなら、
他を疎んじる、他を苦しめても痛める心のない、苛酷(冷酷)な心しかない、
偽我の塊に過ぎないのです。
参考終〗
第三部 神から授けられた正法
第四章 神の法
二節 神の法がこの世の法となるには
「慈悲と愛」79年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「慈悲が甘やかしに通ずるものであっては、
教義に於て至高の徳とされる"慈悲の心"が正しい形で与えられることにはならない。
それが正しく与えられていないから受ける側も何の感動も無く、
生涯を通じての心の糧、魂の修行への指針とはならないということなのです。
機関誌創刊号のメッセージに於てガブリエルが魂の研磨を説き、
そこから初めて"慈悲と愛の心"が湧き出て来る、
それは魂の歌であり、泉であると述べておりますが、
"慈悲"は厳しく己を練磨する心が無ければ、己にも他にも益とならず、
又本当の"慈悲"とは言えないのです。」
「"慈悲"でさえもそのようですから"愛"も勿論その域を出るものではない。
愛も甘やかしの愛であっては、自他共に有害無益となり、
尊敬と信頼を以て接する人格の成長を互いに望むことは出来ません。
愛は罪をも宥すとされていますが"盗み"や"殺人"も余程の理由があって
そこまで追い詰められて不本意に為したのであれば、"法"も情状酌量という温情を与えますが、
罰されること無く、何時も宥されるのであれば、世の中は犯罪に満ち満ちたものとなります。
それを防ぐ為には慈愛は"法"に譲らねばなりません。」
「"罪"についてより詳しく語るならば、
"罪"とは他人の生命、生活を脅かし、社会の調和を乱し、破壊するものを言い、
暴力、破壊の為の闘争もすべて罪です。」
「"正義、正義"と理想理念を掲げて即短絡的な力に訴え、殺人、強奪、
破壊を正当化するイデオロギーは死者と闇の世界の使いであり、
天と光の国の使いではありません。
真理と天は社会の調和と秩序を擁護するものであり、
それを乱し破壊するものはすべて"罪"なのです。
再び"愛"に目を転ずるならば、
"愛"は一部の楽天的なクリスチャンが解釈する如く
"律法"と"罪の観念"を空しくするものではなく、
"慈悲"が"戒律"と"魂の修行"を離れては存在し得ないように、
"律法"を完成するものであることを、
私は何度も繰り返して皆様にお話したいのです。
自己を厳しく戒め、法と戒律を当り前のことと
その如く生きようと志す人にでなければ、
真の価値ある"慈愛"の限界を知ることも無く、
思い遣りと甘やかしの違いさえも会得することは無いのです。」
「精神的に"子供"であることは、社会の甘やかしを求め、
その甘やかされた人生に於て善悪の基準がはっきりせず(社会はそれを与えないのですから)、
従って"罪の意識"も薄く、律法の厳しさを避けて通り、"慈悲と愛"の本質も解らず、
自己愛のあまりに他者への愛も慈悲も理解せぬ盲目の人生を送ることになるのです。」
「自らを厳しく律する者であってこそ、魂は良心の呵責から自由であり、
悩みを持ち苦しみにある隣人への真の愛と慈悲の心に目覚め、
無私の心で手を差し伸べる思い遣りと誠意が生まれてくるのです。
魂の研磨を怠らず、互いに助け合うこと。
それはこのような"律法と愛"、"戒律と慈悲"の中から自然に生まれるものであり、
天はそのような人々に惜しみなく正義の冠を与え、信義と愛で包むものなのです。」
神の法は、自然の法に見出した真理を理念とする、
即ち自然の摂理に適応する、自然の法に従う生き物を生かすもの、それが自然の法であり、
法によって導き、法に生きる者を守る自然の法則を在らしめる真理こそ、
人を生かすを真理とする神の御意志を在らしめるもの、それが神の法です。
神の御意志を明らかにする神の法をこの世が知らないのは、
神の教えを伝えるべき宗教がそれを阻んでいることが理解されていないことから明らかでしょう。
(神の法に背くを明らかにする、それは間違った道に行く者であることを、
人自らを損ねるものであることを明らかにする故に
(天上における審判から人を)救うものとなります。)
全ての生き物が、自然の法の下に生きるを許されているのは、自然の愛の中に生きている、
自然から与えられるを以て喜びとし、自らを与えるを以て他の喜びとなり、自らの悲しみとなる、
それが万物を貫く自然の与える愛なのです。
全ての生き物にその愛を知る能力を与えられてはいなくとも、
彼等は自然の与えた自己愛(同種への愛を含む。
同種への愛すらない自己愛を持つのは人間だけです。)という小さな愛に生きている。
それが自然の与えた本能という理屈は知らなくとも、それにのみ生きている、
自然の与えた本能以外の意志を持たない(本能に異常を来さない限りに於いて)が故に、
彼等は自然の愛から零れることはない。自らの種が自然から棄てられるという不安を、疑いを
(人類が神に対して抱くように)自然に対して抱くことはない。
全ては大いなる自然の愛の中で与えられて生き、与えて死んでゆく、
それが全てを生かす自然の愛である。
自然の法に生きる生き物を見ると、
力あるものに弱きものは食されるというのが自然の掟のようですが、
その力を持つ、ライオンや熊やクジラやサメや猛毒の蛇やサソリは果たして無敵でしょうか。
環境の変化に適応できなければ(種が滅びるまではいかなくとも)個に於て滅びるであろうし、
如何なる生き物も何時かは死ぬのであり、その死体は禿鷹や蛆虫やバクテリア
(は生き物とは言えないですが)などの餌食になっているでしょう。
そのように全ての生き物は自然の法の下に生かされ、
その終わりには他を生かすものになっているのではないでしょうか。
力なきものが力あるものの犠牲になるのが自然の掟のように見えても、
力あるものも、力弱きものも等しく自然(の法)に生かされ、
他を生かす、自らの生命を与えることに於て平等なのです。
自然の法とは全てを生かすことに於て、自然そのものが存在する。
他(の種)が存在するのは、如何なるものも生きる為には、他(の種)が必要だからと、
ガブリエル様は仰しゃいました。
神の法が自然の法に倣うとは、全て(の生き物)を生かそうとするのが法であるからです。
生かそうとする愛を守るのも法であるからです。善と悪を明らかにするのが法です。
自然に適応できない生き物を自然は淘汰されてゆく。
自然の中に生きることを出来ないものは生きる所がないということです。
それは自然が愛を与えられなくなったか、
その愛を求める、受け止める能力をその種が失ったということになるのでしょうか。
自然の法に適応できないものに自然の中に存在するものはないということ。
愛も慈悲もそれは変らない。
神の法に愛は慈悲は従うものとであるとミカエル様が仰しゃったのは、
愛を愛たらしめるのは法であるということです。
愛を妨げる悪の力があるなら、
法の下に悪を滅しなければならない、それを為さねばならないのが法である。
戦うに時がある、破壊するに時があると聖書に伝えるのは、
悪を明らかにするのが神の善である、
神の裁きとは、神の法を犯す者を明らかにするものです。
この世の法を、悪に、権力者に有利なものにする、悪魔によって法を支配する、
そのようなことがなされてきました。
法によって悪を齎すならば、愛も慈悲も存在し得なくなるではないですか。
愛が慈悲が神の法に従うとは、
善を、悪を明らかにするを以て、善を愛するを以て人の心を救うことが出来る、
悪なる心をも盲愛するような愛なら、人を滅ぼす、それは愛ではない。
愛が愛である為には、神の法に生きるを以て神の愛を守らねばならない、
愛を偽りのものに貶めることは許されない、
愛といえども人の心が堕落すれば愛も堕落するもの、
故に神の愛は神の心に於てのみ生きるものである、そういうことではないでしょうか。
この世では悪を為さなければ、
如何なる邪念を隠し持っていようと罰されることはないのですが、
そのように罰されらなかった者、
その悪を悪と知ることなく、悪なる心を自らの本性として育てた魂がどうなるか、
それはこの世をサタンの王国にしようとした悪霊が、
天上界を二分するほど存在したことからも明らかでしょう。
この世を悪にしようとする、その為に人を悪なる心にする意志が存在するということです。
それを認められない人に、納得させる必要はありませんが、
悪を為さなければ何の罪もないとするこの世の法は、明らかに間違っています。
行為に現れる前の、その心に於て育ててきた観念が、善であるか、悪であるか、
この世に於いてはそれは問われず、天上界に於て問われるのは何ゆえか。
善を愛する情念(心)によって育つのが善の観念であり、
その心を自らの心として自覚する、
その精神がなければ悪を前に、悪を許さぬ善に徹する意志は生まれないのです。
そのような善なる心を育てる、導くことが出来る時は、今生に於てしかないのです。
それをこの世の法が認めようとしない、
またそのような法を許すことは、法によって善を阻んでいるということが解らない。
天上界、即ち霊の世界と、
肉体の、人間の生きる世界は別であると考えることが完全に間違っているのです。
この世に生きた者が一人も天上界にいないのならそうかも知れませんが、
この世に生きた者は全て天上界(階層の違いはありますが)に行くのです。
この世の法に於て罪を問われなかったからと
天上界の法に問われることなど夢にも思わなかった者がその心を以て罪とされるのです。
天上界がこの世と何の係わりがあるかと問うていた思いを
天上界でも持っていられる人がいるでしょうか?
人にとって真の幸福とは何か求める心なくして神の法(真理)を求めるでしょうか
(ブッタ様はどうでしたか)。
この世に神の法を望むということは、それを望んでいる神の心に目覚めたということでしょう。
人類の幸せを望んで導いてこられた神の心を信じることが出来たということでしょう。
この世の価値しか理解出来ない心が神に求める時、その心はサタンにしか繋がらない、
新興宗教の信者の心がそれを証明しているではないですか。
神に生きる、その心の幸福であることを、
神と共に在ることの救いを信じる心を、器を得ることなくして、
(この世への執着に満たされた器に、)
神の法(に生きる神の御意志)を受け入れるなど望みようもないことでしょう。
神の法もこの世の法も人の幸福を求めたものに変わりはないのですが、
何が違うのでしょうか。
この世の法(日本国憲法に他なりませんが)は、
権利という名の下に欲望の解放を齎すことを目的に作られたものです。
(天上界メッセージ・エッセンス 「第一部 第九章 一節 (二) 共産主義者の真実」
に詳述しました)
人間の心(意識)を欲望の支配下に置く、欲望に生きる心を作る、
人の心に恩恵を与えるのは自然ではなく、欲望という心であり、
人間の獣化を、欲望による人間の奴隷化をはかるものです。
その心から理性は生まれません。神の与える法に従う心は理性に尽きるのです。
欲望だけでなく、理性に背くあらゆる偽我を理性の下にコントロール(制御)すること。
欲望の奴隷から人の心を救うのは理性しかない、理性による欲望の奴隷化なのです。
欲望に支配された心、欲望を満たすことに生きてきた心に、
理性を、神の心を理解することは出来ないでしょう。
この世の法によって生きる(理性を破壊することを日本国憲法は目的としているのです)
ということは、そのような偽我を解放してきたのであり、
そのような者達(左翼)によって支えられてきたのが日本国憲法です。
このような国にあっても、日本人の心がこの世の法に侵されることのなかった人々とは、
愛に生きる心を知らない、エゴイズムを権利と主張する心の醜さを知る人々に違いありません。
少なくとも天上界はそのような日本人を信じ、神の御意志を明らかにされました。
この世の法に於て、行為による罪を為さなければ、
法に触れることを証明することは困難であることは分かりますが、
悪なる行為を生む心を育てた原因はあるのであり、
そのような悪なる心を育てた条件や環境から悪を生む要素を解明し、
法を以て取り除いて行くことは出来るでしょう。
先ずは如何なる宗教も法に依る保護をしない。
真の神に導くことを以て宗教というのです。
そのような導きを宗教(信者)には神は為されない、
神を求める者は宗教の呪縛から解放されねばならない、
自由な精神の内に神は宿ると神が言われているのです。
何を以て宗教(組織)を特別扱いにするのか、
それをすることはサタンに与する者であることは明らかです。
法が悪を許すものであってはならないとするならば、言葉では良いことを言っていようと、
その実からその木の悪なることを証明されているなら、
宗教を、共産主義を、社会主義を信奉する団体を法の下に擁護してはならない、
まして国家の政党として認めるなど天に対する反逆です。
そのようなことを許してはならないのであり、
そのような邪念を許さない法を作らなければなりません。
左傾メディアは常に詭弁を以て国民を誤導してきましたが、
それをはっきり伝えてゆかなければなりません。
NHKなどは容共のアナウンサーが左翼思想に立っての、
左翼政党を擁護した言動が明らかでした。
天上界メッセージでもそれは指摘されていました。
それだけでも天に於いて断罪されるに十分ですが、
NHKを視聴しない者まで、NHKの映るテレビを持つということだけで、NHKを視聴していると、
それを認めない噓つきの犯罪者は法律の下に裁かねばならないと、視聴料という罰金を命じる。
そのような恐喝行為を法によって擁護してきたのが自民党です。
NHKと同様に、中国共産党という悪魔に繋がった者です。
統一教会とは、日本を韓国に隷属させることを目的に日本人を狙った、
真に悪魔に魂を売った邪教です。
戦前、階級制度に苦しむ韓国の人々を救う為に、
インドの如き階級制度を破壊し、韓国民族を平等にした日本政府を怨む、
特権階級を失った権力の亡者(もうじゃ)が日本に復讐する為に、
統一教会に洗脳された自民党を利用し、
他の民族どころか日本人以上に韓国人を日本において優遇させていった。
統一教会の信者として韓国以上に日本人を入信させようとしたのは、
日本人を韓国人に傅(かしず)かせる、日本人の奴隷化を以て、
韓国での特権階級を奪われた復讐を果たそうとしたのです。
これが救世主のやることだと思いますか。
日本を(悪魔の誘いに従った)エバの名を冠した名(エバ国)で蔑み、
罪の償わせる為との偽善の下に献金を強いた、
日本人を奴隷にする為に、財産だけではなく魂をも奪おうとしたのが統一教会です。
このような宗教を信じ、神に仕えていると一生信じてきた信者が、
悪魔に仕えてきたことを、その魂がサタンに導かれていることを明らかにした現天上界に
神を見出だすことは不可能となれば、神に背を向けサタンに従っていった全ての者達と同様に、
私達が彼等を見ることは二度とない人達であると、
悪霊の犠牲者と見れば気の毒な人達には違いないのですが、
しかし同胞でありながら日本人を韓国の奴隷にしようとした安部元首相(そして自民党)は
売国奴では済まない、悪魔の傀儡であり、度し難い者です。
今も自民党には多くの統一教会信者がおります。
現首相の高市氏も統一教会信者であり、陰の支配者に担がれて総理を座を得たようです。
自民党が創価学会(公明党)と手を組んだのは、
同じ穴の狢だったということです。(2026.8)
第三部 神から授けられた正法
第四章 神の法
三節 神の法と相容れぬ法に従わせることが意味すること
旭川市であった殺人事件を例にとって話を進めることにします。
自分の身を脅かす者が現れる、彼には悪意しか認められない、
戦わねばならぬ相手が真に悪であると確信する、
悪に負けれるということは滅ぼされるに他ならない、
それはどちらかが滅びるまで止むことのない死闘を以て決着する(天上界の戦いのことです)、
また同胞を迫害する権力者の手先を義憤から殺害したモーセ様のような場合とは全く異なり、
自分を有利な立場に置く、相手を不利な立場に追い込む、
悪に染まった、悪の衝動に生きる心を満足させる為、何の罪もない者を殺す、
橋から落ちれば確実に死ぬことを相手に確実に伝える為に、
相手が恐怖から自分に逆らえなくする為に連れ出す、そして恐喝する。
相手が命乞いをするまで怯えて、自分に逆らえなくなるだけでは足りない、
真の恐怖を味わわせずにはいられない、殺意がなくて、人を突き落とせる訳がない。
人の心は何時、如何に作られるのか。
生きる以外に何も知らない幼児は、親に完全に依存する幼児は、
与えられるまで求め続けること以外に何もできない幼児は、
苦しみから救いを求めるように求め続ける。
その求めに応えることの出来ない未熟な親から愛を与えられなければ、その心は成長を失う、
健全な心を、高等感情を育てる大脳(前頭葉)の発達が阻害されるからです。
求めても満たしてくれる者がいなければ、人を信じる心は育たないでしょう。
信じられる者がなければ、心を閉して行くでしょう。
信じる者がなければ愛する心は育たないでしょう。
愛する心が育たないなら精神の成長はない、
外に向かって働きかける心がなくて視野が開ける、精神の広がることはありません。
愛が注がれれば愛する心が育つ、愛が育って人を信じることが出来ないということはないのです。
本当の宝は天に積まれるものであるとイエス様は仰しゃいましたが、
心の宝は、人の心から奪えるものではない、
真理を愛する心こそ宝、それを作るのは、所有できるのはその人だけだから。
その人だけのものである、それが心です。
真理はそれを求める者に幾らでも天より注がれるのです。
それを受け止める心こそ宝です。
人を信じられぬ者は自分の信じるものを隠そうとするでしょう。
世に現れない真理は真理ではない。
世に働き掛けないなら愛は存在しないに等しい。
人に働き掛ける、人の善なる心、愛を信じる心に、
愛を求める心に伝わるものが愛ではなかったですか。
だからこそ愛は残っている、だから人類は生存しているのではないですか。
その愛を踏み躙る、命を奪うような心は既に滅んでいることがどうしてわからないのか、
そのような心を許す社会がそのような魂を作ってきたことがどうして解らないのか。
この世の倫理観が人の心が病んでいることがどうしてわからないのか。
命を奪われた者を守ることが出来なかった、
返って命を奪ったガンに慈悲を掛けるこの世の偽善者は、真の犠牲者に弁明する言葉があるのか、
偽善者を許すような神であると思っているのでしょうか。
幼児の時に育てた心がその人に自我になるのです。
歪んだ心であろうと自我として意識されれば、
後はその自我を守るのが(自己保存の)本能の働きであり、
その自我を満たそうと、守ろうとします。
そのような自我を自ら間違っていると否定することは自我の崩壊であり、
本能はあらゆる防衛機制(心の働き)を駆使して自我を守ろうとするのです。
天上界にその偽我を明らかにされた時、
天上界は偽りであると唆す悪霊を信じて、真の天上界に反旗を翻した背反者が続出したのです。
自らの偽我を天の光の下に明らかにする天上界は厳しい、
自分を解ってくれない、愛がないという言葉が聞かれました。
自己愛に生きて神の愛に生きることを学ばなかった人達でした。
愛した者から愛が返されなかった時に憎しみに変わる、
そういう心が未熟な若い人に多く見られるでしょう。成長しない心とはそういうものです。
愛は奪うものと信じる、真の愛を知らない心は、自分に愛を与えない者は愛さない、
では済まず憎むのです。
人の心を変えることを望む心は、自らの持っていた愛も殺すのです。
【「こじれる人間関係(杉田峰康著)」311頁
「精神的に不安をきたすような感情的な葛藤や、満たされない欲求が、
象徴的に身体症状に置き換えて表現されることがありますが、
これが「転換ヒステリー」といわれるノイローゼです。
たとえば、器質的に何ら異常がないのに歩行困難をきたした幼稚園児がありましたが、
この子の場合、鍵っ子にされることが多く、
したがっていつも母親と家にいたいという願望や幼稚園に行きたくないという気持ちが、
足が痛くて歩けない症状を作っていたのです。」
自分の満たされない思いを、心の苦しみを救う為に、自分を苦しめている者に、
その者の心無い所業のせいで自分の体は、心はこうなったのだと知らしめるなら、
自らを以てしてでも損わせる。
人を許す愛を捨て、人を憎む、責めるを以て人の罪を知らしめ、人を改めさせようとする。
それが自らの心を救おうとする(防衛機制という無意識の)心であり、
ノイローゼという病んだ心であり、それもまた偽我であり自己愛なのです。
未熟な精神に留まるなら、この例の子供に限らず大人であっても変わりません。
真の愛へと昇華することの出来なかった、自己愛に留まった精神は、
人の自由な意志を尊重する心がない。
真の愛によって自らの心(立場)への執着から自由を得ることの出来なかった精神は、
人の(自分に対する)思い、不満を認めることが出来ない。
自己保存の心は、自分を守ろうとする心は、自分の心を変えることを望まない、
変えたくないから自らの悪を認めない。
原因が、罪が自分にあると認めることは耐え難いから、
人に罪があると納得しなければならないのです。
故に自らに手をかけてでも、人の罪の犠牲がこれであると証明せずにはいられない。
〖自分を守ろうとする心(自己保存)は誰にもあります。
その本能を正しく導く理性を、
善に生きることを望む心をこそ守るべき真の自我であると理解する理性を、
奪う偽我の存在を現天上界は教えられました。
自分であると意識される心だけが自分の唯一の心(偽我)である、
それ以外の心を拒絶しようとする心。
真理を求める心、自然の法に生きようとする本来の、持って生まれた本能
(自己保存、自らを救おうとする意志)を奪ってきた心。
それが偽我という心であり、自ら作り出したもの。
偽我の求めを満たすこの世に執着する心を育てる、偽我による、偽我の為に作り上げたのが、
神に背を向けたこの世(に生きる人の心)であると現天上界から教えられました。
それによって、悪を、偽我を、明らかにする光を以て、真の天上界の善が証される。
その善の現れを以て、
この世を善に従わせる為にこの世に現れた天上界の存在を知らされたのです。
それによって、悪を、偽我を明らかにしようとしない宗教は、
神の真理に生きるものではないことが証明されたのであり、
それを認めまいとする宗教は、サタンに従うものであることが証明されたのです。〗
自己愛とは、自らの心の苦しみを救おうとするものです。
その為に生命を失うことになろうと、その痛み以上に心の痛みが大きいなら、
心を救おうとするでしょう。
(自殺する人というのは、それで心の苦しみから救われるという希望に縋っているからと思いますが、
心が病んだ状態で死んでも、魂はその苦しみから癒されることにはならない、
心を苦しめているのは肉体の生命ではないのだから、生命を滅ぼしても何の解決にもならない、
心を苦しめている問題を解決しない限り癒されないのです。
自分を苦しめているこの世から逃れれば、苦しみから逃れられると思うからでしょうが、
その心はこの世に執着しているのであり、憎しみから自由になっていない魂は、
この世の憎むべき悪党に引き寄せられてしまう、
そのようなこの世に執着する霊が、この世に彷徨っている。
何故彷徨っているか、
その苦しみの原因である執着心を克服できなかったからではないでしょうか。
本当に死ねば天国に行けると思って、自殺を選んだのでしょうか。
自分を愛してきてくれた人々に対する、
神に対する答えがそれであると信じたのでしょうか。
そのような地獄しかこの世にないから、
死んで天国に行くように神が導いていると思ったのでしょうか。
そうではない、執着心が、自分を愛してくれる人々がこの世にいるという希望を
見失わせたのではないでしょうか。】
人の自由意志を尊重する、愛する心を知らない、
真の愛は自由な心に生きるということも知らないからです。
それまで愛されてきても、愛されなくなれば、裏切られたと思うのです。
愛されていた間に心は成長出来なかったのです。
また長年連れ添ってきた、互いに信じ合っていた夫婦さえも、
高等感情を司る前頭葉の脳細胞が萎縮、死滅すれば、全くの別人格に成り果てる、
善人が悪人に変ってしまうのが人の心(心は正常な肉体に大脳に依存するものだから)です。
幼児の時に愛を与えられず成長が止まってしまった、成長する時期を失った心は、
外部からの刺激に反射するを以て視野が開ける、自分を生かしている世界を知ることなく、
大脳を開発することなく、精神の退行を迎えることになるでしょう。
成長する意志だけが自らを救うのです。
(勿論、外部から摂取したもの(薬害を含む)がアルツハイマー等の原因となる場合は別です)
人類がまだ神の心を理解し得ない、理性を育てられなかった時代は、動物と変らない、
力を持つ種族(民族)に支配された種族(民族)は奴隷の如く生きるしかなかった。
この世は力ある者が支配する世界に生きる力なき者に自らの意志に生きる自由はないと、
そのような世界に生まれてきた者の心に自らの意志に生きる精神を持つことの出来ることを、
この世の力では奪えない心を与えることの出来たのが神でした。
奴隷の身となりながらも、神への信仰を失わなかった、絶望しなかったのは、信仰だけではない、
神自ら明らかにされたその意志に人々は神を、神の思いを見ることが出来たからでした。
常に正しい心にある者には神がいることを、虐げられた者を、
苦しんでいる者を心に留める方が神であることを、人は信じる心を育てることが出来たからでした。
その神が隷属をしいられた人々に初めて与えられた神の法が、"目には目を"でした。
そのような人々に、悪に屈しない善があることを、
その善を以て悪に君臨する神が悪に屈しない意志を人々に齎す神の法を与えられました。
悪を為す者に、その悪を知らしめる法を、
その悪ゆえに自ら滅びることを明らかにした法を神は与えました。
"目には目を”、悪を為す者には、その悪を自ら受けることを以て悪を知らしめる、
それが善の証、神の意志の証である。
人の心を悪から救う為には、善しかない。
人に苦しみを与えた者に、その苦しみを知らしめることで、
人は自らの悪なる心を知る者となるであろう、
その為に神が与えた掟が"目には目を"でした。
この教えの趣旨は、人間の持つ(自己愛に根ざした)復讐を奨励するといったものではなく、
虐げらえた者に神は共に在ると、
力弱き者と侮る高慢に、サタンに従った心に、神の与えた警告であった。
心弱き者に神の御意志に生きる強さを教えるものであったと思います。
それを知るだけでは神の愛を理解することの出来なかった人類に、
神の与えられた新しい規律、"自分にしてほしいと望まれることを人にせよ(※)"、
同様の教えに、"自分にされたくないことは人にしてはならない"という教えを与えられた。
それは人の苦しみを、悲しみを理解しない者に、人の心を知る者となるように、
神の愛を為すことで神の愛が返されるを以て人の心を知る者となる、
天上にあって繫がるからです。
"目には目を”、それは神の法故に、悪を憎む、悪に克つ善を意識させることが出来ましたが、
善なる心が育つことなくして善に生きることは出来ない、善なる心は育てなければならないもの、
そしてそれを育てるのは、善への愛、善への信頼であり、
それを知らしめるのは、神、聖霊の御心以外にない、
その心から真の善を学べない者に、
研磨の定かでない人間からどうして真の善を学ぶことが出来るのか、
神の御心を理解せずして神を愛しても善なる心は育たないということ。
それは何時の時代の宗教もそうでありました。
神の導きに生きるとは、神の与えられた法に生きるということ。
法に生きるとは、善を、善に生きる心を守ること、
悪から善の心を救う為に法があるのだから、
罪を犯した者が自らの罪を認めるだけでは善なる心を証するものではない。
償いをしようとしない心は、真に自らの犯した罪を知った者ではない、
罪の重みを知ったなら、自らの裁かれることを知ったなら、救われたいと
(その心を知って、自分に救いを奪われた者の苦しみを思い知るであろう、
これこそ"目には目を”の教えが生かされるということでしょう)、
その為に神の備えた道は、償い以外にないことを知るのです。
償いを終えたと言えるのは、その心の悪が浄化されたということ、
神に許される心はそれしかないのです。それが済まない内から、
何十年後には刑に服し終えることを極悪な犯罪を犯した者に約束するのは、
罪を償うという真の許しの理解を奪うものです。
このような法が、神の与り知るものである訳がありません。
そのような悪なる心を研磨することが出来ず、
善への愛を以て自らを罪から守る意志に至らなかった者が、
刑を終えて、自由になり、再び何らかの罪を犯すことがあったら、
法が罪を犯させたに等しいのではないか。
「慈悲と愛」80年3月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「目には目、歯には歯を、と言うのは、決して字義通りに解釈すべきものではなく、
奴隷として卑屈な生き方を強いられてきたイスラエルの民に自己を守る強さを教え、
心理的に奴隷であることからの解放を目指したものなのです。
聖戦もその延長でした。」
(※注。
精神分析の解明した防衛規制という心の働きの一つに「投影」というのがあります。
「こじれる人間関係(杉田峰康著)」297頁
「人は、Ⓒ(子供の自我状態、正しい行動を明らかにする理性が未熟なので、
快不快の感情が行動を決定する。
間違っていようと楽しければ躊躇せず、正しくても苦痛を伴えば行おうとしない)
が自分にとって耐えがたいほど不快になってくると、それを外に投げ出し、
相手のものとみなして、楽になろうとする場合があります。
これは一般にⒸが大きく、Ⓟ(親の自我状態)が小さい(まだ未発達)人がよく使う防衛です。
たとえば、自分が誰かを憎んでいる場合に、その相手が強すぎていかんともしがたいと、
相手が自分を憎んでいるから恐いと感じることがよくあります。
つまり、憎悪という©を、自分よりむしろ相手に属するもの、
したがって相手から発信されるものと感じるのです。
また、Ⓟが小さいので自分に対する批判力に欠けるため、
不快な出来事をすべて相手や環境(生育歴を含む)のせいにする傾向が見られます。
責任転嫁、他罰主義は代表的な投影の現象です。」
例えば、子供の時に、親に伝わらなかった思い、
満たされなかった思いを叶えてくれそうな人を見出した時に、
その人があたかも自分の親のようにその思いをぶつける心理を投影といい、
それによって今まで満たされないでいた思いを叶えようとする心の働きのようです。
その解説に挙げられた例の一つにこういうのがありました。
「病棟内で自分のことはそっちのけにして、他患の世話ばかりやいている患者。
これは自分にとって受け入れ難い要望(たとえば人からケアされたい)を、
愛他主義の形で他人に投影しているのです。」
これが投影なのかどうか解りませんが、人に愛してほしいと言えない気の弱い者が、
自分の思いを分かってほしいという切なる思いを伝える唯一の行為、
人が喜ぶ善行をすれば顧みてくれるであろう、
彼のその思い(心理)は充分に理解出来るものではあります。
そこで問題なのは、自分を愛してほしいという思いから人を愛するのは、真の愛であるか、
ということです。
「天国の証(78年8月初版)」34頁 ミカエル大王様メッセージより
「神と結びつく善我とは、真に悔いなく働きかける心、 ー
即ち憐みを掛けたいと願い、与えたいと願い、働きたいと願い、尽くしたいと願う ー
それが素直な心の動きでなければならないのです。
自己を偽り、強制することは真の善我ではありません。
何故ならば、強いられてする行為には、何時も後で不快な気持ち、疲労を覚えます。
その行為に喜びと満足感が付いて来なければ、それは善我ではなく、偽我なのです。
神と結び付く善に苦しみや、悲しみや、功名心、見栄、虚栄は存在し得ません。
もしそれがあれば、それは偽善なのです。
善に基づく自然な心の流れが第一です。」
このようにミカエル様は、善我について説明なさいましたが、
自分の本心、自分を愛してほしいという思いを偽って、本心をごまかして、
人を助けたいからと、人の望みを叶えてあげたいからと人に尽くす。
そのような偽善を続けて行けば、鱗のように偽我に積って行き、
やがて偽我は善我を圧し潰すものとなるであろう。
自らの善我を滅ぼすような思いが愛である筈はなく、
自他の心を解放するどころか、心を縛るものでしかないでしょう。
あなたのことを思ってと言う親の言うままの人生を歩まされて、
自由な精神を育てた子供がいるでしょうか?
自分に尽くしてほしい、自分の思いを満たしてほしい、その為に人に何かをする、
それが人の精神に自由を与えるものである訳がないではありませんか?
イエス様は、「人からしてほしいと思うことを人にしてあげなさい」と教えられましたが、
これが善なのです。
そして人が善であると確実に理解されるのは、自分にされてうれしいからではないですか。
お互いに善への信頼を持つ者同士の場合に限られるのですが、それでよいのです。
聖なるものは犬に与えるなとイエス様は仰しゃいました。
また愛を受けるに値しないものに愛は与えられるべきではないと
天上界は仰しゃっておられるのですから。
(心の歪んだ、悪を喜ぶ者、偽我に生きる者、自らの善我、
良心の声さえ煩わしいものものと耳を塞ぐ者にとって、
人の善我からの言動は、偽我の心には不快なものとしか伝わらないでしょうから。)
イエス様の教えは、そのような善を為せということであって、
自分に善が為される為に、自分の欲望が満たされる為に、
人に善を行えとイエス様は言っているのではないでしょう。
それは善ではない、愛ではない、金銭と同じである。
人に見せる為に善を行う者は、すでに報酬を得ている。
隠れたところで善を行いなさい、そうすれば神が報いて下さる。
それが神の愛である、神の愛を知らぬ者は愛を知らぬ者である。
イエス様の言われたことです。
人が求めていることを思い遣ること、その心から為す、それが愛であって、
善の心なく、自分の欲望を満たす為に善を為すは偽善に過ぎない、
そのような偽りの愛は、決して人の善我に伝わるものではない、
人に愛を起こさせるものではありません。
天国に迎えられたいから善行をする、
本人は善行をすれば神は喜ばれるからとしか考えていなくても、
その心に隠された欲望、天国に迎えられたい、善行をすれば神は自分を救ってくれる、
その心は神の御意志を自分の望み通りに動かそうとする高慢さえも気付かないほど
欲望に満ちた心であるということ。
そのような心と、ただ苦しんでいる人の助けに少しでも役立てばと善行をする、
誰に知られることなく自らを誇らない心と、どちらを神は多く愛するか、
これも聖書を読めば歴然であると思いますが、
かつてキリスト教会は天国を約束して免罪符を信者に売りつけた、
そしてそのような行為を神が認めなさると、
悪魔の如き心を神の御心であると信者を信じさせた宗派です。
今も彼等はその心を持っている、教団幹部は信者の寄付で肥え太り、
その魂を腐らせていることを信者が理解出来ないのは、
そのようにキリスト教会は信者を導いてきたからです、
サタンに導かれた宗派であるからです(自民党も同じ道を行く者に見えますが)。
宗教に縛られた人々ではなく、
またそうでありながら神の御心の伝わる心を持った人々の前に、
現天上界は現れ、語りかけられました。
現天上界を神であると理解した者は、
そのような心に導かれてきたことを理解出来た者でありました。注終)
本題からだいぶ逸れてしまいましたが、
命乞いをする者を平然と殺しておいて、裁判では殺意はなかったと言ってのける、
そう言えば、殺意があったと言うことよりも悪意はなかったと
この世の司法は判断されるからでしょうか。
その罪の報いが死刑であっても自分以外の誰もそれを不当とは思えぬものでしょう。
人を不幸にさせる、苦しめる悪を憎むから善なのです。
悪を憎む心が善が何であるかを知るのです。
悪を憎まぬ者が善を語るを偽善というのです。
動物に悪がないのは、法に従う心しかないからです。
(動物は法に生きようとする心を本能として持って生まれてきますが、
人間という種は、その本能の支配し得ない大脳の領域を得たが為に、
その心に理性を開発することも、
また欲望を実現する為の悪の知恵を開発することも可能になった、
そういったことが関係しているのかも知れません)
法に背いてでも、人を不幸にさせても、喜んでいられる心、
悪を愛する心を人間は持ったが故に、悪に苦しめられる人がいるのであり、
神はそのような人を守り、その魂を天国に迎えてこられました。
悪を憎まぬ者で天国に迎えられた者はおりません。
悪なる心が罪を犯す、法を踏み躙って、自らの悪の升目を満たす、
そのような心を天の法は許しません。
自らの悪を認めない者の罪を軽んじるなど悪を容認する心以外にないのです。
この殺人鬼は、自らの罪を軽減する為の虚言であったとしても
"一生を懸けても償えぬ罪を犯しました。死刑になって当然です"
と自らの罪を認めるような言葉を言ったら不利になると考える、
その怜悧な心しか持たないからです。
殺すつもりはなかった、殺意はなかった、罪と知っていて犯したと言えば不利になる、
ついかっとなって蹴ってしまったと言いくるめるのだ、
そういう心の何を以て改心すると、
自らの悪を悪と認め憎む、善を愛する心を育てることが出来ると、
裁判官は、弁護士は信じるのか。
何ら抵抗することも出来ぬ者を、虫けらのように殺したその冷酷な心を見て、
まだ救えると、救うべきであると考える、真に殺された者への悲しみがあるなら、
罪を憎まない筈がない、罪を犯した心は自らが滅せられることを知った時、
真に己が悪の生きる世界はないことを知らしめることが出来ることを知らない筈がないのです。
その悪の心を罰しても尚、憐れむべき心が残っている者のみ、
善なる心を育てる余地があると認めることが許されるのではないか。
罪を犯した自分を守ることしか考えぬ心を削り落すのは、その者の善だけであり、
それを為さぬ魂を天は迎えなることはありません。
生命を、しかも同じ種である人間の生命を軽んじるその心を天上界は許されません。
天に於て殺人鬼への審判は消滅以外にありません。
地上の判決でその生命を伸ばした所で、死後待ち構えている魂の審判は魂の死刑のみです。
神の善を知らぬこの世の裁判官が、その罪を生んだ悪への憎しみから悪の芽を摘むことよりも、
反って悪の温床を守ることに加担するなら、その心は天の審判に耐えることが出来ないでしょう。
天の法廷に於いてその者の心のみ測られるのであり、この世の如何なる肩書
(裁判官であろうと弁護士であろうと)も自らの心の罪を軽減し得るものはありません。
その責務を怠ることになるなら、その罪は世間の人に比ぶべくもないでしょう。
神の法と相容れぬ法に人を従わせるということは、
神の法に抗う魂を作るというサタンの意志に与することになるのです。
司法に関わる者がその理解を疎んじるなら、盲が盲を導く譬えの真意を思い知るでしょう。
神の法の真理を尊ぶならば、
この世の法に従う心が神の法に背くことも解らないようであってはならないのです。
罪の誘惑に負けた、感情に理性を奪われた、善が悪に敗れたかのように言われますが、
それはその者が善の立場に在った場合に言えることでしょう。
彼等が善に立っていたなら、罪を呼び込むようなことを自分でする訳がないのです。
寧ろそのような罪に陥れようとする者を、自己保身から逆に殺してしまった
(これは正当防衛で無罪です)ような者に言えることでしょう。
悪魔の思想がこの世の風潮に浸透している、
悪の種というのは、善の種を、真理の種を抜き取られた魂に於て実るものです。
悪の種が、その根を張り、幹を伸ばし、実を結んだではないですか。
その業を以て悪魔の魂であることが証明されたのではありませんか。
その魂には善はないのです。
善があったなら、悪の種の魂を侵すことを許さなかったでしょう。
悪に侵されるということは善(の観念)が破壊されたということです。
そのような悪に侵された魂とは、もはや種ではない、種は悪の魂そのものになったのです。
その魂から悪を抜き取ることがどうして出来ると思えるのか、
そのような回心をした凶悪犯がいたと、
そのような回心をさせたのがこの世の法であると言うのですか。
そのような回心が出来たから彼等の罪を許したのですか。
刑期を終えたから、この世の法が許しただけではないですか。
この世の法に人の心が判る訳がないでしょう。
善を愛し、悪を憎む者がこの世の法を作ったとでも思っているのですか。
自ら善の観念を摘み取った、悪魔の邪念に満ちた魂は、天に於いて焼き捨てられると、
神は聖書に伝えてきたことを学ぼうともしてこなかったのがこの世の法です。
法が悪を守るなら、神に抗う意志の下に為されるものであるのは言うまでもないことです。
この世の法(日本国憲法)は悪魔の法であると言うのはそういうことです。
(注。
「JI」83年5月号 ラファエル様メッセージより
今月は"優しさ"と"慈悲魔"の違いについてお教えしたく思います。
なかなか正見・正思の基準が判らぬ感情のようですから。
与えるべきでない者(正法の基準がそうであるということ)に慈悲を注ぐことを
"慈悲魔"と言い、それは左翼学生の過激派がテロ行為によって罪なき人々を死傷させ、
しかもその学生を弁護して無罪判決を勝ち取るようなもの、
悪魔的な行為の者に慈悲や許しを与える弁護士や裁判官がそれによって
魔性と化したことを指します。
それは"優しさ"ではなく、悪に加担する行為であるからです。
溺愛の余り、非行少年に協力して犯罪を犯させ、
その後も改めない息子を真の犯罪者として成長させ、世間に恥を晒す母親も同じです。
では"優しさ"とはどのような形で現れる心情でしょうか。
法の裁きに於ける"情状酌量" ー 人間愛がそのような心情を齎します。
"慈しみの雨、即ち慈雨"のような心の働きを言うのです。
愛を知らぬ者、人を愛する術を知らぬ者は"慈雨"の如き感情も判りません。
それは形式的にこれこれの限界があると解釈する物差しを持たず、
しかし強いて言えば水に溺れる者を救おうとする感情に似た行為です。
動物を飼育する時、人間とは違って殆ど無理な要求を出さず、
赤児のように生命維持の為にのみ、何かを訴える場合が多いのを気付く人は、
優しい心の持主です。
愛や慈悲を知る人です。
その同じ心が尺度と言えましょう。
人とて同じ。その人の危急存亡の時、生命、生活維持の為に助けを求める時、
手を差し伸べるのが真の愛であり、慈悲であるのです。
勿論、足りて豊かにある所へ年金生活を勧めたり、
福祉にのみ力を注がせて市や国を弱体化させるを目的とした共産主義者及び社会主義者は、
"慈悲"に名を借りた魔性の者。
悪を企む無法者。国を滅ぼす者。
正法者が決して真似てはいけない思想です。」注終)
如何なる冷酷な犯罪を犯した者も愛を与えれば改心するというのは盲信、あり得ないのです。
神(ヤーウェ=エル・ランティ様)の愛を以てしても、
サタンとなった弟(ダビデ)の心を改心させるには至らなかった。
神の愛は宿らなかった、善を愛する神の心の目覚めることはなかった。
それは神も、悪魔も人間の心に変わりはないからです。
神は全能である、何故なら神の心である愛が全能であるからに他ならない、
そのように考える自分を謙虚であると己惚れてきた心が、
神の心へと成長しようとする意志を自ら摘み取る悪魔の業を悟れなくしてきた原因なのです。
神の心は人の心である、人が神の愛を持つ時、人は天に繋がる。
天に繋がる時、神を、善を、善に生きる真の神の心を信じる者となることが出来る。
その心こそ、人が持ち得る神の心なのであり、人は神の心を持つことが出来ると信じる時、
どこまでも善を貫く心を見失うことはないと自らを信じる心、神の善に対する絶対的な信頼、
自らが持つべきものと信じる善こそ人の心に於いて絶対的に信じるべきもの、
如何なる思いも善の前に屈服させ得るものとする、
真に人を悪なる心に対して全能な心とするものと信じられる時、
それこそ人の信じるべき全能、自分の心はどこまでも自分の信じるものである、
自分を裏切るような如何なる邪悪な心にも屈しないものであると信じられることこそ、
人の望むべき全能の力ではないか。
自ら神のご意志を為そうとする心にあって悪魔の高慢に陥ることなき、
真の神の御心である謙虚さ、優しさに繋がる心であることが出来る。
自ら善を為そうとする意志を忘れ、神に、愛に依存する心に自らを縛るは、
神の心へと成長する意志を自ら摘み取るものであるとする理由です。
"GLAの信者は悪霊を救えるものと、慈悲を以て(鴨が葱を背負って行くように)
悪霊に働き掛け、反って憑依された。
彼等が悪霊の本性を見誤った原因"
「天国の証」 サリエル様メッセージより
「多くの人々は高橋信次氏を通して迷える霊を救う為、
慈悲と愛の言葉を掛けるよう天上界が指示した ー
それを唯一絶対の除霊法と信じ込んでいられる所に誤りがありました
(自らの愛に溺れたということでしょう)。」
人を見て法を説けという教えを理解できていなかったのです。
また愛は受けるに値する者にのみ与えられるものである、
受けるに値しない者がそれを受ければどうなるか、
聖なるものを犬に与えれば彼等は襲ってくるであろうと仰しゃった
イエス様の教えさえも理解していなかったのです。
【「JI」84年9月号 ミカエル大王様メッセージより
「又、正法以前の問題ですが、自閉症ないし自閉的な性格を持つ人は余程努力をしないと、
自己愛とエゴイズムから抜け出ることは出来ません。
過去に愛されなかった代償を求めて、人の愛を待つだけでは、片輪な人格は直らないのです。
永久に子供の領域から出られません。
まず人の好意に感謝し、素直な心で人と交流するのです。
動物を愛し、人を愛し、愛されなかった人は愛することで自分の人生を豊かにする以外に、
自分の性格の歪みを直す方法はありません。
父性愛よりも母性愛から始めて下さい。」
人から愛を得ることしか望まない心は、自分の未熟な心から成長することはない。
自分の心を救うのは自ら成長しようとする意志である、
人を愛する意志だけが自らを神の心へと成長させることが出来ると
ミカエル様は仰しゃっているのだと思います。
人が成長する時に愛が与えられなかった、愛する心を育てられなかった心が、
愛を奪う心を作ったのです。
そのようにして得た(エゴイズムを満たす)愛は、成長させるのではない、堕落させるのです。
それが奪おうとする心です。
そのような心を救うのは、自らの意志で愛する、真の愛を以て成長させる以外にないのです。
真の愛が与えられた者が愛する心となるように、
それを損なうものが与えらたら愛を知らぬ心に育つということでもあります。
そのような愛を育てようとする者がいなかった、
それとも受ける者の心が損なわれていたのか、愛を育てることがなかった、
その心が自分であると、そしてそれで一生を終えていいと思わない心があるなら、
そのような者に、神は言われるのです。
神の教えを以て生きよ、人を愛せ、その愛が自らの心を神の心へと成長させる者となれと。
そのような心に、神が救いの手を差し伸べているのです。
神の救いを信じることが出来た時、その心は神の救いの中に在るのです。
神を信じるとは何を以て言うのでしょう。
神の御心を、愛を知ることなくして、信じることが出来るでしょうか。
如何にして人は神の御心を、愛を知ることが出来るのでしょう。
神の導きに生きる、神の与えられた教えに生きること、
神の導きに従う者に、神を信じる者に、どうして神が共に在ると思わないのか。
それを信じようとしないから、神は共にあると語りかけられたのです。
それでも信じられないのでしょうか。
それが信じられる心に、神はその思いを、ご意志を伝えられるのだと思います。
それが出来ない神であると思われるのでしょうか。
神の愛とは、人の心を神の心へと育てるものです。
神の導く道を生きることで、人は神の心を育てることが出来るのです。
神の心に生きるとは、神の思いを理解することであり、
人類を救おうとしてきたその思いが、神自らの心を神たらしめてきたのです。
だからこそ神はかつて人間であった、神は人間の霊であると言えるのです。
それを聞いて、神を我々と同じ人間である(であったのであり、であるのではない!)
と考える者は救いようのない者です。
神の御意志を理解し、自らの意志として生きるということ、
神の心に生きるとはそういうことだと思います。
愛によって救われる心を救おうとするのが真の愛です。
神を信じ、救いを求める心を救えるのは愛だけであり、
真の愛を拒む心は、神の救いを拒む心です。
神が救おうとされる者にならねばなりません。
真理に素直な心にならねばなりません。
それが出来るのは、自らの心から真理への愛を、
人を思い遣る心を奪っている偽我を追い出すことが出来るのは、自分の意志だけです。
神の与えられた真理に、神の救おうとされる愛を見出したなら、真理への愛を以て生きよ、
その心に神の愛は宿ると神は言われるのだから、
私達が神に救われたいと望むなら、その意志を以て生きる以外にない、
それを拒むならそれが自らの意志であり、
その意志が人をどのように導くかは、知らぬ者はいないでしょう。】
"サリエル様による憑依に付いての証言"
「天国の証」 サリエル様メッセージより
「人間の中には本質的に存在する崇高さと獣性、
それは神から来たものと悪魔から来たものなのです。
純真で美しい心の人が(そうでない人もです)、
ある契機を経て突然に堕落し、或いは犯罪に走り、悲運の坂を転げ落ちる。
これは四次元の悪霊の干渉に因るものなのです。」
悪霊の憑依など理解出来ないでは仕方が無いかもしれないですが、
自己保存という本能は、自我への執着心を作るのです。
悪霊の憑依によって自らの偽我を強化してきた者から憑依霊を天上界が取り除いても、
自らの内に善なる心が育っていないのだから、
もっと強い悪霊に憑依されることを譬えで以て聖書に書かれています。
自らの偽我がそのような悪霊を呼び寄せるのです。
愛を全能の神のように信じる。
何を以て信じるのでしょう。
たとえ真理を見出していなくとも真理に生きる心こそ真理を得ているのです。
人を生かさないものは真理ではない。
あらゆる生命を生かしてきたのが真理なのだから、真理に背く心しかない者が、
真理とはかくかくしかじかと理解したとしても何の意味があるでしょうか。
真理を理解する心は理性です。
その真理を見出したなら、その道に悪が立ちはだかろうと、真理を貫く、
悪の前に倒れようとも、その道だけが人の心を、人類という種を救うものである、
神の法とは、人の心に自由を齎すもの、
自由とは真理に生きる自由であり、心が縛られていて如何なる自由もない、
神の法とは人の心を正しく育て導く指針です。
孔子様が真理を知ったら、その日の夕べに死んでも悔いはないと言われたのは、
正しい道に生きることが出来た、自らの魂を救うことが出来た者に、
真理が明らかにされずに誰が真理を知ることが出来るというのか。
正しい道を生きる者は必ず真理の前に心は開かれるであろう、
もし真理を知る時が訪れたならば、それは自分は真理に生きてきたからなのだ、
神に導かれてきたからなのだ、自らの魂を救うことができたからなのだという
真理への信頼に満ちた言葉だったのです。
肉体の滅びた後に現存する魂を、天の愛を信じていられたに違いありません。
真理を悟るには理性がなければなりませんが、
真理であると知ったら、真理に目が開かれたなら、人を救う、人を生かす正しい道を知るのであり、
利益や人の賞賛という偽我の喜びなどよりも、
掛け替えのないのが真理の道であることが信じられるなら、
正しい道にあるのであり、神の導きを確信する真の道を見出すであろう、
心の目が開かれるまでは、内なる神の声を信じて正しい道を行くのです。
真理の道は天の与えた、天に繫がる道である、信じるとは真理への信頼です。
その道は神の心を育てる道なのだから、必ず神の存在を、その心を確信する時が訪れるでしょう。
真理の悟れない心は闇である。
真理に目が開かれずして、どうして偽善者を、サタンの誘いを見抜けると思えるのか。
その自惚れが真理を知らぬ闇であることが解らないのか。
盲を導く者が盲なら、共に穴に陥るだけであると、
昔から警告されてきたのはそういうことでしょう。
真理を見出せない心に向かって天上界を信じろなどと天は仰っているのではありません。
そのようなことを言うのは偽りの神だけです。
神の愛を知らず、神の愛する善とは、徳とは何かも学ぶこと無く、
(偽善者の)左翼が、(偽りの)愛を与えれば人は改心させることが出来ると、
そのような考えが育てたのは偽善者だけであることも彼等には理解出来ないのでしょう。
「希望と愛と光」81年8月号 ガブリエル様メッセージ全文
「赦しについてお話ししましょう。
あなたは今迄に、完全に人を赦したことがありますか。
忠告が嫌悪感を持たぬ憤りから来るように、
それが出来るのは憎しみという執着を持たぬ怒りです。
怒りが義から来るように、赦しは愛から来ます。
人の求めるままに行うことではなく、足らぬ所を補ってやるのが優しさであるように、
赦しも又、後悔にではなく悔い改めに与えられるのです。
愛から出る行動は、人を立ち止まらせず、常に前へと歩かせます。
この意味で赦しは癒しとなるのです。
自分を見詰めることさえ並大抵ではないのに、
まして他人を自己の尺度で計ることなしに認識することは難しいことです。
あなたがもし誰かのことを怒ったり、快く思っていないのなら、
その感情が胸に黒くつかえてないか、憎しみを持っていないか確かめてご覧なさい。
その者が改心して良い人になるのを望むか、落ちぶれ果てて赦しを乞いに来るのを望むか、
あなたは前者を無理なく選べますか。
(注。殺人鬼や、悪霊や、
サタンが人類を堕落させる為に、この世に地獄を齎す為に作り上げた悪魔の思想、
共産主義を善と信じる、即ち神の善を、悪と拒絶するイデオロギーの狂信者や、
現天上界の計画(現天上界が二千年以上前から日本民族を導いてきたこと、
そしてその時からそれが明かされることを預言し、
現天上界の計画の下に天上界の真実を、天上界の意志を、神の法を、
神の民として導いてきた真実を伝えた)
の実現を阻止する為に、この日本近辺に出現したあらゆる新興宗教は
すべて神の計画を妨害する為にサタンが拵えた団体であり、
その信者はその事実を知らないものであろうと、
サタンに従い神の計画の妨害に加担した者であり、
神を求めながらサタンの道を悟ることの出来ぬ魂へと導かれた
(善我を滅ぼされた)魂であるが故に、神の救いから自ら堕ちて行きました。
よってこれらの人々は善意を以て臨むべきとする対象には入りません。注終)
ですが、赦しは悔い改める者に無条件に与えられるものではありません。
償いをせねばなりません。
(注。罰せられることなく、償われることのなかった罪ほど天上での罰は重いものです。
この世に於いて捕まることなどないと、その邪悪の道を生きる知恵に慢心した魂に、
また多数が一人をいじめる、共産主義者の総括、吊るし上げと同様の悪魔の心を以て、
一人の人間を自殺に追いやる、その犯人を特定出来ぬからと、無罪放免を良いことに、
良心の呵責さえも抱くことなく、償うことも、悔い改めることもなかった魂が、
彼等に殺された魂が原告に付く天上の審判の場に於いて、
如何なる報いを受けることになるか、彼等には想像も出来ないことでしょう。
神の法に従うことを知らぬこの世の法は、
人の魂を救うことなど関係ないと思うのでしょうか。
魂を救うとは人の心を救うことに他ならないことも知らないのでしょうか。注終)
義の怒りが愛の赦しへと繋がるように、癒されたなら、
自ら義人となって歩むようになるのです。
これを目覚めたと言います。」
義人を装おうとする内なる偽善に目を逸らす心、
善を愛する者と盲信する自己肯定の心、
偽我なる心に無知であり、自らの内に巣食う偽我に飼い慣らされていることも悟れぬ、
自らにあまりに無知な者が、人の血を以て自らの偽我(悪魔の心)を満たす。
自らの罪を償うことよりも罪(に相応する罰)を軽くするように悪なる心を繕う、
改めることなき心を以て救うと考えるを慈悲魔という、
神の愛に繋がることなき心であると天上界は教えられました。
天の光の下に来るものは、神の善を明らかにする喜びに満たされた者だけであると、
聖書は伝えています。
そのような神の善を愛することをしらぬ、悪を悪と思わぬ心が愛を騙っている。
愛は罪人を改心させることが出来ると言う。
愛があったらそのような罪を犯し得なかったであろう愛なき者に、愛を与えられると言う。
慈愛が注がれることなく、枯れ果てた善なる心を蘇らせることが出来ると、
そのような愛を誰が与えられると、誰がそのような愛を持つと言うのか。
そのような愛は存在しない。
愛を受け留める心のない者に愛を注ぐは、ザルに水を注ぐが如しというのが、
何千年と人類を救おうと導いてきた、
自ら滅びに向かう偽我に生きる魂を見守ってきた天上界の人類の心に見た真実なのです。
愛に生きる神の救いを地に擲ってきた、自ら望んで滅びの道を選び取ってきた人間の心です。
そのような者の心を救うとは、如何なる心を以て言うのか、
それを為さしめる愛とは何を以てそれを言うのか。
それを証するものが何処にあると言うのか。
彼らはこの世の法を地獄のものにしようとする、地獄の意志に生きているのではないか。
真に自らの罪を知った者、罪から救われることを知って、神に救いを求めないなどあり得ない。
この世に救いを求めるなら、彼等は自らの魂に、悪なる心に苦しんでいるのではない。
人を殺めたという罪、償いの道さえ見出せぬ盲目の魂に苦しんでいるのではない。
自らの生命を失うことに、罪に生きる心の自由を失うことに苦しんでいる。
そのような偽我を満たすことが救いであるとするなら、
真に人の心を堕落させることで、罪を罪と思わない、
罪を犯しても苦しまない心にするを以て救いとする、
悪魔の意志に生きているに他ならないものでしょう。
罪に苦しむ者を救ってきたのは神である。
神の前に自らの罪を認める、悔い改めよという神の救わんとされる信念を信じ、
神の導く善なる道、救いの道、償いの道、苦難の道を行く者に、神の慈悲が与えられる。
そのような神の心を知ることが出来た者は、神を愛する者は、
神を悲しませたくないと、神の愛を裏切りたくないと、
自らの罪に、悪に生きる心と戦うことが出来たのではなかったか。
神を、愛を知ることなき闇に生きる者を、
神の法に繋がることなき、神の光なきこの世の法に救えるものであろうか。
神の法に生きることのない者が、神の心を自ら殺した者の心を救えるなどと高慢な、
悪魔の如き自信を持つのでしょう。
〖備考〗
現象テープ№12 79年2月1日 ミカエル大王様現象より
「人間としてありとあらゆる欲と灰汁(あく)を持ち、
不道徳なこと、人に嫌われるようなことも、
社会で成功する為、名誉を得る為、平気でやってきた人が、
成功と名誉を勝ち得た時に世評が急に気になり出し、
その醜い人間的な過去を世人に忘れさせる為に、やたらに善行を施す人がいます。
何々に寄付、何々の養護といったことに必ずその名を連ね、目立つことをします。
これは後ろめたい自分の良心をごまかす、自己欺瞞的なやり方で、
明らかに偽善者的な性格を持ちます。
偽善者に共通の嘘を吐くことが平気で、
それが後には本当であるかのように錯覚してしまうような人です。
自己欺瞞という偽我です。」
防衛規制の一つである反動形成というのは、
Ⓒ(子供の自我状態:本心、自己中心的な心)を深層意識に抑えておくだけでは不十分なので、
正反対のⓅ(親の自我状態:人の目を気にし、世間体しか考えない、虚栄を張る偽善者が、
ともすれば自己満足に過ぎぬ信念(善意)に酔い痴れ、
他(子供を含む)の思いを理解しようとする思い遣りに欠ける)
で欲求や感情に対処しようとする心。
いんぎんで礼儀正しい強迫性格の人にしばしば激しい攻撃欲の持ち主があります。
例えば欲望や感情といった本心が如何なるものか知られたら、制裁されるのが明白な場合は、
何としてもその心を隠さねば、深層意識に抑えておくだけでは安心できない心は、
正反対の欲望や感情で、自らの心をごまかそうとします。
この防衛規制はⓅによる工作ですから、ゆきすぎたⓅの働きが見られるとき、
その存在を知ることができます。
これは一般に「 …… すぎる」という性格傾向として現れます。
例えば、子供を可愛がりすぎる、いばりすぎる、潔癖すぎる、などの傾向で、
その蔭で、正反対の欲望や感情を防衛しているのです。
すなわち、潔癖さの裏に乱雑さ、威嚇の奥に臆病、過保護の蔭に憎しみが秘められています。
防衛規制とは、自己保存の心であり、
自分の心を苦しみから救う為に、自分に都合の良いように物事を解釈する心の働きです。
自分の欠点(悪、罪)を許す、ごまかす為に、人が長所(善)と認めることを行って、
あたかもその欠点(悪、罪)がないように、その欠点(悪、罪)で人が苦しんでいようと、
自分が原因と思わせないようにする。
即ち人が苦しんでいようが、それは自分の所為であると責められないように、
人の心を、そして自らの心をも騙す(無意識にそれを行うことで意識されない、
そういった能力を無意識にあって人は作ることが出来る、
自らを救うという本能(無意識)がそれを為すのです)というものです。
ガブリエル様の仰しゃった償いは、これと明らかに異なります。
償いとは、自分を良心の呵責から救う為のものではない、
自分の所為で苦しめられた人の心を救うことが目的だからです。
法は罪についてこのように語ったとしましょう。
「私(法)は罪人に対して、犯した罪に相応しい罰を与えました。
この罪人は、その罰を以て、自らの罪、被害者であるあなたを苦しめた痛みを、
あなたが受けたと同じように受けることによって、自らの悪から目を逸らすことなく、
そのような悪なる心をあなたが憎むように、この罪人も憎み、善を愛するようになりました。
法に基づいて刑を全うしたこの者を許すことで、自らを憎しみから救って下さい。
あなたも法によって救われる者になって下さることを心から願っています。」
これが被害者と加害者が共に従うべき法であり得るのではないかと私は思います。
加害者が人を殺してしまった場合は、償いようがないと思いますが、
例えば被害者が失明をした、歩行能力を奪われたとしましょう。
被害者はこのように言うかも知れません。
「あなたは刑を終えて自由を得ることが出来ました。
しかし私はあなたによって視力を奪われました。
私の魂は永遠に闇のままです。
何が償われたというのでしょうか。」
永遠に自由を失った被害者が、自由となった加害者が許せないのは当然であると、
この加害者は受け止められるようになったとしましょう。
そのような癒されることのない心を自分に救うことが、
償うことが出来ないことを加害者は知ったからでした。
彼は被害者に言った。
「今の心を、罪を犯した時に、私が持っていたなら、決して罪を犯さなかったでしょう。
しかし、罪を犯すことなく罰を受けないでいたなら、
私は今も悪の心のままそれを苦しいと思わずに生きていたでしょう。
私が自分の悪を知ったのは、自分があなたに与えた罪にあなたが苦しむ、
あなたの心を理解することが出来たからです。
私は自由になりました。
私はこの自由を、私に自由を奪われたあなたの、
同様な目にあった他の人の償いの為に尽くしたいと考えています。
あなたの憎む悪が私の中に見出せなかったなら、
私が神に救われたことを信じて下さい。
私の心にあった悪がなくなったから、神の許しが与えられたのだと今思っています。
どうかそのような神の、罪をも許される慈愛に、
あなたの苦しみを癒されることを心から願っています。
私が自分を許してもらう為に神を持ち出したなどと思わないで下さい。
神があなたの苦しみを癒されることを祈ることしか出来ません。
神にそれが出来ることを知ったからお伝えしていると信じて下さい。」
この世では同じ殺人罪であっても、森鴎外の高瀬舟の主人公などの、
神の法の前では、全く罪に問われないと思われるものから、
旭川の殺人鬼のように情状酌量の余地の全くない場合とはっきり異なります。
それは、この世にあって生命とは、肉体であり、心は肉体以上の価値が与えられていない。
それは、心は肉体の一部であり、
肉体が滅びれば、心も滅びるとこの世の人々は思っているからでしょう。
それでも死んだらあの世に存在することの出来る霊魂を信じている。
この世にあってどんなに心が痛めつけられようと、死んだら健全な霊魂が与えられて天国で、
極楽浄土で永遠に幸せに生きることが出来ると信じているのでしょう。
それだからこの世では心以上に肉体が重んじられる、
心に負わせる傷よりも肉体に負わせる傷を問題にしている。
しかし天上界にあって生命とは霊体であり、その霊体の価値とはその魂、心以外にないのです。
ですから、その魂が人の神の心を傷つけることで喜びを見出す悪魔の心であれば、
天上界はその霊体の生命を取り上げるのです。
霊体の価値以上に魂の、心の価値を重んじるのです。
人間として生まれてくれば肉体を育てるように霊体も育つのです。
その中身が空っぽであっても霊体です。それに何の価値がありますか。
発狂してしまった、脳細胞が死滅して白痴となった者に何の価値がありますか。
あなたは自分がそうなったら、人から如何なる慰めを、
また価値ある者であると本当に信じていたとして、その思いを人から得ようと、
そんなものはもう何にもならないのだと思うでしょう。
それが失った心を、知能を蘇らせることが出来ない、
何の力もない空しいものであることを理解するからです。
自分自身が何であるか分からなくなった、
知性が滅んでしまった者に、存在する価値があるというなら、
如何なる生き物も殺して食べることなど出来ない筈だと思います。
彼等の方が自分を、自分の家族を守ろうと懸命に生きている魂ではないですか。
動物にも魂は在る、人間という動物にあって、他の動物に霊魂がないなどと考えるのは、
悪魔に繋がった宗教の信者位でしょう。
霊体に価値を与えるものが魂であり、心なのです。
神とは何か、悪魔とは何か、霊体に於てすべての人間と変らない(※)のです。
(※注。
彼等の持つ霊能力(霊体を破壊する能力も含め)は、
科学的法則を駆使しての科学的能力を極めたものであるのか、
もしくは科学兵器を作り出したものなのか全く知らされてはおりませんが、
彼等(魂)の持つ知的能力によって為されるものに他なりません。
何しろ天上界は、損傷した霊体を修復するほどの科学、医学的知識を持ち、
天上界でその治療を行っているのだそうです。
また、今生で肉体の損傷を受けた者が、死後霊体となった時に、
その失った能力を霊体にあって修復する、その機能を蘇らせられる可能性は、
今生で失ってから長く生きた者ほど、
機能を失ってからの条件反射が強化されるに比例して、
機能を失うまでの条件反射は二度と働くことがない、
そのような消失の進んだ反射系を修復するのは困難となってゆくと
天上界から教えられました。
例外もあります。
今生で重度の精神障害、発狂した精神は、その時点で心も魂も修復不可能となります。
心を軽んじるこの世の法が如何に人間の理解を心掛けるものでなかったか、
思い知るのではないでしょうか。注終)
超人でも何でもありません。
その心に於て、また知性に於て神であり、悪魔なのです。
神というべき愛に正義に徹する心を育てたが故に、魂を研磨したが故に神となった、
人類を正しく導こうとする心を以て神と呼ぶべき存在となったのです
(イエス様は神を父と呼びかけられました)、その心を以て神と言うのです。
神の心を教えずに、神を崇めよという宗教は、神の何を崇めているのか。
彼等が神と理解したのは、その力であり、彼等の前に力を誇示するものがサタンであろうと、
真の神の心を理解出来ぬ彼等に神を偽るサタンの心をそれと知る由もなかったでしょう。
その科学的知性を持つまでに人類という種の進化を成し遂げた彼等に於いて
霊体を消滅する能力を得たのであり、
そのような神の心を持つ、共に天国を守ろうとする、信頼出来る魂に、
天使の資格、悪霊を消滅する力を神は授けられるのです。
悪魔の心が、神の心に生きる霊体の生命を奪ってきた、
神のものである神の子の生命を奪ってきたからであり、
その天国に、神の子に手を掛ける悪魔の心を、魂を育てるこの世の法を、
心を軽んじるこの世の法を以て人を導く者を、
天上界は決して認めるものでないことをこの世に知らしめねばならないと思います。
さて、この旭川の殺人鬼ですが、この者が改心する可能性は全くありません。
その根拠については、このような残酷な殺人を行える心は、すでに悪霊に憑依されている、
悪霊の波動の伝える感情(怒り、憎しみ、人の不幸を以て自らの幸福を実感するような心)
を受け入れているのです。
その証拠は、殺人を、悪魔の業を為した後、悪霊がその心を悪魔の業で満たした後、
血を求めて猛り狂った心の満たされた、鎮められた後でも、
この殺人鬼は、全く罪を悔いる人の心に戻ることがなかった(※)。
それはその者自身の心が、悪霊と変らない故に、常に悪霊の波動から解放されることはない、
悪霊の波動にロックされた心なのであり、その心以外の心を持つことはあり得ない。
改心するというのは、その前に善なる心がなくては、
自らの犯した罪を受け止める善なる心がなくては、改心は起き得ないものです。
(仮に良心があったとしても、
罪の重さを知っていながら悪の衝動(の喜び)を抑えられなかったと思われたくない、
罪であることを承知していた邪悪な心を暴露する良心の呵責を見せたら終わりだ、
わずかに残っていたかもしれぬ良心を抹殺することなど訳がなかったであろう。
そんな良心に躊躇するような心がどうして人が殺せるものか。
悪霊の力を得たこの殺人鬼は、
その邪念の妨げとなる良心などとうの昔に抹殺していたことでしょう。)
事故ではない、明らかに殺意から、しかも命乞いをしている者を、
虫けらのように殺すことの出来るものは、その心は病んだもの、
それは一度狂った精神が、治ることの二度とない心となったと同様であり、
理性の芽を摘み取った心に、戻るべき理性などない、
神に消滅されるまで悪魔の心でい続けることしか出来ない者であると思います。
この世がそのような悪霊の存在を、凶悪犯罪の陰に悪霊の存在の在ることを認めるとすれば、
真の神を、神の法を認めることなくしては不可能でしょう。
少なくとも悪魔の心に堕した者を改心させることは不可能であり、
そのような心から人を救う為には、
人の命を平然と奪うような冷酷な心は、人間社会に生存する資格はないと、
そのような生命を許すような法であっては、
健全な社会を、人の心を育てる所か、損なわしめるものであるとの自覚を以て、
この世の法を神の法に近づける、真の愛に立脚した法を築くことが
神の民としての務めであろうと思います。
(※注。
「慈悲と愛」80年1月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「(悪魔の力を背景に事を企てたイランのホメイニに言及されて)
私達が彼の行動を見る時、この国(日本)にあって私達天上界に反逆し、
他を扇動する者に奇妙に一致した感情の上下が現れ、何かに駆り立てられるものの如く、
些細な論拠と論旨を振りかざして世の正義と秩序を乱し、省みない高ぶりと、
形勢が自らに有利とならないと悟る場合の一時的な平静の波があることを解します。
〖自らこそ神と信じるサタンの力が入った時、神をも畏れぬ自信に満ち溢れた背反者達は、
サタンを神と見誤り、現天上界の、その教えの真であることを理解した神の心を失いました。
そして神を裏切らせる目的を達成したサタンが去った時、
現天上界から消滅を宣告された彼等は、
神からも、サタンからも見捨てられた者であることを知った。
神も悪魔も己自身をも信じることが許されないその心は、絶望しかなかったでしょう。
平静の波とは、思考停止、自我の崩壊でした。
イエス様をパリサイ人に売り渡したユダが、己の犯した罪に絶望し自殺したには、
目的を遂げたサタンがユダから立ち去った時、
かつての己自身の心、イエス様を信じていた心だけが残されていたからだと思います。〗
これは病的な性格の特徴でもあり、理性に基づいて行動しないタイプの人間が、
悪霊の支配下にあって示すパターンでもあるのです。
何ゆえ悪魔や悪霊の支配であると見るかは、
その歪められた感情が単に本人の世界のみで表現されるならば、
あの(ホメイニ)ような激情が持続し、他の同様の性格を持つ人間
(若者の場合も情緒が不安定で病的になり易い)の異常性を
引き出すだけのエネルギーを持ち得ないからです。
この点から見て、悪魔や悪霊は扇動し、支配し易いタイプ ー
感情的な、無定見な、且つ情緒の欠乏せるものを選ぶということが明らかであり、
反面理性的で、真理に対して柔軟な姿勢を持つ性格は支配し得ないということがお判りでしょう。
勿論自らの意志で以て心の浄化を図る人間でなければなりませんが。
感情も容易に表さず、抑圧する、つまり魂も知性も自由でも柔軟でも無く、
偏見や完全癖や頑固な思考の表れを示すタイプも、
本人は穏やかで、心乱れず、理性的であると考えているかも知れないが、
実は感情的な人間であること。
不安感情で理性や知性の柔軟な働きを阻害しているに過ぎないこともお教えしましょう。
このようなタイプも悪霊の餌食になって誤った説を流し、世の災いとなるのです。
非常識な言動が見られ、変人視される人物もあります。
如何にも賢明であるような表れに反して、己の愚行を悟れない人物もあるのです。
これが只一説のみに固執し、譲ろうとしない左翼思想家(穏健派も過激派も含め)と
狂信、盲信の宗教家及び信者の背後に悪霊の跳梁ありと断定する所以(ゆえん)でもあります。
はっきりしたイデオロギー、信念を持たずとも、理性に乏しく、
感情的に自己表現をする扇動家のタイプも同じ事が言えるのです。
感情がプラスに働くのは、情熱や熱意が正しい方向に向けられた場合のみです。
且つ情緒が安定し、理性の働きとのバランスが取れている場合にのみ、
悪霊支配から安全圏にあると言えるでしょう。」
"悪魔の心"
「JI」90年10月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「八月初めに隣国の王政の小国クウェートを不当に侵略し、
しかも歴史上クウェートはイラクの領土であったなどと、
国際法を踏み躙る暴言を繰り返し(注。日本の某隣国のことではない)、
当時双方に居住または滞在中のあらゆる外国人と大使館員を
人質同然の軟禁と軍隊の監視下に置いた、
サダム・フセインのその人もなげな、ゲリラ戦と同様の暴挙に
立腹した米、英国が両国を含む多国籍軍を配備したり、
イラクとクウェートの経済封鎖や艦隊によるペルシア湾封鎖など、中東ペルシア湾岸危機の為に
米ソ首脳会談まで開いて、その解決策に苦慮しているというのに、
サダム・フセインはまるで悪魔の如く、
"正義と公正の為に西側諸国への聖戦を"などと、自己正当化の宣伝声明を発表したり、
"経済封鎖をするならば、人質の食料は保証しない"とか
幼児がその為に餓死寸前だとか、
イランのホメイニも言わなかったような卑劣な脅しを掛けています。
これは人類史上例を見ない卑劣な方法で、
しかもスターリンやチャウシェスク同様、
反対する閣僚はその場で射殺して口封じをしてしまい、独走する。
国民は軍隊も含めてフセインに処刑されるのを恐れて、
如何なる非道な圧政も見ざる・聞かざる・言わざるを通し、ただ服従に甘んじ、追随する
(キューバのカストロとて同じこと)。
そして西側に協力する国、サウジ・アラビアやエジプトの政府転覆を計るよう呼び掛ける。
"盗人猛々しい"このフセイン氏は
"中東の蛇"とも"何時裏切るか判らない人物"とも言われて嫌われ、恐れられていますが、
こういった横紙破りの独裁型は社会主義国に共通で、
しかもマルクスが(悪の)リーダーの条件にしたように、
貧農の出であり、教育はイデオロギーの洗脳以外あまり受けていない。
共通して情緒に欠け、
前思春期までの子供の残酷さをそのまま持っている性格
(旭川の殺人鬼こそ正にその性格でしょう)の人物であるようです。
こういった情緒欠如型の人間は、自分以外の人間の感情も痛みもまるで判らず、
だから次々と平気で拷問や大量虐殺を行えるのです。
中国の文化大革命もカンボジアのポル・ポト政権も同じ。
直接射殺しなくても、収容所で拷問死させるのも餓死させるのも同じ。
そういった独裁政治は、ベトナム、北朝鮮、アフリカの社会主義政権と、
総てはマルクス・レーニンの非人道性に遡るのです。
貧農の出であるから、勿論、
裕福な者や、インテリ階級への偏見と嫉妬を自らの活力として生き、
広範囲の学問や教養を身に付けている訳でもなく、先人の精神から学ぼうとする姿勢もなく、
ましてや哲学にも人生にもまるで無関心であること。
大脳の前頭葉部位の未発達は野望を遂げる以外に用いることのなかった為であり、
良心の麻痺した理性は無感覚となり、
自らを弁護し、口実を駆使して
あらゆる悪行を正当化してしまう雄弁にのみ働かせ、
誇大妄想にも似た大義名分を振り回す人物です。
サダム・フセインやホメイニの如き人物は、
"神の掟"の第一の戒め"汝殺すなかれ"を平気で破り、人殺しの人生を送るにも関らず、
国民や部下には貧しさと飢えからパンを盗んだだけで手を切り落とす。
無防備な国を侵攻し、非武装の国民を殺す。
そのような施政は、神の前に通ずる筈がありません。
彼等は悪魔の思想に共感し、悪魔に仕えているだけです。
"聖戦"などと言う資格もありません。
アラブの国民はこのことだけにでも、真実を悟るべきなのです。
一国を何の予告もなく、内乱があった訳でもなく、ただ侵攻して、王政を破壊するのと、
それに抵抗して(アフガニスタンのように)侵略者と戦う"聖戦"とは全く質を異にします。
敵国と交戦して、祖国を敵の侵略から守る為に、
又は侵略された国の国民から(政府から)助力を求められて援軍を派遣するのとは、
まるで理由が異なります。
そしてまた、目的がそういった崇高なものであれば、
たとえ戦火の合間にでも、兵士は泥土の上の進軍に、道端に咲く一輪の花を踏まずに通ったり、
家族からの手紙に涙したり、小鳥を愛でたり出来る心の余裕と人間性を保ち得るのです。
アフガニスタンやニカラグア他の自由の戦士達、延いては二つの大戦中の関係国(非共産国) ー
自由諸国の兵士達は真(まこと)にその通りです。
戦いが人を荒ませ、非人間性にするのではなく、
どのような目的と心で戦いに参加するかが大切なのです。
"人間性を失うこと"は"人間がけもの以下になること"なのです。
マルクスとレーニンは、ユダヤ民族以外の民族が総て"けもの以下"に堕落し、
互いに殺し合い、滅し合うことを望んで、あのイデオロギー理論を完成させたのです。」
"神を信じるとは、神の法を守るのが神の御意志であると、
神の法に生きる者を愛されるのが神の御心であると信じること"
罪には(罪を犯した人のみでなく、
罪の道へと導いたあらゆる悪に生きる心によって神の御心を犯してきたものであるかを、
罰という報いによって明らかにする、
神の愛を理解しようとしない人の心に、神の善への愛を知らしめるのが神の法である)
罰を以て罪であることを明らかにするのが人の生きる世であることを、
人はそのような世界に生きていることを知る知性に、知恵に導くのは、
あらゆる生き物は法に従う心によって生かされる、生命とは法の下に存在するものであると、
法に生きんとする意志にかかっているのだと思います。
その法を信じる心、世の中の通念、常識、
要するに誰もがそうと信じるが故に共通の判断基準としての認識を育てることが出来る、
またその認識を持たなければ、共通の認識を持てると信じるものが無くして、
何を以て人を信じることが出来ると思われますか。
人の善我、理性を信じているのでないならば、
人が自分の思う通りにする者と信じているに過ぎないのではないですか。
だから自分の思うようにしない時人は怒るのですが、
偽我に生きる者は、悪を為していないと思われる時でも、
善を妨げる存在であることに変わりはない、
人の善なる心に悪影響をいつも与えている存在であり、
その認識を忘れていることが、善我に立って判断出来ないでいるということなのです。
そういう人が自分にとってよいことをしたとすれば、
そのように思われることを考えての、自分の利益から為したに過ぎないことも見抜けないなら、
悪知恵を見抜く善の知恵なく、悪に出し抜かれるに過ぎない人ということです。
世の中が愛を、愛をと言って、愛を大切だといえば、誰もがもっともなように思っていますが、
誰もが自分の愛を満たそうとして、誰もが満たし得ることなどあり得ない、
そのような自分への愛が、
人を苦しめても判らない心を作っていることさえ解らないでいられることを、
彼らの言う愛が神の知恵とは無縁であることを証明しているのです。
さて、罪を犯した者が罰を受けることで、悪を許さぬ、悪を為した者は法に裁かれることで、
悪の犠牲になった、心の傷ついた者の、
法を信じる心の守られたことに救いを見出せるかも知れません。
が、それだけでよいものではありません。
そのような悪を知るが故に悪を為す、
善を踏み躙るを喜びとする心を育てる悪を許してきたのは、善の心を育てることを怠ってきた、
神の御意志に生きていなかった、神の法に生きていなかったのがこの世の法であり、
この世の法に生きればそれでいいとの考えが、悪を育てることを許したということではないですか。
悪を、悪を犯した者を罰することが、この世の法ですが、
それで悪の犠牲になった者は、それで自分の人生を、
自分の愛する者を失った苦しみから救われるでしょうか。
人の心の指針がこの世の法なのではないのだから仕方がない、
法といえども人の心の自由意志を、悪を受け入れる意志を奪い、従わせることは出来ないと、
それがこの世の法であるからでしょうか。
神の法を受け入れようとしないこの世の法が、
神の善に適うものを、真の善を齎そうと望まないのはそういうことなのでしょう。
悪に復讐するのが神であると信じられてきたのは、
それが善を愛する心であり、悪に苦しむ人の心であるからではないですか。
善を求める者が、神の善なる心を見出してきたのではないですか。
それが解らぬ者が、神の法を理解できぬ者が、
この世の法の人を救う力がないことも知らぬ者が、人を救う思いもない者が、
神の救いの御意志を、真の善の観念をこの世に齎すことを妨げてきたのではないですか。
その神の法を、神の御意志を伝えられたイエス様は、人を許すことを教えられました。
悪を為した者を、悪を為そうとする心がサタンの心であり、神に救われることはない、
神の御意志を人々は知らされました。
そのような悪を許すということではなく、
神が裁かれた、悪に報いて下さった神の、悪の犠牲になった者を救おうとされる思いを知って尚、
神の愛を与えられて尚、その愛に癒され、自らの神の心に見出せず、
復讐することに、憎しみを晴らそうとする心に生きてはならない、
神が悪に報われたのだから、神の愛に、善なる心に繋がりなさい、憎しみを忘れなさい、
人を許すとは忘れることであると、ヒルティは仰しゃいましたが、
サタンの邪念からの解放こそ、神の思いに繋がることこそ救いであるということではありませんか。
この世の法を以て人を従わせる者に、神の心はないから、人は救われませんが、
神の法は、神が従うもの、故に神の愛が生きる心なのです。
神の愛が慈悲が従うのが神の法です。愛を慈悲を守るのが神の法です。
この世の法が、神の法を見出せないのは、愛を、慈悲を知らないからです。(2026.9)