"心についての考察(更新)"
環境に適応しようとする意志が進化を生んだように、
心は環境に適応しようとするものと考えられていますが、
その意志を持つ心に育てているのが環境なのです
心が成長する時、どのようにその心を成長させるかは環境で決まるのです。
心は、内外の刺激に如何に反射するかで形成されるのであり、
自分を守り育てようとする愛が与えられれば、愛に反射する心が育つ。
たとえば自然の与える慈愛を受け取る生き物の心を見ると、
自然が種に用意した(種として与えられた本能に生きる)心において受け止められるのであり、
種の成長を齎す、遺伝されるものも種に他ならない。
人に於ても愛を与えられる者は、
愛を与えた者と同じ心を持つ種として成長することは変りません。
愛を求める心があるから愛を与える心が存在する、
種を存続させる道はそのような愛の交流以外にないのです。
愛を求める心から成長が始まるのであり、愛を与える心に導かれ、
成長する心は与えられるものを吸収していく。
慈愛が与えられれば、愛に満たされれば、
愛を信じる心は、人を信じる心に変える愛を与えずにはいられなくなるでしょう。
愛に満たされた心の望みは愛が生きること、愛を求める者に愛を以て満たそうとする、
それが愛であることの説明するまでもない、愛がそれを明らかにするでしょうから。
自らを守ってくれる者がいると信じられる時、
自己保存の本能の支配にある未熟な精神は、初めて安心出来るのであり、
周りから愛が与えられなければ、周りに従う従順を強制されて、
それに従うだけが安全であると判れば、
その強制が、支配欲が自分の心に与えられる刺激であり、
それに反射する心とは、本心を隠す、自らを抑圧することであり、
支配者の喜ぶように振舞う、
偽りの心が自分を守ると信じるようになる、
本当の心に生きることの自由を、自由を求める善我を萎縮させる、
自らの偽我の支配を以て、無力な心にしてしまうでしょう。
自分を支配してきた者が力を失った時、
抑えられていた善我に生きるようになるでしょうか。
善我を育てることの出来なかった者は、自らが人の支配を望む心を育てていたのです。
自分の親がそうであって苦しんだ子供が、やがて親となった時、
その悪を子供に与えまいとする善我を育てられなかった心は、
かつての親と同じ条件反射を吸収していたのです。
愛を求める心に愛が与えられるなら、
その心の満たされる満足感は、愛を求める自らの心への(自分への)信頼を齎すものでしょう。
成長する心に開かれた世界は、自分が受け入れられている、未来への確信を齎すでしょう。
信じるものを見出す心が幸せなのではないでしょうか。
信じることの出来ない者とは疑いの内にしか生きることの出来ない心、
心に支柱がない、ザルの如き心に神の愛を受け止めることは出来ない、
神の愛を信じることも出来ないのでしょう。
愛を受け止める心を持たない者に、愛を注いでもその心は満たされない、
愛の伝わらぬ心に愛は無に等しい。
求める者は与えられる。
愛を求める心だけが愛を受け止めることが出来る。
自らを救おうとする心だけが、神の救おうとされる思いに力付けられるのである。
神を見出だした者は、神を信じる心にあって神は現れるのです。
神の救いは、人の神を求める心に掛かっている。
動物は、本能によって子に愛を注ぐ。
本能といえども、愛が注がれた健全な心に育つことで、本能に従う
(それが出来ないものは本能に背く情念に惹かれる歪んだ心です)素直な心に育つのです。
〖子を愛する本能を持って生まれては来るものの、
健全な愛が注がれることのなかった、例えば同性愛者は、
健全な心に育てられた者と同様の愛を育てられず、
異性からの愛を拒絶する心に、異性の愛を信じる心の育つことはなく、
自分だから信じられるといった狭い心から
同姓を信じようとする心へと傾いていくのかも知れません。〗
このことからも、例えば人間のような意志
(苦難を敬遠し、善や愛よりも自分を優先する自由にあって、
そのような心に屈することなく、自らの意志で善を、愛を貫く)からではなく、
無条件(他に選択肢がない(本能の異常から本能に背くことは起き得ても
それは背く意志があってのことではないでしょう))
で本能に従っての愛であろうと、その心が美しいことに変わりはない。
醜い心をも許容し得る心を人間は持ったが故に、
人間は悪を拒絶しようとしなければならないが、
動物は本能しか許容し得る心を持たないから善に生きているに過ぎないからと、
醜い心を拒絶した人間の意志の前に、
自らの意志で勝ち取ったのではなく自然に与えられたに過ぎないからと
動物の美しい心は人間の持ち得た心の美しさに劣るとは神は見做さないのです。
そのように優越感を以て満たされる心が醜いのです。
神の愛の対象に、美しい心の愛するに値するものに、
上下を付ける心が美しいと、愛があると思うのでしょうか。
草や花を愛する心と、高貴な魂を愛する心と何が違うでしょうか。
愛は生き物への愛以外にないとミカエル様が仰しゃったことを、
全ての生き物を生かすのが自然の愛であることを理解されているのでしょうか。
まして動物に劣る醜い心故にサタンの心にあって嘉する魂に、
天に生きる資格のないことは言うまでもないことです。
本能に生きようと、その愛を以て子孫を残してきた、
自然に生き、自然を生かす心を以て、
調和の内に、共存せしめてきた自然の摂理、自然の法則に生きる真理を、
人の心に、人の社会に齎す為に、神の法を授けてきたのが天上界でした。
他を生かそうとする愛なくば、神の法を真理と理解することは出来ない。
その愛があって初めて法に生きることが出来る。
法に背く者を裁くのは、
愛を尊ぶ心なき故に法を犯す、人の心を破壊する、
その心の冷酷さ、罪を罪と思わず、神を嘲笑う悪魔の心を神は裁く。
自然の法を、神の法を守っているからと、
それを以て、法を守らぬ者を裁く資格が自らにあるとする高慢に、
神の法を、神の人類の魂を救わんとする思いの理解出来る筈がないのです。
"心の波動ということ"
例えば、天上界のメッセージを理解することに集中している時、
真理に謙虚に向き合っている時、
メッセージに込められた思いを受け止めたいと望んでいる時、
そのような真理の前に素直な心、高慢とは相容れぬ心にある時、
天上界のメッセージを解った気になる
(自分の知性で解る程度と見くびっていることが解らないのです)
高慢な思いが現れることはないのですが、
人の心が善我から偽我に変わるのはどういう時なのでしょうか。
「JI」81年7月号初出 ガブリエル様メッセージより
「ユートピア建設について、お話ししましょう。
ユートピアとはどのような社会をいうのか考えてみましょう。
犯罪も社会悪もない世界でしょうか。善意のみが支配する世界でしょうか。
具体的に考えてみたことがありますか。
天上界の現在の姿がユートピアなのでしょうか。
あなた方自身の心の内を省みた時、少しの曇りもない状態が続くことがありますか。
おそらく無いでしょう。浮かんでは消え、消えては浮かぶ偽我に悪戦苦闘している筈です。
何故悪戦苦闘するのか、出来るのか、それは正しきものを知るからです。
これを魂の研磨といいます。
ユートピアもこれと同じです。
社会の規範、常識が正法となることを言うのです。
狭い範囲しか見えず、限られたものしか分からない現身(うつしみ)故に、
判断の誤りもあるでしょう。
そういった時に、正しい方向に修正出来る健全な状態なのです。
正に、天上界とは、この意味でユートピアです。」
人間である以上、生きていく上で本能からくる欲求を満たさなければならない。
食欲を、性欲を、金銭欲を満たす。
それは誰かと競って、誰かを敗者とし、
自らを勝者とならなければ得られないものではないですが、
それによって自尊心を満たす、自尊心をくすぐる格好の手段となりうるものです。
取り分け人の羨む金銭や(優れた容姿の)異性を獲得する時、
そのような偽我からくる欲望に生きようとする時、人は善我を見失うでしょう。
善我を見失わないようにするにはどうすればよいでしょうか。
善我に立っている時、善を為そうという意志が強く働いている時、
偽我の思いが抑えられているのは、善我から出る波動が心を占める時、
善我の波動を持たぬ偽我は心は働かない、意志を持たない。
邪念とか情欲とかそういう観念に感情が起きない、醒めた状態、
要するに偽我の心が煩わしく思える時というのがある筈です。
天上界の聖霊は、人の心は波動によって伝わると言われます。
それが悪霊によって憑依された者が、悪霊と同じ波動になることからも、
強い波動を受ければ、その波動の心に変えられることからも
(悪霊が人の意識を奪い悪霊の人格そのものが現れるというのは、余程のことですが、
人の心を変える力というものは波動以外にあり得ないでしょう)、
波動は人の心に伝わる、働きかけることの出来るものであることが理解されます。
【光さえ波動によって伝わるものであり、
人間の目の感受する光(可視光線)の波長は限られている、見えない波長の光は、
目に見えるを以て存在するものと判断する知性にとっては無に等しいでしょう。
紫外線のような目には見えなくとも肉体に影響を与える、肉体が感受している光はあります。
それは肉体にとってのみ存在しているに過ぎない、
日焼けしたくない者が意識するくらいでしょう。
信仰心を持たない者に、目に見えない神を意識している人がいるでしょうか。
悪霊の持つ怒りや憎しみが、人間の感情と全く異なる波動なら、
悪霊の怒りや憎しみを受けても、人は同じ感情を抱くことはないでしょう。
感受されないなら悪霊の存在など無に等しい。
目に見えない、いるかいないか解らないような悪霊の波動を受けているなどと誰が考えるのか、
では済まないから天上界は忠告されているのでしょう。
それまで心の正しかった人が、破滅に向かって人生の坂道を転げ落ちていったのは、
悪霊の憑依によるものであることを。
その上、悪霊も、悪魔も人間として生まれ、悪霊となった、
その心は人間の時に作られた心以外の何ものでもないことを明らかにされた。
悪霊の感情も人間の感情も、その波動と一致する時、感情は同じものであると。
ですから悪霊の波動を受け、その感情の波動に心を合わされても気付かない、
善我を持たない者は皆悪霊の波動に侵されていながら、それが自分の心であると思っている、
憎しみが湧き上がれば、憎むのが当然だからと思う。
だからそれでいいと、自分にとって良いなら何故改める必要があるのか、そう思うのでしょう。
悪霊の心に侵されていることの解らない人々が、彼等に導かれていることを悟れなかったのです。
そのような偽我の波動の侵されない為には、
偽我の波動に屈しない強い波動を持つ以外にないでしょう。
怒り、憎しみを鎮める愛を、善を拒絶した心、
その悪意故に常に憎しみを、怒りを糧とする心が偽我ではないでしょうか。
愛の現れる心に悪を憎む心はあっても、憎しみという悪の前に善への愛が忘れられる、
神の善が、愛がそのようなものだと思われるのでしょうか。
怒りを、憎しみを糧とする偽我とは、
人の不幸にあって自らの幸福を確認しようとする、
そのような心であることも理解されるのではないでしょうか。
善我に生きる者の憎しみや怒りは、
悪に苦しめられる、悪に傷付くのは善なる心である、善への愛から現れるものです。
悪霊の憎しみや怒りは、自らの偽我の悪を明らかにするが故に光を憎むものです。
自らの悪が恥ずべきものと知りながら、それを隠し人を騙すを良しとする、
その醜い心を明らかにする、美しい心を妬むが故に、迫害しようとする心です。
善我に立って、善なる観念の生きる心から、人を苦しめる悪を憎む時の波動と、
悪霊の憎しみは、全く異なる波動であると思います。
「JI」81年8月号初出 ガブリエル様メッセージより
「理性についてお話ししましょう。
天上界の秩序、正しさは、愛と義からなっています。
愛と義は何処から来るのか。
透徹した理性による判断力から来ます。
理性は如何なるものか。
正しく認識しよう、或いは理解しようという姿勢からなります。
その姿勢の基本となるものは、
やはり人の幸せの為という愛、真理を通す為という義なのです。
理性と愛と義は表裏で一枚となる布のようです。
無論、最初から誰にでも備わっているものでもありません。
偽我の多い人はそれだけ苦しまねばなりませんし、
皆の幸せの為、真理を求める人は見出すのが早いでしょう。
理性というのは血の通わぬ推測、氷のような心をいうのではありません。
執着を捨てた感情も又、理性と言います。
その意味で、理性の真の姿を捉えた人は、
物事の本質、行末、過去を推し測ることが出来、しかも拘ることがありません。
義は理性の怒りであり、愛は理性の抱擁の姿です。」
何ゆえ神の怒りと悪魔の怒り、憎しみが同じ心、波動ではないと言えるのか。
愛と義は一枚の布のようだと、同じ心(理性)に立っての2つの思いであり、
執着を捨てた感情と言われるのは、そのような理性を育てられた神々の心とは、
理性に制御されることなき自己保存に生きる条件反射によって理性の育つのを、
理性の働きを縛られた者とは異なり、
自己保存から立ち昇る感情に執着することなく、
自己保存の衝動に支配されるような意識ではなく、
執着なき理性から現われる思い、意志が、理性の働きが愛、また義である。
愛や義が高等感情と言われるのは、理性があって初めて現れる感情であって、
自己保存の意志に支配されての、
自己に執着する心故に湧き上がるような感情に振り回されるような精神とは相容れぬものです。
神が怒りと言っているからと、悪霊の怒りとは言葉が同じであるに過ぎず、
その本質は全く異なる感情であると思うからです。
悪の裏付けのない善は弱いと言われるのは、善意から慈悲魔になる者を見れば解るように、
善(の観念)への理解が足りない、
善への愛なき者が自らの善意を以て善人と自惚れる心に過ぎない。
神の怒りとは、悪に迫害される心正しい者にとって、愛の力の現れであり、
悪なる魂にとって憎むべき神の怒り(義憤)なのです。
故に愛と義は一枚の布のように、同じ善我の心の現れが、
善から見ての、悪から見ての違いに過ぎないのだと思います。
神が悪を、悪なる心を憎む時、神が偽我に、悪魔の心に立っていると、
そのような心を神が、聖霊が持つと思わないでしょう。
神が悪魔と戦っているのは何故なのか解りきったことでしょう。
憎しみが怒りが如何なる心から現われたのか、
善我に立っているなら、その思いを向けるべき真の悪を見誤ることなどあり得ないのです。
理性こそ神の心なのだから。
悪を明らかにする善我なき偽我に立つ者は、
憎しみに、怒りに満たされた偽我に執着しているのです。
その憎しみ、怒りを向けさせるのは、自己への愛であり、善への愛ではない、
憎しみ、怒りが向けられる先は、敵は、自己保存を、自尊心を脅かすものであって、
善(の観念)を脅かす悪(の観念)なのではない。
善への愛がなければ、悪への憎しみも生まれないのです。
彼等の心に善我を見出せないのはそういうことだと思います。】
しかしその波動が何処からくるものか、誰の心の波動であるか、
それを知る能力は人にはありません。
人と同じ属性を持つ霊体も変わりません。
天上界が目に見えぬ霊体の存在を知る、
またその魂から出る波動が悪霊であると判断出来るのは、
長い年月を霊体として生きることでそのような霊能力を獲得したのかも知れませんが、
そのような波動を検知し、しかも波動の出所の霊魂を特定するのは、
霊能力だけでは無理なのではないか、
善霊と悪霊が消滅させるかさせられるかという戦いの中で、
その判断は一刻を争うものであり、また判断を誤ることは許されないことでしょうから、
何らかの装置を開発しているのではないかと思えるのです。
何故なら、天上界で霊体の修復、治療が行われていることを
エル・ランティ様は仰しゃっておられますが、霊体は人と同じく、霊体を見る能力を持たない。
安全を確保された天上界高次元では、
霊体はその姿を現わすことは出来るかもしれませんが、
(透明でガス体である)分子組織の霊体の損傷を修復するには、
顕微鏡のようなものがなければ見えないし、ましてや霊体の治療を素手
(というものを霊体は持たないであろうからエネルギーでしょうか)
で行うなど不可能に思います。
「JI」89年1月号初出 ラファエル様メッセージより
「(正法者で精神科医の)木村先生からのお手紙で以前から御相談があったことですが、
精神病と霊障との差異については、
やはり症状として診(み)るから誤診が出るのではないかと思います。
もし可能であれば脳波やスキャン撮影によって
器質変化の有無を調べて初めて診断を下すのでないと、
精神病の症状としての本人の行動が憑依によって動かされているものか、
本人の妄想的な行為なのか、外部から判別は付け難く、
また悪霊もそれを狙って操るようです。
その例として憑依でしかなかった一青年が
暴れたという理由だけで警察の保護を受け、強制入院。
そしてその繰り返しで、暴れなくなったからと
一時帰宅させた翌日に、また憑依されて暴れ出し、
心臓が弱っていたのを知らずに暴れないように押さえ付けた為、
本人が苦しいので反抗し、押さえる側は判らず力を加えて、
いろいろ揉み合ったはずみに内臓が破裂、死亡に至ったケースもありました。
つい最近の警察の制圧行動に似たようなことです。
こういった不幸なことが起こらない為にも精神病の診断は内科、外科と同じく、
検査という科学的、客観的な手段を経て治療を決めて頂きたいと思います。
勿論、本人が行う行動の理由付け又は説明によっても診断出来るでしょう。
しかし、私が相談を受けた中では
只二例のみ明らかに、思春期の精神病の症状と判断した以外は、
総て巧妙な悪霊の操りによるもので、不幸にもソ連の"良心の囚人"の如くに
正常でありながら、入退院を繰り返されている人が多く、気の毒なことでした。
特に若い人達は安易に妄想と診断され、内臓を壊すだけの精神科医薬を飲まされたようです。
ああいった誤診を何とかする方法はないか、その努力をお願いしたいと何時も考えます。」
悪霊であれば脳波によって判断が出来る、
天上界の悪霊の消滅は脳波によって判断されているということではないでしょうか。
平静な状態から、霊障が現れる、憑依された状態となり、また平静な場合の波動に戻る、
それも本人が何かしら感情を刺激されるようなことがあっての感情の変化ではなく、
本人の意識が働いていると思われないなら、
また脳波の変化があって気質変化が見られないなら、
憑依が原因であるのは間違いないと思うのですが、
医者が悪霊の憑依という考えを全く理解しない故に、
ラファエル様の言われるような犠牲者の絶えることがないのです。
「JI」85年7月号初出 ラファエル様メッセージより
「今月は私から少し偽我について付け加えたいと思います。
殆どをミカエル様が詳しく述べられたので少ししかありませんが、
一つ正法者の態度で気になることがあります。
それは例えばノイローゼなどを治す場合に、医師や心理学者が繰り返し助言することの一つに、
自分の過ちに拘るな。自分の欠点についてくよくよ考えるな。
そういうものは忘れて、もっと目を外に向けるように、という場合があります。
ノイローゼの治療には確かに役立つでしょう。
しかし正法はノイローゼを治す場ではなく、良識的な人格の育成を目指す所です。」
「JI」86年1月号初出 ラファエル様メッセージより
「ノイローゼになるのも、
大脳の疲労度が増し、正しく考えることが出来なくなるのが原因なのです。
その大脳も、身体の疲労から、貧血したり、血圧が上り過ぎたりして、
バランス良く機能を働かせることが出来ないから、正しい思考や反応をしなくなるのです。
そういうように、生理学的に原因があると定められるのが好ましくない。
ノイローゼは何か特別な知的で重要な精神の苦しみであると誇大に考え、
自分の小さな煩いや苛立ちに周囲を忘れ、
目的も、理想も、他者への献身も忘れてしまう所に、病的なジレンマが存在し、
周囲が解決して上げられない悩みでもあるので、
何か立派な煩悶ででもあるかのように、本人が思い込んで、
その病を何時までも抱えているのです。
赤面恐怖などという、思春期のホルモンのアンバランスから生じる赤面癖は、
他もその時期を過してきたと考えれば良いし、
血液の循環を良くし、運動を良くすれば、気にする程のものではなくなります。
心理的な拘(こだわ)りから来る悪循環は、
心理学の本でも読み、自分で覚(さと)るのも良いし、
覚れなければ心理療法家に相談すれば良いのです。
只、全体的に精神的な悩みや拘りや強迫的な観念に囚われ過ぎることは不健全で、
少しも解決に導かないことは言えます。
身体的な病気も大抵の人が余程の病気でない限り、くよくよと症状について煩悶しないし、
忘れて他の事に没頭するものです。
風邪なら自分なりに風邪対策をして治したり、それで済ませています。
ノイローゼだからといって何年も、
精神の崇高な悩みであるかのように大事に持って廻る人は、
やはり甘やかされた人格に多く、御両親が病気についても、医者よ、薬よと、
大層に扱われたケースが多いようですね。
人生には多少の心身の病気に悩んで時を費やすより、もっと大切な事が多くあるのです。
それを覚らぬ内は幼児のままであり、
一人前に扱われなくとも仕方がないとしなければなりません。
幼児的な精神の持主はエゴイストと同様に正法者に不要とするのはそこにあるのです。」
正法(に繋がる者)が健全な精神を育てることが出来るのは、
同じ真理を、神を見出した者に抱く思いは、信頼であり尊敬以外にない、
そのような善我を人は見出すことが出来るからです。
人の善我(善意)を信じる心もまた自らの善我以外にないのであり、
そのような心の交流を信じる、そのように人は繋がることが出来ると信じられることなくして、
神の御意志、ユートピア(即ち人の神の心を生かそうとする意志を尊重する世の中ということ)
を望むことさえも出来ないでしょう。
同じ目的(ユートピア建設)を持つ者、それは神の御心と同じものである。
神と同じ思いを抱く者と信じる者に、同じ志の者に如何なる不信を抱けるものであろうか。
自分が人を生かそうとの思いを持つように、
人も自分を生かそうとしていると素直に信じることが出来る、
そういった心が健全な心なのではないでしょうか。
その心がなければ、
共産主義の権力者が自分(の考え)に従わぬ同じ共産主義者を粛清したように、
悪魔のユートピアを作ろうとしたことからも、
神の心を、健全な心を育てることなくして、
天の目的であり、神の心に生きる全ての人類の目的である真のユートピアは作れないでしょう。
地球人類の誕生と共に現天上界に善導される、
またサタンによって神に抗うまでの悪を育てることがなかったなら、
今も地球人類は、原始人のままであったかもしれません。
アフリカなどの未開の地には、ブッシュマンのような動物の如き自然に順応する美しい心
(勿論悪を知らないように善の観念を持たないですが)だけに生きる人間を見れば、
天上界の善導を知らないが、サタンによる堕落も知らずに生きていたのかもしれません。
しかし医学が未熟なら、人を助けようとする愛もまた未熟であり、
文明もなく知性の開発する術も知らず、
神を神と知る、悪魔を悪魔と知る知恵を永遠に持つことは出来ず、
彼らの狭い世界に生きる心に留まるしかなかったでしょう。
人類は、天上界によって神の心に育つように真理の種を蒔かれ、
サタンによって悪の心(偽我)に育つサタンの種を蒔かれてきました。
真理の種は自ら育つ為に、あらゆる良き心を、慈愛を養分と吸収していきます。
それが注がれる天へと心を向ける、少しでも受け止めようを心を近付けてゆきます。
神の慈愛を求める心は、神の慈愛によって満たされる、自らを神の心へと成長させてゆきます。
偽我を育てるべく蒔かれた偽りの真理の種は、
人の心をサタンの心へと、サタンの与える悪の観念を育てる、
サタンの波動によって伝わるあらゆる悪の観念に侵されてゆきます。
人は自らを意識する自分に目覚めた時、自覚された自我こそ自分であると認めた時、
その自我を守る自己保存の本能を自らの意志として徹するようになります。
自己愛を満たすことに生きるようになります。
真の愛を知る神の心へと成長を奪う心が偽我ですが、そのような偽我に捉われた者が、
偽我の愚かを悟る善我に目覚めるには、そのような善我を育てなければならない。
その善我は勿論自分にないのだから、善我を見出すべき人が、環境がないならば、
サタンの共産主義に支配されたような世界に生きていれば、善我を育てることなど不可能なのです。
天上界メッセージを今まで知らなかった人が、それを知って、
自分はそのような考えを持って今まで生きてきたと思われる方がいるでしょうか?
ですから天上界が正法
(の集い。かつてブッタ様やイエス様の元に集った人々に法が説かれたように、
天上界が自ら法を伝えるために備えられた場が集いでした。)の場に、天上界の下に、
天の導きに従うために集った人々、天の教えに生きようとする者に、天の与えられた導きとは、
正しい心、神の心を養う為のものであり、病んだ性格、歪んだ自我を直す為の場ではない、
それをしようとすれば、偽我に生きる者は、自らの偽我を守ろうとするだけであるからです。
かつて天上界を信じた者が、自らの偽我を厳しく指摘した天上界に、
"天上界は自分を解ってくれない"と、天上界に不信の念を抱いた時、
サタンの甘言に心を許す偽我が首を擡げ、偽我の神、偽りの神に心を奪われた彼等は、
真の天上界を裏切っていったのです。
私達に出来ることは、偽りの真理(イデオロギー、邪教のドグマ)を世に明らかにし、
真の神の教え、正法を伝えてゆくこと。人の心を、魂を縛ってきた偽りの真理、
人の偽我、欲望に繋ぎとめてきた悪の観念を明らかにされた、
神の叡智を伝えてゆくことだと思います。
天の導きに従った賢者の蒔かれてきた真理の種によって人類の神の心が守られてきた、
その同じ天上界によって救われたすべての者が出来ることであり、すべきことが、
真理の種を蒔くこと、神の法、正法を伝えることでしょう。
真理の種が蒔かれさえすれば、人はそれを育てようとするでしょう。
自分を愛する心があるなら、自らを救う真理を知ったなら、自らを救うでしょう。
真理に救えない者はいない、真理を拒む心以外に真理に救われぬ者はいないのです。
