"神の法と相容れぬ法に従わせることが意味すること"

 旭川市であった殺人事件を例にとって話を進めることにします。
 自分の身を脅かす者が現れる、彼には悪意しか認められない、
戦わねばならぬ相手が真に悪であると確信する、
悪に負けれるということは滅ぼされるに他ならない、
それはどちらかが滅びるまで止むことのない死闘を以て決着する(天上界の戦いのことです)、
また同胞を迫害する権力者の手先を義憤から殺害したモーセ様のような場合とは全く異なり、
自分を有利な立場に置く、相手を不利な立場に追い込む、
悪に染まった、悪の衝動に生きる心を満足させる為、何の罪もない者を殺す、
橋から落ちれば確実に死ぬことを相手に確実に伝える為に、
相手が恐怖から自分に逆らえなくする為に連れ出す、そして恐喝する。
 相手が命乞いをするまで怯えて、自分に逆らえなくなるだけでは足りない、
真の恐怖を味わわせずにはいられない、殺意がなくて、人を突き落とせる訳がない。

 人の心は何時、如何に作られるのか。
 生きる以外に何も知らない幼児は、親に完全に依存する幼児は、
与えられるまで求め続けること以外に何もできない幼児は、
苦しみから救いを求めるように求め続ける。
 その求めに応えることの出来ない未熟な親から愛を与えられなければ、その心は成長を失う、
健全な心を、高等感情を育てる大脳(前頭葉)の発達が阻害されるからです。

 求めても満たしてくれる者がいなければ、人を信じる心は育たないでしょう。
 信じられる者がなければ、心を閉して行くでしょう。
 信じる者がなければ愛する心は育たないでしょう。
 愛する心が育たないなら精神の成長はない、
外に向かって働きかける心がなくて視野が開ける、精神の広がることはありません。
 愛が注がれれば愛する心が育つ、愛が育って人を信じることが出来ないということはないのです。
 本当の宝は天に積まれるものであるとイエス様は仰しゃいましたが、
心の宝は、人の心から奪えるものではない、
真理を愛する心こそ宝、それを作るのは、所有できるのはその人だけだから。
 その人だけのものである、それが心です。
 真理はそれを求める者に幾らでも天より注がれるのです。
 それを受け止める心こそ宝です。
 人を信じられぬ者は自分の信じるものを隠そうとするでしょう。
 世に現れない真理は真理ではない。
 世に働き掛けないなら愛は存在しないに等しい。
 人に働き掛ける、人の善なる心、愛を信じる心に、
愛を求める心に伝わるものが愛ではなかったですか。
 だからこそ愛は残っている、だから人類は生存しているのではないですか。
 その愛を踏み躙る、命を奪うような心は既に滅んでいることがどうしてわからないのか、
そのような心を許す社会がそのような魂を作ってきたことがどうして解らないのか。
 この世の倫理観が人の心が病んでいることがどうしてわからないのか。
 命を奪われた者を守ることが出来なかった、
返って命を奪ったガンに慈悲を掛けるこの世の偽善者は、真の犠牲者に弁明する言葉があるのか、
偽善者を許すような神であると思っているのでしょうか。

 幼児の時に育てた心がその人に自我になるのです。
 歪んだ心であろうと自我として意識されれば、
後はその自我を守るのが(自己保存の)本能の働きであり、
その自我を満たそうと、守ろうとします。
 そのような自我を自ら間違っていると否定することは自我の崩壊であり、
本能はあらゆる防衛機制(心の働き)を駆使して自我を守ろうとするのです。
 天上界にその偽我を明らかにされた時、
天上界は偽りであると唆す悪霊を信じて、真の天上界に反旗を翻した背反者が続出したのです。
 自らの偽我を天の光の下に明らかにする天上界は厳しい、
自分を解ってくれない、愛がないという言葉が聞かれました。
 自己愛に生きて神の愛に生きることを学ばなかった人達でした。
 愛した者から愛が返されなかった時に憎しみに変わる、
そういう心が未熟な若い人に多く見られるでしょう。成長しない心とはそういうものです。
 愛は奪うものと信じる、真の愛を知らない心は、自分に愛を与えない者は愛さない、
では済まず憎むのです。
 人の心を変えることを望む心は、自らの持っていた愛も殺すのです。

【「こじれる人間関係(杉田峰康著)」311頁
「精神的に不安をきたすような感情的な葛藤や、満たされない欲求が、
象徴的に身体症状に置き換えて表現されることがありますが、
これが「転換ヒステリー」といわれるノイローゼです。
 たとえば、器質的に何ら異常がないのに歩行困難をきたした幼稚園児がありましたが、
この子の場合、鍵っ子にされることが多く、
したがっていつも母親と家にいたいという願望や幼稚園に行きたくないという気持ちが、
足が痛くて歩けない症状を作っていたのです。」

 自分の満たされない思いを、心の苦しみを救う為に、自分を苦しめている者に、
その者の心無い所業のせいで自分の体は、心はこうなったのだと知らしめるなら、
自らを以てしてでも損わせる。
 人を許す愛を捨て、人を憎む、責めるを以て人の罪を知らしめ、人を改めさせようとする。
 それが自らの心を救おうとする(防衛機制という無意識の)心であり、
ノイローゼという病んだ心であり、それもまた偽我であり自己愛なのです。
 未熟な精神に留まるなら、この例の子供に限らず大人であっても変わりません。
 真の愛へと昇華することの出来なかった、自己愛に留まった精神は、
人の自由な意志を尊重する心がない。
 真の愛によって自らの心(立場)への執着から自由を得ることの出来なかった精神は、
人の(自分に対する)思い、不満を認めることが出来ない。
 自己保存の心は、自分を守ろうとする心は、自分の心を変えることを望まない、
変えたくないから自らの悪を認めない。
 原因が、罪が自分にあると認めることは耐え難いから、
人に罪があると納得しなければならないのです。
 故に自らに手をかけてでも、人の罪の犠牲がこれであると証明せずにはいられない。

〖自分を守ろうとする心(自己保存)は誰にもあります。
 その本能を正しく導く理性を、
善に生きることを望む心をこそ守るべき真の自我であると理解する理性を、
奪う偽我の存在を現天上界は教えられました。
 自分であると意識される心だけが自分の唯一の心(偽我)である、
それ以外の心を拒絶しようとする心。
 真理を求める心、自然の法に生きようとする本来の、持って生まれた本能
(自己保存、自らを救おうとする意志)を奪ってきた心。
 それが偽我という心であり、自ら作り出したもの。
 偽我の求めを満たすこの世に執着する心を育てる、偽我による、偽我の為に作り上げたのが、
神に背を向けたこの世(に生きる人の心)であると現天上界から教えられました。
 それによって、悪を、偽我を、明らかにする光を以て、真の天上界の善が証される。
 その善の現れを以て、
この世を善に従わせる為にこの世に現れた天上界の存在を知らされたのです。
 それによって、悪を、偽我を明らかにしようとしない宗教は、
神の真理に生きるものではないことが証明されたのであり、
それを認めまいとする宗教は、サタンに従うものであることが証明されたのです。〗

 自己愛とは、自らの心の苦しみを救おうとするものです。
 その為に生命を失うことになろうと、その痛み以上に心の痛みが大きいなら、
心を救おうとするでしょう。
(自殺する人というのは、それで心の苦しみから救われるという希望に縋っているからと思いますが、
心が病んだ状態で死んでも、魂はその苦しみから癒されることにはならない、
心を苦しめているのは肉体の生命ではないのだから、生命を滅ぼしても何の解決にもならない、
心を苦しめている問題を解決しない限り癒されないのです。
 自分を苦しめているこの世から逃れれば、苦しみから逃れられると思うからでしょうが、
その心はこの世に執着しているのであり、憎しみから自由になっていない魂は、
この世の憎むべき悪党に引き寄せられてしまう、
そのようなこの世に執着する霊が、この世に彷徨っている。
 何故彷徨っているか、
その苦しみの原因である執着心を克服できなかったからではないでしょうか。
 本当に死ねば天国に行けると思って、自殺を選んだのでしょうか。
 自分を愛してきてくれた人々に対する、
神に対する答えがそれであると信じたのでしょうか。
 そのような地獄しかこの世にないから、
死んで天国に行くように神が導いていると思ったのでしょうか。
 そうではない、執着心が、自分を愛してくれる人々がこの世にいるという希望を
見失わせたのではないでしょうか。

 人の自由意志を尊重する、愛する心を知らない、
真の愛は自由な心に生きるということも知らないからです。
 それまで愛されてきても、愛されなくなれば、裏切られたと思うのです。
 愛されていた間に心は成長出来なかったのです。
 また長年連れ添ってきた、互いに信じ合っていた夫婦さえも、
高等感情を司る前頭葉の脳細胞が萎縮、死滅すれば、全くの別人格に成り果てる、
善人が悪人に変ってしまうのが人の心(心は正常な肉体に大脳に依存するものだから)です。
 幼児の時に愛を与えられず成長が止まってしまった、成長する時期を失った心は、
外部からの刺激に反射するを以て視野が開ける、自分を生かしている世界を知ることなく、
大脳を開発することなく、精神の退行を迎えることになるでしょう。
 成長する意志だけが自らを救うのです。
(勿論、外部から摂取したもの(薬害を含む)がアルツハイマー等の原因となる場合は別です)

 人類がまだ神の心を理解し得ない、理性を育てられなかった時代は、動物と変らない、
力を持つ種族(民族)に支配された種族(民族)は奴隷の如く生きるしかなかった。
 この世は力ある者が支配する世界に生きる力なき者に自らの意志に生きる自由はないと、
そのような世界に生まれてきた者の心に自らの意志に生きる精神を持つことの出来ることを、
この世の力では奪えない心を与えることの出来たのが神でした。
 奴隷の身となりながらも、神への信仰を失わなかった、絶望しなかったのは、信仰だけではない、
神自ら明らかにされたその意志に人々は神を、神の思いを見ることが出来たからでした。
 常に正しい心にある者には神がいることを、虐げられた者を、
苦しんでいる者を心に留める方が神であることを、人は信じる心を育てることが出来たからでした。
 その神が隷属をしいられた人々に初めて与えられた神の法が、"目には目を"でした。
 そのような人々に、悪に屈しない善があることを、
その善を以て悪に君臨する神が悪に屈しない意志を人々に齎す神の法を与えられました。
 悪を為す者に、その悪を知らしめる法を、
その悪ゆえに自ら滅びることを明らかにした法を神は与えました。
"目には目を”、悪を為す者には、その悪を自ら受けることを以て悪を知らしめる、
それが善の証、神の意志の証である。
 人の心を悪から救う為には、善しかない。
 人に苦しみを与えた者に、その苦しみを知らしめることで、
人は自らの悪なる心を知る者となるであろう、
その為に神が与えた掟が"目には目を"でした。
 この教えの趣旨は、人間の持つ(自己愛に根ざした)復讐を奨励するといったものではなく、
虐げらえた者に神は共に在ると、

力弱き者と侮る高慢に、サタンに従った心に、神の与えた警告であった。
 心弱き者に神の御意志に生きる強さを教えるものであったと思います。

 それを知るだけでは神の愛を理解することの出来なかった人類に、
神の与えられた新しい規律、"自分にしてほしいと望まれることを人にせよ()"、
同様の教えに、"自分にされたくないことは人にしてはならない"という教えを与えられた。
 それは人の苦しみを、悲しみを理解しない者に、人の心を知る者となるように、
神の愛を為すことで神の愛が返されるを以て人の心を知る者となる、
天上にあって繫がるからです。

"目には目を”、それは神の法故に、悪を憎む、悪に克つ善を意識させることが出来ましたが、
善なる心が育つことなくして善に生きることは出来ない、善なる心は育てなければならないもの、
そしてそれを育てるのは、善への愛、善への信頼であり、
それを知らしめるのは、神、聖霊の御心以外にない、
その心から真の善を学べない者に、
研磨の定かでない人間からどうして真の善を学ぶことが出来るのか、
神の御心を理解せずして神を愛しても善なる心は育たないということ。
 それは何時の時代の宗教もそうでありました。
 神の導きに生きるとは、神の与えられた法に生きるということ。
 法に生きるとは、善を、善に生きる心を守ること、
悪から善の心を救う為に法があるのだから、
罪を犯した者が自らの罪を認めるだけでは善なる心を証するものではない。
 償いをしようとしない心は、真に自らの犯した罪を知った者ではない、
罪の重みを知ったなら、自らの裁かれることを知ったなら、救われたいと
(その心を知って、自分に救いを奪われた者の苦しみを思い知るであろう、
これこそ"目には目を”の教えが生かされるということでしょう)、
その為に神の備えた道は、償い以外にないことを知るのです。
 償いを終えたと言えるのは、その心の悪が浄化されたということ、
神に許される心はそれしかないのです。それが済まない内から、
何十年後には刑に服し終えることを極悪な犯罪を犯した者に約束するのは、
罪を償うという真の許しの理解を奪うものです。
 このような法が、神の与り知るものである訳がありません。
 そのような悪なる心を研磨することが出来ず、
善への愛を以て自らを罪から守る意志に至らなかった者が、
刑を終えて、自由になり、再び何らかの罪を犯すことがあったら、
法が罪を犯させたに等しいのではないか。

「慈悲と愛」80年3月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「目には目、歯には歯を、と言うのは、決して字義通りに解釈すべきものではなく、
奴隷として卑屈な生き方を強いられてきたイスラエルの民に自己を守る強さを教え、
心理的に奴隷であることからの解放を目指したものなのです。

 聖戦もその延長でした。」

注。
 精神分析の解明した防衛規制という心の働きの一つに「投影」というのがあります。
「こじれる人間関係(杉田峰康著)」297頁
「人は、Ⓒ(子供の自我状態、正しい行動を明らかにする理性が未熟なので、
快不快の感情が行動を決定する。
 間違っていようと楽しければ躊躇せず、正しくても苦痛を伴えば行おうとしない)
が自分にとって耐えがたいほど不快になってくると、それを外に投げ出し、
相手のものとみなして、楽になろうとする場合があります。
 これは一般にⒸが大きく、Ⓟ(親の自我状態)が小さい(まだ未発達)人がよく使う防衛です。
 たとえば、自分が誰かを憎んでいる場合に、その相手が強すぎていかんともしがたいと、
相手が自分を憎んでいるから恐いと感じることがよくあります。
 つまり、憎悪というⒸを、自分よりむしろ相手に属するもの、
したがって相手から発信されるものと感じるのです。
 また、Ⓟが小さいので自分に対する批判力に欠けるため、
不快な出来事をすべて相手や環境(生育歴を含む)のせいにする傾向が見られます。
 責任転嫁、他罰主義は代表的な投影の現象です。」

 例えば、子供の時に、親に伝わらなかった思い、
満たされなかった思いを叶えてくれそうな人を見出した時に、
その人があたかも自分の親のようにその思いをぶつける心理を投影といい、
それによって今まで満たされないでいた思いを叶えようとする心の働きのようです。
 その解説に挙げられた例の一つにこういうのがありました。
「病棟内で自分のことはそっちのけにして、他患の世話ばかりやいている患者。
 これは自分にとって受け入れ難い要望(たとえば人からケアされたい)を、
愛他主義の形で他人に投影しているのです。」
 これが投影なのかどうか解りませんが、人に愛してほしいと言えない気の弱い者が、
自分の思いを分かってほしいという切なる思いを伝える唯一の行為、
人が喜ぶ善行をすれば顧みてくれるであろう、
彼のその思い(心理)は充分に理解出来るものではあります。
 そこで問題なのは、自分を愛してほしいという思いから人を愛するのは、真の愛であるか、
ということです。

「天国の証(78年8月初版)」34頁 ミカエル大王様メッセージより
「神と結びつく善我とは、真に悔いなく働きかける心、 ー
即ち憐みを掛けたいと願い、与えたいと願い、働きたいと願い、尽くしたいと願う ー
それが素直な心の動きでなければならないのです。
 自己を偽り、強制することは真の善我ではありません。
 何故ならば、強いられてする行為には、何時も後で不快な気持ち、疲労を覚えます。
 その行為に喜びと満足感が付いて来なければ、それは善我ではなく、偽我なのです。

 神と結び付く善に苦しみや、悲しみや、功名心、見栄、虚栄は存在し得ません。
 もしそれがあれば、それは偽善なのです。
 善に基づく自然な心の流れが第一です。」

 このようにミカエル様は、善我について説明なさいましたが、
自分の本心、自分を愛してほしいという思いを偽って、本心をごまかして、
人を助けたいからと、人の望みを叶えてあげたいからと人に尽くす。
 そのような偽善を続けて行けば、鱗のように偽我に積って行き、
やがて偽我は善我を圧し潰すものとなるであろう。
 自らの善我を滅ぼすような思いが愛である筈はなく、
自他の心を解放するどころか、心を縛るものでしかないでしょう。
 あなたのことを思ってと言う親の言うままの人生を歩まされて、
自由な精神を育てた子供がいるでしょうか?
 自分に尽くしてほしい、自分の思いを満たしてほしい、その為に人に何かをする、
それが人の精神に自由を与えるものである訳がないではありませんか?

 イエス様は、「人からしてほしいと思うことを人にしてあげなさい」と教えられましたが、
これが善なのです。
 そして人が善であると確実に理解されるのは、自分にされてうれしいからではないですか。
 お互いに善への信頼を持つ者同士の場合に限られるのですが、それでよいのです。
 聖なるものは犬に与えるなとイエス様は仰しゃいました。
 また愛を受けるに値しないものに愛は与えられるべきではないと
天上界は仰しゃっておられるのですから。
(心の歪んだ、悪を喜ぶ者、偽我に生きる者、自らの善我、
良心の声さえ煩わしいものものと耳を塞ぐ者にとって、
人の善我からの言動は、偽我の心には不快なものとしか伝わらないでしょうから。)
 イエス様の教えは、そのような善を為せということであって、
自分に善が為される為に、自分の欲望が満たされる為に、
人に善を行えとイエス様は言っているのではないでしょう。
 それは善ではない、愛ではない、金銭と同じである。
 人に見せる為に善を行う者は、すでに報酬を得ている。
 隠れたところで善を行いなさい、そうすれば神が報いて下さる。
 それが神の愛である、神の愛を知らぬ者は愛を知らぬ者である。
 イエス様が言われたことです。
 人が求めていることを思い遣ること、その心から為す、それが愛であって、
善の心なく、自分の欲望を満たす為に善を為すは偽善に過ぎない、
そのような偽りの愛は、決して人の善我に伝わるものではない、
人に愛を起こさせるものではありません。

 天国に迎えられたいから善行をする、
本人は善行をすれば神は喜ばれるからとしか考えていなくても、
その心に隠された欲望、天国に迎えられたい、善行をすれば神は自分を救ってくれる、
その心は神の御意志を自分の望み通りに動かそうとする高慢さえも気付かないほど
欲望に満ちた心であるということ。
 そのような心と、ただ苦しんでいる人の助けに少しでも役立てばと善行をする、
誰に知られることなく自らを誇らない心と、どちらを神は多く愛するか、
これも聖書を読めば歴然であると思いますが、
かつてキリスト教会は天国を約束して免罪符を信者に売りつけた、
そしてそのような行為を神が認めなさると、
悪魔の如き心を神の御心であると信者を信じさせた宗派です。
 今も彼等はその心を持っている、教団幹部は信者の寄付で肥え太り、
その魂を腐らせていることを信者が理解出来ないのは、
そのようにキリスト教会は信者を導いてきたからです、
サタンに導かれた宗派であるからです(自民党も同じ道を行く者に見えますが)。
 宗教に縛られた人々ではなく、
またそうでありながら神の御心の伝わる心を持った人々の前に、
現天上界は現れ、語りかけられました。
 現天上界を神であると理解した者は、
そのような心に導かれてきたことを理解出来た者でありました。注終)

 本題からだいぶ逸れてしまいましたが、
命乞いをする者を平然と殺しておいて、裁判では殺意はなかったと言ってのける、
そう言えば、殺意があったと言うことよりも悪意はなかったと
この世の司法は判断されるからでしょうか。
 その罪の報いが死刑であっても自分以外の誰もそれを不当とは思えぬものでしょう。
 人を不幸にさせる、苦しめる悪を憎むから善なのです。
 悪を憎む心が善が何であるかを知るのです。
 悪を憎まぬ者が善を語るを偽善というのです。

 動物に悪がないのは、法に従う心しかないからです。
(動物は法に生きようとする心を本能として持って生まれてきますが、
人間という種は、その本能の支配し得ない大脳の領域を得たが為に、
その心に理性を開発することも、
また欲望を実現する為の悪の知恵を開発することも可能になった、
そういったことが関係しているのかも知れません)
 法に背いてでも、人を不幸にさせても、喜んでいられる心、
悪を愛する心を人間は持ったが故に、悪に苦しめられる人がいるのであり、
神はそのような人を守り、その魂を天国に迎えてこられました。
 悪を憎まぬ者で天国に迎えられた者はおりません。
 悪なる心が罪を犯す、法を踏み躙って、自らの悪の升目を満たす、
そのような心を天の法は許しません。
 自らの悪を認めない者の罪を軽んじるなど悪を容認する心以外にないのです。

 この殺人鬼は、自らの罪を軽減する為の虚言であったとしても
"一生を懸けても償えぬ罪を犯しました。死刑になって当然です"
と自らの罪を認めるような言葉を言ったら不利になると考える、
その怜悧な心しか持たないからです。
 殺すつもりはなかった、殺意はなかった、罪と知っていて犯したと言えば不利になる、
ついかっとなって蹴ってしまったと言いくるめるのだ、
そういう心の何を以て改心すると、
自らの悪を悪と認め憎む、善を愛する心を育てることが出来ると、
裁判官は、弁護士は信じるのか。

 何ら抵抗することも出来ぬ者を、虫けらのように殺したその冷酷な心を見て、
まだ救えると、救うべきであると考える、真に殺された者への悲しみがあるなら、
罪を憎まない筈がない、罪を犯した心は自らが滅せられることを知った時、
真に己が悪の生きる世界はないことを知らしめることが出来ることを知らない筈がないのです。
 その悪の心を罰しても尚、憐れむべき心が残っている者のみ、
善なる心を育てる余地があると認めることが許されるのではないか。
 罪を犯した自分を守ることしか考えぬ心を削り落すのは、その者の善だけであり、
それを為さぬ魂を天は迎えなることはありません。

 生命を、しかも同じ種である人間の生命を軽んじるその心を天上界は許されません。
 天に於て殺人鬼への審判は消滅以外にありません。
 地上の判決でその生命を伸ばした所で、死後待ち構えている魂の審判は魂の死刑のみです。
 神の善を知らぬこの世の裁判官が、その罪を生んだ悪への憎しみから悪の芽を摘むことよりも、
反って悪の温床を守ることに加担するなら、その心は天の審判に耐えることが出来ないでしょう。
 天の法廷に於いてその者の心のみ測られるのであり、この世の如何なる肩書
(裁判官であろうと弁護士であろうと)も自らの心の罪を軽減し得るものはありません。
 その責務を怠ることになるなら、その罪は世間の人に比ぶべくもないでしょう。

 神の法と相容れぬ法に人を従わせるということは、
神の法に抗う魂を作るというサタンの意志に与することになるのです。

 司法に関わる者がその理解を疎んじるなら、盲が盲を導く譬えの真意を思い知るでしょう。
 神の法の真理を尊ぶならば、
この世の法に従う心が神の法に背くことも解らないようであってはならないのです。

 罪の誘惑に負けた、感情に理性を奪われた、善が悪に敗れたかのように言われますが、
それはその者が善の立場に在った場合に言えることでしょう。
 彼等が善に立っていたなら、罪を呼び込むようなことを自分でする訳がないのです。
 寧ろそのような罪に陥れようとする者を、自己保身から逆に殺してしまった
(これは正当防衛で無罪です)ような者に言えることでしょう。

 悪魔の思想がこの世の風潮に浸透している、
悪の種というのは、善の種を、真理の種を抜き取られた魂に於て実るものです。
 悪の種が、その根を張り、幹を伸ばし、実を結んだではないですか。
 その業を以て悪魔の魂であることが証明されたのではありませんか。

 その魂には善はないのです。
 善があったなら、悪の種の魂を侵すことを許さなかったでしょう。
 悪に侵されるということは善(の観念)が破壊されたということです。
 そのような悪に侵された魂とは、もはや種ではない、種は悪の魂そのものになったのです。
 その魂から悪を抜き取ることがどうして出来ると思えるのか、
そのような回心をした凶悪犯がいたと、
そのような回心をさせたのがこの世の法であると言うのですか。
 そのような回心が出来たから彼等の罪を許したのですか。 
 刑期を終えたから、この世の法が許しただけではないですか。
 この世の法に人の心が判る訳がないでしょう。
 善を愛し、悪を憎む者がこの世の法を作ったとでも思っているのですか。

 自ら善の観念を摘み取った、悪魔の邪念に満ちた魂は、天に於いて焼き捨てられると、
神は聖書に伝えてきたことを学ぼうともしてこなかったのがこの世の法です。
 法が悪を守るなら、神に抗う意志の下に為されるものであるのは言うまでもないことです。
 この世の法(日本国憲法)は悪魔の法であると言うのはそういうことです。


(注。
「JI」83年5月号 ラファエル様メッセージより
「今月は"優しさ"と"慈悲魔"の違いについてお教えしたく思います。
 なかなか正見・正思の基準が判らぬ感情のようですから。
 与えるべきでない者(正法の基準がそうであるということ)に慈悲を注ぐことを
"慈悲魔"と言い、
それは左翼学生の過激派がテロ行為によって罪なき人々を死傷させ、
しかもその学生を弁護して無罪判決を勝ち取るようなもの、
悪魔的な行為の者に慈悲や許しを与える弁護士や裁判官がそれによって
魔性と化したことを指します。

 それは"優しさ"ではなく、悪に加担する行為であるからです。
 溺愛の余り、非行少年に協力して犯罪を犯させ、
その後も改めない息子を真の犯罪者として成長させ、世間に恥を晒す母親も同じです。

 では"優しさ"とはどのような形で現れる心情でしょうか。
 法の裁きに於ける"情状酌量"
 人間愛がそのような心情を齎します。
 "慈しみの雨、即ち慈雨"のような心の働きを言うのです。

 愛を知らぬ者、人を愛する術を知らぬ者は"慈雨"の如き感情も判りません。
 それは形式的にこれこれの限界があると解釈する物差しを持たず、
しかし強いて言えば水に溺れる者を救おうとする感情に似た行為です。

 動物を飼育する時、人間とは違って殆ど無理な要求を出さず、
赤児のように生命維持の為にのみ、何かを訴える場合が多いのを気付く人は、
優しい心の持主です。
 愛や慈悲を知る人です。
 その同じ心が尺度と言えましょう。
 人とて同じ。その人の危急存亡の時、生命、生活維持の為に助けを求める時、
手を差し伸べるのが真の愛であり、慈悲であるのです。

 勿論、足りて豊かにある所へ年金生活を勧めたり、
福祉にのみ力を注がせて市や国を弱体化させるを目的とした共産主義者及び社会主義者は、
"慈悲"に名を借りた魔性の者。

 悪を企む無法者。国を滅ぼす者。
 正法者が決して真似てはいけない思想です。」注終)

 如何なる冷酷な犯罪を犯した者も愛を与えれば改心するというのは盲信、あり得ないのです。
 神(ヤーウェ=エル・ランティ様)の愛を以てしても、
サタンとなった弟(ダビデ)の心を改心させるには至らなかった。
 神の愛は宿らなかった、善を愛する神の心の目覚めることはなかった。 
 それは神も、悪魔も人間の心に変わりはないからです。



"GLAの信者は悪霊を救えるものと、慈悲を以て(鴨が葱を背負って行くように)
悪霊に働き掛け、反って憑依された。
 彼等が悪霊の本性を見誤った原因"

「天国の証」 サリエル様メッセージより
「多くの人々は高橋信次氏を通して迷える霊を救う為、
慈悲と愛の言葉を掛けるよう天上界が指示した ー
それを唯一絶対の除霊法と信じ込んでいられる所に誤りがありました
(自らの愛に溺れたということでしょう)。」

 人を見て法を説けという教えを理解できていなかったのです。
 また愛は受けるに値する者にのみ与えられるものである、
受けるに値しない者がそれを受ければどうなるか、
聖なるものを犬に与えれば彼等は襲ってくるであろうと仰しゃった
イエス様の教えさえも理解していなかったのです。

【「JI」84年9月号 ミカエル大王様メッセージより
「又、正法以前の問題ですが、自閉症ないし自閉的な性格を持つ人は余程努力をしないと、
自己愛とエゴイズムから抜け出ることは出来ません。
 
過去に愛されなかった代償を求めて、人の愛を待つだけでは、片輪な人格は直らないのです。
 永久に子供の領域から出られません。

 まず人の好意に感謝し、素直な心で人と交流するのです。
 動物を愛し、人を愛し、愛されなかった人は愛することで自分の人生を豊かにする以外に、
自分の性格の歪みを直す方法はありません。

 父性愛よりも母性愛から始めて下さい。」

 人から愛を得ることしか望まない心は、自分の未熟な心から成長することはない。
 自分の心を救うのは自ら成長しようとする意志である、
人を愛する意志だけが自らを神の心へと成長させることが出来ると
ミカエル様は仰しゃっているのだと思います。
 人が成長する時に愛が与えられなかった、愛する心を育てられなかった心が、
愛を奪う心を作ったのです。
 そのようにして得た(エゴイズムを満たす)愛は、成長させるのではない、堕落させるのです。
 それが奪おうとする心です。
 そのような心を救うのは、自らの意志で愛する、真の愛を以て成長させる以外にないのです。
 真の愛が与えられた者が愛する心となるように、
それを損なうものが与えらたら愛を知らぬ心に育つということでもあります。
 そのような愛を育てようとする者がいなかった、
それとも受ける者の心が損なわれていたのか、愛を育てることがなかった、
その心が自分であると、そしてそれで一生を終えていいと思わない心があるなら、
そのような者に、神は言われるのです。
 神の教えを以て生きよ、人を愛せ、その愛が自らの心を神の心へと成長させる者となれと。
 そのような心に、神が救いの手を差し伸べているのです。
 神の救いを信じることが出来た時、その心は神の救いの中に在るのです。
 神を信じるとは何を以て言うのでしょう。
 神の御心を、愛を知ることなくして、信じることが出来るでしょうか。
 如何にして人は神の御心を、愛を知ることが出来るのでしょう。
 神の導きに生きる、神の与えられた教えに生きること、
神の導きに従う者に、神を信じる者に、どうして神が共に在ると思わないのか。
 それを信じようとしないから、神は共にあると語りかけられたのです。
 それでも信じられないのでしょうか。
 それが信じられる心に、神はその思いを、ご意志を伝えられるのだと思います。
 それが出来ない神であると思われるのでしょうか。

 神の愛とは、人の心を神の心へと育てるものです。
 神の導く道を生きることで、人は神の心を育てることが出来るのです。
 神の心に生きるとは、神の思いを理解することであり、
人類を救おうとしてきたその思いが、神自らの心を神たらしめてきたのです。
 だからこそ神はかつて人間であった、神は人間の霊であると言えるのです。
 それを聞いて、神を我々と同じ人間である(であったのであり、であるのではない!)
と考える者は救いようのない者です。

 神の御意志を理解し、自らの意志として生きるということ、
神の心に生きるとはそういうことだと思います。
 愛によって救われる心を救おうとするのが真の愛です。
 神を信じ、救いを求める心を救えるのは愛だけであり、
真の愛を拒む心は、神の救いを拒む心です。
 神が救おうとされる者にならねばなりません。
 真理に素直な心にならねばなりません。
 それが出来るのは、自らの心から真理への愛を、
人を思い遣る心を奪っている偽我を追い出すことが出来るのは、自分の意志だけです。

 神の与えられた真理に、神の救おうとされる愛を見出したなら、真理への愛を以て生きよ、
その心に神の愛は宿ると神は言われるのだから、
私達が神に救われたいと望むなら、その意志を以て生きる以外にない、
それを拒むならそれが自らの意志であり、
その意志が人をどのように導くかは、知らぬ者はいないでしょう。


"サリエル様による憑依に付いての証言"
「天国の証」 サリエル様メッセージより
「人間の中には本質的に存在する崇高さと獣性、
それは神から来たものと悪魔から来たものなのです。
 純真で美しい心の人が(そうでない人もです)、
ある契機を経て突然に堕落し、或いは犯罪に走り、悲運の坂を転げ落ちる。
 これは四次元の悪霊の干渉に因るものなのです。」

 悪霊の憑依など理解出来ないでは仕方が無いかもしれないですが、
自己保存という本能は、自我への執着心を作るのです。
 悪霊の憑依によって自らの偽我を強化してきた者から憑依霊を天上界が取り除いても、
自らの内に善なる心が育っていないのだから、
もっと強い悪霊に憑依されることを譬えで以て聖書に書かれています。
 自らの偽我がそのような悪霊を呼び寄せるのです。
 愛を全能の神のように信じる。
 何を以て信じるのでしょう。
 たとえ真理を見出していなくとも真理に生きる心こそ真理を得ているのです。
 人を生かさないものは真理ではない。
 あらゆる生命を生かしてきたのが真理なのだから、真理に背く心しかない者が、
真理とはかくかくしかじかと理解したとしても何の意味があるでしょうか。
 真理を理解する心は理性です。
 その真理を見出したなら、その道に悪が立ちはだかろうと、真理を貫く、
悪の前に倒れようとも、その道だけが人の心を、人類という種を救うものである、
神の法とは、人の心に自由を齎すもの、
自由とは真理に生きる自由であり、心が縛られていて如何なる自由もない、
神の法とは人の心を正しく育て導く指針です。
 孔子様が真理を知ったら、その日の夕べに死んでも悔いはないと言われたのは、
正しい道に生きることが出来た、自らの魂を救うことが出来た者に、
真理が明らかにされずに誰が真理を知ることが出来るというのか。
 正しい道を生きる者は必ず真理の前に心は開かれるであろう、
もし真理を知る時が訪れたならば、それは自分は真理に生きてきたからなのだ、
神に導かれてきたからなのだ、自らの魂を救うことができたからなのだという
真理への信頼に満ちた言葉だったのです。
 肉体の滅びた後に現存する魂を、天の愛を信じていられたに違いありません。

 真理を悟るには理性がなければなりませんが、
真理であると知ったら、真理に目が開かれたなら、人を救う、人を生かす正しい道を知るのであり、
利益や人の賞賛という偽我の喜びなどよりも、
掛け替えのないのが真理の道であることが信じられるなら、
正しい道にあるのであり、神の導きを確信する真の道を見出すであろう、
心の目が開かれるまでは、内なる神の声を信じて正しい道を行くのです。
 真理の道は天の与えた、天に繫がる道である、信じるとは真理への信頼です。
 その道は神の心を育てる道なのだから、必ず神の存在を、その心を確信する時が訪れるでしょう。

 真理の悟れない心は闇である。
 真理に目が開かれずして、どうして偽善者を、サタンの誘いを見抜けると思えるのか。
 その自惚れが真理を知らぬ闇であることが解らないのか。
 盲を導く者が盲なら、共に穴に陥るだけであると、
昔から警告されてきたのはそういうことでしょう。
 真理を見出せない心に向かって天上界を信じろなどと天は仰っているのではありません。
 そのようなことを言うのは偽りの神だけです。
 神の愛を知らず、神の愛する善とは、徳とは何かも学ぶこと無く、
 (偽善者の)左翼が、(偽りの)愛を与えれば人は改心させることが出来ると、
そのような考えが育てたのは偽善者だけであることも彼等には理解出来ないのでしょう。

「希望と愛と光」81年8月号 ガブリエル様メッセージ全文
「赦しについてお話ししましょう。
 あなたは今迄に、完全に人を赦したことがありますか。
 忠告が嫌悪感を持たぬ憤りから来るように、
それが出来るのは憎しみという執着を持たぬ怒りです。

 怒りが義から来るように、赦しは愛から来ます。
 人の求めるままに行うことではなく、足らぬ所を補ってやるのが優しさであるように、
赦しも又、後悔にではなく悔い改めに与えられるのです。
 愛から出る行動は、人を立ち止まらせず、常に前へと歩かせます。
 この意味で赦しは癒しとなるのです。

 自分を見詰めることさえ並大抵ではないのに、
まして他人を自己の尺度で計ることなしに認識することは難しいことです。
 あなたがもし誰かのことを怒ったり、快く思っていないのなら、
その感情が胸に黒くつかえてないか、憎しみを持っていないか確かめてご覧なさい。
 その者が改心して良い人になるのを望むか、落ちぶれ果てて赦しを乞いに来るのを望むか、
あなたは前者を無理なく選べますか。


(注。殺人鬼や、悪霊や、
サタンが人類を堕落させる為に、この世に地獄を齎す為に作り上げた悪魔の思想、
共産主義を善と信じる、即ち神の善を、悪と拒絶するイデオロギーの狂信者や、
現天上界の計画(現天上界が二千年以上前から日本民族を導いてきたこと、
そしてその時からそれが明かされることを預言し、
現天上界の計画の下に天上界の真実を、天上界の意志を、神の法を、
神の民として導いてきた真実を伝えた)
の実現を阻止する為に、この日本近辺に出現したあらゆる新興宗教は
すべて神の計画を妨害する為にサタンが拵えた団体であり、
その信者はその事実を知らないものであろうと、
サタンに従い神の計画の妨害に加担した者であり、
神を求めながらサタンの道を悟ることの出来ぬ魂へと導かれた
(善我を滅ぼされた)魂であるが故に、神の救いから自ら堕ちて行きました。
 よってこれらの人々は善意を以て臨むべきとする対象には入りません。注終)

 ですが、赦しは悔い改める者に無条件に与えられるものではありません。
 償いをせねばなりません。


(注。罰せられることなく、償われることのなかった罪ほど天上での罰は重いものです。
 この世に於いて捕まることなどないと、その邪悪の道を生きる知恵に慢心した魂に、
また多数が一人をいじめる、共産主義者の総括、吊るし上げと同様の悪魔の心を以て、
一人の人間を自殺に追いやる、その犯人を特定出来ぬからと、無罪放免を良いことに、
良心の呵責さえも抱くことなく、償うことも、悔い改めることもなかった魂が、
彼等に殺された魂が原告に付く天上の審判の場に於いて、
如何なる報いを受けることになるか、彼等には想像も出来ないことでしょう。
 神の法に従うことを知らぬこの世の法は、
人の魂を救うことなど関係ないと思うのでしょうか。
 魂を救うとは人の心を救うことに他ならないことも知らないのでしょうか。注終)

 義の怒りが愛の赦しへと繋がるように、癒されたなら、
自ら義人となって歩むようになるのです。
 これを目覚めたと言います。」

 義人を装おうとする内なる偽善に目を逸らす心、
善を愛する者と盲信する自己肯定の心、
偽我なる心に無知であり、自らの内に巣食う偽我に飼い慣らされていることも悟れぬ、
自らにあまりに無知な者が、人の血を以て自らの偽我(悪魔の心)を満たす。
 自らの罪を償うことよりも罪(に相応する罰)を軽くするように悪なる心を繕う、
改めることなき心を以て救うと考えるを慈悲魔という、
神の愛に繋がることなき心であると天上界は教えられました。
 天の光の下に来るものは、神の善を明らかにする喜びに満たされた者だけであると、
聖書は伝えています。
 そのような神の善を愛することをしらぬ、悪を悪と思わぬ心が愛を騙っている。

 愛は罪人を改心させることが出来ると言う。
 愛があったらそのような罪を犯し得なかったであろう愛なき者に、愛を与えられると言う。
 慈愛が注がれることなく、枯れ果てた善なる心を蘇らせることが出来ると、
そのような愛を誰が与えられると、誰がそのような愛を持つと言うのか。
 そのような愛は存在しない。
 愛を受け留める心のない者に愛を注ぐは、ザルに水を注ぐが如しというのが、
何千年と人類を救おうと導いてきた、
自ら滅びに向かう偽我に生きる魂を見守ってきた天上界の人類の心に見た真実なのです。
 愛に生きる神の救いを地に擲ってきた、自ら望んで滅びの道を選び取ってきた人間の心です。
 そのような者の心を救うとは、如何なる心を以て言うのか、
それを為さしめる愛とは何を以てそれを言うのか。
 それを証するものが何処にあると言うのか。
 彼らはこの世の法を地獄のものにしようとする、地獄の意志に生きているのではないか。

 真に自らの罪を知った者、罪から救われることを知って、神に救いを求めないなどあり得ない。
 この世に救いを求めるなら、彼等は自らの魂に、悪なる心に苦しんでいるのではない。
 人を殺めたという罪、償いの道さえ見出せぬ盲目の魂に苦しんでいるのではない。
 自らの生命を失うことに、罪に生きる心の自由を失うことに苦しんでいる。
 そのような偽我を満たすことが救いであるとするなら、
真に人の心を堕落させることで、罪を罪と思わない、
罪を犯しても苦しまない心にするを以て救いとする、
悪魔の意志に生きているに他ならないものでしょう。

 罪に苦しむ者を救ってきたのは神である。
 神の前に自らの罪を認める、悔い改めよという神の救わんとされる信念を信じ、
神の導く善なる道、救いの道、償いの道、苦難の道を行く者に、神の慈悲が与えられる。
 そのような神の心を知ることが出来た者は、神を愛する者は、
神を悲しませたくないと、神の愛を裏切りたくないと、
自らの罪に、悪に生きる心と戦うことが出来たのではなかったか。
 神を、愛を知ることなき闇に生きる者を、
神の法に繋がることなき、神の光なきこの世の法に救えるものであろうか。
 神の法に生きることのない者が、神の心を自ら殺した者の心を救えるなどと高慢な、
悪魔の如き自信を持つのでしょう。

〖備考〗
現象テープ№12 79年2月1日 ミカエル大王様現象より
「人間としてありとあらゆる欲と灰汁(あく)を持ち、
不道徳なこと、人に嫌われるようなことも、
社会で成功する為、名誉を得る為、平気でやってきた人が、
成功と名誉を勝ち得た時に世評が急に気になり出し、
その醜い人間的な過去を世人に忘れさせる為に、やたらに善行を施す人がいます。
 何々に寄付、何々の養護といったことに必ずその名を連ね、目立つことをします。
 これは後ろめたい自分の良心をごまかす、自己欺瞞的なやり方で、
明らかに偽善者的な性格を持ちます。
 偽善者に共通の嘘を吐くことが平気で、
それが後には本当であるかのように錯覚してしまうような人です。
 自己欺瞞という偽我です。」

 防衛規制の一つである反動形成というのは、
Ⓒ(子供の自我状態:本心、自己中心的な心)を深層意識に抑えておくだけでは不十分なので、
正反対のⓅ(親の自我状態:人の目を気にし、世間体しか考えない、虚栄を張る偽善者が、
ともすれば自己満足に過ぎぬ信念(善意)に酔い痴れ、
他(子供を含む)の思いを理解しようとする思い遣りに欠ける)
で欲求や感情に対処しようとする心。
 いんぎんで礼儀正しい強迫性格の人にしばしば激しい攻撃欲の持ち主があります。
 例えば欲望や感情といった本心が如何なるものか知られたら、制裁されるのが明白な場合は、
何としてもその心を隠さねば、深層意識に抑えておくだけでは安心できない心は、
正反対の欲望や感情で、自らの心をごまかそうとします。
 この防衛規制はⓅによる工作ですから、ゆきすぎたⓅの働きが見られるとき、
その存在を知ることができます。
 これは一般に「 …… すぎる」という性格傾向として現れます。
 例えば、子供を可愛がりすぎる、いばりすぎる、潔癖すぎる、などの傾向で、
その蔭で、正反対の欲望や感情を防衛しているのです。
 すなわち、潔癖さの裏に乱雑さ、威嚇の奥に臆病、過保護の蔭に憎しみが秘められています。

 防衛規制とは、自己保存の心であり、
自分の心を苦しみから救う為に、自分に都合の良いように物事を解釈する心の働きです。
 自分の欠点(悪、罪)を許す、ごまかす為に、人が長所(善)と認めることを行って、
あたかもその欠点(悪、罪)がないように、その欠点(悪、罪)で人が苦しんでいようと、
自分が原因と思わせないようにする。
 即ち人が苦しんでいようが、それは自分の所為であると責められないように、
人の心を、そして自らの心をも騙す(無意識にそれを行うことで意識されない、
そういった能力を無意識にあって人は作ることが出来る、
自らを救うという本能(無意識)がそれを為すのです)というものです。

 ガブリエル様の仰しゃった償いは、これと明らかに異なります。
 償いとは、自分を良心の呵責から救う為のものではない、
自分の所為で苦しめられた人の心を救うことが目的だからです。

 法は罪についてこのように語ったとしましょう。
「私(法)は罪人に対して、犯した罪に相応しい罰を与えました。
 この罪人は、その罰を以て、自らの罪、被害者であるあなたを苦しめた痛みを、
あなたが受けたと同じように受けることによって、自らの悪から目を逸らすことなく、
そのような悪なる心をあなたが憎むように、この罪人も憎み、善を愛するようになりました。
 法に基づいて刑を全うしたこの者を許すことで、自らを憎しみから救って下さい。
 あなたも法によって救われる者になって下さることを心から願っています。」
 これが被害者と加害者が共に従うべき法であり得るのではないかと私は思います。

 加害者が人を殺してしまった場合は、償いようがないと思いますが、
例えば被害者が失明をした、歩行能力を奪われたとしましょう。
 被害者はこのように言うかも知れません。
「あなたは刑を終えて自由を得ることが出来ました。
 しかし私はあなたによって視力を奪われました。
 私の魂は永遠に闇のままです。
 何が償われたというのでしょうか。」
 
 永遠に自由を失った被害者が、自由となった加害者が許せないのは当然であると、
この加害者は受け止められるようになったとしましょう。
 そのような癒されることのない心を自分に救うことが、
償うことが出来ないことを加害者は知ったからでした。

 彼は被害者に言った。
「今の心を、罪を犯した時に、私が持っていたなら、決して罪を犯さなかったでしょう。
 しかし、罪を犯すことなく罰を受けないでいたなら、
私は今も悪の心のままそれを苦しいと思わずに生きていたでしょう。
 私が自分の悪を知ったのは、自分があなたに与えた罪にあなたが苦しむ、
あなたの心を理解することが出来たからです。

 私は自由になりました。
 私はこの自由を、私に自由を奪われたあなたの、
同様な目にあった他の人の償いの為に尽くしたいと考えています。
 あなたの憎む悪が私の中に見出せなかったなら、
私が神に救われたことを信じて下さい。
 私の心にあった悪がなくなったから、神の許しが与えられたのだと今思っています。
 どうかそのような神の、罪をも許される慈愛に、
あなたの苦しみを癒されることを心から願っています。
 私が自分を許してもらう為に神を持ち出したなどと思わないで下さい。
 神があなたの苦しみを癒されることを祈ることしか出来ません。
 神にそれが出来ることを知ったからお伝えしていると信じて下さい。」

 この世では同じ殺人罪であっても、森鴎外の高瀬舟の主人公などの、
神の法の前では、全く罪に問われないと思われるものから、
旭川の殺人鬼のように情状酌量の余地の全くない場合とはっきり異なります。
 それは、この世にあって生命とは、肉体であり、心は肉体以上の価値が与えられていない。
 それは、心は肉体の一部であり、
肉体が滅びれば、心も滅びるとこの世の人々は思っているからでしょう。
 それでも死んだらあの世に存在することの出来る霊魂を信じている。
 この世にあってどんなに心が痛めつけられようと、死んだら健全な霊魂が与えられて天国で、
極楽浄土で永遠に幸せに生きることが出来ると信じているのでしょう。
 それだからこの世では心以上に肉体が重んじられる、
心に負わせる傷よりも肉体に負わせる傷を問題にしている。
 しかし天上界にあって生命とは霊体であり、その霊体の価値とはその魂、心以外にないのです。
 ですから、その魂が人の神の心を傷つけることで喜びを見出す悪魔の心であれば、
天上界はその霊体の生命を取り上げるのです。
 霊体の価値以上に魂の、心の価値を重んじるのです。


 
人間として生まれてくれば肉体を育てるように霊体も育つのです。

 その中身が空っぽであっても霊体です。それに何の価値がありますか。
 発狂してしまった、脳細胞が死滅して白痴となった者に何の価値がありますか。
 あなたは自分がそうなったら、人から如何なる慰めを、
また価値ある者であると本当に信じていたとして、その思いを人から得ようと、
そんなものはもう何にもならないのだと思うでしょう。
 それが失った心を、知能を蘇らせることが出来ない、
何の力もない空しいものであることを理解するからです。
 自分自身が何であるか分からなくなった、
知性が滅んでしまった者に、存在する価値があるというなら、
如何なる生き物も殺して食べることなど出来ない筈だと思います。
 彼等の方が自分を、自分の家族を守ろうと懸命に生きている魂ではないですか。
 動物にも魂は在る、人間という動物にあって、他の動物に霊魂がないなどと考えるのは、
悪魔に繋がった宗教の信者位でしょう。


 霊体に価値を与えるものが魂であり、心なのです。
 神とは何か、悪魔とは何か、霊体に於てすべての人間と変らない
(※)のです。

注。
 彼等の持つ霊能力(霊体を破壊する能力も含め)は、
科学的法則を駆使しての科学的能力を極めたものであるのか、
もしくは科学兵器を作り出したものなのか全く知らされてはおりませんが、
彼等(魂)の持つ知的能力によって為されるものに他なりません。
 何しろ天上界は、損傷した霊体を修復するほどの科学、医学的知識を持ち、
天上界でその治療を行っているのだそうです。
 また、今生で肉体の損傷を受けた者が、死後霊体となった時に、
その失った能力を霊体にあって修復する、その機能を蘇らせられる可能性は、
今生で失ってから長く生きた者ほど、
機能を失ってからの条件反射が強化されるに比例して、
機能を失うまでの条件反射は二度と働くことがない、
そのような消失の進んだ反射系を修復するのは困難となってゆくと
天上界から教えられました。
 例外もあります。
 今生で重度の精神障害、発狂した精神は、その時点で心も魂も修復不可能となります。
 心を軽んじるこの世の法が如何に人間の理解を心掛けるものでなかったか、
思い知るのではないでしょうか。注終)

 超人でも何でもありません。
 その心に於て、また知性に於て神であり、悪魔なのです。
 神というべき愛に正義に徹する心を育てたが故に、魂を研磨したが故に神となった、
人類を正しく導こうとする心を以て神と呼ぶべき存在となったのです
(イエス様は神を父と呼びかけられました)、その心を以て神と言うのです。
 神の心を教えずに、神を崇めよという宗教は、神の何を崇めているのか。
 彼等が神と理解したのは、その力であり、彼等の前に力を誇示するものがサタンであろうと、
真の神の心を理解出来ぬ彼等に神を偽るサタンの心をそれと知る由もなかったでしょう。

 その科学的知性を持つまでに人類という種の進化を成し遂げた彼等に於いて
霊体を消滅する能力を得たのであり、
そのような神の心を持つ、共に天国を守ろうとする、信頼出来る魂に、
天使の資格、悪霊を消滅する力を神は授けられるのです。
 悪魔の心が、神の心に生きる霊体の生命を奪ってきた、
神のものである神の子の生命を奪ってきたからであり、
その天国に、神の子に手を掛ける悪魔の心を、魂を育てるこの世の法を、
心を軽んじるこの世の法を以て人を導く者を、
天上界は決して認めるものでないことをこの世に知らしめねばならないと思います。

 さて、この旭川の殺人鬼ですが、この者が改心する可能性は全くありません。
 その根拠については、このような残酷な殺人を行える心は、すでに悪霊に憑依されている、
悪霊の波動の伝える感情(怒り、憎しみ、人の不幸を以て自らの幸福を実感するような心)
を受け入れているのです。
 その証拠は、殺人を、悪魔の業を為した後、悪霊がその心を悪魔の業で満たした後、
血を求めて猛り狂った心の満たされた、鎮められた後でも、
この殺人鬼は、全く罪を悔いる人の心に戻ることがなかった

 それはその者自身の心が、悪霊と変らない故に、常に悪霊の波動から解放されることはない、
悪霊の波動にロックされた心なのであり、その心以外の心を持つことはあり得ない。
 改心するというのは、その前に善なる心がなくては、
自らの犯した罪を受け止める善なる心がなくては、改心は起き得ないものです。
(仮に良心があったとしても、
罪の重さを知っていながら悪の衝動(の喜び)を抑えられなかったと思われたくない、
罪であることを承知していた邪悪な心を暴露する良心の呵責を見せたら終わりだ、
わずかに残っていたかもしれぬ良心を抹殺することなど訳がなかったであろう。
 そんな良心に躊躇するような心がどうして人が殺せるものか。
 悪霊の力を得たこの殺人鬼は、
その邪念の妨げとなる良心などとうの昔に抹殺していたことでしょう。)

 事故ではない、明らかに殺意から、しかも命乞いをしている者を、
虫けらのように殺すことの出来るものは、その心は病んだもの、
それは一度狂った精神が、治ることの二度とない心となったと同様であり、
理性の芽を摘み取った心に、戻るべき理性などない、
神に消滅されるまで悪魔の心でい続けることしか出来ない者であると思います。

 この世がそのような悪霊の存在を、凶悪犯罪の陰に悪霊の存在の在ることを認めるとすれば、
真の神を、神の法を認めることなくしては不可能でしょう。
 少なくとも悪魔の心に堕した者を改心させることは不可能であり、
そのような心から人を救う為には、
人の命を平然と奪うような冷酷な心は、人間社会に生存する資格はないと、
そのような生命を許すような法であっては、
健全な社会を、人の心を育てる所か、損なわしめるものであるとの自覚を以て、
この世の法を神の法に近づける、真の愛に立脚した法を築くことが
神の民としての務めであろうと思います。

注。
「慈悲と愛」80年1月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「(悪魔の力を背景に事を企てたイランのホメイニに言及されて)
 私達が彼の行動を見る時、この国(日本)にあって私達天上界に反逆し、
他を扇動する者に奇妙に一致した感情の上下が現れ、何かに駆り立てられるものの如く、
些細な論拠と論旨を振りかざして世の正義と秩序を乱し、省みない高ぶりと、
形勢が自らに有利とならないと悟る場合の一時的な平静の波があることを解します。

〖自らこそ神と信じるサタンの力が入った時、神をも畏れぬ自信に満ち溢れた背反者達は、
サタンを神と見誤り、現天上界の、その教えの真であることを理解した神の心を失いました。
 そして神を裏切らせる目的を達成したサタンが去った時、
現天上界から消滅を宣告された彼等は、
神からも、サタンからも見捨てられた者であることを知った。
 神も悪魔も己自身をも信じることが許されないその心は、絶望しかなかったでしょう。
 平静の波とは、思考停止、自我の崩壊でした。
 イエス様をパリサイ人に売り渡したユダが、己の犯した罪に絶望し自殺したには、
目的を遂げたサタンがユダから立ち去った時、
かつての己自身の心、イエス様を信じていた心だけが残されていたからだと思います。〗

 これは病的な性格の特徴でもあり、理性に基づいて行動しないタイプの人間が、
悪霊の支配下にあって示すパターンでもあるのです。

 何ゆえ悪魔や悪霊の支配であると見るかは、
その歪められた感情が単に本人の世界のみで表現されるならば、
あの(ホメイニ)ような激情が持続し、他の同様の性格を持つ人間
(若者の場合も情緒が不安定で病的になり易い)の異常性を
引き出すだけのエネルギーを持ち得ないからです。

 この点から見て、悪魔や悪霊は扇動し、支配し易いタイプ ー 
感情的な、無定見な、且つ情緒の欠乏せるものを選ぶということが明らかであり、
反面理性的で、真理に対して柔軟な姿勢を持つ性格は支配し得ないということがお判りでしょう。
 勿論自らの意志で以て心の浄化を図る人間でなければなりませんが。

 感情も容易に表さず、抑圧する、つまり魂も知性も自由でも柔軟でも無く、
偏見や完全癖や頑固な思考の表れを示すタイプも、
本人は穏やかで、心乱れず、理性的であると考えているかも知れないが、
実は感情的な人間であること。
 不安感情で理性や知性の柔軟な働きを阻害しているに過ぎないこともお教えしましょう。
 このようなタイプも悪霊の餌食になって誤った説を流し、世の災いとなるのです。
 非常識な言動が見られ、変人視される人物もあります。
 如何にも賢明であるような表れに反して、己の愚行を悟れない人物もあるのです。

 これが只一説のみに固執し、譲ろうとしない左翼思想家(穏健派も過激派も含め)と
狂信、盲信の宗教家及び信者の背後に悪霊の跳梁ありと断定する所以(ゆえん)でもあります。
 はっきりしたイデオロギー、信念を持たずとも、理性に乏しく、
感情的に自己表現をする扇動家のタイプも同じ事が言えるのです。

 感情がプラスに働くのは、情熱や熱意が正しい方向に向けられた場合のみです。
 且つ情緒が安定し、理性の働きとのバランスが取れている場合にのみ、
悪霊支配から安全圏にあると言えるでしょう。」


"悪魔の心"
「JI」90年10月号初出 ミカエル大王様メッセージ全文
「八月初めに隣国の王政の小国クウェートを不当に侵略し、
しかも歴史上クウェートはイラクの領土であったなどと、
国際法を踏み躙る暴言を繰り返し(注。日本の某隣国のことではない)、
当時双方に居住または滞在中のあらゆる外国人と大使館員を
人質同然の軟禁と軍隊の監視下に置いた、
サダム・フセインのその人もなげな、ゲリラ戦と同様の暴挙に
立腹した米、英国が両国を含む多国籍軍を配備したり、
イラクとクウェートの経済封鎖や艦隊によるペルシア湾封鎖など、中東ペルシア湾岸危機の為に
米ソ首脳会談まで開いて、その解決策に苦慮しているというのに、
サダム・フセインはまるで悪魔の如く、
"正義と公正の為に西側諸国への聖戦を"などと、自己正当化の宣伝声明を発表したり、
"経済封鎖をするならば、人質の食料は保証しない"とか
幼児がその為に餓死寸前だとか、
イランのホメイニも言わなかったような卑劣な脅しを掛けています。

 これは人類史上例を見ない卑劣な方法で、
しかもスターリンやチャウシェスク同様、
反対する閣僚はその場で射殺して口封じをしてしまい、独走する。
 国民は軍隊も含めてフセインに処刑されるのを恐れて、
如何なる非道な圧政も見ざる・聞かざる・言わざるを通し、ただ服従に甘んじ、追随する
(キューバのカストロとて同じこと)。
 そして西側に協力する国、サウジ・アラビアやエジプトの政府転覆を計るよう呼び掛ける。
 "盗人猛々しい"このフセイン氏は
"中東の蛇"とも"何時裏切るか判らない人物"とも言われて嫌われ、恐れられていますが、
こういった横紙破りの独裁型は社会主義国に共通で、
しかもマルクスが(悪の)リーダーの条件にしたように、
貧農の出であり、教育はイデオロギーの洗脳以外あまり受けていない。

 共通して情緒に欠け、
前思春期までの子供の残酷さをそのまま持っている性格

(旭川の殺人鬼こそ正にその性格でしょう)の人物であるようです。
 こういった情緒欠如型の人間は、自分以外の人間の感情も痛みもまるで判らず、
だから次々と平気で拷問や大量虐殺を行えるのです。

 中国の文化大革命もカンボジアのポル・ポト政権も同じ。
 直接射殺しなくても、収容所で拷問死させるのも餓死させるのも同じ。
 そういった独裁政治は、ベトナム、北朝鮮、アフリカの社会主義政権と、
総てはマルクス・レーニンの非人道性に遡るのです。

 貧農の出であるから、勿論、
裕福な者や、インテリ階級への偏見と嫉妬を自らの活力として生き、
広範囲の学問や教養を身に付けている訳でもなく、先人の精神から学ぼうとする姿勢もなく、
ましてや哲学にも人生にもまるで無関心であること。
 大脳の前頭葉部位の未発達は野望を遂げる以外に用いることのなかった為であり、
良心の麻痺した理性は無感覚となり、
自らを弁護し、口実を駆使して
あらゆる悪行を正当化してしまう雄弁にのみ働かせ、

誇大妄想にも似た大義名分を振り回す人物です。

 サダム・フセインやホメイニの如き人物は、
"神の掟"の第一の戒め"汝殺すなかれ"を平気で破り、人殺しの人生を送るにも関らず、
国民や部下には貧しさと飢えからパンを盗んだだけで手を切り落とす。
 無防備な国を侵攻し、非武装の国民を殺す。
 そのような施政は、神の前に通ずる筈がありません。
 彼等は悪魔の思想に共感し、悪魔に仕えているだけです。
 "聖戦"などと言う資格もありません。

 アラブの国民はこのことだけにでも、真実を悟るべきなのです。
 一国を何の予告もなく、内乱があった訳でもなく、ただ侵攻して、王政を破壊するのと、
それに抵抗して(アフガニスタンのように)侵略者と戦う"聖戦"とは全く質を異にします。
 敵国と交戦して、祖国を敵の侵略から守る為に、
又は侵略された国の国民から(政府から)助力を求められて援軍を派遣するのとは、
まるで理由が異なります。

 そしてまた、目的がそういった崇高なものであれば、
たとえ戦火の合間にでも、兵士は泥土の上の進軍に、道端に咲く一輪の花を踏まずに通ったり、
家族からの手紙に涙したり、小鳥を愛でたり出来る心の余裕と人間性を保ち得るのです。
 アフガニスタンやニカラグア他の自由の戦士達、延いては二つの大戦中の関係国(非共産国) ー
自由諸国の兵士達は真(まこと)にその通りです。

  戦いが人を荒ませ、非人間性にするのではなく、
どのような目的と心で戦いに参加するかが大切なのです。
 "人間性を失うこと"は"人間がけもの以下になること"なのです。

 マルクスとレーニンは、ユダヤ民族以外の民族が総て"けもの以下"に堕落し、
互いに殺し合い、滅し合うことを望んで、あのイデオロギー理論を完成させたのです。」(2026.7)