"神の怒りについて"

 天上界関係のインターネットに、神の怒りについての問いかけが載ってましたが、
例えば自分に原因があって問題が起きても、自分の中に原因を認めまいとする心が、
他人事のように神がお怒りになるのは何故か、などと問うのだと思います。
 誰に問うているのでもない、
自らに神の怒りが臨むようなものなど何もないと自らにいい聞かせているだけなのです。

 人の悪に怒って、自らの悪を悪と思わないのは、
その心の方向性を自己保身にしか向けられない、
その目的に沿って行動するという選択肢しか持たないからです。
 その方向からしか悪を認められない、
自分を不利にしようとするのは他だけである(自分が他人に対してそうだから)、
その他人の中に自分を脅かす悪を見るから、他を攻撃しないではいられない。
 その他人から安全である為には、
自らの悪を、他に脅威を与えている悪を取り除くという選択は考えられない
(他への愛などないからです)、自分を攻撃する(に違いない)悪を叩く、
それだけが彼等の善なのです。
 自己愛の昇華された心、自己愛を克服した心に真の愛が宿るという
天上界の教えが正しいと理解出来るなら、自己愛を持って生まれてきて、
自己愛に留まる未熟な精神の内に愛が宿ることはないと解るでしょう。
 他を思い遣る知能を持たない、大脳が開発されなかったということです。
 自分を知ることの出来る知能とは、自らの未熟を認める、
人に迷惑をかけている本当の自分の姿を認めることが出来るものです。
 人に依存し、自らは楽をしようとする、
そこから楽をして儲ける、それで味を占める、堕落していくとはそういうことでしょう。

 ラグエル様は、自らを知ろうとしない者が、
正法を学んでも何にもならないと仰しゃいましたが、
自らの偽我をごまかす為に、神をも利用する、
神の教えを学ぶその心が悪であろう筈がない、神の教えを喜んでいると信じる彼等は、
自らの心が己を高しとする偽我であることなどどうして悟れるものでしょう。
 そのような偽我しか育てられなかったのがパリサイ人と言われた宗教指導者達でした。
 現代の似非宗教家、新興宗教の教祖も彼等と違うところはありません。

 神の怒りが人を滅ぼすのではない、
自らの愚かを認めようとしない自己愛が自らを滅ぼすのです。
 人を不幸にさせる世の悪に加担している、
そのような神の御意志を妨害する悪を以て人生の喜びとしている、
そのような悪に神の怒りが臨むのです。

 自らの悪を認めることも出来ない小心者が、
神の怒りを知ることに耐えられるとでも思うのでしょうか。
 神の悪への怒り、善への愛を理解することが出来るでしょうか。

 己が心の愚かさ、未熟さを知って何とかしようと努力することを厭う、
その為に苦労することから逃れようと、自らを騙す自己欺瞞(偽我)の中に逃げ込むのです。
 自己肯定の偽我に満足している者が、誰からも非難されなければ安心であると考える者が、
自ら自分の非を認めて正そうとする者がいるでしょうか。
 天上界が魂の研磨を語るのは、彼等がそうしてきたのであり、
その心が如何なるものであるか、彼等の心を見て判断しろと言われているのです。
 偽我とは如何なる心か、彼等は全て語られたのです。
 その心が自分にあるか否か、それを自ら問わぬ心に甘んじていられる者にあっては、
真理を、真理に生きた心を、
人々を神の心へ導こうとしてきたその思いが神の愛であると教えようと、
ザルに水を注ぐが如き心であると、神が言われるのです。
 そのような者に神の思いが伝わる時、彼等の心の偽善を、欺瞞を明らかにする時、
真なるものを憎む心、偽我が人を支配するのです。
 そのような者が正法を学べば、
人の偽我を明らかにする神の法さえ自分の偽我に合わせて解釈する、
真理を軽んじる心でありながら自らは真理を理解しているという恐ろしいほどの高慢な心を、
サタンの心を育てているのです。(2026.5)