"神を信じるとは"
神は信じなければならないものなのでしょうか。
信じるべきか否か解らない者が信じているつもりでいるのを
自己欺瞞というのではないでしょうか。
神を信じる心を持たなければならない、その心を持たないことを知らねばならないのであって、
その理解を奪うことは間違っていると思います。
病気になったり、不幸にあって苦しむ信者に、
信心が足りないなどと言う新興宗教の指導者は本当に神を理解出来ない、
サタンの心の持ち主です。
サタンに苦しめられる人を助けようとしてきたのが神であることを知らないのでしょう。
信心が足りないのは、神への信心ではなく、サタンへの信心なのでしょう。
その程度で済んでサタンに感謝しろ、信心が足りないと言っているのでしょう。
私は神であるという声を聞くことが神を知るということではありません。
そんな言葉は悪霊だから言うのです。
そのような言葉で神であると信じさせようとするのは詐欺師と変りません。
信じさせることが目的ではなく、騙すことが目的なのです。
騙そうとする心を隠そうと、信じなさいと偽りの神は言うのです。
何故神を信じる心が大切であるのか。
神を知る心が大切であるからです。
神が人類を教え導いてきた、その心を理解するのは、神の慈愛に育った心以外にない、
その心のない者、邪悪な心を育てられてきた者が、
サタンの傀儡となって、人の心を、この世を悪に侵してきたのは説明するまでもないでしょう。
神を信じられない心を信じさせようなどと神は望んでおられないと思います。
正しいことを望む心は、善を信じる心は、
人の中に正しい心を信じることが出来るものでしょう。
善なる心を知るとは、人の心に於いて知るものでしょう。
それを理解出来ない心が、神の善なる心を何処に見出せるというのですか。
そのような盲の知る神の心は、己の心を神の心と見るもの、
自分を愛するように愛することが出来るから。
神を愛する自分は善人以外の何者でもないと信じられるから。
彼等の知る神の心とは自己愛に溺れる己自身の心以上のものとはなり得ないものです。
人の心の悪を明らかにして、
自らの心の悪を明らかにできない光が真の天の光であろう筈がない、
それさえも彼等は知ることがない、自己への盲愛に心の目を奪われた者です。
湖面に映った自分の顔に完全な美を見たナルシスの譬えの教えるのが
ナルシシズムという盲目の心ですね。
神を知るとは、人が正しい心に促され、正しいことが出来た時、
神に導かれたことを知ることが出来る、そのような神の前に素直な心となったということが
神の導きであると確信を齎すということなのです。
そのような謙虚な、美しい心を持った方が神であることを知るのです。
人に神を信じる心を齎したのは神であることを知るのです。
神に導かれていると信じる心は、神と共に在ると信じる心と同じです。
神を信じなければならないと言う者は、
人が神の導きに在ることを信じることの出来ない者なのでしょう。
現天上界が自らメシヤを名乗り、人類の前に現れたのです。
神を信じ求める全ての人類の前に、現天上界の神々が自らを証されたのです。
それでも現天上界を信じようとせずに、自らの信じる宗教の神を信じる者は、
聖書でパウロが言われたように、
彼等を滅びに任されたのは神であるからだと私は思います。(2026.7)
