"神の法がこの世の法となるには"

「慈悲と愛」79年6月号初出 ミカエル大王様メッセージより
「慈悲が甘やかしに通ずるものであっては、
教義に於て至高の徳とされる"慈悲の心"が正しい形で与えられることにはならない。
 それが正しく与えられていないから受ける側も何の感動も無く、
生涯を通じての心の糧、魂の修行への指針とはならないということなのです。
 機関誌創刊号のメッセージに於てガブリエルが魂の研磨を説き、
そこから初めて"慈悲と愛の心"が湧き出て来る、
それは魂の歌であり、泉であると述べておりますが、
"慈悲"は厳しく己を練磨する心が無ければ、己にも他にも益とならず、
又本当の"慈悲"とは言えないのです。」

「"慈悲"でさえもそのようですから"愛"も勿論その域を出るものではない。
 愛も甘やかしの愛であっては、自他共に有害無益となり、
尊敬と信頼を以て接する人格の成長を互いに望むことは出来ません。
 愛は罪をも宥すとされていますが"盗み"や"殺人"も余程の理由があって
そこまで追い詰められて不本意に為したのであれば、"法"も情状酌量という温情を与えますが、
罰されること無く、何時も宥されるのであれば、世の中は犯罪に満ち満ちたものとなります。
 それを防ぐ為には慈愛は"法"に譲らねばなりません。」

「"罪"についてより詳しく語るならば、
"罪"とは他人の生命、生活を脅かし、社会の調和を乱し、破壊するものを言い、
暴力、破壊の為の闘争もすべて罪です。」

「"正義、正義"と理想理念を掲げて即短絡的な力に訴え、殺人、強奪、
破壊を正当化するイデオロギーは死者と闇の世界の使いであり、
天と光の国の使いではありません。
 真理と天は社会の調和と秩序を擁護するものであり、
それを乱し破壊するものはすべて"罪"なのです。
 再び"愛"に目を転ずるならば、
"愛"は一部の楽天的なクリスチャンが解釈する如く
"律法"と"罪の観念"を空しくするものではなく、
"慈悲"が"戒律"と"魂の修行"を離れては存在し得ないように、
"律法"を完成するものであることを、
私は何度も繰り返して皆様にお話したいのです。

 自己を厳しく戒め、法と戒律を当り前のことと
その如く生きようと志す人にでなければ、
真の価値ある"慈愛"の限界を知ることも無く、
思い遣りと甘やかしの違いさえも会得することは無いのです。」

「精神的に"子供"であることは、社会の甘やかしを求め、
その甘やかされた人生に於て善悪の基準がはっきりせず(社会はそれを与えないのですから)、
従って"罪の意識"も薄く、律法の厳しさを避けて通り、"慈悲と愛"の本質も解らず、
自己愛のあまりに他者への愛も慈悲も理解せぬ盲目の人生を送ることになるのです。」

自らを厳しく律する者であってこそ、魂は良心の呵責から自由であり、
悩みを持ち苦しみにある隣人への真の愛と慈悲の心に目覚め、
無私の心で手を差し伸べる思い遣りと誠意が生まれてくるのです
 魂の研磨を怠らず、互いに助け合うこと。
 それはこのような"律法と愛"、"戒律と慈悲"の中から自然に生まれるものであり、
天はそのような人々に惜しみなく正義の冠を与え、信義と愛で包むものなのです。」

 神の法は、自然の法に見出した真理を理念とする、
即ち自然の摂理に適応する、自然の法に従う生き物を生かすもの、それが自然の法であり、
法によって導き、法に生きる者を守る自然の法則を在らしめる真理こそ、
人を生かすを真理とする神の御意志を在らしめるもの、それが神の法です。

 神の御意志を明らかにする神の法をこの世が知らないのは、
神の教えを伝えるべき宗教がそれを阻んでいることが理解されていないことから明らかでしょう。
(神の法に背くを明らかにする、それは間違った道に行く者であることを、
人自らを損ねるものであることを明らかにする故に
(天上における審判から人を)救うものとなります。)

 全ての生き物が、自然の法の下に生きるを許されているのは、自然の愛の中に生きている、
自然から与えられるを以て喜びとし、自らを与えるを以て他の喜びとなり、自らの悲しみとなる、
それが万物を貫く自然の与える愛なのです。
 全ての生き物にその愛を知る能力を与えられてはいなくとも、
彼等は自然の与えた自己愛(同種への愛を含む。
 同種への愛すらない自己愛を持つのは人間だけです。)という小さな愛に生きている。
 それが自然の与えた本能という理屈は知らなくとも、それにのみ生きている、
自然の与えた本能以外の意志を持たない(本能に異常を来さない限りに於いて)が故に、
彼等は自然の愛から零れることはない。自らの種が自然から棄てられるという不安を、疑いを
(人類が神に対して抱くように)自然に対して抱くことはない。

 全ては大いなる自然の愛の中で与えられて生き、与えて死んでゆく、
それが全てを生かす自然の愛である。
 自然の法に生きる生き物を見ると、
力あるものに弱きものは食されるというのが自然の掟のようですが、
その力を持つ、ライオンや熊やクジラやサメや猛毒の蛇やサソリは果たして無敵でしょうか。
 環境の変化に適応できなければ(種が滅びるまではいかなくとも)個に於て滅びるであろうし、
如何なる生き物も何時かは死ぬのであり、その死体は禿鷹や蛆虫やバクテリア
(は生き物とは言えないですが)などの餌食になっているでしょう。
 そのように全ての生き物は自然の法の下に生かされ、
その終わりには他を生かすものになっているのではないでしょうか。

 力なきものが力あるものの犠牲になるのが自然の掟のように見えても、
力あるものも、力弱きものも等しく自然(の法)に生かされ、
他を生かす、自らの生命を与えることに於て平等なのです。
 自然の法とは全てを生かすことに於て、自然そのものが存在する。
 他(の種)が存在するのは、如何なるものも生きる為には、他(の種)が必要だからと、
ガブリエル様は仰しゃいました。

 神の法が自然の法に倣うとは、全て(の生き物)を生かそうとするのが法であるからです。
 生かそうとする愛を守るのも法であるからです。善と悪を明らかにするのが法です。
 自然に適応できない生き物を自然は淘汰されてゆく。
 自然の中に生きることを出来ないものは生きる所がないということです。
 それは自然が愛を与えられなくなったか、
その愛を求める、受け止める能力をその種が失ったということになるのでしょうか。
 自然の法に適応できないものに自然の中に存在するものはないということ。
 愛も慈悲もそれは変らない。
 神の法に愛は慈悲は従うものとであるとミカエル様が仰しゃったのは、
愛を愛たらしめるのは法であるということです。

 愛を妨げる悪の力があるなら、
法の下に悪を滅しなければならない、それを為さねばならないのが法である。
 戦うに時がある、破壊するに時があると聖書に伝えるのは、
悪を明らかにするのが神の善である、
神の裁きとは、神の法を犯す者を明らかにするものです。
 この世の法を、悪に、権力者に有利なものにする、悪魔によって法を支配する、
そのようなことがなされてきました。
 法によって悪を齎すならば、愛も慈悲も存在し得なくなるではないですか。
 愛が慈悲が神の法に従うとは、
善を、悪を明らかにするを以て、善を愛するを以て人の心を救うことが出来る、
悪なる心をも盲愛するような愛なら、人を滅ぼす、それは愛ではない。
 愛が愛である為には、神の法に生きるを以て神の愛を守らねばならない、
愛を偽りのものに貶めることは許されない、
愛といえども人の心が堕落すれば愛も堕落するもの、
故に神の愛は神の心に於てのみ生きるものである、そういうことではないでしょうか。

 この世では悪を為さなければ、
如何なる邪念を隠し持っていようと罰されることはないのですが、
そのように罰されらなかった者、
その悪を悪と知ることなく、悪なる心を自らの本性として育てた魂がどうなるか、
それはこの世をサタンの王国にしようとした悪霊が、
天上界を二分するほど存在したことからも明らかでしょう。
 この世を悪にしようとする、その為に人を悪なる心にする意志が存在するということです。
 それを認められない人に、納得させる必要はありませんが、
悪を為さなければ何の罪もないとするこの世の法は、明らかに間違っています。
 行為に現れる前の、その心に於て育ててきた観念が、善であるか、悪であるか、
この世に於いてはそれは問われず、天上界に於て問われるのは何ゆえか。

 善を愛する情念(心)によって育つのが善の観念であり、
その心を自らの心として自覚する、
その精神がなければ悪を前に、悪を許さぬ善に徹する意志は生まれないのです。
 そのような善なる心を育てる、導くことが出来る時は、今生に於てしかないのです。
 それをこの世の法が認めようとしない、
またそのような法を許すことは、法によって善を阻んでいるということが解らない。
 天上界、即ち霊の世界と、
肉体の、人間の生きる世界は別であると考えることが完全に間違っているのです。
 この世に生きた者が一人も天上界にいないのならそうかも知れませんが、
この世に生きた者は全て天上界(階層の違いはありますが)に行くのです。
 この世の法に於て罪を問われなかったからと
天上界の法に問われることなど夢にも思わなかった者がその心を以て罪とされるのです。
 天上界がこの世と何の係わりがあるかと問うていた思いを
天上界でも持っていられる人がいるでしょうか?

 人にとって真の幸福とは何か求める心なくして神の法(真理)を求めるでしょうか
(ブッタ様はどうでしたか)。
 この世に神の法を望むということは、それを望んでいる神の心に目覚めたということでしょう。
 人類の幸せを望んで導いてこられた神の心を信じることが出来たということでしょう。

 この世の価値しか理解出来ない心が神に求める時、その心はサタンにしか繋がらない、
新興宗教の信者の心がそれを証明しているではないですか。
 神に生きる、その心の幸福であることを、
神と共に在ることの救いを信じる心を、器を得ることなくして、
(この世への執着に満たされた器に、)
神の法(に生きる神の御意志)を受け入れるなど望みようもないことでしょう。

 神の法もこの世の法も人の幸福を求めたものに変わりはないのですが、
何が違うのでしょうか。
 この世の法(日本国憲法に他なりませんが)は、
権利という名の下に欲望の解放を齎すことを目的に作られたものです。

(天上界メッセージ・エッセンス 「第一部 第九章 一節 (二) 共産主義者の真実」
 に詳述しました)
 人間の心(意識)を欲望の支配下に置く、欲望に生きる心を作る、
人の心に恩恵を与えるのは自然ではなく、欲望という心であり、
人間の獣化を、欲望による人間の奴隷化をはかるものです。
 その心から理性は生まれません。神の与える法に従う心は理性に尽きるのです。
 欲望だけでなく、理性に背くあらゆる偽我を理性の下にコントロール(制御)すること。
 欲望の奴隷から人の心を救うのは理性しかない、理性による欲望の奴隷化なのです。
 欲望に支配された心、欲望を満たすことに生きてきた心に、
理性を、神の心を理解することは出来ないでしょう。

 この世の法によって生きる(理性を破壊することを日本国憲法は目的としているのです)
ということは、そのような偽我を解放してきたのであり、
そのような者達(左翼)によって支えられてきたのが日本国憲法です。
 このような国にあっても、日本人の心がこの世の法に侵されることのなかった人々とは、
愛に生きる心を知らない、エゴイズムを権利と主張する心の醜さを知る人々に違いありません。
 少なくとも天上界はそのような日本人を信じ、神の御意志を明らかにされました。

この世の法に於て、行為による罪を為さなければ、
法に触れることを証明することは困難であることは分かりますが、
悪なる行為を生む心を育てた原因はあるのであり、
そのような悪なる心を育てた条件や環境から悪を生む要素を解明し、
法を以て取り除いて行くことは出来るでしょう。
 先ずは如何なる宗教も法に依る保護をしない。
 真の神に導くことを以て宗教というのです。
 そのような導きを宗教(信者)には神は為されない、
神を求める者は宗教の呪縛から解放されねばならない、
自由な精神の内に神は宿ると神が言われているのです。
 何を以て宗教(組織)を特別扱いにするのか、
それをすることはサタンに与する者であることは明らかです。

 法が悪を許すものであってはならないとするならば、言葉では良いことを言っていようと、
その実からその木の悪なることを証明されているなら、
宗教を、共産主義を、社会主義を信奉する団体を法の下に擁護してはならない、
まして国家の政党として認めるなど天に対する反逆です。
 そのようなことを許してはならないのであり、
そのような邪念を許さない法を作らなければなりません。
 左傾メディアは常に詭弁を以て国民を誤導してきましたが、
それをはっきり伝えてゆかなければなりません。
 NHKなどは容共のアナウンサーが左翼思想に立っての、
左翼政党を擁護した言動が明らかでした。
 天上界メッセージでもそれは指摘されていました。
 それだけでも天に於いて断罪されるに十分ですが、
NHKを視聴しない者まで、NHKの映るテレビを持つということだけで、NHKを視聴していると、
それを認めない噓つきの犯罪者は法律の下に裁かねばならないと、視聴料という罰金を命じる。
 そのような恐喝行為を法によって擁護してきたのが自民党です。
 NHKと同様に、中国共産党という悪魔に繋がった者です。
 未だにNHKや自民党を信じている頭脳は、
天上界とは全く縁のない魂であることは間違いないでしょう。(2026.7)