"神の愛を拒み、サタンの力に従わぬ精神を通すことは可能であるか?"
神を拒むとは、善を愛する心がないということです。
悪を憎み、悪に苦しめられる者を助けずにはいられない愛によって為されるもの、
それが神の善であり、それ以上の善があるでしょうか。
神を拒むとは、善を愛する心がないということです。
悪を憎み、悪に苦しめられる者を助けずにはいられない愛によって為されるもの、
それが神の善であり、それ以上の善があるでしょうか。
善とは善を愛する心によって生きる、善を愛する心の中にのみ生きるものであれば、
善なる心故に悪から迫害される者を助けようとする、
善を愛する心を守ろうとする心こそ善なる心、
善はその中にしかないなら、それ以上の善もそれ以下の善もない、
善の観念が善なる心を育てるなら、善なる心でなければ善(の観念)を知る者がいないなら、
善は真理である。真理は何処までも真理である。
それに上下を見るなら、それは真理に於いてではなく、
真理への理解度、どれだけ真理に生かされた心であるか、真理の生きる意志を持つ心であるか、
善なる心の研磨の度合いに於いてしかない。
神の心にまで導くのが真理です。
悪と戦わないことが善であるという者は悪なる心が自らを善と言う、
偽善の心以外の何ものでもありません。この世に満ち溢れた心です。
そのような神の如き善を為す者が、神の善を善ではないと、
神を愛さないなどあり得ないでしょう。
神がそのような者を導かずに神の善を育てることなど出来ると思いますか。
そのような善を許さぬサタンに、天の助けもなくサタンに勝利することなど不可能でしょう。
その存在を隠し人の心の中に入り込み、あたかもその人自身が持つかのように力を漲らせる、
自信に満ち溢れさせる、高慢の頂きまで導いてから地獄に突き落として嘲笑うのが
サタンの楽しみであることを知らされたではないですか。
どうしてそのような人間如きに、神の働きかけもなく、
真の神の心を持つことが出来るものでしょうか。
サタンに支配されて破滅していったのが、
神の善を知らぬ人間であることを知らされたではないですか。
神の御心が善への愛であることを、善を愛する心には明らかなことです。
悪から救われた者の喜びを喜びとする心は神に繋がっているからです。
神を敬う心とは、自らの善への愛の小ささを明らかにする神の真の愛を知る心、
その心を以て謙虚というのです、
それは神の愛に近付くことを妨げる如何なる自尊心(己を高しとする心)もない心を言うのです。
そのような心に変えるのが神の心なのかも知れません。
善への愛を知るとは、神を愛する、神を見出だす心。
ですから神を拒むとは、善への愛を拒むということ以外にない、
人を愛するよりも己を愛する心は神の心とは相容れぬものでしょう。
そのような自己愛に生きる者が、自己愛を満たそうとする者が、
如何なる欲望からも自由でいられるでしょうか。
人に自分を愛させることを望まぬ自己愛が存在するものでしょうか。
誰からも愛されることなく、自らを愛するを以て満たされる心などない。
それが出来る者なら独房に入れられた者は愛に満ちているか、
誰からも邪魔されないと自由な精神に生きていられるでしょうか?
孤独に耐えられないのが人間ではないですか。
そのような心の交流が全くない心に耐えられないから、
愛する術を知らぬ者は、人を苦しめることで、
悪の交流を以て満たされる心を、偽我を育てるのです。
人を支配せんとする権力欲(自らを人の上に立つべきとする増上慢に巣食う欲望です)、
これは本能に根差した心故に、本能の心を満足させることができますが、
それ以上の心、高次の感情を満たすことはない、
神の心というべき理性が成長することはありません。
自らの神の心がないということは、真の神を知ることが出来ないということなのです。
天上界が神になるように努力することを言われたのは、神の心を持つようにということです。
神の心を持たない者が神になどなってどうするんですか?
サタンは、人の自己愛を満たすのが、欲望であること、
欲望に生きる心へと堕落させることで、自己愛に生きる心を満たそうとするのです。
そのようなサタンの誘惑から自由でいられる心など存在しない、
サタンの悪を見抜く善がなければ、その悪を拒絶することは出来ないし、
また拒絶する理由がないでしょう。
あなたのその心を満足させることを助けましょうと、
その偽我を満たす愛を与えようとサタンが手を差し伸べているのです。
それを喜ぶサタンが既に人の心に入っているのです。
サタンに同調する心が備えられているのです。
ユダがイエス様を裏切ったのは、ユダではない、
サタンが入ってそれを為さしめたと聖書が伝えている通り、
サタンの描く筋書に、人は踊らされるだけなのです。
真の神に繋がることの出来ない者には。(2026.7)
