"愛についての考察(継続中)"
・愛に従う心を持つだけの動物と、
愛の理解は、愛に満ちた心によって齎されるものと、自らの愛を誇る人間と
どちらが神の心に近いか。
自然の中に与えられた生命(生物)、その生命に於いて愛は認識されるものですが、
認識する生命(生物)がないなら、愛は存在しないものでしょうか。
存在しない、存在し得ない、それを知るものが存在しないことに耐えられる愛などない、
愛の業が無であって愛であると、何を以て愛であるといえるものか。
愛を知るものなき人々の虚無に神が沈黙することに、
愛は無力であるとすることに耐えられるものでしょうか。
愛の到達点、生命の到達点に至った人類であろうと、
生まれてきてから愛を与える存在なき環境にあって、たとえ本能によって生き延びたにしろ、
他者の存在なくして真の愛を認識するどころか、自己への愛さえ愛と知ることはない。
種なくば個は存在し得ない。
種の中にあって、個(自己愛)を守のは、
種を保存しようとする個に与えられた本能に、個による意志(愛)に他ならないからです。
種への愛は、個への愛を超えた愛、個への愛は種への、
他への愛へと昇華するものであるとする天上界の言われる
神の愛、真の愛へと昇華していくことが理解されるのです。
自分と比較する他が存在しなければ、自分を自覚する必要はない、
自分を優位に置こうとする自己愛さえ知ることはない。
しかし自然の心の到達点が愛に生きる生命の現れであり、
自分に愛を与える者が存在したが故に、愛を認識する心に至ったが故に
生命(生き物)は愛に生きるものであると悟るのでしょう。
生命自らを有らしめた愛を知ることがないなら、
自らを知るを以て知性とするならその知性は虚しいものです。
自らの存在を知る知性を齎した愛が、愛を与えるべき存在を明らかにする、
それが愛の生きる心に他ならない、その心は、愛に生きるを当然と認識するものである。
愛なき心の絶望を知り、愛に生きるを希望にあって、その心を当然とする、
愛を愛と知らずとも愛に生きる動物にとって、
人の欲望に生きるを当然とするが故に、
欲望を捨て、愛に生きる者を褒めたたえることで、
愛の尊さを知る者と如くに振舞わずにはいられぬ、愛に生きることは難しいものと、
欲望に生きる心の弱さを責めることなく許し合うことを以て寛容な心であると、
そのような心にあって寛容な社会が齎されるのであると、
動物は愛が尊いものと知るが故に自らを犠牲にしてでも他を愛そうとするのではない、
種の保存の本能がそうさせているだけである。
しかし人間は愛の尊さを知る、それは自己犠牲を厭う自己愛に打ち克ち、
愛を為すことの厳しさを理解する故に、愛は尊いと思うことで
(愛を為そうとしない、愛なき心であるにも関わらず)美しい心であると互いを認め合う、
それは人間界にしか通用しない考えであり、
愛とは何か知らずとも愛に生きる動物は、
愛とは何かを知りながら愛に生きぬ人間の心より神に近い(※)と、
それが天上界の認識であることを伝えられました。
愛に生きる心に愛は存在し、人の心を傷つけ、踏み躙っても
自己愛を利己愛を満たすことを喜びとする心には愛の知識はあっても、愛の心はなく、
自己愛、自己保存の本能は、与える愛ではないが、
その心を与えた自然は、他の中に同じ自己愛を知る知性を与えているのであり、
そこから自分以上に他を愛する種を存続させようとする、
親の心へと成長させる(神の愛は父性愛であると天上界はイエス様を通して教えられています)、
その心が種を存続してきたからに他ならないのです。
人類も種への愛、同胞(民族)への愛を知りながら、
種への、他への愛は、自らへの愛を超えることで得られるものであると
かつては理解したにも関わらず、真に価値あるものである愛に生きる神の心を見失い、
自己への愛を満たすこと、欲望を満たそうとする心に人を執着させる、
欲望を、自己愛を満たせば満足する、それが幸せであると思う心が人の心であると、
そのような価値観に生きる心へと堕落したことを、
神の心の満たされる、その心に宿る真の愛を見出すことなく、
この世にサタンの意志を、サタンの意志に従う心を受け入れたことを、
それが人間の心を動物以下に、獣の心に自らを貶めてきたことであると、
天上界は教えたのだと思います。
(※注。
現象テープ№20 80年4月6日 ミカエル大王様現象
「飛ぶ鳥は何故美しいのか、海を泳ぐ魚は何故清々しく見えるのか、それをよく考えて下さい。
人間は、どうあるのが一番人間らしいのか、それを個々で考えて欲しいのです。」
飛ぶ鳥は何故美しいのか、海を泳ぐ魚は何故清々しく見えるのか、
そのようにミカエル様は仰しゃいましたが、
鳥は自然と調和するために、自然に生かされるために鳥に進化しようとしたのではない、
魚は自然に調和するために、そのように考えるが故に魚であり続けてきた訳ではありません。
自ら調和しようとの意志を持たずとも、自然に調和しているから美しいのです。
「なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生きていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、
神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、
あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」
神の愛の注がれた生き物は美しい、神の愛の美しさが留まるからであると、
生き物が美しいのは神の愛が美しいからであるとイエス様は語られましたが、現代にあって、
生き物は自然の法則に生きるものであることを天上界は明らかにされました。
自然の法則に生きるように、鳥は翼を得て空中を自由に飛び、魚は水中を自由に浮き沈む。
自然の法則に適応する姿は、自然に生かされる姿は美しい、
彼らは自然に調和しようなどと考える能力はないが、自然の調和に役立っている、
その調和の中に、自然の心の中に生きるが故に、調和の一部であるが故に美しいのです。
弱肉強食、適者生存と見えながらも、常に自然の調和を占める種としてそこに在る。
自然の調和の維持を担っているのです。
"調和に生きる心"
「預言者」カリール・ジブラン著 労働についてより
「あなたが働くのは、大地と、そして大地の心と、足並みをそろえるため。
怠け者は、季節にとっては他所者。かれは生命の歩みから外れて行く。
生命の歩み、それは、威厳に満ちて、誇り高い服従のうちに無窮を目指して進んで行く。
労働しているとき、あなたは笛となり、その笛の心は時のささやきを音楽に変えて行きます。
他の者すべてが、ひとつ声で歌っているのに、
誰が、声も音(ね)も出ない葦でいられましょう。」
人間は愛についての概念を持つ、理解(知識)を持つ、
要するに分かったと、愛が理解されたと思えば、
愛が自分の心にあるから理解されたのだと、素晴らしい愛が分かった自分はその愛を持つ者だと、
人間が自らの内に愛を見たと思った時、理解したと思う心は自分への満足感を与えるだけで、
愛が働きかける心、愛に従おうとする心ではないのです。
愛に対する観念とは、愛の抱く思いを、望みをどれだけ感じるか、
その愛に対して従おうとする、愛に対して素直な心になれるか、
如何なる心を自分であるとするかが自覚、意識されるのが観念であり、
その美しい思いをすべての思いに勝るものであると、その心をすべてとする、
それが愛の観念(また善の観念も同じです)を感じ取った心ではないでしょうか。
愛が意志となって現れないなら、愛を感じ取っていない、愛の波動に震える感性がない、
善我を顧みず、欲望を満足させる、執着心の繋ぎ留められた対象しか心が向かわない、
そのようなものから齎される波動にのみ開かれた心であるということなのかも知れません。
動物の心は、そのような人間の心とは正反対であり、
愛とは何かといった概念は持ちえない(言葉を持たないのだから)、
愛の向けられる対象も目に見えるもの、自らの生きる環境に限られる、
愛の観念が意識されるのは、自分の視野に入るものだけであり、
それ故に、その対象が常に目に止まるなら、常に愛の観念が意識されているのです。
動物にとって愛の観念を感じ取る心は、人間の比ではない、
常に愛に生きているのが動物の心ではないでしょうか。
自然の調和に与することが大切であるなどと理解する心が全くない動物が
自然の調和に与する生き方をする。神の目にはそれは美しいものである。
その心は美しいものである。
何故なら、そのような自然の生き方を軽んじて、
自然の心を、自然の姿を破壊するような生き方を欲するような心を、彼らは持たないからです。
そのような心だから自然と調和しているのです。
そのような調和を調和であると理解せず、調和を破壊するような心に満たされていながら、
自分は愛を理解していると思う人間の心よりも、動物の心は美しいと、
天上界の愛する心は自然の法(を理解されなくとも)に素直に従う心、
そのような心こそ神に愛され、救われるに値するものであるとする、
天上界の真意が理解されるのではないでしょうか。
人間は、どうあるのが一番人間らしいのか、
ミカエル様はそのように私達に問いかけられましたが、
自然の美しさは調和である。
自然の法は、すべての生命を生かすもの、すべての生き物に働きかけるもの。
自然の法のなかで、生命が、愛が生まれ、それらを守るものが法である。
人間だけがその真実を知る知恵を得たのであるから、
その知恵に生きる、その知恵を守らなければならない。
いくらでも捕獲できるからと無制限に生き物を殺してはならない。
人間は生き物の一部であり、他の生き物と同じであえる。
自然の中の調和に与れる割合を決めるのは自然であることを知る知恵に従う、
それが人間らしい生き方ではないでしょうか。
※注終)
自らの幸せを得る為の邪魔となれば、人を不幸に突き落とすことも顧みない、
そのような悪を為して満たされる欲望を以て幸せと思う、
そのような欲望を人間は持ち得ることを天上界は教えられました。
欲望に生きる心(自我)を、悪霊の心、偽我といい、
善を愛する心、神の心をそうであると知るが故に憎む、
善に憎しみを抱く心(偽我)故に善なる心と知るのが悪霊の心、それが偽我です。
善を滅しようとする自らの心を、悪と知ってのそれを為そうとする心を人間は持ったように、
悪と知ってのそれを為そうとする心を人間は持ったように、
悪魔の心を持つように、神の心を持つことも出来るのが人の心であることを天上界は教えられた。
悪魔の心を持つ人間が存在することを知って、
善を愛する者は神の心を持つことを志す者に、真の神に繋がる者にならなければならない、
それが人の心を救うという意志の現れなのである。
悪に屈しない善に生きる心、神の心を自らの心と生きるを望むならば、
善を愛する真の愛に生きるを望むならば、
悪に屈しない善を愛する心へと昇華しなければ、人類は悪の心の前に善の心を失う、
善の心が滅んで、悪の心に侵されるがままになって、人類が、地球が存続することはない、
自然の法に背く心が自然の世界を生きることが出来ないのが理解されないなら、
そのような知性を淘汰してきたのが自然の法であることを人類は証明することになるでしょう。
・なぜ善を愛する意志が大切なのか
善を愛そうとする、善の観念を守ろうとする意志が、
悪を悪と知る善の心を自らの心とすることが出来るのではないか。
悪の観念をそうと知るのは自らの善の観念に他ならないのであり、
善の観念が心にあれば、悪の観念を拒絶しようとするであろうし、
それをしないならば、善を愛するという意志、その意志に生きようとしないならば、
その心以外の心、善を拒む心を自らの心としているのであり、
それを認めず、善の心に生きているとするなら、それは偽善であり、自己欺瞞であり、
それは本心ではなく作られた見せかけの心であり、真実のない、虚ろな心、空っぽな心です。
悪に立ち向かう善を持たずに、自らを善人とするなら、
悪を見ても見ない、真実を見ないことで、善を偽る、偽善しかないのです。
善の心を意識しながら悪から逃げることは出来ない、
それは悪から逃げるのではない、善から逃げるということを、
自らの善の心(観念)を、善に生きる者を裏切るという悪であることを知るからです。
悪から逃げた、善の観念を捨て去った心とは、
真の自分の心を自分であると認める能力を失うのです。
その事実を認めるなら自我は崩壊するしかない、
そのような自覚を自己保存という本能は破壊して、偽我として存続させようとするのです。
オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」は、それを教えています。
真実の己自身の心の現れている肖像を破壊したのは、
真実の自分の醜さを知ってでも自分を愛することは耐え難いからです。
そのような真実の自分を認めまいとする心(偽我)を育ててきたのです。
そのような真実を認識する心(善我)を破壊するしてでも存続する意志を、偽我に与えてきた、
偽我こそ真実の自我であると認識させる、自己保存という心を人格と生きる自我、
生命への執着心だけに生きる、その為なら如何なる悪をも顧みない、
それは真の自己による意志を、真の自己であった理性を失った、
自己保存の意志のなすがままに生きる、操り人形に過ぎない魂です。
もはや人格と見做すべき心はない。
自らの意志で生きんとする、その意志こそ人格であり、
真の自我(善我)を育てたものは、真の愛以外にない、
愛を受けて自らの心を成長させる時、愛を与えた心をも自らの心と受け取ってゆく、
その善我を捨て去るような偽我を持っていることを悟れないできた者とは、
真の愛に生きようとすればそれを妨げとなる自己愛に気付くものです。
それに気付かなかった、真の愛に生きていなかった、
そのような心を認めまいとする偽我を、捨てきれないできた、
偽我に生きる自分を知ろうとしなかった結果なのではないでしょうか。
自分を知ることは難しい、研磨するとは厳しいと、それを知る自分は真理に謙虚であると、
そう思う偽我を善我であると自己肯定に生きる、
ぬるま湯に生きてきた心の末路なのかも知れません。
悪の恐怖に、善への愛が負けるなら、
自己保存の心に屈することなく悪に立ち向かう善なる心から逃げるなら、
善に生きたであろうそれまでの自分ではないのです。
もはやそれまでの自分と自覚された心などない、ただ恐怖の前に従うだけの心でしかない、
自己保存を満たすことで安心する、その心に生きる自分を、
自らの安全のみに生きんとする心を良しと判断する心、そこに徳の、理性の宿る心はない。
自由の精神に生きることが出来た時に、善を愛しても、
自由の精神を奪う力に服従するしか生存が望めないと思った時、
服従の道にあって生きることを、悪に靡く心を自らの心と受け入れる時、
善に生きる心は捨て去ったことでその心を自らの心にしたのです。
善を愛する、善を貫くのは、生存を脅かすものに過ぎないと、
そのような(善なる)観念から解放されたと喜ぶような心は、
自らの意志で生きた善なる心を持つことに恐怖を覚える心となるのです。
人を貶めてでも自らを救おうとする、そのような自分であることを良しとする心とは、
悪に支配された心でしかない。
善を愛する心を持つ者なら、善を愛することが自らの心の生きるということであると思うのなら、
善を愛する心は、善の心を守る為に悪と戦うこと以外にない。
目に見えない心以上に目に見える肉体の危険を齎すものを恐怖する故に、
肉体を守ることになるなら悪と戦うことを避けようとする、
肉体の存続の為ならと善なる心を捨てても、目に見えぬ心を捨てても、人に知られることはない、
平和を愛する心は大切だといえば、人は善人とみてくれる。
しかし善なる心を捨て去る時、
その肉体に生きる心とは肉体に服従する心以外の何物でもないでしょう。
神の心以上に己が肉体を尊ぶ心に如何なる価値を見るのか。
ただ(自己保存の齎す衝動の)力に服従するだけの心、
そのような心を自らの心とすることに耐えられぬ知性が残っている者なら、
生きること自体が苦しみとしかならないでしょう。
善を愛することを止めた報いがそれです。
そのような魂に天上界は永遠の生命を決して与えることはない。
それを知って尚、善を、神の心を捨てても、肉体を生かしたいと、
そのために悪魔の心を自らの心として生きるか、
永遠に神を裏切った苦しみに生きるか、
それとも善への愛を貫くか。
善への愛を育てるのはその決意だけです。
そしてその意志に相応しい心を作るのは自分以外にないのです。(2026.9)
(続く)
